(二百二十二)
フルバンドで演奏されるインストゥルメンタル。グレンミラーの楽曲が演奏されると、一気に店内が盛り上がる。女給たちに促されて、客たちがダンスに興じはじめた。五三会の面々もそれぞれのパートナー相手に、ダンスに興じだした。杉田もまた、薫のリードよろしく踊っている。軽快なスィングジャズに乗って、みなが幸せいっぱいの表情を見せた。
そんな中、ひとり正三だけは、なかなかなじめないでいる。気心の知れた者たちとの飲食だけを経験してきた正三は、その喧噪になれていなかった。
「どうしたの? お坊ちゃん」と、正三をもてあまし気味の女給だ。
あーあ、今日はやく日だわ。約束してたなじみ客はこないし、上客だと思った男はシラケ坊やだし。こんなの、どうしたらいいっていうのよ。薫さん、なんとかしてよね
ちらりちらりと正三に視線を送る薫、女給としての器量不足が恨めしい。
千景さんったら、なにやってんの! ふさぎ込んでる男なんて、簡単でしょうに。ああもう、じれったい!=h
「千景さん、あちらのテーブルにまわってください」と、マネージャーが肩を叩く。そして「お客さま、中原ひとみさんです」と、目をくるくる回す女給を連れてきた。
「なんだって? 中原、ひとみだって? ぼくはね、嵯峨美智子さんが好きなんですがね。こんなやせっぽちは嫌いだね」と、不機嫌に口をとがらせる。単なる源氏名であって、本人ではない。そんなことは自明の理であり、正三も承知している。単なる八つ当たりに過ぎない。この喧噪内での遊びができぬ己が腹立たしいのだ。
「いけ好かんたこ!」と、とつぜんに正三の頬をつねってきた。
「痛いじゃないか!」と、正三が真顔で怒った。しかし素知らぬ顔で、正三の顔をひょっとこ顔にしてしまう女給、中原ひとみだった。
「ここで、そんなむずかしい顔はあかんて! 楽しまな、損ですよ。ね、しょう坊」と、正三の口に吸いついた。今までに味わったことのない――アルコール類がはいっているのは感じる。しかし日本酒とは異質の、ウィスキーとも違う――口臭が流れ込んできた。さらには、「チュッチュッ、チュッ」と、二度、三度と繰り返す。
「な、なにをするんだ! そんな、ことはして、ほし……」
ことばとは裏腹に、ざらついた気持ちがなごみ始めた。
「ねえ、しょう坊。なんでそんなに怒ってはるの? お仕事がうまく行かなかったん? 大丈夫よ、つぎは良いお仕事ができますって」
「しょ、正坊とは! 馬鹿にしているのか、ぼくを。初対面の君に、なんでそんな風に言われなきゃならんのだ。女給風情に馬鹿にされるとは、じつに気分が悪い」
(二百二十三)
手持ち無沙汰になった正三が、ひとみの差し出すグラスを手にしてその液体を飲みこんだ。
「な、なんだ、これは。酒か、こんなものが。苦いし、泡だらけじゃないか!」
ひとみの口臭の因がわかった。この液体のにおいだった。
「はじめてなん? ビールというお酒ですよ。おいしいですやん、うち好きやし」
正三からグラスをうばいとると、いっきに飲み干した。
「お前の、その顔。ひげが生えてるぞ、あははは!」
ひとみの口の周りの白いリングに、思わず笑いだした正三だ。
「ほんなら、しょう坊にも作ってあげるし」と、また吸い付いてきた。
「あらあ、だめやん。うつらへんやないの! そうや、正坊もグイッと飲んでみいて。そうしたら、白いおひげができるし」と、溢れるほどに注がれたグラスを差し出した。
「いやぼくは…。こんな酒は苦手だけれど」と言いつつも、ちびりちびりと口にした。
「だめやって! グイッといかな、あかんて! ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干しいな」
