(二百二十一)

 式前夜のこと。
「お父さん。今まで、ほんとにありがとう。わたしの我がままを通させてくれて。これからは、いっぱい親孝行するから」
 目にいっぱいの涙を溜めて、小夜子が言う。
「い、いや、そんなことは……。それより小夜子、ほんとにこれで良いのか? 正三じゃなくて、良いのか? まだ間に合うぞ。どうなんじゃ?」
「いいのよ」。小夜子がきっぱりと言い放った。
「縁がなかったのよ、正三さんとは。お別れはすんでるし」
「そうか、そうか。この……わしなんかの為に。すまんのう」
「なに言ってるの! わたしは望まれて行くのよ。三国一の花婿さんに望まれて行くのよ」

そう、そうよ。わたしは幸せ者なの。財産すべてを、わたしの為につかい果たすんだから。これからもわたしの好きなようにしていいって、言ってくれたのよ。
 みんな褒めてくれてるじゃない、あの婆さまだって。これ以上の良縁はないって、言ってるじゃない。それに、それに、生娘じゃないんだし。アーシアも死んじゃったし……。
 良かったのよね、お母さん。タケゾーの元に嫁ぐのは良いことよね。借金も払ってくれたし。それになにより、じいちゃんの面倒も見てくれるって言うし
いいの、いいのよ、これで。女は、愛されてナンボなのよ

 そして式当日。
 突き抜けるような青空の下、黒塗りのハイヤーが埃を巻き上げて走っている。ゆっくりとした速度で、竹田の本家へ向かって走っている。役場を過ぎて、茂作の家を過ぎ、通りからすこし上り坂になる道をあがると、土塀がみえてくる。その土塀の中央に門があり、竹田という表札がかかっている。
 この村でかつて庄屋として君臨していた佐伯家につぐ家格を誇るだけに、およそ三百坪ほどの敷地に、主屋、書院、そして茶室までがあった。いまは茶室はとじられたままになっている。中庭を囲むように作られている。松の木が中央に植わっており、四方それぞれから小径があり、その脇には四季とりどりの花々が植えられている。
 当初は分家である茂作の娘ということもあり、書院を使うことを考えた。しかしふすまを取っ払ってみたものの広さが十分ではなく、お祝いに駆けつけるであろう人数をかんがえて、結局は主屋での披露宴ということになった。表、仏間、みせの三室のふすまをはずすことになった。

 神社での式を終えた武蔵が、満面の笑みで車からおりたつ。すこし遅れて小夜子が、緊張の面持ちでおりたつ。差し出す武蔵の手をしっかりと握っておりたつ。紅白の幕でかざられた門のまえで待つ本家の大婆が、満足げにうなずいている。
「立派なお婿さんじゃて。でかしたの、小夜子。おお、美しい花嫁姿じゃ」
 つづいて、茂作と繁蔵が後続の車からおりた。
「婆さま、大丈夫ですかいの? 中で待っておられれば良いのに。ふらつきませんですかの?」
 繁蔵が心配げに声をかける。「年寄り扱いするでね!」と、一喝した。かくしゃくとした動きで、武蔵と小夜子を招き入れた。
「ええ婿さんじゃ。のお、小夜子。でかしたぞ、ほんに。お前のおっ母さんにはがっかりさせられたが、小夜子を産み落としたことは認めてやらねばの」

(二百二十二)

この婆さまが、母ちゃを殺したんだ=B恨みの炎が、小夜子の目に宿る。とともに、ほぼ直角に曲がった腰が、痛々しく小夜子に映る。齢、八十歳を超えたはずの大婆。当主である繁蔵に対してあれこれ指図する様は、一種異様な趣をただよわせる。
「隠居しても良かろうに、なんで固執するかのお?」
「繁蔵さんではなくて、嫁の方じゃて。初江さんよ」
「そうそう。嫁に牛耳られるのが、しゃくなようじゃわ」
 そんな陰口など、どこ吹く風とばかりに
「そらそら、お着きじゃ、お着きじゃて。準備は出来とろうな? 村の衆には座ってもらおとるか?」と、声を張り上げる。
「もう皆さんには、お座りいただいております。ただ、村長さんがまだお見えじゃ……」
「村長は来ぬ、出張だと。陳情に行ってくるとかで、きのう出かけた。むりやり作ったんじゃろう。のお、これから張り合うものじゃから。ま、いい。おらぬ方が、いろいろとの」
 頭を畳にこすり付けての初江の報告に、大婆は素っ気ない。繁蔵の目が、初江にあやまっている。
もうちーと、待ってくれ。なあに、婆さまもとしじゃ。長くはないんじゃ=Bそう言いつづけて、もう五、六年になる。「なんのなんの」と、初江は気にせぬ様子をみせるが、繁蔵にしてみれば、もうすこし優しゅうはできぬものかと気をもんでいる。

