(十一)

 ハイヤーに乗り込んだ五平は、「銀座だ」と、告げた。
「うひょお! 銀座だって、おい豪勢だぜ、銀座だぜ」。「ということは…ひょっとしてナイトクラブとかですか」。大騒ぎする二人に、五平は慇懃に答えた。
「あゝ、そうだ。社長に頼まれたのさ。お前達を遊ばせてやれ、とな。今まで頑張ってくれたからな」
「感謝感激、だ! なあ、竹田。おい、どうした? 元気がないぞ! 姉さんか?」
「あゝ……」。竹田の力ない声が、五平の耳に届いた。
「姉さんがどうした? 嫁にでも行くのか?」。五平の軽口に、山田・服部の二人は苦笑した。しかし、竹田は沈んだ表情のままだった。
「なんだ、どうした?」
「いえ、何でもないです」
「竹田、話せ話せ。入院されたろうが」
「そうだぞ。もうお前だけでは、手に負えないだろうに」
「で? どこの病院なんだ」
「近くのかかりつけ医者です。診療所みたいな所です」
「馬鹿野郎! なんで、大学病院に入れないんだ! 何をケチってるんだ、お前は。しっかり貰ってるだろうが」。 五平の大声に、運転手がビクリと体を震わせた。
「こりゃすまん、運転手さん。ここで良いよ。停めてくれ」
 立ち並ぶビル群の一角に、それはあった。煌々と輝くネオンの看板を、三人は等しく眩しく見上げた。三人にとって、ここ銀座は異世界だった。すれ違う人の多くは進駐軍の兵士で、日本人を見ては薄ら笑いを浮かべ蔑視した。中には大声を張り上げて唾棄すべき言葉を発する者もいた。 シャッターの下りた軒先でたむろしていた街娼は、兵士にしな垂れかかるようにして媚びを売る。辺りもはばからずに口を吸いあっている街娼もチラホラ居た。
「あの娘らを、見ろ。明日の糧のために操を売っているんだぞ。チューインガムやらチョコレート欲しさでだ。そしてそんなあいつらから、俺たちは商売の種を回させているんだ」
 五平にば、戦前の女衒時代が思い出されてしまう。“未だ、あの頃の方が良かったかもな。苦界に落ちるといっても、日本人が相手だった。然も、公娼制度という政府の保護下にあったことだし”。そんな感傷に襲われた、五平だった。
「くそっ、アメ公の野郎が! 戦勝国だからって、好き勝手しやがって!」
「見てろよ! その内、こっちがアメリカで女を買ってやるからな」。山田・服部の二人が、口々に罵った。しかし竹田だけが、ポツリと呟いた。
「そんなアメリカさんのお陰で、俺たち、稼げるんだよな」。「そりゃ、そうだけどな。しかし、腹が立たんのか」。山田が、竹田に噛み付いた。服部も「うん、うん」と頷いた。
「竹田の言うとおりだ、今はな。日本全体が、アメリカさんのお情けで、生き長らえているようなもんだ。しかし、気持ちでは負けるなよ! 山田の言うとおり、アメリカに乗り込んで、女を買う位の気概を持て! その為にも、ガムシャラに働くんだ。たんまりと、稼ぐんだぞ」と、五平の檄が飛んだ。

(十二)

