(二百十)

 茂作にそしられつづけた正三、小夜子に絶縁を宣された正三。しかし落ち込んでいる暇はない。省内の廊下を歩くおりには、かならず五三会の面々がうしろにつづいている。
「佐伯さん、佐伯さん」
 いつものように背筋をのばして歩き、すれちがう省内の者にたいして慇懃な挨拶をかえす正三を呼ぶ者がいる。
「誰だ、あれは?」
「M無線じゃないか? テレビジョン製造問題で、通産が揺れてるらしいじゃないか」
 大柄な体を小さくしてもみ手をしながらに、男が正三に近づいてきた。
「今晩、なんとかお時間をいただけませんか? ご高説をお聞きしたいと思うのですが。ちょっと趣向を変えて、キャバレーなどいかがです?」
「M無線さん。なんだよ、そりゃ。そんな下世話な所に、坊ちゃんを連れて行くって言うのかい?」と、山田が言う。
しかし「いや、案外面白いかもな? ドレス姿の女給というのも、いいじゃないか」と、坂井がのをふるう。同僚たちが「ああいった所も、案外に面白いもんだな」と、始業前にに話しているのを聞くとはなしに耳にしていた。
「そうですよ。たまには毛色の違った遊びをしましょうよ。ちらりちらりと、見えそうで見えないというのも良いものです」
 なんとか正三の興味を引こうとするM無線に対して「ぼくになんの用です? お宅にはかれる便宜はないですよ」と、連れない正三だ。
「そうそう、テレビジョンは我々の管轄外だからね。通産に行かなきゃ」
「いじめないでくださいよ。お願いしますよ、ほんとに。他意はないんですから。日々の疲れを取っていただきたいだけなんですから」

「とに角、今夜はだめです。」と、にべもない正三。
「アポイントを入れなきゃ、坊ちゃんは忙しいんだ。今夜は、先約がはいってるし」
 快活に笑いながら部屋の中に消えていった。
「ところで、坊ちゃん。面接は済みましたか?」
「だれの?」
「だれのって、坊ちゃんのですよ。東京大学法学部ですよ」
 入省したての頃の正三ならば、こんな横柄な口の利き方はしなかった。しかしいまは、一段見下ろしてのことば遣いになっている。
「ああ、あれね。先月済んでる、入学許可証も届いているよ。まあ、籍を置くだけのことだし。しかも、二年間だけね。ぼくも地方と言えど、大学は卒業しているんだからね」
「ですよね、当然さ。坊ちゃんが一時的にせよ、郵政省から離れるなんて、考えられないよ。なにしろ、電波行政のエキスパートなんだから」
「そうだ、そうだよ。二、三年もすれば、主査だ。ですぐに係長に。そして最年少の課長職、という道があるんだから。しかし坊ちゃん、偉くなったからって、我々を忘れないでくださいよ」
「さぁ、みんな。仕事、仕事!」と、大声が響いた。
「おお、恐! 課長がおこってるよ、また。席に付こうっと」

「課長。局長への報告、済ませてきました」
 小柄な五十を数える杉田課長も、いまは正三に頼りきっている。乱雑に積み上げられた書類の陰から、くぐもった声が返ってきた。
「ありがとう、ご苦労さんでした。佐伯くんが行ってくれると助かるよ。本来ならあたしがご説明に行くべきなんだが、質問をされると困っちゃってね。結局、佐伯くんを呼ぶことになる。で、局長のひと声で佐伯くんになった。これからもよろしく頼むよ」
「課長、今晩の予定は大丈夫ですよね。ちょっと趣向を変えて、キャバレー辺りに繰り出そうかと思うんですが。お嫌いですか、そういった場所は」
 小声で正三が確認をする。
上司を手なづけるのも大事なことだ。飲み食いをしっかりさせて、お前のシンパにしておけ≠ニ、源之助からのご託宣がある。
「キャバレー? こりゃ意外だ。佐伯くんの口からそんなことばを聞けるとは。好きですよ、キャバレー。じつを言うと、その方が良いんです、あたしは。いまね、口説いてる女給がいましてね」
「それは好都合だ、そこにしましょう。ぜひにもその女給さんに会ってみたいものです。課長の好みの女性って、美人なんでしょうね。楽しみです、ほんとに」
「いやいや、あたしは美人はキライです。美人はお高くとまって、面白味がない。客を客とも思わぬ人ばかりです。客がご機嫌とりをさせられてる、じつにけしからん!」
そうだな、たしかに。美人は、気位が高い。ちやほやされないと気がすまんらしい。そして意地悪な面がある≠ニ、つい小夜子を思い浮かべた。

ホテルのロビーでの一件は、すくなからず正三のプライドを傷付けた。
たしかに連絡をしなかったのはぼくの落ち度だけれども、あんな公衆の面前であれほどに罵倒されるとは。一介の学生だった昔ならいざ知らず、いまは逓信省に勤める身だ。民を指導する立場にあるぼくだ。幸いぼくを知る者が居なかったから良かったものの、大恥をかいてしまった
 腹立たしさを抑えきれない正三だ。自席に戻りはしたものの、書類の文字が躍っている。引出しのタバコで一服し、気持ちを落ち着けようとした。小夜子にたいする思いが薄れたいま、現在のおのれに尊敬の念を抱かないことに疑念を感じた。
御手洗武蔵とかいう市井の商売人ごときと比較されるとは、いかがなものか。国家の大事業にたずさわるぼくを見下すがごときふるまいは、断じて許せない。たしかに不実な面があったことは否めない。それはぼくが悪かった。しかし機密事項の作業中だったんだ、それは理解すべきだ。
 どうせ、金だろう。金のために、身体を許してしまったのだろう。それをぼくに知られることが怖くて、なじられることが怖くての、あの態度さ。正直に打ち明けてくれれば、ぼくにしても分別はある。事情がじじょうなんだ、許すことがあったかもしれないのに
 一本の煙草を二度ほど吸っては消し、すぐに一本に火を点けてまた消す。
そんな繰り返しをつづけながら、終業の時間を迎えた。