「さあさあ、皆の衆。お待たせしましたの、ご到着じゃご到着じゃ。さあさあ、祝うてくだされ」
 大婆の先導で、武蔵と小夜子が屏風の前にすわった。
「ほおー!」。いっせいに感嘆の声がもれた。
「これは、これは……」
「正三坊ちゃんが惚れなさったのも、無理からんことじゃ」
「ほんに、ほんに。種が良いと、こうも違うもんか?」
 あきらかに小夜子の父親である、大衆一座の花形役者を意識してのことばだった。耳にする茂作にしてみれば、にっくき相手である男を褒めそやされているようで座り心地がわるい。尻がむずかゆく感じられた。
「本日は、」
 大婆に促されて、武蔵が立ち上がった。となりでは村長選に出る繁蔵のことを、ひと言付け加えてくだされ≠ニ、大婆がささやく。
「なんですか、聞くところによると、村長が陳情に出かけられたとか。残念です、まことに。どのような陳情だったのかは分かりませんが、このわたくしに言っていただければと、残念に思います。小夜子の生まれ育ったところです。精一杯のことをさせてもらいますから。わたくしの義理の父親であらせられる茂作さんに言ってくだされば結構です。それから、子どもたちのことです。経済的な苦しさから、上級学校への進学をあきらめる子はいませんか? ぜひにも、援助させていただきたい。かく言うわたくしも、断念した口でして。幾人でもかまいません。五人が十人でも、いや村のお子さん全員でもかまいません。茂作さんのご推薦があれば、喜んで応援させていただきます。すこしでも上の学校に入っていただきたい」

 拍手喝采の鳴り止まぬ中、渋い顔の繁蔵だ。そして、うんうんと頷いていた大婆だったが、繁蔵ではなく茂作の名が出たところで目をむいた。
「いや、婿どの。茂作じゃなくて、繁蔵ですわの?」
 そんな大婆の声も、割れんばかりの喝采の中にかき消されてしまう。振舞い酒に酔ってしまったのか、顔を真っ赤にして男が立ち上がった。
「茂作さんにですかの? 繁蔵さんではなくて……」
 繁蔵の選挙参謀を自認する男が、大婆を見ながら声をあげた。 
「ま、言わずもがな、と言うことで。とにかく、茂作さんに言ってもらえれば」
 あくまで茂作だけの名前を告げて、繁蔵とは宣しなかった。

(二百二十三)

 とつぜん、佐伯本家の当主である庄左ヱ門が小夜子の前にすわりこんだ。先日の茂作の罵声にたいする意趣返しかと色めきたった。
「小夜子さん。あんたには、色々とすまんかった。正三のことで、色々とあったけれども。どうか、許してくれや。正三はの、逓信省の官吏さまになったんじゃ。行くゆくは局長になって、次官さまとやらまで行かなきゃならんのじゃ。でな、甥の源之助に任せたんじゃ。それでまあ、あんたに連絡をさせなんだみたいで。勘弁じゃ、この通りじゃ」
 他人に頭を下げることなど、まず有りえない庄左ヱ門があやまった。村一番の実力者が、小娘である小夜子に頭をさげたのだ。ざわついていた座が、一瞬の内に静まり返った。
「ご、ご当主さま。おやめください。小夜子は、なんとも思っていませんから。そうじゃろう、小夜子。いけませんて、それは。どうぞ、頭を上げてください」
 慌てて繁蔵が起こしにかかる。ここで佐伯本家のきげんを損ねては、いくら武蔵の恩恵を預かろうかという者が出たとしても、いやそれを良しとする者はいなくなってしまう。そして繁蔵を応援する者もいなくなる。
 どころか、現村長に与することになってしまう。この式に当主みずからが出向いたということが他の村人に伝われば、もう勝利まちがいなしということになる。現村長を担ぐ者すらいなくなるかもしれない。

