(二百三十八)

 怪しかったくもり空からぽつりぽつりと雨粒が落ちはじめたのは、小夜子が駅の改札を出たころだった。花嫁衣装やら衣類の大荷物は武蔵が持ち帰ってくれたものの、小夜子の母親澄江の思い出の品で、また膨らんでしまった。粗末なものではあったが、澄江の着物衣類を見ている内に、どうしても持ち帰りたくなってしまった。中でもどうしてもと思ったのは、安物の手鏡だった。
 他人から見ればガラクタであるが、小夜子と澄江の会話時にはどうしても欠かせないものだった。面と向かって話すことを禁じられた小夜子、床に伏せったままの澄江、手鏡を胸の上にかざしての会話だった。雪見障子をはさんでのことだったが、頭を動かすことすらきつくなった澄江に、本家の初江からのせめてもの情けだった。痩せほそった腕で差し上げられた手鏡。すぐにぶるぶると震えて、澄江のかおが歪んでしまう。まるで波紋が広がる水鏡だ。そしてすぐに、ぱたりと落ちてしまうのが常だった。
 小物入れ一つで帰るはずだった小夜子。およそ似つかわしくない大型のリュックサックが、加わった。汽車に乗るまでは、荷物棚に乗せるまでは、茂作の手助けがあった。小夜子のこころに、満足感が広がっていた。しかし汽車を降りる段になって、後悔の念におそわれた。
こんどにすれば良かったかしら。武蔵に持たせれば良かったのよ。来れないって言うでしょうけど、ムリにでも来させればいいんだし。でも今さらどうしようもないし
 途方にくれた小夜子、立ちすくんでしまった小夜子。見知らぬ人ばかりで、声をかけることができない。否、これまでの小夜子では、だれかしらが進んで助けてくれていた。しかしいま乗客全員が降りきっても、ひとりボー然と座っている。車内見回りに来た車掌に見つけられるまで、放心状態でいた。棚から下ろされたリュック、結局のところ車掌が改札まで運ぶはめとなった。お礼をという小夜子にたいし、「公務員ですから、そのようなものは一切もらえません」と、立ち去った。

「もしもし、富士商会ですか? あたし、小夜……」
「うわあ! みんな、お姫さまからお電話よ! 早く、早く!」
 小夜子の声をさえぎって、電話の向こうで大騒ぎしている。嬉しさを感じはするが、当惑の気持ちの方が勝ってしまう。
「もしもし、もしもし。あのね、あなた。聞いてくださる?」
「はい、お電話変わりました。徳子でございます、小夜子奥さま。お帰りなさい」
「徳子さんですか? ああ良かった。武蔵、いますか? いま駅に着いたので、迎えにきて欲しいのですけど」
「申しわけありません、社長は出張中でございます。あ、ご心配なく。社長よりお早くお帰りになられたら、社員の竹田をまわすように仰せつかっております。すぐにお迎えに走らせますので、すこしお待ちくださいませ」
「そうですか、出張ですか……」
 迎えを出すということに安心を覚えた小夜子だが、すぐに出張に出てしまった武蔵が恨めしくも思えた。

なによ。新婚なのに、武蔵ったら。本来だったら、新婚旅行中のはずよ。それを出張だなんて。そんなこと、ひと言も言ってなかったわ。そうと分かっていれば、武蔵と一緒に帰ったわよ。なにか、具合の悪いことでもあったのかしら。うん、もう。どうして新婦がひとりでお家に帰らなきゃいけないのよ! 帰ってきたらとっちめてやらなきゃ。でも、仕方ないかも……。散財させちゃったもの。あんなに村中でお祝いしてくれたのよね。ほんとにスッカラカンになるまで使ってくれたものね
 改札口前のコンコースの中央にある柱に寄りかかりながら、けさの出来事に思いをはせはじめた。
正三さんとお式を挙げたとしても、村中のお祝いがあるにせよ、これ程にはならないわよ。なにせ子供たちが、あたしが帰る前日にお家の前まで来てくれて手を振ってくれたんだから。うふふ。映画スターって、こんな感じなのかしら? アーシアと一緒だと、いつもこんな風に歓迎され……。ごめんね、アーシア。あなたのことを忘れたわけじゃないのよ。毎晩、アーシアを思ってお祈りしてるのよ。忘れたわけじゃないんだから
「おくさまー! 小夜子おくさまー!」
 張りのある声がコンコース内にひびいた。夢想中の小夜子を、現実に呼びもどした。
「お待たせして申しわけありません。ご実家の駅から連絡いただければ、お待たせすることもなかっのですが。大丈夫ですか、お疲れではありませんか? お荷物、これですね。はい、社長に言いつかっております。お戻りになるまで、いつでもぼくをお使いください」
 うれしそうに話す竹田に、はじめて会ったおりの暗く打ちひしがれた竹田とは別人に思える小夜子だ。