(二百十一)

 杉田の先導で、きらびやかなネオンサインの下を歩いた。キョロキョロと辺りを見回す正三に、
「坊ちゃん、まるでお上りさんですよ。恥ずかしいからやめてくださいよ」と、上本が正三の袖を引っ張った。
「だって、はじめていや二度目なんだぜ。ここが夜の銀座という所かい? いやあ、凄いねえ。まったく別天地だ。日本復興のすさまじさを、たしかに感じるね」
 上本の言などまるで意に介せずに、立ち止まってぐるりと見渡したりしている。
「坊ちゃん、坊ちゃん。ほら、あそこで婦女子が笑っていますよ。あれれ、手なんか振り出した。ひょっとして知り合いですか?」
 小山の指さす先を見ると、正三たちにたしかに手をふる女性がいる。
「あれえ? 誰だあ、彼女は。手招きしてるじゃないか、行かなくちゃならんのかな」と、車の行き交う中に飛び出さんばかりに正三が動いた。
「おいおい、佐伯君。いかんよ、そいつは。今夜はぼくの店に行くんだろうに。もっとも、支払いは佐伯君に任せるんだから、強くは言わないけれども」と、杉田がこぼす。
「いや、課長。そうじゃなくて、あそこの女性が手招きしてますので、行かなくちゃならんのかなと」
 真顔で言う正三に呆れかえる杉田だったが、いまだに純朴さを残す正三がまぶしくも見える。
「坊ちゃん。あれはですね、自分の店に呼び込もうとしているんです。指名客のいない女給が、カモを釣ろうとしているんです。小山、からかうのもいい加減にしろ。本気にしちゃってるぜ」

「仕事にゃ強い坊ちゃんも、女にはからきしか? そりゃそうと、あの女性とはどうなったんです? ほら、初恋の」
 小山の話に、慌てて山田と坂井の二人が止めた。
「その話はやめろ! 機嫌が悪くなっちまう」
「終わったんだ、その女性とは。お前、聞いてないのか!」
「性悪女だったんだよ、二股なんかかけたりする」と、上本がつけ足した。
「小夜子さんのことか? あの人は、もう小夜子さんじゃない。ぼくの知る小夜子さんは、新しい女性だった。けれどいまの小夜子さんは、まるで俗物だ。物欲に憑かれた、哀れな女性さ」
「なんだ、佐伯君。失恋をしたのかね? よし、あたしに任せなさい。伴侶は局長が見つけてくださるだろうから、都合の良い女を見つけてあげよう。キャバレーの女も、良いものだよ」
「そりゃいい。課長、good ideaですよ」と、上本が得意の英語を披露した。と、すかさず小山がからむ。
「上よ! アイディイアと、イントネーションを強くしろよ。それにグッドはないぞ、ドは」

「ここは日本国だ。アメリカ国じゃないんだ! 日本のアクセントで良いんだ。なあ、上ちゃん」と、正三が援護する。いつもは泰然として、五三会の面々の話には割り込まない。その正三が、今夜ははしゃぎ回っている。 顔を見合わせて不思議がる面々だが、そんな彼らを後目に、
「さあ、着いたぞ! キャバレー・白いばらだ。ぼくの大事な、薫さまはいるかな。薫さまー!」と、杉田の嬌声がひびいた。
 木造三階建てで、SHIRIOIBARAという英文字のネオンサインが入り口上にあった。建物の壁には巨大な日本地図が描かれてあり、県ごとに女給たちの名札が貼られている。「女性は素人 あなたはもてる 夜の大人の遊園地」というキャッチコピーと、「あなたの郷里の娘を呼んでやってください」のキャッチフレーズで人気を博している。
 呼び込み役の若い男から、「いらっしゃいませ、杉田さま。薫さんがお待ちですよ」と声をかけられ、「今夜は大勢さまでのお越しで、まことにありがとうございます」と、深々とお辞儀をされた。
「ありがとう、ありがとう。今夜はね、部下を連れてきたよ。サービス次第では、若い連中のことだ、日参するかもね」と上機嫌で応えながら、中に入った。

(二百十二)

 きらびやかなネオンの光に、星々の光も弱々しい。浮かんでいる月もまた、寂しげな色に見える。この星空の下で大勢の家族が生の営みをつづけている。三世代、四世代の大家族もいれば、親子三人四人の小さな家族がいる。ひとり暮らしの青年もいれば、夫婦ふたりだけの世帯も――そこに思いが至ったときに、正三の思考が停止した。
 夫婦ふたり――瞬時に小夜子がうかび、すこし遅れて黒い影だけの人物が浮かんだ。本来ならば正三が居すべき場所に、、にやけた口元だけが明るい男が、正三を見下す男いた。
「若造。おまえごときには、小夜子はもったいない。小夜子を光らせられるのは、おれなんだ」。
 小夜子を引き寄せる影に、小夜子が科をつくる。そして小夜子の口元がゆがんだ。なにかを正三に告げている。しかしそれがどんなことば言葉なのか、正三には聞こえない、感じ取れない。小夜子に苦痛の色があらわれたような気がした。正三に助けを求めるように、眉間にしわを寄せているように見えた。思いを絶ったはずの小夜子なのに、正三の眼前にあらわれた。頭をふって追い払おうとするが、すぐにまたあらわれた。

