(百七十九) 突き抜けるような青空が、五平にはまぶしく感じられる。こがね色に揺れる稲穂を見るにつれ、胸の奥に痛みを感じはじめた。――田舎みちを数人の娘たちとともに歩く。畑仕事に勤しむ百姓たちの指すような視線が、五平の全身に冷たく突き刺さる。視線を返すとすぐに逸らしてしまうが、外すとまた射てくる。そんな繰り返しをつづけながらも、涙顔の娘たちを急かしながら道を行く――。そんな光景が思い出されてしまう。 しっかりしろ! 加藤五平。おまえは女衒の五平じゃないんだ。富士商会という真っ当な会社の専務さまだ。きょうは、社長御手洗武蔵の名代で来たんだ。胸を張れ! この村には珍しいタクシーが、茂作の家屋前に着けられた。茅葺きの古い家屋で、縁側の所々がすでに朽ち掛けている。庭の草も伸び放題で、人の手がまったく入っていない。低いながらも石垣で作られた小道を、タクシーから降りた五平が歩いて行く。なにごとかと、村人が集まりはじめた。農作業の手を休めて見入る者もいる。 「もし、もーし! 竹田さーん! もし、もーし!」 付き添ってきた者が戸口で声をかけるが、中からはなんの返事もない。ならばと土間から台所にまわり板間を見るが、茂作の姿はない。「茂作さーん、茂作さーん!」と呼びかけながら、奥へと入り込んだ。裏口まで行き、ひょいと顔を出した。手押しポンプを使い、桶にたらいそしてヤカンにと地下水を注ぎ込むとなりのおしげがいた。 「ああ、おしげさんか。茂作さんは? お客が見えとるけども。えらい立派ななりのお方じゃが」 「客だ? 立派ななり? 茂作さんはひるね中じゃろ」 そこに、ひょっこりと茂作が顔を出した。「ああもう。うるさくてねとれん」。二人の会話を耳にして起きだしてきたが、まさか先物取引の男では? と、身がまえてしまっていた。武蔵がすでに清算済みだとは露知らぬ。そういえばこの所なんの催促もない。諦めたのかと考えたりもしたが、理由が判然としないでいた。 「大丈夫かの? 茂作さん。昼寝だったか? いいご身分じゃ」 「ふん、なんということもないさ」。ふらつく足が、こころの動揺をあらわしている。 「お待たせしまして、すまぬことです。奥でひるねをしておりましたわ。いま、出てきますで」 ぺこぺこと腰を曲げる村人に、「お手数をおかけしまして、申し訳ありません」と、五平が軽く頭を下げた。 「はてはて、どなたですかな?」 草履をペタペタと鳴らしながら、戸口へと向かう。いつもの場立ちの人間ではない。初めて見る顔に不気味さを感じつつも、横柄な態度をとった。精一杯の虚勢だ。 いざという時は、田畑とこの家を処分するさ。小夜子のところに転がりこめば済むこと≠ニ、腹をくくる算段をするが、忸怩たる思いもある。 「竹田茂作さんでしょうか?」。柔らかい物腰をみせる五平に、まちがいない。先物取引商にちがいない。らちがあかぬと、上の者がでばってきたか=hと、観念した。 「なんじゃ、お前ら。見世物じゃねえぞ! 去ね、いね!」。人だかりに向かって怒鳴りつけて追い払った。 (百八十) 板間に上がりこんだ五平は、両手をついて「わたし、富士商会の加藤五平と申します」と挨拶した。思いもかけぬその所作に、茂作の思考がとまった。 「社長、御手洗武蔵の名代として、本日は伺いました」 ふじしょうかい? みたらいたけぞう? 聞き覚えのある名前がとびだした。とりあえず先物取引商ではない。血の気の引いていた茂作に、すこしの安堵の色が出た。 「ふじしょうかいさんと言いますと、たしか、小夜子が勤めているとかいう会社でしたかの?」 「はい。小夜子お嬢さまをお預かりしている、御手洗の代理でございます」 気おくれしていた茂作だが、へりくだった五平の物言いにやっと気力が戻った。