(二百四十六)

「それがね、もう大変だったの。歓迎会だなんて言い出してね。仕事そっちのけで、準備したらしいの。武蔵の許可なんか下りてるわけないわよ。加藤専務の苦虫を噛みつぶした顔、見せてあげたかったわ。ちょっと複雑な顔ね。叱るべきか否かってね。さしずめ、あれね。to be or not to be,that's a question!≠謔ヒ」
 突然に飛び出した英語が理解できず、首をかしげる千勢だった。
「ごめんね、分かんないね。日本で言えば、お殿さまである父親を殺されちゃった若さまの『仇をとるか止めるか』って、悩むときのセリフなの」
「あら、そんなのおかしいです! お殿さまの仇討ちで悩むのって、なんて親ふこうなんでしょ。そんなの考えるまでもなく仇討ちするべきです。そうでしょう、小夜子おくさま」
 憤懣やるかたないといった表情で、切り捨てる千勢だ。

 そんな真顔の千勢に、思わず小夜子は吹き出してしまった。この単純さが、千勢なのよね≠ニ、笑みが自然に出た小夜子だ。
「そうね、千勢の言うとおりね。でもね、若さまには何の力もないし後ろ盾もないの。相手は家老で……」
「そんなの、関係ありません! すぐにがだめなら、じっと機会を待つべきです。
それをうじうじと悩むなんて。だめです、そんなの。だんなさまも、きっとそうおっしゃいますわ」と、武蔵を引き合いに出しながら、鼻をふくらませて、得意げに言った。
「そうね、ほんとにそうね。千勢の言うとおりね。武蔵もそう言うわよ。ううん、武蔵なら、言うだけじゃなくてやるでしょうね」
 そのときの小夜子の脳裏には、父親になじられ母親に泣きつかれて、立ち往生している正三の姿があった。ハムレットと正三が重なって浮かんだ。そしてその傍らで薄ら笑いを浮かべている武蔵が居る。
お坊ちゃんよ、何をしてるんだ。何をためらう必要があるんだ? いいさ、小夜子は俺が守ってやるよ。お前さんはそこで立ち往生してな
 言うが早いか、疾風の如くに小夜子の前にひざまずく武蔵。そして背に隠してあった一輪のバラを、小夜子に差し出している。
「そんなことより、そのかんげい会のお話を聞かせてください。どんな風でしたか?」と、身を乗り出してせがむ千勢だ。
「もうねえ、どんちゃん騒ぎ。実家での宴もそうだったけど、みんな勝手に盛り上がるのよ。主役のはずのあたしなんか、はじめの内こそこそばゆいくらいに褒めてくれたんだけど。お酒が回りはじめたら、もうだめ。主役のあたしそっちのけよ。ダンス音楽なんか流して、男同士と女性同士に別れてダンス大会よ。びっくりしたのは、加藤専務よ。あの人、泣き上戸なの? ぼろぼろ涙を流してね、あたしにしきりに『ありがとうございます』って、お礼ばっかり。びっくりしちゃった、ほんとに」

 身振り手ぶりでの小夜子の説明に、その場のことが千勢には目の前での出来事のように感じられた。そしてそれほどまでに愛されている小夜子が誇らしくあり、「その方のお世話ができるわたしって、ほんと、幸せものだわ」と思えた。 
「嬉しかったんですよ、きっと。加藤せんむ、お酒によわれると、まいどのように言われるんです。『おれは女を不幸にしてきた、くいものにしてきた。だからおれは幸せになれない、なっちゃいかんのだ。なれなくてもしかたないんだ。でも、いやだからこそ、タケさんにだけは幸せになってもらいたいんだ。分かるか、千勢? もちろん、千勢よ。お前も幸せになるんだぞ』って。お見えになるたびにですよ、耳にタコができちゃいますって。あたし、加藤せんむのお声がかりで、だんなさまのおせわをすることになったんです」
 意外なことを聞かされた小夜子だった。思いもよらぬ五平の一面を知らされて、武蔵が五平を頼りにする理由を知った気がした。しかしそれでもなお、五平に対する嫌悪感は消えはしなかった。

(二百四十七)

「あたしにしても、加藤専務なのよね。嫌だイヤだって言ってるのに、強引に」
 口をとがらせながらの小夜子に、どうして五平を嫌うのかが理解できない千勢だった。親身になって女たちの愚痴やら苦労話を聞いてくれる五平に、不満のことばを並べ立てる小夜子が、正直のところはわがまま娘としかみえなかった。おじょうさま育ちの小夜子さまだもの=B小夜子の育ちを知らぬ千勢には、現在の小夜子だけが小夜子だった。
「おっしゃってました、加藤せんむ。すごく良い娘がいるからって、だんなさまを必死にくどいてらっしゃいました。はじめは乗り気じゃなかっただんなさまも、だんだんその気になられて。遊びなれてる店だから気楽にいきましょうとも、おっしゃってました。たばこを売ってる娘ですから、たばこひとはこでも買ってやればいいんですからって」
 興味津々の思いでいる小夜子だが、千勢にはそう受け止められたくない。
聞きたくもないけれど、千勢が勝手に話すから聞いてあげるわ。聞き流すのよ、べつに傍耳を立てるわけじゃないから≠ニ、平静をよそおう小夜子だった。