「かおるさまー!」。杉田の嬌声に、我にかえる正三だった。
「なんだなんだ、薫さまだ? ほんとに杉田課長なのか? あの仏頂面しか見せない、我らの上司の杉田課長かい?」と、たがいの顔を見やった。
「公私の私だよ、いまは。遊びに来たんだよ、分かっているのかな? 浮世のアカを落とすために来たんだよ。ねえ、佐伯君。きみは、わかってるよね?」
 杉田自身もにやけすぎたかと、言い訳がましいことばを発した。
「課長、においだけで酔えるのか? だとしたら、ほんとに安い酒だぜ」
「料亭での課長とは大ちがいだ。石部金吉でございって顔だったもんな」
「かみしもなんか着てたよ、ちょこんと座って」
「芸者相手じゃ、騒げなかったんだな」
「いまの課長、好きだぜ。ぜえったいに、こっちの課長がOKだ!」
 店内に足を入れた途端、別世界に入りこんだ。赤を基調とした内装が、華やかな雰囲気をかもしだしている。天井の大きなシャンデリアの下に数多くの電球が光り、その光を増幅させる大鏡、至るところに置かれている白いバラの造花たち。そしてそして、大きなステージがある。ブラスバンドの演奏するなか、金銀のラメで飾った衣装でのダンスショーが始まっている。料亭での芸者たちのあで姿とはちがう、三味線の音に合わせた優雅で艶っぽい踊りともちがう、非日常がそこにはあった。

 店内を肩を組んで歩く五人に、三人連れが正対した。
「おい、わかものよ。敬意をはらえ!」と、しこたま泥酔している中年男が毒づいた。身構える正三たちに対して、あわてて「すみませんねえ、ちょっと飲み過ぎてしまって」と、もうひとりの男が頭を下げた。
「敬意だと! うん、そうだ。君たち庶民には敬意を払わなくちゃな。我々官吏のために、まいにちせっせと働いてもらい、税金を納めてもらう。我々は国家のために奉仕して、俸給をもらう。な、だから、庶民の皆さまは、ご主人さまだ」 
 杉田の、小馬鹿にした声に、「そうだ、そうだ。天下国家のために働く我々は、庶民の方々からの浄財でくらしていけるんだ」と、正三がつづいた。
「なんだと、こら! おまえたちは、官吏さまか! そうか、そりゃどうもありがとう。うちの会社はな、事務機をあつかってて、世話になってますよ。こいつは、毎度どうもってわけだ」
 いまにもその場に崩れ落ちそうになっていた泥酔男が、直立不動の姿勢をとって敬礼をした。「ほら、おまえもせんか!」。苦虫をかみつぶした顔つきの連れに対して、脇腹をつついて催促した。
「お世話になっております!」 
 薄ら笑いをうかべるふたりが、正三たちを軽蔑している観が見てとれる。偉そうにしやがって!=B腹の中の声が聞こえてくる。

(二百十三)

 店の中から女給たちの嬌声に送られて男たちが出てきた。皆がみな高揚した観で、ほほがゆるみっぱなしだ。中には女給に抱きついて「キスしてくれなきゃ帰らないぞ」と懇願したりする者もいた。
「それじゃ、もういちど入る?」。「こらこら、もう帰るぞ」。そんな会話が聞こえる中、別の一団がボーイに促されて店内に入っていく。赤い幕が開けられると、大音量のブラスバンドの音が漏れてきた。と、今のいままではしゃぎ回っていた正三が、とつぜんに黙りこくった。

 キャバレーと聞いたときに正三の頭に浮かんだのは、はじめて東京の地を踏んだあの日のことだった。「生バンド演奏を聞きたいわ」。駅のホームに降り立ってすぐの、小夜子のことばを思い出した。あの日は、小夜子に振り回されつづけた一日だった。腹立たしいはずの、屈辱的な一日だった。はずなのだ。しかしそれがいま、正三の胸を甘酸っぱさで一杯にしている。
 そしてあの再会では、一方的に詰られた。正三の不実を、これでもかとばかりに責め立てる。正三の情交を、汚らわしいものと責め立てる。そしてひと言の弁解も許さない。最後にとどめとばかりに発せられたことば。「男らしくありませんことよ!」。正三の胸にぐさりとくることばだ。
ぼくを非難するけれど、小夜子さん、あなたはどうなのですか。みたらい某という男とは、どのような間柄なのですか? もう、もう、もう……。あなたの操は……=B情けない、みっともないことだと、おのれに言いきかせて、
他人を非難しても、己を正当化することはできないんですよ=B喉まで出かかったことばを、ぐっと飲み込んだ正三だった。それを口にすることは、己の非を認めることになる。おのれの発したことばに、正三自身が縛られることになる。