「君はどこの生まれだ、どうにも言葉づかいが変だ」
「関西ですう、兵庫県の明石という所ですわ。これでも、お父はんは子爵でしたんえ。けど戦争に負けてしまっては、あきません。もう、毎日まいにちグチばっかりで。暮し向きも立ち行かんようになってしもうて。お母はんも、しまいには倒れてしもうて。それでまあ、長女であるうちに一家の生計が伸し掛かってきたいうわけですう。とはいうても、中々に厳しゅうて。子爵という面子が邪魔しまして、あちらではどうにもならず。で、こっちゃならいいかな? と思って来てはみたものの、ここもまたむずかしゅうて」
「子、子爵さまあ? そ、そんなお方の娘が?……」
あっけにとられる正三を、またひょっとこ顔にして吸い付いてきた。
「けはは。引っかかりましたな、しょう坊も。もうこっちゃの殿御は、みんな引っかかりはるわ。けはは……」
大きく口を開けて、屈託なく笑うひとみ。呆気にとられる正三、といってまるで腹が立たない。むしろ特有のアクセントとも相まって、正三も笑ってしまった。
「坊ちゃん、ご機嫌のようで」。「なんですか、このやせっぽちは」。「坊ちゃんは、色気たっぷりの女が好みだろうに」
上本以外の三人が、交互に正三に声をかけてきた。上本はいつの間にか、課長の杉田とともにボックスを移っている。
「いいんだ、いいんだ。たまには、茶漬けもいいさ」
「茶漬けって、しょう坊! そんな言われ方したの、はじめてやわ! やっぱり、いけ好かんたこやわ!」
ぷーっと頬を膨らませて、正三をつねりにかかった。
「おっと、そうそうやられてたまるか」と、ひとみを抱き寄せた。
「いやん、しょう坊。案外助平なんやね。難しい顔してはったから、真面目なお人かと思うてたわ。むっつり助平とかやね、けはは……。うち、大好きやわ。真面目な助平さんは」と、正三の首に手を回してきた。
「課長! 良いお店ですね、ここは。入った当初はくさくさしましたが、実にいい。このひとみさんが、じつにいい。気に入りました、これからはここですね」
(二百二十四)
「どういうのかねえ、こんな経験はないかい?」
正三が急に問いかけてきた――というよりも、独り言だとも思えないでもない。
「お腹がすいているわけでもないのにだ。ちょっと茶漬けを食べたら、どんどんと箸がすすんでしまうってこと。つまりさ、性行為がしたいというわけでもないのに、というより昨夜したというのにさ。他の女性とちょっと接吻をしただけで、またしたくなる、ということだ」
チラリとひとみの方に視線を向けた。しかしひとみはなんの反応も示さない。要はひとみとの性行為を指しているのかと感じた面々が、口々に正三をあげはじめた。
「いやあ、それは坊ちゃんだけですよ。坊ちゃんは英雄ですもん。英雄、色を好む、ですよ。うらやましいです、その精力は」
賛同しろよ、と深本が目配せをする。それに気づいた木田が、すかさずあとを継いだ。
「そうですよ。うらやましいです、坊ちゃんが」
つづいて坂井がつづく。
「やっぱり我々下々の者とはちがいますねえ、坊ちゃんは。知識もあれば体力もある。それに加えて精力絶倫ときた。みなが頼りにするはずです」
これ以上はないというまでに祭りあげた。同僚である小山に山田は、そのすさまじさに口をあんぐりとするほかなかった。女給たちもすぐさま「お相手してほしいものね」と科を作る。
「たしか、セイゴウとかいうんじゃなかった?」
「ああ、豪の者ということだな。豪傑なのさ、坊ちゃんは」
深本が木田の脇をつつきながら、同意するように目配せをした。
「ひと晩に七人を相手にしたという人がいたって、聞いたぜ。ひょっとして正三坊ちゃんか?」
