(百七十二) 「小夜子。どうだ、俺の嫁にならんか。こんなときに、と思いもしたがいつまでもだらだらしても仕方がない。小夜子の爺さんも大事にする。小夜子には内緒だったけれども、月々仕送りをしてた。心配するな、小夜子の名で送ってるから。それと、相場の方も片はつけてある。だからなんの心配もいらん。そうだ、ここで一緒に暮らすか?」 「タケゾーはどうしてそんなに優しいの?」 「なんでかな、俺にも分からん。あんがい惚れるというのは、こういうことなのかもな」 武蔵からの真摯なことばに、思わず涙してしまう小夜子だ。そして情の薄さをおぼえる正三にたいする思いが、薄れていく小夜子だ。一通の手紙、一葉の葉書さえくれない――情の薄さを感じさせる正三が憎くさえ思えてしまう。 そうよ、あたしにはお爺さんがいるんだわ。これから恩返しをしなくちゃいけないのよ。正三さんにそれができて? 跡取りなのよね、正三さんは。でもきっとおっしゃるわ。『大丈夫です、お世話させていただきます』って。でもそんなこと、ご実家がお許しになるはずがない。あたしを嫁としてお認めになるなんて有り得ないことだわ。そうよ、正三さんを苦しめることにもなるわ。今も、苦しんでらっしゃるのよ。だからお手紙の一通も届かないのよ。あたしって、ほんとに罪な女だわ 日に日に、アナスターシアへの思いが薄れていく。とともに正三への思いもまた消えていく。 違うの、ちがうのよ。忘れているわけじゃないわ、アーシア。あなたが言ったのよ、『いまをしっかり生きなさい』って 「きょうは、満足したか?」 「うん、おいしかった! ねえ、タケゾー。アメリカ人って、いつもあんな食事なの?」 あれ以来、小夜子の呼び方が変わった。武蔵のたっての願いに、小夜子が折れた。小夜子にしても、お父さんと呼ぶことに違和感をおぼえていた。渡りに船の観はあった。 「あんなとは、肉料理かってことか?」 「うん」 「そんなこともないだろう。じゃが芋をすりつぶしたサラダやら、大豆なんかも食べてるらしいぞ」 今夜もまたランプ亭での夕食をおわっての、自宅だ。武蔵お気に入りのソファに深々と武蔵がすわり、その膝のあいだに小夜子がいる。黒々とした髪を、武蔵が指で梳かしている。そして小夜子は、いつものようにデザートのアイスクリームを食している。 「ふうん、そうなんだ。他には、野菜なんかは?」 「食べてるぞ。ホウレン草が、有名だ。ポパイって奴なんかは、普段は弱いくせに、ホウレン草を食べたとたんにバカ強くなるぞ」 「ホウレン草って、そんなに凄いの?」 「ハハハ、漫画だ、まんが。アメリカで大人気の、な」 「なーんだ、嘘なの? 信じかけちゃった。タケゾーが言うと、本当のことに聞こえるから」 小夜子のやつ、ほんとに変わったな。あのロシア娘の死を知ってからだ。俺に頼りきっている。決めどきだということか (百七十三) けさの小夜子は、いつもの小夜子とはすこし違っていた。いつものように朝食を獲り、いつものように玄関口で、武蔵とたわむれた。武蔵のほっぺに、アメリカ式の朝のあいさつをした。そのときに、「うん」と武蔵が答える。その声色が、いつものように柔らかく聞こえた。しかしなにか、烈しさを感じた。ひょっとして今夜……=Bそんな予感がおきた。もしも迫ってきたら、どうしょう=B武蔵に言われているわけではないし、そんな素振りを見せているわけでもない。ただなんとなく、感じるのだ。そしてそれが、ちっともいやではないのだ。むしろ当たり前のごとくに思える。 その夜、小夜子が泣いた。はげしく泣いた。その涙が、悔しなみだなのか嬉しなみだなのか、小夜子にも判然としない。だただ、武蔵の胸の中で、激しく泣いている。武蔵は、小夜子の濡れたように輝く黒髪を、ゆっくりと撫でている。赤児をあやす父親のように、ときおり慈しみをこめて唇を押しつける。 「いいか、娘々した服にしろよ。そうだ。いっそのこと、振り袖にするか? 