(二百二十七)

 披露宴の翌早朝に武蔵を見おくり、茂作のもとにもどった。一緒に帰りたかったのに、と小夜子のなかに不満のおもいが渦巻いている。茂作の顔をみたとたんに暴言を吐いてしまわないかと、不安な思いを抱えていた。しかしそんなおそいくる悲しみのこころを持てあまし気味の小夜子を待っていたのは、女学校の同級生と後輩たち、そして恩師たちだった。他校へと転じていた恩師たちも、次々に小夜子への祝福に訪れてきた。
「キャア、小夜子さまあ。ほんとに、おきれいでした。まるでひな人形のおひなさまみたいでした」
「ううん、もう女優さんでした。やっぱり、お誘いがあったのはホントなんでしょうね」
「ステキな旦那さまですね。うらやましいです、ホントに。キャバレーとかいうお店で知り合われたというのは、ホントですか?」
「あたしも、小夜子さまみたいに玉の輿にのりたいです。どうしたら、そんな出会いがあるんでしょう?」
 矢継ぎばやの質問が、あちこちから飛んだ。小夜子に対しあからさまな敵がい心を見せていた同級生らも、いまは羨望の眼差しを向けている。昨夜の疲れが残っている小夜子で、すぐにでも横になりたいと思っている。しかしこれ程の歓待では、むげな態度を見せるわけにもいかない。

 渋々と車座の中央に陣どったが、キラキラと輝く娘たちの熱視線がここちよく小夜子に届いた。
「あらあら、そんなにいちどきに尋ねられても。いいわ、ひとつずつお答えしましょうね」
 満面に笑みを浮かべながら、ぐるりと体を回してみせた。
「ほんと、おきれい」
「お着物姿をおきれいだけど、やっぱり小夜子さまはお洋服ね」
 一斉にため息がもれる中、小夜子が口を開く。
「女優さんのお話ね。たしかにお話はいただいたわ。でもあのてきは、アーシアがねえ。ごめんなさい、アナスターシアのことなのよ、アーシアというのは。世界でもね、アーシアと呼べるのは片手ぐらいのひとたちなんだけど。すごい剣幕でおこりだしたのよ。『あたしの妹をとらないで!』って。熱心なお誘いだったけど、お断りしたのは正解だったかも」
「それは、旦那さまとご結婚できたから、ということですか?」
 小夜子のおのろけと思った娘から声がとんだが、小夜子はキッと睨みつけた。自尊心を傷つけられたと、怒りの目をむけた。
「女優さんは、大変なの! 大スターの引きで出演すると、いつまでたってもその女優さんを追い越すことはできないわ。それにその女優に、いつまでも負い目を感じるでしょうし。もっともその前に、アーシアが許さなかったでしょうね。とにかく、あたくしにべったりでしたから」

「ごめんなさい、悪い口でした」と、消え入りそうな声が小夜子の耳にとどいた。
「あたくしこそ、声を荒げてしまったわね。まあね、まわりの人から見れば、あなたたちからすれば、タケゾーに嫁ぐあたしは玉の輿でしょうね。でもね、タケゾーにおがみ倒されてのことなのよ。とにかくあたくしは、アーシアと世界を旅することに決めていたから」
「おかわいそうですわ、小夜子さま。アナスターシアさまがあんな亡くなり方をなさるなんて、思いもかけぬことだったでしょうから」
「そうね、ほんとに。あたしが付いていてあげれば、きっと死ぬなんてことは……」
 小夜子が目頭をそっと押さえると、そのときを待っていたかのごとくに、取りかこんでいた娘たちすべてが、それぞれにハンカチで目を押さえた。

(二百二十八)

「終わったことよ、もう。くよくよとしていたら、アーシアが悲しむわ。そうそう、出会いでしたね。あたしは、キャバレーで煙草を売っていたのよ。女給さんじゃないの。酔いどれ客の相手なんて、してません! でもね、タケゾーは強引でね。梅子お姉さんに頼み込んで、お店のマネージャーまで巻き込んでのことなの。梅子お姉さんというのは、女給さんたちのまとめ役をしてみえるのよ。もう姉御肌の女性で、肝っ玉のすわった女傑なの。女のあたくしから見ても、ほんとにステキな女性なの。
 でね、マネージャーに頼まれてね、仕方なく話し相手になったの。はじめは嫌な男だったんだけど。だからね、さんざん悪態を吐いてやったのよ。でも『面白い娘だ、気に入った!』なんて、言うの。なん度目だったかしら、三度目、いえ四度目ぐらいかしら。根負けしちゃってね、いち度だけのつもりで、お食事に付き合うことにしたの。武蔵ったらね、自分ではしなくてね。『席を外したら、そのすきにどっかに行くんじゃないか』って真顔で言うのよ。でね、部下の専務さんに言いつけて、マネージャーの許可を取ったのよ」
 一気に話した小夜子が、ひと息つくためにお茶でのどをうるおした。目を爛々と光らせて、小夜子の次のことばを待っている。男と女の生の話など、そうそう聞けるものではない。しかも、いかに小夜子が否定しようとも、玉の輿にのった小夜子の話である。ひと言も聞きもらすまいと、皆がみな、聞き耳をたてている。

