(百八十二)
突き抜けるような青空が、五平にはまぶしく感じられる。こがね色に揺れる稲穂を見るにつれ、胸の奥にいたみを感じはじ始めた。
田舎道を数人の娘たちとともに歩く。畑仕事にいそしむ百姓たちの刺すような視線が、五平の全身に冷たく突き刺さる。視線をかえすとすぐにそらしてしまうが、外すとまた射てくる。そんなくりかえしをつづけながらも、なみだ顔の娘たちを急かしながら道を行く。そんな光景が思いだされてしまう。
しっかりしろ! 加藤五平。お前は女衒の五平じゃないんだ。富士商会という真っ当な会社の専務さまだ。きょうは、社長御手洗武蔵の名代で来たんだ。胸を張れ!
昭和初期に、東北地方はたび重なる飢饉におそわれた。このことにともない女衒を仲介とした身売りが横行した。この世相にうれえた青年将校たちによるクーデター未遂が、昭和十一年に二・二六事件が起きた。その兵士たちのなかには、東北出身の者が多々いた。
五平の脳裏に苦い思い出がよみがえる。
「借金さえかえし終えれば、もどってこれるんだ。お前さんしだいでは、十年が八年にいや七年にもなるってもんだ」
哀しいうそだった。いちど苦界に身を落とせば、なかなかに浮かびあがれない。自身の知らぬうちに増えていく借財がある。親元への送金を勝手にされてしまうのだ。酒に逃げこむ父親がいて、娘にすがりついてはなさぬ母親がいて、両手をあわせる祖父母がいて、そして訳もわからずに右往左往する幼子たちがいる。そんななか「さあさ、愁嘆場もこれまでだ!」と、娘をつれさる五平だった。
村役場の前にタクシーが止まり、見知らぬ男が降りてきた。受付で、「加藤と申しますが、村長にお会いしたい」と告げた。約束があってのことではなく、とつぜんの来訪にとまどう職員にたいして、後席から上司らしき男の声がした。
「すこしお待ちいただきなさい。きみ、助役さんに」
うながされた女子職員が、あわてて席を立ち二階へと上がっていった。
「お待たせしました、わたし助役でございます。村長はちと用があり、外出しておりますもので」と、助役がおっとり刀で出てきた。カウンターをはさんで、五平と助役が対峙する。身なりからして近辺の者ではないと判断しつつも、うかつな対応はできぬと傲然とした態度をみせた。
すこし前のこと、他町で詐欺事件がおきたと聞かされている。某企業の依頼で、新工場建設用地の選定をしているとの触れこみだった。材木業を営んでいた店が、主が戦死したことにより廃業をしてしまったおりのことだった。あせった町の幹部たちが、その仲介人にたいして県への工作資金を用意した。多額の金員を提供してなんとか誘致を勝ち取ろうとした。しかしその工場建設が虚偽のことであることが分かり、町長、助役はもちろんのこと、課によっては係長にいたるまで処分の対象となってしまった。
しかし今回は、五平が助役の眼前にどんと札を積み上げている。村からの支出ではなく収入ということになる。
「そ、その、そのお金は、どういうことで……」
思いもよらぬ事態に、助役が目をむき職員たちは声をうしなった。
「寄付をさせていただきたい」と、声をおしころして五平が言った。
「ど、どうぞ、こちらへ。ほら、ご案内して」
平身低頭しながら、助役が奥に取って返す。息を殺して成り行きを見守っていた村長に、ご注進に走った。
「村長、村長。寄付ですと、寄付です」
顔を上気させて助役が小おどりせんばかりに村長のもとに駆けよった。
「いや、待てまて。このご時世じゃ。とんでもない難事を持ちかけられやせんかの」
(百八十三)
あくまで慎重に構える村長にたいして、「とにかく話を聞きましょうぞ。留守だと言いましたが、わたしの知らぬうちにお帰りになっていたということにしましょうて」
とりあえず助役が聞き置くというのはどうか、とあくまで二の足を踏む村長にたいして「選挙がありますで、ここで一発花火でも上げんことには」と、強く促した。万が一にこの寄付を逆手にとって、のちのちに村から大金を巻き上げようという新手の詐欺まがいではないかと、助役も警戒する気持ちはあった。しかしこのまま助役だけの面会でことを処理してしまうと、助役だけの責任となってしまう。
タヌキ親父めが! 万が一のときには一蓮托生だ!
