(二百七)
重苦しい空だった。
見上げると、灰色の雲がいまにも空から落ちてきそうなほどに低く垂れこめている。その下には、おのが自陣だとばかりに複数種の樹木が生い茂る、なだらかな山容の山があった。その山腹に、ところどころに家屋が建っている。その家々を結ぶ山道らしきものがあるが、道幅はせまい。大きなかごを背負ってのすれ違いどきには、身体を横向きにさせねばならないほどだ。小夜子もまた、その道を学校への通い道としていた。
久しぶりに車中から見る田畑、そして車中に流れ込む雑多な匂い。懐かしさを感じる前に、嫌悪感を覚える小夜子だった。
「どうした?」。駅を降りてタクシーに乗り込んでから寡黙になってしまった。心なしか、顔も青ざめている。
「酔ったのか? 道が悪いからなあ。運転手さん、停めてくれ。外で空気を吸わせよう」
「いや! このまま行って!」。小夜子の金きり声が車中にひびいた。
「分かった、わかった。それじゃこのまま行こう。運転手さん、すこし速度を落としてくれ。ゆっくり走ってくれ」
これほどに取りみだす小夜子を武蔵は知らない。金きり声などはじめて聞く。
いまにも泣きだしそうな空の下、役場の前をタクシーがゆっくりと過ぎた。
「あっ! だんなさん、だんなさん」。
大きく目を見開いた若い男が、繁蔵の着物のそでを引っぱった。
「なんじゃ、びっくりするじゃろうが。どうしたんじゃ、富雄」
「あれ、あれ」と、ふたりを追い越したタクシーを指さしている。
「タクシーが珍しいのか」。そうなじる繁蔵に「小夜子おじょうさまでした、ぜったいです」と、叫ぶように告げた。
「助役さん、おるかの?」と、慌てふためいて繁蔵がはいってきた。
「はあ。おられますが、ご用件は?」。
「おればいい。おい、いくぞ!」と、富雄を急きたてるようにして助役室にむかった。
「助役さん!」
「な、なんです、いきなり。職員を通してもらわんと、まずいですがの」
うずたかく積まれた書類のかげから顔をだして、助役が苦言を呈した。
「そんなことはどうでもいい! びっくりじゃ、びっくりじゃ!」
「どうでもいい、ってそうはいきませんて。ここは役場ですから、公私のけじめはキチンとしてもらわんと」
なおもこだわる助役に、繁蔵の怒りがばくはつした。
「ああ、もう! いち大事ぞ、小夜子が帰ってきた。いましがた、この富男が見たんじゃ」
富男が「はい、はい」と大きくなんども頷いた。
「まちがいないです、小夜子おじょうさまでした。見まちがうことなんて、ありませんて。あれはまちがいなく小夜子おじょうさまです」
勝ちほこったように言う富雄の頭をかるくこずきながら、
「この富男のやつは、小夜子にベタ惚れで。小夜子の頼み、いやあれは命令に近かったのお。わしになんど叱られても、小夜子の頼まれごとをやっておったから」と、繁蔵がつづけた。
頭をこずかれながらも、にやけた表情がまるで消えない。小夜子を見ることができたということだけで、いち年分の喜びを得られたような気がしている富男だった。
「こりゃ、いよいよですかの。そうなりゃ、村としても知らん振りはできませんな。わしはもちろんのこと、村長も出席せにゃならんでしょうな」
「いやいや、そこまでは。佐伯のご本家さんの祝言ならいざ知らず」
「なにを言いなさる。あの寄付金がありますぞ。この村はじまって以来のことですからの。どうです? ここだけの話ですが、村長選に名乗りを上げられたら。いまの村長も長いですから、そろそろ……」
(二百八)
繁蔵が役場を出ると、タクシー運転手が「あのお、すみませんが……」と、声をかけてきた。うしろからは村長の声が聞こえてきている。威厳を保つためとばかりに、富雄にお前が聞けとばかりに顎をしゃくり上げた。
「竹田茂作さんのお宅は、どちらになりますか?」
運転手によると、小夜子の車酔いが収まらず、あっちだこっちだと指さすが、その先に民家がないと嘆いた。すこし離れた場所にある民家に声をかけるが、あいにくと誰もおらず確認がとれない。困りはてた運転手が「役場までもどっていいでしょうか」と、武蔵にお伺いをかけた。きょうは終日貸し切りなので、賃走ではない。運転手も焦ることなく、運転できる。しかも走りだす前に、心づけをもらっている。こんな上客は滅多にいない、どころかはじめてなのだ。