「でもよくじつのだんなさま、ほんとにうれしそうでした。『観音さまに会ってきたぞ!』って、そりゃもう大はしゃぎでした。ほんとに、あんなにうれしそうなだんなさまを見たのは、はじめてです。千勢、すこしやきもちを焼いちゃいました」
 目をクルクルと回しながら、我が事のように喜ぶ千勢。思わず抱きしめたくなる衝動に駆られる小夜子だった。
「そう、そうなの。そんなに喜んでた? でもね、あたしね、はじめのころって、突賢貧だったのよね。ぞんざいな口の利き方をしてたかもしれないわ。とにかく加藤専務がつれてきた男性でしょ? いい感情は持てなかったのよね」
「そんな、小夜子おくさま。あんなに立派なだんなさまはいらっしゃいませんよ」
 口をとがらせて抗議する千勢。苦笑いをしながら、千勢を制する小夜子だ。
「そうね、今はそう思うわ。たっくさんのお金を遣わせてもね、なんのお返しもなし! それで女給さんたちに睨まれてねえ。でも、武蔵が一喝してくれたの。『俺の小夜子をいじめる奴は許さん!』って。嬉しかったわ、ほんとは。でもそれでも、迷惑そうな顔を見せてたの。それでも武蔵は、お食事やらお洋服、ハンドバックまで買ってくれてね。さすがに、お店の梅子お姉さんに叱られちゃった。その時でも、生意気にあたしったら口答えなんかしちゃって」

「ああ、あの梅子お姉さんですか? 二、三度、よいつぶれただんなさまを送ってこられたことがありました。でも、いつも玄関先でお帰りになられて。キチンとした方なんですね。だんなさまも、『あいつは、女傑だ!』。『場が与えられたら、いっぱしの経営者だぞ』。ほめてらっしゃいました。『男だったら、俺の片腕にしたいほどだ』とも」
「やっぱり? そうよね、素敵な女性ですものね。なんかこう、日本のお母さんって感じがしない? でんと肝が座ってて、多少のことには動じないって。ああいう女性がね、新しい女に目覚めたら、きっとすごいことになると思うんだけどなあ。『あたしにゃ、そんな難しいことは分かんないよ』って笑い飛ばされちゃったけど」
 千勢には、小夜子の言う新しい女がどんな女性像を指しているのか、皆目見当がつかない。ただ口酸っぱく言いつづける小夜子を見ていると、こういう女性のことなんだと納得してしまう。自由奔放に思いのままに行動し、それを周囲に認めさせてしまう女性。それが、小夜子の言う新しい女なのだと思ってしまう。もっとも、小夜子にしても新しい女というものを完全に理解しているとは限らない。平塚らいてふ発刊の文芸誌〔青鞜〕を一読し、それですべてを理解したと思い込んでいた。
「そうそう、一度だけね、ほっぺにチュッ! ってね、してあげたの。そのときの武蔵の嬉しそうな顔ったらなかったわ。でも、焦らしてるつもりはなかったのよ。そのころのあたしには決まった人がいて、そのことは武蔵も知っていたし。だから、足長おじさん位に考えてたの。それに、アーシアといっしょに世界を旅するとも決めてたし」

(二百四十八)

 俯いて、か細い声で、話すべきかどうかを迷いつつといった風に、首をかしげつつ話し始めた。
「あの、小夜子おくさま? そのお話をだんなさまからお聞きしたとき、しょうじき変だな? と思いました。『千勢はどう思う。嫁入り前の娘として、正直に答えてくれ。おれは嫌われていると思うか?』って、聞かれました。
でそのときに、なんてこうまんちきな女なんだろう! このだんなさまに不平不満を持つなんて、ぜったいにおかしいと思ったんです。もうしわけありません、失礼なことを言いまして」
 頭を畳にこすりつけて、「どうぞお叱りにならないでください」とばかりに、体を縮めた。
「いいのよ、千勢。で、他には?」
 小夜子の口からでた優しいことばと、やさしく微笑む表情に、武蔵が「観音さまだ」と嬉しそうに言ったおりの顔を思い出して納得する千勢だった。
「はい。ほかの男性とおやくそくをしてらしたんですよね。それで、ア、なんとかと言うモデルさんともおやくそくを。ふしぎな気がしてました。すこし、キじるしでも入ってるのかしら? なんて、そんな失礼なことも考えたりしました」
「そう、そうなのよ。外国語をはなす通訳さんにね、言われたのよ。『優しい男性だったら、そのくらいの我がままは聞いてくれるわよ』なんてね。いま思えば、アーシアのご機嫌取りのための方便だったのよね。普通ならば、そんなこと、信じないわよ。あのときは、あたしも舞い上がってたからし、まだ子どもだったのね、あたしも。世間知らずの小娘よ。でもそれが可能なことのように思えてたのよ。この世はあたしを中心にまわってる! なんて」
 目を大きく見開いて「でも、旦那さまとごいっしょになられて良かったです」と、しっかりとした口調で、大きく頷いた。
「そうね、そうだと良いわね」
「ぜったいです、ぜったい良かったです」
 目を輝かせ、鼻を膨らませて強調する千勢。そんな千勢を見ていると、小夜子もまた“これで良かったのよ”と安堵の心が湧いてきた。

