(百八十九)

「社長、お早うこざいます」
 晴ればれとした表情で、五平が武蔵をむかえた。
「おう、ご苦労だったな。どうだった、怒り心頭ってところか?」
「はあ、まあ。突然でしたから、あんなものでしょう。しかし最後は納得してもらえましたよ」
「嘘をつけ! 渋々ってところだろうが。娘を手放すってのは、売るのも同然だ。あ、すまん。五平には嫌なことを思い出させたか?」
「良いんです、社長。ま、少しごねられましたがね。最後には分かってもらえました」
「まあいいさ。俺が出向いたときに頭を下げればすむことだ。問題は小夜子だな。挨拶に行ったと知ったらどんな顔をすることやら」
 即断即決を旨とする武蔵が、ぐずぐずと先延ばしにしてきた小夜子との婚姻をやっと決断したというのに、当の本人に伝えていない。信じられぬ思いで
「社長、話してないんですか? らしくもないですな。万が一にも、四の五の言われるようなら、ガツンと言ったらどうですか」と詰めよった。
「うん、それがなあ……。どうも小夜子の前に立つとなあ。ま、近ぢかにでも話すさ」
「どうも小夜子奥さんにはからっきしですな」
「ははは、惚れた弱みかな? らしくもないな、たしかに」。頭を掻きかきの武蔵だ。
「社長!」。高揚した顔で、徳江が息せききって駆けこんできた。
「どうした、徳江。お日さまが西からでも昇ったか?」
「冗談を言ってる場合じゃありませんよ。お姫さまが、いえ小夜子奥さまがお見えなんです」
「小夜子だと!」。素っ頓狂な声をあげる武蔵に、
「おやおや、噂をすればですね社長。あたしはこれで引っこみますわ」と、にやける五平だ。
 予想しなかった大歓待を受けた小夜子が、顔を上気させながら
「なあに、あたしが来たらまずいことでもあるの? 」と、上機嫌で部屋に入ってきた。
「そんなことはないさ、大歓迎だ。な、徳江」
「もちろんです。毎日でもお出でいただきたいですわ。みんな喜びます」
「ありがとう」
「で、今日はどうした? えらく地味な服じゃないか」
 たしかに小夜子らしくない服装だった。うす緑色のブラウスに、グレーのズボンをはいている。靴は動きやすいズックにしていてた。
「これから病院に行くの」
「そうか。それじゃあ、これで果物でも買っていってやれ。そうだ、帰りに映画でも見て行くか?」
「うーん、ひとりだと……」
「なんだ? ひょっとして怖いのか?」
「そうじゃないけど、ひとりじゃつまんないもん」
 武蔵の背広の裾にじゃれながら、言う小夜子。いじらしさを見せる小夜子に、つい会社だということも忘れて抱きしめた。そして耳もとで、「帰るとき、電話しろ」と小声で伝えた。

(百九十)