富雄が「茂作さんの家はですねえ……」と指さしている。運転手が富雄に顔を向けたとき、繁蔵が声をあげた。
「茂作の家かね? 茂作は、わしの弟じゃが。どちらさんですかな、お宅さんは」と、わかりきっているにも関わらず車のなかをのぞきこんだ。
「お、お前。小夜子じゃないか!」と、大仰に声を張りあげた。キョトンとする富男に向かって、「富男、小夜子が帰ってきたぞ!」と、役場内に聞こえるようにさらに大きな声をあげた。
車中に小夜子を見つけたことで、役場内は大騒ぎになった。
「小夜子さん? 女優さんみたいじゃない」
「あの方が、ひょっとしておむこさん?」
蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。車をとりかこむ職員たちに、村長の一喝がとんだ。
「こらあ! 席に戻らんか、ばか者!」
タクシーのドアが開き、武蔵が降りたった。と同時に、大きな拍手が起きた。
「いやあ、どうもどうも。お疲れさまでございます。さあさあ、中にどうぞ」
大仰に腰を曲げ、もみ手を繰りかえす村長の様に、職員のなかから失笑がもれた。普段のうしろに倒れんばかりのふん反り姿からは、およそ想像のできないことだ。
「これは、恐縮です。竹田茂作さまのお宅にお伺いしたいのですが、小夜子が車酔いしまして」。先を急ぐからここでと、立ちいることをこばんだ。
「それじゃわしが、案内しましょうかの」と、繁蔵が村長を押しのける。苦虫をかみつぶしたような表情で「そうですか。それじゃお帰りにでも立ち寄っていただけますか」と、村長が未練たらたらの表情を見せた。
「村長、わたしがお供しますわ」
ここぞとばかりに、助役が手をあげた。べつだん、役場の人間がしゃしゃり出ることでもない。
「おうおう、そうしてもらおう。助役さん、それじゃ車を出してくれるか?」と、繁蔵が呼応する。
「山田くん、すぐ車を回すように」。眉間にしわを寄せる村長をあとに、役所の車が先導した。
「助役の奴、でしゃばりが過ぎる」。はき捨てるように呟くと、あつまっている職員たちを怒鳴りつけて部屋にもどっていった。
「いいわねえ、玉のこしね」
「ほんとよね。言っちゃなんだけど、正三さんも勝てないわよ」
「それにしても、都会に行くとあんなに変わるものなのかしら」
小夜子の幼なじみであるふたりの事務員が、大きくため息を吐いて、席に戻った。「元がちがうよ、元が」。ひとりが小声で呟くと、「姫と侍女みたいなもんだったからな」と、すぐに同調する声がとんだ。
キッと睨みつけるふたりに、肩をすぼめながらも、他の同僚たちに同意をもとめる仕種をくりかえした。
「きみちゃん、そのへんにしな。高田くんもやめろ。しょせんは高嶺の花だったろうが」
上司からの声がかりで、みなが席にもどった。
「映画を見せてもらったようなもんだ」。最年長職員のことばが、職員たち全員の納得感を得た。
(二百九)
「小夜子嬢のご尊父さまに、婚姻のご了承をえたく、本日は失礼を顧みずに……」
けげんそうに武蔵をみる茂作だった。時代がかった武蔵の挨拶が、茂作のみみにはいこく語になっている。小夜子の嫁とりについては、先日の五平によって知らされている。外堀はおろか内堀すら埋められている。もう、茂作に否やの余地はない。
茂作の不機嫌な表情に、小夜子が武蔵を制して「だからね、あたしをお嫁さんに欲しいから、お父さんの了解が欲しいということなの」と、つけくわえた。
「今さらそんなこと。あの加藤とかいう、ご仁にいわれたわ。わしが反対することなんぞ、ありゃあせん」。肩を落として、呟くように言う茂作だった。囲炉裏の灰をいじりながら、
「てっきり、正三の嫁になると思うとっとたが。いつ、心変わりをしたことやら。そんな娘だとは、ついぞ思わんかった」と、腹立たしまぎれに、ぐさりと小夜子のこころをえぐることばを、投げつけた。
正三の嫁に、という思いがあったわけではない。そう願ったわけでもない。「三国一のむこさんを」が、茂作の口ぐせではあった。が、特定の者を意識してのことではなく、「べっぴんさんになったもんじゃ」という周囲の羨望に対しての返しことばにすぎなかった。そもそも、「嫁にだす」ということが、まるで念頭になかったのだ。