「それで奥さま。かんげい会のほうは、どうなったのですか? どんなでした?」
 なにやら聞き出したいことがあるのに、中々切り出せないというもどかしさが、千勢の顔に表れている。
「なあに? なにか、気になるの? なに、なに? なんなの?」
「い、いえ。そんなことありません。そんな気になる人だなんて。そんな人、いませんから」
 語るに落ちてしまった千勢。小夜子の好奇心を刺激した。
「あらあら。だれ? だれが気になる人なの? 言いなさいよ、仲をとり持ってあげるわよ」
「そ、そんな人はいませんってば。ただその、だれがその、そう! 小夜子奥さまのお帰りをいちばん喜んだのは、だれかなあって。それが、知りたいだけですから」と耳たぶまで真っ赤にさせる千勢だった。
「千勢は、会社に顔を出したことがあるの? たとえば、武蔵の忘れ物を届けたりとか」
「とんでもありません! だんなさまがわすれものなんて。だいいち、お仕事をご自宅におもちかえりになられることは、いっさいありません。ですから、一度もありません」
 大きく頭を振って否定する千勢。どうしても知られたくないという思いが強い千勢だ。
「でも、だれか来たことはあるでしょ? たとえば、徳子さんとか」
「あ、それもありません。女子社員は、げんきんなんです。ぜったい立ち入りきんしです。ごかいをまねくおそれがあるからと。なにせだんなさまの女性かんけい……。とにかく、一度もございません」
 失言をしたと慌てる千勢だった。そのあわてぶりからして、なにかを隠していると思える。だがしかし女子社員云々は、どうやら本当だろうと、頷く小夜子だ。

(二百四十九)

「でも、千勢が居ないときなんかは?」
 わざと意地悪い質問をぶつけてみた。
「小夜子奥さまがいらっしゃるまでは、千勢が住みこんでおりましたから。けっしてそのようなことはありませんでした」
「そう、そうなの。公私のけじめはきちんと付けてるのね。武蔵らしいわね、確かに。でも、男子社員は良いんでしょ?」と、本筋に入った。このことを聞き出すが為の、徳子の名前であった。
「はい。でも、竹田さんだけです。あとは、加藤せんむさんはたびたびお見えになりますが。ほかには、どなたもです」
 千勢の口から竹田という名前が出たおりにぽっと頬が赤らんだことを、小夜子は見逃さなかった。と同時に、小夜子の胸の奥がざわついた。小夜子すらほとんど気付かぬ程のものではあったが、とたんに小夜子の機嫌が悪くなりもした。
「専務のことは言わないで! あたし、あの人嫌い! 武蔵が頼りにしてるみたいだから、仕方なく顔を合わせるけれど。ほんとは顔も見たくないの。だから今後いっさい、あたしの前では口にしないで!」

 小夜子のあまりの剣幕に、青ざめた表情で頭をこすりつけた。五平のことを口にしたためだと、「いっさい口にいたしません、もうしわけございません」と平謝りをした。
「良いのよ、千勢。きつく言い過ぎたわ、あなたが悪いわけじゃないのにね。加藤専務はね、どうしても、生理的に受け付けないのよ。あなたにとっては善い人らしいし、恩人みたいなのよね。まあね、あたしにしてもねえ。武蔵に引き合わせてくれたのは、あの人なのよね。感謝しなければいけないのかもね、ほんとは。でもね、武蔵に会わなかったらね、武蔵の援助がなかったらね、アーシアの元に行ってたかもしれないし。そうしたらアーシアも死ぬことがなかったかもしれないし……」
 アナスターシアのにこやかに微笑んでくれる顔が浮かぶと同時に、大粒の涙がどっと溢れ出た。アナスターシアを思い浮かべても、このところ涙までは流さなかった小夜子だった。ところがいま、アナスターシアの死と武蔵との出会いを関連付けてしまった。
関係ないわ、関係ない。あのとき一緒に行かなかったのは、ごく自然なことよ≠ニ否定するのだが、武蔵と会わなければとも考える小夜子だった。小夜子の体が前のめりとなり、眉間にしわをよせたりもした。
「大丈夫でございますか、お医者さまをお呼びしましょうか? 長旅でおつかれでしょう」
 おろおろと小夜子に問い掛けた。気丈な小夜子しか知らぬ千勢にしてみれば、いまの小夜子は尋常ではなかった。医者を呼んだからといって、医者が来るまでの間、どうにもできぬことは分かっていた。分かってはいたが、何かをしなければと焦るだけの千勢だった。