「そのときはね、お寿司をいただいたの。お寿司といっても、あたしたちが食べるお寿司とは、まるでちがうの。皆さんのところへも、夕べ、とどいたでしょ。ご飯の上に、お刺身が乗っかっていたもの。あれなの、あれ。もうとっても美味しくて。お店の大将がびっくりするほど、食べちゃったの。そしたら『食べっぷりがいいねえ』なんて、褒められて。それ以来、もうプレゼント攻勢。毎晩みたいにやってきて、ブローチやらペンダントやらをプレゼントしてくれるの。女給さんたちに羨ましがられて。ううん、どころか憎まれちゃって。大変だったわ、ホントに。でも、梅子お姉さんのはからいで、ぶじ収まったけれど。タケゾーも、怒ってくれたし」
「女給さんたちって、きっとおきれいですよね。それでも、小夜子さまを旦那さまは選ばれたんですよね?」
 聞き覚えのある声に、「ひよっとして、幸恵さん?」と振り向いた。「はい!」と、大きな声でこたえた。
「昨夜はありがとうね。おかげで退屈しなくてすんだことよ」
「ええ、ずるいい!」。羨望と嫉妬心の入りまじったやっかみの声やらを受けながらも、小夜子のそばを離れることのない幸恵だった。
 兄である正三との交際が公然の秘密となっていたが、幸恵はそのことについては堅く口を閉ざしたままだった。ふたりが結ばれる日が来るまでは――親が許すはずがないと半信半疑であり、駆け落ちするのではないかと思う幸恵だった――絶対にもらしてはならぬと決心していた。

「ごめんなさい、脱線してしまったわね。はじめはね、足長おじさんのつもりだったと思うわ。ちやほやされてばかりの中で、憎まれ口をたたく小娘が珍しかったのよ、きっと。だってねえ。田舎の娘ですものね。あたしなんかよりずっときれいな人、たくさんいらっしゃるし。女給さんもそうだけど、銀座という町を歩いている女性って、みんな女優さんみたいにきれいな人ばかりだから。あたしくは、ほんとに運が良かったのよ」
 いっけん謙遜の態をみせる小夜子だが、その言外にその表情には明らかに、あたしだからなの、誰でもいいわけではないのよ!≠ニ、宣していた。

「そうね、週に一回かしら? いつもお店を早退させてくれて、あたしとの食事のあとにはお店にもどるみたい。あたしは、そのまま帰宅したけれど。ビーフステーキって、分かるかしら? 牛のお肉なんだけれど、こーんなにぶあついの」
 娘たちのため息がもれる中、小夜子の話は続いた。
「でもね。あたくしだって、のほほんとくらしていた訳じゃないことよ。お昼はイングリッシュスクールに通って、すべてイングリッシュでの会話なの。日本語なんて、だれも使わないの。goodmorningにはじまって、goodbyeで終わるの。ううん、スチューデントは全員日本人なのよ。ティーチャーはアメリカ人ですけどね。あ、ごめんなさいね。スチューデントは生徒で、教師はティーチャーと言うの。ご存知だったかしら」
 得意満面な小夜子に、誰もがうんうんと頷くだけだ。女王然とする小夜子の性格を知る、賢い娘たちだ。

(二百二十九)

「変わっていないね、竹田嬢は」
「そうだね、相変わらずの女王さま気取りだ」
 車座からはなれた場所で、ふたりの恩師がささやきあう。
「でも、そんな彼女を、みなさん認めてらっしゃるんでしょ? 在学時から、特別待遇でしたものね」。遅れて来た女教師が話の輪にくわわった。
「そう、そうなんですよ。どうもね、あの娘にかぎっては許してしまうんですよ。不思議と腹もたたないんですね」
「同感です。某教師は『卒業したら求婚してみるかな。へなちょこ坊主の佐伯正三なんぞに渡してなるものか!』なんて、真顔で言ってましたから」
 じっと小夜子のはじけるような笑顔を見ながら「それにしても、美人になりましたねえ」と、付け加えることを忘れなかった。そして「あのとき、『おれんとこに来るか?』って、こなをかけときゃ……。いや、冗談ですけどね」と、目を遠くへはせるように言った。
「あらあら、先生。それって、案外、あなたの本音じゃないんですか。金子タツ子先生が、ふられましたって泣いてましたよ」
「そうなんですか?」。かつての教え子に問い詰められて、
「ちがうよ、ちがいますよって。金子先生とはなにもないですし。ひとがわるいな、あなたも」と、大仰に手をふって否定した。

「タケゾーがね、GHQの将校さんたちのガーデンパーティに、あたくしをどうしても連れて行きたいって言うの。ちょっとしたお祝いごとなんかで、お互いのおうちに伺うっていう、お呼ばれってあるでしょ。ご近所つきあいって、大事じゃない? こちらでも」
 見知らぬ土地での風習だわねとばかりに、まるで小夜子とは別世界でのできごとだと言わんばかりだった。
「あたしたちはね、お休みの日に呼ばれるの。お庭でね、お食事しながら談笑することを、ガーデンパーティって言うの。お肉やらお魚やらお野菜をね、そのお庭で焼くの」
 身ぶり手ぶりをまじえて話すのだが、誰ひとりとしてその光景を思い浮かべることができない。
「庭って、外でですか?」と、けげんな表情を見せる。
「ああ、お花見みたいなものなんだ」。「おうちが小さいんですか?」と、小馬鹿にしたように声を上げる者もいた。キッとにらみつけた小夜子が、あなたには話してあげないとばかりに顔をそむけてくるりと体を反転させた。こちらを向いてくださったと拍手を受け、満面に笑みをたたえてつづけた。
「そりゃもう、楽しいものよ。飲み物も、ジュースはもちろんのことお酒もね。お酒といっても、ビールとかウィスキーとか、外国のお酒なんだけど。シャンパンなんて、すっごくおいしいお酒もあったわ。シュワーって泡がたつの。そうね、サイダーのような感覚かしら」

