(百九十五)

「頼まれてくれ、五平。佐伯正三という男に連絡をとってくれ。小夜子にあわせる」
 腹の底からしぼりだすような、重い声だった。沈痛な面持ちの武蔵から、思いもかけぬことばがでた。
「社、社長。どういうことです、そりゃ」
 ひっくり返った声で、五平が言う。伏せられた武蔵の目を追いかけてのぞき込んだ。
「いいんだ、いいんだ。いまのままじゃ埒があかん。小夜子のなかから、消さなきゃならん。小夜子の時間は、まだ止まっているみたいだ。ふだんの生活ぶりから、もうふっ切れていると思っていたが、まだこね切れていないみたいだ」
 キッと、五平の目を見すえる武蔵。腹をくくったときの武蔵の射るような目が、五平にそそがれた。こうなると、なにを言っても武蔵の意思はかわらない。おのれに不利な状況に追いこまれようとも、かえはしない。
「そうですか。まだたち切れていないんですか。いや、おそらくは腹は決まっていますな。ただそれを認めたくないんでしょう。おたがいに上京してから、一度もあっていないんだから」
「そうか? そう思うか、五平も。俺もな、いい頃合だと思っていたんだ。でな、茂平さんにご挨拶に行く、と伝えたよ。静かなな怒り、というのかな。とにかく目がすわった状態で、抑揚なくしゃべるんだ。いやあ、あんな小夜子ははじめだ。背筋がぞっとしたぜ」
 がっくりと肩を落として、ソファにへたりこんだ。

「社長! いや、タケさん。いまは、おとこ武蔵に話しましょう。女にふられた経験のないタケさんだ。そりゃびっくりしたでしょう。あの小夜子さんにしても、あまり挫折感といったものは味わったことがないでしょうな。劣等感といったものは味わっているかもしれませんがね。なにせ貧乏だ。貧乏、これはいけませんや。人間をね、萎縮させちまう。自分を過小評価してしまう。で、そこからが問題なんです。なにくそ! とはい上がるか、そのまま沈んでいくか。これが問題だ。人間の質みたいなものです、こいつは変えられない」
女の機微なこととなると、武蔵にはまるでわからない。ひとこと声をかければなびかぬ女はいなかった。ひょいと肩に手をのせれば。女が科をつくってくる。とどのつまりが、酔客相手の女としかかかわりを持ってこなかった武蔵だ。
「運命と言いかえても良いかもしれませんな。しかし面白いもので、外からの風みたいなもので、かわることもあるんですよ。男女のからみやら、兄弟姉妹の情といったもので。まったくの他人からの風もあります。尊敬する人物とか、死線をともにした仲間とか。タケさん、あたしも変わりました。タケさんのおかげで、他人さまを信じられるようになりました。感謝してます、ほんとに。ま、女衒をなりわいにしていたあたしです。ろくな者じゃなかった。ひかげの道を一生歩くことになってたんです。それが、タケさんのおかげで、お天道さまの下を歩けるんです。感謝してます。いやいや、本当の話です」
 しかし五平はちがう。女衒という生業のおかげで、娘たちのうら表がすかし紙のように、よーく見える。まことかうそか、すぐにわかってしまう。そして五平のひとことで、本音を吐かせてしまうのだ。

(百九十六)

