(二百十五)
茂作にそしられた正三、そして小夜子に絶縁を宣された正三だった。しかし落ちこんでいる暇はない。とりあえずの大仕事は終えた。しかしその中身については、正三はまったくタッチしていない。ただ単に清書しただけだ。侃(かん)々(かん)諤(がく)々(がく)の議論にはまるでついて行けず、忸怩たるおもいをいだいた。情けなくもあった。しかしいまは違う。もちまえの勤勉さで用語集を読みあさった。それでも分からぬときには、恥をしのんで先輩である、深本・木田の両人に教えを請うた。
その真摯なたいどに感銘をうけた両人が課長の杉田を巻き込んで、正三と同僚――途中入省ではあるが年次がギリギリ同じであることからのことだ――坂井・山田に小山、そして上本の四人を加えての、五三会が生まれた。
「佐伯さん、佐伯さん」
正三はいつものように背筋を伸ばしている。そんな正三を、すれ違う省内の者に対して慇懃な挨拶をかけて追いかけるように呼ぶ者がいる。
「誰だ、あれは?」
「M無線じゃないか? テレビジョン製造問題で、通産が揺れてるらしいじゃないか」
「アメリカさんからの輸入でいいじゃないか、という話かい?」
大柄な体を小さくしてもみ手をしながら、男が正三に近づいてきた。
「今晩、お時間をいただけませんか? ちょっと趣向を変えて、キャバレーなどいかがです?」
「M無線さん。何だよ、そりゃ。そんな下世話なところに、坊ちゃんを連れて行くって言うのかい?」と、山田が言う。しかし
「いや、案外面白いかもな? ドレス姿の女給というのも、いいじゃないか」とは、坂井の弁だ。
「そうですよ。たまには毛色の違った遊びをしましょうよ。ちらりちらりと、見えそうで見えないというのも良いものです」
なんとか正三の興味をひこうとするM無線に対して
「ぼくになんの用です? お宅にはかれる便宜はないですよ」と、連れない正三だ。
「そうそう、テレビジョンは我々の管轄外だからね。通産に行かなきゃ」
「いじめないでくださいよ。お願いしますよ、ほんとに。他意はないんですから。日々の疲れをとっていただきたいだけなんですから」
「とに角、今夜はだめです」と、にべもない正三だった。
「アポイントを入れなきゃ、坊ちゃんは忙しいんだ。こんやは、先約が入ってるし」
快活に笑いながら部屋の中に消えていった。たしかにテレビジョン製造問題は、通産省の管轄ではある。電波行政を管轄する逓信省からの後押しを図ろうとする家電メーカーの、細い糸でも蜘蛛のいとになるのではないかという、せつなる願いがかくされていた。
「ところで、坊ちゃん。面接は済みましたか?」
「なんの?」
「坊ちゃんの東京大学法学部ですよ」
入省したての頃の正三ならば、こんな横柄な口の利き方はしなかった。しかしいまは、一段見下ろしてのことばづかいになっている。
「ああ、あれね。先月済んでる、入学許可証も届いているよ。まあ、籍を置くだけのことだし。しかも、二年間だけね。ぼくも地方といえど、大学は卒業しているんだからね」
「ですよね、当然さ。坊ちゃんが一時的にせよ、逓信省から離れるなんて、考えられないよ。なにしろ、電波行政のエキスパートなんだから」
「そうだ、そうだよ。二、三年もすれば、係長だ。そして最年少の課長職、という道があるんだから。しかし坊ちゃん、偉くなったからって、我々を忘れないでくださいよ」
「さあ、みんな。仕事、しごと!」と、大声が響いた。
「おお、こわ! 課長が怒ってるよ、また。席に付こうっと」
(二百十六)
「課長。局長への報告、済ませてきました」
小柄な五十を数える杉田課長も、いまでは正三に頼りきっている。乱雑に積みあげられた書類のかげから、くぐもった声が返ってきた。
「ありがとう、ご苦労さんでした。佐伯くんが行ってくれると助かるよ。本来ならあたしがご説明に行くべきなんだが、質問をされると困っちゃってね。結局、佐伯くんを呼ぶことになる。で、局長のひと声で佐伯くんになった。これからもよろしく頼むよ」
「課長、今晩の予定は大丈夫ですね。ちょっと趣向を変えて、キャバレー辺りに繰り出そうかと思うんですが。お嫌いですか、そういった場所は」
小声で正三が確認をする。キャバレー遊びに興じている他部署の者たちの、「〇〇ちゃんとチークダンスなんかしちゃってさ」という声が気になった正三だった。たまには違った毛色の遊びもいいか、と思っている正三だった。
