(二十一)

 多くの市町村の水源を持つだけの村で、産業らしきものはなにもない。というよりも、水源の地ということで諸々の制約を設けられていた。村は中央を流れる川によって、東地区と南地区に分かれている。南地区は山の裾野にあり、猫の額ほどの田畑が多い。東地区は開けた地で比較的大きな田畑があり、役所と学校と集会所が設けられている。
 さいわいに茂作の家は東地区にあり、分家の際には親子四人が生計を立てるには十分な田畑を本家から任された。ミツという遠縁に当たる女性をめとることになった茂作だったが、当初はぎこちなさの残る二人だった。
 ミツは生来の明るさと働くことをまるで厭わない女だった。いや動きを止めれば息たえるがごとくに動きまわるコマネズミのような働き者だった。たちまちの内に蓄えができたが、質素な生活を変えることはなかった。そしてその蓄えを本家の元に預けてしまい、茂作の自由にはさせなかった。これから授かるであろう子どものために使いたいからとの理由を挙げられては、茂作も従わざるをえなかった。そしてその蓄えを本家に預けるという意味が、茂作にはミツの意地だということを痛いほどに感じとっていた。
 繁蔵の嫁である初江は、元々は茂作との縁談話だったが「どうせならご本家の方に」という初江側の意向が優先された。そしてその後にその代わりにと持ち上がったのが、ミツとの縁談だった。初江とは遠縁にあたり、知らぬ仲ではなかった。しかしそのことがあってから、ミツの茂作に対する献身がはじまった。

 小夜子の父は、大衆演劇一座の看板役者だ。大向こうを唸らせる美形役者で、女性客の熱狂ぶりは当時の新聞にも掲載された。しかし澄江は、大衆演劇にはまるで興味がなかった。接する機会が皆無だと言うこともありはするが、澄江にしてみれば空想の世界での出来事であり、戻って視認することもできない過去の出来事でしかない。現代の今を生きることに精一杯の澄江にとっては、まるで興味のないことだった。
 一座がやって来るという話がでた折りには、「ぬか喜びに終わるさ」と、村人の大半は笑いとばした。人口が300人にも満たない山間部の小さな村で「こんな小さな村になんか来てくれるわけがねえ」と、怒り出す村人さえいたぐらいだ。それが本当の話だと分かった折りには「盆と正月がいっぺんに来たぞ」と大騒ぎになった。
 収穫を終えての時期に行われる祭りは、村人たちのえがおが爆発する唯一の日だ。そこに大衆演劇一座がやって来ることになった。その一座の座長に対し芝居が終わった折に花束贈呈の行事が組まれていた。むさ苦しい男の花束贈呈ではなく、華やかに着飾った娘たちからのそれが良かろうと三人の娘たちが選ばれていた。
 助役の娘に郵便局長の娘、そして元庄屋である佐伯家の三人だ。当初の案では、村長と助役の二人だけだったが、犬猿の仲である二人だけでは険悪な雰囲気が流れてしまい、場が白けてしまう。そこで郵便局長も加えられたが、そうなると村議会の議長が「それじゃわしも」としゃしゃり出て収拾が付かなくなった。
「四人では縁起がわるいぞ」とさらにふくれ上がりそうになったために、前村長の声で、若い娘たちということに、やっと落ち着いた経緯がある。娘のいない村長が「遠縁の娘を」言い出したが、結局は同年齢の三人に落ちついた。

(二十二)

