(百八十六)

「社長、お早うこざいます」。晴ればれとした表情で、五平が武蔵を迎えた。
「おう、ご苦労だったな。どうだった、怒り心頭ってところか?」
「はあ、まあ。突然でしたから、あんなものでしょう。しかし最後は納得してもらえましたよ」
「嘘をつけ! 渋々ってところだろうが。娘を手ばなすってのは、売るのも同然だ。あ、すまん。五平には嫌なことを思い出させたか?」
「良いんです、社長。ま、少しごねられましたがね。最後にはわかってもらえました」
「まあいいさ。俺が出向いたときに頭を下げればすむことだ。問題は小夜子だな。挨拶に行ったと知ったらどんな顔をすることやら」
 即断即決を旨とする武蔵が、ぐずぐずと先延ばしにしてきた小夜子との婚姻をやっと決断したというのに、当の本人に伝えていない。信じられぬ思いで
「社長、話してないんですか? らしくもないですな。万が一にも、四の五の言われるようなら、ガツンと言ったらどうですか」と詰め寄った。
「うん、それがなあ……。どうも小夜子の前に立つとなあ。ま、近々話すさ」
「どうも小夜子奥さんにはからっきしですな」
「ははは、惚れた弱みかな? らしくもないな、たしかに」
 
「社長! 社長」
 高揚した顔で徳子が息せききって駆けこんできた。
「どうした、徳子。お日さまが西からでも昇ったか?」
「冗談を言ってる場合じゃありませんよ。お姫さまが、いえ小夜子奥さまがお見えなんです」
「小夜子だと!」
 素っ頓狂な声をあげる武蔵に、「おやおや、噂をすればですね社長。あたしはこれで引っ込みますわ」と、にやける五平だ。
 予想だにしなかった大歓待を受けた小夜子が、顔を上気させながら
「なあに、あたしが来たらまずいことでもあるの? 」と、上機嫌で部屋に入ってきた。
「そんなことはないさ、大歓迎だ。なあ、徳子」
「もちろんです。毎日でもお出でいただきたいですわ。みんな喜びます」
「ありがとう」。素直に徳子からのことばを受けると、「今日はどうした? えらく地味な服じゃないか」という武蔵に
「これから病院に行くの」と、満面に笑みをうかべてこたえた。
「そうか。それじゃあ、と。これで果物でも買っていってやれ。そうだ、帰りに映画でも見て行くか?」
 小夜子を映画界に誘ってくれた女優が出演している、源氏物語りを観たいとせがまれていた。人混みのきらいな武蔵は、映画にはまるで関心がない。
「観たい映画があるっていってたろう。ひとりじゃあれだから、千勢を呼び出せ。あいつも映画は観たいだろうから」
「千勢と? いいけど……でも、武蔵といっしょがいいもん」
 武蔵の背広の裾にじゃれながら、言う。いじらしさを見せる小夜子に、つい会社だと言うことも忘れて抱きしめた。

(百八十七)

こんな社長、見たことないわ。ほんとにベタ惚れなのね≠ニ思いつつも、徳子のなかに嫉妬心がまるで湧いてこない。社長室を出るタイミングを逸した徳子の前でのことに、呆れかえってしまった。お嫁さんというより、娘みたい。そう! 親娘みたい=Bなにかくすぐったさを胸のなかに感じてしまい、おのれが母親のような錯覚さえおぼえてしまう。
 階下から五平の声が聞こえてくる。武蔵に来客があることを知らせるべく、一段と大きな声を上げている。武蔵の秘書役も兼ねている徳子が、「社長、高田商店さんです」と、告げた。
「お、そうか。お通ししろ」。「あたし、行くね」
 来客だと聞いた小夜子が、気を利かせて帰ることにした。しかし武蔵がいたずらっぽい表情を見せながら、
「まあ、待て。見せびらかしてやる。あっという間に広がるぞ。これだからな」と、口の前に手でラッパを作った。
 恰幅の良い、と言うよりは太り気味の男が、つるっ禿げの頭を手巾で拭きながら入ってきた。たれ目のその男、好人物を絵に描いたような風体だ。
「高田さん、どうもどうも」
「ごぶさたですわ、社長。おや、こちらの女性は? はじめてお目にかかりますな」
「はじめまして、小夜子と申します」。行儀良く、ぺこりと頭を下げた。目を細めて見やる武蔵。ついぞ会社では見せない柔和な顔だ。
「ひょっとして? 社長、ご妻女? いやあ、社長が自慢するだけのことはありますな。じつに可愛らしい娘さんだ」
 しげしげと小夜子を見ながら、小夜子をほめそやす。満足気にうなずきながら「社長が初ですよ」と、紹介した。
「武蔵、お邪魔でしょうから、あたし行きます」。「うん、気をつけてな。電話しろ、帰る前に」。「はい、それじゃ」
 なごり惜しげな顔を見せながらも、「どうもどうも」と高田が手を差し出してきた。「あ、はい」と声を返しながら、差し出された手を握った。羨ましい、うらやましいと何度も口にしながら、「またお会いしたいもんです」と、最大級の笑顔をみせる高田だった。

