(百六十九)

「今日は、満足したか?」
「うん、おいしかった! ねえ、タケゾー。アメリカ人って、いつもあんな食事なの?」
 あれ以来、小夜子の呼び方が変わった。武蔵のたっての願いに、小夜子がおれた。小夜子にしてもお父さんと呼ぶことに違和感を覚えていたこともあり、渡りに船の観はあった。
「あんなとは、肉料理かってことか?」。「うん」
「そんなこともないだろう。じゃが芋をすりつぶしたサラダやら、大豆なんかも食べてるらしいぞ」
「ふうん、そうなんだ。他には、野菜なんかは?」
「食べてるぞ。ホウレン草が、有名だ。ポパイって奴なんかは、普段は弱いくせに、ホウレン草を食べたとたんにバカ強くなるぞ」
「ホウレン草って、そんなにすごいの?」
「ハハハ、漫画だ、マンガ。アメリカで大人気の、な」
「なーんだ、嘘なの? 信じかけちゃった。タケゾーが言うと、本当のことに聞こえるから」
小夜子の奴、ほんとに変わったな。あのロシア娘の死を知ってからだ。俺に頼りきっている。そろそろ、かな=Bデザートのアイスクリームを食している小夜子、至福の時を満喫している。

「小夜子。どうだ、俺の嫁にならんか。こんなときに、と思いもしたがいつまでもだらだらしても仕方がない。小夜子のじいさんも大事にする。小夜子には内緒だったけれども、月々仕送りをしてた。心配するな、小夜子の名で送ってるから。それと、小豆相場の方も片はつけてある。だからなんの心配もいらん。そうだ、いっそここで一緒に暮らすか?」
「タケゾーはどうしてそんなに優しいの?」
「なんでかな、俺にも分からん。案外惚れるというのは、こういうことなのかもな」
 武蔵からの真摯なことばに、思わず涙してしまう小夜子だ。そして情のうすさを覚える正三にたいする思いが、薄れていく小夜子でもあった。一通の手紙、一葉のハガキさえくれない――小夜子を一顧だにしない、薄情さが際だつ正三が憎くさえ思えてしまう。。

そうよ、あたしにはおじいさんがいるんだわ。これから恩返しをしなくちゃいけないのよ。正三さんにそれができて? 跡取りなのよね、正三さんは。でもきっとおっしゃるわ。『大丈夫です、お世話させていただきます』って。でもそんなこと、ご実家がお許しになるはずがない。あたしを嫁としてお認めになるなんて有り得ないことだわ。そうよ、正三さんを苦しめることにもなるわ。いまもきっと、苦しんでらっしゃるのよ。だからお手紙の一通も届かないのよ。あたしって、ほんとに罪な女だわ
 正三への思いが消えていく。そしてアナスターシアを思うことも、しだいに少なくなってきた。違う、ちがうのよ。忘れているわけじゃないわ、アーシア。あなたが言ったのよ、『いまをしっかり生きなさい』って=Bおのれにたいする言い訳ばかりを考えるようになってきた。

「どう、羨しいでしょ? これからお買い物よ」
 大声で叫びたくなる衝動を、ぐっとこらえる小夜子だった。きょうの小夜子は、いつもの小夜子とはすこし違っていた。ひょっとして今夜……=Bそんな予感がある。もしも迫ってきたら、どうしよう=B武蔵に言われているわけではないし、そんな素振りを見せているわけでもない。ただなんとなく、感じるのだ。そしてそれが、ちっともいやではないのだ。むしろ当たり前のごとくに思える。
 その夜、小夜子が泣いた。激しくないた。その涙が、悔し涙なのか嬉しなみだなのか、小夜子にも判然としない。ただただ、武蔵の胸のなかで、はげしく泣いている。武蔵は、小夜子の濡れたように輝く黒髪を、ゆっくりと撫でている。赤児をあやす父親のように、ときおり唇を押しつけた。

(百七十)

「いいか、娘々した服にしろよ。そうだ。いっそのこと、振り袖にするか? 二十歳の誕生祝いに誂えたろうが。可愛かったぞ、惚れ直した」
「いやあよ! 生娘じゃないのよ、もう 」
「構うもんか! 振り袖にしろ。みんなを、羨ましがらせてやる。そうだ、小夜子。結婚式にも、そいつを着てくれ。いやいや、文金高島田ももちろん誂えるさ。両方着ろ 」
「なに、バカ言ってるのよ。振り袖なんか、着られるわけないでしょうが。笑われちゃうわよ」
「構うもんか! いや、笑う奴なんか、俺がぶん殴ってやるさ。そうだ! まだ小夜子のじいさんにも、見せてないぞ。 うん、どうだ。一度見せに帰るか?」
 成人式が執り行われた際に、写真館で撮影した写真がある。
 ――終戦の翌年に埼玉県の蕨町において、次代をになう青年たちに明るい希望を持たせ励ますためとして、成年式が執り行われた。二年後の昭和二十三年に公布・施行された祝日法により、「おとなになったことを自覚し、みずから生きぬこうとする青年を祝いはげます」の趣旨のもと、昭和二十四年から、一月十五日を成人の日に指定された――。