「ごめんなさい。びっくりしたでしょ? もう大丈夫よ。アーシアのことを思い出すと、時々泣いてしまうの。でももう大丈夫だから。専務のことね。善しにつけ悪しきにつけ、専務と出会ったのが、あたしの人生の分岐点ね。だけどとに角、嫌いなの」
「分かりました、小夜子奥さま。もう口にいたしません。どうぞご安心ください。それより、みなさんはいかがだったのですか?」と言いつつも、千勢の中では竹田のことを聞きたいのだ。会社での竹田のことを知りたいのだ。
「そうねえ、まずは、竹田はね。竹田は、暗いわね」
ぞんざいな口ぶりで、口にするのもはばかられるとばかりに、一刀両断に切り捨てた。なぜかしら、千勢に竹田のことを話したくない小夜子だった。
「それより、服部よ。もうだれ彼かまわず声を掛けまくってたわ。なにかといっちゃ女子社員の体にさわって、大騒ぎ。女子社員が逃げ回っていたわよ。でも人気者ね、案外。服部の背中を叩いていたもの、みんな。でもう、会社中を走りまわって。すぐには帰ってこない社員なんかは、案外良い感じかもね」
「はあ、はあ」と気乗りしない様子で聞きいる千勢であり、竹田の話が聞けなければまるで興味のない千勢だ。しかし小夜子はなおも話しつづけた。

(二百五十)

「それにくっついてはしゃぐのが、山田ね。山田もひとりだと静かなんだけど、服部に便乗するみたい。でも、山田にはお目当てがいるみたい。その子の顔色を窺いつつというのが、手に取るように分かったわ。名前が分からないけど、まあ美人ね。ちょっとつんとした感じで、スレンダーガールね。スレンダーは、痩せてるってことよ。そうね、モデルさんタイプかな? そう言えば、竹田もちらりちらりと盗み見してたような……」
 途端に千勢の体がピク付いた。顔もすこし引きつっている。
「そ、そうなんですか。美人の社員さんなんですね。竹田さん、痩せてる女性がお好きなんですね」
 絞り出すようなかすれ声は、明らかに普段の千勢の声ではなかった。
「三羽がらすって言われてるらしいけれど、竹田はもの静かね。でも、みんなの信頼は厚いみたい。おちゃらけがない分、落ち着いていてみえるものね。武蔵の信頼が厚いのは、三人の中では竹田みたい。あたしの世話係を命じられたのは、『いちばんひましてるからですよ』なんて、他のふたりは言ってたけれど、違うわね。それはふたりも感じてるみたいだけど。専務の次ぐらいじゃないの、信頼度は。金銭の出し入れを、徳子さんとふたりでやらせてるのかしらしても分かるわ」
「そう言えば、いちど聞いたことがあります。加藤せんむとおふたりでお話しして。あ、すみません。口にしてしまいました」
「専務ってことにして。加藤という名前は、他にもイヤなお家があるから」
「はい。おふたりでお酒をのまれながら、だんなさまがおっしゃってました。『おれに息子ができたとして、あとを継がせたとしてだ。息子のご意見番は竹田だな。あいつだったら安心だ、任せられる。おれに五平が居るように、息子には竹田だ。五平、しっかり育ててくれ』と」
「ふーん。そんなことを言ってたの。竹田をねえ。でも武蔵ったら、そんなことを専務と話してるの? いやあねえ、もう。他には、どんなことを話してるの? 女の話なんかも、してるの? 良いのよ、結婚前のことなんだから。武蔵の女ぐせの悪さは、千勢、あなたより知ってるかもよ。だって、出会いがキャバレーなんですもの。はじめは、あたしもその他大勢の中の女だったんだから」
 自嘲気味に話す小夜子に対して、「とんでもありません!」と、口をとがらせて千勢が言う。
「小夜子奥さま、とんでもないです! 小夜子奥さまは、はじめから特別でしたよ。なにせあの専務さんが口すっぱく言われてましたから。『タケさん。あの娘は特別ですって。あの娘だけは、大事に扱ってくださいな。いまはまだ原石ですが、とに角こわれやすいヒスイの玉ですからね。そこらの女と同じように扱っちゃ、絶対に罰があたりますって。頼みますよ、ほんとに』。それで、旦那さまがおっしゃるには、『分かってるよ、五平。はじめは半信半疑だったが、たしかに小夜子は良い女になるよ。楽しみにしてるんだよ、俺は』と。それはそれはうれしそうにお話ししてらっしゃいました。」

「ふーん」。満更でもない風に聞き流す小夜子だが、気を許すと頬がゆるんでしまう。千勢もまた、顔がくずれっぱなしだ。赤らんだ顔をしている。竹田が褒められることに、嬉しさを覚える千勢だ。いつだったか、冗談混じりに武蔵が言った。
「千勢。竹田の嫁さんになるか?」
 そのひと言が、いまも千勢の胸の中に残っている。ズキン! とした胸の痛みが残っている。武蔵にしてみればただの冗談で、酒の上での戯れ言にすぎない。それが証拠に、いまではすっかり忘れてしまっている。千勢のそんな思いなぞ、とんと気付いていない。竹田の話になると、途端に目がかがやき身を乗りだしてくる千勢なのだが。
 小夜子が、いま気付いた。しかし小夜子には、それが不快だった。身の程をわきまえなさい!≠ニ、思ってしまう。といって、竹田の氏素性がいいわけではない。どこかの会社社長の息子でもなく、大店の跡取りでもない。むろん元庄屋の跡取りでもない。そこらにいる、市井の人のひとりにすぎない。しかし人への思いやりがつよい、暖かみが体からあふれ出ている、武蔵とは対極にいるような、青年と思えた。