 その日の夕方、武蔵と小夜子はいつものレストランで落ちあった。竹田の姉の回復ぶりは、医者もおどろくほどに順調だった。ほとんど毎日のように顔をだす小夜子のおかげで、母親のグチを聞かずに済むことが大きかった。かつてには「ほんとにおまえはやくびょう神だよ。よほどに悪行をつんだんだろうね、前世では。祈祷師さまたちのおかげでこの程度ですんでいるけれども、たいそうな物入りだよ」と、なじられた。
 竹田の居ない日中に、毎日まいにち聞かされることば。そして三日と空けずにやってくる祈祷師やら占い師。そのたびに大枚の金員をさしだす母だ。弟が必死の思いで稼いできたそれを、さも当然といった顔つきで奪い去っていく。
 さらには、月にいちどのお下げ物がある。意味不明の記号のような文字が貼られた空の一升瓶やら、からの木箱。祈祷師いわくに、神さまの息吹が詰まった物だから、けっして開けてはならぬ物だ。みている姉としては、申し訳なさでいっぱいとなり、このまま黄泉の世界に旅立ちたいとさえ思い悩む。
 竹田の稼ぐ給金は、こうして殆んど失くなってしまう。他の二人がせっせと通うキャバレー。ときには羨ましいと思うこともあったが、すぐにその思いは消えた。
「勝利。お前は、勝子が可哀相だとは思わんのか! お前がこうしてたくさんのお給金をいただけるのは、勝子が病にかかっているからぞ。神さまが哀れに思われての、お給金なのじゃ」
 それがいまは、五平の一喝で祈祷師も占い師も来ない。母親もまた、憑き物が落ちたように落ち着いている。なによりも、姉の回復がありがたい。小夜子相手に、将来の夢をかたりはじめた姉が嬉しい。

(百八十八)

「ねえねえ、タケゾー。勝子さん、すっかり元気になってくれた。あたしのおかげですなんて、手を合わせるのよ。看護婦さんたちもね、そう言ってくれるの。恥ずかしくなっちゃう」
 目を輝かせて武蔵に病院でのことを小夜子が話しはじめた。キラキラと輝くその瞳をじっと見つめて、武蔵の頬も緩みっぱなしだ。
「そこまで回復したか。小夜子は、そこらの医者よりもずっと名医だな。まだ頑張ってみるか?」
「もちろんよ。退院されるまで付きそうつもりよ」
「小夜子。きのう、お前の実家に行かせたよ」
 突然の、寝耳に水の武蔵のひと言に、ことばを失ってしまった。見るみる顔が紅潮し、わなわなと唇が震える。
「ど、どうして! なんでいきなり行ったのよ! あたしから前もって連絡しなきゃ怒るわよ、きっと。あたし、タケゾーのお嫁さんになるって、決めてないわよ! タケゾーが勝手に思ってるだけでしょ。なのに会社のみんなに『奥さま、おくさま』って。わざと言わせたりして」
 顔を真っ赤にして烈火のごとくに怒る小夜子に、周囲の客たちがその剣幕に気圧されて席を立ってしまうほどだ。
「小夜子、小夜子、落ち着け。みなさん、驚かれてるじゃないか。俺が悪かった、わるかった。な、とにかく落ち着いてくれ」

 テーブルに頭をこすりつける武蔵の様に、一様に口を開けたままの客たちだった。まさに異様な光景だ。年端もいかない小娘に、一端の男があやまりつづけるのだから。
「あんまりよ、あんまりよ。あたしに黙って……」
 しだいに涙声になる小夜子だった。アナスターシアの死亡以来、気弱な面を見せる小夜子に、ただただあやまるだけの武蔵だった。武蔵の元にとつぐ、それは小夜子の気持ちの中にあった。武蔵の妻になる、それが最良のことと小夜子もわかっている。しかし、こころの隅では反発する気持ちもあった。

