(二百三)

 重くるしい空だった。見あげると、灰色の雲がいまにも空から落ちてきそうなほどに低くたれこめている。その下には、己が自陣だとばかりに複数種の樹木が生いしげる、なだらかな山容の山があった。その山腹に、ところどころ家屋が建っている。その家々を結ぶ山道らしきものがあるが、道幅はせまい。大きなかごを背負ってのすれちがい時には、身体を横向けさせねばならないほどだ。小夜子もまた、その道を学校への通い道としていた。
 久しぶりに車中から見る田畑、そして車中に流れこむ雑多な匂い。なつかしさを感じる前に、嫌悪感をおぼえる小夜子だった。
「どうした?」
 駅を降りてタクシーに乗り込んでから寡黙になってしまった。心なしか、顔も青ざめている。
「酔ったのか? 道が悪いからなあ。運転手さん、停めてくれ。外で空気を吸わせよう」
「いや! このまま行って!」。小夜子の金切り声が車中にひびいた。
「分かった、分かった。それじゃこのまま行こう。運転手さん、すこし速度を落としてくれ。ゆっくり走ってくれ」
 これほどに取り乱す小夜子を武蔵は知らない。金切り声などはじめて聞く。いまにも泣き出しそうな空の下、役場の前をタクシーがゆっくりと過ぎた。

「あっ! だんなさん、だんなさん」。
 大きく目を見ひらいた若い男が、繁蔵の着物のそでを引っ張った。
「なんじゃ、びっくりするじゃろうが。どうしたんじゃ、富雄」
「あれ、あれ」と、ふたりを追い越したタクシーを指さしている。「タクシーが珍しいのか」。そうなじる繁蔵に「小夜子おじょうさまでした、ぜったいです」と、叫ぶように告げた。
「助役さん、おるかの?」と、慌てふためいて繁蔵が入ってきた。
「はあ。おられますが、ご用件は?」。「おればいい。おい、いくぞ!」と、富雄を急き立てるようにして助役室に向かった。
「助役さん!」。「な、何です、いきなり。職員を通してもらわんと、まずいですがの」
 うず高く積まれた書類の陰から顔を出して、助役が苦言を呈した。
「そんなことはどうでもいい! びっくりじゃ、びっくりじゃ!」
「どうでもいい、ってそうはいきませんて。ここは役場ですから、公私のけじめはキチンとしてもらわんと」
 なおもこだわる助役に、繁蔵の怒りが爆発した。
「ああ、もう! 一大事ぞ、小夜子が帰ってきたんだよ。いましがた、この富男が見たんじゃ」
 富男が「はい、はい」と大きく何度も頷いた。
「まちがいないです、小夜子おじょうさまでした。みまちがうことなんて、ありませんて。あれはまちがいなく小夜子おじょうさまです」
 勝ち誇ったように言う富雄の頭を軽くこずきながら、
「この富男のやつは、小夜子にベタ惚れで。小夜子の頼み、いやあれは命令に近かったですの。わしになんど叱られても、小夜子の頼まれごとをやっておったから」と、繁蔵がつづけた。

 頭をこずかれながらも、にやけた表情がまるで消えない。小夜子を見ることができたということだけで、一年分の喜びを得られたような気がしている富男だった。
「こりゃ、いよいよですかの。そうなりゃ、村としても知らんぷりはできませんな。わしはもちろんのこと、村長にも出席せにゃならんでしょうな」
「いやいや、そこまでは。佐伯のご本家さんの祝言ならいざ知らず」
「なにを言いなさる。あの寄付金がありますぞ。この村はじまって以来のことですからの。どうです? ここだけの話ですが、村長に名乗りを上げられたら。いまの村長も長いですから、そろそろ……」
「まあ、その話は後日ということで。今日は小夜子ですわ。茂作のところに挨拶でしょうな。その後、本家のうちにも寄ると思いますでの。助役さん、あんたが役場を代表しての。わかるじゃろ?」
 ひそひそと密談を交わした後に、意気揚揚と引き上げた。村長のかける声に気付かぬふりをして、そそくさと引き上げた。ふん。あんな男なんぞ、呼んでなるものか=B敵愾心むきだしの、鬼の形相をみせながら、役場をあとにした。

(二百四)