「ま、飲みなさいな」と、冷めてしまっているお茶を出した。 「本日おじゃま致しましたのは、小夜子お嬢さまの件でございます。いえいえ、すこぶるお元気でございます。毎日を御手洗の世話でいそがしくされております」 「はて? みたらいさんの世話と言われたか? 学校に行くかたわら、仕事を手伝っていると聞いておったが?」 憮然とした顔で、語気するどく詰めよった。そんな茂作を、かるく受け流しながら「仕事など、とんでもない。小夜子お嬢さまにそんなことは、御手洗が許しません。しっかりと英会話を身につけていただかねば」 「茂作さん、茂作さん」。戸口から、呼ぶ声がする。小声で、呼ぶ声がする。 「なんだい、うるさい」。おっとり刀で、茂作が戸口へ向かった。 「茂作さんよ。あのお方は、どういう素性の方かの?」 「だれでも良かろう。さあ、帰ったかえった!」 「そんなわけにいかんのです、助役に言われて来たんです」 「助役だろうとだれだろうと、去ね」 茂作の剣幕に押された役場の守は、やむなくその場を離れた。 茂作にしてみれば、五平の用向きが気になる。小夜子をお嬢さまと呼ぶことが気に入らない。茂作を小ばかにしているように感じられる。 貧乏人だと見くびりよって! 小夜子は、佐伯の本家にとつぐ身ぞ。大身代の佐伯本家にじゃ。バカにすると承知せんぞ 先日に、佐伯家の当主である正左ヱ門に大見得を切った啖呵のことなど、ころりと忘れている。 「それで、どんなご用ですか? わしも色々といそがしい身でしての」 「こりゃ、失礼致しました。本来なら媒酌人を立ててお伺いせねばならんのですが、そういった堅苦しいことがとんと苦手でして」 「ち、ちょっと待った! ばいしゃく人とはどういうことか!」 寝耳に水のことに、怒りで手がぶるぶると震える。 「出てけえー! そんな話は聞きたくもないわ!」 「落ち着いてください、竹田さん。悪い話ではありませんで。小夜子お嬢さまも、ご納得されておりますし」 「ばかたれえ! 納得もなにも、あるもんか! 小夜子は、小夜子は、わしの娘じゃ!」 怒り心頭に達している茂作に、五平がドスの利いた声で告げた。 「竹田さんよ、そんな風に虚勢をはるものじゃないよ。あんた、借金があるだろ?」 「い、いや、それは……」 思わず絶句してしまった。五平をその取り立てかと疑い始めた。そこを突かれると、黙るしかない。 (百八十一) 「その先物取引商の借金をチャラにしたのは、御手洗なんだよ」 「な、な、な、、、」。ことばが出ない、思いも寄らぬことを告げられた。 「督促が来なくなったろうが。まだあるぜ、竹田さんよ。毎月の仕送り、あれも御手洗だ。小夜子お嬢さまはご存知ないことだがね。御手洗のおかげで、三度さんどのおまんまやら晩酌ができてるんだ」 へなへなと座り込んでしまった。「あれは、さよこが、さよこが……」と、呪文のように呟きつづける。 「いや、大丈夫じゃ。佐伯の本家にとつげば、そんなもん返せる」 「空手形は切るものじゃない、竹田さん。正三とかいう若造のことかね。さあてね、どういうことになっているのか」 「そ、それじゃ。ロシア娘がおる、ロシアむすめが」。勝ち誇ったように言う茂作に、五平は薄ら笑いを浮かべた。 「やれやれ、アナスターシアのことかね?」 「そ、そうじゃ。わしの娘になりたいと言うロシア娘が、そんなことぐらいなんとでもしてくれる」 「ま、生きてればね。なんとかしてくれたかもしれないねえ。しかしあの世に行っちまった今となってはねえ。悪いことは言わない、御手洗の世話になりなさい」 座り込んでいる茂作の肩に手を置き、優しく声をかけた。 「御手洗はねえ、とに角ベタ惚れなのよ。