「小夜子さんは、アナスターシアとか言うモデルでしょうな。それまで無理をしていたと思いますよ。砂上の楼閣でしたでしょう。いつくずれるとも分からぬ、ですな。必死の演技でしたでしょう。それを、アナスターシアというモデルによって、演技ではなくなった。いや演技をする必要がなくなった。これは大きい。よろいを身にまとう必要がなくなったんですから。ところが、とつぜんの〇だ。ふわふわの状態に逆もどりだ。大きな船から、大海原に落ちたもどうぜんだ。飛行機からジャングルの中に落ちたもどうぜんです。全身から針を出している、やまあらしですよ。そんな折に、白馬の騎士だ。御手洗武蔵と言う、ね。ところが、いままで邪険にしてきている。ほいほい貢いでくれる男ぐらいにしか考えていなかった」
 五平の長口舌のあいだ、聞いているのかいないのかわからぬふうの武蔵だった。
いいのか、武蔵。小夜子をとられるかもしれないんだぞ。初恋の男だぞ、あの男は。あの男と結ばれるために田舎をすてた女だぞ、気性の激しさは並じゃない。いちずな女なんだ、こうと決めたら突きすすむ女だぞ。戻ってくるとは限らんぞ。良いのか、武蔵=B逡巡の思いもある。
「大丈夫! タケさん、だいじょうぶですって。タケさんには、肉体の繋がりがある。こいつは強い。それに、十分にぜいたくな生活をさせている。どんなに心がうごいても、いまの生活を捨てるなんてできませんて」
 五平に肩をたたかれて、「よし! 男がいちど決めたことだ、会わせてやろう。調べてくれ、五平」と、語気つよく告げた。それからわずか三日ののち、小夜子は正三と相対することになった。武蔵のおぜん立てで正三との再会をはたすべく、ハイヤーに乗り込んだ。最新モードに身をつつみ、ぜいを極めた。
「小夜子。あした、佐伯正三に会わせてやる。いや、あってこい。会って自分の気持ちをたしかめろ」
 突きぬけるほどに晴れわたった朝、約束の時間ぴったりにホテルに到着した。運転手によって開けられたドアから小夜子が降りた、凛としてご令嬢然としていた。うやうやしくドアマンがお辞儀をする。重々しいドアが開けられて、次にはベルボーイが入り口で待っている。
「ごきげんよう」。アナスターシアとともになかに入ったホテルだ、思わず目頭が熱くなってくる。知ってかしらずか、武蔵がセッティングしてくれたホテルだ。ホテル内のレストランを、予約してくれている。
 ガラス製のドアがひらくと、すこしはいった右手に受付がある。アナスターシアは、あのときは受付には見向きもせずにエレベーターへとむかった。初体験の小夜子には、そういうものだと思ってしまった。チェックインの手続きもせずに、部屋番号やらの確認をすることもなく筒状のケピ帽をかぶったベルボーイが先導してくれた。
「いらっしゃいませ」。とびきりの笑顔で迎えてくれた。
「約束があるの。御手洗小夜子、といえば分かるかしら?」
 受付から中年男性が駆けよってきた。蝶ネクタイの似合う、おだやかな表情の男だ。口元に大きなほくろがある。ほくろがなければねえ……≠ネどと考えながら、「みたら…」と言う間もなく、「お待ちしておりました、みたらいさま。あちらでお待ちでございます」と、光がたっぷり射し込んでいる窓際の丸いひとり掛けのソファがならぶ一角を指さした。
 立ち上がって手をふる男がいる。べったりと塗られたポマードが、シャンデリアでテカテカと光っている。蝶ネクタイの似合わない男だことと、内心で笑ってしまう。背広の下にチョッキを着て、ごていねいに懐中時計の金くさりを光らせている。ズボンは……、一応アイロンがしっかりとかかっている。しかしなにか落ちついていない。無声映画で見た、チャップリンの姿とだぶってしまった。

(百九十七)

 昨夜のことだ。屈託なくわらう武蔵に、小夜子は頬をふくらませる。
どうしてなの? 不安に思ってないの? 正三さんに気持ちがうつるとは考えないの?
「御手洗小夜子だ、と言えばいい。ロビーに、正三くんが待っているはずだ。すこし話をして、それから食事しろ。窓ぎわの席を用意させておく。ゆっくりと話をしていこい」
「ホテルだなんて、なにを考えているの」
「食事のためさ。いつものステーキの店はだめだ。あそこは、俺と小夜子のためだけの店だからな」

 いま、対峙するふたり。やくそくの接吻から、はや三年ほどが経っている。そしていま、やっとの再会だ。喜びに打ちふるえる正三にたいし、小夜子の高ぶりは、意外なほどにおだやかなものだった。
「本当に申し訳ありませんでした。すぐにも連絡をとりたかったのですが、連絡先が不明で。あとから分かったのですが、手紙を隠されてしまっていまして。それに入省と同時に特別班に配属されまして。その部署というのが極秘事項をとりあつかう部署で、外部との接触をいっさい禁じられました。小夜子さんに連絡をとる術もなく、悶々とした日々をおくっていました。小夜子さん、ああ小夜子さん、どんなにお会いしたかったことか。でも小夜子さんがお元気そうでなによりです」
 連綿と言いわけを並べたあとに、とってつけたように再会のあいさつを言う正三だ。冷ややかな表情をうかべて聞きいる小夜子を見るにつけ、口数のすくなかった正三が饒舌となっていく。
「きょうの小夜子さんは、一段とおきれいですね。ベルボーイに案内されて来られたおりは、別人かと思いました。新進の女優さんかと、みまごうばかりでしたよ。それにアナスターシアは気の毒でした。まさか自殺とは、思いもかけぬことで。いかほどの衝撃だったことか、推察するにあまりあります。でもお元気そうでなによりです。その洋服は、最新モードですね。やはり、ディオールのオートクチュールですか? たしか、Hラインと思いますが。小夜子さんならではのチョイスだ。お似合いです、本当に」
 知りうるかぎりのファッション用語をならべたてる正三だが、源之助に聞かされていた小夜子とはまるでちがう小夜子に動揺をかくせない。そのことばに小夜子は情を感じとることが出来ない。
にっこりと微笑みつつも、その瞳にすがるような影が浮きでてくる。そしてその大きな目にすこしずつ涙がたまり、椅子の背につかまりながら、よよと泣きくずれるはずだ。そこでぼくが小夜子さんにかけより、ぼくの腕のなかにしっかりと包みこむんだ。そして、あのときの接吻を思いだした小夜子さんは、ポッとほほをそめるだろう
 そこに正三が思い描いた小夜子はいなかった。といって少女時代の、あの傲慢すぎるほどの小夜子でもなかった。どこかよそよそしい、まるで初対面のような感覚におそわれる。
変わってしまった。この女性は、小夜子さんじゃない