上司を手なづけるのも大事なことだ。飲み食いをしっかりさせて、お前のシンパにしておけ≠ニ、源之助からのご託宣がある。
「キャバレー? こりゃ意外だ。佐伯くんの口からそんなことばを聞けるとは。好きですよ、キャバレー。じつを言うと、その方が良いんです。あたしは。今ね、口説いてる女給がいましてね」
「それは好都合だ、そこにしましょう。是非にもその女給さんに会ってみたいものです。課長の好みの女性って、美人なんでしょうね。楽しみです、ほんとに」
「いやいや、あたしは美人は嫌いです。美人はお高くとまって、面白味がない。客を客とも思わぬのが多いです。客がご機嫌取りをさせられてる、実にけしからん!」
そうだな、確かに。美人は、気位が高い。ちやほやされないと気がすまんらしい。そして意地悪な面がある≠ニ、つい小夜子を思い浮かべた。
ホテルのロビーでの一件は、少なからず正三のプライドを傷つけた。
たしかに連絡をしなかったのはぼくの落ち度だけれども、あんな公衆の面前であれほどに罵倒されるとは。一介の学生だった昔ならいざ知らず、いまは逓信省に勤める身だ。民を指導する立場にあるぼくだ。幸いぼくを知る者がいなかったから良かったものの、大恥をかいてしまった
腹立たしさを抑えきれない正三だ。自席に戻りはしたものの、書類の文字が躍っている。引出しのタバコで一服し、気持ちを落ち着けようとした。小夜子に対する思いが薄れたいま、現在の己に尊敬の念を抱かないことに疑念を感じた。
御手洗武蔵とかいう市井の商売人ごときと比較されるとは、いかがなものか。国家の大事業にたずさわるぼくを見下すがごときふるまいは、断じて許せない。たしかに不実な面があったことは否めない。それはぼくが悪かった。
しかし機密事項の作業中だったんだ、それは理解すべきだ。どうせ、金だろう。金のために、身体を許してしまったのだろう。それをぼくに知られることが怖くて、なじられることが怖くての、あの態度さ。正直に打ち明けてくれれば、ぼくにしても分別はある。事情が事情なんだ、許すことがあったかもしれないのに
一本の煙草を二度ほど吸っては消し、すぐに一本に火を点けてまた消す。そんな繰り返しをつづけながら、終業の時間を迎えた。
(二百十七)
杉田の先導で、五三の会メンバーが、きらびやかなネオンサインの下を歩いた。キョロキョロと辺りを見まわす正三に、
「坊ちゃん、まるでお上りさんですよ。恥ずかしいからやめてくださいよ」と、上本が正三の袖をひっぱった。
「だって、はじめていや二度目なんだぜ。ここが夜の銀座という所かい? いやあ、すごいねえ。まったく別天地だ。日本復興のすさまじさを、たしかに感じるね」
上本の言などまるで意に介せずに、立ちどまってぐるりと見渡したりしている。舗道にはガス燈があり、衣料品店やら洋菓子店に食料品店と立ちならんでいる。そういえば、と思いだす正三だ。
小夜子ととなり町に出かけたおりには、よくウィンドウショッピングをしたものだ。とりたてて欲しいものがあるわけではなさそうな、いつもつまらなさそうな表情だった。しょせん田舎で並んでいるものなんてこんなものよね≠ニいうのが小夜子の気持ちだった。
といって、都会での商品がどんなものなのかは知らない。知らないが、ここでのものとはきっと違うはずだ。ウキウキさせるものにちがいない、そう思うだけなのだが。正三が小遣いのなかでのプレゼントをしたものの、特段に喜ぶしぐさもなく感謝のことばも「あ、そう」で終わっていた。これが小夜子さんなんだ、と己に言い聞かせていたものだ。
「坊ちゃん、坊ちゃん。ほら、あそこで婦女子が笑っていますよ。あれれ、手なんか振りだした。ひょっとして知り合いですか?」
小山の指差す先を見ると、正三たちに確かに手をふる女性がいる。
「あれえ? 誰だあ、彼女は。手招きしてるじゃないか、行かなくちゃならんのかな」と、車の行きかう中に飛びださんばかりに正三が動いた。
「おいおい、佐伯君。いかんよ、そいつは。今夜はぼくの店に行くんだろうに。もっとも、支払いは佐伯君に任せるんだから、強くは言わないけれども」と、杉田がこぼす。
「いや、課長。そうじゃなくて、あそこの女性が手招きしてますので、行かなくちゃならんのかなと」