 繁蔵が役場をでると、タクシー運転手が「あのお、すみませんが……」と、声をかけてきた。うしろからは村長の声が聞こえてきている。早くこの場を去りたい繁蔵としては迷惑な声かけだった。富雄に対して、お前が聞けとばかりに顎をしゃくり上げた。
「竹田茂作さんのお宅は、どちらになりますか?」。思いもよらぬ名前が繁蔵の耳に入った。茂作じゃと? まさか、さっきのタクシーなのか?=Bこの村に、一日の内に二台のタクシーが来ることなど、確かにありえぬことではある。
 運転手によると、小夜子は車酔いがおさまらず、あっちだこっちだと指さすがその先に民家がないと嘆いた。すこし離れた場所にある民家に声をかけるが、あいにくと誰もおらず確認がとれない。困りはてた運転手が「役場までもどっていいでしょうか」と、武蔵にお伺いをかけた。きょうは終日貸し切りなので、賃走ではない。運転手も焦ることなく、運転できる。しかも走り出す前に、心づけをもらっている。こんな上客は滅多にいない、どころか初めてなのだ。
 小夜子が同乗しているのだ、茂作の家がわからぬはずがない。わしの聞き間違いかと思いはしたが、富雄が「茂作さんの家はですねえ……」と指さしている。
 運転手が富雄に顔を向けたとき、繁蔵が声をあげた。
「茂作の家かね? 茂作は、わしの弟じゃが。どちらさんですかな、お宅さんは」と、車の中をのぞきこんだ。
「お、お前。小夜子じゃないか!」と、大仰に声を張りあげた。
キョトンとする富男に向かって、「富男、小夜子が帰ってきたぞ!」と、役場内に聞こえるような、さらに大きな声をあげた。

 車中に小夜子を見つけたことで、役場内は大騒ぎになった。
「小夜子さんって、ほんとに小夜子さん? 女優さんみたいじゃない」。「あの方が、ひょっとしてお婿さん?」
 蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。車をとりかこむ職員たちに、村長の一喝が飛んだ。「こらあ! 席に戻らんか、ばか者!」
 タクシーのドアが開き、武蔵が降り立った。と同時に、大きな拍手が起きた。
「いやあ、どうもどうも。お疲れさまでございます。さあさあ、中にどうぞ」
 大仰に腰を曲げ、もみ手を繰り返す村長の様に、職員の中から失笑がもれた。普段のうしろに倒れんばかりのふんぞり姿からは、およそ想像のできないことだ。
これは、恐縮です。竹田茂作さまのお宅にお伺いしたいのですが、小夜子が車酔いしまして。で止むなく……」。先を急ぐからここでと、立ち入ることを拒んだ。
「それじゃわしが、案内しましょうかの」と、繁蔵が村長を押しのける。苦虫をかみつぶしたような表情で「そうですか。それじゃお帰りにでも、立ち寄っていただけますか」と、未練たらたらの表情を見せた。

「村長、わたしがお供しますわ」。ここぞとばかりに、助役が手を上げた。別段、役場の人間がしゃしゃり出ることでもない。
「おうおう、そうしてもらおう。助役さん、それじゃ車を出してくれるか?」と、繁蔵が呼応する。
「山田くん、すぐ車を回すように」。眉間にしわを寄せる村長を後に、二台の車が走る。
「助役の奴、でしゃばりが過ぎる」。はき捨てるように呟くと、固まっている職員たちを怒鳴りつけて部屋にもどっていった。
「いいわねえ、玉の輿こしね」
「ほんとよね。言っちゃなんだけど、正三さんも勝てないわよ」
「それにしても、都会に行くとあんなに変わるものなのかしら」
 小夜子の幼なじみであるふたりの事務員が、大きくため息を吐いて、席に戻った。
「元がちがうよ、元が」。ひとりが小声でつぶやくと、「姫と侍女みたいなもんだったからな」と、すぐに同調する声がとんだ。
 キッと睨みつけるふたりに肩をすぼめながらも、同僚たちに同意をもとめる仕種をくりかえした。
「きみちゃん、そのへんにしな。高田くんもやめろ。所詮は高嶺の花だったろうが」
 上司からの声がかりで、みなが席にもどった。
「映画を見せてもらったようなもんだ」。最年長職員のことばが、職員たち全員の納得感を得た。