「Hi,gohei! 」
 後ろから声を掛けてくる、アメリカ兵が居た。振り返ってみると、グラマーな女にしてくれと、しつこくせがんだ将校だった。
「Hi,mike!」。大きく手をひろげて親愛さを表現する五平に、三人が目を丸くしている。「アメ公だぜ」。「英語だよな」。「こんなところまで」。それぞれの思いを口にした。
 なかなかに癖のある男で、注文が多かった。やっと三人目で納得したオンリーを連れている。日本人女性には珍しい、肉感的な女性だった。もう面接時の、おどおどした態度はまるでない。
「うまく、やってるか?」。「ふふ…お陰さまで」。妖艶さを漂わせながら、キツネの襟巻きを首に巻いている。着物姿の女性が多いなか、体にフィットした洋服姿だった。
「Good lover?」。女性の愛人を現すloverを誤用した五平の問いかけに苦笑しつつも「Sure!」と答え、腰に手を回して熱い接吻を見せつけた。
「Good! and bye!」。軽く将校の肩を叩き、五平は三人を促して店に入った。
それにしても先祖供養は大事なもんだ。特に墓参りは、しっかりとしなくちゃな。戦争から無事に帰れたよって、報告しただけなのに。婆ちゃんのおかげかな、トーマス軍曹と知り合えたのは。それにしても、GHQの高官たちの通訳だとは、まったく付いてたぜ=B
 感慨に耽っていた五平の肩をぽんぽんと叩いて、野太い声の梅子が若い女の子を連れてやってきた。
「遅くなっちゃった、ゴメンね。あれ? 五平ちゃ〜ん、社長はどうしたの」
「おゝ、ウワバミ梅子が来たぞ! 社長はな、梅子が恐いから欠勤だとさ。飲み比べで負けたから、もう来ないとさ」
「何だい、あの根性なしが! ほらほら、英子、入っていきな。鈴、お前そっちだ。それから、花子に昭子、男どもの間に座らせて貰いな。それにしても、このボックスは狭いな。もっと広いボックスが有るだろうに。ははあ、さては。こら、五平。お前の策略だな? よっしゃ、それじゃ体重の軽い女は、男どもの膝に乗っちまえぇ! 英子、それから陽子、お前ら乗りな」
 肩紐のないドレスに身を包んだ女給五人が、それぞれに入り込んでいく。てきぱきと取り仕切る梅子を、五平はニタニタと見つめた。三十を過ぎた姉御肌の梅子は、この店の女給達のまとめ役を勤めている。
「ほら、ほら。そんなにかしこまるなよ。女性陣、こいつら初めてなんだ。可愛がってやってくれ」

「まあまあ、チェリーボーイなわけね。楽しみましょうね」。科を作る女給たちに、ようやくのことに竹田以外の二人は緊張の糸が切れた。他の客たちのように女給の肩に手を回し、早速に話に興じはじめた。しかし竹田だけは、手をひざの上で結んだままうつむいていた。
「竹田、どうした。ここは、遊ぶところだぞ。パアーッと、行け!」。五平のそんなことばにも軽く頷くだけで、相変らず無言だった。隣にすわったホステスが、あれこれ話しかけても相槌を打つだけで、やはり無言だった。
「おっと。こっちの若いお兄さんは、どうした。元気ないじゃないか。悩みごとか? よっしゃ、この梅子姉さんに話してみな。一発回答してやるよ」。五平にうながされて梅子が竹田のとなりに移った。
 無言の竹田にかわって、服部が口をひらいた。「姉さんのことなんです、病気なんです。うさんくさい占い師のお告げがあったとかで、責められているらしいんです」。山田がつづけた。「こいつ、会社を変われ! って、言われてるらしいんです。それがいやなら、会社の、、、」。「不浄な会社だから、給料も不浄だって。だから姉さんの病気も治らないんだって、、、」。「だから給料を差し出せって、言われてて」。代わるがわるの二人の思いもかけぬ話に、五平が身をのりだした。
「竹田、本当なのか、それは」。「はあ……」。ため息混じりに、竹田が頷いた。

(十三)