 そうなのだ、茂作には見せていない。それどころか、結婚の許しすら得ていない。
「俺の家で……。そうだな。花嫁修業をしているとでも、とりあえずは連絡を入れておけ。落ち着いたら実家には戻ります。そう連絡をしておけ」
 武蔵の言いつけにも関わらず、今日のきょうまでなにもしていない。一日延ばしにしている内に、報告がしづらくなってしまった。
「だめよ、だめなの。花嫁修業なんて言ったら、絶対に怒るわ。学校に通うって宣言したんだもの。武蔵の家でくらしているなんて言おうものなら、きっとここまでやってくるわよ」
 おのれの不始末を、武蔵の物言いが悪いのだとすり替えてしまった。おのれをごまかしてしまった。しかしいつまでも連絡をしないわけにはいかない。体を許してしまったいま、渋々ながらも許してくれるだろうと考えた小夜子だった。とりあえずは、富士商会という一国一城の主なのだ。小夜子に対しこれほどまでに尽くす男はいない。これほどまでに小夜子の散財を許してくれる男はいない。しかも、茂作への月々の仕送りはもちろん、なにやら訳がわからぬ小豆相場をも片をつけたという。茂作がよく口にする、三国一の花婿だと、小夜子には思えるのだ。
「よくやった」。そんな返事を期待していた。しかし意に反して、茂作からは、烈火のごとくに怒る返事がかえってきた。「結婚ともなれば、一生のことだ。そんなふしだらな女に育てた覚えはないぞ!」と、ある。「すぐにも戻れ!」と、きつく書いてある。小夜子の対応いかんでは、すぐにも迎えに来る勢いだった。「正三と添うつもりじゃなかったのか!」。それを言われると辛い。捨てられたとは、断じて認められない小夜子だ。有り得べからざることだ。おのれが男に捨てられることなど、太陽が西からあがりはしても、有り得ないのだ。しかし正三からはあれ以来なんの音信もない。加藤宅には、くれぐれも頼んである。盆暮れの届け物は、決して欠かしていない。
 もっとも、そんなこととはつゆ知らぬ武蔵こそ、いい面の皮である。せっせせっせと、感謝の意味をこめて贈りつづけている。商売に関しては生き馬の目を抜く武蔵も、小夜子に対してはまるでだった。小夜子にしてからが、正三に未練があるわけではない。しかし、訳の分からままの宙ぶらりんが納得できない。そしてなにより、小夜子の意思で、ことばで終わりにしたいのだ。でなければ、小夜子のプライドが許さない。

(百七十一

「明日、昼前に迎えをよこすから」
「ええ! 来てくれないの? 」
 拗ねた表情を見せる小夜子が、恨めしげに武蔵をにらみつけた。
「分かった、分かった。俺が来る、多分大丈夫だろ」
「だめ! 多分なんて。絶対来て! じゃなきゃ、行かない!」
 頬をぷーっと膨らませて、迫る。
「分かった、分かった。だったら、振り袖着てろ。お互いの、約束だ」
「うーん、分かった」と、渋々といった表情を見せる小夜子だが、内心では、それも悪くないかと、思えてきていた。

 一日降りつづいた雨だったが、朝にはすっかり上がっていた。
「プップー!」。閑静な住宅街に、車のクラクションが鳴りひびく。閑静な住宅街の一角に、武蔵の住む二階建てがある。
「もう建てたらどうです。いつまでも借家住まいでは、格好がつかんでしょう。銀行からも勧められているでしょうが」。いくどとなく五平が進言するが「独り者は借家で十分だ」と相手にしなかった。しかしいま、小夜子とひとつ屋根の下にいるいまは「不動産屋に探させているから、もう少し待ってくれ」と、小夜子を喜ばせている。

「はあい! 」。バタバタと、小夜子が玄関に走ってきた。
「待ってろ、小夜子」。玄関の引き戸が引かれ、「おう。道がぬかるんでるからな、この板の上を歩けよ」と、靴を汚している武蔵だ。靴はな、男の顔だ。汚している奴は信用できん≠ニ、汚れを極端に嫌がる武蔵だ。その武蔵が、泥だらけにしている。飛びつきたい衝動に駆られる小夜子だった。
 会社から三十分ほどの位置でと探し、文京区の本駒込に居をかまえた。本通りから二本なかに入り、角から三軒目になる場所にある。生け垣で囲われていて、通りよりもすこし盛り土をされている。生け垣の胴縁が平均的な大人の背よりも高い位置になっていて、外から中をのぞき込むことはできなくなっている。
「どうだ。これなら、夏にこの庭で行水もできるぞ」と、武蔵が小夜子をからかったことがある。からかいのつもりが、小夜子がその庭先に大きめの木製たらいを持ちだした。焦る武蔵をしり目に、水着すがたで浸かった。覚悟が半ばできたころの小夜子だった。