「社長、お客さまです」。その場にいた徳江が声をかける。
こんな社長、見たことないわ。ほんとにベタ惚れなのね≠ニ思いつつも、嫉妬心がまるで湧いてこない。
「お、そうか。お通ししろ」
 愛人でもある徳江に、悪びれることなく小夜子を抱いたまま答えた。小夜子もまた気恥ずかしさなど、まるでない。
「じゃ、行くね 」
「まあ、待て。見せびらかしてやる。あっという間に広がるぞ。これだからな」と、口の前に手でラッパを作った。
 恰幅の良い、と言うよりは太り気味の男が、つるっ禿げのあたまを手巾で拭きながらはいってきた。たれ目のその男、好人物を絵に描いたような風体だ。
「高田さん、どうもどうも」
「ごぶさたですわ、社長。おや、こちらの女性は? はじめてお目にかかりますな」
 ぺこりと頭を下げて「はじめまして、小夜子と申します」と行儀良くこたえた。目を細めて見やる武蔵。ついぞ会社では見せない柔和な顔だ。
「ひょっとして? 社長、ご妻女? いやあ、社長が自慢するだけのことはありますな。じつにかわいらしい娘さんだ」
 しげしげと小夜子を見ながら、小夜子をほめそやす。満足気にうなずきながら、武蔵の前に、小夜子を押し出した。
「おお。水仙の花のようですなあ」。水仙は、長い茎の先にうつむいたような、どこか儚げな一面をもった花が咲く。黄色の葉のなかに赤い花が咲く種もあれば。白い葉のなかに黄色の花がさく種もある。小夜子の好きな花のひとつだったがために、思わず頬が赤らんだ。
「タケゾー、おじゃまでしょうから、あたし行きます」
「うん、気をつけてな。電話しろ、帰る前に」
「はい、それじゃ」
 その日の夕方、武蔵と小夜子はいつものレストランで落ち合った。竹田の姉の回復ぶりは、医者も驚くほどに順調だった。ほとんど毎日顔をだす小夜子のおかげで、母親のグチを聞かずに済むことが大きかった。かつてには、
「ほんとにお前はやく病神だよ。よほどに悪行を積んだんだろうね、前世では。きとう師さまのおかげでこのていどですんでいるけれども、大層な物入りだよ」と、なじられた。
 竹田のいない日中に毎日まいにち聞かされることばが勝子の精神をむしばむ。そして三日と空けずにやってくる祈祷師やら占い師たちが、神の水と称して、勝子の身体にふりそそぐ。そして。そのたびに、大枚の金員をさしだす母だ。
 さらには、月にいちどのお下げ物がある。意味不明の記号のような文字が書いてある空の一升瓶やら、空の木箱。祈祷師いわくに、神さまの息吹が詰まった物だから、決して開けてはならぬ物だという。竹田の稼ぐ給金は、こうしてどんどん失くなってしまう。他のふたりがせっせと通うキャバレーが、ときには羨ましいと思うこともあったが、すぐにその思いは消えた。

「勝利。お前は、姉ちゃんがかわいそうだとは思わんのか! お前がこうしてたくさんのお給金をいただけるのは、姉がやまいにかかっているからぞ。神さまが哀れに思われての、お給金なのじゃ」
 それがいまは、五平の一喝で祈祷師も占い師も来ない。母親もまた、憑き物が落ちたように落ちついている。なによりも、姉の回復がありがたい。小夜子相手に、将来の夢をかたりはじめた姉が嬉しい。

(百九十一)