「こりゃ重いや。小夜子おくさま、どうやって運んで来られ……。そうか、どなたかが運んでくださったのですね。小夜子おくさまに頼まれれば、だれだって喜んでお手伝いするはずです。いや、お頼まれになる前に、申し出るでしょう」
 キビキビとした動きで、足元に置かれている荷物を持ちあげる竹田。肩に担いでさっさと歩いていく。
「ええ。車掌さんがね、運んでくださったの。他にもお声を掛けてくださったんだけど、車掌さんがね来てくださったの」
「ああ、そうですか。気にしてくれてたんですね、車掌が」
「ええ、まあ。そうみたい……」
 つい、でまかせを口にしてしまった。見栄がでてしまった。
いいのよ。車掌がはこんでくれたのは事実なんだから。まさか誰も気づいてくれなかったなんて、言えるわけがないじゃない。お姫さまなんだもの、あたしは”

(二百三十九)

「その節は、ありがとうございました。おかげさまで姉の体調も良く、週末には自宅へ帰ることができるようになりました。小夜子奥さまのおかげと、みんな感謝しています。母なんか、手を合わせるんです。で、ぼくらにもそうしろって。菩薩さまのようなお方だから、一生感謝の念をわすれるなと。お題目のように、毎晩聞かされてます。それでですね、小夜子奥さま。小汚いところですが、いちど姉が帰宅したおりにでもお立ち寄りくださいませんか。大したおもてなしもできませんが、ぜひにもお食事を差し上げたいと申しております」
 小夜子の歩みに歩を合わせながら快活に話す竹田だが、社内での無口さがまるで別人のようだ。そして小夜子の荷物を大事そうに両手でかかえて、まるで我が子のように慈しんでいる。
「いいのよ、そんなに気を使ってくれなくても。でも良かったわ、お元気になられて。母もね、ながく床についていたの。あのときは幼すぎて、看病のひとつもできなかったわ。こころ残りだったのよね、それが。だからね、母への親孝行のつもりだったの」「看護婦すら敬遠しがちの下の世話までしていただき、感謝のことばもありません。男のぼくでは、姉がいやがりますし」
「そんなの当たり前よ。でもたった、一度のことよ。看護婦さんが手の離せない状況だったし、お母さまは所用でいらっしゃらないし。お苦しそうだったしね、仕方ないじゃない。それに、あの後からあたしにとっても、お姉さんになってくださったんだから。どうしてもね、遠慮がちだったのよね。まあね、赤の他人だしね。武蔵のこともあったでしょうしね。気を許して甘えなさいっていう方がムリよね」
「驚きました、ほんとに。めったに笑わなかった姉が、小夜子奥さまと一緒に、あんなに大きな口をあけて笑っているなんて。あごが外れるぞなんて冗談で言ったら、とつぜんその真似をするんですから。あやうく引っかかるところでした。」

「そうね、お姉さんにも会いたくなったわ。お邪魔しようかしら、すぐにでも。どうせ武蔵がいないんじゃ、お家にいても仕方ないし。こんど戻られたときにでも、迎えに来てちょうだい。そうだ! あたしがお姉さんを迎えに行ってあげる。ふふ、びっくりさせちゃおうっと。いいでしょ、竹田」
「もちろんです。是非、そうしてやってください。喜びすぎて、ひっくり返るかもしれませんよ。それでもって入院が長引いたりして。ハハハ、こりゃいい。あ、すみません」
 にらみつける小夜子に気づいて、あわてて深々と頭を下げた。
「竹田って、そんな冗談の言える人だったの?」
「いえ、その。そんな、ことは、どうしてか、その……」
「あたしの前では、ずっとそんな竹田でいてね。会社で見る、むっつりはだめよ」
「はい。業務命令として、しっかりと承りました」
「よろしい。社長婦人としての、はじめての業務命令です」
 荷物を置いて最敬礼する竹田にたいし、小夜子もまた敬礼でかえした。そこに、どっと改札から出てきた人波に、小夜子が飲みこまれかけた。とっさに竹田が、小夜子を抱きかかえてかばった。
「大丈夫ですか? 気が付かずに、申し訳ありませんでした」
「ええ、大丈夫よ」
「出口のそばに車を止めてあります」
 人ごみにもまれながら、なんとか車にたどり着いた。