「小夜子嬢のご尊父さまに、小夜子嬢との婚姻のご了承をえたく、本日は失礼を顧みずに……」
 怪訝そうに武蔵を見る茂作だった。時代がかった武蔵の挨拶が、茂作の耳には異国語になっている。小夜子の嫁とりについては、先日の五平によって知らされている。外堀はおろか内堀すら埋められている。もう、茂作に否やの余地はない。茂作の不機嫌な表情に、小夜子が武蔵を制して「だからね、あたしをお嫁さんに欲しいから、お父さんの了解が欲しいということなの」と、付け加えた。祖父である茂作を、御尊父と呼ばせたのは小夜子の作戦だった。すこしでも茂作の気持ちをおもんばかってのことだった。
「今さらそんなこと。あの加藤とかいう、ご仁にいわれたわ。わしが反対することなんぞ、ありゃあせん」。肩を落として、つぶやくように言う茂作だった。
 囲炉裏の灰をいじりながら、「てっきり、正三の嫁になると思うとっとたが。いつ、こころ変わりをしたことやら。そんな娘だとは、ついぞ思わんかった」
 腹立たしまぎれに、ぐさりと小夜子の心をえぐることばを、投げつけた。正三の嫁に、という思いがあったわけではない。そう願ったわけでもない。「三国一のむこさんを」が、茂作の口ぐせではあった。が、特定の者を意識してのことではなく、「べっぴんさんになったもんじゃ」という周囲の羨望に対しての返しことばにすぎなかった。そもそも、「嫁にだす」ということは、まるで念頭になかったのだ。

(二百五)

「それは。だって仕方ないじゃない! 正三さん、ちっとも連絡くれないんだもの。それに、アーシアが……」
 己の不実さをなじられたことで、思わず涙ぐみかけた。
「お義父さん。それについては、わたしから。小夜子の気持ちは、いまでも変わっていません。小夜子は、お義父さんに安楽な生活を送っていただきたいと。それだけを念じていたのです」
 茂作の前に風呂敷づつみが差しだされた。なにごとかと目を上げる茂作に、
「これは支度金でございます。これで小夜子の嫁入り支度を整えてやってください。それから、ダイア商会のことはご心配なく。すべて済んでおります」と、小声で耳打ちした。
「お義父さんは小夜子の大切な家族です、粗略に扱うことは決してありません。これからも充分なことをさせて頂きますので。なにかご要望がありましたら、会社の方にご連絡いただければすぐにも」
 小夜子に知られたくないことがまだあるのならこちらの方で始末をつけますと、さらにつけたした。
「べ、べつにあんたに始末をつけてもらうこともなかったが、まあ取り合えず礼をいっておきますわ」
 あわてて茂作が答えた。小夜子に聞かれてはこまる、最大の弱みをしっかりと握られているのだ。

「お父さん。あたし、武蔵さんに嫁ぎます。決めたから」。「いやしかし、正三と」。すぐに了承してはわしの沽券にかかわるわ≠ニばかりに、ことばをにごした。そして、いまはっきりと気づいた。茂作の心内には、佐伯本家の跡取息子である正三ならばいいか、その思いがやはりあった。正三には冷たくあしらうことばを投げつけてはいたが、心底では願っていることだった。それが茂作にとって、どれ程の誉れになることか。常に茂作を見くだす竹田本家にたいして、同等もしくは格上となれるのだ。
「それに、もう……」。ポッと頬を染める小夜子に、「ま、まさか、お前」と絶句してしまった。
母親の澄江も無鉄砲なことをしよったが、小夜子、お前もか。血は争えぬ、と言うことか
「順序があと先になってしまいましたことは、重々お詫びします。わたしの焦りからでして、申し訳ありませんでした。ですので、決して不自由な思いはさせません。どうぞ、お認めください」
 武蔵があらためて深々とお辞儀をして礼をつ尽くすと、ときを待っていたかのごとくに
「茂作よ、わしだ。助役さんと一緒でな、どれ上がるぞ」と、繁蔵から声がかかった。繁蔵と助役の出現に、よし、決まりだ!”と武蔵がほくそえむ。そしてなんで、今ごろ!≠ニ苦虫をかむ表情の茂作がいた。
「もう日取りは、決まったかいの?」と、助役がにこやかに話しかけると、つづけて「お婆さまが、本家で宴をやればいいと言うてくださっとるぞ」と、繁蔵が告げた。
「み、御手洗さん。どうなさったんで? なんで土下座みたいな真似を。茂作、やめてもらわんかい!」
 床に頭をこすりつけている武蔵を見て、繁蔵が茂作をにらみ付けた。
「もういい、頭を上げてくれ。わかった、わかったわ。小夜子も納得してのことじゃろう。もういい、わしはなんも言わんぞ」
 武蔵の時代がかった芝居につきあわされた茂作こそ、いい面の皮だった。