「ねえねえ、タケゾー。勝子さん、すっかり元気になってくれたの。あたしのおかげですなんて、手を合わせるのよ。看護婦さんたちもね、そう言ってくれるの。恥ずかしくなっちゃう」
 目をかがやかせて武蔵に病院でのことを小夜子が話しはじめた。キラキラとかがやくその瞳をじっと見つめて、武蔵のほほもゆるみっぱなしだ。
「そこまで回復したか。小夜子は、そこらの医者よりもずっと名医だな。まだ頑張ってみるか?」
「もちろんよ。退院されるまでつきそうつもりよ」
「小夜子。きのう、お前の実家に行かせたよ」
 とつぜんの、寝耳に水の武蔵のひと言に、ことばを失ってしまった。見るみる顔が紅潮し、わなわなと唇がふるえた。
「ど、どうして! なんでいきなり行ったのよ! あたしから前もって連絡しなきゃ怒るわよ、きっと」
「あたし、タケゾーのお嫁さんになるって、決めてないわよ! タケゾーが勝手に思ってるだけでしょ。なのに百貨店じゃみんなに『奥さま、奥さま』ってわざと言わせたりして」
 顔を真っ赤にして怒る小夜子に、周囲の客たちがその剣幕に気圧されて席を立ってしまうほどだ。
「小夜子、小夜子、落ち着け。皆さん、驚かれてるじゃないか。俺が悪かった、わるかった。な、とにかく落ち着いてくれ」
 テーブルに頭をこすりつける武蔵の様に、一様に口を開けたままの客たちだった。正に異様な光景だ。としはも行かぬ小娘に、いっぱしの男が謝りつづけるのだから。
「あんまりよ、あんまりよ。あたしに黙って……」
 しだいに涙声になる小夜子だった。アナスターシアの死亡以来、気弱な面を見せる小夜子に、ただただ謝るだけの武蔵だった。武蔵のもとに嫁ぐ、小夜子の気持ちのなかにあった。武蔵の妻になる、それが最良のことと小夜子も分かっている。しかし、こころの隅では反発する気持ちもあった。反発? いや、迷いがあった。
お金に目がくらんだの? 金色夜叉のお宮みたいに、正三さんを見限るの! 薄情な女なのね、見損なったわ。天国のアーシアも呆れてるんじゃないの。
きっと、アーシアが泣いてるわよ
 冷徹な目で小夜子を見つめる、もうひとりの小夜子がいる。
ちがう! そんなんじゃない。あたしは薄情な女じゃない勝子子さんの看病に、毎日通ってるのよ。みんながあたしをほめてるじゃないの。そうよ、正三さんが悪いのよ。あたしをほっとくなんて
 正三をなじる。正三が悪い、と言い張る小夜子がいる。
正三さんに会わなくっちゃ。どうして連絡をくれないのか、葉書の一枚すらも。心変わりしたの? お父さまに負けたの? どうしてもはっきりさせなくちゃ。あたしから引導を渡さなくちゃ
 そうなのだ、己を納得させるための儀式がすんでいないのだ。正三の心変わりではなく、正三に捨てられるのではなく、小夜子の決断としたいのだ。そうでなければならないのだ。武蔵の小夜子にたいする愛情は、うたがうべくもない。小夜子の欲することすべてを、武蔵はかなえてくれる。小夜子が熱望した女王然とした生活をおくらせてくれる。しかし釈然としないものが、小夜子の胸に渦巻いている。それがなんなのか、いまの小夜子には分からない。
 平塚らいてうに憧れた小夜子。
「原始女性は太陽であった」。この一文に、小夜子のすべてが始まった。

(百九十二)

 ときおりふとしたおりに襲ってくる恐怖感、そして急き立てられるような焦燥感。不安でふあんでたまらなくなってしまう。アナスターシアという存在の大きさを、いまさらながら感じる小夜子だ。
 いまとつぜんに、思いだした。
 あのホテルの1室でのことを、思いだした。通訳の前だとともに、アナスターシアの先導よろしくフラダンスを踊ったことを。そして前田が「きついわ、きつすぎるわ」と脱落し、つぎに小夜子が「もうだめ」と崩れおちた。
 しかしそのあともアナスターシアは、なにかにとりつかれたように狂ったように、右に左にと腰をひねりつづけた。一糸まとわぬ姿で、小夜子になにかを訴えかけるように、踊りつづけた。「妹になって」。切なるアナスターシアの願いのこもった、踊りのことを。
 あの夜以来、小夜子はそのことばを信じた。「Стань моей сестрой.(妹になって)」そしてそのとき、小夜子の意識外で、主従関係が生まれた。
「アーシアの妹になるの」。話した相手すべてが、武蔵もそして正三さえも、信じてはいない。ただひとり信じてくれたのは、茂作だった。茂作ひとりだった。
「本家のだれも、信じてくれなんだ」。小夜子に告げた。「わしだけぞ、そのロシア娘のことを信じたのは」。なんども言う。ただ、それが小夜子の幸せを願うこころからのものではないことは、茂作の身勝手な……。いやこれは、小夜子のためにも伏せておこう。
 小夜子が正三のことを思うとき、(ときとして作者のなかに、殉死ということばが浮かぶ。キリスト教における殉教に似たところはあるけれども、作者としてはあくまで、明治天皇崩御後に後追いした故乃木希典大将をイメージしている)主従関係のごときものが存在してしまう。小夜子が主であり正三は従となる。ではなぜ?
 そうなのだ。まだアナスターシアの亡霊にとりつかれている小夜子なのだ。おのれの決断が遅かったがためにアナスターシアを自殺へと追いやったと考えている。あのとき、アナスターシアが帰国するときに、なぜおのれも付いていかなかったのか。そのまま共に道行きとは行かぬまでも、日取りを決めていれば……。アナスターシアの自殺は免れたはずだと、思い込んでいるのだ。