 複数のトランペットが高らかに鳴りひびく店内、その喧騒の中をボーイの先導でボックスに着いた。そこで山田が噛みついた。
「なんだ、この席は。馬鹿にしているのか、我々を。高級官僚としての道を順風に歩いておられる坊ちゃんを、こんな席に押し込めるとは。課長! 出ましょう、こんな無礼な店はだめだ」
「お、お客さま。大勢さまのお席は、ただいまのところ此処だけでございまして。すこしの間、ご辛抱ねがえませんでしょうか」。先導したボーイがあわててあやまった。
「許せんなあ。なるほど、この込み具合だ。多少のことは我慢しよう。しかし手洗いのわきというのは、言語道断だ」
「きみ、マネージャーを呼びたまえ。山田くん、ボーイ相手ではいかんともできんよ」。見かねた杉田が口をはさんだ。
「ターちゃん、いらっしゃ〜い! あらあら、何をおこってるのかな、ハンサムボーイたちは」
 妖艶な雰囲気をただよわせる女給が、課長の杉田に抱きついてきた。よりによってこんな席にと、その笑顔の下では思っている。入りたてのボーイでは対処できないだろうと、あわてて着いていた席から飛んできた。

「薫ちゃん、マネージャーを呼んでよ」。泣き顔をみせながら杉田が言う。素知らぬ顔で「どうして?」と薫ちゃんと呼ばれた女給がききかえす。
「坊ちゃんの、はじめてのキャバレーだというのに、なんでこんな思いをさせられるんだ。じつに情けない」。「たしかに! あまりに失敬だ」。「我々だけのときでさえも、こんな場所には着かない」
 小山と坂井がかみついた。杉田は怒り出した部下を、ただただオドオドと見るだけだ。正三自身も、この場所には納得がいかない。腹だたしくも思う。しかしここは小夜子の働いてたキャバレーではないのか? そんな思いがわいている。店の名前を聞いたわけではない。ただキャバレーで、と聞かされただけだ。たとえちがう店だとしても、おなじキャバレーなのだ。
 すぐにも席を立ちたい、いや立たねば男がすたる、そう思う。しかしその裏では、小夜子の、ある意味神聖な場を汚してはならぬ、そうも思えている。

(二百十四)

 いつもは寡黙な上本が、「いつもの料亭に行きましょう、坊ちゃん」と、席を立った。料亭ということばに、薫のこめかみがぴくりと動いた。
「お兄さん、なにを怒ってるの? この薫さんにおっしゃいな。たちどころに解決してあげるから」
「場所だよ、ばしょ。なにが悲しくて、こんな所で飲まなくちゃいかんのだ。我々は、日本国家をささえる官僚だ。さらには、この方は、未来の事務次官さまだ。官僚の頂点に立たれるお方だぞ」
「そうだ! そのお方が、いつもの料亭をやめて、庶民の娯楽場なるキャバレーに来られたのだ。それをだ、このような便所の、ええい。口にするのもはばかられる」
「けしからん!いくら課長の店といえども、けしからん!」と、山田を制して坂井が声をだした。そして次には小山が吼えた。

「薫ちゃん、なんとかならないだろうか? この佐伯くんはあたしなんかとは違い、由緒正しき方なんだ。店にとって、決して損にはならないお方だ。なにせ、毎夜のごとくに接待攻勢を受けているんだから」
 次々に席を立つ部下をなだめながら、手を合わせんばかりに杉田が言う。薫にしても、こんな狭いテーブルに六人を案内したことには合点がいかない。
空いている席に案内するだけなら猫にもできる。差配のセンスの欠片もないボーイは、田んぼのかかしより始末がわるい≠ニ、腹が立ってきた。
マネージャーはなにをしているの。あたしだけでは手に負えない状況だということが見えないの? 上客みたいなのよ、この方たちは

「申し訳ございませんでした、杉田さま。当方の手違いで、このような場所にご案内いたしまして。ただいまお席のご用意ができましたので、どうぞお二階の方へ」
 薫の悪戦苦闘ぶりに気づいてはいたが、もう少し時間をかせいでくれと願うマネージャーだった。杉田の来店には気づいたのだが、いつものひとり来店と決めつけてしまったことを悔やんだ。そして正三に対する他の者たちの気の遣いようから、相当の上客になると判断もした。
「本日のご会計は、大サービスさせていただきますので」と、杉田に耳打ちする。それがとなりに陣どっていた正三に聞こえた。
「不愉快です、ぼくは。金をけちろうなどとは思わない。楽しませてもらった分だけは、きちんと正当に払います。信用できないと思われるなら、前金でもいいんだ!」
――職員の前では、尊大にしろ。店の女どもになめられるようなことはするな。金払いもキチンとしろ。高いと思っても、決してケチるな。同僚、上司でもだ。正三、お前がおごってやれ。そのかわり、業者には払わせろ。ただし、全額はダメだ。少額でもいいから、わたしの分ですと渡せ――
 叔父の源之助から、事あるごとに聞かされている。

 慌てたマネージャーが、平身低頭して詫びのことばを並べた。
「男だねえ! 気に入った。ターちゃん、ほんと良い男を連れてきてくれたわね。マネージャー、勝負よ。このハンサムボーイと、あたしたち女給との勝負よ。なんとしても、楽しんでもらいましょ。満足してもらえるように、せいぜい尽くしましょう。そうと決まったら、秀子さんと光子さん幸子さん、それから……選ぶのも面倒よ。全員呼んじゃえぃ! 入れ替わり立ち代りと行こうじゃないの」
 急ごしらえのボックスは三つのボックスをまとめたもので、通路を塞いでしまっている。ボーイたちの動きがぎくしゃくとして、それが正三たちの笑いを誘った。
「課長、薫さんは女傑ですね」
「だろう? あたしは、いつも叱られているんだよ。でもね、それが不思議と良い気持ちになるんだよ」
「ターちゃん。叱ったあとの、これがだろ?」と、杉田の頭をなでる仕草をした。にやけ切った杉田の顔が、また笑いを誘った。
「秀子さ〜ん、ぼくにもしてよ〜!」
「光子ちゃ〜ん。僕は、接吻して欲しいよ〜!」
「だったら俺は、このスカートに潜り込みた〜い!」
 あれほどに怒り狂っていた面々が、各々に着いた女給相手にふざけ合っている。しかし、ひとり正三だけは入りこめずにいた。
こんな場所で、小夜子さんは……。どんなにこころ細かったことだろうか。誰かを頼ったとしても、だれがそれを責められようか。ああ、ぼくは何てことをしてしまったのか
 あれこれと話しかけてくる女給を見るたびに、その誰もが小夜子に思えてしまう。