 ちょっとした仕草――コンロの形を説明するために、立ち上がって両の手をつかって空間に立方体を作ってみせる――に、キャーキャーと大騒ぎをされる。ご機嫌になって、さらにまた大きく体をつかっての説明となる。
「もうね、そのおうちのマダムにご挨拶したいって列を作るのよ。マダムというのは、奥さんのこと。信じられないでしょうけど、こちらとは違って女性をすごく大事にするの。でも、その日は……」

(二百三十)

 小夜子の話が、いったん止まった。なにごとかと、ざわつきだした。「お疲れかしら」いう声があちこちから飛んだが、
「ごめんなさいね。ちょっと自慢話というか、奢りだって言われないかと思いましたの」と、らしからぬことに「そんなことありません。ぜひ、つづきをお聞かせください」と、催促の声があがった。
「小夜子さまのお話が信じられないなんていうひとがいたら、承知しないわよ! そんなひとは、すぐにここから立ち去りなさい!」と、幸恵のつよい声が、部屋にひびいた。
「そうよ、そうよ! 帰りなさい!」 

「レディファースト。ご存じないわよね」
 聞き慣れぬことばに、みながうなづく中、英語教師が声をあげた。
「女性を大事にするという、西洋文化の代名詞だ。いままでの日本は女性を下に見る傾向があったが、これからはちがうぞ。竹田嬢は、その先鞭だな。おめでとう!」
「在学中に、そのことばをおききしたかったですわ、三輪先生」
「ぼくのことを覚えていてくれたのか、そりゃうれしいや」
 小夜子との会話を独占されていることに不満の声が上がり、同僚からたしなめられてその輪からはずれた。
「ただね、武蔵に言わせると、またちがった風景が見えますのよ。日本では、男性の後ろを三歩さがって、と言いますわね。でも西洋では、女性を先に、ということらしいですわ。そのことについて、武蔵にはいち言ありますの。お聞きになりたい?」
 いたずらっぽく笑って、話を途切れさせた。どうやら英語教師はその意味が分かったらしく、輪の外から声をあげかけた。が、女性教師が唇に指を当てて「だめ」と、さえぎった。
「西洋人は女を楯にしたんだ、と言いますの。そして日本人は、守ってやる、なんだ。そう言いますの。でもねえ、どこまで信じていいものやら。ですから、証明しなさいって、いつも言ってやりますのよ」
 勝ち誇ったような小夜子にたいして、だれからとなく拍手がわきおこった。気を良くした小夜子は、「また自慢話になりそうですけれど。じつは、はじめて連れられていったガーデンパーティで、マダムを怒らせてしまって……」と、話を止めた。つづきをと、催促する視線に満足げにうなずきながら「殿方たちからいろいろとお声をかけていただきまして。でも武蔵に恥をかかせるわけにもいかないからと、だまって微笑んでいましたのよ。そうしたら、『東洋の神秘だ!』なんて言われて。懐かしいことばでしたわ、それは。アーシアと一緒にいたときのことばでしたから」と、思わず涙ぐんでしまった。もう、アナスターシアのことは吹っ切れていると思っていた小夜子だったが、まだ思慕の念が消えずにいた。そしてそのことがうれしくもある小夜子だった。

「どうなさったんですか?」。 突然に落涙した小夜子に、幸恵がといかけた。
「ごめんなさい。ちょっと」
「旦那さまが恋しくなられたんですか? 妬けちゃいます、ほんとに。ねえ、みんなもそうでしょ?」
「うらやましいです」と、一斉に声があがった。話の催促ともとれる声だった。
「ごめんなさいね、ちょっと疲れたみたい。きょうは皆さんありがとう。また後日にでも、お話のつづきをしましょう」
「そうですね、お疲れですよね。きょうは、本当にありがとうございました。ぜひにも、お帰りになられる前に、もう一度お話をきかせてください」と、不満げな娘たちをおさえて幸恵がこたえた。

(二百三十一)

奥の部屋で横になりながら、ガーデンパーティでのことを思い起こした。鹿鳴館を想像していた小夜子で、あまりのざっくばらんさに、拍子抜けしてしまった。家を出るときの、あの緊張感。不安の高まりから、武蔵の腕をぐっと握った小夜子だった。こわばった表情を見せながら車に乗り込んだ小夜子だった。
「なんだ、なんだ。敵討ちにいくんじゃないぞ、おいしいものを食べにいくんだから。肩から力を抜いて、大きく息を吸いこんでゆっくり吐け。そうそう、肩を上下させて。どうだ、落ち着いたか? きれいだぞ、小夜子。みんなびっくりだ、お姫さまだってな。なあ、運転手くん。可愛いだろう、俺の小夜子は」と、大はしゃぎだ。
「はあ、まったくです。お姫さまですか、たしかにです。東映の時代劇映画のお姫さまですよ、本当に。いやあ、ありがたいです。わたしも今日は楽しい日になりそうです」と、運転手も話を合わせた。