 偶然なことに、佐伯源之助の自宅が近くにあった。通りがちがうだけのことであり、小夜子と正三が出会うこともあり得た。案外のことに、行水をしている小夜子のそばを正三が通りかかったかもしれないのだ。そうなのだ。正三がその気になっていれば、茂作を説き伏せていれば、武蔵の自宅を知り得たかもしれないのだ。そして武蔵が留守時に訪れていれば、小夜子との再会があったかもしれない。
 いや、源之助に引導を渡されたあの日に、源之助宅に向かうときにこの通りに足を入れていれば、千勢とともに帰宅した小夜子の姿を見つけたかもしれない。運命のいたずらと言ってしまえばそれまでだが、どれほどに思いが強いか、どれほどの行動を起こしたか、それらもあったかもしれない。親が敷いたレールの上を歩くことの多かった、いやそれしかしてこなかった、できなかった正三には、到底かなえられぬことではあった。

 自宅前から白山通りに出て、小石川植物園を右手にして車がはしる。
「ねえねえ、タケゾー。こんどの休みに、あの植物園に行ってみたい。お花がいっぱいなんですって。知ってる? あそこって、江戸時代には小石川養生所といって、町民たちを無料で診療してたんですって。知ってた? でもいまは、お花畑なんですって。百貨店とレストランめぐりもいいけど、たまにはお外でゆっくりタケゾーと歩きたい」
 無理だとはわかっていた。人いきれを嫌う武蔵に、それこそごった返しているであろう施設に連れ出すことは。しかしそれでも、口にしてみたかったのだ。いまさら武蔵の愛情を確認するつもりはない。もう十分に感じている小夜子だった。

 特別に花が観たいわけではない。近所の親子が話していたことを小耳に挟んだだけのことだった。どうやら今日の授業ではなしがでたらしく、自慢げに子どもが母親に話しているのが、生け垣越しに聞こえてきたのだ。
「徳川吉宗という将軍がね、えっとなんて言ったっけ、漢方医がね、上奏したんだって。でね、下層民って分かる? まあ貧乏人ってことね。その病人たちを診療したんですって、無料で。それでね……」。しだいに声が小さくなり、聞こえなくなった。
無料って、江戸時代に? それじゃ、なんでおかあさんは……=B憤怒の思いがわいてきた。そしてその場所が、いまでは植物園になっていると知り、どうしてもその場所に行ってみたくなった。そしてできることならば、母を連れて江戸時代にもどってみたいと考えた。

(百七十二)
 
 湯島天満宮と神田明神を左手にして、まっすぐに走って行く。
「知ってるか。この湯島天満宮はな、学問の神さまの菅原道真公がまつられているんだぞ。小夜子も英語学校なんだから、ここは大事にしなくちゃな」
 話を切り替える武蔵だった。ここならば、受験シーズンならばいざしらず、普段ならばそれほどの人もいないだろうと考える武蔵だった。
「ああ、待てまて。だめだ、だめだ。婦系図という映画では、好き合っているふたりが別れさせられた場所だったんだ」と、あわてて否定する武蔵だった。
「そうだ! 神田明神はどうだ? あそこは縁結びの神さまと、商売繁盛のかみさまと、それに厄除けの神さまがいらっしゃる。三人もおいでになる贅沢な神社だぞ
 。なんとか植物園から興味をはずそうとする武蔵だった。
「いいわよ、そんなに無理しなくて。どうしても行きたくなったら、千勢とでも行くから」。くすくすと笑いながら、小夜子がこたえる。「そうか? 神田明神なら連れていってやるから、そう言え」。安堵の色を隠しもせずに、いい加減に人いきれになれなくちゃな、と考える武蔵だった。

「さあ、着いたぞ。ちょっと待て。ここもぬかるんでるな。小夜子、おんぶしてやる」
「ええ! やめてよ。こんなことなら、振り袖なんか着るんじゃなかった」
「なに言ってる。可愛いぞ。ほら、来い」
 嬉し恥ずかし、の小夜子だった。中腰でお尻をつきだす武蔵。なんとも微笑ましい光景が見られた。
「いいですか、社長。これは重大なことですからね。奥さまとして、みなに認めさせる儀式みたいなもねですから」。五平が神妙な顔つきでいう。
「分かった、分かった。で、どうすればいい? 」。前置きはいいから早く言え、と武蔵がせかす。
「なに、簡単なことです。小夜子奥さまのとびっきりの笑顔を見せればいいんです。あと、社長のベタ惚れぶりも。それと、振り袖姿を見せてやって下さい。それで、完璧です」
「それでって、五平。振り袖だって? 今さらそりゃないぞ」
 生娘じゃねえんだ。そのことばは飲みこんだものの、それもありか、と思ってしまう。
「いいんですよ。可愛いけりゃ、なんでもいいんです。小夜子奥さまの振り袖すがたは、絶品です。だれが見ても可愛いんですから。とにかくかわいく見せるのが、ミソなんです。あの旅館の女将のように使用人を押さえつけるか、使用人に盛りたてねばと思わせるか、どちらかなんです。小夜子さんは家の中でじっとしてる人じゃない。もっとも、英会話の特技を生かせてもらわなくちゃいけませんが」
 そして今朝になって五平から電話がはいった。
「社長、絶好ですよ。きのうの雨で道がぬかるんでます、靴を思いっきり汚してください。それで、会社の前で小夜子奥さまを抱っこしてください。車から降りるとき、ぬかるみですから不自然なことはありません。照れることないでしょうが。そいつが、ベタ惚れの証左になるんですから。大丈夫ですって」
 声を枯らして、武蔵に講釈する。有無をいわせぬ力がこもっている。
「だけどなあ。小夜子の奴、嫌がらねえか? 」。「大丈夫! 」
「はしたない! って、ならねえか? 」。「大丈夫! 小夜子さんだから、大丈夫ですって。正直、奥さまじゃありません。どうひいき目に見ても、奥さまじゃない。娘っこだ。どこから見ても、まだねんねに見えます。だからいいんです。きっとみんな、お姫さまだとあがめますから」