小夜子お嬢さまにしても、御手洗との生活に満足されているんだから」 五平の声が耳に入っているのか、いないのか。茂作は頭をうな垂れたまま、身じろぎひとつしない。 「近いうちに、御手洗本人があいさつに来ますので」と、封筒を茂作のまえにおいた。 「タキよお。わしゃ、どうしたらいい? 小夜子を取られちまう。どこの馬の骨ともわからん奴に、取られちまうぞ。わしの、わしの小夜子を、取られるよお……」 茂作の妻であり、小夜子の祖母にあたるタキに話しかける。小夜子が居なくなってから、とみに増えた茂作の合掌姿だ。産後の肥立ちが悪かったタキは、澄江が二歳のおりに還らぬ人になってしまった。タキを嫁にもらって分家した茂作は、一心にはたらいた。いちばん鶏の鳴くころには畑を耕し、家路に着くのはどっぷりと暮れてからのことだった。 そして夜はよるとて、土間にゴザを敷いてのわら草履づくりにはげんだ。次男に生まれたがために味わった苦汁。次男に生まれたがためにあじわった苦悩。次男に生まれたがゆえにあじわった悲哀。相思相愛の初江を、次男に生まれたことで諦めさせられた。 みかえしてやる。本家より金持ちになってやる 取りつかれたように、働きつづけた。タキもまた、茂作同様にいやそれ以上にはたらいた。茂作の心中を知っているタキは、「もうしわけないことで、もうしわけないことで」と、毎夜のようにお念仏のように口にしては、茂作に頭をさげた。先に嫁いだ先で子宝に恵まれず、石女とさげすまされて離縁された。 しかしそれから二年後に茂作に嫁いですぐに、澄江を身ごもった。うまずめではなかったことになり、しかも離縁された家ではだれを娶っても子に恵まれなかった。タキは周囲の懸念を他所に働きにはたらいた。澄江を産み落としてのち、すこしの産後の休養をとることもなく畑に出た。そしてそれらの無理がたたり、澄江が二歳のとき茂作の畑からの帰りを待たずに、他界してしまった。 (百八十二) 助役室というプレートのついた部屋――幅4尺ほどの片袖机がひとつと、かべ際には書棚があり、部屋の中央にはソファとテーブルが置いてある。その部屋に「助役、助役」と若い男が駆けこんだ。 「騒々しいぞ、守」。書類から目をあげて助役がたしなめた。 「話は聞けたのか?」。机の前に立たせたまま、つづけて声をかけた。 「それがですねえ」と、守が身ぶり手ぶりで報告した。 「すごい人だかりでして、茂作さんに声をかけるのにもひと苦労しました」 ソファに座ろうとする守に対して、「こら、ここは役場だ。甥だからと思うな」と、再度たしなめた。 「それにしても茂作さん、けんもほろろでして。話を聞けませんでした。顔色がわるかったところを見ると、どうも借金とりではないかと」 「馬鹿を言っちゃいかん。借金とりが、なんで寄付を申しでるんだ。茂作と竹田本家の名前で、こんな大金をだ。縁戚かなにかならわかるけれども。待った。ひょっとして、娘の小夜子の? そうか、そうか、そういうことか」 合点した助役が、すぐさま村長の部屋にかけこんだ。となりの部屋で、幅が一間ほどある両袖机が窓を背にしておいてある。かべ際には書棚が二つならべてあり、すき間なく書籍やら書類のたぐいが入れてある。 反対側のかべには、歴代村長の写真がかざられている。苦虫をかみつぶしたような表情ばかりなのは、尊厳を示したいという気持ちの表れなのだが、現村長である猪狩は少し口角を上げた表情で撮らせた。 「もう威張る時代ではない」。「村役場は、村民の下僕であるべきだ」。それが猪狩の選挙演説だった。 「だめです、村長。事情を聞けなかったようですわ。夜にでも、わたしが行ってきます」 「そうか、話を聞くことはできなんだか。しかしこれだけの大金だ、どうしたものか。素性のはっきりするまでは、このままにしておかなきゃの。