(二百五十一)

「それがね、もう大変だったの。歓迎会だなんて言い出してね。仕事そっちのけで、準備したらしいの。武蔵の許可なんか下りてるわけないわよ。加藤専務の苦虫を噛みつぶした顔、見せてあげたかったわ。ちょっと複雑な顔ね。叱るべきか否かってね。さしずめ、あれね。to be or not to be,that's a question!≠謔ヒ」
 突然に飛び出した英語が理解できず、首をかしげる千勢だった。
「ごめんね、分かんないね。日本で言えば、お殿さまである父親を殺されちゃった若さまの『仇をとるか止めるか』って、悩むときのセリフなの」
「あら、そんなのおかしいです! お殿さまの仇討ちで悩むのって、なんて親ふこうなんでしょ。そんなの考えるまでもなく仇討ちするべきです。そうでしょう、小夜子おくさま」
 憤懣やるかたないといった表情で、切り捨てる千勢だ。

 そんな真顔の千勢に、思わず小夜子は吹き出してしまった。この単純さが、千勢なのよね≠ニ、笑みが自然に出た小夜子だ。
「そうね、千勢の言うとおりね。でもね、若さまには何の力もないし後ろ盾もないの。相手は家老で……」
「そんなの、関係ありません! すぐにがだめなら、じっと機会を待つべきです。
それをうじうじと悩むなんて。だめです、そんなの。だんなさまも、きっとそうおっしゃいますわ」と、武蔵を引き合いに出しながら、鼻をふくらませて、得意げに言った。
「そうね、ほんとにそうね。千勢の言うとおりね。武蔵もそう言うわよ。ううん、武蔵なら、言うだけじゃなくてやるでしょうね」
 そのときの小夜子の脳裏には、父親になじられ母親に泣きつかれて、立ち往生している正三の姿があった。ハムレットと正三が重なって浮かんだ。そしてその傍らで薄ら笑いを浮かべている武蔵が居る。
お坊ちゃんよ、何をしてるんだ。何をためらう必要があるんだ? いいさ、小夜子は俺が守ってやるよ。お前さんはそこで立ち往生してな
 言うが早いか、疾風の如くに小夜子の前にひざまずく武蔵。そして背に隠してあった一輪のバラを、小夜子に差し出している。
「そんなことより、そのかんげい会のお話を聞かせてください。どんな風でしたか?」と、身を乗り出してせがむ千勢だ。
「もうねえ、どんちゃん騒ぎ。実家での宴もそうだったけど、みんな勝手に盛り上がるのよ。主役のはずのあたしなんか、はじめの内こそこそばゆいくらいに褒めてくれたんだけど。お酒が回りはじめたら、もうだめ。主役のあたしそっちのけよ。ダンス音楽なんか流して、男同士と女性同士に別れてダンス大会よ。びっくりしたのは、加藤専務よ。あの人、泣き上戸なの? ぼろぼろ涙を流してね、あたしにしきりに『ありがとうございます』って、お礼ばっかり。びっくりしちゃった、ほんとに」

 身振り手ぶりでの小夜子の説明に、その場のことが千勢には目の前での出来事のように感じられた。そしてそれほどまでに愛されている小夜子が誇らしくあり、「その方のお世話ができるわたしって、ほんと、幸せものだわ」と思えた。 
「嬉しかったんですよ、きっと。加藤せんむ、お酒によわれると、まいどのように言われるんです。『おれは女を不幸にしてきた、くいものにしてきた。だからおれは幸せになれない、なっちゃいかんのだ。なれなくてもしかたないんだ。でも、いやだからこそ、タケさんにだけは幸せになってもらいたいんだ。分かるか、千勢? もちろん、千勢よ。お前も幸せになるんだぞ』って。お見えになるたびにですよ、耳にタコができちゃいますって。あたし、加藤せんむのお声がかりで、だんなさまのおせわをすることになったんです」
 意外なことを聞かされた小夜子だった。思いもよらぬ五平の一面を知らされて、武蔵が五平を頼りにする理由を知った気がした。しかしそれでもなお、五平に対する嫌悪感は消えはしなかった。

(二百五十二)

「あたしにしても、加藤専務なのよね。嫌だイヤだって言ってるのに、強引に」
 口をとがらせながらの小夜子に、どうして五平を嫌うのかが理解できない千勢だった。親身になって女たちの愚痴やら苦労話を聞いてくれる五平に、不満のことばを並べ立てる小夜子が、正直のところはわがまま娘としかみえなかった。おじょうさま育ちの小夜子さまだもの=B小夜子の育ちを知らぬ千勢には、現在の小夜子だけが小夜子だった。
「おっしゃってました、加藤せんむ。すごく良い娘がいるからって、だんなさまを必死にくどいてらっしゃいました。はじめは乗り気じゃなかっただんなさまも、だんだんその気になられて。遊びなれてる店だから気楽にいきましょうとも、おっしゃってました。たばこを売ってる娘ですから、たばこひとはこでも買ってやればいいんですからって」
 興味津々の思いでいる小夜子だが、千勢にはそう受け止められたくない。
聞きたくもないけれど、千勢が勝手に話すから聞いてあげるわ。聞き流すのよ、べつに傍耳を立てるわけじゃないから≠ニ、平静をよそおう小夜子だった。