村長室に通された五平が、
「竹田茂作さんと竹田繁蔵さん名義で、それぞれ拾萬円寄付をさせていただきます。ご確認していただきたい」と、札束をテーブルの上に、わざとドンと音を立てておいた。
「ご寄付? 竹田家さまから? それはどうも、ご奇特なことで。あなたさまは竹田さんとはどういったご関係でございますか?」
「それは、まあ、その内に分かりますでしょう。いまは、詮索無用にねがいますかな」
もったいぶった言い方で煙に巻いた。ではありがたく、と手を出そうとする助役を押しとどめて、
「加藤さんでしたか。失礼ですが、どこぞの会社関係の方で?」と、村長が五平に念を押した。
「いや、これは失礼。富士商会という会社の専務をやらせてもらっております。御手洗というのが社長でして」
そこまで言うと、喉をうるおすためとばかりに茶をすすった。
「こりゃあ、うまいお茶ですなあ。こちらで生産しておられるので? うーん。いちど持ち帰って、社長に具申しますかな。当社での販売をしては、と」
相好をくずして、いっきに空にした。助役が、もう一杯いかがですかと声をかけると、是非にもと五平が答えた。
「ご心配にはおよびません。寄付をしたからと言って、無理難題を押しつける気はさらさらありませんので。あくまで、御手洗の個人的なことですから。村に対してどうのということは一切ありません」
二杯目の茶をのみほした五平は、さも満足げに頷きながら「それではこれで」と席を立った。まだ警戒心のとれぬ村長ではあったが、帰るという相手を引き留めるわけにもいかず「とりあえずお預かりいたします」と告げるのが精一杯だった。役場をでるときには、村長以下全員の敬礼を受けた。
「追いかけて行け、どこかに向かわれるようじゃ。茂作の所か、それとも本家の方か、確認するんじゃ。できれば、どういった素性の金かもな」
この村では珍しいタクシーが、茂作の家屋前に着けられた。茅葺きの古い家屋で、縁側の所々がすでに朽ち掛けている。庭の草も伸び放題で、人の手がまったく入っていない。低いながらも石垣で作られた小道を、タクシーから降りた五平が歩いて行く。なにごとかと、村人たちが集まりはじめた。農作業の手を休めて見いる者もいる。
「もし、もーし! 竹田さーん! もし、もーし!」
付きそってきた守が戸口で声をかけるが、なかからはなんの返事もない。ならばと土間から台所にはいり板間を見るが、茂作の姿はない。「茂作さん、茂作さん!」と呼びかけながら、奥へとはいり込んだ。裏口まで行きひょいと顔を出すと、手押しポンプで顔をあらう茂作がいた。
(百八十四)
「おう、ここでしたか。お客が見えとるが? えらい立派ななりのお方じゃが」
「客だ? 立派ななり? うーん、誰じゃ」
まさか先物取引の男では? と、身がまえる茂作だが、武蔵がすでに清算済みだとはつゆ知らぬ。そういえばこの所なんの催促もない。諦めたのかと考えたりもしたが、理由が判然としないでいた。
「大丈夫かの? 茂作さん。昼寝だったか? いいご身分じゃ」
「ふん、なんということもないさ」。ふらつく足が、こころの動揺を表している。
「お待たせしまして、すまぬことです。奥で昼寝をしておりました。いま、出てきますで」
ぺこぺこと腰を曲げる守に、「お手数をおかけしまして、申し訳ありません」と、五平が軽く頭を下げた。
「はてはて、どなたですかな?」
草履をペタペタと鳴らしながら、戸口へと向かう。いつもの場立ちの人間ではない。はじめて見る顔に不気味さを感じつつも、横柄な態度をとった。精一杯の虚勢だ。
いざというときは、田畑をしょぶんするさ。小夜子の所にころがりこめばすむこと≠ニ、腹をくくる算段をするが、忸怩たる思いもある。
「竹田茂作さんでしょうか?」
柔らかい物腰を見せる五平に、