(二百十五)

 ブラスバンドで演奏されるインストゥルメンタル。グレンミラーの演奏が流れると、一気に店内が盛り上がった。女給たちに促されて、客がダンスに興じはじめた。五三会の面々もそれぞれのパートナー相手に、ダンスに興じだした。杉田もまた、薫のリードよろしく踊っている。軽快なスィングジャズに乗って、みなが幸せいっぱいの表情を見せた。そんな中、ひとり正三だけは、良心の呵責にさいまれている。
「どうしたの? お坊ちゃん」と、正三を持て余し気味の女給だ。
“あーあ、こんやは厄日だわ。約束してた馴染み客は来ないし、上客だと思った男は軟弱者だし。こんなの、どうしたらいいって言うのよ。薫さん、なんとかしてよね”
 ちらりちらりと正三に視線を送る薫、女給としての器量不足が恨めしい。
“千景さんったら、なにやってんの! ふさぎ込んでる男なんて、簡単でしょうに。ああもう、じれったい!”
「千景さん、あちらのテーブルに回ってください」と、マネージャーが肩を叩く。そして「お客さま、中原ひとみさんです」と、目をくるくる回す女給を連れてきた。
「なんだって? 中原、ひとみだって? ぼくはね、嵯峨美智子さんが好きなんですがね。こんなやせっぽちは嫌いだね」と、不機嫌に口をとが尖らせた。
「いけ好かんたこ!」と、とつぜんに正三の頬をつねってきた。
「痛いじゃないか!」と、正三が真顔でおこった。しかし素知らぬ顔で、正三の顔をひょっとこ顔にしてしまう。

「ここで、そんな難しい顔はあかんて! 楽しまな、損やないの。ね、しょう坊」と、正三の口に吸い付いた。
チユッ、チユッ≠ニ、二度三度と繰りかえした。
「な、何をするんだ! そんな、ことはして、ほし……」。ことばとは裏腹に、ざらついた気持ちが和みはじめた。
「ねえ、しょう坊。なんでそんなに怒ってはるの? お仕事がうまく行かなかったん? 大丈夫よ、つぎは良いお仕事ができますって」
「しょ、正坊とは! 馬鹿にしているのか、ぼくを。初対面の君に、なんでそんな風に言われなきゃならんのだ。女給風情に馬鹿にされるとは、じつに気分が悪い」

 ひとみの差し出すグラスを手にし、口に運んだ。
「な、なんだ、これは。酒か、こんなものが。苦いし、泡だらけじゃないか!」
「はじめてなん? ビールというお酒ですよ。おいしいですやん、うち好きやし」
 正三からグラスを奪い取ると、一気に飲み干した。
「お前の、その顔。ひげが生えてるぞ、あははは!」
 ひとみの口の周りの白いリングに、思わず笑い出した正三だ。
「ほんなら、しょう坊にも作ってあげるし」と、また吸い付いてきた。
「あらあ、だめやん。そうや、正坊も飲んでみいて。そうしたら、白いおひげができるし」と、溢れるほどに注がれたグラスを差し出した。
「いやぼくは……。こんな酒は苦手だけれど」と言いつつも、ちびりちびりと口にした。
「だめやって! ぐいっといかな、あかんて! ごくごくと喉を鳴らして飲み干しいな」

(二百十六)

「君はどこの生まれだ、どうにもことばづかいが変だ」
「関西ですう、兵庫県の明石という所ですわ。これでも、お父はんは子爵でしたんえ。けど戦争に負けてしもうては、あきません。もう、毎日まいにちグチばっかりで。暮し向きも立ち行かんようになってしまい、お母はんは病に倒れてしもうて。それでまあ、長女であるうちに一家の生計がのしかかってきたいうわけですう。とは言うても、なかなかに厳しゅうて。子爵という面子が邪魔しまして、あちらではどうにもならず。で、こっちゃならいいかな? と思って来てはみたものの、ここもまた難しゅうて」
「子、子爵さまあ? そ、そんなお方の娘が?……」
 あっけにとられる正三を、またひょっとこ顔にして吸い付いてきた。
「けはは。引っかかりましたな、しょう坊も。もうこっちゃの殿御は、みんな引っかかりはるわ。けはは……」
 大きく口を開けて、屈託なく笑うひとみ。呆気にとられる正三、といってまるで腹が立たない。むしろ特有のアクセントとも相まって、正三も笑ってしまった。
「坊ちゃん、ご機嫌のようで」
「なんですか、このやせっぽちは」
「坊ちゃんは、色気たっぷりの女が好みだろうに」
 ダンスと言えば聞こえはいいが、女給たちのからだにぴったりと密着して、ただ体を揺らせているだけだった。音楽の終了とともに、なごり惜しげな表情をみせながら帰ってきた面々が、ひとみの品定めをはじめた。
「いいんだ、いいんだ。たまには、茶漬けもいいさ」
「茶漬けって、しょう坊! そんな言われ方したの、はじめてやわ! やっぱり、いけ好かんたこやわ! おしおきよ」とばかりに、また正三の口に吸い付いた。
「やめろって、いいかげんに」
 