――お金に目がくらんだの? 金色夜叉のお宮みたいに、正三さんを見限るの! 薄情な女なのね、見損なったわ。天国のアーシアも呆れてるんじゃないの。きっと、アーシアが泣いてるわよ
――ちがう! そんななじゃない。あたしは薄情な女じゃない。勝子さんの看病に、毎日通ってるのよ。みんながあたしをほめてるじゃないの。そうよ、正三さんが悪いのよ。あたしをほっとくなんて
――正三さんに会わなくっちゃ。どうして連絡をくれないのか、ハガキの一枚すらも。こころ変わりしたの? お父さまに負けたの? どうしてもはっきりさせなくちゃ。あたしから引導を渡さなくちゃ。

 そうなのだ、己を納得させるための儀式が済んでいないのだ。正三のこころ変わりではなく、正三にに捨てられるのではなく、小夜子の決断としたいのだ。そうでなければならないのだ。武蔵の小夜子に対する愛情は、疑うべくもない。小夜子の欲することすべてを、武蔵は適えてくれる。小夜子が熱望した女王然とした生活を送らせてくれる。しかし釈然としないものが、小夜子の胸にうず巻いている。それがなんなのか、いまの小夜子には分からない。

 平塚らいてうに憧れた小夜子。
「原始女性は太陽であった」
 この一文に、小夜子のすべてが始まった。

(百八十九)

 ときおりとつぜんに襲ってくる恐怖感、そして急き立てられるような焦燥感。不安で不安でたまらなくなってしまう。アナスターシアという存在の大きさを、いまさらながら感じる小夜子だ。
「帰ったぞ!」。このひと言が、どれ程に小夜子を和ませることか、安心感を与えることか。しかしそれが腹立だしい小夜子でもある。
「お帰りなさーい!」
 二階にいても居間にいても台所にいても、武蔵の声に吸いこまれるように飛んでむかえに出る小夜子。そのくせ武蔵の顔を見たとたんに、不機嫌な顔を見せる。
「きょうはなにをしたんだ?」。膨れっつらの小夜子を、抱きかかえて上がり口に足を乗せる。
「いっぱい、したわよ。お洗濯でしょ、それからお部屋のおそうじ。お台所の拭き掃除もしたんだから。階段もふきそうじしようかと思ったけど、ご用聞きが来ちゃったから。明日、やるのよ」
 顔のほころびを感じつつも、険のある声で返事をする。
「そうか、そうか。そんなに頑張ってくれたのか」
「なによ、不足だって言うの!」
 着替えの手伝いをしながらも、まだ頬をふくらませている。
「なあ、小夜子。お手伝いを入れたらどうだ? 呼びもどすか、千勢を。学校に通ってないだろう、最近。うん、どうだ?」

 英会話に対する思いが、一気に消え失せている小夜子だ。
 アナスターシアとの旅が目的の、そのための英会話の勉強だった。そのアナスターシアは、もういない。目的がなくなってしまっては、情熱も消えうせてしまう。中途になっていることに対し、じくじたる思いを感じてはいる。通わねば、とも思いはする。アナスターシアに対する衷心からも通わねばと思いはしている。しかし足が動かない。いや、こころが動かない小夜子だ。
「お洗濯しなくちゃ」。「お掃除がすんでない」。「ご用聞きがくるわ」
 なんやかやと言い訳を見つけては、出かけることをしない。そしていま、勝子が退院してからというもの、一度たりと出かけていない。もう二十日ほどが経っている。武蔵の思いはわかっている。閉じこもり気味の小夜子を、明るい太陽の下にひっぱりだしたいのだ、それはわかっている。アナスターシアの死を引きずってはいないかと気にかけている武蔵のこころはわかっている。しかしそのこころづかいが、小夜子にアナスターシアを思い出させてしまうのだ。
「なによ、それ。あたしのおさんどんじゃ、だめだって言うの! 一生懸命やってるのに! いいわ、もうやらない! 千勢でも誰でも、やらせたらいいわ」