二十歳の誕生祝いに誂えたろうが。可愛かったぞ、惚れ直した」 「いやあよ! 生娘じゃないのよ、もう 」 「構うもんか! 振り袖にしろ。みんなを、羨ましがらせてやる。そうだ、小夜子。結婚式にも、そいつを着てくれ。いやいや、文金高島田ももちろん誂えるさ。両方着ろ 」 「なに、バカ言ってるのよ。振り袖なんか、着られるわけないでしょうが。笑われちゃうわよ」 「構うもんか! いや、笑うやつがいたら、俺がぶん殴ってやるさ。そうだ! まだ小夜子の爺さんにも、見せてないぞ。いちど見せに帰るか?」 そうなのだ、茂作には見せていない。それどころか、結婚の許しすら得ていない。武蔵の言いつけにもかかわらず、手紙で報告をしてしまった。体を許してしまったいま、渋々ながらも許してくれるだろうと考えていた小夜子だった。しかし結婚ともなれば、一生のことだ。茂作からは、烈火のごとくに怒る返事がきた。 「そんなふしだらな女にそだてたおぼえはないぞ!」と、ある。「すぐにももどれ!」と、きつく書いてある。小夜子の対応いかんでは、すぐにも迎えにくる勢いだった。「正三と添うつもりじゃなかったのか!」。それを言われると辛い。捨てられたとは、断じて認められない小夜子だ。有り得べからざることだ。おのれが男に捨てられることなど、太陽が西から上りはしても、有り得ないのだ。しかし未だになんの音信もない。加藤宅には、くれぐれも頼んである。盆暮れの届け物は、決して欠かしていない。 もっとも、そんなこととは露知らぬ武蔵こそ、いい面の皮である。せっせせっせと、贈りつづけている。商売に関しては生き馬の目をぬく武蔵も、小夜子に対してはまるでだらしがない。小夜子にしてからが、正三に未練があるわけではない。しかし、訳が分からままの宙ぶらりんが納得できない。そしてなにより、小夜子の意思で、ことばで、終わりにしたいのだ。でなければ、小夜子のプライドが許さない。 (百七十四) 「あす、昼前に迎えをよこすから」 「ええ! 来てくれないの? 」。拗ねた表情を見せながら、恨めしげに武蔵を見る小夜子だった。 「分かった、わかった。俺がくる、たぶん大丈夫だろう」 「だめ! 多分なんて。絶対来て! じゃなきゃ、行かない!」。頬をぷーっと膨らませて、迫る。 「分かった、わかった。時間をつくる。だったら、振り袖着てろ。おたがいの、約束だ」 「うーん、分かった」と、渋々といった表情を見せる小夜子だが、内心ではそれも悪くないか≠ニ、思えてきていた。 夜半に降り出した雨だったが、朝にはすっかり上がっていた。 「プップー!」。閑静な住宅街に、車のクラクションが鳴りひびく。大通りから一本中に入った路地のなかほどに、武蔵の住む二階建てがある。「もう建てたらどうです。いつまでも借家住まいでは、格好がつかんでしょう。銀行からも勧められているでしょうが」。幾度となく五平が進言するが「独り者は借家で十分だ」と相手にしなかった。しかしいま、小夜子と居をいつにしているいまは「不動産屋に探させているから、もう少し待ってくれ」と、小夜子を喜ばせている。 「はあい! 」。バタバタと、小夜子が玄関に走ってきた。「待ってろ、小夜子」。玄関の引き戸がひかれ、「おう。道がぬかれんでるからな、この板の上を歩けよ」と、靴をよごしている武蔵だ。 靴はな、男の顔だ。汚しているやつは信用できん≠ニ、汚れを極端に嫌がる武蔵だ。その武蔵が、泥だらけにしている。飛びつきたい衝動に駆られる小夜子だった。 水たまりに気をつけながら、車がゆっくりと走る。大型のアメリカ車には、裏通りは狭すぎる。対向車が来もすれば、とうていすれ違うことはできない。大通りで待ちますか? とたずねる運転手にたいして、中まではいれと指示をした。ぬかるみのなかを、着物姿では歩けるはずもない。会社を出るとき、小型のタクシーがいいのでは、という声が聞こえた。