「ご立派! さすがに、村一番の実力者だ。御手洗武蔵、こんな立派な謝罪は見たことがない。感服しました、じつにすばらしい。ご当主さまのためにも、せいぜい村に尽くさせていただきます」
 小夜子に対する謝罪ではないことは、すぐに武蔵にわかった正三の次官への道を妨害しないでくれ、と武蔵には聞こえた。
分かったよ、邪魔はしないよ。俺だって、そんなことに構ってられるほど暇じゃないんだ。いいかい、その代わりに茂作さんを頼むぜ。けっして粗末にあつかうなよ。今日あんたが示した謝罪の意味を、けっして忘れるなよ。俺も、あんたが見せた誠意をしっかりと覚えておくから
そうね、そうよね。本家が邪魔をしてたのね。だからなのね。だけど、情けない男。女のために命をかける位の気概はないの? 見なさいな、タケゾーを。わたしの為なら、どんなことも
 小夜子が傲然と、頭を下げる庄左ヱ門を見下ろす。ふんっ! とばかりに鼻を鳴らしながら、口角も少し上げた。小夜子が見せた恍惚の表情だったが、一瞬だったこともあり、だれに気付かれることもなかった。

 庄左ヱ門は、武蔵になにやら耳打ちしたあとに退出した。当主自身の、まさかの出席に席を用意していなかった大婆が、どうしたものかと思案の最中のことだった。
「少し身体の具合がわるいんで、これで失礼させてもらいますわ」と付き添いからの申し出に、
「そんなお身体なのに、わざわざのお越しとは。ありがとうございました」と、大婆が、頭を畳にこすりつけて見送った。そして初江にたいし、「ほら。門までお見送りせんか、ほんに気のつかぬ嫁じゃて」と、これみよがしに叱りつけた。
 玄関先の土間で村人たちのはきものの片付けをしていた初江には、庄左ヱ門の帰り支度などわかるはずもない。なのに初江を呼びつけて、村人たちの面前で罵倒する。繁蔵はもちろん、家族一同が大婆に嫌悪感をもった。しかしだからといって、なにかができるわけでもない。ただただ初江にたいして、同情の念をもつだけだった。

(二百二十四)

 金屏風を背にして、武蔵と小夜子がすわる。小夜子の横には、茂作が仏頂面ですわっている。そして武蔵の横には、大婆が陣どっている。ふたりに向かって右の列には、助役以下村役場の面々がすわり、左の列には、繁蔵以下の縁戚連が陣どった。あとの村人たちは、そこかしこに十人程度が集まって車座をつくっている。その集団がひいふう、みい。三つできあがっている。
 竹田家の本家分家と隣家のおなご衆が、総勢十二人で忙しく立ちまわっている。武蔵が連れてきた料理人たちが用意する料理を、あちらへこちらへと運びまわる。そんな宴席の支度にかり出されたおなご衆全員には、男どもには内緒の化粧品セットが武蔵から先夜に届けられていた。
「こんな田舎じゃ、のお」と口々にグチりながらも、口元がゆるんでいる。さらには、竹田家の女子衆には、明日いち日が休息日に当てられている。
「明日は、なーんもせんでええ。畑仕事もおさんどんも休みじゃ。町に出かけるも良し、ここでおしゃべりするも良し。好きにしてええ。男どもには、茶漬けでも食べさせておけばええ」
 大婆のひと声には、誰も逆らえない。茂作はたったひとりの例外ということになる。ただそれが為に、これまでは縁者からの白い目にさらされてはいたが。しかし本日ただ今よりは、それも笑い話と化してしまうことになる。