 澄江と小夜子の父慶次郎との出会いは、予期せぬ出来事ではあったが、一方で仕組まれたものでもあった。特段に周到な計画が練られたものということではなく、若い娘たちのちょっとした思いつきのものだった。働き者だとの評判が、澄江の周りの娘たちには癇にさわることだった。事あるごと責められることに娘たちのいらだちが頂点に達した。いままでにも澄江に対するいじめはしてきたつもりなのだが、その効果はまるでない。
「あんたを見習って顔に白粉の代わりに土でも塗ったらどうだ」って親から言われたわと、嫌みのことばをなんど投げかけても「みなさん、きれいな肌でうらやましいわ」と、素直に受け止められてしまう。
 それではと道ですれ違っても挨拶することを止めての無視を仕掛けても、毎日を忙しく送っている澄江にとってはかえってありがたいことになってしまう。それどころかそのことが娘たちの親に知られてしまい「おしゃれに気を使ってるお前が、どうして澄江ちゃんより…」「澄江ちゃんの、爪のあかでも煎じてのみな!」と、叱られる結果になってしまった。
 日ごろのうっ憤を晴らすため、「恥をかかせようよ」と話し合われた。その役を澄江にやらせようというのだ。事前には知らせずに当日になってそのことを告げられた澄江は、当然のごとくに辞退した。舞台に上がってのこと故に、それなりの着物を用意しなければならない。しかし澄江にそんな着物があるわけもない。芝居の前には畑仕事があり、そのままもんぺ姿で来ていた。
 辞退させてくれと、懇願したものの誰も相手にしない。止むなく窮余の策としてかっぽう着姿であがることにした。演目の一つが〔瞼の母〕だということら「芝居のなかから、出てきたことにさせてください」と申しでた。
 そんな澄江の機転が面白がられた。拍手大喝采のなか、座長ではなく看板役者の慶次郎が花束を受けとった。そうなると、恥をかかせるつもりだった娘たちの気がおさまらない。
「慶次郎さまのお手をにぎるなんて!」。「なにさまの、つもりなの!」。「どういうつもり!」。詰めよる娘たちの前で、澄江はグッと唇をかむだけだった。
「いい加減にしろ!」。澄江の前に、白馬の騎士があらわれた。

(二十三)

 舞台袖での騒ぎをご注進とばかりに、澄江に対する理不尽なものいいに憤慨をしていた座員のひとりが座長に伝えた。そしてそれをかたわらで聞いていた慶次郎が駆けつけた。慶次郎が澄江をかばったのだ。そんな騒ぎを聞きつけた世話役連に、「みっともない!」と、娘たちはこっぴどく叱られた。そしてその夜から、澄江の姿が消えた。
 まさかとは思われたけれども、娘たちが警察での取調べを受けた。「お前ら、とんでもないことをしでかしたな。もう、一生、お天道さまをおがむことはできんぞ!」。しかめっ面をしながら、駐在が怒鳴った。「そんなことぐらいで」と後々に村人たちからの嘲笑を買ったものの、ひごろの三人の娘たちが噴飯物の行動をとっていたため「いいお仕置きだ」と納得された。
「そ、そんなあ。あんなことぐらいで、そんなこと…」。「からかっただけだ、本気じゃなかったよ」。「ご、ごめんなさい。そんなに気にしていたの?」。諸々のうわさが飛び交うなか、世話役連もあちこち連絡をとることになった。とりあえず、バス会社や鉄道会社へ問い合わせをしてみた。返事は当然のことながら、木で鼻をくくったような「それは、分かりませんなあ」だった。
 そして最後に連絡を取ってみたのは、あの芝居一座だった。「そちらにですの、あの花束を渡しました娘がおりませんでしょうか」。すぐに「居ませんよ」と返事があるものと思っていたが、暫く待たされて「居ませんな」と、返事が帰ってきた。
「そりゃ、おるぞ。澄江ちゃん、おるぞ」。「いやいや。念を入れて確認してくれたんじゃろ」。なににしろ、居ないと言われれば仕方のないことと収まった。初めの内こそ同情的だった村人も、三日そして一週間と日が経つにつれ、村の角々でコソコソ話が花開いていた。
「こりゃ、家出じゃろ」。「ほうじゃのう。毎日が泥まみれの生活だったんじや。若い娘には耐えられまいて」。「うんうん。あの芝居を見て、ふらふらとなったんじゃろ」。ひとりで澄江を捜し回った茂作も、ひと月が経った頃には皆の言う「家出」という文字が頭に住み着くようになっていた。「戻ってきてくれ、澄江。怒らんから。いつでも、いい。とにかく、戻ってくれ」。毎朝仏壇に手を合わせて、澄江の無事をいのる茂作だった。