「それは。だって仕方ないじゃない! 正三さん、ちっとも連絡くれないんだもの。それに、アーシアが……」
おのれの不実さをなじられたようで、思わず涙ぐみかけた。
「お義父さん。それについては、わたしから。小夜子の気持ちは、いまでも変わっていません。小夜子は、お義父さんに安楽な生活を送っていただきたいと。それだけを念じていたのです」
茂作の前に風呂敷づつみが差しだされた。何ごとかと目を上げる茂作に、
「これは支度金でございます。これで小夜子の嫁入り支度を整えてやってください。それから、ダイア商会のことはご心配なく。すべて済んでおります」と、小声で耳打ちした。
「お義父さんは小夜子の大切な家族です、粗略に扱うことは決してありません。これからも充分なことをさせて頂きますので。なにかご要望がありましたら、会社の方にご連絡いただければすぐにも」
小夜子に知られたくないことがまだあるのならこちらの方で始末を付けますと、さらに付け足した。
「べ、別にあんたに始末をつけてもらうこともなかったが、まあとりあえず礼をいっておきますわ」
あわてて茂作が答えた。小夜子に聞かれてはこまる、最大の弱みをしっかりと握られているのだ。
「お父さん。あたし、武蔵さんに嫁ぎます。決めたから」
「いやしかし、正三と……」
すぐに了承してはわしの沽券にかかわるわ≠ニばかりに、言葉をにごした。
そして、いまはっきりと気づいた。茂作の心内には、佐伯本家のあととり息子である正三ならばいいか、その思いがやはりあった。正三には冷たくあしらうことばを投げつけてはいたが、心底では願っていることだった。それが茂作にとって、どれ程の誉れになることか。常に茂作を見くだす竹田本家にたいして、同等もしくは格上となれるのだ。
(二百十)
「それに、もう……」。ポッと頬を染める小夜子に、「ま、まさか、お前」と絶句してしまった。
母親の澄江も無鉄砲なことをしよったが、小夜子、お前もか。血は争えぬ、と言うことか
「順序があと先になってしまいましたことは、重々お詫びします。わたしの焦りからでして、申し訳ありませんでした。ですので、決して不自由な思いはさせません。どうぞ、お認めください」
武蔵があらためて深々とお辞儀をし礼をつくすと、時を待っていたかのごとくに
「茂作よ、わしだ。助役さんと一緒でな、どれ上がるぞ」と、繁蔵から声がかかった。
繁蔵と助役の出現に、よし、決まりだ!≠ニ武蔵がほくそえむ。そしてなんで、今ごろ!≠ニ苦虫をかむ表情の茂作がいた。
「もう日取りは、決まったかいの?」と、助役がにこやかに話しかけると、つづけて「お婆さまが、本家で宴をやればいいと言うてくださっとるぞ」と、繁蔵が告げた。
「み、御手洗さん。どうなさったんで? なんで土下座みたいな真似を。茂作、やめてもらわんかい!」
床に頭をこすりつけている武蔵を見て、繁蔵が茂作をにらみ付けた。
「もういい、頭を上げてくれ。わかった、わかったわ。小夜子も納得してのことじゃろう。もういい、わしはなんも言わんぞ」
武蔵の時代がかった芝居につきあわされた茂作こそ、いい面の皮だった。
「そりゃいい、そりゃいい。御手洗社長。まずもって、村を代表してお祝いを申し上げます。おめでとうございます。茂作さん、いいお婿さんを迎えられたですの。小夜子さん、お手柄です、おてがらですの」
年輪の刻まれた顔を、更にしわくちゃにした助役が小夜子の前にかしこまって座った。もちろん武蔵への思惑からのことだ。
「しかし銀幕のスターじゃと皆が言うが、ほんとにその通り。美しくなられた、美しく」
歯の浮くような美辞麗句をならべ立てて、助役が小夜子をほめそやす。にこやかな笑みを返す小夜子だけれど、心内では舌打ちしたい思いがある。
なにを今さら。なにを企んでそんな世辞ばっかりを。はあ、なるほど。タケゾーのお金目当て? 待って、ちがうわね。本家の繁蔵おじさんが来てるってことは……村長選のこと? ゆくゆくは村長にって話を聞いた記憶があるけれど、今度いよいよ出るつもりなの? それでタケゾーに何をさせるつもりなの? タケゾー、どうするかしら?