あわてて木田が、真偽のほどもわからぬ与太話を付けたした。しかしひとみだけは「そんなにエッチが好きなん? 正坊は」と、くさす色合いをこめてケタケタと笑った。
とつぜん店内が暗くなり、スポットライトに照らされたマネージャーがフロアの中央に立っている。
「さてさて、紳士淑女の皆みなさま!」
「おーい! どこに淑女のレディがいるんだ!」と、上本が声を上げた。
「そうだ、そうだ!」と、同調の声。
「それは失礼いたしました。では訂正させて……」
「マネージャー! ここには淑女しかいないのよ!」と、こんどは女給が叫ぶ。
「とに角、ようこそのお出で、まことにありがとうございます。本日のビッグスター、天才マジシャンのご登場でえす! どうぞ万雷の拍手でもって、お迎えくださあい!」
ドラムの音に合わせて、黒マントに黒のシルクハット姿で登場してきた。マスクに口ひげを生やした男で、「怪傑ゾロ!」との声に、「グラッチェ!」と声を張り上げた。
「なんだい、あれは。西洋式の奇術師かなんかかい?」
初めて見る異様な出で立ちに、正三が見を乗り出した。
「知らないの? いま、大人気なのよ。とにかくすごいの!」
ひとみが身振り手振りをまじえて、詳細に説明をする。しかしあまりの興奮ぶりに要領を得ない説明となってしまい、正三にはちんぷんかんだ。
「と言うことで、どなたかいらっしゃいませんか?」
助手の女性が、大きく手を広げている。しかしひとみの説明に耳を傾けていた正三には、さっぱりだ。
「はあい! うち、うち、やりたいわあ」と、ひとみが立ち上がった。
「おいおい、分かってるのか?」
「いいからいいから。体をのこぎりで切られるのよ、くふふ」
唖然とする正三たちを後目に、るんるんとステージに向かっていく。
「坊ちゃんと話をしてたのに、聞こえてたってことなのか」と、不思議がる正三たちに、薫が答えた。
「耳に入るのよ、自然に。目配り、気配りしてなんぼの世界だからさ」
(二百二十五)
「それ、切れるの? ちょっとそこの木を、切ってみて。ええ、ほんとに切れるんだ。恐くなってきたわ、うち。大丈夫なのよね、死ぬことはないわよね。まだ男を知らないんだから、今夜は処女よ」
マジックの内容を説明している助手の声を掻き消さんばかりに、喋りまくっている。しかしマジックの説明は当を得ている。助手の説明よりもわかりやすく、客の間からやんやの喝采を受けた。両手を大きく広げて、マジシャンがお手上げだとばかりのポーズを見せた。
口に指を立てるマジシャンだが、ひとみの独演は止まらない。
「この箱に入って、体を横たえるのね。それじゃ皆さん、さようなら。二階のしょう坊、今夜はありがとう。もしこのまま還らぬ人になったら、お線香の一本でもお願いね」
ひとみに呼応するように、二階席の正三たちにスポットライトならぬ懐中電灯の灯りが当てられた。
「よおし、分かった。俺たちも、お焼香させてもらうよ」
「お経は任せとけ。えらーいお坊さんに上げてもらえるように、頼んでやるぞ」と、あちこちから声がかかる。
「しょう坊! 好きよ、しょう坊。もしこの世に戻って来られたら、恋人にしてね」
泣きまねをしながらの仕草に、どっと歓声が上がった。
「俺がなってやるよ」
「いやいや、わたしに任せなさい。極楽に送ってあげるから」
あちこちから声がかかった。笑いの渦がさかまく中、マジックの箱の中に身を横たえつつ
「いや! 今夜はしょう坊がいい! でも、明日は貴方かしら? とにかく、うちを指名してくれる殿御さんがいい!」と声を張り上げた。
右方に左方にそして中央に投げキスをしながら、二階席の正三に対しては二度、三度と繰り返した。
もうマジックどころではない、ひとみひとりに掻き回されている。憮然とした表情のマジシャンも、あきらめ顔に変わっている。と、とつぜん正三が立ち上がった。
