(百六十三) 一週間がまんした千夜子だった。翌日にもなんらかの連絡がはいるものと思っていた千夜子だった。でそのおりの受け答えを、一言一句まちがえてはならぬとメモ書きしていた。それが、二日、三日と経ってもなお、連絡がはいらない。よほどにひどい状態なのかと気をもむが、入院したならしたで、その旨の連絡があるはずと思った。案外に世間知らずな非常識人間なのかと恨みたくなる。GHQとの繋がりがあると言っていたが、ひょっとして裏社会? とも思えてきた。そうなるとおいそれと話をするわけにはいかないかも? と不安な思いがつのる。しかし、それならそれでいいじゃないの、とも思う。 千夜子は意を決して電話をかけた。会社に連絡をとり、不在だと聞くと「ぶしつけですが」と、自宅にかけ直した。非常識だと思いつつも、背に腹は代えられない。じり貧の店を立てなおす切り札になるのだと、勢いこんだ。 「奥さまのぐあいはいかがでごさいますか? 気になっておりまして 」。普段はどちらかと言えば甲高い声で話す千夜子だが、いかにも心配げに声のトーンを落として話した。 「いやあ、これは申し訳ないことでした。お礼にもうかがっておりませんで。おかげさまで、随分と落ち着いてきました。もうずいぶんと良くなりました。いま、台所にいるんです。呼びますか?」 たかが個人経営の美容院じゃないかと、その内にそのうちにと一日延ばしにしていた。どうせ婆さんだろうという思い込みもあった。それにしても相手から電話がはいるとは、お礼の催促かよと、うっとうしさを覚えつつ電話を受けた。 「いえいえ、そんなことはよろしいんです。そうですか、ご快方にむかわれてみえますか。そりゃ、良うございました。店でのご様子がただごとではありませんでしたので、ちょっと気になりまして。あたくしどもの使っているパーマ液が原因ではないかと心配にもなりましたし」 「そんなことはありません。モデルに肩入れしていたものですから、ショックが大きかったようでして。本当にありがとうございました。適切な処置ですと、医者も言っておりました。小夜子は加藤という人物に、良い感情を持っておりませんので。あ、いやいや。専務の加藤ではないんです。同姓の者がおりまして……」 なにを話すんだ、俺は。余計なことじゃないか≠ニ、苦笑する武蔵。しかし千夜子の声に、中々、艶っぽい声じゃないか≠ニ、生来の虫が武蔵のこころで騒ぎ出した。 「じつは……。折りいってご相談がございまして」 自宅にまで電話してくるとは。この女、よっぽどにしたたかだな。金の無心か? まずいことをした、そこまで気がまわらなかった。こりゃ、額がひと桁あがっちまうか? 五平にしても珍しいことだな。あいつもそれだけ慌てたということか=Bそんなことを考えている武蔵には、思いもかけぬことだった。 「じつは、奥さまから良いお話をうかがいまして、その件でお話しさせていただきたく思いまして。非常識だということは、重々承知しております。ですが、どうしても社長さまにおすがりしたく……」 相手の切羽つっている様が、手にとるように分かった。 「どんなことでしょう?」 「明日にも、お会いできませんでしょうか?」 突然に、すがるように両手を合わせる様が武蔵の脳裏に浮かぶ。 「明日ですか? うーん、そうですなあ……」 「申し訳ありません、無理なお願いをいたしまして。まだ日にちも経っていないというのに、ご無理をもうしました」 千夜子のため息に、さらにつよい艶っぽさをを感じた。どうにも気になる声だと、浮気の虫が頭のなかで騒ぎだした。そろそろ銀座にでも足をのばすか、と考えていた矢先のことだ。 「待ってください、そうですなあ。明日というわけにはいきませんが、なにやらお急ぎのようだ。二、三日後ということなら。こちらから連絡しますよ。小夜子の状態も良くなっていることですし」。そして翌日、明日の夕方で良ければと、連絡を入れた。 「かしこまりました。五時過ぎでございますね。