以前の小夜子ならば嫌悪の表情をむきだしにして噛みついたのに、いまは多少の分別を持つゆとりができている。
「御手洗さん、ありがとうございました。茂作とわし繁蔵名義での、多額の寄付をしていただけて。なによりの援軍になりましたです。小夜子、お前からもお礼を言ってくれ。これでぐんと有利になったでの。お前が話をしてくれたのか? そうじゃろうの、でないと御手洗さんがお知りになるわけがないからの。小夜子には冷たい叔父だったかもしれんが、母親の件ではのう。わしとしては何とかしてやりたかったんじゃが、どうにもお婆さまのお許しが出ずに。辛い思いをさせてしまった」
えっ? なんのことなの! あたし、そんなこと話してないわ。寄付って、どういうこと?
思いもかけぬ寄付の話に、思わず武蔵の顔を見やった。
「いやいや、そうでしたか。村長選のことは知りませんでした。小夜子が生まれそだった地です。感謝の意味をこめてのことでしたが。そりゃいい、結構なことでした。加藤という男がGHQの中にコネを持っています。お困りのことが起きましたら、どうぞ遠慮なく。お義父さんからご連絡もらえましたら、すぐに対処させます」
(二百十一 )
あくまで茂作を前面に押し立てる武蔵に、引きつった笑顔で感謝のことばを述べるふたりだった。
「ほうほう。ありがたいおことばをありがとうございます。中央にコネが有る無しでは、えらい違いですで」
「ほんに、ほんに。村長は佐伯家を後ろ盾にしとりまして、源之助という官吏を使っておりまして」
ふたりして現状を口にした。県への陳情だけでは、なかなか話がすすまない。村長に伝がありはするのだが、県知事までとどくには力不足の課長どまりだった。ならばと佐伯家にたのみこみ、源之助を紹介された。県知事としては頭ごなしのことに面白くないが、ゆくゆくは代議士にという野望がある身で、もくにんせざるをえないところがある。
「ああ、逓信省の保険局の局長さんですね。事務次官の権藤さんに電話番号をお聞きしましてね。このあいだ、ご挨拶をさせてもらいました。なかなかに切れ者だとお噂を聞きましたが」
事務次官さまに通じてるのか? こりゃ凄いわ=B助役は感嘆し、繁蔵は茂作なんぞを通せと言うことか。茂作に頭を下げろと言うことか。なかなかに喰えぬ男じゃとて≠ニ、つけいる隙をあたえない武蔵に腹が立ってきた。
当の茂作は、そんな話などまるで耳にはいっていない。
小夜子を嫁にださにゃいかんのか。やっぱり帰って来んのか。正三の馬鹿たれが! あいつがしっかりしておれば、小夜子はここに帰ってきたろうに
正三の嫁になったとしても、小夜子がこの地にもどることはあり得ない。正三は逓信省の官吏なのだ、東京に居をかまえることは自明の理なのだ。いやそれよりも、世界を旅すると、小夜子が言っているのだ。武蔵にくしの思いだけがある茂作には、他のことはどこかで吹っ飛んでしまっている。
ミツや、ミツ。どうしても小夜子を手ばなせばならんのか? わしひとりになってしまうのか? いっそわしも、ミツの元に行こうか? どうじゃ、迎えに来てくれんか? 夜寝てそのまま、というわけにはいかんかの
がっくりと肩を落としている茂作に、小夜子が優しく声をかけた。
「お父さん、今までありがとうね。お嫁に行っても、小夜子は小夜子だからね。帰ってくるから、きっと。今まではいろいろと忙しくて帰られなかったけれど、これからはたくさん帰ってくるから」
「そうですよ、お義父さん。わたしは中々来れませんが、小夜子には帰らせますから。出張がちなわたしです。その折には夜子に寂しい思いをさせてしまいます。お義父さんの所にお世話にならせてください。それでたまには、お義父さんに来てもらいたいですよ。なあ、小夜子。どうだ? 親子水入らずもいいだろう」
ひとり合点する武蔵、しかし茂作にはいまいましく聞こえる。
ふん。なんで、わしが行かにゃならん! 娘婿が来るのが当然じゃろうが。仕事が忙しいからと、舅をないがしろにするような男なんぞ! まあいい、こんな男に会いたいとも思わん。しっかりと金を稼いでくれればいいさ