まさかの時にはこのまま返すでの」」 思案顔を見せる村長に、助役が勝ちほこったように告げた。 「村長も聞きおよびでしょう。茂作が、佐伯のご本家にたいして大そうな口をきいたという話。決まっておったんでしょう、もう。だから佐伯のご本家にあのような口を」 怪訝な表情をみせる村長にたいして、まだわかりませんかと、話をつづけた。 「問題ありませんわ、村長。小夜子ですよ、さよこ」 「小夜子? さよこがどうした。あのむすめは東京へ出て行って、あゝそうか! そういうことか」。ぽんと手のひらを打って、やっと得心顔をみせた。 「うんうん、正三坊ちゃんが入れあげとった小夜子じや。どこかのお大尽をつかまえたということか。しかしあの気位の高い小夜子がなあ。めかけ奉公とはなあ……」 小夜子の花嫁姿は思いうかばない。貧乏小作人の娘だと蔑むつもりはないが、どうしてもまともに嫁げるとは思いもしない。同じような境遇さきならばありえるだろうが、と思ってしまう。佐伯家の跡とりである正三が入れあげたと聞いても、しょせんは妾になるのだろうと決めつけていた。「なるほどなるほど」と、ふたりして頷きあう。そして部屋から高笑いがひびいてきた。ほんの数時間前、テーブルに置かれた札束をにらみつけていたふたりが、大笑いをした。 (百八十三) 昭和初期に、たび重なる飢饉におそわれた東北地方。このことにともない女衒を仲介とした身売りが横行した。この世相に憂えた青年将校たちによるクーデター未遂、昭和十一年に二・二六事件が起きた。その兵士たちの中には、東北出身の者が多々いた。 五平の脳裏に苦い思い出がよみがえる。 「借金さえ返し終えれば、戻ってこれるんだ。お前さん次第では、十年が八年にいや七年にもなるってもんだ」 哀しい嘘だった。一度苦界に身を落とせば、中々に浮かび上がれない。自身の知らぬ内に増えていく借財がある。親元への送金を勝手にされてしまう娘も、まれにいた。酒に逃げ込む父親、娘にすがりついて離さぬ母親、両手を合わせる祖父母、そして訳もわからずに右往左往する幼子たち。そんな中「さあさ、愁嘆場もこれまでだ!」と、娘を連れ去る五平だった。 「お待たせしました、わたし助役でございます。村長はちと用があり、外出しておりますもので」と、助役がおっとり刀で出てきた。カウンターを挟んで、五平と助役が対峙する。 身なりからして近辺の者ではないと判断しつつも、うかつな対応はできぬと傲然とした態度をみせた。 少し前のこと、他町で詐欺事件がおきたと聞かされている。某企業の依頼で、新工場建設用地の選定をしているとの触れ込みだった。材木業を営んでいた店が、主が戦死したことにより廃業をしてしまった折りのことだった。焦った町の幹部たちが、その仲介人に対して多額の賄賂を提供して、なんとか誘致を勝ち取ろうとした。しかしその工場建設が虚偽のことでありることが分かり、町長、助役はもちろんのこと、課によっては係長に至るまで処分の対象となってしまった。 しかし今回は、五平が助役の眼前にどんと札を積み上げた。 「そ、その、そのお金は、どういうことで……」。思いも寄らぬ事態に、助役が目を剥き職員たちは声を失った。 「寄付をさせていただきたい」と、声をおしころして五平が言った。 「ど、どうぞ、こちらへ。ほら、ご案内して」 平身低頭しながら、助役が奥に取って返す。息を殺して成り行きを見守っていた村長に、ご注進に走った。 「村長、村長。寄付ですと、寄付」 興奮のあまり、顔を上気させて助役が小躍りせんばかりに村長のもとに駆け寄った。 「いや、待て待て。このご時世じゃ。とんでもない難事を持ちかけられゃせんかの」 あくまで慎重に構える村長に対して、「とにかく話を聞きましょうぞ。