まちがいない。先物取引にちがいない。らちがあかぬと、上の者がでばってきたか≠ニ、観念した。
「なんじゃ、お前ら。見世物じゃねえぞ! 去ね、いね!」。人だかりに向かって怒鳴りつけて追いはらった。
板間に上がりこんだ五平は、両手をついて「わたし、富士商会の加藤五平と申します」と挨拶した。思いもかけぬその所作に、茂作の思考が止まった。
「社長、御手洗武蔵の名代として、本日はうかがいました」
富士商会? 御手洗武蔵? 聞きおぼえのある名前がとびだした。血の気の引いていた茂作に、すこしの安堵の色がでた。
「富士商会さんといいますと、たしか、小夜子がつとめているとかいう会社でしたかの?」
「はい。小夜子お嬢さまをおあずかりしている、御手洗の代理でございます」
気おくれしていた茂作だが、へりくだった五平の物言いにやっと気力が戻った。
「ま、飲みなさいな」と、冷めてしまっているお茶を出した。
「本日おじゃま致しましたのは、小夜子お嬢さまの件でございます。いえいえ、すこぶるお元気でございます。毎日を御手洗の世話でいそがしくされております」
「はて? 御手洗さんの世話と言われたか? 学校に行くかたわら、仕事を手伝っていると聞いておったが?」
憮然とした顔で、語気するどく詰めよった。そんな茂作を、かるく受け流しながら「仕事など、とんでもない。小夜子お嬢さまにそんなことは、御手洗が許しません。しっかりと英会話を身につけていただかねば」
「茂作さん、茂作さん」。戸口から、呼ぶ声がする。小声で、呼ぶ声がする。
「なんだい、うるさい」。おっとり刀で、茂作が戸口へ向かった。
「茂作さんよ。あのお方は、どういう素性の方かの?」
「誰でも良かろう。さあ、帰った、かえった!」
「そんなわけにいかんのです、助役に言われて来たんです」
「助役だろうと誰だろうと、去ね」。茂作の剣幕に押された役場の守は、やむなくその場を離れた。
(百八十五)
茂作にしてみれば、五平の用向きが気になる。小夜子をお嬢さまと呼ぶことが気にいらない。茂作を小ばかにしているように感じられる。貧乏人だと見くびりよって! 小夜子は、佐伯の本家にとつぐ身ぞ。大しんだいの佐伯本家にじゃ。ばかにするとしょうちせんぞ=B先日に大見得をきった啖呵のことなど、ころりと忘れている。
「それで、どんなご用ですか? わしも色々といそがしい身でしての」
「こりゃ、失礼致しました。本来なら媒酌人を立ててお伺いせねばならんのですが、そういった堅苦しいことがとんと苦手でして」
「ち、ちょっと待った! ば、ばいしゃくにんとはどういうことか!」
寝耳に水のことに、怒りで手がぶるぶると震える。
「出てけえー! そんな話は聞きたくもないわ!」
「落ち着いてください、竹田さん。悪い話ではありませんで。小夜子お嬢さまも、ご納得されておりますし」
「ばかたれえ! なっとくもなにも、あるもんか! 小夜子は、小夜子は、わしの娘じゃ!」
怒り心頭に達している茂作に、五平がドスの利いた声で告げた。
「竹田さんよ、そんな風に虚勢をはるものじゃないよ。あんた、借金があるだろ?」
「い、いや、それは……」
思わず絶句してしまった。五平をその取り立てかと疑いはじめた。そこを突かれると、黙るしかない。
「その先物取引の借金をチャラにしたのは、御手洗なんだよ」
「な、な、な……」。ことばが出ない、思いもよらぬことを告げられた。
「督促が来なくなったろうが。まだあるぜ、竹田さんよ。毎月の仕送り、あれも御手洗だ。小夜子お嬢さまはご存知ないことだがね。御手洗のお陰で、三度さんどのおまんまやら、晩酌が出来てるんだ」
へなへなと座り込んでしまった。
「あれは、小夜子が、小夜子が……」と、呪文のようにつぶやきつづける。
「いや、大丈夫じゃ。佐伯の本家にとつげば、そんなもんかえせる」