(二百六)

「そりゃいい、そりゃいい。御手洗社長。まずもって、村を代表してお祝いをもうしあげます。おめでとうございます。茂作さん、いいお婿さんを迎えられたですの。小夜子さん、お手柄です、おてがらですの」
 年輪の刻まれた顔を、さらにしわくちゃにした助役が小夜子の前にかしこまって座った。もちろん武蔵への思惑からのことだ。
「しかし銀幕のスターじゃと皆がいうが、ほんとにその通り。美しくなられた、ほんに美しゅうなられた」
 歯の浮くような美辞麗句をならべ立てて、助役が小夜子をほめそやす。にこやかな笑みをかえす小夜子だけれど、心内では舌打ちしたい思いがある。
なにを今さら。なにを企んでそんな世辞ばっかりを。はあ、なるほど。タケゾーのお金目当て? 待って、違うわね。本家の繁蔵おじさんが連れて来てるってことは……村長選のこと? 行くゆくは村長にって話を聞いた記憶があるけれど、今度いよいよ出るつもりなの? それでタケゾーに何をさせるつもりなの? で、タケゾーはどうするかしら?
 以前の小夜子ならば嫌悪の表情をむきだしにして噛みついたのに、いまは多少の分別を持つゆとりができている。

「御手洗さん、ありがとうございました。茂作とわし繁蔵名義での、多額の寄付をしていただけて。なによりの援軍になりましたです。小夜子、お前からもお礼を言ってくれ。これでぐんと有利になったでの。お前が話をしてくれたのか? そうじゃろうの、でないと御手洗さんがお知りになるわけがないからの。小夜子には冷たい叔父だったかもしれんが、母親の件ではのう。わしとしては何とかしてやりたかったんじゃが、どうにもお婆さまのお許しが出ずに。辛い思いをさせてしまった」
えっ? なんのことなの! あたし、そんなこと話してないわ。寄付って、どういうこと?
 思いもかけぬ寄付の話に、思わず武蔵の顔を見やった。
「いやいや、そうでしたか。村長選のことは知りませんでした。小夜子が生まれ育った地です。感謝の意味をこめてのことでしたが。そりゃいい、結構なことでした。加藤という男がGHQの中にコネを持っています。お困りのことが起きましたら、どうぞ遠慮なく。お義父さんからご連絡もらえましたら、すぐに対処させます」

 あくまで茂作を前面に押し立てる武蔵に、引きつった笑顔で感謝の言葉を述べるふたりだった。
「ほうほう。有難いおことばをありがとうございます。中央にコネがあるなしでは、えらい違いですで」
「ほんに、ほんに。村長は佐伯家を後ろ盾にしとりまして、源之助という官吏を使っておりまして」
「ああ、逓信省の保険局の局長さんですね。事務次官の猿股さんに電話番号をお聞きしましてね。この間、ご挨拶をさせてもらいました。中々に切れ者だとお噂を聞きましたが」
事務次官さまに通じてるのか? こりゃ凄いわ=B素直におどろく助役にたいして繁蔵はほぞを噛む思いだ。
茂作なんぞを通せと言うことか。茂作に頭を下げろと言うことか。そこまで茂作ごときに気を遣うのか。いや、小夜子か。うぬぬ、なかなかに喰えぬ男じゃとて
 当の茂作は、そんな話などまるで耳に入っていない。
“小夜子を嫁に出さにゃいかんのか。やっぱり帰って来ぬのか。正三の馬鹿たれが! あいつがしっかりしておれば、小夜子はここに帰って来たろうに。タキや、タキや。どうしても小夜子を手ばなせにゃならんのか? わしひとりになってしまうのか? いっそわしも、タキの元に行こうか? どうじゃ、迎えに来てくれんか? 夜寝てそのまま、というわけにはいかんかの”

(二百七)