(百七十三)

 小夜子の初お目見えに、社内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。ある者は絶叫し、ある者は万歳をし、また中には泣きだす者もいた。
「見えたぞー! 奥さまが見えたぞー!」
「ばんざーい! 社長ー、ばんざーい!」
「あああ、シャチョー! いや、もう!」
 事務室から、どっと出てくる。そして、みな口々にはやす。
「かわいいぃ! お人形さんみたいいぃ!」
「素敵いい! やっぱり、お姫さまだわ!」。
「そうよ、そうよ。富士商会のおひめさまよ!」
 顔を真っ赤にして、武蔵の背に顔をかくす。まさかこれほどに歓待されるとは、思いもよらぬことだ。武蔵の妻としての小夜子だ、拍手ぐらいはあるだろうと思ってはいた。しかし、この歓声。武蔵の背からおりた小夜子。ぴったりと背に張りついて、かくれている。
「ほら、みんなに挨拶しろ。みんな、待ってるぞ」。武蔵に急かされて、おずおずと背から顔を出した。
「奥さま、お待ちしていました」と、花束が贈られる。顔を真っ赤にしながら、それを受け取った。かつての小夜子なら、至極当然のことと傲慢にうけとった。いやそのように振まった。弱みを見せたらだめ! その思いが、小夜子をしてごうまんな態度をとらせていた。しかしいま、小夜子を敵視する者はいない。小夜子を見くだす者も、もちろんいない。どころか、心底から小夜子を歓迎している。
「うっ、うっ、ううぅ」。思わずむせび泣く小夜子に、「どうした、小夜子。見ろ、みんながお前を待ってたんだ」と、声をかける武蔵。
「がんばってください、奥さま」。最古参事務員の徳子が声をかけた。徳子からの意外なことばに、武蔵がおどろいた。嫌みをいわれることを覚悟していたのだ。聡子が去ってすぐに、徳子との関係ができた。五年、いや六年か。すこし前から、なんとなくギクシャクした空気が流れていただけに、だ。
 
 五平は、ニヤニヤと笑っている。昨夜、五平と徳子のあいだで交わされたやりとり。武蔵は知るよしもない。
「いいか。社長の愛人でいたかったら、よく考えることだ」
「どうしてあたしじゃ、ダメなの? いつかは奥さんにしてもらえるって、そう信じてきたのに」
「ふん。社長にそう言ってもらえたのか? 」
「いえ、それは。でも、それを信じて縁談話もことわってきたし」。口をとがらせ小声で、口にした。
「おいおい。それを俺に言うのか? 俺が知らないとでも、思っているのか!」。ギロリと睨みつけられて、思わず目を伏せた。
「春だったなあ、あれは。お花見がてらのあれは、一体なんでしょうかね。ええ、徳子さんよ。まあ、いい。どうせ、小夜子さんを見たら、お前さんも納得するさ」
 奥の部屋から、隠れるように見ていた徳子。アハハハ、話になんないわ=Bメラメラと燃えていた嫉妬の炎も、一気に消えた。ほんと、専務の言う通りだわ。まだ、ねんねじゃないの

 敵がい心をだいていた自分が、馬鹿らしくなった。社長は、お人形さまが欲しいんだ=B一気に全身の力がぬけていくように感じる。未来の社長夫人なんだから、と肩ひじを張っていたおのれが哀れに思えた。決してミスを犯すまい、といつもピリピリと神経をとがらせていたこれまでの自分が哀れな女に思えた。もういい、どうでもいいわ!=B険のある表情が見るみる和らいでいくのが、徳子自身に感じられた。
「みなさん。お花、ありがとうございます。小夜子です。よろしくお願いします」
 深々と頭をさげる小夜子に、一斉に大きな拍手がわいた。「みんな、よろしく頼むぞ」。武蔵のことばで終わった。

(百七十四) 