 楽しい一日になるはずだった。
 列をなして押し寄せる男たちがいて、口々に小夜子を褒めそやす。そしてひざまづいて、手の甲に軽くキスをしていく。外国映画を思い浮かべていた。しかしこのパーティは、とうてい許せるものではなかった。
「おじさん! なによ、あれは。パーティだっていうから、どこかのホテルでって思っていたのに。お庭での、バーベーキューだったじゃない! 着物を着てるからあまり食べられないし、武蔵はひとりであちこち回っちゃうし」
 不機嫌な折には、武蔵をおじさんと呼ぶ。家に戻ったとたんに、武蔵にかみついた。車中では無言をとおした小夜子を、疲れからのことだろうと考えていた。武蔵自身は、上機嫌だった。
大成功だ。小夜子の着物姿に、みんな口あんぐりだ。芸者たちで着物姿を見慣れたとはいえ、振袖姿ははじめてのはずだからな。写真で見たらしい舞妓に会いたいとせがまれていたからな。しかも、男ずれしていない、まったくの素人娘だ。東洋の神秘だなんて声があったが、冗談じゃない。妖艶さはこれから俺が引き出すんだよ。いまの小夜子を評すれば…。そうだな、東洋のヴィーナスだ。惚れ直したぞ、小夜子
 悦に入った武蔵に、思いもかけぬ小夜子のことばが飛んだ。不意を突かれた思いの武蔵に、容赦ない小夜子の一撃が飛んだ。
「もういい! あたし、英会話やめる。どうせあたしの英語なんて、だれも聞いてくれないんだから。なにを言ってるのか、さっぱり分からないもん。おじさんの方が、よっぽど上手じゃない。あたしなんか、要らないわよ!」

「小夜子、小夜子。きげん直せ、なおしてくれ。あいつらはな、みんな南部出身なんだよ。アメリカって国は広いんだ。東と西では、何百キロもいや何千キロと離れてる。それに北部と南部はな、むかし戦争をしてるんだ。仲がわるいんだ。徳川幕府と薩長みたいなもんだ。だから、あいつら南部人は、えっと、そう! 方言だ。方言なんだよ。あいつらの英語は、世界では通用しない。そこにいくと、小夜子の英語は正統派だ。グレートブリテンイングリッシュなんだ。以前に言ったろうが。小夜子の英語でなければ、貿易がうまくいかないって。だからしっかりと、勉強してくれ」
 小夜子の肩を抱きながら、必死になだめた。じつところは、小夜子を英会話学校にかよわせる理由はほかのところにあった。やめさせるわけにはいかん。正三とかいう坊ちゃんとの逢瀬の時間なんぞ、金輪際つくらせるものか=Bこれが本音だった、偽らざる武蔵の思いだった。

(二百三十二)

 小夜子詣でのとなりで、同じようにいやそれ以上に、茂作詣でがあった。武蔵がのこしたことばは、小夜子の思う以上に大きかった。
「茂作さんに言ってくだされば結構です」。このひと言で、茂作の存在感がぐんと増した。
「どんなことでも、茂作さんに言えばええ。村長に頼むよりなんぼかたしかじゃて」
 村の角々でこんな声が聞かれた。床に就いている小夜子の耳に、秋の夜長の虫たちほどの声声声が聞こえてくる。
「娘の進学なんじゃけれど」
「家の前の道が、雨が降るたんびにぬかるんで」
「ばばの家がいたんでしもうて、というて借りるあてもないし」
 そして帰り際には必ず「小夜子奥さんに、ちょこっと挨拶を」と、付け加えていく。いまほど、武蔵の妻となった実感を感じることはない。ひしひしと、感じさせられている。
 武蔵の財力と権力に群がってくる村人たち。それらは皆、かつては茂作を小ばかにしていた者たちだ。
 曰く。
「娘を売った男」
「娘を人身御供にした男」
 やっかみの裏返しのことばではあったにせよ、唾棄すべき男と断じた村人たちだ。小夜子の知る日々の武蔵は、他人より少し目端の利くだけの男だ。しかしこうして引きも切らずに訪れる村人たちを見るにつけて、武蔵の持つ金の魔力とその威力をあらためて確認した。

 宴から四日も経つと、さすがに小夜子を訪ねてくる者もいなくなった。小夜子にしても、田舎での退屈な日にそろそろ耐えられなくなってきた。帰ろうかな。タケゾーから「淋しいから帰ってこい」って言ってくるまでと思ったけれど、なーんにも言ってこないし。まさか、浮気してるんじゃ? 違うわよね、いくらなんでも。でももしかして……=Bそう思いはじめると、矢も盾もたまらなくなってくる。
「明日にでも帰るわ。いろいろと予定があるから」
 こうと決めたら、決してゆずらぬ小夜子の気質を知る茂作だ。なんとか引きとめようと考える茂作だったが、如何ともしがたかった。
「安心せ。茂作のことは、しっかりと本家のほうで面倒みてやる。武蔵さんの妻として、しっかり勤めをはげめ。そうすることが、茂作への孝行ちゅうもんじゃ」
 本家のお婆さまのことばで、一抹の不安を覚えていた小夜子も安心することができた。おばばさまのご意見なら、酒びたりになることもないでしょう。それに、タケゾーのお金で、村でも大事にされるわ
「やっぱり帰る。また、遊びに来るから」
帰る、じゃと! 遊びに来る、じゃと! 小夜子の家は、もうここじゃないのか。わしがおるこの家は、小夜子の家ではないのか。あの、大正生まれのあの軟弱男に盗られたのか! わしの大事な小夜子を盗られたのか?