(二十四)

 半年の時を経たある夜、戸口をトントンと叩く者がいた。うつらうつらとしていた茂作が気付いたのは、幾度かの後だった。立ち上がるのも億劫だと、座ったまま「誰じゃあ?」と、声を張り上げた。「わたしです…」。女の声がした。しかし声が小さく、なんと言ったのか、茂作には聞き取れなかった。
「誰じゃあ?」。もう一度問いかけた。こんどは少し大きく、そして力強い声が聞こえた。「澄江です」。はて面妖な。すみえとは。すみえと言えば、わしの娘も澄江という名じゃが……=B瞬時、頭が真っ白になった。脱兎のごとくに戸口まで駆けよると、閂を抜くのももどかしく「 澄江? 澄江か? 澄江、なのか?」と、声をかけ続けた。
「お父さん、お父さん、ごめんなさい……」。涙で顔をくしゃくしゃにした澄江が、そこに居た。あの日の、失踪時と同じモンペ姿の澄江がいた。月明かりの下、ボストンバッグを両手で抱える澄江がいた。「おゝう、澄江じゃ。澄江じゃ。入れ、入れ。よお、戻った。よお戻ってくれた。さあ、さあ」。澄江の肩を抱きかかえて、中に入れた。
 茂作の元では元気な澄江でいられるが、離れてしまえば毎日を泣き暮らす澄江がいた。茂作の中では、やつれた姿の澄江がいた。苦労の連続を重ねて痩せ細った澄江がいた。しかしいま抱きかかえた澄江は、ふっくらとしている。肌に生気があり、肉付きも良い。信じたくないことなのだが、茂作の元で暮らした澄江よりも安定した食生活を送っていたことになる。
「元気してたか?」。「うん……」。「そうか、そうか。心配したぞ、心配した」。澄江を正視しないままで何度も体を気遣う言葉をかけながら、板の間に上げた。澄江もまた茂作を見ることもなく、ただ一点、奥のかまどを凝視しながら歩いた。毎朝毎晩かまどに火を入れ煮炊きをし、そして何度も何度も洗った釜がピカピカと光り輝きながら澄江を迎えてくれた。(毎日おすいじしてたんだ。きちんと生活してたんだ)。
 一座でおさんどんをしているときに、常に頭から離れなかったのが茂作の食事のことだった。飲めないお酒を飲んでいないだろうか、お隣のおよしおばあさんに悪態を吐いていないだろうか。本家ともめ事を起こしていないだろうか。気にし始めるとキリがない。今からでも帰ろうか、幾度となく思ったことだ。しかし毎日を土と藁に責め立てられることに疲れ切ったときに、慶次郎からの優しい誘いの言葉を受けてついふらふらと付いてきてしまった。
 一座を出て、茂作の元に返るかそれとも独りでどこかでひっそりと暮らすか、駅舎で半日考えた。家出娘ではないかと勘ぐった駅員から声をかけられて「これから帰るところです」と返事をして、ようやく心が決まった。(大丈夫、大丈夫よ。お父さんは許してくれる。今までだって、間違ったことをしたときでも許してくれた)と、己に言い聞かせながら汽車に乗った。

(二十五)