「こいつは、辞めたくないんです。こいつ、社長に、とことん惚れぬいているんです。もちろん、ぼくら二人もそうですから。もう、死ぬまで付いて行くつもりなんですから」。服部の声に「そうだ、そうだ! 付いていくぞ、俺も。それにしても、竹田の奴もかわいそうです。稼いだ金の大半を、占い師やら祈祷師やらに吸い上げられているんですから。『不浄の金を持っていてはいかん。治るものもなおらなくなる!』なんて、言われて」と、山田が付け加えた。
「竹田! お前の気持ちは、どうなんだ?」。うつむいたままの竹田に、五平が問いかける。「辞めたくないです。ぼく、この仕事、好きですから」。竹田が即座にこたえた。黙って聞いていた梅子が、五平に向かって「五平ちゃん、それはあんたの仕事でしょうが。そうか…だから社長、こんやは欠勤したんだよ。あの社長なら、怒鳴りつけてるわよ。『そんなウジウジする奴なんか、辞めちまえ!』って」と、五平に詰め寄った。
「そうか、分かった。あとは、俺に任せろ。その占い師と祈祷師の名前を教えろ。話をつけてやる。大丈夫だ、まかせろ!」。裏の世界に人脈をもつ五平のことばだけに、説得力があるものだった。
「だから言ったろうが。専務に話せば、なんとかしてくれるって。それをこいつは、『社長に知られたら、会社を辞めさせられる』なんて、心配しやがって」。「そうだよ! 何度忠告しても、渋りやがって」。これで安心とばかりに「ねえ、おねえさーん」と甘えはじめた。
「これで、気が晴れました。専務、お願いします。ぼく、ホントに辞めたくないんです。お金の問題じゃなく、この仕事をつづけていきたいんです。よろしくお願いします」。ソファから降りた竹田が、床に頭を擦り付けて嘆願した。
「分かった、分かったよ。社長は、お前たちに期待しているんだ。もう、座れ。よし、これから、パァーッと騒ぐぞ」
 フルバンドによる演奏がダンス音楽に変わり、中央のホールに男女が集まり始めた。しかし三人の若者たちは、女給たちとじゃんけんゲームに興じている。
 五平は馴染みのミドリと共に、いつものようにホールを踊り渡る。他のボックスに目を流したその中に、場違いな二人連れを見つけた。初老の男性とともに、白いブラウス姿の幼さがのこる娘がいた。
「おい! 場違いな女がいるな? ありゃあ、女給じやないよな」
「家族らしいわ。女給は、要らないんだって。孫娘がおねだりしたらしいわ、キャバレーに来てみたかったんだって。どういうの、それって。都会にあこがれる田舎娘かしらね。なになに、あんな子が趣味なの? やめてよ、そういうの」。五平をキッとにらみつけながら、ターンしてその場をはなれようとした。
 クリクリとした目を持つ、愛くるしい娘だった。興味をおぼえた五平は、むりやりミドリを誘導しながら、その娘の品定めをはじめた。髪をおさげに結っている。どうやら出で立ちからすると女学生のようだ。キラキラと目を輝かせながら、バンドの演奏に聞きいっている。背格好は、座っていることで判然とはしないが、均整のとれたスタイルに見えた。首が長く、全体に細身だ。惜しいなあ。タケさんには、いい目の保養になったんじゃないか。むりにでも引っ張ってくんだった=B残念がる五平だったが、まさかこの娘が武蔵の気を引くことになろうとは夢にも思わない。

(十四)

 翌日からの三人の働きぶりは、目をみはるるものがあった。昨夜の女給たちと、週一回の通いを一ヶ月間守ればひと晩を供にしてくれる約束を交わしていた。彼らの給金からすれば、難なく実行できることだ。しかし五平の「おねだりをされるぞ」とのことばに、発奮したのだ。竹田は別にして、他の二人は街娼たちとの性交をすでに経験している。しかしさすがに、キャバレーの女給たちは比べるまでもなく洗練されている。しかも、銀座でも一流の高級キャバレーである。
「お前たちの頑張り次第では、アメリカさん御用達のクラブに連れて行ってやっても、いいぞ。そこらの映画スター顔負けの、美女ぞろいの店だ。一般人は、立ち入り禁止のクラブだぞ」と言う五平のことばも、耳にのこっている。そんな張り切りぶりは、当然のことにほかの社員たちにも刺激になる。「よおし! 俺たちも、連れて行ってもらおうぜ」という合言葉で全員をふるいたたせた。