「でもよくじつのだんなさま、ほんとにうれしそうでした。『観音さまに会ってきたぞ!』って、そりゃもう大はしゃぎでした。ほんとに、あんなにうれしそうなだんなさまを見たのは、はじめてです。千勢、すこしやきもちを焼いちゃいました」
 目をクルクルと回しながら、我が事のように喜ぶ千勢。思わず抱きしめたくなる衝動に駆られる小夜子だった。
「そう、そうなの。そんなに喜んでた? でもね、あたしね、はじめのころって、突賢貧だったのよね。ぞんざいな口の利き方をしてたかもしれないわ。とにかく加藤専務がつれてきた男性でしょ? いい感情は持てなかったのよね」
「そんな、小夜子おくさま。あんなに立派なだんなさまはいらっしゃいませんよ」
 口をとがらせて抗議する千勢。苦笑いをしながら、千勢を制する小夜子だ。
「そうね、今はそう思うわ。たっくさんのお金を遣わせてもね、なんのお返しもなし! それで女給さんたちに睨まれてねえ。でも、武蔵が一喝してくれたの。『俺の小夜子をいじめる奴は許さん!』って。嬉しかったわ、ほんとは。でもそれでも、迷惑そうな顔を見せてたの。それでも武蔵は、お食事やらお洋服、ハンドバックまで買ってくれてね。さすがに、お店の梅子お姉さんに叱られちゃった。その時でも、生意気にあたしったら口答えなんかしちゃって」

「ああ、あの梅子お姉さんですか? 二、三度、よいつぶれただんなさまを送ってこられたことがありました。でも、いつも玄関先でお帰りになられて。キチンとした方なんですね。だんなさまも、『あいつは、女傑だ!』。『場が与えられたら、いっぱしの経営者だぞ』。ほめてらっしゃいました。『男だったら、俺の片腕にしたいほどだ』とも」
「やっぱり? そうよね、素敵な女性ですものね。なんかこう、日本のお母さんって感じがしない? でんと肝が座ってて、多少のことには動じないって。ああいう女性がね、新しい女に目覚めたら、きっとすごいことになると思うんだけどなあ。『あたしにゃ、そんな難しいことは分かんないよ』って笑い飛ばされちゃったけど」
 千勢には、小夜子の言う新しい女がどんな女性像を指しているのか、皆目見当がつかない。ただ口酸っぱく言いつづける小夜子を見ていると、こういう女性のことなんだと納得してしまう。自由奔放に思いのままに行動し、それを周囲に認めさせてしまう女性。それが、小夜子の言う新しい女なのだと思ってしまう。もっとも、小夜子にしても新しい女というものを完全に理解しているとは限らない。平塚らいてふ発刊の文芸誌〔青鞜〕を一読し、それですべてを理解したと思い込んでいた。
「そうそう、一度だけね、ほっぺにチュッ! ってね、してあげたの。そのときの武蔵の嬉しそうな顔ったらなかったわ。でも、焦らしてるつもりはなかったのよ。そのころのあたしには決まった人がいて、そのことは武蔵も知っていたし。だから、足長おじさん位に考えてたの。それに、アーシアといっしょに世界を旅するとも決めてたし」

(二百五十三)

 俯いて、か細い声で、話すべきかどうかを迷いつつといった風に、首をかしげつつ話し始めた。
「あの、小夜子おくさま? そのお話をだんなさまからお聞きしたとき、しょうじき変だな? と思いました。『千勢はどう思う。嫁入り前の娘として、正直に答えてくれ。おれは嫌われていると思うか?』って、聞かれました。
でそのときに、なんてこうまんちきな女なんだろう! このだんなさまに不平不満を持つなんて、ぜったいにおかしいと思ったんです。もうしわけありません、失礼なことを言いまして」
 頭を畳にこすりつけて、「どうぞお叱りにならないでください」とばかりに、体を縮めた。
「いいのよ、千勢。で、他には?」
 小夜子の口からでた優しいことばと、やさしく微笑む表情に、武蔵が「観音さまだ」と嬉しそうに言ったおりの顔を思い出して納得する千勢だった。
「はい。ほかの男性とおやくそくをしてらしたんですよね。それで、ア、なんとかと言うモデルさんともおやくそくを。ふしぎな気がしてました。すこし、キじるしでも入ってるのかしら? なんて、そんな失礼なことも考えたりしました」
「そう、そうなのよ。外国語をはなす通訳さんにね、言われたのよ。『優しい男性だったら、そのくらいの我がままは聞いてくれるわよ』なんてね。いま思えば、アーシアのご機嫌取りのための方便だったのよね。普通ならば、そんなこと、信じないわよ。あのときは、あたしも舞い上がってたからし、まだ子どもだったのね、あたしも。世間知らずの小娘よ。でもそれが可能なことのように思えてたのよ。この世はあたしを中心にまわってる! なんて」
 目を大きく見開いて「でも、旦那さまとごいっしょになられて良かったです」と、しっかりとした口調で、大きく頷いた。
「そうね、そうだと良いわね」
「ぜったいです、ぜったい良かったです」
 目を輝かせ、鼻を膨らませて強調する千勢。そんな千勢を見ていると、小夜子もまた“これで良かったのよ”と安堵の心が湧いてきた。