(二百三十九)

「その節は、ありがとうございました。おかげさまで姉の体調も良く、週末には自宅へ帰ることができるようになりました。小夜子奥さまのおかげと、みんな感謝しています。母なんか、手を合わせるんです。で、ぼくらにもそうしろって。菩薩さまのようなお方だから、一生感謝の念をわすれるなと。お題目のように、毎晩聞かされてます。それでですね、小夜子奥さま。小汚いところですが、いちど姉が帰宅したおりにでもお立ち寄りくださいませんか。大したおもてなしもできませんが、ぜひにもお食事を差し上げたいと申しております」
 小夜子の歩みに歩を合わせながら快活に話す竹田だが、社内での無口さがまるで別人のようだ。そして小夜子の荷物を大事そうに両手でかかえて、まるで我が子のように慈しんでいる。
「いいのよ、そんなに気を使ってくれなくても。でも良かったわ、お元気になられて。母もね、ながく床についていたの。あのときは幼すぎて、看病のひとつもできなかったわ。こころ残りだったのよね、それが。だからね、母への親孝行のつもりだったの」「看護婦すら敬遠しがちの下の世話までしていただき、感謝のことばもありません。男のぼくでは、姉がいやがりますし」
「そんなの当たり前よ。でもたった、一度のことよ。看護婦さんが手の離せない状況だったし、お母さまは所用でいらっしゃらないし。お苦しそうだったしね、仕方ないじゃない。それに、あの後からあたしにとっても、お姉さんになってくださったんだから。どうしてもね、遠慮がちだったのよね。まあね、赤の他人だしね。武蔵のこともあったでしょうしね。気を許して甘えなさいっていう方がムリよね」
「驚きました、ほんとに。めったに笑わなかった姉が、小夜子奥さまと一緒に、あんなに大きな口をあけて笑っているなんて。あごが外れるぞなんて冗談で言ったら、とつぜんその真似をするんですから。あやうく引っかかるところでした。」

「そうね、お姉さんにも会いたくなったわ。お邪魔しようかしら、すぐにでも。どうせ武蔵がいないんじゃ、お家にいても仕方ないし。こんど戻られたときにでも、迎えに来てちょうだい。そうだ! あたしがお姉さんを迎えに行ってあげる。ふふ、びっくりさせちゃおうっと。いいでしょ、竹田」
「もちろんです。是非、そうしてやってください。喜びすぎて、ひっくり返るかもしれませんよ。それでもって入院が長引いたりして。ハハハ、こりゃいい。あ、すみません」
 にらみつける小夜子に気づいて、あわてて深々と頭を下げた。
「竹田って、そんな冗談の言える人だったの?」
「いえ、その。そんな、ことは、どうしてか、その……」
「あたしの前では、ずっとそんな竹田でいてね。会社で見る、むっつりはだめよ」
「はい。業務命令として、しっかりと承りました」
「よろしい。社長婦人としての、はじめての業務命令です」
 荷物を置いて最敬礼する竹田にたいし、小夜子もまた敬礼でかえした。そこに、どっと改札から出てきた人波に、小夜子が飲みこまれかけた。とっさに竹田が、小夜子を抱きかかえてかばった。
「大丈夫ですか? 気が付かずに、申し訳ありませんでした」
「ええ、大丈夫よ」
「出口のそばに車を止めてあります」
 人ごみにもまれながら、なんとか車にたどり着いた。

(二百四十)