 階段を上がるとき、ふわふわとした感覚に襲われる小夜子。ともすれば階段を踏み外しそうになる。地についていない自分に気づき、武蔵にしがみついて上がった。高揚した己を、叱咤する小夜子。あたしらしくもない、しっかりしなさい小夜子!=Bしかしゆるんだ頬は、小夜子の意思を無視している。
 武蔵と小夜子が二階の社長室に消えた後、そこかしこで小夜子談義がはじまった。
「あたし、安心した。なんかこう、姉さんねえさんした女性を奥さまにされて、威張り散らされるって思ってたけど」
「そうそう。あの、熱海の旅館の女将みたいな女性をね」
「小夜子さんでよかったわ」
 不安な気持ちをいだいていたことが、スーッと雲散霧消していく。
「そうよ! 断然、小夜子さんよ」
「でもさ。奥さまって言うより、わたしたちの妹って感じよね」
 そこかしこで、キャッキャッと感想を言い合っている。
「たしかあのキャバレーで、煙草売ってたんじゃないか?」
「そう! 加藤専務の見立てらしいぞ。一目で、社長の奥さんにって思ったらしい」
「なんでも、英会話を勉強中だってさ。ということは、会社にも顔を出してもらえるんだ」
 男どものにやつく顔が消えない。
 そこかしこでの小夜子談義をだまって聞いていた五平の「みんな、もういいだろ。仕事だ、しごとだ!」で、やっと収まった。

なに、この部屋は。なんだか殺風景ねえ。タケゾーらしいわ。でももう少しあっても……。そうねえ、観葉植物がほしいわね。それに、なにこのソファは。見すぼらしすぎるわよ、肘かけのところがすこし破れてるし。階段をあがってすぐじゃないの。そうか、秘書室よ。秘書がいないじゃないの
 そんな不平不満を感じつつも、女っ気がないことに安堵もする小夜子だった。社員から社長々々と声をかけられて、当たり前のように応ずる武蔵だった。至極当然のことなのだが、小夜子にはまぶしく感じられていた。
「タケゾー、殺風景過ぎるよ。観葉植物を置いたら? それにこのソファよ。もっと良いのにして」
「そうか、やっぱりな。よし、早めに切り上げて、百貨店に見に行くか」
 黙りこくっていた小夜子が口を開いてくれたことに、やっと武蔵も安心した。

「社長!」。息せき切って、竹田が入ってきた。
「どうした? そうだ、小夜子。偶然なんだが、この男の苗字も竹田と言うんだ」
 ぺこりと頭を下げる竹田。「ふうん」と、値踏みをするがごとくに一瞥する小夜子。なんだか頼りなさそうね=Bこれが第一印象だった。
「申し訳ありませんが早退させて下さい」
 力ない声で武蔵に告げた。一日たりとて休みをとらない竹田が、切羽詰った声で言う。
「なんだ、何かあったか?」
「はい、姉が……。いま連絡が入りまして……」
 途中でことばを詰まらせる竹田に「姉さんがどうした? 悪化したのか? 大学病院にうつったんだ、悪くなるわけはないだろうに」。叱りつけるように吐いた。
「いえ、それが……」
「歯切れが悪いな。結核なんて、きちんとした薬を飲んで栄養をしっかりとれば大丈夫さ」。「それが……」。なんとも端切れが悪い。

「おい、専務! ちょっと来い!」
 となりに部屋をかまえる五平を、大声で呼びつけた。会社内では加藤専務と呼んでいるのだが、それでは小夜子の反応が気になる。
「どうしました。なんだ、竹田。どうしたんだ?」
 押っ取り刀で五平がはいってきた。
「お前、なにをやってる! 竹田の姉さんの容態が悪くなったらしいぞ。医者に鼻薬はきかせたんだろうな」
「もちろんですよ、社長。たんまりと弾んでありますって」
 武蔵の剣幕に、おどろく五平だ。ことの次第がまるで見えず、困惑してしまった。
「じつは、退院してしまいまして……。いま、自宅療養しているんです」

(百七十五) 

「なんだと!」。ふたりが同時に怒鳴った。
「申し訳ありません、母が猛反対しまして」
「五平! 説得できたんじゃなかったのか!」
 睨み付ける武蔵に、五平はうまく声が出ない。怒り心頭に発したときの武蔵は手が付けられない。そこらにあるものを手当たりに投げ散らかす。

 昨年の夏に仕入れ先からの接待で出かけた折に、武蔵の女遊びを聞きつけた担当者が、気を利かせたつもりで店一番の女給をあてがった。スレンダーな体つきながら、胸の膨らみを強調したドレス姿で「あやこです、よろしく」と武蔵の前に立った。
「こいつは驚いた。こんな場末のキャバレーに、掃き溜めに鶴だな、まったく」
 目尻を下げている武蔵の表情に満足げに頷く担当者が「社長の好みに合えばよろしいんですが」と、もみ手をせんばかりに武蔵の隣に座らせた。
「スタイルは100点満点ですが、ちょっと顔の色が……。この娘、混血でして。一流キャバレーでは雇われないものですから。社長に仕込んでもらえれば、」 
 言い終わらぬうちに、武蔵の怒声が飛んだ。
「お前、どういうつもりだ! 女を商品あつかいする奴なんか信用できるか。加藤、こんな奴とは取引するな!」
 思いがけない武蔵の怒りように、どんな失態をしたのかと慌てふためく担当者に対して、並々と注がれたビールをコップごと投げつけた。たかが女給だとばかりに差し出す姿勢を見せた担当者が、武蔵には許せない。武蔵自身が口説き落としてのことと、相手に言い含められている女給とでは、その質が違う。すべてにおいて、他人にあてがわれることを良しとしない武蔵であり、物乞い扱いをされることに我慢ならない武蔵なのだ。逆上した武蔵には前後の見境が付かなくなる。罵詈雑言を浴びせたり物を投げつける癖がある。ただ五平には、それが武蔵の計算からのことのように感じられることもありはするのだが。しかも今は小夜子がいる。己を失う様は見せないはずだと、五平は確信していた。