「ひとみ! 今夜も明日も、明後日もだ。ぼくがひとみの恋人だ!」
みな、思わず顔を見合わせる。口をパクパクさせるだけだ。こんな正三は、誰も知らない。当たり前だ、当の正三すら知らない。
酔いのせいだ£Nもがそう思った、正三自身も思った。ほかの誰よりも、正三自身がいまの己にとまどった。
(二百二十六)
大きな箱の中に入れられたひとみが、ほんの数秒後には箱から忽然と消え失せていた。拍手喝采をマジシャンが受けた後、ステージの裾からひとみが現れ出るに至って、割れんばかりの拍手がわいた。そしてメインの胴体のこぎり切断ショーでは、またしてもひとみの独壇上となった。
「それではこれから美女が、大樽に入ります。無事この世に生還できましたら、是非とも拍手大喝采でお迎えを〜!」
「よっこいしょ!」と、ひとみが大樽にはいる。そのなかでまた投げキッスを繰り返したあと、魔術師にせかされてしぶしぶ縮こまった。そしてふたが取り付けられて、くぎでふさがれた。
いよいよ大剣が刺されようとした瞬間に
「なに、この床は。お布団かなんか欲しいわあ。
お尻が痛いやん。ちょっと、待ってえな。心積もりもありますさかいに」と、声が上がった
「ああ、あ、あ、なんか刃が、うちの白玉のような肌に当たってるう」
くぐもった小さな声が聞こえる。そして次の声でとだえた。
「あっ、あっ、痛い! あっ、あっ、エンマはんがお迎えに…ちゃう、ちゃう、天使はんがお迎えに…」
そして大剣すべてが抜かれて、釘抜きでふたがはずされた。
「あの世から戻りましたえ!」と大声で、ひとみが叫び、ピョン! とばかりに、なかで跳びはねた。マジシャンに手を取られて樽からでたおりには、さらなる拍手と指笛が鳴り響いた。にこやかに笑みを浮かべつつ、ひとみがマジシャンに耳打ちする。
「血ぃがどばっと出ると、もっと盛り上がるんとちゃう?」
小声で話しかけたはずが、マイクロホンに拾われてしまった。
「そうだ、そうだ! ひとみの言うとおりだ!」
二階から、正三が大声で叫んだ。
「ひとみちゃんは、すごい!」
「若いの、あんたは偉い!」
万雷の拍手で迎えられたひとみ、得意満面のひとみ。苦虫をかみつぶしていたマジシャンも、最後には拍手で送った。
正三の泥酔ぶりは、翌日を二日酔いのために欠勤したことからも分かる。とにかく手に負えない状態におちいった。ひとみに対する執着心が店中のひんしゅくを買ってしまったほどだ。駄々をこねる幼子のように、ひとみを片時も離さない。手洗いに立つときですら、その戸口まで付きまとった。さらには、中に入ろうとするに至っては、ひとみも穏やかではなくなる。
「堪忍え、正坊。やんちゃばっかり言う子は、嫌いになるでえ。お願いやから、大人しゅう待っててえな」
「いやだ! 秘密の扉があって、さっきの奇術でもって、他の場所に行ってしまうだろうが!」と、譲らぬ正三だ。
指名客が来たおりなどは、ひと悶着だった。どうしても離そうとはせずに、終いには正三もそのボックスに行くと言い出した。これにはさすがのマネージャーも困りはてた。
「お客さま、おきゃくさま。必ず、かならず、戻ってまいります。ほんの少しだけ、ひとみさんをお貸しください」
ことここに至っては杉田としても、放っておく訳にはいかない。正三の嬌態を面白がり、やんやと囃していたいた面々も、さすがに他の客からのひんしゅくの声に耳を貸さないわけにいかない。
(二百二十七)
「ちょっとやり過ぎか?」。「出入り禁止なんてことにならんだろうな?」。「新聞沙汰になりでもしたら、とんでもないぞ」。「いやそこまでには、ならんだろうさ」。「いやいや、客のひとりが面白おかしく喋ったら……」