しかし武蔵は、ふたりで乗るには小さすぎると相手にしなかった。 「さあ、着いたぞ。ちょっと待て。水たまりがある。小夜子、おんぶしてやる」 「ええ! やめてよ。こんなことなら、振り袖なんか着るんじゃなかった」 「なに言ってる。可愛いぞ。ほら、来い」 嬉し恥ずかし、の小夜子だった。武蔵が車外で待っている。武蔵の首に小夜子が両手をまわして、抱っこされた。なんともほほえましい光景が見られた。 「いいですか、社長。これは重大なことですからね。奥さまとして、みなに認めさせる儀式みたいなものですから」 「分かった、わかった。で、どうすればいい? 」 「なに、簡単なことです。小夜子奥さまの、とびっきりの笑顔を見せればいいんです。あと、社長のベタ惚れぶりも。それと、振り袖すがたを見せてやってください。それで、完璧です」 「それでって、五平。振り袖だって? いまさらそりゃないぞ」 「いいんですよ。可愛いけりゃ、なんでもいいんです。小夜子奥さまの振り袖すがたは、絶品です。だれが見ても可愛いですって。とにかく可愛いく見せるのが、ミソなんです。あの旅館の女将のように使用人を押さえつけるか、使用人に盛りたてていこうと思わせるか、どちらかなんです。小夜子さんは家のなかでじっとしてる人じゃない。もっとも、英会話の特技を生かせてもらわなくちゃいけませんが。 さいわい雨上がりです、靴を思いっきり汚してください。それと、会社の前で小夜子奥さまを抱っこして下さい。車から降りるとき、水たまりがあるとかなんとか、行ってください。なに、着物ですから不自然なことはありません。照れることないでしょうが。そいつが、ベタ惚れの証左になるんですから。大丈夫ですって」 膝をのりだして、五平が武蔵に講釈する。有無を言わせぬ力がこもっている。 「だけどなあ。小夜子のやつ、嫌がらねえか? 」 「大丈夫! 」 「はしたない! って、ならねえか? 」 「大丈夫! 小夜子さんだから、大丈夫ですって。正直、奥さまじゃありません。どうひいき目に見ても、奥さまじゃない。でも、いいんです。みんな、お姫さまだとあがめますから」 (百七十五) 小夜子の初お目見えに、店内は蜂の巣を突ついたような騒ぎとなった。ある者は絶叫し、ある者は万歳をし、またなかには泣きだす者もいた。 「見えたぞー! 奥さまが見えたぞー!」 「ばんざーい! 社長ー、ばんざーい!」 「ああぁ、シャチョー! いやあ、もう!」 奥の事務室から、どっと出てくる。そして、みな口々に囃す。 「かわいぃ! お人形さんみたいぃ!」 「ステキい! やっぱり、お姫さまだわ!」 「そうよ、そうよ。富士商会のおひめさまよ!」 顔を真っ赤にして、武蔵の胸に顔をかくした。「おろして、おろして。はやくおろして」。小夜子が懇願する。まさかこれほどに歓待されるとは、思いも寄らぬことだ。武蔵の妻としての小夜子だ、拍手ぐらいはあるだろうと思ってはいた。しかし、この歓声と拍手。小夜子が武蔵から降りた。そしてぴったりと背に張りついて、顔をかくしている。 「ほら、みんなに挨拶しろ。みんな、待ってるぞ」 武蔵に急かされて、おずおずと背から顔をだした。 「奥さま、お待ちしていました」と、代表して京子から花束が贈られた。顔を真っ赤にしながら、それを受けとった。かつての小夜子なら、至極当然のことと傲慢に受けとった。いやそのように振舞った。弱みを見せたらだめ!=Bその思いが、小夜子をして傲慢な態度をとらせていた。しかしいま、小夜子を敵視する者はいない。小夜子を見くだす者も、もちろんいない。どころか、心底から小夜子を歓迎している。 「うっ、うっ、ううぅ」。思わずむせび泣く小夜子に、「どうした、小夜子。見ろ、みんながお前を待ってたんだ」と、武蔵が声をかける。 「がんばってください、奥さま」 最古参事務員の徳子が声をかけた。意外なことばに、武蔵が驚いた。五平は、ニヤニヤと笑っている。