 がっくりと肩を落としている茂作に、小夜子が優しく声をかけた。
「お父さん、今までありがとうね。お嫁に行っても、小夜子は小夜子だからね。帰ってくるから、きっと。いままではいろいろと忙しくて帰られなかったけれど、これからはたくさん帰ってくるから」
「そうですよ、お義父さん。わたしは中々来れませんが、小夜子には帰らせますから。出張がちなわたしです。そのおりには夜子に寂しい思いをさせてしまいます。お義父さんの所にお世話にならせてください。それでたまには、お義父さんに来てもらいたいですよ。なあ、小夜子。どうだ? 親子水入らずもいいだろう」
 ひとり合点する武蔵、“我ながらいい口実を作ったもんだ。小夜子を実家に帰らせれば爺さんも喜ぶし、俺も、たまには命の洗濯としゃれこむこともできる。こいつは一挙両得の妙案じゃないか”と、生来の浮気癖がむくむくと起き上がってくる。つい、不遜な笑みをつい洩らしてしまった。
 しかし茂作にはいまいましく聞こえる。
ふん。なんで、わしが行かにゃならん! 娘婿が来るのが当然じゃろうが。仕事が忙しいからと、舅をないがしろにするような男なんぞ! まあいい、こんな男に会いたいとも思わん。しっかりと金を稼いでくれればいいさ

「小夜子、どうした? お前、泣いているのか? はじめて見たぞ、お前の涙なぞ。
癇のつよい娘じゃとおばばさまがおっしゃられていたが」と、涙をこぼす小夜子に声をかけた。
「そりゃ、泣けてもくるじゃろう。好いた殿御と結ばれるのじゃからして。しかもこのような、立派な三国一の花婿さんときた。茂作さんのことも、良う考えていてくださるし。感激するのも当たり前のことよ」。あくまで武蔵を持ち上げる助役だったが、それにしても、あの小夜子が……。てっきり、竹田ん家の正三だと思っていたが≠ニ、まだ信じられぬといった繁蔵だ。

「アーシアという大の仲良しを失ってからの小夜子は、泣き虫になりました。まあいままで、気を張って生きてきたのでしょう。いまは人の情がわかる、良い娘になりました。この間には、従業員の身内を付きっきりで看病をしてくれまして。病院でも評判でしたよ。じつのところ、わたしも驚きました。とにかく鼻っ柱の強い娘でしたから。もっとも、そこに惚れたのですが」
「社長。そのアーシアとかのは、なんですかの? 可愛がっていた犬か猫のたぐいですかの?」と助役がたずねた途端に、小夜子の顔がみるみる赤くなった。
「アーシアを動物だなんて! バカ、バカ、バカあ! あんたになにが分かるのよ! アーシアは、あたしの命だったんだから」と、涙ながらに奥の部屋に駆け込んだ。
 唖然とするふたりに、武蔵が小夜子の話にことばを足した。
「許してやってください。姉と慕うむすめなんです、アーシアというのは。アナスターシアというロシア娘でしてね、ファッションモデルなんです。男の我々にはとんと縁のない、世界的に有名なモデルでして。若い娘さんに聞いてください、良く知っていると思います。そのむすめと、姉妹の契りを結んだようなんです。いやいやこれはホントの話ですわ。で、一緒に世界を旅するつもりだったようです。そのたにと、一生懸命に英会話を習っていましたからね。お義父さんもご存知ですよね、たしか」

「茂作、そうなのか? そんな話が持ち上がっていたのか? それで、正三との話をご破算にしたのか? なんで言うてくれんのじゃ、そんな大事なことを。お前ひとりで、どうするつもりじゃった!」
 思いもかけぬ話に、繁蔵が茂作を問い詰めた。
「べつに本家の世話になるつもりはなかったですけ」。冷たく言いはなつ茂作に、次のことばが出ない繁蔵だ。
「ところが、その話が頓挫してしまいまして」
「はあはあ、そうでしょうとも。そんな夢物語りみたいなこと、あるわけがないでしょう」
 得心したように助役はうなずくが、繁蔵は不機嫌な色をかくさない。そして茂作は俯いたままで、ひとり武蔵だけが、嬉々として語った。三人に話すというよりは、事の真相を確認するかのごとくだった。
「いやいや頓挫といっても、ある意味、不可抗力なんです。そのむすめ、自○してしまったんです。睡眠薬の過剰摂取というやつです。本人に自○という意思があったのかどうかは、いまとなっては探りようもありませんが。いやべつの角度からすると、遅すぎたとも言えますな。小夜子が早くそのロシア娘の元に行っていれば、この不幸は防げたかもしれません。その思いが小夜子をしばらくの間、苦しめました。そりゃもう、見ていて可哀相でした。ひどい落ち込みようで、自殺するのじゃないかと心配になったほどです」

(二百八)