 翌日、五平が武蔵に昨夜の報告をした。幅四間に高さが二間という大きな窓を背にし、幅一間半で奥行きが半間の役員机が置かれている。書庫やらサイドボードを置いてはと進言した五平に対し「飾り物は要らん」と一顧だにしない。しかし、こと机やら椅子、そして応接セットについては「人が座るものだ、いい気持ちで居たいじゃないか」と、輸入物にこだわった。
「五平。従業員にも良い物をそろえてやってくれ。娘たちは一日すわりっぱなしなんだ、固いのはいかん。ただし、肘掛けはだめだからな。あれは動きをにぶらせる。それと逆に、休憩用はゆったりとできる椅子を用意してやってくれ。ただし、昼寝用はだめだぞ」。日本橋に事務所を構えた折の、武蔵のことばだった。
「五平よ、うまくいったようだな。竹田も、元気になったじゃないか」
「やっぱり、これを狙ってですか?」
「あゝ。もっとも、ここまでうまくいくとは、思わなかったが」。満足げにうなずく武蔵に、五平は頭をさげざるをえなかった。「この好景気が長くつづくはずがない。緊張感が足りないんだよ、こいつらには」と、ことあるごとに五平に不安を口にしていた。神武景気に浮かれている社員に対する、武蔵の危機感は相当のものだった。といって、叱り飛ばすだけではこれ程の効果はでない。飴とムチを使いわける武蔵の手法は、五平には真似ができないものだ。もしも五平がそれをすれば、すぐに反発されてしまう。武蔵と五平の資質の差を知る五平だ。

(十五)

 本家で聞かされたレコード盤による演奏に感銘をうけた小夜子は、どうしても生演奏を聞きたくなった。しかし生演奏を聞かせてくれる場所は都会にしかなく、しかもこういったキャバレーのみだ。ひと月の余、茂作におねだりをつづけてやっと念願がかなった。
「素敵だったわ。やっぱり、生で聞くとちがうわ。うふふ…。みんな、なんて言うかしら。きっとうらやましがるわ。お父さん、ありがとう!」。目をキラキラさせて空を見あげる小夜子をみるにつけ、茂作もまた高揚感を禁じえなかった。
 夜子の喜ぶ顔を見るのが、茂作にはなによりだった。手いたい出費ではあったが、なあに、こんどは儲けられるさ。仲介業者も代えたことだし、大勝負を仕掛けてやる。それで、いままでの損を取りかえしてやる≠ニ、意気軒昂な茂作だった。
 はじめの内こそ利益が出ていた小豆相場も、ここのところは損がつづいていた。「ドーン! と、行きましょう。倍々で行けば良いんです。多少の損は目をつぶりましょう。一回当てれば、大きいんだから。わたしだってね、一緒に勝負するんですから。勝ち負けは、時の運だ。つづけることが、大事なんです」。ことば巧みに、ずるずると深みにはまった茂作だった。湯水のごとくに注ぎ込んでしまった。もう、茂作の手に負えるような金額ではなかった。最近では毎日のように「カネハラエ」の、電報がとどく。しかし「次の勝負に勝てばお釣りが」という思いがはなれない。
「おじい…じゃなかった、お父さん」。一瞬ムッとした茂作、祖父ではあるが父親として接してきた茂作だ。頑として、父親と呼ばせることを譲らなかった。あんな軟弱男なんぞ、父親なんぞであるもんか! 金輪際、父親ではないわ!=Bそんな気持ちが強い。そしてその思いだけで、六十有余年のあいだ、気をはってきたのだ。
「お父さん。ちょっとお願いがあるんだけど…」。上目遣いで目をしっかりと見開いて、肩に手を置き、そして顎をのせてのおねだりポーズをとった。
「うん、どうした?」。やにさがった顔で、茂作が新聞から目をはなす。
「この間はありがとう。ほんとに感激したわ。やっぱり、生バンドはいいわ。でね…」
「ちょっと待ちなさい。いくらなんでも、そうそうは行けんぞ」。小夜子のことばを遮って、茂作が顔をしかめた。
「うん、もう! 違うわよ、ちがう! もう、いい。じいには頼まない!」。ふくれっ面で、立ち上がった。不機嫌なときの“爺”ということば葉を残して、立ち去ろうとした。あわてた茂作は、小夜子の手をとってひたすらに謝った。
「悪かった、わるかった。機嫌をなおせ、小夜子」。お膳の大福餅をゆびさして座らせた。
「さあ、これでもお食べ。で、どんなことだ?」
「また、大福? 本家じゃ、チョコレートを食べたってよ。でもいいわ。お父さんも食べて。小夜子、半分でいいから」。不平を洩らしつつも、半分を手わたした。茂作を喜ばせるすべを知りつくしている小夜子だ。満面の笑みを浮かべてうけとる茂作に、改めておねだりをはじめた。