昨夜、五平と徳子のあいだで交わされたやりとり。武蔵は知る由もない。 「いいか。社長の愛人でいたかったら、よく考えることだ」 「どうしてあたしじゃ、ダメなの? いつかは奥さんにしてもらえるって、そう信じてきたのに」 「ふん。社長にそう言ってもらえたのか? 」 「いえ、それは。でも、それを信じて縁談話もことわったし」 口を尖らせて、小声で口にした。 「おいおい。それを俺に言うのか? 俺が知らないとでも、思っているのか!」 ギロリと睨みつけられて、徳子が思わず目を伏せた。 「去年の春だ、お花見がてらのあれは、一体なんでしょうかね。ええ、徳子さんよ。まあ、いい。どうせ、小夜子さんを見たら、お前さんも納得するさ」 奥の部屋から隠れるように見ていた徳子だったが、アハハハ、話になんないわ≠ニ、メラメラと燃えていた嫉妬の炎も、いっきに消えた。 ほんと、専務の言うとおりだわ。まだ、ねんねじゃないの=B敵愾心を抱いていた自分が、馬鹿らしくなった。社長は、お人形さまが欲しかったんだ=Bいっきに全身の力がぬけていくように感じる。未来の社長夫人なんだから、と肩肘をはっていたおのれが哀れに思えた。けっしてミスを犯すまい、といつもピリピリと神経をとがらせていたこれまでの自分がこっけいな女に思えた。もういい、どうでもいいわ!=B険のある表情が見るみる和らいでいくのが、徳子自身に感じられた。 (百七十六) 「皆さん。お花、ありがとうございます。小夜子です。よろしくお願いします」 深々と頭を下げる小夜子に、またふたたび一斉におおきな拍手がとどいた。 「みんな、よろしく頼むぞ」。武蔵の声にあとおしされるように二階へと向かったが、階段を上がるときふわふわとした感覚に襲われた。ともすれば階段を踏みはずしそうになる。地についていない自分に気づき、武蔵にしがみついて上がった。高揚したおのれを、叱咤した。あたしらしくもない、しっかりしなさい小夜子! あのファッションショーをやってのけた小夜子なのよ。笑ってるわよ、アーシアが=Bしかし緩んだ頬は、小夜子の意思を無視している。 武蔵と小夜子が社長室に消えたあと、そこかしこで小夜子談義がはじまった。 「あたし、安心した。なんかこう、姉さんねえさんした女性を奥さまにされて、威張りちらされるって思ってたけど」 「そうそう。あの、熱海の旅館の女将みたいな女性をね」 「小夜子さんでよかったわ」 「そうよ! だんぜん、小夜子さんよ」 「でもさ。奥さまって言うより、あたしたちの妹って感じよね」 「たしか、あのキャバレーで、タバコ売ってたんじゃないか?」 「そう! 加藤専務の見立てらしい。ひと目で、社長の奥さんにって思ったらしい」 「なんでも、英会話を勉強中らしい。ということは、会社に顔をだしてもらえるんだ」 小夜子談義がなかなか収まらなかった。 「みんな、もういいだろ。仕事だ、しごとだ!」。五平のかけ声が会社中にひびき渡った。 なに、この部屋は。何もないなんて、いかにもタケゾーらしいわ≠ニ、安堵の気持ちがわいた。社員から社長、社長と声をかけられて、当たり前のように武蔵が応じている。至極とうぜんのことなのだが、小夜子にはまぶしく感じられていた。 「タケゾー、殺風景すぎるよ」 「そうか、やっぱり。絵画でもかざるかな?」 「社長!」 息せき切って、竹田がはいってきた。 「どうした? そうだ、小夜子。偶然なんだが、この男の苗字も竹田と言うんだ」 ぺこりと竹田が頭を下げた。身長五尺五寸(約百六十七センチ)、痩身ゆえに、体重が十五貫弱(約五十六キロ)の、体格だった。 「ふうん」と、値踏みをするがごとくに一べつした。頼りなさそう=Bこれが第一印象だった。 「申し訳ありませんが早退させてください」 力ない声で武蔵につげた。一日たりとて休みをとらない竹田が、切羽つまった声で言う。 「なんだ、何かあったか?」 「はい、姉が……。いま連絡が入りまして」 「姉さんがどうした? 