ご無理を申しまして、ほんとうに申し訳ありません。その時間に会社の方へおうかがいさせていただきます」 (百六十四) 臨時休業の札を出して「なんとしても、話を決めなきゃ。ここが勝負よ、わかれ道なのよ」と声に出し、気合を入れまくる。エイトラインと称されるウエストを絞ったトップスに、裾が豊かに広がっていくスカート。最新モードに身をつつみさらにはスカーフで頭をすっぽりと巻きグローブを手にはめた。そして派手目の化粧で気合い充分だ。人混みにもまれてせっかくのラインがくずれては、とタクシーに乗りこんだ。 店のある葛飾の青砥から日本橋まで、タクシー会社からの「一時間ぐらいでしょう」との情報に、午後四時すこし前にと呼んだ。荒川の橋をわたり、浅草寺前をとおった。そのおりに、思わず「こんなに復興したの? 無理してでも浅草に店を出したほうがよかったかしら」と口にしてしまった。 「お客さん。すごいよ、もう。あちこちビルが建っちゃってさ、あたしらもねえ、新しいビルを覚えるのが大変でねえ。無線で連絡をとりあいながらの運転になっちゃってねえ。遠回りしたって叱られることもあるんですよ」 気のよさそうな運転手が話しかけてきた。話し相手などほしくない。これから会う武蔵がどんな人物なのか、若くして店を立ちあげて、新橋の闇市からいち早く抜け出したこと、そして日本橋のビルに入っていること、やり手であることはわかった。 スケベだといいんだけど=B千夜子の武器は、このスタイルだ。ボリウムいっぱいの胸が自慢の千夜子は、そのためにエイトラインを着込んだのだ。ただの色気女だと思われぬようにと、スカーフとグローブでもって上品さをかもし出すことも忘れなかった。しかし化粧のきつさが、アンバランスではあった。 「もうすぐですからお客さん。このへんなんか、ほんとにビルばっかりでねえ」 キョロキョロとあたりを見回しながら、ぐつと速度を落としはじめた。 「ありましたよ、ここですね。ああ、『株式会社 富士商会』って大きな看板が出てますわ。こういう風だと、あたしらもありがたいですわ」。ピタリと会社前に車が止まった。 思ってたより立派なビルねえ。ええい! 千夜子、気おくれしてどうするの。頑張れ!=Bなんとしても取り引きに応じてもらわなきゃ、と、ひるむこころに気合を入れ直した。 外で忙しなく動きまわっているひとりに声をかけた。 「すみません。社長さんは、お見えでしょうか?」 しかし「はあ? すみません、小売りはしてませんので。卸し専門なんですよ、富士商会は」と、にべもない。 「いえ、そうじゃないんです。お約束をしてあるんです」 「約束って、社長にですか?」 うさん臭げに、じろじろと見る。水商売関係に見られているように感じる千夜子だった。店先で押し問答をつづけるふたりに気づいた事務方の京子が飛んできた。 「ちょっと、だめでしょ! 店先で」 「いえ、この人が……」 「社長さんとお約束している、松尾千夜子という者ですが」 「お約束、ですか? 松尾さまですね」 どうも話が通じていないようだ。困ったことになったと思っている千夜子に、救いの神が現れた。奥の倉庫からもどった竹田が「ひょっとして、美容室の方ですか?」と、声をかけた。やっと話の通じる人間がいたと安心できた。と、そのひと言に、聞き耳を立てていた者たちから、席から飛び上がらんばかりにどっと歓声があがった。 (百六十五) 徳子が、奥から声をあげた。「なかに入っていただいて!」。千夜子のそばに来るや「申しわけありません、店先なんかで」と、頭を下げた。 「お姫さまみたいだって聞いているんですけど」 「小夜子奥さまって美人ですか?」 「背丈はどれ位ですか?」 「笑顔が素敵だって、聞いたんですけど?」 あっという間に千夜子をとり囲んでの質問攻めとなった。 「そこまで! 困ってみえるだろうが。失礼しました、中へどうぞ」と、竹田がめずらしく声を荒げた。 「じゃ、ひとつだけお答えしますわ。とっても素敵な方ですよ、みなさん。