「帰ったぞ!」。このひと言が、どれほどに小夜子を和ませることか、安心感を与えることか。しかしそれが腹立だしい小夜子でもある。
「お帰りなさーい!」。二階にいても居間にいても台所にいても、武蔵の声に吸いこまれるように飛んで小夜子がむかえに出る。そのくせ武蔵の顔を見たとたんに、不機嫌な顔を見せる。
「きょうはなにをしたんだ?」。膨れっつらの小夜子を、武蔵が腕に抱きこんでやさしい声で聞く。
「いっぱい、したわよ。お洗濯でしょ、それからお部屋のおそうじ。お台所のふきそうじもしたんだから。階段もふきそうじしようかと思ったけど、ご用聞きが来ちゃったから。あした、やるのよ」
 顔のほころびを感じつつも、険のある声で返事をする。
「そうか、そうか。そんなにがんばってくれたのか」
「なによ、不足だって言うの!」
 着替えの手伝いをしながらも、まだ頬をふくらませている。
「なあ、小夜子。お手伝いを入れたらどうだ? 呼びもどすか、千勢を。学校に通ってないだろう、最近。うん、どうだ?」
 たしかに英会話にたいする思いが、いっきに消えうせている。
 アナスターシアとの旅が目的の、そのための英会話の勉強だった。そのアナスターシアは、もういない。目的がなくなってしまっては、情熱も消えうせてしまう。中途になっていることに対し、じくじたる思いを感じてはいる。通わねば、とも思いはする。アナスターシアにたいする感謝の念からしても通わねばと思いはしている。しかし足が動かない。いや、こころが動かない。
「お洗濯しなくちゃ」。「お掃除がすんでない」。「ご用聞きがくるわ」。なにやかやと言い訳を見つけては、出かけることをしない。
 そしていま、勝子が退院してからというもの、いちどたりと出かけていない。もう二十日ほどが経っている。武蔵の思いはわかっている。閉じこもり気味の小夜子を、明るい太陽の下にひっぱりだしたいのだ、それはわかっている。アナスターシアの死を引きずってはいないかと気にかけている武蔵のこころはわかっている。しかしそのこころづかいが、小夜子にアナスターシアを思い出させてしまうのだ。
「なによ、それ。あたしのおさんどんじゃ、だめだって言うの! 一生懸命やってるのに! いいわ、もうやらない! 千勢でも誰でも、やらせたらいいわ」
 とつぜんに怒り出し、そして最後は泣きくずれてしまう。
「悪かった、わるかった。な、小夜子。小夜子がいちばんだぞ。俺の宝物は小夜子だぞ。小夜子は、おれの大事なだいじなおひめさまだ」
 泣きじゃくる小夜子をひざの上で武蔵があやす。いちにちの疲れがいっきに吹き飛んでいく、大事なだいじな癒やしの時間だ。甘くかおる小夜子の髪をたのしむ武蔵だ。妖しくひかる黒髪が、武蔵のこころに安らぎをあたえてくれる。
 しばしの後に、「ごはん、ごはん」と、勢い良くたちあがる小夜子。「まだいいじゃないか、小夜子」と、武蔵は未練をのこす。日々くりかえされる、武蔵と小夜子の日常だ。

(百九十三)