 いそいそと荷物を詰めている小夜子のうしろ姿を、茂作が恨めしげに見ている。「お父さん、夕べは飲みすぎてない? お銚子は一本までにしてね。夕食をね、お茂さんにお願いしたから。もし本家でご馳走になるときは、早く連絡してあげてよ。それから、いくら本家からの頼みだからって、無理しちゃだめよ。あまり熱を入れるのはやめてね。村長さんを支持している人たちとのいさかいなんかに、巻き込まれないようにしてよ。本当を言うと、武蔵は良く思ってないの。身内に政治家がいるとね、大変なんだって。手がうしろに回るようなことに巻き込まれないかって、心配してたわ。あたしも、なんだか嫌な予感がするし。もう本家の言いなりにはならないでね」

(二百三十三)

 身支度を終えた小夜子が、囲炉裏端で背をまるけてお茶をすする茂作のそばに来ていた。
「ああ、分かってる。わしもそう思いはじめたところじゃ。繁蔵兄さんに、そう言おうと思っとる。頼みにまわった家々で話しこむと、まあ文句のでることでること。いまの村長だって、それなりにがんばっとるのにじゃ。自分の思うた通りにいかんからというて、あんな言い草はなかろうと思うわ。それよりの、小夜子や。わしはお前のことが心配での。あの大正男の大風呂敷が心配での。大変な額になるんじゃが、大丈夫なんか? 今回かぎりじゃのうて、毎年のことぞ? そんなに金もうけができるのか? わしがいうのもなんじゃが。痛い目におうとるわしが、いや、わしじゃから、のお」
 不安げな表情を見せる茂作に、きっぱりと小夜子が言い切った。
「心配ないって。商売の方はぜんぜん心配することないの。あんな顔して、結構こわもてなんだから。お父さんのこともね、『決して不自由はさせん』って約束してくれたし。あたしだって、いままでと同じ、ううん。いままで以上の贅沢をさせてやるって言ってたから。タケゾーはね、口にしたことはきっと守るから」
 ニコニコ顔でこたえる小夜子、そして苦虫をつぶした顔で受ける茂作。が、その中に少しばかりの安堵の色がうかんでいる。

「ごめんください、小夜子奥さまはお見えですか?」
「あら、幸恵さん」。小夜子が戸口に顔を出すと、幸恵がぺこりと頭を下げた。
「小夜子さま。明後日には、お帰りになられるのですね?」
 そう言うと同時に、小夜子に土下座をした。驚いた小夜子が、幸恵を起こそうとするが、立ち上がろうとはしない。
「幸恵さん、やめて。一体、どうしたっていうの? 怒るわよ、あたしも」
「ごめんなさい、ごめんなさい。小夜子さまに申し訳なくて」
 体を震わせながら、涙声で謝りつづける幸恵だ。
「ひょっとして、幸恵さん。正三さんのことなの? だったら、あなたが謝る必要なんかないのよ。ご縁がなかったということよ」

 茂作には聞かせたくないと、外に出た。
「正三兄さんの小夜子さまへの仕打ち、あたし納得がいきません。そりゃ烈火のごとくに怒った父に、恐れを為すのはわかります。あんなに怒った父を見たこと、あたし、ありませんでした。でもでも、音信不通状態をつづけるなんて、あんまりだと思います。たしかに秘密のお仕事で、外部との連絡をいっさい禁じられてはいたのですが。でも、でもやっぱり……」と、結局のところは、正三を擁護することばで終わった。
「いいのよ、もう。ご縁がなかったということ、正三さんとは。それでいまは、どうしてらっしゃるの? お仕事もお忙しいでしょうけれど、どなたかとご婚約の話があるのでしょうね」
 たっぷりの皮肉をこめた小夜子なのだが、幸恵にはとどかない。
「はい。仕事が忙しいのは相変わらずなのですが、じつは、良からぬ話が聞こえてまいりまして。その、また、父が……」
 顔を曇らせながら、話をためらう幸恵だ。