「いや、それは。たしかに納得してくれたはずですが」
 首を傾げつつ、竹田に目を向ける。
「社長。それは、専務が悪いんじゃないです。一度は母も納得したんです。ところが入院翌日に霊能師がやってきまして、また説得されたみたいなんです。昼間のことで、母一人だったものですから」
「よし、こうなったら実力行使だ。五平! いまから行って、もう一度入院させろ。誰がなんと言おうと、入院だ。救急車だぞ、いいな! 母親が反対しても、強行だぞ。竹田、いいな。お前が引っ張るんだぞ、これからは」
「うっうっうぅぅ」。突然、小夜子の泣き声が、武蔵の耳に入った。
「な、なんだ? 小夜子を叱ったわけじゃないぞ。泣くな、小夜子。俺が悪かった。な、な、泣くな」
 オロオロとする武蔵を見た竹田、信じられぬ思いだ。五平の渋い顔が、凝視していた竹田の視線を外させた。
「ちがうの、お姉さんがお可哀相で。タケゾー、きっとね。キチンと面倒を見てあげてね。そうだわ。病院では、あたしがお世話するわ。あたしの母が労咳を患ったの。だから多少の心得はあるのよ」
 母に抱かれた記憶がない小夜子。近づくことさえ許されなかった小夜子。労咳と言う病が憎くてたまらない。
「そうだったな、小夜子のお母さんもだったな。しかしいまは、特効薬も手に入る。しっかり養生すれば大丈夫だ」

(百七十六)

「おう、昨日はご苦労だったな。それでどうだった?」
「安心してください。ぶじに入院ですわ。おふくろさんも、今回ばかりは観念したようですわ」と、合掌の真似をする五平だ。
「うん、そうか」。満足げに頷く武蔵に「なにせ、本性を現しましたから」と意味ありげに薄笑いを浮かべた。
「どういうことだ?」
「見張りがいたんでしょう。三人連れの恐いお兄さんを引き連れての、ご登場でした。さすがにおふくろさんも、ビックリですわ」
 平身低頭する竹田の母親のすがたが、武蔵の目にうかぶ。まだ会いはしていないが、子ども思いだと竹田の口から聞いている。ただ、度を超すところがあるので困りますとこぼしもした。それが母親というもんだろうさ、ということばに竹田もはいと素直にうなずいた。

「ほう、やっぱりだったか。でっ?」
「でって、そんなもの。なんという事はないです。ギャーギャー騒いでましたが、一喝して終りですわ。あの親分さんの名前を出す必要もなかったです」
「なんだ、そりゃ。素人さんか?」
「そこらの食いっぱぐれですわ。二、三日前に雇われたようです。祈祷師やら占い師やらに、けっこう有名になっていましてね」と、あきれ顔を五平がみせた。普通は独り占めしたがるものなんですが、竹田の稼ぎがいいもんで、とも付け加えた。
「どういうことだ、それは」
「入れ替わり立ち代りの状態になっていました。一つ二つどころか、二桁にせまる状態です。驚きましたよ、まったく」
「そんなにか! 食い物にされていたんだな。もっと早くに相談すればいいものを、竹田の奴」。眉間にしわを寄せて歯がゆがる武蔵に、五平も相槌を打つ。
「まったくです、残念です。あたしもうかつでした。机の前でぼんやりとしている竹田を見はしたのですが、まさかこんなこととは。思いも寄りませんでした」

「それにしても竹田の奴、大はしゃぎでした。帰りの車の中で、喋ることしゃべること。はじめてですよ、あんな竹田を見るのは」
「そうか、そんなに喜んだか」
「いや、違いますぜ。勘ちがいなすってる」
「勘違いって、お前。どういう意味だ」
「小夜子奥さんですよ、おくさん」。ニタニタとする五平に、「小夜子がなんだ! 惚れたっていうのか、竹田が」と、とたんに不機嫌になった。
「へへへ。ちょっと意味が違いますが、ぞっこんですわ」
「許さんぞ、そんなこと。竹田を呼べ、怒鳴りつけてやる」。 気色ばんだ武蔵を、まだニタニタと五平が笑っている。
「看病するって、言われたでしょう? 小夜子奥さん」
「ああ、そんなことも言っていたな」
「それですよ。それに感動してるんですよ」
 それがどうした、と言わんばかりに、眉間にしわを寄せたままの武蔵にたいし、五平は相変わらずニタニタとしている。
「五平! いい加減にそのにやけ顔をやめろ! イライラするぞ」
「これは、申し訳ありません。社長のヤキモチなんて、ついぞありませんからな。いや、失言でした。竹田の横恋慕とか言うのじゃなくて、純粋な気持ちですから」
「なんだ、その純粋ってのは。少年みたいな、とでも言うのか!」
 椅子に座ったり立ったり、机の周りを歩いたりと、まるで落ち着かない武蔵だった。