「さあ、さあ。腹は空いてないか? ご飯なら、たくさんあるぞ」。「ぺっこ、ぺこ。朝から、食べてないの」。「よしよし。すぐに用意しょうな」。囲炉裏端に澄江を座らせて、いそいそと土間に下りた。かまどの火を起こしながら、澄江に声をかけ続けた。そうしなければ、今このときが夢幻の如くに消えてしまうのではないか、そう思えた。
「元気してたか?」。「さっき、聞いたじゃないの。変なお父さん」。「さあさあ、できたぞ」。かほかと湯気の立つ味噌汁に、菜っ葉の味噌和えを添えてあった。
「さあ、食べい。お代わりしていいぞ、たんとあるからの」
「おいしい! お父さんのお味噌汁は、いっつもおいしい。澄江には、出せない味だね」
「うんうん。味噌汁だけは、わしの自慢じゃでの」
 口いっぱいに頬張りながら食べる澄江を、目を細め愛しげに見つめる茂作だった。(間違いない、わしの元にもどってくれた)。やっと確信が持てる茂作だった。
「おいしかった。生き返ったわ。ありがとう、お父さん」。「もういいのか? まだ、たんと残ってるぞ」。「ううん、もうお腹いっぱいよ」。膨れたお腹をさすりながら、破顔一笑の澄江だった。
「心配かけてごめんね、ごめんね」。澄江の甘えるような声に、思わず目頭を押さえてしまった。醜態だと顔を横に向けたが、澄江もまた大粒の涙をこぼしていた。
「いいんじゃ、いいんじゃ、もういいさ。もう泣くのは終わりじゃ」
「うん、うん。もう泣かない。実はね、慶次郎さんと一緒だったの。お父さんには悪いと思ったけど、ふっと魔が差したのね。畑仕事がイヤになってたの。『ついておいで』って、慶次郎さんが言ってくれて。それでふらふら…と」
「うんうん、やはりそうか。うんうん、わしも悪かった。みんな、着飾って遊びに行くのにの。お前には野良仕事ばっかりさせての」
「ううん。お父さんが悪いんじゃない。澄江のわがままよ」
「いやいや、わしが悪い。すべて、わしが悪い。ミツの時もそうだ。やっぱり初江さんにお願いすれば良かった。そうすればミツも、あんな死に方をせんでも済んだものを」
「お母さんのことは言わないで。お父さんのせいじゃない。誰のせいでもないわ」
 互いに抱き合いながら、互いをかばいあいながら、互いに泣かないと言いながら、夜も更けていった。
「で、どんな暮らしをしてた? 幸せだったか?」。「うん、幸せだったよ。慶次郎さんも良くしてくれて」。澄江の声が、次第に沈み声も小さくなった。「どうした、どうした。何があった? 帰ってきたのは、何かあったからか?」。「ごめんね、もう大丈夫。順を追って話すね」

(二十六)

 涙を拭いてから、居住まいを正して、茂作に正対した。
「お大尽な暮らしを望んだわけじゃないわ。体を動かすことは好きだし、みんなのお役にも立ちたかったし。でね、御三どんを手伝ったの。お洗濯はね、すっごく難しいの。お芝居で着る着物でしょ? 優しく洗ってあげなくちゃいけないの。中には洗っちゃいけないものもあったりしてね。濡れ手ぬぐいを固く絞って、それで汚れている部分をね、叩くの。おしょう油なんかこぼした時みたいにね。初めは分かんないことだらけで、しかられてばっかり。でも、すぐに覚えたから、座長さんにほめられたりもしたのよ」
「うんうん、そうかそうか」。 目を輝かせて話す澄江に、茂作は目を細めて頷いた。
「でもね、でもね、……」。「うん、どうした? なにがあった?」。「ヒマを出されたの、家に帰れ! って」。「そりゃ、どういうことだ? まさか……病にかかったとか、それで、か!」。 気になっていたことを口にした茂作だった。まさか病気をして、それが原因でむくみが出たのでは? と、思ってしまった。
「そうなの……それでなの」。 まさか、という返答が返ってきた。
「そうなのって、澄江。病だからと追い出されたのか」。「いや、そうじゃなくて…」。口ごもった澄江は、中々次の言葉を発しなかった。
「はっきり言うてみい。どうした?」。茂作の頭の中に、二文字が渦巻いた。女が男についていったのだ、当たり前のことなのだ。しかしどうしても、口にすることができなかった。
「実は…赤ちゃんができたの。慶次郎さんの赤ちゃんが」
「なに! それじゃ、なにか。澄江が身ごもったから、働けなくなったから、それだから追い出されたと言うのか!」。つい大声を出してしまった、澄江を詰るような大声を。澄江は体を小さくし、俯いた。
「なんてひどいことを……ううぅ…」。吐き捨てるように言うと、カッと目を見開いて澄江に問い質した。「いま、どこで興行してる。直談判してくる。澄江は、ここで待ってなさい。この家から一歩も出るんじゃない」
「ごめんね、ごめんね。お父さん、ごめんね。心配ばかりかけて、悪い子だね、澄江は」
 ボロボロと大粒の涙をこぼす澄江を見て、強く言い過ぎたかと気になった。(いかん、いかん。また澄江が家出してしまう。澄江は悪くないんじゃ。悪いのは男のほうじゃ)
「もう休め、わしも休む。澄江が悪いんじゃない。澄江は悪くないぞ。さあ、寝よう」
「一緒の部屋でいい? 小っちゃい時みたいに、お布団並べていい?」
「もちろんだとも。そうしょう、そうしょうな」