真顔で言う正三に呆れかえる杉田だったが、いまだに純朴さを少し残す正三がまぶしくも見える。
「坊ちゃん。あれはですね、自分の店に呼び込もうとしているんです。指名客のいない女給が、カモを釣ろうとしているんです。坂井、からかうのもいい加減にしろ。本気にしちゃってるぜ」
「仕事にゃ強い坊ちゃんも、女にはからきしか? そりゃそうと、あの女性とはどうなったんです? ほら、初恋の」
上本の話に、深本と木田のふたりがあわてて止めた。
「その話はやめろ! 機嫌が悪くなっちまう」
「終わったんだ、その女性とは。お前、聞いてないのか!」
「性悪女だったんだよ、ふた股なんかかけたりする」
「小夜子さんのことか? あの人は、もう小夜子さんじゃない。ぼくの知る小夜子さんは、新しい女性だった。けれどあの女性は、まるで俗物だ。物欲にとりつかれた、哀れな女性さ」
「なんだ、佐伯君。失恋をしたのかね? よし、あたしに任せなさい。伴侶は局長が見つけてくださるだろうから、都合の良い女を見つけてあげよう。キャバレーの女も、良いものだよ」
「そりゃいい。課長、good ideaですよ」と、上本が得意の英語を披露した。とすかさず坂井がからむ。
「上よ! アイディイアと、イントネーションを強くしろよ。それにグッドはないぞ、ドは」
(二百十八)
「ここは日本国だ。アメリカ国じゃないんだ! 日本のアクセントで良いんだ。なあ、上ちゃん」と、正三が援護する。いつもは泰然として、五三会の面々の話にはわりこまない。その正三が、今夜ははしゃぎ回っている。顔を見合わせて不思議がる面々だが、そんな彼らを後目に、
「さあ、着いたぞ! キャバレー・ムーンライトだ。ぼくの大事な、かおるさまはいるかな。八千草かおるさまー!」と、杉田の嬌声がひびいた。
きらびやかなネオンの光に、星々の光も弱々しい。浮かんでいる月もまた、寂しげな色に見える。この星空のしたで大勢の家族が生の営みをつづけている。三代、四代の大家族もいれば、親子三、四人の小さな家族がいる。ひとり暮らしの青年もいれば、夫婦ふたりだけの世帯も――そこに思いが至ったときに、正三の思考が停止した。夫婦ふたり――瞬時に小夜子が浮かび、すこし遅れて武蔵が浮かんだ。本来ならば正三が居すべき場所に、にやけた顔つきで正三を見おろす武蔵がいる。
「若造。おまえごときには、小夜子はもったいない。小夜子を光らせられるのは、おれなんだ」
小夜子を引きよせる武蔵に、小夜子が科をつくる。そして口元がゆがんだ。なにかを正三に告げている。しかしそれがどんなことばなのか聞こえない、感じとれない。小夜子に苦痛の色があらわれたような気がした。正三にたすけを求めるように、眉間にしわを寄せている、そうみえた。
「かおるさまー!」。杉田の嬌声に、我にかえる正三だった。
「なんだなんだ、薫さまだ? ほんとに杉田課長なのか? あの仏頂面しか見せない、我らの上司の杉田課長かい?」と、互いの顔を見やった。
「公私の私だよ、いまは。遊びに来たんだよ、分かっているのかな? 浮世の垢を落とすために来たんだよ。ねえ、佐伯君。きみは、分かってるよね?」
「課長、もう酔ってるのか? だとしたら、ほんとに安い酒だぜ」
「料亭での課長とは大違いだ」
「かみしもなんか着てたもんな、ちょこんと座って」
「芸者相手じゃ、騒げなかったんだな」
「いまの課長、好きだぜ。ぜえったいに、こっちの課長がOKだ!」
肩を組んで歩く四人に、ふたり連れが正対した。
「おい、わかものよ。敬意をはらえ!」と、泥酔している中年男が毒づいた。驚く四人に対して、あわてて
「すみませんねえ、ちょっと飲み過ぎてしまって」と、もうひとりの男が頭を下げた。
「敬意だと! うん、そうだ。君たち庶民には敬意を払わなくちゃな。我々官吏のために、毎日せっせと働いてもらい、税金を納めてもらう。我々は国家のために奉仕して、俸給をもらう。な、だから、庶民の皆さまは、ご主人さまだ」 杉田の、小馬鹿にした声に、「そうだ、そうだ。天下国家のために働く我々は、庶民の方々からの浄財でくらしていけるんだ」と、正三がつづいた。
「なんだと、こら! おまえたちは、官吏さまか! そうか、そりゃどうもありがとう。うちの会社はな、事務機をあつかってて、世話になってますよ。毎度どうも!」