悪化したのか? 大学病院に移ったんだ、悪くなるわけはないだろうに」 「いえ、それが……」 「歯切れが悪いな。労咳なんて、きちんとした薬を飲んで栄養をしっかり取れば大丈夫さ」 「それが……」 「おい、専務! ちょっと来い!」 となりに部屋をかまえる五平を、大声で呼びつけた。会社内では加藤と呼んでいるのだが、それでは小夜子の反応が気になる。 「どうしました? なんだ、竹田。どうしたんだ?」 押っ取り刀で五平が来た。 「おまえ、何をやってる! 竹田の姉さんの容態が悪くなったらしいぞ。医者に鼻薬は利かせたんだろうな」 「もちろんですよ、社長。たんまりとはずんでありますって」 武蔵の剣幕に、おどろく五平だ。ことの次第がまるで見えず、困惑してしまった。 「じつは、入院していないんです。自宅療養しているんです」 (百七十七) 「なんだと!」。ふたりが同時に怒鳴った。 「もうしわけありません、母が猛反対しまして」 「五平! 説得できたんじゃなかったのか!」。にらみつける武蔵に、五平はうまく声がでない。怒り心頭に発したおりの武蔵は手がつけられない。そこらにあるものを手当たりに投げ散らかす。 昨年の夏に仕入れ先からの接待を受けたおりに、武蔵の女あそびを聞きつけた担当者が、気を利かせたつもりで店いちばんの女給をあてがった。スレンダーな体つきながら、胸の膨らみを強調したドレス姿で「あやこです、よろしく」と武蔵の前に立った。 「こいつは驚いた。こんな場末のキャバレーに、はきだめに鶴だな、まったく」 目尻を下げている武蔵の表情に満足げにうなずく担当者が「社長の好みに合えばよろしいんですが」と、もみ手をせんばかりに武蔵のとなりに座らせた。 「スタイルは100点満点ですが、ちょっと顔の色が…。このむすめ、混血でして。一流キャバレーでは雇われないものですから。社長に仕込んでもらえれば、」 言い終わらぬうちに、武蔵の怒声が飛んだ。 「お前、どういうつもりだ! 女を商品扱いするやつなんか信用できるか。加藤、こんなやつとは取引するな!」 思いがけない武蔵の怒りように、どんな失態をしたのかと慌てふためく担当者にたいして、並々と注がれたビールをコップごと投げつけた。たかが女給だとばかりに差しだす姿勢をみせた担当者が、武蔵には許せない。武蔵自身が口説き落としてのことと、相手に言いふくめられている女給とでは、その質が違う。 すべてにおいて、他人にあてがわれることを良しとしない武蔵であり、物乞い扱いをされることに我慢ならない武蔵なのだ。逆上した武蔵には前後の見境がつかなくなる。罵詈雑言を浴びせたり物を投げつける癖がある。ただ五平には、それが武蔵の計算からのことのように感じられることもありはするのだが。しかもいまは小夜子がいる。おのれを失う様は見せないはずだと、五平は確信していた。 「いや、それは。たしかに納得してくれたはずですが」 首をかしげつつ、竹田に目をむける。 「社長。それは、専務が悪いんじゃないです。いちどは母も納得したんです。ところが翌日に霊能師がやってきまして、また説得されたみたいなんです。昼間のことで、母ひとりだったものですから」 「よし、こうなったら実力行使だ。五平! いまから行って、入院させろ。だれがなんと言おうと、入院だ。救急車だぞ、いいな! 母親が反対しても、強行だぞ。竹田、いいな。お前がひっぱるんだぞ、これからは」 「うっうっうぅぅ」。とつぜん、小夜子のなみだ声が、武蔵の耳にはいった。 「な、なんだ? 小夜子を叱ったわけじゃないぞ。泣くな、小夜子。俺が悪かった。な、な、泣くな」 オロオロとする武蔵を見た竹田は、信じられぬ思いだ。五平のしぶい顔が、凝視していた竹田の視線をはずさせた。 「ちがうの、お姉さんがおかわいそうで。タケゾー、きっとね。キチンと面倒を見てあげてね。そうだわ。病院では、あたしがお世話するわ。あたしの母が労咳を患ったの。