 とつぜん店内が暗くなり、スポットライトに照らされたマネージャーがフロアの中央に立っている。
「さてさて、紳士淑女の皆みなさま!」
「どこにレディが居るんだ!」と、正三が声を上げた。「そうだ、そうだ!」と、同調の声がそこかしこからあがる。
「それは失礼致しました。では訂正させて……」
「マネージャー! ここには淑女しか居ないのよ!」と、こんどはひとみが叫ぶ。
「とに角、ようこそのお出で、まことにありがとうございます。本日のビッグスター、天才マジシャンのご登場でーす! どうぞ万雷の拍手でもって、お迎えくださーい!」
 ドラムの音に合わせて、黒マントに黒のシルクハット姿の男が登場してきた。マスクに口ひげを生やした男で、「いよっ、待ってました。怪傑ゾロ!」とのかけ声に、「グラッチェ!」と声を張り上げた。
「なんだい、あれは。西洋式の奇術師かなんかかい?」
 はじめて見る異様な出で立ちに、正三が身を乗り出した。
「知らないの? いま、大人気なのよ。とにかくすごいの!」
 ひとみが身ぶり手ぶりを交えて、詳細に説明をする。しかしあまりの興奮ぶりに要領を得ない説明となってしまい、正三にはちんぷんかんになってしまった。

「と言うことで、どなたかいらっしゃいませんか?」
 助手の女性が、大きく手を広げている。しかしひとみの説明に耳を傾けていた正三たちには、さっぱりだ。
「はあい! うち、うち、やりたいわあ」と、ひとみが立ち上がった。
「おいおい、分かってるのか?」
「いいからいいから。体をのこぎりで切られるのよ、くふふ」
 唖然とする正三たちを後目に、るんるんとステージに向かっていく。
「坊ちゃんと話をしてたのに、聞こえてたってことなのか」と、不思議がる正三たちだった。それに、当然よと言いたげに薫が答えた。
「耳にはいるのよ、自然に。目くばり、気くばりして、なんぼの世界だからさ」

(二百十七)

 ステージ上には棺桶が立てかけられている。真っ黒な木製で、蓋を開けると光沢のある真っ赤なサテン地で装飾してある。ドラキュラの棺ですと紹介されるが、たしかにと思われるおどろおどろしい雰囲気をただよわせている。そしてマジシャンがその後方で、複数の剣をを手にしている。
「その剣れ、切れるの? ちょっとそこの紙でも、かみといっても神仏の神さまじゃないわよ。ちょっと切ってみて」と、ひとみがリクエストした。いいですよ、とばかりに神をふところから出して、ブスリと突き刺した。
「うわあ。ほんとに切れるんだ。恐くなってきたわ、うち。大丈夫なのよね、死ぬことはないわよね。うち、まだ男を知らないんだから、今夜は処女よ」
 笑いを誘ったのちに、
「この棺桶にはいるん? そしたらその剣でもって、ブスリブスリって刺していくのね。ほんまや、いっぱい穴が開いてるわ。で、わたしはどこに逃げるん? こんなせまい箱の中なんて逃げ道ないやん。どっか別の世界に連れ出してくれるん? んでなかったら、あたし穴だらけになるやんかあ。あかん、あかん。やっぱやめとくわ」と、ステージ上から降りようとする。するとそばにいたマネージャーが、「ひとみさん。いまさらあかんよ。大丈夫、だいじょうぶやて。あんたはそれとちがうから」と引きとめる。
「ちがうって、どういうことやねん。さいきん血の気が多いから、すこしぐらいやったら抜いてもらおう思うたんよ」
 口からでる関西弁に店内は大爆笑となるが、当のひとみは大真面目な顔で吠える。「あんたら他人ごとやおもうて、。かんにんしてえなあ、もう」
「あんさんには剣は刺さへんて。瞬間移動ちゅうのをやってもらうねん。あれれれ。うつってしもうたがな、関西弁が」
 マネージャーとの絶妙な掛け合いに、客の間からやんやの喝采を受けた。マジシャンも大きくうなずいて、胸をたたく。すこし黙ってとばかりに口に指を当てるマジシャンだが、ひとみの独演は止まらない。
「この箱にはいるのね。で、どっかお星さまのところに飛ばされるんやね? それじゃ皆さん、さようなら。二階のしょう坊、今夜はありがとう。もしこのまま還ってきいへんかったら、お線香の一本でもお願いね」
 ひとみに呼応するように、二階席の正三にスポットライトならぬ懐中電灯の灯りが当てられた。
「よおし、分かった。俺たちも、お焼香させてもらうよ」
「お経は任せとけ。偉ーいお坊さんに上げてもらえるように、頼んでやるぞ」と、あちこちから声がかかる。

「しょう坊! 好きよ、しょう坊。もしこの世に戻って来られたら、恋人にしてね」
 泣きまねをしながらの仕草に、どっと歓声が上がった。
「俺がなってやるよ」
「いやいや、わたしに任せなさい。極楽に送ってあげるから」
 またあちこちから声がかかった。客の声なのかスタッフたちの打ち合わせによる声なのか、笑いの渦で店内が大きく揺れた。木箱の中に身を横たえつつ
「いや! 今夜はしょう坊がいい! でも、明日はあんたかしら? とにかく、うちを指名してくれる殿御さんがいい!」と声を張り上げた。