(百九十八)

 じっと黙したまま、正三のことばを聞きつづけた小夜子。蝶ネクタイ姿の正三をまのあたりにして、三年という歳月がみじかいものではないことを知らされた。口べたで、おのれの思うところの半分、いや十分の一も語れなかったはずだ。ときとして口ごももってしまい、うつむいてしまう正三だった。しかしそれでも、意図することは伝わってきた。
違う、けっしてちがう。この男性は、正三さんではない
 いまそれぞれに、たがいの知る相手ではないと感じた――小夜子、正三ともに、たがいが思うふたりとはまったく異質なふたりになったと気づいた。
「すてきな殿方だこと、ほれぼれしてしまうわ」
「ご令嬢もうつくしいわ、うっとりしそうよ」
「ほんとにお似合いのおふたりだこと」
「ほんとに。美男美女とは、このおふたりのことね」
 そこかしこからもれる、ため息と賛辞。ふたりの耳にもとどいている。しかしもうその賛辞のことばは、ただ漂うだけのものだった。ふたりの耳にはいることなく、そのまま通りすぎていく。
「なんだか、あたくしの知っている正三さんじゃないみたい。あたくしの知っている正三さんは、そんなに弁舌がたつお方ではありませんでしたわ。お変わりになったのね」
心変わりでもされたの? だからはがきの一枚もくださらなかったのかしら。
あたくしの好きだった正三さんではないみたい≠ニ、暗に責めたてる。
「そうですの。あたくしとの約束など、まるで。ええ、ええ。殿方はお仕事だいいちですものね。あたくしがどれほどこころ細い思いをしたかなどは、つゆほどにもお考えくださらなかったのよね」
 小夜子の射るような視線が、正三にはきつい。以前にもまして鋭さを帯びている。きょうの小夜子は、映画のスクリーンから飛び出てきたような、女優かとみまごうほどに変身している。

田舎での小夜子も、きわだって美しいと感じた正三だ。しかしいま、眼前にいる小夜子からは、神々しささえ感じている。
みたらいとか言う男にみがかれての、小夜子さんなんですね
「そ、それは……。日本国の未来をも左右しかねない、大事な機密事項でして。外部との連絡はいっさい認められず、身内以外との接触は、厳に慎むようにと禁じられました。それに接触といいましても、月に一度の手紙が許される程度でして。しかも上司の検閲を受けるといった具合です。外出など一度たりとも許されません」
「そうですの、あたくしは身内ではありませんのね。たしかに、はっきりと将来のお約束をしたわけではありませんものね。あたくしは、そんなものでしたのね。あたくしの思い違いでしたの、やはり」

(百九十九)