留守だと言いましたが、わたしの知らぬうちにお帰りになっていたということにしましょうて」と提案した。しかしそれでも、とりあえず助役が聞き置くというのはどうか、とあくまで二の足を踏む村長に対して「選挙がありますで、ここで一発花火でも上げんことには」と、強く促した。 (百八十四) 村長室に通された五平が、 「竹田茂作さんと竹田繁蔵さん名義で、それぞれ十万円寄付をさせていただきます。 ご確認していただきたい」と、ふたたび札束をテーブルの上にわざと、ドンと音を立てておいた。 「それはどうも、ご奇特なことで。で? 竹田さんとはどういったご関係でございますか?」 「それは、まあ、その内に分かりますでしょう。いまは、詮索無用にねがいますかな」 勿体ぶった言い方で煙に巻いた。ではありがたく、と手を出そうとする助役を押しとどめて、「加藤さんでしたか。失礼ですが、どこぞの会社関係の方で?」と、村長が五平に念を押した。 「いや、これは失礼。富士商会という会社の専務をやらせてもらっております。御手洗というのが社長でして」 そこまで言うと、喉をうるおすためとばかりに茶をすすった。 「こりゃあ、うまいお茶ですなあ。こちらで生産しておられるので? うーん。いちど持ち帰って、社長に具申しますかな。当社での販売をしては、と」 相好を崩して、一気にからにした。助役が、もう一杯いかがですかと声をかけると、是非にもと五平が答えた。余計なことをと村長の顔がゆがみ、やっぱりなんぞのことがあるぞ≠ニ、警官心をあらわにした。 「ご心配にはおよびません。寄付をしたからと言って、無理難題を押しつける気はさらさらありませんので。あくまで、御手洗の個人的なことですから。村に対してどうのということは一切ありません」 二杯目の茶を飲み干した五平は、さも満足げに頷きながら「それではこれで」と席を立った。まだ警戒心のとれぬ村長ではあったが、帰るという相手を引き留めるわけにもいかず「とりあえずお預かりいたします」と告げるのが精一杯だった。 役場を出るときには、村長以外の全員が最敬礼で送り出した。 「追いかけて行け、どこかに向かわれるようじゃ。茂作のところか、それとも本家の方か、確認するんじゃ。できれば、どういった素性の金かもな」 助役が守に命を下した。 そして今、安堵の胸を撫で下ろす。 「村長、よろしかったですな。それにしても、寄付金とは」 「いゃあ、有難いぞ。金は、幾らあっても困ることはない」 その日のうちに、寄付金のことが村中にひろまった。竹田の本家に助役がむかい、繁蔵ともども茂作の家にむかった。突然の繁蔵の来訪に、「な、なに用です」と、茂作は驚きをかくせない。 「なんで黙っておった? こんな慶事を教えてくれんとは、どういう了見じゃ。ま、いい。なんにせよ、目出度い」 「わ、わしはまだ、承諾しとりませんでの」。悦にいる繁蔵に、茂作が口を尖らせた。 「なにを言うんじゃ! 先夜の佐伯ご本家にたいする失礼も、このことからじゃろうが! お前がなんと言おうとこの話はまとめるんじゃ! これは竹田本家の命じゃ」 普段ならば、ここでシュンとしてしまう茂作だ。しかし、ことは小夜子の結婚話とあっては、茂作も引き下がれない。 「小夜子の一生のこと、いくらご本家といえども口出しは無用にお願いしたいものですわ」 「まあまあ、繁蔵さん茂作さん。落ち着いて話しましょうや。じつはな、茂作さん。わしがついてきとるのは、ご報告がありましての。じつは、今日お見えになった加藤さんから、村に寄付金をいただきましたんですわ。ご本家と茂作さんおふたりさまからと言うことで、それぞれ十万円をの」 寝耳に水のことだった。茂作だけならず竹田本家名での寄付など、思いも寄らぬ。