だから多少の心得はあるのよ」 母に抱かれた記憶がない小夜子と、近付くことさえ許されなかった小夜子だ。労咳というやまいが憎くてたまらない。 「そうだったな、小夜子のお母さんもだったな。しかし今は、特効薬も手に入る。しっかり養生すれば大丈夫だ。よし、すぐに行け。専務、頼むぞ」 (百七十八) 「おう、昨日はご苦労だったな。それでどうだった?」 「安心してください。ぶじ、入院ですわ。おふくろさんも、今回ばかりは観念したようですわ」と、合掌のまねをする五平だ。 「うん、そうか」。満足げにうなずく武蔵に「なにせ、本性をあらわしましたから」と意味ありげに薄笑いを浮かべた。 「どういうことだ?」 「見張りがいたんでしょう。三人づれの恐いお兄さんを引きつれての、ご登場でした。さすがにおふくろさんも、ビックリですわ」 「ほう、やっぱりだったか。でっ?」 「でって、そんなもの。何という事はないです。ギャーギャー騒いでましたが、一喝して終りですわ。あの親分さんの名前を出す必要もなかったです」 「なんだ、そりゃ。素人さんか?」 「そこらの食いっぱぐれですわ。二、三日前に雇われたようです。祈祷師やら占い師やら、けっこう有名になっていましてね」 「どういうことだ、それは」 「入れ替わり立ち代りの状態になっていました。ひとつふたつどころか、ふたけたに迫る状態です。おどろききましたよ、まったく」 「そんなにか! 食い物にされていたんだな。もっと早くに相談すればいいものを、竹田のやつ!」 眉間にしわを寄せて歯がゆがる武蔵に、五平も相づちを打つ。 「まったくです、残念です。あたしもうかつでした。机の前でぼんやりとしている竹田を見はしたのですが、まさかこんなこととは。思いも寄りませんでした」 「竹田のやつ、大はしゃぎでした。帰りの車のなかで、しゃべることしゃべること。はじめてですよ、あんな竹田を見るのは」 「そうか、そんなに喜んだか」 「いや、違いますぜ。勘ちがいなすってる」 「勘違いって、お前。どういう意味だ」 「小夜子奥さんですよ、奥さん」 ニタニタとする五平に、「小夜子がなんだ! 惚れたっていうのか、竹田が」と、とたんに不機嫌になった。 「へへへ。ちょっと意味が違いますが、ぞっこんですわ」 「許さんぞ、そんなこと。竹田を呼べ、怒鳴りつけてやる」 気色ばんだ武蔵を、まだニタニタと五平が笑っている。 「看病するって、言われたでしょう? 小夜子奥さん」 「ああ、そんなことも言っていたな」 「それですよ。それに感動してるんですよ」 それがどうした、と言わんばかりに、眉間に皺を寄せたままの武蔵。相変わらずニタニタとする五平。 「五平! いい加減にそのにやけ顔をやめろ! イライラするぞ」 「これは、申し訳ありません。社長のヤキモチなんて、ついぞありませんからな。いや、失言でした。竹田の横恋慕とか言うのじゃなくて、純粋な気持ちですから」 「なんだ、その純粋ってのは。少年みたいな、とでも言うのか!」 椅子に座ったり立ったり、机の周りを歩いたりと、まるで落ち着かない。 (百七十九) 小夜子が社員から慕われるのは良しとしても、恋心を抱かれては困るのだ。もちろん、小夜子がそれによって動揺などするわけはない。しかし、恋愛の対象として見られるのは我慢できない。あくまでも、小夜子奥さまとして奉られなければならないのだ。いみじくも事務員たちからこぼれた、お姫さまでなければならない。 「とに角、許さんぞ。小夜子に淫らな思いをだくやつは、誰だろうと許さん。いいか、たとえそれが、五平お前でもだ!」 「大丈夫です、心配いりません。みんな、富士商会のお姫さまと思っていますから。竹田にしても、感激しているんです。あれほどに心配された小夜子奥さんに、です」 「そうか。なら、いいんだ。うんうん。お姫さまと言っているのか、みんなが。そうか」 してやったり、の思いだった。