「あらあら。良からぬ話だなんて、良縁に恵まれたのではないの?」と、なおも針を突きさそうとする。
「兄にとっては、なのですが、父にはとうてい許せるような相手ではなくて。たしかに、兄には良縁といえるかもしれませんが……」
 正三にとって何なのか、ぐずぐずと口ごもるだけではっきりしない。
「あら、さぞかしご立派なお家柄のご令嬢だと思いましたのに。お父さまがお許しにならないとは、道ならぬ恋というわけではないでしょうに」
 父親が隠したにせよ、幸恵は連絡先を知っていたという。そしてそれをすぐには正三に伝えることはできなかった、と。武蔵がこの地にいるときには、やむをえないことだったのね、と納得できたものが、帰ってしまったとたんに怒りがこみ上げてきた。どうしても幸恵にも痛みを与えねば気が済まぬとばかりに、ねちねちと責め立てる。
「あの真面目な正三さんがえらばれたお相手なら、きっと素敵なお方でしょうに。かわいらしい方なのでは? でももお会いしたときには、なにもおっしゃられなかったわね」
 幸恵の苦渋にみちた表情ぐらいでは気が済まぬとばかりに、責め立てる。
「ごめんなさい、小夜子さま。小夜子さまとのお約束を反故にしておきながら、兄は、兄は……」
 幸恵がことばを詰まらせて、涙のすじがほほを伝いはじめたところで
「あなたのせいじゃないことよ。さ、泣くのはおやめなさい」と、やっと矛を収めた。

(二百三十四)

「兄は、キャバレーの女給に熱を上げているのです。『女給風情に!』と、父は怒り狂っているのですが。でも今度ばかりは、兄もゆずらないのです。あ、申し訳ありません。こんなことなら、小夜子さまとのお約束を反故にしたことはなんだったのか、と思えてなりません。そんなわけで、いまは絶縁状態になっております。叔父の源之助が仲立ちしてはいるのですが、中々に。父もいまは、源之助叔父さまにお任せしているような状態でして。ですので、母が宴に出席しませんでしたのも、兄のことで床に伏せているものですから」
 大粒の涙が、拭いてもふいてもあふれ出てくる。幸恵のハンカチが使いものにならなくなってしまい、小夜子の差しだすハンカチもすぐに、涙でぐしょぐしょになってしまった。
「そんなことになっていますの、それは大変ね。で、お母さまの具合はいかがですの? 大事にならなければおよろしいのだけれど。でも、正三さんも……。男は、良き伴侶をえてこそ、大仕事を成しとげることができますものね。そんな女性をお選びになって、ご出世の道を自らお断ちになるとは。正三さんらしくありませんわね。でも最後にお会いしたとき、堂々としてらしたのに。そうね、きっと一時の気の迷いですわよ。そのうちに、お目が醒められますわ。大丈夫! 過去のこととはいえ、あたくしが選んだ正三さんですもの」

 勝ち誇ったように幸恵を見下ろす小夜子がいた。それみたことか! と目を細める小夜子がいた。しかし溜飲のさがる思いとともに、一度は生涯の伴侶にと思った男の凋落をよしとせぬ思いもわいてきた。
「でも…。正直のところ、小夜子さまにお恨みの思いもあるのです。いえ、分かっております。兄が悪いのでございます、すべて。ほんのひと言でも、あたしに小夜子さまへの伝言をと言ってくれれば、と思うのです。あたしがそのことに気がついていれば、と悔やまれてなりません。でも、でも、もう少し待っていただいていれば、と思ってしまうのです」
「そうね、それもありでしたわね。幸恵さんの仰るとおり、もうすこし待ってさしあげれば良かったのかも。でもね、それは今だからこそ言えることなのじゃないかしら。あのとき『いついつまで、待っていてください』とご連絡があれば、あたくしも待っていたかも。でも、お分かりになる? あの頃の、あたくしのこころ細い気持ちが。ひとりなの、たったひとりなの。
 だれを頼ることも出来ない地で、たったひとりだったの。そんなときに手をさしのべてくれたのが、タケゾーだったの。でもね、待ったのよ。タケゾーの思いは知っていました。でもそれを押し止めて、タケゾーには『約束した人がいます』。そう宣言して、足長おじさんの役目をおしつけていたの。お嬢さま育ちの幸恵さんにはお分かりにならないでしょうね」

 夕闇がふたりをつつみ始めた。道路に目をやると、ひとつふたつと家々の窓が明るくなっていく。まだ支度の途中であること、そして茂作をひとりにしていることが、気になりはじめた。しかし思いつめた幸恵を見ていると、むげな態度も取りづらくなっていた。
「申しわけありません。小夜子さまのお立場も考えずに、勝手なことを申しました。あら、もう陽が落ちてしまいました。こんな時間までもうしわけありません。まだお話したいことがいっぱいありますのに……」
 このまま立ち去るのがこころ残りだとばかりに、すがるような視線を小夜子に投げかける。家の中に入れてもらえないかと、目が訴えている。しかし小夜子には、身支度がすんでいない。それよりなにより、いまの憔悴しきった茂作を見られたくない。

「小夜子さま。明日のお帰りを、お見送りさせていただけませんか。よろしかったら、駅までお送りさせていただけませんか」
 これ以上の無理強いはできぬと、とっさに浮かんだ思いをことばに変えた。ぶしつけであることは分かっている。非常識だとも思う。しかしどうしても、このままではおさめられない。またの里帰りがあるだろうことは、幸恵にも分かっている。その折にでも話を聞きますわよ、と小夜子の目は言っている。しかしそれではだめなのだ、いまでなければだめなのだ。もっとはやく来れば良かった、昨日にでも来れば良かった、そんな思いがある。知らずしらずに、幸恵の目から涙があふれてきた。
 尋常らしからぬことなのだと、小夜子にもやっと分かった。しかしいまは、どうしても家に上げたくないのだ。
「そうね。明日、ご一緒していただける? どうせおじいさまは知らぬ顔でしょうから。今朝も早く出かけてしまうし、やっと帰ってきたと思ったら、ふてくされてしまって」
「きっと、お淋しくなられるからでしょう。うちの父もそうでしたから。正三兄さんの上京時には、やはりどこかに雲がくれしてしまって。その点、母親は強いです。上京する一週間程まえから、あれこれと世話をやいていました。前日などには、いやがる兄を押しのけて、鞄の中をひっくり返していました。父はもうあきれ顔でして、『いいかげんにしろ』と、母を叱りつけていました。あ、ごめんなさい。お母さまのことは禁句でした」
 恐縮して体をちぢこませる幸恵だった。