「こんやはね、お刺身よ。タケゾーはお肉が多いでしょうから、お魚しか食べさせてあげない」
「なに言ってる、刺身は好物だ。酒にぴったりじゃないか」
「お昼はどうしてるの? 外に食べにでてるの? ひとり、じゃないわよね。どうせ取引先といっしょに、でしよ? あたしなんかいっつも、お茶漬けさらさらなのに」
 暗に、休みの日にはステーキを食べさせて、とにおわす小夜子だ。
「ばか言うな、そんなことはないさ。いつもざる蕎麦だよ。近所の店から、出前させてるさ」
「嘘! タケゾー、うそついてる」
「うそなもんか、小夜子にうそなんか吐くものか」
「うそよ、ぜったいうそよ」。あくまで小夜子は言い張る。小夜子の意図が分からぬ武蔵は、困惑しつつもしっかりと小夜子の目を見て、あくまでもやさしくきいてみる。
「どうしてそう思うんだ? こんやの小夜子はおかしいぞ」

「だって、だって……。タケゾー、いつも元気だから。あたしが疲れているときでもげんきだから。夜、元気だから。夜おそくなったときでも、朝になったら元気だから」
 顔を真っ赤にして、声も小さくなっていく。やっと小夜子の意図がわかると、武蔵も安心できる。先日往診に来てくれた医師から念を押されている。
「台上だとおもいます、安定していらっしゃる。表情も明るいですし。すこし気性のゆれはありますが、まあこれは…。とにかく興奮させないことです」
「ああ、あのことか。ハハハ、そりゃ元気だぞ。小夜子を抱いているんだからな、元気そのものだ」
「ばか! そんなこと、大きい声でなんかだめ!」
「悪かった、わるかった。まっ、しかしだ。みんなが知ってることだから、いいじゃないか。そうだ。小夜子にごほうびをやろう。毎日をがんばってくれているからな。欲しい物はあるか? なにがほしい」
「欲しい物? ある、ある。あたしね、くつが欲しい。それもね、赤いくつが。病院でね、お唄を聞いたの。♪赤いくつ、はいてたおんなの子ー。知ってる? このお唄。タケゾーは、知らないわね」
「赤いくつか。分かった、こんどの休みに百貨店に行こう。そうだ! 草履も買ったらどうだ。こんどはおちついたものはどうだ?」
 アメリカ将校たちのホームパーティへのデビューが近づいている。アメさんたちも、ステーキばかりじゃ飽きるだろう。芸者ガールに興味深々みたいだからな。きっと喜んでくれるぞ。小夜子に日本舞踊の趣味でもあればいいんだが、そうもいかんか
 しかし小夜子が思いえがくのは、正三との再会時のことがある。
最新モードで思いっきりおしゃれしなくちゃ。正三さん、目を丸くするでしょうね。ふふ……あのショーのときのように
 すれ違う思いを抱くふたりなのだが――小夜子のなかにある正三への思い、それが夢想の世界でしか存在しえない恋慕の情だと知る武蔵だった。そしてそれを許すおのれに、小夜子への思いの強さをしめす証しなのだと言い聞かせてもいた。

(百九十四)