 二の矢がきた。正三が必死のいいわけをする。
「えっ?! そ、それは……。いえいえ、ぼくとしましても。役所というのは文書によって動くものでして。その、実体のない情のようなものでは、だめなのです。なにごとも前例によって事がすすみます。上にお伺いをたてて、その許可なり了解がないものはだめなのです。がんじがらめの状態なのです。どうぞ、ぼくの立場をおわかりください。ぼくの心のなかでは、小夜子さんは身内です。生涯の伴侶と思っておりました。しかし、法律上では他人なのです。戸籍に載っていないことには、身内として認めてもらえないのです。ぼくとしましても、どれほどに連絡をとりたかったことか。しかし許されない行為なのですよ。ぼくの苦衷も、どうぞお察しください」
 ハンカチで額の汗をぬぐいながらの、正三の精いっぱいの弁解だった。しかし小夜子の耳にはまるではいっていない。許しを請う正三のさまを、ただただ見ていた。
「やっぱりあの女性との情交で、大人になられたのね」
 とつぜんの、まるで予期せぬ小夜子の問いかけに、唖然とする正三だ。
な、なんだ? どういうことだ? 小夜子さん、あなたは知っているのですか、あの芸者のことを。ま、まさか、叔父さんが
 正三のあわてふためく様を見た小夜子に、怒りの思いがこみあげてきた。
やっぱりなのね。タケゾーの見立てがあたったのね。商売女との情交だろうというタケゾーの言葉、ほんとうなのね
 おのれの操を与えてしまった――否。小夜子のなかでは、うばわれてしまった――小夜子の、先制攻撃だ。小夜子の意思を無視した武蔵の蛮行だと、おのれに言い聞かせている小夜子だ。抵抗をしなかったのは、万端やむなきことゆえとする小夜子だ。そんな思惑についぞ気づかぬ正三、しどろもどろの返事となってしまった。

「そのことについてはですね。叔父がどのようにいったか、ぼくにはわかりませんが。たぶんに誤解があると思います。決して愛情云々ではなく、その何と言いますか、流れと言いますか……そう、そうなのです。場の勢いに呑まれて、つい深酒をしてしまいまして。不覚にも酩酊状態におちいっていたのです。で、皆がなにをしているのかわからぬ状態になりまして。おのおのがそれぞれの芸者と、その、別室に移っていったのか。ぼくにしても、どのようにして部屋を変えていたのか、まるで判然としないのです。翌朝に目覚めたおりに、隣にその芸者がいたときには、もう飛び上がらんばかりに驚きまして。ですから、その、ですから行為そのものをしたのかどうかすら、判然としないのです。はい、服は脱いでおりました。芸者が言うにはぼくが脱いだと言うのですが。キチンと衣紋掛けに背広なんかが掛かっているところをみましても、自分で脱いだとは思えんのです。たしかに、裸で寝ておりました。芸者を抱いてはおりました。しかし、しかしです。ぼくは酩酊状態で、なにも覚えていないのです。己の正気はまるでなかったのです」

(二百)

 目を伏せて、テーブルの一点をみつめてはなす正三に、小夜子から三の矢が射られた。
「男らしくありませんことよ!」
「違います、違います。本当に正気ではなかったのです。ですから、ですから……、決して小夜子さんを裏切ってはいません」
 正三の必死のさけび、それは小夜子の許しを請うというよりは、おのれに対する言いわけだ。
ぼくは悪くない、酩酊状態のぼくになにができるというのか。芸者と情交をかわしたかどうかすら、怪しいものだ。いや仮にだ、仮にそうだとしても。かたわらにあった物体を抱いてねたというにすぎない
 執拗に否定する正三だが、じつのところ、少しずつ記憶が蘇ってきている。あれこれと世話をする芸者に対して、不遜な態度をとりつづけたことを思いだしている。
 連れのふたりを残して、芸者にうながされるままに席をたった。
「さーさ、行きましょうね。ご不浄ですよ、がまんしてくださいよ。漏らしちゃ、だめですよ」
「がんばれ、佐伯くん。未来の次官さま。撃沈されぬよう、しっかりとがんばれよ!」
「なにごとも、為せば成る! だ。佐伯正三くん、突撃だ!」
 ふたりからの檄が聞こえぬふうに、芸者に寄りかかって部屋をでた。トイレに行く気などまるでなかったが、芸者がくりかえすご不浄ということばに、身体が反応しはじめた。

 千鳥足であるく正三と肩に手をかけさせて支える芸者。襟元からただようほのかな香に、気持ちがゆったりとしてくる。毎日を緊張のなかに過ごした。激論が闘わされるなか、ひたすらその内容を書きとどめつづけた。その激論のなかに入れぬおのれが情けなかった。正三に対して未来の次官さまと口々に言う者たちが、己の論を東陶とまくしたてるというのに、正三ただ一人が蚊帳のそとに置かれいる。じくじたる思いが正三を責めたてる。
「仕方がないさ。佐伯くんは途中入省なんだから」
「次官さまというのは、大所高所から物ごとを判断するものさ」
「方向性をさしすめすものだ、次官さまは」
「こんな議論は、われわれに任せてくれ」
「佐伯くんは、最後のさいごに、ドン! と行くんだよ」
 結局のところ、最後まで議論の輪のなかに入ることのなかった正三だ。入るではなく、はいれなかった。哀しいかな、彼らがなにを論じ合っているのかすら理解できない。理解できない専門用語がポンポンと飛び出して、議事録としてまとめようとする正三を悩ませつづけた。とりあえずカタカナで書きとめて、議論終了後に一語一句を確認しつつ漢字表記した。屈辱だった、しかし如何ともしがたい。苦渋の思いを飲みこんで、彼らからの教えを受けるだけだった。しかし事務次官に提出する報告書を作成したことで、正三がチームリーダーだということになった。
「さあ、着きましたよ。佐伯次官さま、お手伝いしましょうか?」
 芸者の声が心地よく、正三の耳にとどく。
「うん、うん」と、正三がうなづく。良きに計らえとばかりに、殿さま気分の正三だった。はじめて味わう感覚だった。これが支配欲を満足させる権力者といったものか? 叔父の源之助が口酸っぱくくり返す、事務次官になるということを感覚でとらえた正三だった。