ひそひそと話し合うが、今夜の正三を制御することは難しいことだった。
「佐伯君、局長の立場を考えなくちゃね」
杉田の耳打ちに、やっとひとみの手を離した。正三の急所を突かれた。どんなに酩酊していても、源之助を忘れることはない。じっとひとみを見つめる虚ろな正三だったが、力なく、離れ行くひとみに手を振りつづけた。
「なにを言ったんです? 課長」
「なに、大したことじゃ。佐伯君の急所をつついただけさ。彼を黙らせる唯一のね」
「正三をコントロールできるのは、杉田課長、君だけでいい」。源之助に釘を刺されている。そして「口外しないように」と、何度もなんども念を押されている。むろん源之助のことばがなくとも、他にもらすことはない。正三の上司なのだ。杉田の命令には逆らえないようにしておきたかった。
「なんです、それは。後学のために教えてくださいな」
「いやいや、こればかりはね。さあさあ、飲み直そう」
「そうおっしゃらずに。我々だって手に負えなくなったときの、対処法を知っておきたいんですが」
食い下がる山田だが、杉田は素知らぬ顔で興にはいった。
「かおるちゃ〜ん。かおるちゃんは、どこにも行かないよね〜」
「は〜い! 行かないわよ、ターちゃんのそばにいるわよ〜。ターちゃんも、浮気しちゃだめよ〜」
やたらと語尾を甘ったるく伸ばす様は、聞かされている身としては辛いものがある。
「わたしとしては、ありきたりの美人には飽きたんだ。良く言うだろ?『美人は三日で飽きて、不美人は三日で慣れる』って。さらには、『醜女の深情け』ともね」
しっかりと薫の肩を抱き寄せて、満足げな表情を見せた。
「安らげるんだよ、かおるちゃんのそばだとね」
こんな痩せぎすのおばさんの、どこが良いんだよ
そんな思いを抱いていた面々だが、杉田のことばに妙に納得させられている。
たしかに、美人相手だと気を使うかもな=B最近は、鼻っ柱の強い女が多いからな=Bプライドの高い女は、たしかに疲れるからな=Bすぐに指名が入って、じっとしていない。けしからん!=Bキョロキョロして、落ち着きがない
いろいろと不満な点が浮かびはするが、それでもグラマーな美人がいい≠ェ、本音ではあった。
(二百二十八)
ひとみという女を品定めする杉田だった。年のころは二十代前半と見ている。痩せぎすの体型が若く見せるきらいがあると考えると、後半かもしれない、とも思う。顔立ちは、不美人ではないけれど、美人でもない。
局長もすごいお方だ。こんな隠しごまを持っているとは
先日のことだ、杉田の元に源之助から電話がはいった。
「杉田課長ですか? 正三が世話をかけてるようで」と、まずはねぎらいのことばから始まり、
「次あたり、キャバレーにでも行かせてもらえませんかな。わたしの方でも、キャバレー行きを画策してみますが、うまくいかない時には、ひとつ杉田課長の手をわずらわせたいのです」
M無線による接待が源之助の策だったが、業務違いの業者ではうまくいかないかもしれん、と杉田に次善の手を打ちにきていた。
「気難しい正三のことです、ひと悶着おこすでしょう。なあに、こちらで手を打っておきますので、ご心配なく。とにかく杉田課長のキャバレーに連れていってもらえれば、あとはこちらの方で…」
杉田を評するときに、「くん」付けはあっても、わざわざ職位の課長と呼ぶのは、部下ぐらいのものだ。同期ですら、杉田くんと呼ぶ。それが、雲の上の存在ともいえる、簡易保険局局長の佐伯源之助が、数いる局長のなかでも、現事務次官の権藤と最後まで争ったナンバー2ともいえる佐伯源之助が、杉田課長とと職位で呼んでくれるのだ。高揚感をもたないわけがない。