「先ずもって、村を代表してお礼を言わせてもらいます。多額の寄付金にとどまらず、奨学金制度まで考えていただいて。ありがたくお受けさせていただきます」
 顔を赤くして謝辞を述べる助役。武蔵に酒を勧めたあと、こんどは大婆に深々とお辞儀をする。
「婆さま、じつにおめでたいことで。これで、繁蔵さんの村長就任も決まったようなものですわ」
「なんの、なんの。日本一のお婿さんのお陰じゃて。そんなお婿さんを見つけてきた小夜子のお手柄じゃ。のお、繁蔵」
 しわだらけの顔を、さらにくしゃくしゃにしている大婆に、
「村を出ると聞いた時には、澄江の二の舞にならねば良いがと心配しましたがの。まさかこんなことになるとは」と、相好をくずす繁蔵だ。

「茂作さん、ほんにおめでたいことで。日の本一のおむこさんをお迎えなすった。ご本家さんにも、鼻が高かろうて。色々ありなすったものな。の、の、の」
「むこさん、ありがとうございますの。こんなにごうせいな祝いの席に呼んでいただけて。それに、家の者にも気をつこうてもろうて」
「ほんに、ほんに。見たこともない菓子をもらって、大よろこびしとります。ただ娘たちが、小夜子さんにつづけとばかりに、のお」
 新郎である武蔵のもとに大勢の村人が集まってきた。皆がみな、いち様に武蔵を褒めそやす。武蔵は、娘婿である。本来ならば喜ぶべきなのだが、茂作の機嫌はすこぶるわるい。

「この男はじつになさけけない。軍隊時代、かわやのそうじばかりさせられていての。みなに馬鹿にされていたのよ。大正生まれの、なんじゃく男よ」
 このことば、一同に大きな衝撃をあたえた。軍隊の中において厠番になるということが、どれほどの屈辱感を与えられるか、みながみな、身にしみていたからである。しかし当の武蔵は、しれっとした顔つきで答えた。
「あれは、いい経験でした。現在のわたしを、あの経験が作り上げてくれましたよ。かわやというところはですね、人間の本性が現れるところです。本音が出るところです。将校たちから情報をしっかりと収集させてもらいました。そのおかげで、終戦後にしこたま儲けさせてもらいました」
 武蔵の闇市での奮戦ぶりは、もう村人たちすべての知るところになっている。五平がたたき上げの武蔵であることを知らしめ、運が良いだけの成金ではないことを吹聴していたのだ。

(二百二十五)

「なるほど、なるほどの」
「ほお、ほお。そういうもんですか」
「わしらみたいな凡人には、とうてい分からんことがあるんですの」
「ふん。地べたにはいつくばって、米つきバッタみたいにぺこぺこじゃろうが」
 なおも茂作の武蔵にたいするぶべつはつづく。
「いい加減にして! おめでたい席で話すことじゃないでしよ!」
 とうとう小夜子が茂作にかみついた。
「ははは。茂作さん、ちいと飲みすぎたかい? あんたは小夜子さんをよめに出すのがいやなんじやろうて。それこそ正三坊ちゃんが相手でも、気に入らんようじゃから」
「ここでけの話ですがの、むこさん。会社というもんは、もうかるもんですかいの?」
「バカタレが。会社じゃからもうかるんじゃねえ! むこさんじゃからもうけなさるんじゃ」
「はは。まあ、そういうことでしようか」
「ふん、まともなやり方はしとらんわ。手が後ろに……」
「おじいちゃん!」と、小夜子が茂作を叱った。

 茂作の了見とは裏腹に、武蔵の評判はすこぶるいい。この披露宴には、村民のほぼ全員が招待されている。来ていないのは、現村長の息のかかった一部の者だけだった。しかしそこにも、そして足を運べぬ病人にたいしては、自宅に料理を運ばせた。子供たちに対しても、チューインガムやらチョコレートやら、ついぞ見たことのない菓子類が配られた。子供たちの目は爛々とかがやき、あるものは口いっぱいに頬張り、あるものはペロリペロリと舐め、あるものはしみじみと見つめている。
「また届けるから、大丈夫!」
 武蔵の声に、大歓声が上がった。

「婿さんよ、ちょっと」。ひとつの座から声がかかった。
「なんでしょう?」。茂作の口撃にへきえきし始めていた武蔵が、すぐに席を立った。
「婿さん、あちらではおモテになるでしょうな」
「どんな具合ですかの?」
 嫁を娶っていない村人が、目を輝かせて聞いてきた。
「都会のおなご子らは嫁さんになっても、やっぱりあれですかの?」
「小夜子よりべっぴんは、おらんですかの?」