我ながらいい口実を作ったもんだ。小夜子を実家に帰らせれば爺さんも喜ぶし、俺も、たまには。命の洗濯としゃれこむこともできる。こいつは一挙両得の妙案じゃないか≠ニ、生来の浮気癖がむくむくと起き上がってくる。つい、不遜な笑みをつい洩らしてしまった。
「小夜子、どうした? お前、泣いているのか? 初めて見たぞ、お前の涙なぞ。感の強い娘じゃとおはばさまがおっしゃられていたが」と、涙をこぼす小夜子に声をかけた。
「そりゃ、泣けてもくるじゃろう。好いた殿御と結ばれるのじゃからして。しかもこのような、りっぱな三国一の花婿さんときた。茂作さんのことも、良う考えていてくださるし。感激するのも当たり前のことよ」
「いやそれにしても、あの小夜子が……。てっきり、佐伯家の正三だと思っていたが」と、まだ信じられぬといった繁蔵だ。
(二百十二)
「アナスターシアという大の仲良しを失ってからの小夜子は、泣き虫になりました。まあ今まで、気をはって生きてきたのでしょう。いまは人の情がわかる、良い娘になりました。このあいだ、従業員の身内を付きっきりで看病をしてくれまして。病院でも評判でしたよ。じつのところ、わたしも驚きました。とにかく鼻っ柱の強い娘でしたから。もっとも、そこに惚れたのですが」
「社長。そのアナ、なんたらとかとは、なんですかの? 可愛がっていた犬か猫の類ですかの?」と、カタカナ文字のように聞こえた助役がたずねると、みるみる小夜子の顔が赤くなった。
「アーシアを動物だなんて! バカ、バカ、バカあ! あんたになにが分かるのよ! アーシアは、あたしの命だったんだから」と、涙ながらに奥の部屋にかけこんだ。
唖然とするふたりに、武蔵がことばを足した。
「許してやってください、姉としたう娘なんです。アナスターシアと言うロシア娘でしてね、ファッションモデルなんです。男の我々にはとんと縁がない話ですが、世界的に有名なモデルでして。若い娘さんに聞いてください、良く知っていると思います。その娘と、姉妹のちぎりを結んだようなんです。いやいやこれはホントの話ですわ。で、いっしょに世界を旅するつもりだったようです。そのために一所懸命、英会話を習っていましたからね。お義父さんもご存知ですよね、たしか」
「茂作、そうなのか? そんな話が持ち上がっていたのか? それで、正三との話をご破算にしたのか? なんで言うてくれんのじゃ、そんな大事なことを。お前ひとりで、どうするつもりじゃった!」
思いもかけぬ話に、繁蔵が茂作を問い詰めた。
「別に本家の世話になるつもりはなかったですけえ」。冷たく言いはなつ茂作に、次のことばがでない繁蔵だ。
「ところが、その話が頓挫してしまいまして」
「はあはあ、そうでしょうとも。そんな夢物語りみたいなこと、あるわけがないでしょう」
得心したように助役はうなずくが、繁蔵は不機嫌な色をかくさない。そして茂作は俯いたままで、ひとり武蔵だけが嬉々として語った。三人に話すと言うよりは、事の真相を確認するかのごとくだった。
「いやいや頓挫といっても、ある意味不可抗力なんです。いや別の角度からすると、遅すぎたとも言えますな。小夜子が早くそのロシア娘の元に行っていれば、この不幸は防げたかもしれません。その思いが小夜子をしばらくの間、苦しめました。そりゃもう、見ていて可哀相でした。ひどい落ち込みようで、自殺するのじゃないかと心配になったほどです」
「自、自殺じゃと!」。気色ばんで茂作が、武蔵につめよった。
「な、なんでわしに知らせんか!」。思いもかけぬ武蔵のことばに、茂作がかみついた。
小夜子も小夜子じゃ! なんで帰って来んのじゃ。そんなにわしは頼りないのか
じくじたる思いのなか、茂作のこころに小夜子の母親の姿が浮かんだ。
澄江は、最後はわしの元に戻ってくれたぞ。お前の母親は、わしの元に……
「申し訳ないことをしました。しかしそれがわたしにとっては、結果良しとなりました。やっとわたしの気持ちを、受け入れてくれたのですから。小夜子にとっても良い事だと思います」