(二十七)

 翌日、澄江の帰宅を聞きつけた世話役連が、おっとり刀でやってきた。
「澄江ちゃん、無事だったか。良かった、良かった」。「芝居一座に居たとな? 嘘をつかれたのか」。「ところで茂作さん、えらくご立腹ちゅうことじゃが、何があった?」
 裏口から顔をのぞかせながら、茂作の怒りのほどを確かめてから土間に足を入れた。噂話の通りだとすると、そこら中の手に取れるものを放り投げているということになるが、案外に冷静な顔をしている茂作を見て安堵する世話役連だった。激高した折りの茂作を知るのは、村の中でも長老たちばかりになってしまった。危うく刃傷沙汰になりかけたほどだ。
 今となっては「若気の至りでした」と頭を掻く茂作だが、確かに若い頃の放蕩ぶりは隣村にまで届いていた。ただ、野良仕事だけはしっかりとこなしていた。日が昇り始めると畑にいる茂作を見ないものはいなかった。そして日が暮れるまで耕している。草取りに精を出したり、害虫が潜んでいないかと葉っぱの裏側を丹念に見ている。「茂作の作る米にしろ野菜に白、この村いやこの界隈一帯では一番じゃろ」と、本家の大婆に自慢されるほどだ。
 ただ「お月さまが出るといかんぞ」と、近寄らなくなる。酒がらみだった。酒が入り目が据わり始めると豹変する。誰彼かまわずにかみつき始め、相手を罵倒する。反論などをしようものなら、胸ぐらをつかんでの取っ組み合いとなる。力は弱い。体が細い故もあるが、なにせ小さい。五尺弱の背で、近在のおなご衆とほぼ変わらない。結局は体力負けしてしまうのだが、しつこさだけは誰にも負けない。そして手に負えないことに、手当たり次第に物を投げることだった。
 だから誰しもが逃げ出してしまう。そして酔いが覚めると、それらのことを茂作が覚えていない。周りから責められると土下座をして謝ることになる。そんな茂作がピタリと酒を止めたのは、初恋の女性である初江に出会ってからだ。遠い親戚筋に当たる娘で、本家の法事の折りに初めて見初めた。兄の重蔵に代筆を頼み、三日と開けずに手紙を送った。当初は一通の返事も返ってこなかったが、それがふた月を超えたときにやっと初江から返事が届いた。茂作からの手紙のことはまるで知らず、親の意思で重蔵の嫁になるということが書いてあった。親同士の話し合いの結果ということだ。むろん重蔵にとってもはじめて聞く話であり、茂作もまた重蔵の横恋慕でないことは分かっていた。重蔵には親に内緒で将来を約束した娘がいることを知っているのだ。しかしそれでも、恨み辛みの想いを消すことはできなかった。

(二十八)