(二百三十五)

 迎えの車が煌々とライトを点灯させて、時間通りの六時半に来た。太陽はまだ山かげから顔をだしていない。駅までは三十分ほどかかる。一分一秒でもはやくこの
地からでたいと思う反面、「そんなにあわてて出ることもなかろうに」という茂作のことばに、ほだされる思いが小夜子の中に生まれてのことだった。
 ふすまの陰からじっと見つめる茂作に気づいた小夜子だが、素知らぬ振りをして戸口を出た。
「行ってしまうのか、小夜子。もう会えぬかもしれぬわしを置いて、行ってしまうのか。いつお迎えが来るかもわからぬわしを置いて、行ってしまうのか」
 ぶつぶつと気弱なことばを吐く茂作だった。昨朝、茂作に「あした早いから、早寝するよ」と告げる小夜子にたいし、「はやく帰ってこれるようにする」と答えたものの、結局は小夜子が寝入ってからの帰宅となってしまった。

「ふふ……気が付いたかしら? 幸恵さん」
 車中で、幸恵に問い掛ける。
「なにを、ですか?」
「おじいさまったら、声をかけることもできずに。あれで隠れていたつもりなのかしらね、丸見えだったわ」
 思わずうしろを振り返ると、茂作らしき老人が道端に立っているように見える。「ぜんぜん、気が付きませんでした。でしたら、お声をおかけになればよろしかったのに」
 しかし小夜子は、前を向いたままうしろを見ようとはしなかった。
「だめだめ。きっと、聞こえないようなふりをして家の中に入ってしまうわ。ぜったいに別れのことばなんか、くれないから。正三さんと東京に出かけたときもそうだったのよ。あのときは駅までついてきたんだけど」
「でも……」
「いいのよ、いいの。また遊びにくるから。お盆にはお墓まいりしたいから。タケゾーが、そうしてやれって言ってくれてるから」
 嬉々とした表情で小夜子が話すのだが、幸恵の表情にはかげりがあり声も沈んだものだった。
「そうなんですか、ほんとに良い旦那さまですね。やっぱり、正三兄さんではだめです。小夜子さまには、いまの旦那さまがお似合いです。そういう巡り合わせだったのですわ」

 駅の待合室で、思い詰めた表情で幸恵が口を開いた。
「じつは、小夜子さまだけにお話するのですが。両親にも話していないことなのです」
「あら、まあ。そんな秘密ごとを、あたくしに話してくださるの?」
 満更でもないのだが、面倒なことに巻き込まれるのも困ると考える小夜子だ。
「じつは、ご相談というか…いえ、お教えいただきたいのです。兄から、返事がまいりまして。あたしに、上京して来いと言ってくれました。それで来春の卒業後に、村を出たいと思っております」
 もじもじと体を動かす幸恵だが、次のことばが中々でてこない。じれはじめた小夜子が「なにかやりたいことでもおありになるの? タケゾーにお願いしましょうか? 仰ってみて」と、投げかけた。

(二百三十六)

「お怒りになるでしようか? ご相談と言うのは、他でもありません」
 いったんは口を開いたものの、また無言がつづいた。時計の針は、七時十分過ぎを指している。特急は、七時三十四分発のはずだ。あるようでない時間だ。列車の到着時にバタバタと走り回りたくはない。小夜子の顔に険があらわれはじめたことに気づいた幸子が、あわててことばをつないだ。
「あつかましいとお思いになるかもしれませんが、小夜子さまにおすがりしたいのです」
「ですから、なにをなさりたいの? それを言ってくれなきゃ、お返事のしようがないわ!」
 焦れったさから、つい声を荒げてしまった。
「申しわけありません。あたし、自立した女性になりたいのです。小夜子さまには、とうてい及ばないことは分かっております。でも、少しでも小夜子さまに近づきたいのです。以前に仰られていた、新時代の女性になりたいのです。それで、なにをすればいいのか、お教え願いたいのです」

 すがるような目つきで、小夜子にひざまずいて懇願しかれぬ幸恵だった。
「そう、自立した女性になりたいの。そうねえ、だったら……。あなた、ピアノが上手だったわね。ということは、手先が器用だということだから……。そう、タイピストね。この間タケゾーの会社に遊びに行ったときに聞いた話で、タイピストが不足しているってことよ。やっぱり学校があって、大勢の生徒さんがかよってるっ話だし。そうよ、それがいいわ。タイピストだったら、大会社に入れるでしょうし。そこで、BGとして働けばいいわ。ビジネスガールを略してね、ビージーって呼ばれてるの」