お会いになられたら、きっとため息をつかれますわよ」 一斉に、拍手がわきおこった。 「こら! なにを騒いでるんだ!」と、奥の倉庫から武蔵が顔をだした。 「社長! ほら、美容室の方ですよ」 「ああ、これはこれは。それじゃ、俺の部屋でお待ちしてもらえ。ああ、もう五時になってるじゃないか。すみませんな、すこし押してしまいまして」 ワイシャツをたくし上げて、手を汚している。竹田とともに在庫商品の確認作業をしていた。 「お忙しいようでしたら、また日を改めまして」 若者たちの熱気に押され、またしても気後れしてしまった。 「いやいや、とんでもないです。もう終わります。これで今日の仕事はうち止めですから」 おいおい。どんなおばさんかと思っていたら、中々のものじゃないか。俺の直感があたったな。こんな艶っぽい女を帰すなんて、とんでもない=B武蔵のわるい癖がでた。 通された二階の社長室。グルリと壁を見まわすが、じつに殺風景だ。部屋の広さに似合わぬ、小ぶりの机が窓を背にして正面にある。そして書類棚がひとつに、帽子掛けがあるだけだ。 壁にしても、なんの変哲もない富士山の絵が一枚飾ってあるだけだ。 「味けない部屋ねえ」。千夜子がポツリと洩らしたことばに「なにもない部屋でしょう? 言われるんですよ、もうすこし気の利いた絵でも飾ったらどうだ、と。ま、好みからいうと、裸婦あたりですかな。ドガの踊り子も、良いですかなあ」と、追いついた武蔵がこたえた。 「ドガの踊り子といいますと、バレエかなんかの。らふというと? ああ、ベッドに横たわっている……。まあ、ご趣味がご高尚ですこと」 突然に声をかけられても動ずることなく、千夜子は受けこたえする。 「いやあ、まったくもって、面目ないです。こちらがお伺いしなくちゃいかんのに、ご足労いただきまして。どうですか、このあとなにかご予定はおありですか? よろしかったら、うまい鮨でもつまみせんか?」 俺としちゃ、あんたをつまみたい心境だがね。小夜子には若い者を担当させるなんて言ったけれども、とんでもない、俺が担当だ。さあ、食い付いてくれよ。ここは変にもったいぶらずに、素直にだ 「まあ、お鮨ですか? 嬉しいですわ、大好物なんです。もう、予定がありましてもお受けしますわ。でも、お宜しいんですか。奥さま、おひとりじゃございませんか?」 「いや、大丈夫です。付き添いをたのんでおります。小夜子が信頼をよせてる女がいましてね。小夜子を見初めた所の、梅子という女なんですが」 いかん、いかん。どうして梅子のことまで言うんだ、俺は。どうもこの女には、隠し事をしたくないと思ってしまう。素の俺を見せたくなってしまう 気になるタイプの女性には、飾らぬ素な自分をさらけ出すことが武蔵のくせだった。ひとつ嘘をついてしまうと次からつぎに嘘がかさなり、結局はつじつまの合わぬことになる。それが持論の武蔵だった。が、こと商売に関しては嘘八百どころか千でも二千でも吐ける。そしてみごとにつじつまを合わせられる武蔵でもある。 「それでは、お供させていただきます」 甘ちゃんなのかしら? 聞きもしないことまで、ベラベラと。お坊ちゃん? 二代目なのかしらねえ。どうりで常識にかけるところがあったのね 組みやすしとほくそ笑む千夜子だった。やわらかい物腰のなかにも、凛とした風情を感じさせる。たかが美容室とはいえ、店一軒をかまえる身だ。銀座のクラブママに通じるものを漂わせていた。 「それでは、出かけますか。帰りが遅くなると、ご主人に叱られそうだ」 「あたくし、戦争未亡人ですの。母ひとり娘ひとりですから、お気遣いなく」 真っ赤な嘘だった。母子家庭であることは事実なのだが、夫はいない。むろん戦争未亡人でもない。父親は、どこかの地でまだ生きているはずだ。故郷で恋愛感情をいだいていたわけでもない男の子どもを身ごもっただけのことだ。 「ご主人は、どちらで?」 「はい、ニューギニアだと聞いております」 「そうですか、南方は大変でした」 「社長さまも、南方の方でいらっしゃいますか?」 