「小夜子奥さま。出掛けに、みなに言われたんですが。ぜひにも会社においで願えって。このままご自宅に向かわれたら、ぼく、袋叩きにあいそうです。会社に立ち寄っていただくわけにはいきませんか」
「ええ! そんなの、恥ずかしいわ。武蔵、いないんでしょ? いやあよ、あたし」
 突然の友だち口調、いつもの見下し口調が、小夜子から消えた。竹田もびっくりだが、当の小夜子も顔を赤くした。
どうしたのかしら、あたし。どうしてこんなにドキドキするの? こんなこと、正三さんにもなかったことだわ
「お疲れでしょうけれども、どうか助けると思われ……。小夜子奥さま、どうされました? 少し顔が赤いようですけど。まさかお疲れですか? お風邪を召されてはいませんよね」
「違うの、ちがうのよ。そう、人いきれしちゃったの。そうなの、どっと人が出たでしょ? だからなの」
「ああ、そうですか。なら、宜しいのですけど。どうしましょうか、やはりご自宅に直行されますか」
「大丈夫よ、風に当たれば、そう、すこし風に当たれば落ち着くわ。いいわ、会社に行ってちょうだい」

 無言のまま、窓からの流れこむ風にあたる小夜子。しだいに気持ちのざわめきが落ち着いていくのを感じた。
あとで体調を崩されたらどうしょう。やっぱり、ご自宅にこのままお帰りいただこうか。みんな待ってるだろうけど、仕方ないよな。お体第一なんだから
「あのお、やっぱり、ご自宅へ……」と、恐るおそるバックミラーをのぞき込んだ。
「良いって、言ってるでしょ! それより、しっかりと前を見て運転しなさい!」
 ぴしゃりと、強い口調の小夜子。なぜかしら、へりくだった口調の竹田にいらつく小夜子だった。
「竹田のお姉さんって、いくつだったかしら?」
「ぼくが今年、三になりますので、姉は二十五です。ですので小夜子奥さまより一つ上です」
 余計なことを言ってしまったと悔やむ竹田だったが、案に相違して小夜子からは「そう」と、ひと言が出ただけだった。まるで竹田の返事を聞いていないかのごとくだった。といよりも聞いていなかった。そもそも竹田になにを問いかけたのかすらも、くちにしたとたんに雲散してしまった。武蔵のいない富士商会。行ってみたいという気持ちが、恥ずかしさに打ち勝った。
武蔵の前だからの歓待ぶりじゃないわよね。あれは本当のみんなのこころよね。全員が喜んでくれたけど、ほんとにみんななのかしら。ひょっとして二人や三人は、あたしに敵意を持っている人がいるんじゃないかしら。もしそうだったらどうしよう。
 そうよね、いるのが当たり前よね。いいわよ、かかってらっしゃい。どんなことでも受けて立とうじゃないの。もう式は終わったんだから、こわいものなしよ。そりゃあね、キャバレーなんかで知り合ったわよ。でもね、あたしから声をかけたんじゃないんだから。タケゾーがどうしてもって言うから、しかたなしに付き合ったたげなんだから。付き合ってあげたんだから
 敵陣に乗りこむ武将の気持ちになっていた。竹田はさながら先方の兵だ。その先方の竹田が、嬉々として言う。

「喜ぶと思います。この旅行中なんか、小夜子奥さまの話があちこちで飛びかっていまして、加藤専務が毎日のように「仕事に集中しろ」と怒鳴り散らしていましたから。うちの会社、みな独身なんです。なので、新婚生活がどんなだかだれも知らなくて。それに式が終わったらそのまま旅行に出かけられるものと思っていましたので。まさか、小夜子さまにお出でいただけるとはだれも思っていなかったんですよね。……」
 とりとめなく話しつづける竹田がうっとおしくもあったが、これから乗りこむ戦場の情報は大事なものだ。ひと言も聞きもらすまいとするのだが、どうも有意義な話はでてこない。すべてが褒めたたえることばの羅列になっていて、だれが一体小夜子に敵意を抱いているのか、皆目見当がつかない。まさかほんとうに敵はいないの?=Bそんな思いがいよいよ小夜子の中で占めるようになってきた。

(二百四十一)