「いやいや、都会の女は、いかんです。男をすぐに、値踏みします。金持ちには媚を売って、貧乏人は鼻にも引っ掛けません。けしからんもんです、まったく。わたしもね、いまは儲けていますから良いんですが。不景気風の吹いているおりは、散々でした。見向きもしません。しかし小夜子はちがいました」
「へえへえ。ちがいますか、田舎の娘は」
 よだれをたらさんばかりに、身を乗りだしてくる。
「小夜子はちがいました。どんなに金を見せても、はじめはなびきませんでした。驚きましたよ、実際」

(二百二十六)

 気づくと、二重三重の人垣になっている。他の座からも、若い男たちが集まっている。都会生活のことを知りたがる者もいれば、都会の女を嫁にできないかと考える者もいた。そんななかのひとりが、こんな田舎から出て行きたいと言いだした。、すると酒の勢いも手伝ってか、ほぼ全員の口からでた。
「おやめなさい。生き馬の目を抜くところです、やめた方がいい。社会もそろそろ落ち着いてきました。ひと山当てるには、ちょっと遅いですよ。失礼ですが。大学出ならばいざ知らず、まともな教育を受けていない者では。戦後の混乱は、もう収まりましたからね。いまから勉学にいそしむ気概を持っているなら、わたし、応援しますよ」
「いやあ、いまさらなあ。力仕事ならいざ知らず、勉強はもう……」
「そうですかあ、都会の女はだめでかか」
 落胆の色を見せながら、それぞれの座に戻った。

「ううむ……」
 ひとり唸っている茂作に、繁蔵が声をかけてきた。
「茂作、良かったぞ。大婆さまの許しもでたから、これからは本家にも遊びにこい。初江が気にしとるから」
「いや、わしも色々とあって。まあしかし、寄るかもしれんが……」
 気乗りのしない口調で答える茂作だが、村長選のことかい? まあ、応援はするがの≠ニ、大婆の腹の内はわかっていた。
「ムコさんは、中々の男じゃないか。ツボを心得とる男だ」
 ポンポンと肩を叩きながら、繁蔵が満足げにうなずく。しかし茂作には、武蔵のやることなすことが、腹立たしくてならない。茂作自身が小夜子に対してしてやりたかったことを、いま武蔵が為している。
わしだって先物がうまくいったならば、このくらいこと、いやもっと派手にやってやったわい。たまたまうまくいったのが、この男というだけじゃ
 恨めしげな視線を、武蔵に向ける茂作だった。

 小夜子の元には、佐伯家からただひとり出席した幸恵だけがいる。すこし前に顔を真っ赤にした若い男が、
「小夜子さま、おれッチにだれぞあてがってもらえんか? まあお婿さんには負けるけど、この村では1番の稼ぎ頭なんじゃけど」とからんできた。すぐさま
「ムリよ、ムリムリ。あんたの稼ぎなんて、都会の人に比べたらこーんなに差があるわよ」と、幸恵がかみついた。
「なんなら、幸恵ちゃんでもいいんだけど?」と、こんどは幸恵にむけた。
「でもとはなによ、でもとは。だれがあんたなんかを相手に選ぶもんですか。あたしだってね、その内に出て行くんだから。もう正三兄さんには頼んで」
 小夜子の前であることを、怒りの前に失念してしまっていた。あわてて口をおさえて
「ごめんなさい、あたしったら。この席で口にしちゃいけないことでした」と頭を下げて、
「あきお! あんたが悪いのよ。ほらっ、あんたもあやまってよ!」と、一緒に頭をさげさせた。

「いいの、いいの。正三さんには、あたしもあやまらなきゃね。その気にさせておいて、結末はこうだから」
 引きつり気味の笑顔でもって、幸恵にこたえた。そしてあきおと呼ばれた男には、
「ごめんなさいね。あたしの知ってる人にはムリそうだわ」と、冷たく言うだけだった。
「ほら、ほら。あっちで呼んでるわよ。はやく戻んなさい」と、幸恵が追い払った。
「それでですね。ああもう、はなしの腰をおられて、どこまでお話しましたっけ」
 相変わらず小夜子が転げまわって笑えるような話を聞かせる幸恵だった。