 右方に左ほう、そして中央にと投げキスをしながら、二階席の正三にたいしては二度三度と繰り返した。もうマジックどころではない、ひとみひとりに掻き回されている。憮然とした表情を見せていたマジシャンも、両手を広げてあきらめ顔に変わっている。と、突然正三が立ち上がって叫んだ。
「ひとみ! 今夜も明日も、明後日もだ。ぼくがひとみの恋人だ!」
 みな、思わず顔を見合わせる。口をパクパクさせるだけだ。こんな正三は、誰も知らない。見たことがない。当たり前だ、当の正三すら知らない。酔いのせいだ=B誰もがそう思った、正三自身も思った。そして他の誰よりも、正三自身がいまの己に戸惑った。

(二百十八)

 棺桶の中に入れられたひとみが、ほんの数秒後にはこつぜんと消え失せていた。拍手喝采をマジシャンが受けた後、ステージの裾からひとみが現れ出るに至って、割れんばかりの拍手が沸いた。そしてメインの胴体のこぎり切断ショーでは、またしてもひとみの独壇上となった。
「それではこれから美女が、棺桶にはいりますう。ちょっとあんたにはせまいかもな。スタイルのいいわてに合わせて作られたみたいやもんな。さあ、みなさん。この美女がぶじにこの世に生還できましたら、是非とも拍手大喝采でお迎えを〜!」
「なに、この床は。お布団かなんか欲しいわあ。お尻が痛いやん。ちょっと、待ってえな。心積もりもありますさかいに」。美女を代弁するひとみに客の目がいってしまい、だれもマジシャンには注目していない。三本四本と突きさされ、十本の剣がぶじ刺さり終わった。ぐるりと台をまわすと、その検査機が飛び出ている。
「ああ、あ、あ、つるぎの刃が、白玉のような肌に当たってるう」
「あっ、あっ、痛い! あっ、あっ、閻魔はんがお迎えに。ちゃう、ちゃう、天使はんがお迎えに……」
 刺さっていた剣をすべて抜き終わるとこんどは、いよいよ大のこぎりで棺桶がふたつに切り離された。そしてその離された箱が再び戻されると、「あの世から戻りましたえ!」と大声で、ひとみが叫んだ。美女が入っていたはずの棺桶から、マジシャンに手を取られてひとみが現れたおりには、今まで以上の大歓声と万雷の拍手、そして指笛が鳴り響いた。
 にこやかに笑みを浮かべつつ、ひとみがマジシャンに耳打ちする。「血いがどばっと出ると、もっと盛り上がるんとちゃう?」。小声で話しかけたはずが、マイクロホンに拾われてしまった。
「そうだ、そうだ! ひとみの言うとおりだ!」。二階から、正三が大声で叫んだ。
 万雷の拍手で迎えられて得意満面のひとみ。苦笑していたマジシャンも、最後には拍手で送った。

 正三の泥酔ぶりは、翌日を二日酔いのために欠勤したことからも分かる。とにかく手に負えない状態におちいった。ひとみに対する執着心が店中のひんしゅくを買ってしまったほどだ。駄々をこねる幼子のように、ひとみを片時もはなさない。手洗いに立つときですら、「中にはいれ、一緒に連れションしよう」と、言い出す始末だった。
 中に引っぱり込もうとするに至っては、ひとみも穏やかではなくなる。
「堪忍え、正坊。やんちゃばっかり言う子は、嫌いになるでえ。お願いやから、おとなしゅうしてえな」
 それでも「いやだ! 秘密の扉があって、さっきの奇術でもって、他の場所に行ってしまうだろうが!」と、ゆずらぬ正三だ。

 指名客が来たおりなどは、ひと悶着だった。
 どうしても離そうとはせずに、終いには正三もそのボックスに行くと言い出した。「ひとみの恋人として、ご挨拶したい」と言う。これにはさすがのマネージャーも困り果てた。
「お客さま、お客さま。必ず、かならず、戻ってまいります。ほんの少しだけ、ひとみさんをお貸しください」
 ことここに至っては杉田としても、放っておく訳にはいかない。正三の嬌態を面白がりやんやと囃していたいた面々も、さすがに他の客からのひんしゅくの声に耳を貸さないわけにいかない。

(二百十九)

「ちょっとやり過ぎか?」
「出入り禁止なんてことにならんだろうな?」
「新聞沙汰になりでもしたら、とんでもないぞ」
「いやそこまでには、ならんだろうさ」
「いやいや、客のひとりが面白おかしく喋ったら……」
 ひそひそと話し合うが、今夜の正三を制御することは難しいことだった。
「佐伯君、局長の立場を考えなくちゃね」。杉田の耳打ちに、やっとひとみの手を離した。正三の急所を突かれた。どんなに酩酊していても、源之助を忘れることはない。じっとひとみを見つめる虚ろな正三。力なく、離れゆくひとみに手をふりつづけた。

――正三。酒は呑め、しかし飲まれてはいかん。
大局をみろ。実務は任せてしまえ。どうがんばっても、年次の差は大きい。
ものごとは俯瞰しろ。上から広くみるんだ。
上から目線はいかん。きちんとリスペクトしてやれ。彼らは敏感だ。
これだけは、肝に銘じておきなさい――
 源之助のことばが体に染みついている。訪れるたびに聞かされて、耳にたこができていますよ≠ニ思っていたものが、まるで身についていないことに気づかされた。酩酊状態になるなど、あの芸者と一夜を供にしていらいのことだ。醜態をさらけ出してしまったことが、五三会の面々にどううつったのか、頭を抱えてしまいそうだ。未練だ、みれんなんだ=B吹っ切れない己が情けない、正三を苦しめている。 