 会社での歓待ぶりは、道々竹田の「きっと大騒ぎです。内緒にしろと言われているんですが、大きな張り紙を用意しているはずですから。あ、でも、びっくりなさってください」という情報以上だった。
 全員が――五平ですらが、玄関前に勢揃いしての出迎えだった。道を行き交う者たちも、やんごとなき方の来訪か、それとも映画スターでも立ち寄るのかと、足を止める始末だった。到着すると同時に二階の窓から垂れ幕がさがり、大きな拍手がわきおこった。
 いくらなんでも、と思いはするのだが、うれしさも隠せない。口を手でおおって
「ありがとう、どうも」とこたえるのが精一杯だった。
 五平に代わって、徳子が「あいにく社長は出張でして。今日は木曜日ですのでね三日後の日曜日に帰ってらっしゃいます」と小夜子を二階の社長室に案内した。
輸入物の皮ソファ、ひとりがけと三人掛けが置いてあった。しっかりと手入れがしてあるらしく、しっとりとした風合いだ。
「ときどきこのソファでお昼寝されるんですよ」と、徳子がお茶をはこんできた。「よろしかったら、すこしお眠りになりますか?」とすすめた。でも…と躊躇う小夜子に、「大丈夫です、だれも入らないようにしますから」と、片目をつむってみせた。

 小夜子が自宅にたどり着くころには、どっぷりと日が落ちていた。
灯りの点いていない暗いお家にひとりなのよね。こんなことならもう少し実家に居ればよかったわ。それにしても武蔵ったら、どうして出張に行くのよ。新妻を放ったらかしにするなんて、ほんとに信じられないわ
「着きました、小夜子奥さま」
 竹田の声にうなが促されるように車から降りた小夜子の目に、信じられない光景があった。
「えっ! 灯りが点いてる。ひょっとして武蔵、帰ってきてるの?」
「いえ。社長はまだ三日はお戻りになりません」
 冷然と告げる竹田にたいし、「だって、灯りが……。泥棒? 竹田、警察を呼んで!」
 語気鋭く小夜子のひびいたが、しかし竹田は涼しい顔をしている。「ああ、灯りですか。泥棒じゃありません、すぐに分かります」と、にこやかに答える竹田だ。
「そりゃ、分かるでしょうよ。中に入れば、誰かがいるのか、それとも灯りだけが点いてるのか。わかって当たり前でしょ!」
 憮然とした面持ちで、言いかえす小夜子。しかしなそれでもなお、竹田の笑みは消えない。

「お帰りなさいませ、小夜子さま。いえ、奥さま。お久しぶりでございます、千勢でございます。おめでとうございます。やっとご決心なされたんですね、旦那さまも。千勢もうれしゅうございます」
「まあ、千勢。あなただったの? 戻ってくれたのね、嬉しいわ。あたしね、あなたが居なくなってからね、ほんとに後悔したのよ。もっと真剣に教われば良かったって。あなたが、あんまり簡単にお料理なんか作るものだから。あたしにだって簡単に、なんて思っちゃって」
「はい、申し訳ございませんでした。あたしも悲しかったです。なにか悪いことをしたのかと、しばらくはボーゼンとしていました。旦那さまからは、なにもおっしゃっていただけませんし。もう悲しくてかなしくて、なんにちも泣いてしまいました」
「ほんとに、千勢には悪いことをしたわね。あたしの我ままから、あなたをそんなに悲しませてたなんて。武蔵にね、あたしだっておさんどんぐらいできるのよって、見せたくなったの。それだけだったのよ。あ、竹田。ありがとうね、もういいわ。ご苦労さま」

(二百四十二)

 にこやかな表情のまま突っ立っている竹田に、ぶっきら棒に告げる小夜子。竹田のことは、もうまるで眼中になかった。
「明日は、一日会社で待機しています。ご用がおありでしたら、ご連絡ください。すぐに飛んでまいります。千勢さん、奥さまのことお願いするよ」
「かえり道、事故をおこさないよう、気をつけてね」
「大丈夫だって、いつだって慎重運転だから。相手がぶつかってきても、きっとよけるから」
 ふたりを、家族間のようなほんわかとした空気がふたりを包んでいる。兄妹といった風にも見えるが、新婚夫婦がかもしだす柔らかいにおいも感じる。しかしひとりっ子の小夜子には、なおかつ母との接触がほとんどなかった小夜子には、祖父である茂作とのふたりだけの生活しか経験がない。いまにしても、武蔵とのふたりだけだ。
「妹よ」と言ってくれた、あのアーシアにしても、もうこの世にはいない。にこやかに会話を交わすふたりに対しいらだちを覚えた小夜子が、声を荒げた。
「もう帰りなさい、竹田! それから、土曜日には勝子さんのお迎えだから!」