「うん、うん。そりゃ、その方が良い。世界を旅するなんざ、とんでもないことよ。茂作にもしものことがあったら、どうするつもりだったんかい。思慮が、やはり足りんわ」
繁蔵が武蔵に相づちをうち、「社長さん。不幸を防げたといのは、どういうことです?」と、下世話な話に飛びつく助役に、苦笑しつつ武蔵がつづけた。
「ロシア娘は自殺したのですが、孤独感に耐えられずといった具合でしょう。不眠に陥ってしまい、多量の睡眠薬に頼っていたようです。で、その量が多すぎたがために、還らぬ人になってしまったわけです。自殺を意識してのことではなかったようです。遺書といったものもなく、なんの前触れもなくということでしたから。常日ごろ、小夜子に会いたいとこぼしていたと聞きおよびます。もし小夜子がロシア娘のもとに、一時的にでも行っていれば……。いやこれは、いまさら言っても詮ないことですが」
(二百十三)
「ロシア娘は自殺したのですが、孤独感に耐えられずといった具合でしょう。不眠に陥ってしまい、多量の睡眠薬に頼っていたようです。で、その量が多すぎたがために、還らぬ人になってしまったわけです。自殺を意識してのことではなかったようです。遺書といったものもなく、なんの前触れもなくということでしたから。常日ごろ、小夜子に会いたいとこぼしていたと聞きおよびます。もし小夜子がロシア娘のもとに、一時的にでも行っていれば……。いやこれは、いまさら言っても詮ないことですが」
母親の位牌の前で手を合わせる小夜子の耳に「良かったね、小夜子。幸せになるのですよ」と、そんな声が聞こえた気がした。
「お母さん、あたしはお母さんのようにはならないわ。きっと幸せになってみせる、あたしを見守っていてね」
目を閉じて母を思い浮かべると、床に就いている姿がある。青白い顔色の澄江が、精一杯の笑顔で小夜子を見ている。しかし小夜子が澄江の傍に近づこうとすると、きまって「だめ! お部屋に入ってはいけません」と、か細いながらも強い声が飛ぶ。
「小夜子、大丈夫か? 入るぞ、俺も挨拶をさせてくれ」と、武蔵の声がかぶった。
「いいわよ、入って」。ほほを伝った涙の筋をハンカチでおさえてから答えた。小夜子のとなりに座ると、両の手をあわせて
「御手洗武蔵と申します。小夜子を伴侶として迎える男でございます。どうぞ、お見知りおきください」と、神妙にする。
「ククク、はじめて見たこんなタケゾーは」。笑っているのに、大粒の涙が頬を伝っている。悲しみの冷たい涙ではなく、温かい涙があふれ出てくるのだ。
「大丈夫だぞ、心配はないぞ。お義父さんの面倒は、しっかりと見るからな」
武蔵の口からお義父さんということばがでるたびに、蜘蛛の巣に取りこまれていく自分を感じた。
なんだか、人質にとられたみたい
後悔なのではない、自嘲しているのでもない。ただ漠然とした、得体の知れぬものにまとわりつかれている気がある。武蔵の発する妖気に、包み込まれているのだ。
「小夜子、日取りが決まったぞ。茂作と相談の結果じゃが。村を離れとる者も、お盆には帰省してくるじゃろうからの。ちと暑いかもしれんが、まあ辛抱してくれ。御手洗さんも、それで宜しいでしょうかな?」
繁蔵がふたりに告げた。茂作は憮然とした顔つきをしながらも、緩む口元を必死の思いでこらえるようにもみえた。これでひと安心といものじゃ。あれだけ言っておけば、この男も小夜子を泣かせることはできんじゃろう。まあわしのことも、じゃが……≠ニ、心底ではほくそ笑んでいるのだ。
「分かりました、それで結構です。小夜子、お前も異存はないな? 大急ぎで、花嫁衣裳を作らなけりゃな。忙しくなるぞ、また」
満面に笑みを浮かべる武蔵に対して、曇りがちな表情を小夜子が見せる。
「どうなすった、小夜子さん? まだ具合が悪かったかな? 車酔いが収まってないかの? 診療所に寄ってみるかの?」
「助役さん、そりゃないぞ。往診させてくださいの。大事な、村の宝なんじゃから」