いっきに武蔵の相好がくずれた。どっかりと椅子に座ると、恵比寿顔を見せた。いまの富士商会は独裁国家のようなものと感じていた。御手洗武蔵という絶対君主のもと、一糸乱れぬ兵士だった。創業時はそれでいい。いや、そうでなけれは困る。右を向けと指示したときに、ひとりでも左を向く者がでたら混乱を来すことになる。ひとりでも不平を言う者がでれば、小さなことだとしても不満をだく者がでれば、崩壊してしまうことになる。 しかし現在の富士商会は、この界隈で名のとおった会社となっている。この雑貨品をあつかう業界でも名のとおった会社として存在感を放っている。社員にしても、三桁の数字をうかがうところまで増えている。こまで所帯が大きくなると、どうしても目のとどかぬ所がでてくる。五平にも目を光らさせているが、小さなミスが発生している。在庫数の違いから得意先に迷惑をかけたことが、この半年で7、8回起きた。発注ミスによる在庫切れやら、逆の在庫増が起きた。口を酸っぱくして「小さなミスの積み重ねが大きなミスを呼ぶ。小さな金額だからと甘く考えていると、ドカンと大きな損失に繋がるんだ」と訓示しても、どうしても他人事と考えやすい。 役職を作りそれなりの権限を与えても、小さなミスだと安心してしまいやすい。「社長に任せていれば大丈夫さ」。そんなゆるみが蔓延しはじめている。武蔵のご機嫌とりがはびこり、あやうい情報がすぐには上がってこない。みなが武蔵をこわがり、畏怖の念をいだきすぎている。といって緩めるわけにもいかない。 「俺が王なら、妃をつくればいい。妃を崇めさせれば、変わる」 そして小夜子のお披露目となり、その狙いがぴたりとはまった。 「姫のために」。「笑顔が見たい」。「表彰してもらう」。 それまでのピリピリとした空気がいっきに華やぎ、活気あふれる富士商会に戻ることが出来た。 (百八十) 「ところで、五平。お前、田舎に行ってくれ」 照れ隠しのために口を真一文字に閉じていた武蔵が、慇懃に口を開いた。 「田舎と言うと、いよいよですか?」 「ああ、そんなところだ」 「分かりました。で、いつにされますか? ええっと、こりゃいい! 明日が大安ですよ。それじゃ、明日にでも出かけますわ」 「いや、お前。それはちょっと急過ぎないか?」 「何を言ってるんです。こういうことは早いほうが良いんです。小夜子奥さんも了解済みなんでしょう?」 「いや、それはまだ……」 「事後報告でも良いじゃないですか。いや、そのほうが良いかもしれません。あのご気性だ、前もってだと何かと……」 口をにごす五平だが、その言わんとすることは武蔵も分かっている。天邪鬼的な性格をもつ小夜子のことだ、反発しかねない。さらには、失意から立ち直りかけの小夜子でもある。付けこむようなことになりそうで、ためらいの気持ちがでた。こと商売となると、相手の弱点をキリキリと攻め立てることも厭わぬ武蔵であり、外堀をうめて追いこみをかけたりもする武蔵でもある。あるいは相手の虚を突きいっきに落とす武蔵なのだが、小夜子に対してはそれができない。 「まあとに角、任せてください。うまく話しを付けてきますよ」 五平が得意げに言う。そして普段ならば五平には指示を与えることもなく任せてしまう武蔵だが、今回はちがった。 「いや、俺の言うとおりにしてくれ。かりにも、義父になる方だ。それなりの礼をもって接したい。使者としての五平だからな。本人には、俺がキチンと話す。五平には、他のことを頼む」 「社長、社長!」 興奮する事務員が飛び込んできた。 「何だ、どうした。落ち着け、少しは」 「はい、すみません。でも、でも」 「タケゾー、居る?」。思いもかけず、小夜子が現れた。 「奥さん」。「小夜子、お前」 大の男ふたりが大きく口を開けて、小夜子を出迎えた。 「いやあね、もう。はとが豆鉄砲、みたいに」 ニコニコと笑みをたたえて小夜子が部屋にはいった。