「いや、内地で終戦をむかえました」 やっぱり、お坊ちゃんね。父親のつてで、内地だったのね=Bなさけない男、と蔑む思いが浮かんだが、ぐっと押さえこんで笑顔をかえした。 (百六十六) 「へい、いらっしゃいぃ!」 「いらっしゃいませ。まあ、やっとお出でいただけましたですね。首をなが〜くしてお待ちしておりました」 威勢の良い声がかかるなか、鼻にかかった艶っぽい声もかかった。 「そうしょっちゅうは、来れんさ。こんな高級鮨店には」 「あらまあ。富士商会の社長さまともあろうお方が、そんな情けないことを。あの可愛いおく、」 千夜子の姿に気づいた女将、次のことばを呑みこんだ。 「おいおい、変な気をまわすなよ。このお方は、小夜子の恩人だ」 「あら、そうでしたの。それは失礼致しました。えっ? 恩人とおっしゃると、もしかしてこの方が梅子さんですの?」 おもわず素っ頓狂な声になってしまった。 「違う、ちがう。あいつはがさつな女だよ。ガハハハと、のどちんこを見せて笑うような、な。この店には似つかわしくないよ」 梅子を思い浮かべながら、そいつがこの店に来たら、案外にも上品な有閑マダムに変身するかもな=Bすこしにやけた顔になった。 「あらあら。そのお顔からすると、あたしどもには会わせられないような美人でございますね。ひょっとして、うちの大将好みとか」 武蔵と話をしつつも、しっかりと千夜子の値踏みをする女将だった。 眉をへの字にした大将が、いつもの仏頂面で握っている。そのとなりの弟子職人はニコニコと愛想のいい笑顔をみせながら、かるく武蔵に会釈をした。武蔵が足を踏みいれたときから、カウンター席の若い女が、じっと敵意を感じさせる視線を千夜子とそして武蔵に向けている。その若い女に、初老の男性がひと言ふた言声をかけた。たしなめていることは、若い女が「ごめんなさい」と謝ったことばから、すぐに分かった。たぶん千夜子への視線を注意したのだろう、そのあとは武蔵から視線がはずれた。 「どうもどうも、お元気ですか」 老紳士に武蔵が声をかけると、席を立ち上がって「おかげさまでね」と声を返した。 連れの若い女にたいして、「先日は失礼しましたね」と声をかけると「ほんと、失礼でしたわ」と、強めにかえされた。品の良さを感じさせる顔立ちで、目元が涼しげだ。いまはその目が笑っている。ひと月ほど前に得意先の接待で立ちよったときに、顔見知りの老紳士とこの若い女と出会った。 二十代前半と見てとった武蔵が、「お盛んですなあ」と声をかけたことが女の耳にはいり、「娘です、わたし」と憮然とした表情でこたえた。 「後妻の連れ子でしてな、嘉代子といいます」。老紳士がにこやかに付け加えた。 「そりゃ失礼しました」と、あわてて帽子をとってあやまった。 「御手洗さん、世の男みんなが助平とはかぎりませんぞ。わたしも含めてですが」と、武蔵の相手が笑う。 「河野さん、そりゃないでしょう。自分だけ良い子にならんでください」。武蔵がそういった所で大笑いとなった。しかし嘉代子だけは、まだ表情が固い。 「お嬢さん。お詫びのしるしに、これを進呈しましょう。まだ日本では販売されていないはずですよ」と、五平から「河野さんの娘さんにでも」と渡されたチョコレートを手渡した。 「そんなつもりじゃ」と言いながらも、手に乗せられたそれを返す素振りはみせなかった。 「いただいておきなさい」。老紳士のことばにパッと顔をかがやかせて、「ありがとうございます。次もまちがえてくださいね。そしてまたチョコを」と言った。 「これこれ、調子に乗るんじゃない」。「わかりました、そうしましょう」。武蔵と老紳士のことばがかぶさり、店内に大爆笑がおきた。 「しまった、嘉代子ちゃん。きょうはなにも持ってきてないよ」と武蔵が言うと、「それじゃお食事にでも連れていってください。お父さんはお寿司とか魚料理とかばっかりなんです。あたし、お肉が好きなんですよ」と返してくる。 「そうか。