「どうもこうもないことで。澄江がはらんだからちゅうて、追い出されたらしいですわ。わし、直談判に行って来ますで」
「そりゃ、ほんとかい? 許せんの、そりゃあ」。憤慨する茂作に対して、同様に憤慨してみせる世話役連だが、目は笑っていた。「上がらせてもらうでの」と、茂作の返答を待たずに板の間に上がり込んだ。そして囲炉裏を囲んでの話が始まった。
「それでですの、今どこで興行を打ちよるか、ご存知ですかの?」。「うーん。どこかいの…」。「わしらにゃ、分からんでえ」。「場所が分からんでは、どうしょうも…、のお?」
「うん、うん。芝居一座は、あちこち行きよるでの」
 奥の仏間を背に座っていた茂作が「こっちゃに座ってください」と席をゆずろうとするが、手を振ってその場に留まるように茂作を抑えた。正直のところ、まだ茂作の状態をつかみかねている。万が一に激高した折りには、すぐさまその場を離れられるようにと考える世話役連だった。
「で? 誰の子じゃ? やっぱり、あの役者かい?」
「そうです、あの、慶次郎とか言うニヤケた役者ですわ」。茂作が吐き捨てるように言ったところへ、奥から澄江が出てきた。
「 お父さん、おはよう。世話役の皆さま、この度はご心配かけてすみませんでした」
「元気そうで何よりじゃ」。「ぐっすり眠れたみたいじゃの」。「やっぱり、茂作さんの傍が一番じゃろ?」
 穏やかな表情で少し赤みを帯びた顔色に、皆一様に安堵の思いを持った。これなら大丈夫と、やっと警戒心が緩み強ばっていた体がほぐれる思いだった。
「はい。もうぐっすり、眠りました。今、お茶の用意しますんで」。「そうしてくれ、気がつかなんだわ」。 澄江が土間に降りたところで、世話役連が問いかけた。
「で、どうするんじゃ? 赤ん坊は」。「そんなもん決まっとります。おろさせますわ、すぐにも」。「うんうん、そうじゃろうの」。「澄江ちゃんは、納得しとるんかい?」。「いやそれはまだ…」。「やっぱり、話はしとらんのか」。「まあ、この先、子持ちではの…」。「後妻の口なら何とかとも思うが、子持ちとなると中々に……」。
「いやいや、澄江は我が家におらせますんで。嫁に出すつもりは、ありません」。「じゃちゅうて、そんなことは」。「そりゃあ、りょうけんちがいぞ。茂作さんの方が、先に逝っちまうだろうに。残された澄江ちゃんはどうなる?」。「行かず後家の末路は、惨めぞ」。
「そりゃ…」。黙ってしまった茂作に、世話役連は呆れ顔を見せた。茂作の一時の感情で以て、澄江の一生は決められるものではない。まだ二十歳前でもあるし、何しろ働き者だと評判の娘なのだ。村はもちろんのこと、近在から後添えにとの声がかかることは自明の理だ。

(二十九)