(十六)

「ふみ子ったらね。後藤さんちの新屋のくせにさ、着物を新調したんだって。ううん、小夜子はね、着物はいらない」。大福を喉に詰まらせながら慌ててお茶をすする茂作に、「だから着物はいらないって。その代わりに、お帽子がほしいの。つばのひっろーいお帽子が」と、こにやかな笑みを見せた。
「そ、そうか。帽子でいいのか、着物じゃなくて」
「そう、お帽子。小夜子、聞き分けのいい子でしょ? お父さんを困らせるようなことは、言わないわよ」
 ほっと胸をなでおろす茂作だったが、はてさてどこで見たものかと気になりだした。
「で? どこのお店にあったんだ?」
「うん。millinerという、お帽子専門のお店よ」
「はて? 隣町にそんな名前の店、あったかな」
「いやあねえ。あのキャバレーと同じ通りに、あったじゃない」。こともなげに言う小夜子に、茂作は困惑した。「」
「どうやって買うつもりキャバレーって、あの東京のか? おまえ、また出かけるというのか?」
「大丈夫よ、お父さん。佐伯家の正三さんがね、次のお休みの日にお出かけになるの。それでね、お願いして連れて行ってもらうつもりだから」
「小夜子。もらうつもりって、あちらの了解は取ってるのか?」。目を輝かせている小夜子に、危うさを感じてうろたえる茂作だった。
「大丈夫、ダイジョーブ。心配ないわよ」。笑みを浮かべながら小夜子は離れた。“一人で行くなんて言ったら、顔を真っ赤にして怒るでしょうね。さあてと、急がなくちゃ。話を合わせてもらわなくちゃね”。
 相手の正三はまったく知らぬ話だが、また正三と面識のない小夜子ではあったが、正三の妹が小夜子の後輩学生として同じ女学校に通っている。その娘を間に入れれば、問題ないと考えている。あたしの頼みを断る男なんて、独りとしていないわよ=B傲慢とも思える考えが、小夜子には浮かんでいる。

(十七)

 よく晴れ渡った日曜日、正三は駅舎の横に立っていた。夜も明けやらぬ暗いなか、煌々とかがやく街灯の下に立っていた。駅舎の時計をのぞくと、五時二十三分を指している。先ほどのぞいた時は、二十分だった。
−ええっ! 嘘だろう。まだ三分? 十分は経ったろうに。くそっ! この時計、おかしいんじゃないのか?」
 ブツブツとひとりこぼす愚痴も、小夜子からの呼び出しとなれば、さほどに苦にもならない。「お待ちになりました?」と、天からの声が降りてきた。正三の耳には、鈴の音だ。
「は、はい。い、いえいえ、そんなには。はい、大丈夫ですから」。しどろもどろの返事になってしまった。にこやかな小夜子の笑顔が、正三には眩しい。
「ごめんなさいね、朝早くに。わたくしのお願い、聞いていただけるかしら?」
「も、もちろんです。ば、万難を排して、お聞きします」。正三は、小夜子を正視できない。俯いたまま、小夜子の黒光りする靴をじっと見つめた。
「実はね、正三さん。あら、わたしったら。正三さんとお呼びしていいかしら? それとも、佐伯さ…」
「いえ! 正三で結構です。さんなんか、いりません。呼び捨てにしてください」。小夜子の声をさえぎって、その声にかぶせるように言った。
「実はね、わたくし始発の列車で、お買い物に出かけたいの。でね、正三さんとご一緒した、ということにしていただきたいの」
「えっ、えっ? ど、どういうことですか? 話が分からないのですが…」
「祖父がね、わたくしひとりでは許してくれません。ですからつい、『正三さんとご一緒よ』と、言ってしまったんです。それで、話を合わせていただきたいの」
「そういうことですか。おやすいご用です。で、どちらに行かれるんですか?」
(一緒に行きますよ)。どうして、このひと言が言えないのか。地団太を踏む思いの正三だった。
「東京ですわ。お帽子を買いに行くんですの」。こともなげに言う小夜子に、“帽子を買いに、東京だって? 隣町の間違いじゃないのか?”と、開いた口がふさがらない正三だった。