 小夜子が社員から慕われるのは良しとしても、恋心を抱かれてはこまるのだ。もちろん、小夜子がそれによって動揺などするわけはない。しかし、恋愛の対象として見られるのは我慢できない。あくまでも、小夜子奥さまとして奉られなければならないのだ。いみじくも事務員たちからこぼれた、お姫さまでなければならない。
「とに角、許さんぞ。小夜子にみだらな思いをだく奴は、だれだろうと許さん。いいか、たとえそれが、五平お前でもだ!」
「大丈夫です、心配いりません。みんな、富士商会のお姫さまと思っていますから。竹田にしても、感激しているんです。あれほどに心配された小夜子奥さんに、です」
「そうか。なら、いいんだ。うんうん。お姫さまと言ってくれてるのか、みんなが。そうか、そりゃいい」
 してやったり、の思いだった。一気に武蔵の相好がくずれた。どっかりと椅子にすわると、恵比寿顔だ。小夜子のお披露目は、社員たちに衝撃をあたえた。「お人形さん」、「お姫さま」と聞かされてはいたが、半信半疑だった。「おべっかよ」。それが大勢ををしめた。

 いまの富士商会は独裁国家のようなものと感じていた。御手洗武蔵という絶対君主の下、一糸みだれぬ兵士だった。創業時はそれでいい。いや、そうでなければ困る。右を向けと指示したときに、一人でも左を向く者が出たら混乱をきたすことになる。ひとりでも不平を言うものがでれば、小さなことだとしても不満をいだく者が出れば、崩壊してしまうことになる。
 しかし現在の富士商会は、この界隈で名の通った会社となっている。この雑貨品を扱う業界でも名の通った会社として存在感を放っている。社員にしても、三桁の数字をうかがうところまで増えている。ここまで所帯が大きくなると、どうしても目のとどかぬ所がでてくる。五平にも目を光らさせているが、小さなミスが発生している。在庫数の違いから得意先に迷惑をかけたことが、この半年で7、8回起きた。発注ミスによる在庫切れやら、逆の在庫増が起きた。口を酸っぱくして「小さなミスの積み重ねが大きなミスを呼ぶ。小さな金額だからと甘く考えていると、ドカンと大きな損失につながるんだ」と訓示しても、どうしても他人事と考えやすい。

 役職を作りそれなりの権限を与えても、小さなミスだと安心してしまいやすい。「社長に任せていれば大丈夫さ」。そんな緩みが蔓延しはじめている。武蔵のご機嫌取りがはびこり、危うい情報がすぐには上がってこない。みなが武蔵を怖がり、畏怖の念を抱きすぎている。といって緩めるわけにもいかない。「俺が王なら、王妃をつくればいい。王妃をあがめさせれば、変わる」。五平に告げた。「毎月の表彰は、小夜子にさせるぞ」
 そして小夜子のお披露目となり、その狙いがぴたりとはまった。
「姫のために」。「笑顔が見たい」。「表彰してもらう」。
 それまでのピリピリとした空気が一気に華やぎ、活気溢れる富士商会に戻ることが出来た。

(百七十七)

「ところで、五平。お前、田舎に行ってくれ」
 照れ隠しの為か口を真一文字に閉じていた武蔵が、慇懃に口を開いた。
「田舎と言うと、いよいよですか?」
「ああ、そんなところだ」
「分かりました。で、いつにされますか? ええっと、こりゃいい! 明日が大安ですよ。それじゃ、あしたにでも出かけますわ」
「いや、お前。それはちょっと急過ぎないか?」
「なにを言ってるんです。こういうことは早いほうが良いんです。小夜子奥さんも了解済みなんでしょう?」
「いや、それはまだ……」
「事後報告でも良いじゃないですか。いや、そのほうが良いかもしれません。あのご気性だ、前もってだと何かと……」
 口をにごす五平だが、その言わんとすることは武蔵も分かっている。天邪鬼的な性格を持つ小夜子のことだ、反発しかねない。さらには、失意から立ち直りかけの小夜子でもある。付けこむようなことになりそうで、ためらいの気持ちが出た。こと商売となると、相手の弱点をギリギリと攻め立てることも厭わぬ武蔵であり、外堀を埋めて追い込みをかけたりもする武蔵でもある。あるいは相手の虚をつき一気に落とす武蔵なのだが、小夜子に対してはそれができない。
「まあとに角、任せてください。うまく話しを付けてきますよ」
 五平が得意げに言う。そして普段ならば五平には指示を与えることもなく任せてしまう武蔵だが、今回はちがった。
「いや、俺の言う通りにしてくれ。仮にも、義父になる方だ。それなりの礼を持って接したい。使者としての五平だからな。本人には、俺がキチンと話す。五平には、他のことを頼む」