助役のことばに、すぐさま繁蔵が噛みついた。武蔵の横顔を盗み見しながら、その表情を読み取ろうとしていた。武蔵は「どうする、小夜子。往診してもらうか?」と、心配気に問いかけるだけだった。
「うん……」。力なく、小夜子が答えた。
(二百十四)
「さ、小夜子、お前、まさか」
茂作の怒声が部屋にひびき渡った。まさかとは思いつつも、懐妊というふた文字が頭のなかで飛びまわりはじめたのだ。
「なに、考えてるの! 違うわよ、ちがう!」
手を振りながら、一笑にふす小夜子。武蔵もまた、茂作の心配ごとに気づき、「だと良いんですが、それはないでしょう」と、否定した。
ほっと安堵の表情をみせる茂作に、「おめでた、ということか?」と、繁蔵が小夜子の顔をのぞきんだ。
「だとしたら、めで…」。「なにを聞いてたの! だから、ないんです」と、キッと睨みつけながら声をかぶせた。これほどにきついことばは、今までいちどたりとて口にしたことはない。かたわらの武蔵が下を向いて、笑いをひっしでこらえていた。
言ってやれ、いってやれ。もっと、もっとだ。いままで悔しい思いをしてきたろうが。これからは遠慮することはないぞ。いつでもどこでも、だ≠ニ、小夜子をけしかけていた。
「おっと、いかんいかん。それではわたしはこれで。今日中にもどらなければならんのです。あす、約束があるものですから。小夜子は、泊まっていけ。二、三日ゆっくりしてから戻ってこい」
本当のところは来客の予定ははいっていない。ただこの地にいることが、茂作といっしょの空気を吸うことがたえられないのだ。ビジネス上でも頭をかんたんに下げない武蔵だ。あくまで、小夜子の祖父だからということで、お義父さんと小夜子に合わせているだけだし、金員もばらまいているのだ。血のにじむような思いで稼いできた金を、惜しげもなくね武蔵に言わせればドブに捨てるようなものだ。それもこれも、すべてが小夜子のためなのだ。決して、茂作や竹田本家のためではない。ましてや、この村のためでもない。
武蔵が身体を起こすと、「いや、一緒にかえる」と、その袖をつかんだ。
冗談でしょ、あたしひとり残ったらどんなことになるか。朝から、何だかんだとうわさ話のために、やってくるわよ。それで、あることないことが、あっという間に広まるんだから。明日の午後には、ふしだらな女だってってことになるわよ。ああ、いやだいやだ!
つい先ほどの優しい小夜子の声かけが、空しく茂作に響く。
「分かった、わかった。今日はええ」
俯いたまま、手を振って「いね、去ね」と絞り出した。
正三の馬鹿たれが。あいつが小夜子をつかまえておれば、こんなことを言うことはないはず。むかしのやさしい小夜子でいてくれるものを。まったく役に立たぬ男じゃ
武蔵と正三をくらべてしまう茂作だったが、良い婿を見つけてきてくれたものじゃ≠ニ、繁蔵には何よりのことだった。武蔵の伝が想像以上に、繁蔵にとっては雲の上とつながっている。ただきょうの繁蔵にたいする態度が気にならないわけではなかった。ヤミ市からの成り上がり方を聞くと、利にさとい男なのだからという望みを持たないわけでもなかった。
いやいやきょうは、ただ単に茂作を立てただけじゃろ。わしは本家で、茂作は分家じゃから
来年の春には村長選がひかえている。現村長にはさしたる失態もないのだが、「もういい加減に引退してもらわにゃ」、「二期というのが慣例じゃし」という声がチラホラと飛んでいる。本来なら「助役さんに」ということになるのだが、押しの弱い助役には現村長を押しのけてもという気概がない。それどころか、「来期は引退してもらうから」と、現村長に通告されてしまった。反旗を翻したつもりはないのだが、機先を制されてしまった。その話を聞きつけた繁蔵が、「あんたにはつづけてもらわなきゃ、のお。まだまだ若いんじゃから」と声をかけたのだ。
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