(二百一)

 しかし床が用意された部屋に入ったとたん、正三の意識が一変した。
「ぼ、ぼくは、小夜子さんひとすじ決めている」と、身体を固くした。
「ほらほら。なにごとも、お勉強ですよ。すべての殿方は、みなさんお勉強をされてから事にのぞむものですよ」
 芸者のことばに真実味を感じてしまった。小夜子との初接吻。いきなりとはいえ、体が硬直してしまった。あのおりのことが、小夜子と正三との主従を決定づけたんだと考えた。呆れる芸者をしり目に、正三が脱いだ服をたたんでいく。「早くいらっしゃいな」と急かす芸者に、「明日の出勤に着ていかなければならんから」と、言い張る正三だった。
「ふふふ、照れ屋さんなのね」。芸者の妖艶な声が、いま、はっきりと思いだされた。
 小夜子にきつくなじられる正三――逓信省に入省以来、源之助以外にはない。皆がみな、正三にかしずいている。批難する者はいない。詰問する者などひとりとしていない。一切の言いわけに耳をかさぬ小夜子に、はじめて怒りの表情を、正三が見せた。報告書提出以来、未来の次官さまとしてたてまつられる日々を送る正三――同僚はもちろんのこと、直属の上司ですら敬語を使う。認可を求めて日参する企業の担当者たちは、最敬礼をせぬばかりの態度で接してくる。年端のいかぬ正三に対して、頭を下げに来る。他の部署への陳情のおりですら、わざわざ挨拶にくる。それが、正三の後ろ盾である源之助に向けられているものだとしても、悪い気はしない。
 その正三が、小夜子になじられている。しかも公衆の面前で、容赦なくなじられている。非が正三にあるとしても、少しの弁解も聞かぬ小夜子にたいし、沸々と怒りがわいてきた。そこまで言わなくてもいいじゃないか。所詮、酒の上でのことじゃないか。ぼくにしても、筆おろしが芸者ごときあばずれだったことは、慙愧にたえないんだ。そんなぼくに、ここまで傷口に塩をすり込まなくても……
 小夜子は正三の言いわけを聞き入れるわけにはいかない。もしいま聞き入れてしまえば、小夜子自身がくずれてしまう。武蔵をすでに受け入れている小夜子は、正三の不実をせめる以外にない。いま罵詈雑言を浴びせつづける小夜子は、正三の心に消えることのない傷をのこすかも知れない。
こんな嫌な女なの、小夜子は……=Bそして小夜子もまた、傷ついていく。今日の小夜子との再会は、正三にとって、最悪のものだったかもしれない。人生に分岐点があるとすれば、いままさに、だ。金色夜叉物語りでは貫一がお宮を足げにするけれども、いま、正三が足げにされた。

(二百二)