「空手形は切るものじゃない、竹田さん。正三とかいう若造のことかね。さあてね、どういうことになっているのか」
「そ、それじゃ。ロシア娘がおる、ロシア娘が」
勝ち誇ったように言う茂作に、五平は薄ら笑いを浮かべた。
「やれやれ、アナスターシアのことかね?」
「そ、そうじゃ。わしの娘になりたいと言うロシア娘が、そんなことぐらいなんとでもしてくれる」
「ま、生きてればね。何とかしてくれたかもしれないねえ。しかしあの世に行っちまった今となってはねえ。悪いことは言わない、御手洗の世話になりなさい」
座り込んでいる茂作の肩に手をおき、やさしく声をかけた。
「御手洗はねえ、とに角ベタ惚れなのよ。小夜子お嬢さまにしても、御手洗との生活に満足されているんだから」
五平の声が耳にはいっているのか、いないのか。茂作は頭をうな垂れたまま、身じろぎひとつしない。
「近いうちに、御手洗本人が挨拶に来ますので」と、封筒を茂作の前においた。
「ミツよお。わしゃ、どうしたらいい? 小夜子を取られちまう。どこの馬のほねとも分からんやつに、とられちまうぞ。わしの、わしの小夜子を、とられるよお……」
茂作の妻であり、小夜子の祖母にあたるミツに話しかける。小夜子がいなくなってから、とみに増えた茂作の合掌すがただ。
(百八十六)
産後の肥立ちが悪かったミツは、澄江が二歳のおりに還らぬ人になってしまった。ミツを嫁にもらって分家した茂作は、一心にはたらいた。いちばん鶏の鳴くころには畑を耕し、家路に着くのはどっぷりと暮れてからのことだった。そして夜はよるとて、土間にゴザを敷いてのわら草履づくりにはげんだ。次男に生まれたがために味わった苦汁であり、次男に生まれたが為に味わった苦悩であり、次男に生まれたがために悲哀を味わった。相思相愛の初江を、次男に生まれたがために諦めさせられたのだ。
見返してやる。本家より金持ちになってやる
とりつかれたように、働きつづけた。ミツもまた、茂作同様にいやそれ以上に働いた。澄江を身ごもったおりも、周囲の懸念をよそに働きにはたらいた。澄江を産み落としてのちも、産後の休養をとることもなく畑にでた。そしてそれらの無理がたたり、茂作の畑からの帰りを待たずに他界してしまった。
助役室、というプレートのついた部屋――幅4尺ほどの片袖机がひとつと、かべ際には書棚があり、部屋の中央にはソファとテーブルが置いてある。
助役なのに、まともな机も用意されんのか。経費節減だと、お念仏でもあるまいし。役所のそこら中に張り紙をしおって。なら村長の専用車なんぞ、やめい。なんであんな大きな車にせにゃならんのか。それに、出かける所なんぞないんじゃから。家族のタクシーがわりに使いよってからに≠ニ、憤懣やるかたない。しかし村長のまえにでると、借りてきた猫になってしまう。先代村長に疎まれていたところを、現村長によって助役に引き上げてもらった恩がある。
「助役さん、じょやくさん」と若い男が駆けこんできた。
「騒々しいぞ、守」。書類から目をあげて助役がたしなめた。
「それで話は聞けたのか?」。机の前に立たせたまま、つづけて声をかけた。
「それがですねえ」と、守が身ぶり手ぶりで報告した。
「すごい人だかりでして、茂作さんに声をかけるのにもひと苦労しました」
ソファに座ろうとする守に対して、「こら、ここは役場だ。甥だからと横着するでない!」と、再度たしなめた。
「それにしても茂作さん、けんもほろろでして。話を聞けませんでした。顔色がわるかったところを見ると、どうも借金とりではないかと」
「馬鹿を言っちゃいかん。借金とりが、なんで寄付を申しでるんだ。茂作と竹田本家の名前で、あんな大金をだ。縁戚かなにかなら分かるけれども。待て! ひょっとして、娘の小夜子の? そうか、そうか、そういうことか」