「おつかれになられたでしょう? お風呂のごよういができておりますが、いかがです? その間に、お夕食のしたくをしておきます」
「そうね、そうするわ。お夕食、軽めにしてね。会社で、すこし頂いてきたから」
「そうですか、分かりました。それじゃあ、おうどんにでもいたしましょうか? 玉子をのっけた月見うどんなどはいかがです?」
「あら、美味しそうね。それじゃあ、それをいただくわ」
 竹田をとげのあることばで追い出してしまったが、それが千勢にたいする嫉妬心からきたものだとは気づかない。千勢は使用人であり、竹田もまた使用人としか見られない――はずだった。しかし竹田の姉である勝子に会ってからは、単なる使用人とは思えなくなっていた。
 小夜子にとって勝子は、唯一こころの許せる同性になっていた。そしてその弟が、竹田なのだ。勝子が親愛の情を持っている存在なのだ。それはとりもなおさず、小夜子にとっても親愛の情を寄せるべき、いや寄せることが許される相手なのだ。武蔵とはまたちがった存在の異性なのだ。

 木の香がただよう湯船に浸かり、木のふちに両手を置いてゆったりとした気分にひたる小夜子だった。心底からこころが開放されていく思いがする。
お風呂って、どうしてこんなにゆったりとした気分になるのかしら。だれかが言ってたけど、母親の胎内にいる感覚なのかしら。日本人の温泉好きは、そんなところから来てるのかしらね。そうだわ。新婚旅行は、山奥の秘境温泉がいいわね。どこからも、会社からだって連絡の取れない、山奥のおく。
 いのししなんかが出るっていうのもいいわね。なに鍋だっけ? なんかお花の名が…そう! ぼたん鍋が良いわ。でも夕食前にお風呂に入らなくちゃ。こーなに大っきな座敷机のうえに、いっぱいのお料理が並ぶの。披露宴のときみたいに、前菜、お刺身、煮物、あんな風なのかしら。おいしそうなのに、帯がキツくて見るだけだったもん。こんどはしっかりと食べなくちゃ。でも食べ過ぎると温泉が……。いいわ。たくさん泊まって、みーんな、ね。うふふ……

(二百四十三)

「小夜子おくさま、お湯かげんはいかがですか?」
 笑いをかみ殺している小夜子に、外から千勢が声をかけた。
「ありがとう、ちょうどいい具合よ。千勢は、お風呂焚きも上手ね。あたしなんか、熱すぎたりぬるかったりの失敗ばかりよ。いつだったか、水風呂に武蔵を入れちゃった。沸かし終えたって、勘違いしちゃってさ」
 あのときばかりは、「かぜをひかせるつもりか!」と、武蔵が真顔で怒った。むろんいたずらなどではない。わざと大きいタオルではなく小っちゃなハンカチ程度のタオルを、脱衣場に置いたりしたことはあった。そのときには、お○ん○んだけをくるんで、小夜子の前に現れたものだ。
「経験でございますよ、なにごとも。あたしにしても、はじめの内は失敗ばかりでしたから」
「そうなの? 千勢の失敗談、聞きたいわ。おうどん、用意できてるかしら。すこしお腹が減ってきたわ。上がるから、準備してちょうだい」
 
「ねえ。千勢は、長いのよね。武蔵の世話をはじめてから、どの位になるの? うん、美味しい! かつおのお出汁がちょうどいいみたい。削りたてのかつお節ね? でも、どうやるの? あたしもやってみたけど、加減がむずかしいのよね」
「小夜子さまは、ほんとに美味しそうに食べていただけます。つくりがいが、ほんとにあります」
「あたしね、お上品に食べるのをやめたの。ズ、ズーって吸い込むことにしたの。前に中華そばというのを食べたのよね。もうみんな、ズーズーって音をたてて食べてるのね。タケゾーもほおをすぼめて吸い込んで、それで飲みこんでから、ぷはあなんて行ってさ。でもおいしそうなのよね、それが。だからあたしもそうしてるの。
ただ、汁物はたてちゃダメだぞって、言われたけど」
 はいはい、とうなずく千勢。満面に笑みを浮かべている。