外堀を完全にうめられては、いかんともし難い。蜘蛛の巣にかかった蝶のように、逃げ場を失っていく。 「ううぅ……」と、茂作が唸り声を上げる。 「お婆さまも、大喜びじゃ。でかした! と、おほめの言葉をいただいたしの。茂作のしつけをほめてみえた。もう上機嫌での、明日にでも本家に来いとのこどしゃから」 繁蔵のことばも、耳に入らない。大きくうなずく助役が、憎らしく見える。 「去ね! いねえ!」。しぼり出すような茂作の声に、これ以上の長居は無用と立ち去った。 「いいか、明日にでも顔を出すんじゃぞ!」。重蔵の帰りぎわの声が、茂作の耳につき刺さった。 ふたりが帰ったあと、すぐに戸口のかんぬきをかけた。 「タキ、タキよ。だめじゃ、もう。盗られちまったよ、みたらいとかいう馬の骨に」 肩をがっくり落とした茂作は、ふらふらと立ち上がり、断っていた酒に手を伸ばした。 アナスターシアのおくってくれたウィスキーを、湯のみ茶碗に並々と注いだ。琥珀色の液体を、ぐいっと喉に流し込む。 「な、なんだこれは。のどが痛い、ひりつくぞ」 アルコール度数の高いウィスキー、水で割るとは知らぬ茂作だ。あわてて、焼けつく胃袋に水を流し込んだ。 「うー! 東京者はこんな酒をのんでおるのか。うーむ。気取った連中ばかりじゃと聞くが、変なものを飲むもんじゃ。小夜子も、こんなものを飲んでおるのか? 小夜子やあ」 (百八十五) 知らぬ間に眠りこけていた茂作が目を覚ましたのは、すこし外が白々とし始めたころだった。 「ううぅ、ぶるる。いかんいかん、こんな所で寝てしもうたか。もう夜が明ける。また、一日がはじまるのか」 皆がうらやむ茂作の一日、それは茂作にとっては地獄の日々だった。これといってすることのない無為な時間がある。日がないちにちを囲炉裏端で過ごすことが多くなった茂作だ。日々のかてを得るためにいそがしく動く村人を、なんの感慨もなく見つめる茂作だ。そのまなこからは光が失われている。 「のんびりできて、ほんとに茂作さんは幸せものじゃて」 そんなことばのかげに、村人のさげすみの色を感じる。 「おちぶれたものよ、茂作も」 「タキさんがおったころは、はたらきものじゃったに」 「娘がべっぴんさんだけに、おかしゅうなってしもうたの」 はたから見れば、ほおけた老人に見えてしまっている。茂作もまた、村人たちの陰ぐちを知らぬわけではない。 「なんということじゃ、まったく。小夜子からの仕送りとばかりに思っていたものが、みたらいとかいう男からだったとは。いかんぞ、いかんぞ、茂作。これでは娘を売って日々のかてをえているようなものじゃ。茂作、立ていぃ!」 己を鼓舞する茂作だが、気持ちとは裏腹に、腰が上がらない。腰に力が入らない。ならばと片手をついて起き上がろうとするが、腕の力もまた茂作の体を支えきれない。 どうしたことか! 昨日までは立てたのに。今朝には力が入らんとは。どうなってしもうた? わしの体は。他人の体に思えるぞ うろたえる茂作だが、着物の袖を押さえつけていては起き上がれるはずもない。しかしそのことにすら気づかぬほどに、打ちのめされていた。 「こんなところで終わるわけにはいかん、もうひとふん張りせねば」 思いはするのだが、なにをどうすればいいのか、まるで思いつかない。畑を耕そうにも、本家の管理下にある。本家に頼みこめばまた戻してくれるかもしれない。 「ご先祖さまになんとおわびするつもりじゃ! あの畑はお前のものじゃないんぞ! ご先祖さまからの預かりもんぞ。バチ当たりが、ほんに」 本家の大婆さまからきついお叱りの言葉を受けている。兄の繁蔵からは「畑は戻してやろう。しっかりと耕して、大婆さまにあやまるんだ」と、説教された。 |