 ピンクのエプロンに身をつつんだ小夜子――割烹着すがたがまだ幅を利かせていてるなか、新時代の女を自認する小夜子の面目躍如だ。エプロンを身につけた小夜子は、いつも機嫌がいい。ルンルンとおさんどんに精を出している。
「小夜子。どうだろう、そろそろ」
「なあに、そろそろって」
「うん。だからな、月が変わったらな……」
 歯切れのわるい武蔵のことばに「月がかわったら、なあに?」と、あくまでとぼけてしまう。分かっている、わかっているのだ。そしてそのことが、小夜子を不機嫌にさせる一因だとも知っているのだ。
「いやなにな、そろそろご挨拶にな、行こうかと」
 振り向いた武蔵の眼前に、眉間にしわをよせた小夜子がいた。
「挨拶って、なあに? なにしに、どこに行くのかな、タケゾーは」
 軽やかなトーンの声が、武蔵の耳に鋭くつきささる。
「いや、もういいかな、と。茂作さんも、気をもまれているのじゃないかと、そう考えるんだが……」
「行ってきたら」。冷たく小夜子が言いはなつ。刺身を盛る手がふるえている。
「お金ちょーだい!」
 とつぜんの嬌声に、思わず立ち上がった。
「な、なんだ、藪から棒に。どうしたって言うんだ」
「タケゾーとは暮らせなーい。あたし、お父さんに『正三さんのお嫁さんになる』って、そう言ったのよ」
 抑揚のない低い声でつげた。眉間のしわがきえ、目は涼やかに笑っているようにもみえる。ふるえていた手も落ち着きをとりもどし、エプロンのひもをはずしている。
「あんな不人情な男なんぞ忘れてしまえ。俺の嫁さんになれ、小夜子。絶対におまえを幸せにしてやる。贅沢な暮らしをさせてやる。茂作さんにも不自由はさせん」
 喉にひりつきを感じるなど、ここのところなかったことだ。美容院での異変を知らされて以来のことだ。
「小夜子に相談をせずに、事を進めたのは悪かった。小夜子の気持ちが固まったと思ったんだ。もう他人じゃないんだ、俺たちは」
「そ、そんなの、勝手にタケゾーが。あたしが望んだことじゃないし。タケゾーが無理やりにあたしを……、そうなんだから。そうよ、そうなのよ。あたし出て行く。だから、お金ちょうだい」
 その場に泣きくずれてしまった。こんやばかりは武蔵も思案にくれた。なにに対しての小夜子の怒りなのか、判然としない武蔵なのだ。これほどの拒否反応をしめすとは、思いもかけない。医師に念を押されていたこと、興奮させるな、ということばが武蔵の頭のなかでグルグルとまわっている。
早すぎたのか? 苦しんでるのか? 収まりがついてないのか?
 いや武蔵ばかりではない、実のところは小夜子にも分からないのだ。いや、ひとつは分かっている。正三に対する不実さを認めたくないのだ。しかしそれだけではない。まだ他のなにかが小夜子を苦しめている。
 武蔵に、処女を与えてしまった。いくら新時代の女を自認する小夜子といえども、肌を許すことの重大さは認識している。いまさら他の男に嫁ぐことできない。それは分かっている。しかしそれでも正三の元に飛び込むかもしれない。世間の聞こえを気にする小夜子ではない。
こんなに世話になったんだもの、仕方のないことよ。それに、お父さんの借金まで肩代わりしてくれてたんだし。それに正三さんなら何も言わないわよ。許してくれるわ、きっと
「約束する、小夜子。不自由な思いは絶対にさせんから。もちろん茂作さんにもだ。な、だから俺の嫁さんになれ。アメリカさん相手の商売で、俺に力を貸してくれ。小夜…」
「力を貸してくれ、ですって。よくもそんなことを」
 武蔵のことばをさえぎる小夜子。
「タケゾーに処女を奪われたから、もう正三さんのお嫁さんにはなれないわ。そうね、タケゾーに英会話は無理でしょうしね」
 思い浮かべた正三が、次第に消えていく。眼前の武蔵が、小夜子にぐっとせまりくる。顔を背けても、すぐに武蔵が眼前にせまる。
 傲然とした表情で武蔵に向かい、さげすむように見すえるとことばをつづけた。
「いいわ、いいわよ。なってあげる、タケゾーのお嫁さんに。そしてタケゾーの会社のお手伝いをしてあげる」
 懇願の体をとる武蔵に、小夜子の気持ちもおちつきをとりもどした。 武蔵に請われてのこと、そうした儀式にもにた今夜のさわぎでもってようやく小夜子に覚悟ができた。けじめがついた。
 武蔵に抱かれ目をとじて、されるがままの小夜子。ざらついていた心が、しだいに滑らかさをとりもどしていく。しかしひとりになると、小夜子をなじる声に悩まされる。
小夜子の心の中で、まだけじめのつかぬことがある。
正三さんに会わなくちゃ。はっきりさせなくちゃだめなの。どうしてはがきの一枚もくれないのか、問いつめなくちゃ
違うわ、そうじゃない。正三さんに宣告してあげなくちゃ。いつまでもあたしを待たれても、もうあたしは。そう、そうよ。あたしのことは、諦めてもらわなくちゃならないのよ