合点した助役が、すぐさま村長の部屋にかけこんだ。となりの部屋で、幅が一間ほどある両袖机が窓を背にしておいてある。かべ際には書棚が二つならべてあり、すき間なく書籍やら書類のたぐいが入れてある。反対側のかべには、歴代村長の写真がかざられている。
苦虫をかみつぶしたような表情ばかりなのは、尊厳を示したいという気持ちの表れなのだが、現村長である猪狩はすこし口角を上げた表情で撮らせた。
「もう威張る時代ではない」。「村役場は、村民のしもべであるべきだ」。それが猪狩のお気に入りのことばで、毎度の選挙演説にいれていた。
「事情を聞けなかったようですわ。夜にでも、わたしが行ってきます」
「そうか、話を聞くことはできなんだか。これだけの大金だ、どうしたもんか。素性のはっきりするまでは、このままにしておかなきゃの。まさかの時にはこのまま返すことになるじゃろう」」
思案顔を見せる村長に、助役が勝ちほこったように告げた。
「村長も聞き及びでしょう。茂作が、佐伯のご本家に対して大そうな口をきいたという話を。あんがいに、嫁入りが決まっておったんでしょう、もう。だから佐伯のご本家にあのような口を」
怪訝そうな表情をみせる村長にたいして、まだ分かりませんかと、話をつづけた。
(百八十七)
「問題ありませんわ、村長。小夜子ですよ、小夜子」
「小夜子? 小夜子がどうした。あのむすめは東京へ出て行って、…。あゝ、そうか! そういうことか」
ぽんと手のひらを打って、やっと得心顔をみせた。
「うんうん、正三坊ちゃんが入れあげとった小夜子じや。どこかのお大尽をつかまえたということか。しかしあの気位の高い小夜子がなあ。めかけ奉公とはなあ……」
小夜子の花嫁姿は思いうかばない。貧乏小作人の娘だと蔑むつもりはないが、どうしてもまともに嫁げるとは思えない。同じような小作人の家ならばありえるだろうが、と思ってしまう。佐伯家の跡とりである正三が入れあげたと聞いても、しょせんは妾になるのだろうと決めつけていた。
「なるほどなるほど」と、ふたりして頷きあう。そして部屋から高笑いがひびいてきた。ほんの数時間前、テーブルに置かれた札束をにらみつけていたふたりが、大笑いをした。
そしていま、安堵の胸をなでおろす。
「村長、よろしかったですな。それにしても、寄付金とは」
「いやあ、有難いぞ。金は、幾らあっても困ることはない」
その日のうちに、寄付金のことが村中にひろまった。竹田の本家に助役がむかい、繁蔵ともども茂作の家にむかった。繁蔵の声かけに、「な、なに用です」と、茂作は驚きをかくせない。
「なんで黙っておった? こんな慶事を教えてくれんとは、どういう了見じゃ。ま、いい。なんにせよ、めでたい」
「わ、わしはまだ、承諾しとりませんでの」
悦に入る繁蔵に、茂作が口を尖らせた。
「なにを言うんじゃ! 先夜の佐伯ご本家にたいする失礼も、このことからじゃろうが! お前がなんと言おうとこの話はまとめるんじゃ! これは竹田本家の命じゃ」
普段ならば、ここでシュンとしてしまう茂作だ。しかし、ことは小夜子の結婚話とあっては、茂作も引き下がれない。
「小夜子の一生のことじゃ。いくらご本家といえども口出しはむようにねがいたいものですわ」
「まあまあ、繁蔵さん、茂作さん。落ちついて話しましょうや。じつはな、茂作さん。わしがついてきとるのは、ご報告がありましての。じつは、きょうお見えになった加藤さんから、村に寄付金をいただきましたんですわ。ご本家と茂作さんおふたりさまからと言うことで、それぞれ拾萬円をの」
寝耳に水のことだった。茂作だけならず竹田本家名での寄付など、思いも寄らぬ。外堀を完全にうめられては、いかんともし難い。蜘蛛の巣にかかった蝶のように、逃げ場を失っていく。「ううぅ……」と、茂作が唸り声を上げる。