「あたしは、だめなんです。うまく吸いこむことができないんです。いぜんに、旦那さまにしかられました。『そんなちびちび食べたら、ちっとも美味しくないだろうが。どうにも辛気臭くていかん、すこし練習しろ!』って。それからは、ご一緒させていただけません」
「そうなの、武蔵らしいわね。他人の食べ方まで気にするなんて。放っといて欲しいわよね」
 哀しそうな顔を見せる千勢に、小夜子の優しいことばがとどいた。とつぜん千勢の目に、大粒の涙があふれ出した。小さな嗚咽が、あふれ出す涙に押されるように、はっきりとした声となって小夜子に届いた。
「どうしたの? 千勢。悲しくなることがあったの? それともあたしが悲しませたの?」
「とんでもございません、小夜子さま。うれしいんです、千勢は。こんなおやさしいことばなんて、千勢、いままで……」
 畳に突っ伏して、わあわあと泣き叫びはじめた。そして
「じつは、だんなさまに『戻ってこい』というおはなしをいただいたときに、『すこしはうまくなったか』と、中華そばをごちそうしていただきました。ほんとにおいしかったです、はい」と、思いもよらぬことを言った。
なんだ、あたしだけじゃなかったの? ま、いっか。千勢だもんね

(二百四十四)

 物ごころついてからの己のたどった道を思いだ出して、抑えにおさえてきた感情が勢いづいた。
「お前なんか産むつもりはなかったんだよ。小さなお前だったから、産み月近くになるまでとんと気付かなくて」
「産婆のお常さんが、お前を助けてくれたんだからね。足向けて寝るんじゃないよ」
「おねえは器量良しだから、玉のこしにのれたけれども。おか目顔のお前では、お手伝いさんとしてごほうこうするのが関の山だ」
「いままでただ飯をくわせてきたんだ。これからはその分を返してもらわなくちゃな」
「見なさい、となりのお園ちゃん。しっかりとかせいでさ、親孝行な娘だよ、ほんとに」
 千勢の姉は、十六のときにとある会社社長のお妾さんになり、となりのお園は、くちにできない夜の仕事に沈んでしまった。おかめ顔の千勢にはどこからも声がかからずにすんだことが、良かったのか悪かったのか。両親を軽慮羨望なやからと非難することは簡単だけれども、時代がそこまで追いつめていったのかもしれない。
 毎夜のごとくに、両親に小ごとを言われつづけた千勢。七歳のころから、焚き木ひろいやかまどの灰集めにかりだされた。十歳を数えたときには、家族の炊事すべてをこなしはじめた。そしてそのことが、現在の千勢をつくり上げた。
「もうしわけありません。ちょっと、むかしのことを思いだしてしまいまして。そうだ! きょうは小夜子さまのお帰りだと聞いて、じつはこれを」と、ぶっといふかし芋を卓に乗せた。
「旦那さまの前では食べにくいのですけど、小夜子さまお好きでしょ? 千勢はだ〜い好きでございまして。旦那さまのご出張のおりなんかに、ご飯代わりにいただいていたんです」
 目をキラキラと輝かせながら口いっぱいに頬ばる千勢を見て、小夜子もまた昔を思いだした。
おやつ代わりのふかし芋ね。良い思い出じゃないけど、久しぶりね
 ひと口ほお張って、「なにこれ、甘いわ! どうして? ふかし芋って、こんなに甘いものだったの? あたしが食べていた物と、まるで違うわよ」と、感嘆の声をあげた。 キョトンとする千勢を前にして、驚くほどの速さで一本をたいらげた。
「千勢。あなたって、お料理の天才ね。すごいわ、ほんとに」
 手をたたいて褒めそやす小夜子に、千勢はどう答えていいのか分からずにいた。
「小夜子さま、ごじょうだんがすぎますよ」