「どうぞ、お茶を。これ、向こうで買ってきたものですが、食べてみてください」。「煎餅かい? それじゃ、いただくとするかの」。「館山市…というと、あの房総半島の館山かい?」。「はい、そうです」。「澄江。そこで今、興行を打っとるのか?」。思いもかけぬ情報に茂作が飛びついた。澄江には茂作の気持ちが分かっていない。己が帰宅したことをあんなにも喜んでくれた、と澄江自身が驚いている。二、三発のビンタを覚悟しての帰宅だっただけに、正直のところ拍子抜けしてしまったぐらいだ。
「うん。今月いっぱい、その予定のはずだけど」。「でかした! それじゃ、わし今から行ってくる」。「ど、どこへ? まさか、あの一座に行くんじゃ?」。「もちろんじゃ。談判せにゃ、気がすまん」。 怒り狂う茂作に対し、澄江が床に頭をこすりつけて懇願した。
「お願い! そっとしといてください。もう、あの一座とは関わりたくないの。お父さんの怒る気持ちは分かるけど、どうぞあたしとこのお腹の子に免じて、許してください」
「お前は、その子を産むちゅう言うんかい」。「はい、勿論です。お父さんの孫ですもの、大事にだいじに育てます。お父さんの元で、育てさせてください」。「そ、そんなもん…」。
「茂作さん、わしらはこれで去ぬわ」。「二人で、よう話をしんさいな」。「子どもは、国の宝じゃ。よお、話しおうてな」。火の粉をかぶらぬ前にと、世話役連はそそくさと帰った。
「まったくあいつらときたら、調子の良いことばかり言いくさって。なにが国の宝じゃ。行かず後家がどうのと言いくさるくせに、子どもを生めと言うんかい」。塩をひとつかみした茂作が、玄関先で思いっきり塩をまいた。
「お父さん、そんなもったいないことを。そんなに怒らんでください。澄江が、ぜんぶわるいんですから。でも、お願いします。子どもだけは、生ませてください。心配いりません。嫁になんぞ行かんでも、しっかりと生きていきます。お父さんと子どもと三人で、仲良く暮らしましょう」。土間に頭をこすりつけて懇願する澄江に、茂作もそれ以上のことはなにも言えなかった。
 そして一年後のことだ。死の床にある澄江が、茂作に対して「お父さんに秘密にしていることがあります」と、切り出した。一座を出るおりに、座長から大枚の金員を受けとっていたことを告白した。そしてその金員を本家の重蔵に託して、小夜子の教育資金にまわしてほしいと懇願したと告白した。澄江とおなじ生活を我が子には味あわせたくないと、切々とうったえた。このことを茂作の知ることとなれば、きっと露のごとくに消えてしまう心配があるとうったえた。茂作の性格そして生活ぶりを見ればそれもありえると考えた重蔵は、「間違いなくおまえの子どもにはしっかりとした生活を保障してやる」といってもらえたことを。

(三十)

 小夜子と正三が各駅停車の鈍行列車から降り立ったとき、十一時をすこしまわっていた。プラットホームは大勢であふれており、その人垣をかき分けて進まねばならなかった。人混みを経験済みの小夜子に対して、正三は初体験だ。圧倒されてしまった正三を無視して歩く小夜子を、あわてて後を追いかける始末だ。
「着きましたねえ。ああ、いい天気だ。小夜子さんは、晴れ女なんですね。ぼくは、曇り男らしいんです。雨は降らないんですが、こんな風に晴れるということがないんです」。興奮気味にはなす正三に対して「そんなこと、考えたことありませんわ。そんなことより、行きましょう」とつれないことばを返す。うるさがられた正三は、意気消沈したまま小夜子の後にしたがった。階段を上りきったとき、とつぜんに小夜子のあゆみが止まった。
「正三さん、気が変わりました。お帽子はつぎの機会にします。生バンド演奏をしている所に行きたいわ。探していただけます?」
「は、はい。ええっと、どうすれば……」。はじめての場所にとまどう正三に、いら立つこころを隠すことなくぴしゃりと容赦ない言葉を浴びせかけた。
「もう、使えない人ね! 駅員にでも聞けばいいでしょ!」
「は、はい。今すぐに聞いてきます。」。かたわらから見れは、このふたりはお嬢さまと使用人だ。あごで使うお嬢さまに対して絶対服従の使用人、といった構図だ。しかし実態は違う。正三は格式のある元庄屋である佐伯家の総領であり、小夜子は竹田家の分家で、小作人の娘にすぎない。村では決して許されないことだった。そのことはお互いに分かっていることであり、この東京という地でのみ許されることなのだ。いや、ふたりだけでの間のみ許される関係だ。
「あのお。連れの女性がですね、あっ、連れの女性は小夜子さんという名前なんですが…」
「あのね、わたしは掃除をしてるの。お客さんの相手なんかしてられないの。分かる? だからね、ほかの者に聞いて。はいはい。そこ、掃きますよ。どいてください」。小夜子に振りまわされている正三を侮蔑の目で見ていた駅員は、にベもなく正三を追い払った。
ああ、もう! なんで駅員なんかに、軽くあしらわれるの! 官吏さまになられるというのに=B小夜子の険のある表情に、正三はあわてて他の駅員をさがした。さいわいに改札口からこちらに来る老駅員を見つけて、声をかけた。