いまにもその場にくずれ落ちそうになっていた泥酔男が、直立不動の姿勢をとって敬礼をした。
「ほら、おまえもせんか!」
苦虫をかみつぶした顔つきの連れに対して、脇腹をつついて催促した。
「お世話になっております!」
薄ら笑いを浮かべるふたりが、正三たちを軽蔑している観が見てとれる。偉そうにしやがって!=B腹の中の声が聞こえてくる。
(二百十九)
店の中から女給たちの嬌声に送られて男たちが出てきた。皆がみな高揚した観で、緩みっぱなしだ。中には女給に抱きついて「キスしてくれなきゃ帰らないぞ」と懇願したりする者もいた。
「もう一度はいる?」。「こらこら、もう帰るぞ」。そんな会話が聞こえる中、別の一団がボーイに促されて店内にはいっていく。大きなドアが開いたとたんに、中からブラスバンドの音が漏れてきた。と、今のいままではしゃぎ回っていた正三が、とつぜん黙りこくった。
キャバレーと聞いたおりに正三の頭に浮かんだのは、はじめて東京の地を踏んだあの日のことだった。
「生バンド演奏を聞きたいわ」。駅のホームに降り立ってすぐの、小夜子のことばを思い出した。あの日は、小夜子に振りまわされつづけた一日だった。腹立たしいはずの、屈辱的な一日だった。はずなのだ。しかしそれが正三の胸を甘酸っぱさで一杯にしている。
そしてあの再会では、一方的に詰られた。正三の不実を、これでもかとばかりに責め立てる。正三の情交を、汚らわしいものと責め立てる。そしてひと言の弁解も許さない。最後にとどめとばかりに発せられたことば。「男らしくありませんことよ!」。正三の胸にぐさりとくる言葉だ。
ぼくを非難するけれど、小夜子さん、あなたはどうなのですか。みたらい某という男とは、どのような間柄なのですか? もう、もう、もう……。あなたの操は……。他人を非難しても、己を正当化することはできないんですよ
喉まで出かかったことばを、ぐっと飲み込んだ正三だった。それを口にすることは、己の非を認めることになる。己の発したことばに、正三自身が縛られることになる。
複数のトランペットが高らかに鳴り響く店内、その喧騒の中をボーイの先導でボックスに着いた。そこで山田が噛み付いた。
「なんだ、この席は。馬鹿にしているのか、我々を。高級官僚としての道を順風に歩いていられる坊ちゃんを、こんな席に押し込めるとは。課長! 出ましょう、こんな無礼な店はだめだ」
「お、お客さま。大勢さまのお席は、ただいまのところ此処だけでございまして。すこしの間、ご辛抱願えませんでしょうか」
先導したボーイがあわててあやまった。
「許せん。なるほど、この込み具合だ。多少のことは我慢しよう。しかし手洗いのわきというのは、言語道断だ」
「きみ、マネージャーを呼びたまえ。山田くん、ボーイ相手では如何ともできんよ」
見かねた杉田が口をはさんだ。
「ターちゃん、いらっしゃ〜い! あらあら、何をおこってるのかな、ハンサムボーイたちは」
妖艶な雰囲気をただよわせる女給が、課長の杉田に抱きついてきた。よりによってこんな席にと、その笑顔の下では思っている。入りたてのボーイでは対処できないだろうと、あわてて着いていた席から飛んできた。
(二百二十)
「薫ちゃん、マネージャーを呼んでよ」。泣き顔をみせながら杉田が言う。素知らぬ顔で「どうして?」と女給がききかえす。
「坊ちゃんの、はじめてのキャバレーでこんな思いをさせられるなんて、実に情けない」
「たしかに! あまりに失敬だ」
「我々だけのときでさえも、こんな場所には着かない」
小山と坂井がかみついた。杉田は怒り出した部下を、ただただオドオドと見るだけだ。
正三自身も、この場所には納得がいかない。腹だたしくも思う。しかしここは、小夜子の働いてたキャバレーではないのか、そんな思いがわいている。すぐにも席を立ちたい、いや立たねば男がすたる、そう思う。しかしその裏では、小夜子の、ある意味神聖な場を汚してはならぬもそうも思えている。
いつもは寡黙な坂井が「いつもの料亭に行きましょう、坊ちゃん」と、席を立った。料亭ということばに、薫と呼ばれた女給のこめかみがぴくりと動いた。
「お兄さん、なにを怒ってるの? この薫さんにおっしゃいな。たちどころに解決う! よ」