(十八)
「そんなにビックリなさらないで。祖父もね、『なんで東京なんだ!』と、わたくしを詰りましたわ。でもね、東京じゃなきゃダメなんです。この間、祖父と生バンドのジャズを聞いてまいりましたけど、そのときに見つけたんです。すごくステキなお帽子を。もうね、わたしにね『買って、かって!』って。そのお帽子が言うんです」。哀しげにいう小夜子の表情は、この世の不幸を一身に背負うがごとくに見えた。
「分かりました。ぼく、お供しますよ。小夜子さんおひとりで東京へ出かけられるなんて、絶対ダメです。茂作さんのご心配もごもっともです」。小夜子の描いた絵図に、見事にはまった正三だ。
「およろしいの?」。思いっきり甘えた声を出す小夜子だった。
「なあに、ぼくも近いうちに行こうと思ってたんです。郵政省の官吏になる予定なので、ついでに下見をしますよ。いいきっかけだ。それに小夜子さんのお供ができるなんて、光栄の至りです」。官吏ということばに、思いっきり力をこめる正三だ。この町で、本庁の官吏になった人間はいない。いや、県庁勤めすらいない。大人たちの間で評判になっているのだ。
「さすがに、佐伯家の正三坊ちゃんだ」。「そうよ、そうよ。さすがじゃて」。「しかものお、叔父の源之助さまの引きだってことだろが」。「おうよ、さすがに佐伯家じゃちゅうことじゃろが」。「そうよ、そうよ。さすがじゃて」。 寄り合いの場において、繰り返される問答だ。佐伯家の誉れであり、正三のプライドをくすぐる証左でもある。そしていま、小夜子からの尊敬の念をうけとるべき瞬間なのだ。高鳴るむねの鼓動が、正三には嬉しくもありくすぐったくもある。その反面、その音を小夜子に聞かれはしないかと不安でもある。さあ、いまだ! 動き始めた小夜子の唇に正三の全神経がはしる。
「そう、官吏になられるの」。正三の思惑とはちがい、小夜子の反応は素っ気ないものだった。「すごいですわね、さすが正三さんだわ」と、感嘆の声が聞けるものと思っていた正三だった。しかし小夜子はつゆほども反応しない。
ぼくの言った意味が理解できていないのか?=B混乱する正三だが、精一杯のことばが浮かんだ。「はい、村では初のことです。家族も大騒ぎして、、、」。誇らしげに胸を反って答えるが「進学されるものと思ってましたわ」と、こともなげに途中でことばをさえぎる小夜子だった。小夜子には、官吏という存在が頭にないらしい。それが小夜子のこれからに関わってくるのであれば、それはそれで大問題なのだが。だから、他人の動向などなんの意味もなさない。

(十九)

 電柱の陰から、ふたりを盗み見している茂作がいた。小夜子の快活な笑いが気に入らない茂作だった。わしにはあんな笑顔なんぞ、ついぞ見せたことがない<<宴<奄ニ燃え上がる炎に、茂作の顔が赤くなった。
あっ、あっ。駅舎に入っていく。行くか、行くか。やはり、わしが代わりに行くか…
 今朝、小夜子に釘を刺された茂作だった。
「いいこと、お父さん。正三さんとお約束したんです。今さら、しゃしゃり出ないでね!」
 きつい口調の上に、目の光も強かった。茂作ゆずりの頑固さを持つ小夜子に「しかしの…」と、ことばをにごす茂作だった。
 駅舎に二人が消えたことを確認した茂作は、まあ、小夜子のことじゃ。滅多なことはなかろうて≠ニ、得心はいかぬけれども止むを得まいと、肩を落として歩き出した。小夜子が茂作に反発するのも初めてではない。いや、素直に従うことの方が少ない。分かったわ、と言われる方が心配の種になる茂作だ。小夜子から母親を奪ってしまったのはわしじゃ。素直すぎるぐらいに素直な娘だったが、それが仇となってしまった≠ニ、今さらながらに後悔の念に囚われている。そしてその小夜子の母親に対しても、償いきれぬことを抱えている茂作でもあった。
 二人が無人の改札を通りホームに立つと、程なく汽車が入ってきた――真っ黒い煙りを吐きながら、黒光りするその精悍な機関車が入ってきた。
「いいねえ、お二人さん。こんなに朝早くに、逢い引きかい?」。汽車から降りてきた車掌が声を掛けてきた。
「ち、違いますよ。そんな、逢い引きだなんて。失礼ですよ、ぼくなんかじゃ。ねえ、小夜子さん」。やに下がった顔で、正三が言う。恐るおそる小夜子を盗み見すると、小夜子はニコニコと笑っている。
「ほら、ほら。お嬢さんは、その気らしいよ。ま、がんばんな!」。なおも車掌がそやした。え? 小夜子さん、嫌がってないぞ。脈ありか?=B小躍りしたい正三だった。