「小夜子ー、帰ったぞ! どうだった? 元気にしていたか、正三くんは。つもる話もあったろうが、故郷のはなしに花がさいたか? 小夜子、小夜子ー、いないのかー」
 矢継ぎばやに声をあげるのは、小夜子の反応が気になっているからだ。早く小夜子に聞きたい気持ちとともに、先延ばしにしたいという気持ちもある。そんな相反する思いが錯綜するなか、大声をはりあげつづけた。
 大きな門灯が武蔵を出迎えた。そして玄関の灯りは、煌々と点いている。廊下もまた明るい。しかし居間に客間、そして台所の灯りは点いていない。そして奥からは、なんの返事もない。階段下から二階をのぞきこんでみるが、ぴっちりと襖が閉じられている。どかどかと大きな音を立てて、階段をあがった。その足音に小さなふくみ笑いがかえってくるのが常なのに、こんやは声がない。
まさか……=B背筋を冷水がすべりおちた気がした。
いや、そんなはずは……あるわけがない。小夜子は俺の女だ、俺のものだ。眠っているんだ。きっとそうだ、そうに決まっている
「小夜子、小夜子ちゃーん。どうしたのかな、疲れたのかなあ?」
 明るくやわらかく、そして甘ったるく呼びかけた。月明かりを頼りに、薄ぐらい部屋をのぞき見た。
となりの部屋か? 気分屋の小夜子のことだ、こんやは変えたか
 寝室を変えたことなどいちどとてない。まして、物置同然にしている部屋だ。小夜子の買い求めたものが、所せましと並べられている。衣装箪笥に長持ち、そして衣桁が。
「かーくれんぼ、かくれんぼ。そら、見つけたぞ」。
 いきおい良く襖を開けてみるが、防虫剤である樟脳のにおいが鼻につく。空気が流れでてくるだけだ。
「風を通していないのか」。武蔵の声だけが聞こえる。
正三がなんだ、官吏さまだと? そんなもの、そんなもの…
 吐き出してしまえばいいものを、どうしても声にすることができない。小夜子を大切にしてきたと、自負はある。しかしそれを小夜子がどう受け止めているのか、感謝の気持ちは多少はあるだろう。けれどもその思いを受け止めることのない小夜子だと、知る武蔵だ。
小夜子は、俺が女にしたんだ。どうだ、そんな女をお前は、お前は受けいれられるのか。どうだ、正三! 小夜子、お前は見限っていなかったのか? 小夜子、小夜子、小夜子
 がっくりと肩を落として居間に入り、崩れるように本皮シートのイタリア製のソファに体を投げ出した。会社用にと購入したのだが、その座り心地の良さに惚れこんで追加したものだ。
「イタイッ!」
 とつぜんの嬌声におどろいたのは武蔵だ。だれも居ないと思いこんでいたこの家に、薄ぼんやりとしたこの部屋に、小夜子がいた。

(二百三)

「どうしたんだ、灯りも点けずに。寝てたのか、このソファは良いだろう? このひじ掛けを枕にして眠ると、良く眠れるんだ。俺もよく眠るぞ。そうだろ? 小夜子にいつも起こされているよな」
 饒舌な武蔵に対し、唇を真一文字に結んだままの小夜子が、一点を凝視して身動きひとつしない。灯りを点けると、出かけたままの洋装姿だ。帰宅時には着替えるのが常の、小夜子なのにだ。
「どうしたんだ? 正三くんには会えただろう? 喧嘩でもしたのか、それとも変わってしまった正三くんに、驚いたのか? まあ男というのは、三日会わないとと変わるものだからな。まして、官吏さまとなると、いろいろあるだ…」
「タケゾー! タケゾーのせいよ! タケゾーのせいで、わたしの人生は無茶苦茶よ。あの人は、正三さんじゃない! わたしの正三さんじゃない。別人よ、他人よ。タケゾーのせいよ、タケゾーの」
 激しく慟哭しながら、武蔵の胸をたたいた。弱々しいそれがそして声が、小夜子の衝撃の深さをあらわしている。
「タケゾーよ、タケゾーが悪いのよ。タケゾーのせいよ、ぜんぶ」
 儀式のはずだった、単なる儀式の。いまさら正三と結ばれるなどとは考えていない小夜子だった。武蔵との幸せな人生を、贅沢三昧の生活を送るこれからを見せる。まさに正三への、不実な正三へのあてつけのはずだった。涙ながらに許しを請う、正三がいるはずだった。土下座をして小夜子の愛を求める、その正三でなければならなかった。そして、そして、学生服に身を包んだ正三でなければならなかったのだ。
「小夜子さん、小夜子さん……」。正三が取るべき行為すべてに小夜子の許しを得る、そんな正三を思い描いていた。そんな正三に投げかける言葉。そしてそんな正三に対して、小夜子がとる行動――毎夜毎夜、思い浮かべたことだ。
「よろしいことよ、正三さん。あなたを許します」
「でもね、小夜子は、あなたのもとへは参れないのです。武蔵という伴侶と、世界を旅するの。アーシアと共に過ごすはずだった日々を、武蔵という伴侶とともにです」
なんどもなんども、伴侶ということばをつかう。正三がそのことばにたいして、歯ぎしりして後悔するであろうことを思い描いたことばだ。
「正三さん。ありがとう、いままで。小夜子はあなたと出会えたことを、神さまに感謝したいと思います。正三さん。どうぞ、お国のために国民のために、しっかりとお仕事をしてくださいな」
 ひざまずいて許しを請う正三を見下ろす小夜子。
 慈愛に満ちた笑みを浮かべて見下ろす小夜子。
 そんな己の姿を思い浮かべていた。しかしそれがうつつの世界ではなく、夢想の中だけと知らされた。