 突然に怒り出し、そして最後は泣きくずれてしまう。
 そして「悪かった、わるかった。な、小夜子。さよこが一番だぞ。俺の宝物は小夜子だぞ。さよこは、おれの大事なだいじなおひめさまだ」と、泣きじゃくる小夜子をひざの上であやす毎日をおくる。そのことで一日の疲れが、一気に吹き飛んでいくのだ。甘くかおる小夜子の髪をたのしむ武蔵だ。妖しくひかる黒髪が、武蔵のこころに安らぎをあたえてくれるのだ。しばしの後に、「ごはん、ごはん」と、勢いよく立ち上がる小夜子。「まだいいじゃないか、小夜子」と、未練を残す武蔵。
 日々くりかえされる、武蔵と小夜子の日常だ。

(百九十)

「きょうはね、お刺身よ。タケゾーはお肉が多いでしょうから、お魚しか食べさせてあげない」
「なに言ってる、刺身は好物だ。酒にぴったりじゃないか」
「お昼はどうしてるの? 外に食べに出てるの? ひとり、じゃないわよね。どうせ取引先と一緒に、でしよ? あたしなんかいっつも、お茶漬けさらさらなのに」
 暗に、休みの日にはステーキを食べさせて、とにおわす小夜子だ。
「ばか言うな、そんなことはないさ。いつもざるだよ。近所の店から、ざるそばを出前させてるさ」
「うそ! タケゾー、うそついてる」
「うそなもんか、小夜子にうそなんか吐くものか」
「うそよ、ぜったいうそよ」と、あくまで言い張る小夜子。いつもならばここで「ほんとね? ならいいわ」と矛を収めるのだが、今夜に限ってはちがう。
「どうしてそう思うんだ? こんやの小夜子はおかしいぞ」
「だって、だって……。タケゾー、いつも元気だから。あたしが疲れているときでも元気だから。夜、げんきだから。よる遅くなったときでも、朝になったら元気だから……」
 顔を真っ赤にして、声も小さくなっていく。
「ああ、あのことか。ハハハ、そりゃ元気だぞ。小夜子を抱いているんだからな、元気そのものだ」
「ばか! そんなこと、大きい声でなんかだめ!」
「悪かった、わるかった。まっ、しかしだ。みんなが知ってることだから、いいじゃないか。そうだ。小夜子にごほうびをやろう。欲しい物はあるか? なにが欲しい」

「欲しい物? ある、ある。あたしね、くつが欲しい。それもね、赤いくつが。病院でね、お唄を聞いたの。赤いくつ、はいてたおんなの子ー。知ってる? このお唄。タケゾーは、知らないわね」
「赤いくつか。分かった、こんどの休みに百貨店に行こう。そうだ! 草履も買ったらどうだ。この間のぬかるみで駄目になっただろう」
 武蔵がアメリカ将校たちとのホームパーティを考えている。GHQの解散が決まり、一部の米兵以外は帰国する。これまでの感謝の意をこめてのことだ。
アメさんたちも、ステーキばかりじゃ飽きるだろう。芸者ガールに興味深々だったからな。きっと喜んでくれるぞ。小夜子に日本舞踊の趣味でもあればいいんだが、そうもいかんか
 しかし小夜子が思いえがくことは……。
 正三との再会のことであり、最新モードで思いっきりおしゃれしなくちゃ。正三さん、目を丸くするでしょうね。ふふ……あのショーのときのように≠ニ思う。どうしても会わねば、と考える小夜子だった。

 すれ違う思いを抱くふたりなのだが――小夜子の中にある正三への思い、それが夢想の世界でしか存在しえない恋慕の情だと考える武蔵だった。そしてそれを許す己に、小夜子への思いの強さをしめす証しなのだと言い聞かせてもいた。

(百九十一)

 ピンクのエプロンに身をつつんだ小夜子――割烹着姿がまだ幅を利かせていてるなか、新時代の女を自認する小夜子の面目躍如だ。新しい女は洋式でなければならぬ。着物姿は時代遅れなのだと信じてやまない。だって、戦闘服なのよ。着物ではしっかりと動けないわ=B
「小夜子。どうだろう、そろそろ」
「なあに、そろそろって」
「うん。だからな、月が変わったらな……」
 歯切れの悪い武蔵のことばに「月がかわったら、なあに?」と、あくまでとぼけてしまう。分かっている、小夜子もわかっている。そしてそのことが、小夜子を不機嫌にさせる一因だとも、武蔵も知っているのだ。しかしいつまでも放ってはおけない。五平を茂作の元に行かせてから、そろそろひと月が経とうとしている。
「いやなにな、そろそろご挨拶にな、行こうかと」
 ふり向いた武蔵の眼前に、眉間にしわをよせた小夜子がいた。
「挨拶って、なあに? なにしに、どこに行くのかな、タケゾーは」
 軽やかなトーンの声が、武蔵の耳に鋭くつきささる。
「いや、もういいかな、と。茂作さんも、気をもまれているのじゃないかと、そう考えるんだが」
「行ってきたら」。つめたく言い放つ小夜子。刺身を盛る手がふるえている。