それじゃあ、ステーキでもご馳走しようか。その前にお父さんの許可をもらわなくちや。それじゃ、そういうことで」と話を切り上げた武蔵が、「なんだ、おい、大将。ネタが少ないじゃないか。それともどこかに隠してるのか?」と、ネタケースを覗きこみながら、不満の声をあげた。 「今夜はとびきりの刺身でもと思ってきたんだぜ。俺に恥をかかせるなよ」 「すいやせんねえ、社長。でもねえ、御の字でさあ、これで。よその店を見てみなせえって、哀れなもんですぜ。上物はどっかに流れちまいますんでねえ」 噂には聞いていたが、ここ築地まで高級品買いあさりが及んでいるとは思いもよらぬ武蔵だった。 「上流社会ってのが、まだ存在してやがんのか! 分かった。手を回すようにするよ。それじゃ、二階に上がらせてもらうよ」 「へい、どうぞどうぞ」。案内しようとする女将を制して、千夜子を連れて武蔵が進んだ。二階には余ほどの上客でなければ上がれない雰囲気が、千夜子にはすぐに分かった。 (百六十七) 六畳ほどの部屋にはいった千夜子は、「ご常連なんですね、社長さまは」とすこし鼻にかかった声を出した。千夜子の思う以上に富士商会という会社の格が高いことを、認識させられた。 「接待にね、けっこう使っているんですよ。まあ、なんと言いますか。こけおどしのようなもんですよ。こういう店ですとね、富士商会を、一流会社として見てもらえるんですわ」 左手はとなりの部屋との境となる襖であり、右手は障子付きの二重窓だった。 「失礼致します」。静かにふすまが開き、女将が酒をはこんできた。 「いらっしゃいませ、御手洗社長さま。とりあえずご酒をお持ちいたしました」 「おう」。千夜子にたいする見栄がはたらいている武蔵が、女将に横柄にこたえた。普段の武蔵はこんなおうへいなことばづかいはしない。社長さまもやっぱり人の子、世の男性とお変わりないわ=B女将の表情がふっと緩んだ。 「お料理の方は大将お任せ、ということでお宜しいでしょうか」 「あ、わたくしが」。女将が差し出す徳利を、千夜子が受け取った。 「さ、どうぞ。さすがに丁度およろしい燗ぐあいでございますわ」 「ごゆっくりどうぞ」。下がりかけた女将に、武蔵が声をかけた。 「ああ、かまわんよ。美味いものを食べさせてくれ。大事なお客さんだから、よろしく頼む。小夜子の命の恩人だ」 「かしこまりました。そのように申し伝えます」 小夜子さんの恩人ねえ。でももうひとつの魂胆が見えみえですよ=B笑いをこらえきれなくなる女将だったが、顔を畳にこすりつけて、なんとかその顔を見せずに済んだ。 「それから、内密の話があるから、呼ぶまで来ないように」と、襖に手をかけた女将にさらに告げた。 「松尾さんでしたか、よろしければ下の名前を教えていただけませんか。ぼくはですね、女性にたいしては、苗字ではなく名前で呼ばせてもらっているんですよ」 「そうでございますの? 失礼いたしました。千夜子と申します。千夜一夜の千夜子でございます。親がそんな物語りを意識してのことかは分かりませんが」 「そうですか、千夜一夜物語りからですか。それは艶っぽい奥さんにはピッタリですな」 王妃の不貞から女性不信におちいった王のこころを、夜ごとに物語りを語り聞かせることで慰めたシェラザードが、千夜子にかぶって見える武蔵だった。 「社長さま、まちがっておりましたらごめんなさい。このお店に、なにか便宜をおはかりで?」 「どうしてそう思われます?」 「はい。大将のおことばが、他の方へとはすこし違うように聞こえましたので。下賎な言い方をしますれば、下手に出られているような」 「ほう。鋭いですな、さすがに。細かいところに気が回っておられる。千夜子さんは、客商売が天職のようだ。じつは、ちょっとね」 「天職だなんて、ありがとうございます、なによりのお褒めことばですわ」 千夜子の酌を受けながら、酒がすすむ武蔵だ。 「ひょっとして、お魚などを……。やはり、GHQがらみの伝でございますの?」 「まあ、そういうことです。