(二百四)

 その怒りの矛先が、いま武蔵に向けられている。
「そうか、悪かった。俺がわるかったよ、小夜子。そうか、小夜子の夢をうばったのは俺だったのか。心配するな、な、小夜子」
 幼子を抱え込むように、あやすように、ゆっくりと武蔵が語りかける。
「どうだ、アメリカに行こうじゃないか。すぐにと言うわけにはいかんが、アナスターシアのお墓参りに行こう。それで、アナスターシアに報告しよう」
「ほんとに? ほんとに、連れて行ってくれる?」
 涙でくしゃくしゃの顔を上げる小夜子にと、うんうんと頷く武蔵がいた。ぼんやりとした月明かりの中、ゆっくりと武蔵の胸にしずむ小夜子だった。
 一時間ほど経ったろうか、小夜子がすやすやと軽い寝息をたてはじめた。そっと小夜子の体をはずし、ソファに横たえさせた。ひじ掛けに頭をのせて、満足げに微笑んでいる小夜子の寝顔をのぞきこんだ。
ふんぎりが付いたようだな。しかし、やっぱりショックだったか。正三くんを、おどおどしていた青年ではなく、いっぱしの男として認めたんだな。いや、それが許せないのか?掌中にいたと思っていた男が、いつの間にか羽をつけて飛びまわっていたことが
 テーブルにジョニ黒を持ちだし、床にどっかりと腰をおろした。そして庭に目をやる。うっそうとした木々が邪魔をして空がない、そんな庭をつくった。
「旦那。この庭にこれだけの木は、ちょっと……」。植木職人が異をとなえた。
「もうすこし減らしましょうや。これじゃあ、月明かりもなにも見えやせんぜ」
 しかし武蔵の気持ちはかたくなだった。生家の庭を再現したいという意固地な思いは変わらなかった。
「俺を捨てたことを後悔させてやる」。その一念が、いまの武蔵をつくりあげている。
「なに、この庭は。暗い、くらすぎる! こんなのいや!」
 小夜子のひと声に「分かった、わかった。一本だけは残してくれ」と、武蔵がおれた。そしていま、庭が一変した。残された一本の樹木の下には、色とりどりの花が植えられている。
「こんやは小夜子の寝顔を肴に、いっぱいやるか。乾杯したい気持ちだな、まったく。よし、『小夜子に乾杯だ!』」
 まばたきをする星々を押しのけるように浮かんでいる月に向かって、グラスをささげた。
充足感に満ちた表情を浮かべて、
「間髪を入れずに、だな。小夜子の気持ちがぐらつかぬ内に、一気呵成にいくぞ」と、誰に言うともなく声に出した。
「いいか、武蔵。浮気は止められんだろうが、小夜子を泣かすことだけはいかんぞ」。窓にうつる己に――言い聞かせるがごときの武蔵――そんな己に酔った。
 薄雲が月を陰らせていく。まばたいていた星々がその動きをとめた、と武蔵の目にうつった。しかしすぐにまた、星々は輝きを取りもどした

(二百五)