「お婆さまも、大喜びじゃ。でかした! と、おほめの言葉をいただいたしの。茂作のしつけをほめてみえた。もう上機嫌での、明日にでも本家に来いとのことじゃから」
繁蔵のことばも、耳にはいらない。大きくうなずく助役が、憎らしく見える。
「去ね! いねえぇ!」。しぼり出すような茂作の声に、これ以上の長居は無用と立ち去った。
「いいか、明日にでも顔を出すんじゃぞ!」。重蔵の帰りぎわの声が、茂作の耳につき刺さった。
(百八十八)
ふたりが帰ったあと、すぐに戸口のかんぬきをかけた。
「ミツ、ミツよ。だめじゃ、もう。盗られちまったよ、みたらいとかいう馬の骨に」
肩をがっくり落とした茂作は、ふらふらと立ち上がり、断っていた酒に手を伸ばした。アナスターシアのおくってくれたウィスキーを、湯のみ茶碗に並々と注いだ。そして琥珀色の液体を、ぐいっと喉に流し込む。
「グオッ! ゲホッ、ゲホッ……」
「な、なんだこれは。のどが痛い、ひりつくぞ」
アルコール度数の高いウィスキーだ、水で割るとは知らぬ茂作だ。あわてて、焼けつく胃袋に水を流し込んだ。
「うー! 東京者はこんな酒をのんでおるのか。うーむ。きどった連中ばかりじゃと聞くが、変なものを飲むもんじゃ。小夜子も、こんなものを飲んでおるのか? 小夜子やあ」
知らぬまに眠りこけていた茂作が目を覚ましたのは、すこし外が白々としはじめたころだった。
「ううぅ、ぶるる。いかんいかん、こんな所で寝てしもうたか。もう夜が明ける。また、いち日がはじまるのか」
みながうらやむ茂作のいち日、それは茂作にとっては地獄の日々だった。これといってすることのない、無為ないち日。日がないち日を囲炉裏端で過ごすことが多くなった茂作だ。日々のかてを得るために忙しくはたらく村人を、なんの感慨もなく、ただ見つめる茂作だ。そのまなこからは光が失われている。
「のんびりできて、ほんとに茂作は幸せものじゃて」
そんなことばのかげに、村人のさげすみの色を感じる。
「おちぶれたものよ、茂作も」
「ミツさんがおったころは、はたらきものじゃったに」
「娘がべっぴんさんだけに、おかしゅうなってしもうたの」
はたから見れば、ほおけた老人に見えてしまっている。茂作もまた、村人たちの陰ぐちを知らぬわけではない。
「なんということじゃ、まったく。小夜子からの仕送りとばかりに思っていたものが、みたらいとかいう男からだったとは。いかんぞ、いかんぞ、茂作。これでは娘を売って日々のかてをえているようなものじゃ。茂作、立てい!」
おのれを鼓舞する茂作だが、気持ちとは裏腹に、腰があがらない。腰に力がはいらない。ならばと片手をついて起きあがろうとするが、腕の力もまた茂作の体を支えきれない。
どうしたことか! 昨日までは立てたのに。けさには力がはいらんとは。どうなってしもうた? わしの体は。他人の体に思えるぞ
うろたえる茂作だが、着物の袖を押さえつけていては起き上がれるはずもない。しかしそのことにすら気づかぬほどに、打ちのめされていた。
「こんなところで終わるわけにはいかん、もうひとふん張りせねば」
思いはするのだが、なにをどうすればいいのか、まるで思いつかない。畑を耕そうにも、すでに手放している。本家に頼みこめばもどしてくれるかもしれない。いや、すぐにももどしてくれるだろう。とにかく頭を下げることにした。
「ご先祖さまになんとおわびするつもりじゃ! あの畑はお前のものじゃないんぞ! ご先祖さまからの預かりもんぞ。バチ当たりが、ほんに」
本家の大婆さまからきつい叱りのことばを受けている。兄の繁蔵からは「畑は貸してやる。しっかりと耕して、買い戻せ」と、説教された。

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