「なにを言ったんです? 課長」
「なに、大したことじゃ。佐伯君の急所を突付いただけさ。彼を黙らせる唯一をね」
「なんです、それは。後学のために教えてくださいな」
「いやいや、こればかりはね。さあさあ、飲み直そう」
「そうおっしゃらずに。我々だって手に負えなくなった時の、対処法を知っておきたいんですが」。食い下がる山田だが、杉田は素知らぬ顔で興にはいった。

「薫ちゃ〜ん。かおるちゃんは、どこにも行かないよね〜」
「は〜い! いかないわよ、ターちゃんのそばにいるわよ〜。 ターちゃんも、うわきしちゃだめよ〜」
 やたらと語尾を甘ったるく伸ばす様は、聞かされている身としては辛いものがある。
「わたしとしては、ありきたりの美人には飽きたんだ。良く言うだろ?『美人は三日で飽きて、不美人は三日で慣れる』って。さらには、『醜女の深情け』ともね」
 しっかりと薫の肩を抱き寄せて、心底の思いを語ったかのごとくに、満足げな表情をみせる杉田だった。「安らげるんだよ、薫のそばだとね」。
こんな痩せぎすのおばさんの、どこが良いんだよ=Bそんな思いを抱いていた面々だが、杉田のことばに妙に納得させられた。

“たしかに、美人相手だと気を使うかもな”
“最近は、鼻っ柱の強い女が多いからな”
“プライドの高い女は、ある意味疲れはする”
“すぐに指名が入って、じっとしていない。けしからん!”
“キョロキョロして、落ち着きがない”
 と思いはするが、それでも、“グラマーな美人がいい”が、本音ではあった。

(二百二十)

 ひとみと言う女、年のころは二十代前半か? 痩身の体型が若く見せるきらいがあると考えると、後半かもしれない。顔立ちは、不美人ではないけれど、美人でもない。正三の知る女性ー小夜子をのぞけば、年上ばかりだ。源之助の息がかかった女性で、正三の教育係りのようなものだ。
 痒いところに手が届かんばかりの対応をしてくれる。正三の目線の動きで察知し、口に出すまでもなくことが済む。選民だと意識させられている正三にとっては、じつに居心地が良い。
「いいか、正三。我々は選ばれし者なのだ。日本国民を正しい道に導くために選ばれたのだ。ユダヤ民族が選民であるように、我々官吏はお上に選ばれし選民なのだ。その自覚を常に持って行動をしなさい」
 はじめて源之助宅を訪れたおりの、訓戒だった。
 そんな正三を認めない女性ーそれが、小夜子だった。そしてそれが苦痛にならない正三だった。あの再会の日までは。小夜子さんも、いまのぼくをどう見てくれるだろうか? もう一人前の男として、認めてくれるだろうか? 尊敬の眼差しをくれるだろうか? そしてそして、ぼくの伴侶と、意識してくれるだろうか?
 それらことごとくが、裏切られた。官吏としての正三はもちろん、男としても認めはしない。どころか、非難の矢が矢継ぎばやに飛んできた。そしてよける間もなく、その矢は正三の胸につきささった。

 しかしいま、ひとみという女に出合って、正三の胸にはげしく燃えるものが生まれた。正三を見下すわけではなく、といって見上げるわけでもなく、正視するひとみ。
「おまたせ〜! しょう坊。美智子姉さん、ありがとうございました」
 嵯峨美智子ファンだと言う正三にあてがわれた女給は、たしかに色気たっぷりではあったが、正三の興は戻らなかった。襟をすこしゆるめに着付けている着物姿に、「ほお、色気ムンムンだね」と声をかける者もいたが、正三にはだらしなさとしか映らなかった。
「しょう坊、どうかしたん? 元気ないやん」
「そんなことはない」
「ウソ! あたしがおらへんかったから、泣いてたんやわ。よしよし、もうどこにも行かんからな」
 酔いつぶれたのかと思われていた正三が、とつぜんに身体を起こした。
「ひとみ、ひとみ! 何してたんだ? 淋しいなんてものじゃないぞ。ぼくは、生きる気力さえ失ったぞ。だめだ、ひとみと接吻をしないと、ひとみの口を吸わないと、元気がでなーい!」
 唖然とする一同を後目に、ひとみに圧し掛かっていく正三。
「はいはい。しょう坊、みんながびっくりしてるわよ。おいたが過ぎると、お尻ぺんぺんよ」

「坊ちゃん!」と、津田が裏返った声で、言う。
「今夜、店がはねた後なんですが、寿司でもおつまみになりませんでしょうか?」
「おいおい、声が変だぞ」
「いやじつは、彼女にいま、『ひとみさんと一緒なら良いわ』と言われたもんだから」
「なんだなんだ、どうした。口説き落としせたのか、おい。この野郎が! ひとりで良い思いをするつもりか?」
 小山が噛みつくが、他の者からは声がない。
「おいおい、ひょっとして、俺だけか? みんな約束、取り付けたのかよ。美佐江ちゃん、ぼくたちもなんとかなろうよ」
 すがるような目を向けるが、「ごめーん。今夜はどうしても、だめなの。次に来てくれた時には、きっとお付き合いするから」と、手をこすり合わせた。