「場所だよ。なにが悲しくて、こんなところで飲まなくちゃいかんのだ。我々は、日本国家を支える官僚だ。さらには、この方は、未来の事務次官さまだ。官僚の頂点に立たれるお方だぞ」
「そうだ! そのお方が、いつもの料亭をやめて、庶民の娯楽場なるキャバレーに来られたのだ。それをだ、このような便所とは」
「けしからん! いくら課長の店といえども、けしからん!」と、山田を制して上本が声をだした。そして次には上本が、最後に小山が吼えた。
「かおるちゃん、何とかならないだろうか? この佐伯くんはあたしなんかとは違い、由緒正しき方なんだ。店にとって、決して損にはならないお方だ。なにせ、毎夜のごとくに接待攻勢を受けているんだから」
次々に席を立つ部下をなだめながら、手を合わせんばかりに杉田が言う。女給の薫にしても、こんな狭いテーブルに7人を案内したことには合点がいかない。
空いている席に案内するだけなら猫にもできる。差配のセンスの欠片もないボーイは、田んぼのかかしより始末がわるい
腹が立ってきた。
マネージャーはなにをしているの。あたしでは手に負えない状況だということが見えないのか。いつ客足が途切れるかもしれないっていうのに
(二百二十一)
「申し訳ございませんでした、杉田さま。当方の手ちがいで、このような場所にご案内いたしまして。ただいまお席のご用意ができましたので、どうぞお二階の方へ」
薫の悪戦苦闘ぶりに気づいたマネージャーが、二階に席を用意させた。杉田の来店には気づいたのだが、いつものひとり来店と決めつけてしまったことを悔やんだ。そして正三に対する他の者たちの気の遣いようから、相当の上客になると判断もした。
「本日のご会計は、大サービスさせていただきますので」と、杉田に耳打ちする。それがとなりに陣取っていた正三に聞こえた。
「不愉快です、ぼくは。金をケチろうなどとは思わない。楽しませてもらった分だけは、きちんと正当に払います。信用できないと思われるなら、前金でもいいんだ!」
職員の前では、尊大にしろ。店の女どもになめられるようなことはするな。金払いもキチンとしろ。高いと思っても、決してゴネるな。同僚、上司でもだ。正三、お前がおごってやれ。そのかわり、業者には払わせろ。ただし、全額はダメだ。少額でもいいから、わたしの分ですと渡せ
叔父の源之助から、事あるごとに聞かされている。
慌てたマネージャーが、平身低頭して詫びのことばを並べた。
「男だねえ! 気に入った。ターちゃん、ほんと良い男を連れてきてくれたわね。マネージャー、勝負よ。このハンサムボーイと、あたしたち女給との勝負よ。なんとしても、楽しんでもらいましょ。満足してもらえるように、せいぜい尽くしましょう。そうと決まったら、秀子さんと光子さん幸子さん、それから……選ぶのも面倒よ。全員呼んじゃえい! 入れ替わり立ち代りと行こうじゃないの」
薫の本気度が伝わってくることばに、「女給さんたちの鑑だ」と、正三がうなった。「それに比べて、ボーイたちは……」
急ごしらえのボックスは三つのボックスをまとめたもので、通路を塞いでしまっている。ボーイたちの動きがぎくしゃくとして、糸吊り人形にみえる。それが正三たちの笑いを誘った。選民思想がしみついてる官僚たちの尊大無礼さをくすぐり溜飲が下がった。
「課長、かおるさんは女傑ですね」
「だろう? あたしは、いつも叱られているんだよ。でもね、それが不思議と良い気持ちになるんだよ」
「ターちゃん。叱ったあとの、これがだろ?」と、杉田の頭をなでる仕草をした。にやけ切った杉田の顔が、また笑いを誘った。
「秀子さ〜ん、ぼくにもしてよ〜!」
「光子ちゃ〜ん。ぼくは、接吻して欲しいよ〜!」
「だったら俺は、このスカートに潜り込みた〜い!」
あれほどに怒り狂っていた面々が、各々に着いた女給相手にふざけあっている。しかし、ひとり正三だけは入りこめずにいた。
こんな場所で、小夜子さんは…。どんなに心細かったことだろうか。誰かを頼ったとしても、誰がそれを責められようか。ああ、ぼくは何てことをしてしまったのか
あれこれと話しかけてくる女給を見るたびに、その誰もが小夜子に思えてしまう。しかしその思いも、陽炎のようにゆらぎ、すぐに消えてしまうものだった。
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