正三の痴態を見せられたいま、源之助の深謀遠慮には舌を巻いた。そしてその慧眼にも。中原ひとみという女給、どうやら源之助の息がかかっているように感じた。杉田の知るこれまでの女給たちとはまるで違う、天衣無縫ともいえる女性だ。
こんな女性に佐伯くんがのめりこむなどとは、思いもかけぬことだ。失恋の痛手に苦しむ佐伯くんをおもんばかってのことだろうけれども。これほどにピタリとはまるとは。恐ろしい人だ、じつに
正三を正気にもどすための方策であり、教育係りのようなものだと、源之助は考えている。すこしの間は女狂い状態になったとしても、時間が経てば、と考えている。
口では悪態をつきながらも、痒いところに手が届かんばかりの対応をしてくれる。正三の目線の動きで察知し、口に出すまでもなくことが済む。正三にしてみれば、ひとみの前では素の自分でいられる。肩肘をはることなく、だらしない自分を見せられる。選民だと意識させられている正三にとっては、じつに居心地の良い場所だ。
「いいか、正三。我々は選ばれし者なのだ。日本国民を正しい道に導くために選ばれたのだ。ユダヤ民族が選民であるように、我々官吏はお上に選ばれし選民なのだ。その自覚を常に持って行動をしなさい」
そんな正三を認めない女性、それが小夜子だった。そしてそれが苦痛にならない正三だった。あの再会の日までは。
小夜子さんも、今のぼくをどう見てくれるだろうか? もう一人前の男として、認めてくれるだろうか? 尊敬の眼差しをくれるだろうか? そしてそして、ぼくを伴侶として意識してくれるだろうか?
それらことごとくが、裏切られた。官吏としての正三はもちろん、男としても認めはしない小夜子。どころか、非難の矢が矢継ぎ早に飛んできた。そして除ける間もなく、その矢は正三の胸に突き刺さった。
しかし今、ひとみという女に出会って、正三の胸に激しく燃えるものが生まれた。正三を見下すわけではなく、といって見上げるわけでもなく、正視するひとみがあらわれた。
「お待たせ〜! 正坊。美智子ねえさん、ありがとうございました」
嵯峨美智子ファンだという正三に宛がわれた女給は、たしかに色気たっぷりではあったが、正三の興は戻らなかった。襟をすこし緩めに着付けている着物姿に、「ほお、色気ムンムンだね」と声をかける者もいたが、正三にはだらしなさとしか映らなかった。
「しょう坊、どうかしたん? 元気ないやん」
「そんなことはない」
「ウソ! あたしがおらへんかったから、泣いてたんやわ。よしよし、もうどこにも行かんからな」
酔いつぶれたのかと思われていた正三が、とつぜんに身体を起こした。
「ひとみ、ひとみ! 何してたんだ? 淋しいなんてものじゃないぞ。ぼくは、生きる気力さえ失ったぞ。だめだ、ひとみと接吻をしないと、ひとみの口を吸わないと、元気がでなーい!」
唖然とする一同を後目に、ひとみに正三が圧し掛かっていく。
「はいはい。しょう坊、みんながびっくりしてるわよ。おいたが過ぎると、お尻ぺんぺんよ」
「坊ちゃん!」と、坂井が裏返った声で、言う。
「こんや、店がはねた後なんですが、寿司でもお摘みになりませんでしょうか?」
「おいおい、声が変だぜ」
「いやじつは、彼女にいま、『ひとみさんと一緒なら良いわ』と言われたものですから」
「なんだなんだ、どうした口説き落としせたのか、おい。この野郎が! ひとりで良い思いをするつもりか?」
山田が噛みつくが、他の者からは声がない。
「おいおい、ひょっとして、俺だけか? みんな約束、取りつけたのかよ。美佐江ちゃん、ぼくたちもなんとかなろうよ」
すがるような目を向けるが、「ごめーん。今夜はどうしても、だめなの。次に来てくれたときには、きっとお付き合いするから」と、手をこすり合わせた。
 |