「で、で? どうだったの、はじめてのときは。なん年になるの、ここに来て」
「はい、十五のときに入らせていただきました。専務さまのご紹介なんです、じつは。一番上の姉がお世話になっていまして。父親が、連絡を入れたようなのです」
「そうなの、千勢もなの」
 千勢が五平の世話で武蔵の元に来たとわかり、千勢にたいしなにか戦友といった観を覚える小夜子だった。
「はじめのうちは、小夜子さまと同じでございました。実家ではなんなくやれていたことが、どうにもちぐはぐになってしまいます。やっぱり、緊張していたのだとおもいます」
「そう。やっぱり千勢でも、緊張したの? はじめは。あたしもね、くくく、包丁を持ったときなんか。武蔵がね、あたしを呼んだの。武蔵はね、大丈夫か? って声をかけたらしいんだけど、あたしったら、血相変えて包丁を持ったまま。くく……分かる? 武蔵にね」
「ひょっとして、そのまま旦那さまのところにですか?」
「そうなの、行っちゃった。びっくりするわよね、そりゃ。あたしね、真っ青な顔してたんですって。でね、武蔵もあわてちゃって。心中でもするつもりかって、ね」
(二百四十五)

「だんなさま、おどろかれたでしょ。でも、わかる気がします。包丁を持って、いざ! というときに声をかけられたのでは」
「『なに考えてるんだ、お前は!』って、怒られちゃった。千勢は、怒鳴られたことはある?」
 間髪いれずに、千勢が答えた。
「とんでもございません。声をあらげられることなど、いちども。だまってあたしの前にさしだされて、『食べてごらん』と、ひと言です。辛かったり甘すぎたり、ありました。でも、『お前の一生懸命さは知っている。つぎは、もう少しおいしくしてくれ』と。『手際の悪さでお待たせしちゃだめだ、なんて考えるな。なんでもそうだが、手間暇をかけてこそ、実がなるというものだ』とも言われました」
「そう、千勢には優しいのね」
「いえいえ、千勢はどんくさいので。」
「武蔵は、千勢が可愛くてしかたないのね」
「こんな、おか目のあたしがですか? キャハハハ、そんな」
 底なしに明るい千勢が、ときとして荒みがちだった武蔵のこころを和ませていた。そしていまは、小夜子の奔放さが武蔵にはうれしい。

「ほんとにおやさしいだんなさまです。会社ではこわい社長だとお聞きしましたけれど、決してそんなことはありません。きっといっしょうけんめいにおやりにならないから、強くおしかりなんだと思います。小夜子奥さまもそうお思いでしょう?」
 嬉々として話していた千勢だったが、しだいに目がうるみはじめて、とうとう最後には涙声になってしまった。
「もうしわけありません、あたしったら。どうしたんでしょ、悲しくなんかないのに。ちがうんですよ、うれしいんです。また呼んでいただけるなんて、思ってもいませんでした。だんなさまにお聞きしました。お前のことをきらったんじゃないぞって。あたしてっきり小夜子おくさまにきらわれたんだって思って。悲しくてかなしくて。しばらくの間、実家にもどっていたんです。旦那さまからたくさんのお手当をいただけたものですか」
 小夜子の差し出すハンカチで、笑みを浮かべながら涙をふいた。
「でも、遊んでばかりもいられないので、新しいお屋敷でお世話になっていたんです。そのお屋敷でもかわいがってはもらえたのですが、やっぱりだんなさまと小夜子奥さまが忘れられずに……。そんなときに実家から手紙がとどいたんです。だんなさまからお声がかかったけれどどうする? と」
「いつなの、それって。あたし、全然聞いてないわ」
小夜子を思っての武蔵なのだが、ひと言の相談もなかったことが腹立たしくも感じる小夜子だった。
家事のことは、あたしに決めさせてくれなきゃ=Bしかし武蔵らしいわね。あたしのこととなると、素早いんだから”と、満更でもない。

 なにやら千勢がもじもじとし始めた。一通り自分の生い立ちをはなしたことで、よりいっそうの親近感を小夜子に感じたのだが、千勢には、小夜子からどうしても話して欲しいことがあるのだ。しかし小夜子は、今朝早くから汽車に揺られ、さらには会社での大歓迎を受けている。おつかれなのでは? そう危惧されてならない。
 お風呂に浸かっているさいに眠りこけられては大変だと、なんやかやと話しかけたのだが、居眠り対策としての側面もあった。そしていま、大して面白くもない、退屈な千勢の話を聞かせつづけたことで、そろそろ限界に近づいていているのでは、と思えるのだ。
 しかしどうしても聞きたい。小夜子が会社で歓待だろうされることは、短いことばであるが、武蔵から聞かされたし竹田からも聞かされた。そしてそして何より聞きたいのは、小夜子のそれではなく……。