「社長、社長!」
 興奮する事務員が飛び込んできた。
「なんだ、どうした。落ち着け、少しは」
「はい、すみません。でも、でも、、、」
「タケゾー、居る?」。思いもかけず、小夜子が現れた。
「奥さん」。「小夜子、お前。どうしたんだ、いまごろ……」
 大の男二人が大きく口を開けて、小夜子を出迎えた。
「いやあね、もう。はとが豆鉄砲、みたいに」
 ニコニコと、部屋に入った小夜子。武蔵の傍に近づき
「竹田のお姉さん、入院されたの? もう落ち着かれた? で、どこの病院なの?」と、矢継ぎ早に問い質した。
「あ、ああ。大丈夫だ、大学病院に入院させた。教授直々に担当医になってもらってるから」
「そうなの、じゃ安心ね。あたしね、行ってくるから」
「えっ? 行ってくるって、小夜子」
「きのう、言ったじゃないの! あたしが看病するって。ねえ、加藤さんも聞いていたわよね」

「は、はい。確かに聞きはしましたが、しかし」。とつぜんに話をふられ、武蔵の顔色を見つつ答える五平だ。
「なあ、小夜子。気持ちは分かるが、しかしなあ。看護婦が付いてるんだぞ、わざわざ小夜子が。それにうつりでもしたら」
「社員は家族だって、いっつも言ってるじゃない! あれはうわべだけのことなの!」
 容赦ないことばが飛んできた。嘘ではない、心底そう思っている。思ってはいるが、あくまで家庭外のことだ。会社という組織でのことであり、武蔵だけの家族なのだ。武蔵と小夜子の家族ではない。しかしそれを言っても小夜子を得心させることはできない。

(百七十八)

 懇願するような武蔵に、小夜子はピシャリと言った。
「何言ってるの! 二十四時間付きっきりじゃないでしょ!」
「だから、うつることも……」
「大丈夫! お医者さまにキチンとお聞きするから。母の看病ができなかったことが、すっごく悔やまれるの。おなじ病気なのよ。神さまが、看病してやりなさい”って、おっしゃってるのよ」
 あきらめた、小夜子を信じるしかない。こうなっては、小夜子を翻意させることなどできない。一度言い出したら聞かない小夜子だ。なんどかの押し問答のすえに、武蔵が折れた。
「仕方がない。医者の言うことをキチンと守ること。十分に休息を取ること。いいな、絶対だぞ!」
 一階の事務室にもどった事務員が「ねえねえ、重大ニュースよ」と皆を集めた。外で荷解きをしていた男たちも呼ばれて、大騒ぎとなった。
「お姫さまがね、竹田さんのお姉さんの看病をされるんだって。社長は渋ってらしたけど、根負けされたわよ。すごいわねえ、社長をやりこめるなんて」
「ええー、ほんとなの? いち社員の家族のために、そこまでしてくださるなんて。信じられないわ、あたし」
「うわあ。あたしん家も、だれか大病しないかしら?」
「痛てて、腹が痛い! これ、きっと盲腸だぜ」。腹を押さえるひょうきん者に対して、となりの若者が「バカったれ! バレバレだぞ、そんなの」と、笑い飛ばした。
「それ、ほんとか? 困るぞ、そんなの。母が付き添ってるんだ、それを奥さまにまでになんて」
 遠くから聞いていた竹田が、あわてて二階へ駆けあがった。
 たしかに小夜子の口からは「看病したい」とは出た。竹田も感激した。そしてそれを受け入れた。しかしそのことを、今朝に病院の母親に告げたとき、「おことわりしな!」と怒鳴りつけられた。「お為ごかしの親切なぞ、こっちにはめいわくだよ!」

「おう、竹田。丁度良いところに来た。小夜子を病院に送りとどけてくれ」
「社長、そんなあ。ぼく、困ります。小夜子奥さま、おやめください。万が一のことがあったら、ぼく死んでもお詫びできません」
 土下座をせんばかりに懇願する竹田に「だめ! 看病するの。あなたの為じゃないの、お姉さんのためでもないの。あたしのためなの、これはあたしの勤めなの」と、強く言い放った。
“ひょっとして、小夜子の奴。お母さんが、と言いはしたが。ほんとのところは、あのロシア娘か? あのロシア娘に対する罪滅ぼしじゃないのか。なにもできなかった自分を責めているのか。そうか、自分を納得させるためでもあるのか”
 涙目になりながらも毅然とした口調で言いはなつ小夜子の心情が、武蔵にグサリと突き刺さった。小夜子の強情さには閉口する武蔵だが、それがまた可愛くてたまらないということになる。「小夜子は猫だな」。酒で口が滑らかになったときに、口をすべらせた。「どういう意味?」と、別段とがめる風もなく聞きかえした。
「気まぐれだし、移り気だし、わがままだしな」
 武蔵にしてみれば、可愛くじゃれる子猫が頭にあった。ところが小夜子には、近所を我が物顔で歩く野良のトラ猫がうかんだ。うす汚れた体からは鼻につく匂いがするし、気にいらないものやら障害となるものに対してはすぐに威嚇する野良のトラ猫が、頭の中で小夜子の顔を持つ猫に変わっていた。
 そしてそれが自分でも思い当たる節がうかび、ますますフーフーと唸り声を上げる猫に変わってしまった。「武蔵のバカ!」。ひと言を残して二階の寝室にこもってしまった。あわてる武蔵だったが、小夜子の機嫌が直るまでに、しばらくの時間と毎日の花束やら好物の品を買いつづけることになってしまった。