 やっと幸恵の意図がわかり、せき止められていた水が放たれたがごとくに、滔々と話した。
「よかったら、タケゾーに話してあげてもいいわよ。学費やらなにやら、けっこうな物入りですもの。あたくしもね、タケゾーに出会うまでは、ほんとに苦労したわ。生活費もね、ばかにならないし。だいじょうぶ。出世払いということばもありますから」 
「タイピストですか? ありがとうございます。金銭的なことは正三兄さんが面倒を見てくれますので、大丈夫です。ああ、やっぱりご相談して良かったわ。さっそく兄にその旨つたえて、準備にはいります」
 目を輝かせて「ありがとうございました」と、なんども感謝のことばを口にする。
「いいのよ。こんなことぐらいで、そんなにおっしゃらなくても」
 幸恵の、飛び上がらんばかりの歓喜の思いが、小夜子にも伝わってくる。前途が大きく開けたとばかりに、意気揚々とした思いにつつまれている幸子がうらやましくも感じる。
「新しい女性の小夜子さま」と言い切る幸子の思いが、うれしくもあり気うつにも感じる。武蔵の庇護のもとで「お姫さま、奥さま」と奉られている己が、小夜子自身の力ではないことを知るおのれが、情けなく感じる。その反面、まだまだこれからなのだと、おのれ鼓舞する小夜子でもある。
「元始、女性は太陽であった」と言い切った平塚らいてふは、二十代半ばだった。まだすこしの猶予がある。
そうよ、そうなの! 平塚先生に追いつくには、十分な時間だわ。『今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である』。いまは先生の仰る小夜子であっても、これからよ、これからなの
 
(二百三十七)

 小夜子が去ってからの茂作は、己でも予期せぬ日々を送った。本家の心配をよそに、茂作自身も寂しさに耐え切れぬだろうと考えていたが、あにはからんや嬉々として村中を飛びまわっている。繁蔵の村長出馬を受けて、繁蔵本人はもちろんのこと大婆さままでもが、茂作に頭を下げたのだ。
 かつては土間に座らせての対応をしていた茂作に、だ。いまでは座敷にあげて歓待する。しかも、三日と空けずに夕食だなんだと歓待する。そして村長選に向けての作戦を、茂作とともにはかっている。作戦と言っても、陳情やら相談を持ちかけてくる村人宅に出向き、村長選のことをにおわすのだ。
「兄の繁蔵が役場におれば、わしも色々とやりやすくなる。むこへの連絡も、役場の電話を使えることになろうし」
 多忙な毎日をおくることが、これほどまでに気力を充実させるものだとは思いもしなかった。相談ごとをともに考えるということが、これほどまでに気力を高揚させてくれるとは思いもよらなかった。小夜子には「もう手伝わん」と言いはしたが、大婆さまに頭を下げられてはと、おのれに言い訳をしている。しかしいまの事態、茂作の心内はおだやかではない。
あんな大正男の金に目がくらみよって。本家と言っても、こんなものか。フン。今までびくついてきたわしも、大ばか者よ≠ニ、苦々しい思いにかられている。
 今夜もまた、ふたりの村人が茂作のもとを訪れた。
「このご時世では、学のない者はろくな職につけんし。やっぱり田舎でくすぶらせてちゃ、なんとも……」
「学校のせんせに、上の学校にすいせんしてやると言われとるんじゃが。なんせ、じじとばばをかかえちょっては、その……」
「分かった、わかった。学資たら言うことじゃの? そん代わりに、分かっとると思うが、兄の繁蔵を、の」
「もちろんじゃて、当たり前じゃて。いまの村長は、口ばっかりじゃ。『県の方であんばいようしてくれるから、もうすこし待ってくれ』の一点張りで。どうにも事がすすまん」

「ふたり、進学の意思あり」。ただこれだけの文面で、手紙を送った。本家の電話を使えと、大婆さまは言う。しかし武蔵に媚びへつらうような趣を感じる茂作は、それをかたくなに拒否した。茂作が頼み込んでいるわけではない。取り次いでいるだけなのだが、どうしても卑屈な思いがわいてしまう。それを気取られぬようにと、短文での手紙にしていた。
 そしてその手紙の返信は、すぐに武蔵からとどく。
 ご尊父さま。ご健勝とお見受けします。至極結構なことで、喜びにたえません。今回の進学に関しまして、いつも通り、奨学金を月払いにて用意いたします。また、入学金等一時金につきましては、別途用意いたしますのでご提示ください。それでは、お体をご自愛くださいますように。

 慇懃に書かれたその文面が、茂作には面白くない。奨学金という名目の金銭援助、いくら他人に与えることになるのか。村の子どもたちを思い浮かべると、赤子も含めてまだ十人以上がいる。「味をしめた村人が小作りに励むかもしれんのだぞ」。いつまでつづけるつもりかは茂作には分からぬけれども、相当額の金員負担になることは容易に想像できる。
それがために小夜子に不自由を強いることなど、決して許されることではないぞ
 縁側に座り、周りからおすそ分けにと持参された酒のつまみをともにしてひとり酒盛りをする茂作だが、どうしても武蔵を認める気にはなれない。満月の今夜、これから欠けはじめる月を見つめて、「うううむ」と、ひとり唸りつづけた。