「自、自○じゃと!」。気色ばんで茂作が、武蔵につめよった。
「な、なんでわしに知らせぬか!」。思いもかけぬ武蔵のことばに、茂作が噛みついた。
小夜子もさよこじゃ! なんで帰って来んのじゃ。そんなにわしは頼りないのか……=Bじくじたる思いのなか、茂作のこころに小夜子の母親の姿がうかんだ。
澄江は、最後はわしの元に戻ってくれたぞ。お前の母親は、わしの元に……
「申し訳ないことをしました。しかしそれがわたしにとっては、結果良しとなりました。やっとわたしの気持ちを、受け入れてくれたのですから。小夜子にとっても良い事だと思います」
「うん、うん。そりゃ、その方が良い。世界を旅するなんざ、とんでもないことだ。茂作にもしものことがあったら、どうするつもりだったのか。思慮が、やはり足りんわ」
 繁蔵が武蔵に相づちを打ち、「社長さん。不幸を防げたといのは、どういうことです?」と、興味津々といった風情な助役に苦笑しつつ武蔵がつづけた。
「これはわたしの推測なのですが」と前置きをしてつづけた。
「ロシア娘は自○という結果に終わったわけですが、本当のところは事故でしょう。人間、そう簡単に○を選ぶなんてことはできんでしょう。孤独感に耐えられずといったところで不眠に陥ってしまい、多量の睡眠薬に頼っていたようです。で、その量が多すぎたが為に、帰らぬ人になってしまったわけです。自○を意識してのことではなかったと思います。遺書といったものもなく、なんの前触れもなくということでしたから。常日頃、『小夜子に会いたい』とこぼしていたとも聞き及びます。もし小夜子がロシア娘の元に、一時的にでも行っていれば……。いやこれは、いまさら言っても詮ないことですが」

 母親の位牌のまえで手をあわせる小夜子の耳に「良かったね、小夜子。幸せになるのですよ」と、そんな声が聞こえた気がした。
「お母さん、あたしはお母さんのようにはならないわ。きっと幸せになってみせる、あたしを見守っていてね」
 目を閉じて母を思い浮かべると、床に就いている姿がある。青白い顔色の澄江が、精一杯の笑顔で小夜子を見ている。しかし小夜子が澄江の傍に近づこうとすると、きまって「だめ! お部屋に入ってはいけません」と、か細いながらも強い声が飛ぶ。そして決まって、「お外で遊んでらっしゃい。病気がなおったら、お母さんといっぱいあそびましょう」と声がつづいた。
「小夜子、大丈夫か? はいるぞ、俺も挨拶をさせてくれ」と、武蔵が声をかけてきた。「いいわよ、入って」。ほほを伝った涙の筋をハンカチでおさえてから答えた。小夜子の隣に座ると、両の手をあわせて
「御手洗武蔵と申します。小夜子を伴侶として迎える男でございます。どうぞ、お見知りおきください」と、神妙にする。
「くくく、はじめて見たこんなタケゾーは」。笑っているのに、大粒の涙が頬を伝っている。哀しみの冷たい涙ではなく、温かい涙があふれ出てくるのだ。
「大丈夫だぞ、心配はないぞ。お義父さんの面倒は、しっかりと見るからな」
 武蔵の口から“お義父さん”ということばが出るたびに、小夜子としては、蜘蛛の巣にとりこまれていく自分を感じた。

なんだか、人質にとられたみたい=B後悔なのではない、自嘲しているのでもない。たゞ漠然とした、得体の知れぬものにまとわりつかれている気がある。武蔵の発する妖気に、包みこまれているのだ。しかしそれは真綿でくるまれているような感覚で、気持ちが高揚してくるものだった。

「小夜子、日どりが決まったぞ。茂作と相談の結果じゃが。村を離れとる者も、お盆には帰省してくるじゃろうからの。ちと暑いかもしれんが、まあ辛抱してくれ。御手洗さんも、それで宜しいでしょうかな?」
 繁蔵がふたりに告げた。茂作は憮然とした顔つきをしながらも、ゆるむ口元を必死の思いでこらえているようにもみえた。
「分かりました、それで結構です。小夜子、お前も異存はないな? 大急ぎで、花嫁衣裳を作らなけりゃな。忙しくなるぞ、また」
満面に笑みを浮かべる武蔵にたいして、曇りがちな表情を小夜子が見せる。

(二百九)