「う、うーん。タケゾー、タケゾー!」
 となりにいたはずの武蔵がいないことに、声を大きくして呼んだ、叫んだ。手にグラスを持って小夜子をふりかえる武蔵が目にはいっとき時、小夜子の胸の奥底をぐっと締めつけるものがあった。
「小夜子。どうだ、中華そばを食べに行かんか? 若いもんたちが食べたらしいんだが、美味いと言ってる」
「行く、いく。おいしいもの、食べたい。お腹へっちゃった。お昼、食べそこねちゃったの。着替えてくるね」
 小間物を並べている店の横に、間口が二間ほどで奥行きが五間ほどの縦長な小屋のようなものがあった。元々は倉庫として使っていたのだが、小間物店の次男が始めたと、武蔵は聞いている。三人組のひとりである山田が常連になっている食堂だ。土間を利用しての店の造りに、顔をのぞかせただけできびすを返す客もいる。
「店はきたないですが、味は絶品ですから」。自慢げに話す山田の顔が、新規の客を獲得したとき以上に輝いている。「たしかに美味かったです」。服部が同調し、竹田もまたうなずいた。
「かどや」と白い布に手書きされた暖簾をくぐると、壁際にピッタリとテーブルとは名ばかりの戸板を用いたテーブルが置いてある。背もたれのない丸椅子だけが汚れのない、新調したもののようだった。壁には、「中華そば」と書かれた黄色ばんだ一枚の紙が貼ってある。他にはなにもない。「中華そばだけなんで」。奥から声がとどいた。そういえば、軒先の上にかけてある看板には、「中華そばの店」とあった。
「タケゾー、ここ大丈夫なの?」
 不安気な顔つきの小夜子に、「大丈夫って、なにがだ?」と、素知らぬ顔で聞き返した。
ぷーっと頬を膨らます小夜子に、指でほほを押した。
「心配するな、大丈夫さ。それなりに衛生面には気をつかってるさ。それより、案外こういった小汚い店の料理が美味いというぞ。さあさあ、すわれすわれ」
「何だか嬉しそうね、タケゾー。」
「ああ、嬉しいさ。会社をおこした時は、もっと汚い場所だった。それこそネズミが走りまわっているようなところだったからな。訳の分からん肉やら、バクダンなんて名前のアルコールを飲んだりしたんだ。懐かしいぞ、ほんとに」
 小夜子には分からない。ホテル内の洒落たレストランでの食事、落ち着いた雰囲気のバーでの飲酒、成金とはいえ上流階級のそれらに慣れきってしまった小夜子だ。というよりは、極貧生活から一気に上流生活へジャンプしてしまった小夜子だ。庶民の生活をまるで知らない小夜子だ。知りたくもないし、知るつもりもない。

(二百六)

 しかし嬉々とした表情を見せる武蔵――はじめて見る屈託のない笑顔の武蔵に、小夜子もまた嬉しくなってくる。ワイシャツの袖をまくり上げて、ふーふーと熱い中華そばをかけ込んでいる。
「中華そばってのはな、上品に食べたんじゃ、ちっともうまくないぞ。こうやって、ズーズーと吸い込むんだ。このスープが飛び散るくらいに勢いよくだ。小夜子もやってみろ、くせになるぞ」
 一本二本を口に入れていたのでは、おいしいとは感じない。不満げな表情を見せている小夜子に、武蔵の指南が飛んだ。周りを見ても、皆がみなズーズーと音を立てている。いかにもうまそうに食べる武蔵に、額に汗をふきだしながら食べる武蔵に、憎らしささえ感じてくる。
「どうした? 食べさせてやろうか、小夜子」。とつぜんに小夜子のとなりに移ってきた。
「いいわよ、食べるから」。もう子どもじゃないの! と言わぬばかりに、勢いよく吸い込んだ。口の中にひろがるはじめての味、そして食感。スープが鼻に飛びついた。熱さを感じるものの、飛び込んでくる香りがうまさを引き立てる。
「おいしい!」。思わず口に出た。
「そうだろう、うまいだろう。日本人と言うのは、ほんとに天才だぞ」。まるで自分が料理したかのごとくに、武蔵の講釈がつづく。
「よその国の料理だろうとなんだろうと、こうやって日本人好みに作り変えてしまうんだからな」
 ひと口ふた口と進むにつれて、小夜子にも勢いが出てきた。
「うまいだろ、なあ、小夜子。ビーフステーキもいいが、こういうのもいいだろう」
 すこしだまっててと言わんばかりに、小夜子が武蔵をにらみつける。おつにすませて食べることなく、ズーズーとかけこんでいく。そんな小夜子の食べっぷりを見て、ひとり悦に入る武蔵だ。
キャバレーでの小夜子とはまるで違う女になったな。いや、鼻っ柱の強さだけは変わらないか
 一年と経たぬのに、小夜子の変貌ぶりは武蔵の想像を超えるものだった。もう田舎娘といった雰囲気はなく、かといってこの都会にとけこんでしまってもいない。
「新しい女になるの!」。なにかといえば口にする。男にかしづく女にはなりたくない、自立した女になりたい。そしてそのためにもと、好奇心をかくしたりしない。そういえばこの店に女性はいない。暖簾をくぐったときには「なんだ、この女」、「女の来るところじゃねえぞ」と蔑視された。それでも、逆にキッとにらみ返した。
自分をごまかしたり、飾ったりすることはなくなったか。アナスターシアだったか、あのモデルのおかげかな
そのモデルがこの世からいなくなったことで自分を失いかけたが、もう大丈夫なのか、小夜子?
ほんとに、俺の宝物になってくれるか。精いっぱいのことはしてやる。おじいさんも含めて、丸抱えしてやるからな=Bいま改めて、小夜子に誓う武蔵だった。