「それで奥さま。かんげい会のほうは、どうなったのですか? どんなでした?」
 なにやら聞き出したいことがあるのに、中々切り出せないというもどかしさが、千勢の顔に表れている。
「なあに? なにか、気になるの? なに、なに? なんなの?」
「い、いえ。そんなことありません。そんな気になる人だなんて。そんな人、いませんから」
 語るに落ちてしまった千勢。小夜子の好奇心を刺激した。
「あらあら。だれ? だれが気になる人なの? 言いなさいよ、仲をとり持ってあげるわよ」
「そ、そんな人はいませんってば。ただその、だれがその、そう! 小夜子奥さまのお帰りをいちばん喜んだのは、だれかなあって。それが、知りたいだけですから」と耳たぶまで真っ赤にさせる千勢だった。
「千勢は、会社に顔を出したことがあるの? たとえば、武蔵の忘れ物を届けたりとか」
「とんでもありません! だんなさまがわすれものなんて。だいいち、お仕事をご自宅におもちかえりになられることは、いっさいありません。ですから、一度もありません」
 大きく頭を振って否定する千勢。どうしても知られたくないという思いが強い千勢だ。
「でも、だれか来たことはあるでしょ? たとえば、徳子さんとか」
「あ、それもありません。女子社員は、げんきんなんです。ぜったい立ち入りきんしです。ごかいをまねくおそれがあるからと。なにせだんなさまの女性かんけい……。とにかく、一度もございません」
 失言をしたと慌てる千勢だった。そのあわてぶりからして、なにかを隠していると思える。だがしかし女子社員云々は、どうやら本当だろうと、頷く小夜子だ。

(二百五十四)

「でも、千勢が居ないときなんかは?」
 わざと意地悪い質問をぶつけてみた。
「小夜子奥さまがいらっしゃるまでは、千勢が住みこんでおりましたから。けっしてそのようなことはありませんでした」
「そう、そうなの。公私のけじめはきちんと付けてるのね。武蔵らしいわね、確かに。でも、男子社員は良いんでしょ?」と、本筋に入った。このことを聞き出すが為の、徳子の名前であった。
「はい。でも、竹田さんだけです。あとは、加藤せんむさんはたびたびお見えになりますが。ほかには、どなたもです」
 千勢の口から竹田という名前が出たおりにぽっと頬が赤らんだことを、小夜子は見逃さなかった。と同時に、小夜子の胸の奥がざわついた。小夜子すらほとんど気付かぬ程のものではあったが、とたんに小夜子の機嫌が悪くなりもした。
「専務のことは言わないで! あたし、あの人嫌い! 武蔵が頼りにしてるみたいだから、仕方なく顔を合わせるけれど。ほんとは顔も見たくないの。だから今後いっさい、あたしの前では口にしないで!」

 小夜子のあまりの剣幕に、青ざめた表情で頭をこすりつけた。五平のことを口にしたためだと、「いっさい口にいたしません、もうしわけございません」と平謝りをした。
「良いのよ、千勢。きつく言い過ぎたわ、あなたが悪いわけじゃないのにね。加藤専務はね、どうしても、生理的に受け付けないのよ。あなたにとっては善い人らしいし、恩人みたいなのよね。まあね、あたしにしてもねえ。武蔵に引き合わせてくれたのは、あの人なのよね。感謝しなければいけないのかもね、ほんとは。でもね、武蔵に会わなかったらね、武蔵の援助がなかったらね、アーシアの元に行ってたかもしれないし。そうしたらアーシアも死ぬことがなかったかもしれないし……」
 アナスターシアのにこやかに微笑んでくれる顔が浮かぶと同時に、大粒の涙がどっと溢れ出た。アナスターシアを思い浮かべても、このところ涙までは流さなかった小夜子だった。ところがいま、アナスターシアの死と武蔵との出会いを関連付けてしまった。
関係ないわ、関係ない。あのとき一緒に行かなかったのは、ごく自然なことよ≠ニ否定するのだが、武蔵と会わなければとも考える小夜子だった。小夜子の体が前のめりとなり、眉間にしわをよせたりもした。
「大丈夫でございますか、お医者さまをお呼びしましょうか? 長旅でおつかれでしょう」
 おろおろと小夜子に問い掛けた。気丈な小夜子しか知らぬ千勢にしてみれば、いまの小夜子は尋常ではなかった。医者を呼んだからといって、医者が来るまでの間、どうにもできぬことは分かっていた。分かってはいたが、何かをしなければと焦るだけの千勢だった。