「どうなすった、小夜子さん? まだ具合が悪かったかな? 車酔いが収まってないかの? 診療所に寄ってみるかの?」
「助役さん、そりゃないぞ。往診させてくださいの。大事な、村の宝なんじゃから」
 助役のことばに、すぐさま繁蔵が噛みついた。武蔵の横顔を盗み見しながら、その表情を読み取ろうとしていた。武蔵は「どうする、小夜子。往診してもらうか?と、心配気に問いかけるだけだった。
「うん……」。力なく、小夜子が答えた。

 元気のなさが気になっていた茂作だったが、武蔵と繁蔵だけで話を進めさせるわけにもいかない。といって口をはさもうにも、事後承認ということになっている。
せめても式の日どりだけはおそくしたい。なにごとかが起きぬともわからないのだ。それでこの話がご破算になればいい、そう思ってしまう。
わしは、わしは……。もしこれが、正三との縁談話だとしたら、納得したのか。いや、またなんのかんのと難癖をつけて、引き延ばしたかもしれん。そもそも、わしは小夜子を嫁がせる気があるのか? 澄江のときもそうじゃった。わしの、わしのかってな思い込みで、村の百姓に嫁がせるなどとんでもない。都会の立派な勤め人と、なんて考えとったじゃないか。そんな器量がわしにあるわけもないのに……。いったいぜんたい、わしはどうしたいんじゃ? 小夜子をわしの手元に縛りつけておきたいおきたいだけじゃないのか
 己の狭量さに気づかされた茂作だったが、それがどうした、なにがわるい≠ニ開きなおる気持ちもわいてきた。

「さ、小夜子、お前、まさか」
 茂作の怒声が部屋にひびき渡った。まさかとは思いつつも、懐妊というふた文字が頭のなかで飛びまわり始めたのだ。 小夜子の母である澄江がそうであったように、身ごもったゆえの帰省とダブってしまった。
「違うわよ、ちがう! なに、考えてるの」
 手を振りながら、一笑に付す小夜子。武蔵もまた、茂作の心配ごとに気づき、「だと良いんですが、それはないでしょう」と、否定した。
 ほっと安堵の表情を見せる茂作に、「おめでた、ということか?」と、繁蔵が小夜子の顔をのぞきこんだ。
「だとしたら、めで、」。「だから、ないんです」と、キッと睨み付けながら声をかぶせた。
「おっと、いかんいかん。それではわたしはこれで。今日中に戻らなければならんのです。明日、約束があるものですから。小夜子は、泊まっていけ。二、三日ゆっくりしてから戻ってこい」
 武蔵が身体を起こすと、「いや、一緒にかえる」と、その袖をつかんだ。

冗談でしょ、あたしひとり残ったらどんなことになるか。朝から、なんだかんだとうわさ話のために、やってくるわよ。それで、あることないことが、あっという間に広まるんだから。明日の午後には、ふしだらな女だってってことになるわよ。ああ、いやだいやだ! だから田舎を飛びだしたっていうのに
 つい先ほどの優しい小夜子の声かけが、空しく茂作にひびく。
「分かった、わかった。今日はええ」。俯いたまま、手をふって「去ね、いね」としぼり出した。
正三の馬鹿たれが。あいつが小夜子をつかまえておれば、こんなことを言うことはないはず。むかしのやさしい小夜子でいてくれるものを。まったく役に立たぬ男じゃ

 武蔵と正三を比べてしまう茂作だったが、良い婿を見つけてきてくれたものじゃ≠ニ、繁蔵にはなによりのことだった。武蔵の財力を当てにしてのことなのだが、きょうの繁蔵に対する態度が気にならないわけではなかった。ヤミ市からの成り上がり方を聞くと、利にさとい男なのだからという望みを持たないわけでもなかった。
きょうは、ただ単に茂作を立てただけ=Bそう思った――いや、思いたかった。
 来年の春には村長選がひかえている。現村長にはさしたる失態もないのだが、「もういいかげんに引退してもらわにゃ」、「二期というのがかんれいじゃし」という声がチラホラと飛んでいる。本来なら「助役さんに」ということになるのだが、押しの弱い助役には現村長を押しのけてもという気概がない。それどころか、「来期は引退してもらうから」と、現村長に通告されてしまった。反旗をひるがえしたつもりはないのだが、機先を制されてしまった。その話を聞きつけた繁蔵が、「あんたにはつづけてもらわなきゃ、のお。まだまだ若いんじゃから」と声をかけられたのだ。