「お金ちょーだい!」
 突然の小夜子の嬌声に、思わず立ち上がった。
「な、なんだ、藪から棒に。どうしたって言うんだ」
「タケゾーとは暮らせなーい。あたし、お父さんに『正三さんのお嫁さんになる』って、そう言ったのよ」
 抑揚のない低い声でつげた。眉間のしわがきえ、目は涼やかに笑っているようにもみえる。ふるえていた手も落ち着きをとりもどし、エプロンのひもをはずしている。
「あんな不人情な男なんぞ忘れてしまえ。俺の嫁さんになれ、小夜子。絶対におまえを幸せにしてやる。贅沢な暮らしをさせてやる。茂作さんにも不自由はさせん」
 喉にひりつきを感じるなど、ここのところなかったことだ。美容院での異変を知らされて以来のことだ。
「小夜子に相談をせずに、事を進めたのは悪かった。小夜子の気持ちが固まったと思ったんだ。もう他人じゃないんだ、俺たちは」
「そ、そんなの、勝手にタケゾーが。あたしが望んだことじゃないし。タケゾーが無理やりにあたしを……、そうなんだから。そうよ、そうなのよ。あたし出て行く。だから、お金ちょうだい」
 小夜子がその場に泣き崩れてしまった。俺とのことを後悔しているのか? そんなにあの若造が、正三とかいう男がいいのか?=B今夜ばかりは武蔵も思案にくれた。正直のところ、なにに対しての小夜子の怒りなのか、判然としない武蔵なのだ。これほどの拒否反応をしめすとは、思いもかけないことだった。

 いや武蔵ばかりではない、じつのところは小夜子にも分からないのだ。いや、ひとつは分かっている。正三に対する不実さを認めたくないのだ。しかしそれだけではない。まだ他のなにかが小夜子を苦しめている。
 武蔵に、処女を与えてしまった。
 いくら新時代の女を自認する小夜子といえども、肌を許すことの重大さは認識している。いまさら他の男に嫁ぐことできない。それは分かっている。しかしそれでも正三の元に飛びこむかもしれない。世間の聞こえを気にする小夜子ではない。
こんなに世話になったんだもの、仕方のないことよ。それに、おじいさんの借金まで肩代わりしてくれてたんだし。それに正三さんなら何も言わないわよ。許してくれるわ、きっと

「約束する、小夜子。不自由な思いは絶対にさせんから。もちろん茂作さんにもだ。な、だから俺の嫁さんになれ。これからは輸出を視野に入れてる。アメリカさん相手の商売で、俺に力を貸してくれ。小夜」
「力を貸してくれ、ですって。よくもそんなことを。タケゾーに処女を奪われたから、もう正三さんのお嫁さんにはなれないわ。タケゾーなら将校さんたちとお話できるんでしょ?」
 武蔵のことばをさえぎる小夜子。思いうかべた正三が、しだいに消えていく。眼前の武蔵が、小夜子にぐっとせまりくる。顔をそむけても、すぐに武蔵ががんぜん眼前にせまる。しかし傲然とした表情で武蔵にむかい、さげすむように見すえながらことばをつづけた。

「いいわ、いいわよ。なってあげる、タケゾーのお嫁さんに。そしてタケゾーの会社のお手伝いをしてあげる」
 懇願の体をとる武蔵に、小夜子の気持ちもおちつきをとりもどした。武蔵に請われてのこと、そうした儀式にもにた今夜のさわぎでもってようやく小夜子に覚悟ができた。けじめがついた。
 武蔵に抱かれ目をとじて、されるがままの小夜子。ざらついていたこころが、しだいに滑らかさをとりもどしていく。しかしひとりになると、小夜子をなじる声に悩まされる。小夜子のこころの中で、まだけじめのつかぬことがある。
正三さんに会わなくちゃ。はっきりさせなくちゃだめなの。どうしてハガキの一枚もくれないのか、問いつめなくちゃ
違う、ちがうわ、そうじゃない。正三さんに宣告してあげなくちゃ。いつまでもあたしを待たれても、こまるのよ。そう、そうよ。あたしのことは、諦めてもらわなくちゃならないのよ