「小夜子さん。汽車賃は、ぼくが払いますから」。正三が、突然に申し出た。「大丈夫です、任せてください」。胸をはって答える正三だ。晴ればれとした思いの、正三だ。
きょうは、男を見せるんだ。なあに、参考書代がある。大丈夫!=B太っ腹なおのれを見せて、小夜子の気を引こうという算段が正三にある。
やっぱりね。で、いくら持ってらっしゃるの? きょうは、ぜんぶ遣ってさしあげますわよ=Bしてやったりの小夜子だった。小夜子の、声にならぬ本音だ。自分にどれだけの金員を遣うのか、それで相手を値踏みするところのある、小夜子だ。
 小夜子十七才、正三十八才の、青春真っただ中のときだった。

(二十)

 汽車の中での正三の献身ぶりは、涙ぐましいものだった。黒い煙りが入らない席はどこだと走り回ってみたり、朝食を摂っていないだろうからと駅に着いた折に駅弁を買いに走り、発車まぎわに飛びのる始末だった。
「ごくろうさま」。そのひと言で、小夜子は済ませてしまう。もうすこし感謝のことばが…≠ニ思ってはみても、おくびにも出さない――出せない正三だった。むろんのこと小夜子とて、感謝の気持ちがないわけではない。ありがとう≠ニ、心のなかでは呟いている。しかし小夜子が小夜子たるためには、高飛車でなければならぬと思っている。
 小夜子の生い立ちが、そうさせている。茂作の娘であり小夜子の母である澄江のことが、小夜子には重くのしかかっている。小夜子の記憶のなかに、母親としての澄江はいない。澄江の乳を飲んだ記憶がなく、その胸に抱かれた記憶もない。薄暗い部屋で床に伏せっている澄江がいるだけだ。
 澄江の生い立ちは、過酷なものだった。母親のミツは澄江を産み落としてすぐに、産後の肥立ちが悪く他界してしまった。口さがない者たちの噂では、産後に養生させることなく働かせたせいだとなっている。たしかに三日と経たずに床を上げてしまった。本家から茂蔵の嫁であり茂作の義姉にあたる初江が、お手伝いを申し出たのだが、断ってしまったが故のことだ。だれの意思で断ったのか、それが茂作なのかミツだったのか、口にしない茂作だった。それがゆえに、茂作への風当たりは強かった。そして産後の無理がたたり、半年も経たぬうちミツは他界した。以後、隣り近所の女衆に面倒をかけることになった。
 澄江は物心がついたころから畑と家との往復だけの毎日をおくった。茂作とともに田畑を耕し、本家の田畑にも手伝いに出向いた。夜はよるとて、わらを使っての草履作りに精を出す。村一番の働き者だと評判だった。そんな澄江が十五歳になった頃から、茂作の元にいろいろの伝手から縁談の話が来ていた。しかしなかなか茂作は首をたてに振らない。本家の茂蔵からの話ですら、聞こうとはしなかった。
澄江は、百姓なんぞにやるもんか=Bしかしそんな思いとは裏腹に、澄江には畑仕事を強要していた。茂作の目のとどく場所といえば、畑しかないのだ。
「澄江、もうすこししんぼうしてくれ。わしがきっと、三国一のおむこさんを見つけてやるでの」
「三国一でなくてもいいよ。父ちゃんみたいな人、連れてきて」。そんな会話が、十九の夏までつづいた。