武蔵のかたわらに近づき 「竹田のお姉さん、入院されたの? もう落ち着かれた? で、どこの病院なの?」と、矢継ぎ早に問いただした。 「あ、ああ。大丈夫だ、大学病院に入院させた。教授直々に担当医になってもらってるから」 「そうなの、じゃ安心ね。あたしね、行ってくるから」 「えっ? 行ってくるって、小夜子」 「きのう、言ったじゃないの! あたしが看病するって。ねえ、五平さんも聞いていたわよね」 「は、はい。たしかに聞きはしましたが、しかし…」 とつぜん話をふられ、武蔵の顔色を見つつ答える五平だ。 「しかし小夜子。看護婦がついてるんだぞ、わざわざ小夜子が。それにうつりでもしたら」 (百八十一) 懇願するような武蔵に、小夜子はピシャリと言った。 「なに言ってるの! 二十四時間付きっきりじゃないでしょ!」 「だから、うつることも…」 「大丈夫! お医者さまにキチンとお聞きするから。母の看病ができなかったことが、すっごく悔やまれるの。おなじご病気なのよ。神さまが『看病してやりなさい』って、おっしゃってるのよ」 いちど言いだしたら聞かない小夜子だ。なんどかの押し問答の末に、武蔵が折れた。 「仕方がない。医者の言うことをキチンと守ること。十分に休息を取ること。いいな、絶対だぞ!」 一階の事務室にもどった事務員が「ねえねえ、重大ニュースよ」とみなを集めた。外で荷ほどきをしていた男たちも呼ばれて、大騒ぎとなった。 「お姫さまがね、竹田さんのお姉さんの看病をされるんだって。社長は渋ってらしたけど、根負けされたわよ。すごいわねえ、社長をやりこめるなんて」 「ええー、ほんとなの? いち社員の家族のために、そこまでしてくださるなんて。信じられないわ、あたし」 「うわあ。あたしん家も、だれか大病しないかしら?」 「いてて、腹がいたい! これ、きっと盲腸だぜ」。腹を押さえるひょうきん者にたいして、となりの若者が「バカッタレ! バレバレだぞ、そんなの」と、笑い飛ばした。 「それ、ほんとか? 困るぞ、そんなの。母さんが付き添ってるんだ、それを奥さまにまでになんて」 遠くから聞いていた竹田が、あわてて二階へ駆けあがった。 「おう、竹田。丁度良いところに来た。小夜子を病院に送りとどけてくれ」 「社長、そんなあ。ぼく、困ります。小夜子奥さま、おやめください。万が一のことがあったら、ぼく死んでもお詫びできません」 土下座をせんばかりに懇願する竹田に 「だめ! 看病するの。あなたのためじゃないの、お姉さんのためでもないの。あたしのためなの、これはあたしの勤めなの」と、強く言いはなった。 ひょっとして、小夜子のやつ。お母さんが、と言いはしたが。ほんとのところは、あのロシア娘か? あのロシア娘にたいする罪ほろぼしじゃないのか。なにもできなかった自分を責めているのか。そうか、自分を納得させるためでもあるのか 涙目になりながらも毅然とした口調で言いはなつ小夜子の心情が、武蔵にグサリと突き刺さった。 小夜子の強情さには閉口する武蔵だが、それがまた可愛くてたまらない。 「小夜子は猫だな」。酒で口がなめらかになったときに、口をすべらせた。 「どういう意味?」と、別段とがめる風もなく聞きかえした。 「気まぐれだし、移り気だし、わがままだしな」 武蔵にしてみれば、可愛くじゃれる子猫が頭にあった。ところが小夜子には、近所をわがもの顔で歩く野良のトラ猫が浮かんだ。うす汚れた体からは鼻につく匂いがするし、気にいらないものやら障害となるものにたいしてはすぐに威嚇する野良のトラ猫が、頭のなかで小夜子の顔をもつ猫に変わっていた。 そしてそれが自分でも思いあたる節が浮かび、ますますフーフーと唸り声を上げる猫に変わってしまった。「武蔵のバカ!」。ひと言を残して二階の寝室に籠もってしまった。あわてる武蔵だったが、小夜子の機嫌が直るまでに、しばらくの時間と毎日の花束やら好物の品を買いつづけることになってしまった。 |