「ごめんなさい。びっくりしたでしょ? もう大丈夫よ。アーシアのことを思い出すと、時々泣いてしまうの。でももう大丈夫だから。専務のことね。善しにつけ悪しきにつけ、専務と出会ったのが、あたしの人生の分岐点ね。だけどとに角、嫌いなの」
「分かりました、小夜子奥さま。もう口にいたしません。どうぞご安心ください。それより、みなさんはいかがだったのですか?」と言いつつも、千勢の中では竹田のことを聞きたいのだ。会社での竹田のことを知りたいのだ。
「そうねえ、まずは、竹田はね。竹田は、暗いわね」
ぞんざいな口ぶりで、口にするのもはばかられるとばかりに、一刀両断に切り捨てた。なぜかしら、千勢に竹田のことを話したくない小夜子だった。
「それより、服部よ。もうだれ彼かまわず声を掛けまくってたわ。なにかといっちゃ女子社員の体にさわって、大騒ぎ。女子社員が逃げ回っていたわよ。でも人気者ね、案外。服部の背中を叩いていたもの、みんな。でもう、会社中を走りまわって。すぐには帰ってこない社員なんかは、案外良い感じかもね」
「はあ、はあ」と気乗りしない様子で聞きいる千勢であり、竹田の話が聞けなければまるで興味のない千勢だ。しかし小夜子はなおも話しつづけた。

(二百五十五)

「それにくっついてはしゃぐのが、山田ね。山田もひとりだと静かなんだけど、服部に便乗するみたい。でも、山田にはお目当てがいるみたい。その子の顔色を窺いつつというのが、手に取るように分かったわ。名前が分からないけど、まあ美人ね。ちょっとつんとした感じで、スレンダーガールね。スレンダーは、痩せてるってことよ。そうね、モデルさんタイプかな? そう言えば、竹田もちらりちらりと盗み見してたような……」
 途端に千勢の体がピク付いた。顔もすこし引きつっている。
「そ、そうなんですか。美人の社員さんなんですね。竹田さん、痩せてる女性がお好きなんですね」
 絞り出すようなかすれ声は、明らかに普段の千勢の声ではなかった。
「三羽がらすって言われてるらしいけれど、竹田はもの静かね。でも、みんなの信頼は厚いみたい。おちゃらけがない分、落ち着いていてみえるものね。武蔵の信頼が厚いのは、三人の中では竹田みたい。あたしの世話係を命じられたのは、『いちばんひましてるからですよ』なんて、他のふたりは言ってたけれど、違うわね。それはふたりも感じてるみたいだけど。専務の次ぐらいじゃないの、信頼度は。金銭の出し入れを、徳子さんとふたりでやらせてるのかしらしても分かるわ」
「そう言えば、いちど聞いたことがあります。加藤せんむとおふたりでお話しして。あ、すみません。口にしてしまいました」
「専務ってことにして。加藤という名前は、他にもイヤなお家があるから」
「はい。おふたりでお酒をのまれながら、だんなさまがおっしゃってました。『おれに息子ができたとして、あとを継がせたとしてだ。息子のご意見番は竹田だな。あいつだったら安心だ、任せられる。おれに五平が居るように、息子には竹田だ。五平、しっかり育ててくれ』と」
「ふーん。そんなことを言ってたの。竹田をねえ。でも武蔵ったら、そんなことを専務と話してるの? いやあねえ、もう。他には、どんなことを話してるの? 女の話なんかも、してるの? 良いのよ、結婚前のことなんだから。武蔵の女ぐせの悪さは、千勢、あなたより知ってるかもよ。だって、出会いがキャバレーなんですもの。はじめは、あたしもその他大勢の中の女だったんだから」
 自嘲気味に話す小夜子に対して、「とんでもありません!」と、口をとがらせて千勢が言う。
「小夜子奥さま、とんでもないです! 小夜子奥さまは、はじめから特別でしたよ。なにせあの専務さんが口すっぱく言われてましたから。『タケさん。あの娘は特別ですって。あの娘だけは、大事に扱ってくださいな。いまはまだ原石ですが、とに角こわれやすいヒスイの玉ですからね。そこらの女と同じように扱っちゃ、絶対に罰があたりますって。頼みますよ、ほんとに』。それで、旦那さまがおっしゃるには、『分かってるよ、五平。はじめは半信半疑だったが、たしかに小夜子は良い女になるよ。楽しみにしてるんだよ、俺は』と。それはそれはうれしそうにお話ししてらっしゃいました。」

「ふーん」。満更でもない風に聞き流す小夜子だが、気を許すと頬がゆるんでしまう。千勢もまた、顔がくずれっぱなしだ。赤らんだ顔をしている。竹田が褒められることに、嬉しさを覚える千勢だ。いつだったか、冗談混じりに武蔵が言った。
「千勢。竹田の嫁さんになるか?」
 そのひと言が、いまも千勢の胸の中に残っている。ズキン! とした胸の痛みが残っている。武蔵にしてみればただの冗談で、酒の上での戯れ言にすぎない。それが証拠に、いまではすっかり忘れてしまっている。千勢のそんな思いなぞ、とんと気付いていない。竹田の話になると、途端に目がかがやき身を乗りだしてくる千勢なのだが。
 小夜子が、いま気付いた。しかし小夜子には、それが不快だった。身の程をわきまえなさい!≠ニ、思ってしまう。といって、竹田の氏素性がいいわけではない。どこかの会社社長の息子でもなく、大店の跡取りでもない。むろん元庄屋の跡取りでもない。そこらにいる、市井の人のひとりにすぎない。しかし人への思いやりがつよい、暖かみが体からあふれ出ている、武蔵とは対極にいるような、青年と思えた。