やっこさんたちも美味いものを食べたがりますからね」 「左様でございましょうねえ」 「さてと。千夜子さんもいける口でしょうな」と、すすめた。 漆喰塗りの壁に、富士山の絵がかかっている。なんの変哲もない、富士商会での社長室で見た絵に似ている気がする。 「殺風景な部屋だとお思いでしょうな。ぼくの提案なんですがね」 怪訝そうな顔つきをみせる千夜子にたいして、小声で「じつはですな」と千夜子の耳元に顔をよせた。 「富士の御山の絵を飾っていますとね、やっこさんたちが『HOKUSAI,HOKUSAI!』と大騒ぎするんです。彼らには、富士の御山を描く絵師は、葛飾北斎だけなんですよ。ケバケバしい飾りなんぞ、辟易しているんですな。『WABI,SABI!』だと大喜びします」 小声で話すようなことでもないのだが、親密感を感じさせるがための、武蔵の常套手段だった。そして「もっとも、ここで終わるはずもない。このあとに大人のお遊びが待ってるんですがね」と、さらに小声でつづけた。そして「いやいや、それはぼくの仕事じゃない。千夜子さんもご存じでしょう、専務の加藤にまかせています」と、ぼくは聖人君子ですとばかりに手を振った。 「まあ本音を言いますとね、むさ苦しい男たちとこの部屋ではねえ」と、大きく笑い声を上げた。 武蔵が千夜子のそばから離れたとたんに、「社長さま、千夜子と呼びすてにしてくだ さいましな。社長さまには、そう呼んでいただきたいですわ」と、武蔵の目にいどんだ。この女、誘ってるのか? 呼び捨てにしろとは。しかも、千夜一夜なんぞを持ち出して。しかし色香たっぷりの女だ、久しくお目にかかってない=B狐と狸の化かしあいは、武蔵も嫌いではない。たがいの腹のうちを探りさぐりの会話は愉しいとおもう武蔵でもある。 小夜子との会話ではそれが成りた立たない。なにごともストレートに受けとめてしまう小夜子には、駆け引きがまるで通じない。しかしそれがまた、日々の化かしあい、駆け引きの世界に過ごす武蔵には新鮮でたまらない。 (百六十八) 突然に居住まいを正して、千夜子が座布団からおりた。そしてなににも増して、お辞儀したときの襟足が悩ましい。 「社長さま。本日はお忙しいところを、ありがとうございます。さらには、このような過分なもてなしまでいただきまして」 「とんでもない! こちらこそ、ご迷惑をかけました。本来なら、こちらからお礼の連絡をせねばならんのですから。まったくお恥ずかしいことで」 「それにしましても、お可愛らしい奥さまで。でも驚きましたわ、たかがモデルごときにあれ程入れこまれるとは。あっ、失礼しました。ことばが過ぎました」 「いやいや、良いんですよ。まだ、ネンネですから。なりは大人ですが、まだ夢見る少女でして。あのモデルと世界を旅するなどと、夢物語りを」 「羨しいですわ、それは。あたくしなんか、日々の暮らしに追われてます」 武蔵の盃がからになると、すぐに千夜子の手がのびる。勢い武蔵の酔いも早まりそうだ。おっ、来たな。大丈夫! あんたは信用できる。出してやるよ、たっぷりと。別の物も出させてくれると嬉しいんだが=B鼻の下が伸びてはいないかと、ちと気になる武蔵だ。 「じつはご相談と申しますのは、奥さまがお使いになってらっしゃるシャンプーの件でございます。お恥ずかしい話ですが、あたくしどもの店では手に入らないような商品のようでございまして。ですのでなんとか、あたくしにお分けいただけないものかと、思いまして」 武蔵の目をしっかりと見すえて千夜子が話した。 「はあ? シャンプー、ですか? ハハハ、こりゃ失礼。思いもよらぬことでしたので」 拍子ぬけしてしまう武蔵だ。思いもよらぬ話に、つい腹をかかえて笑ってしまった。 「髪は、女の命でございます。美しい髪は、女性たちの永遠の願いなのでございます」 真剣な眼差しで千夜子が武蔵にせまった。 「そんなものですか? 男のぼくには、分からんことですなあ」 こいつは驚いた、金の無心じゃないのか。参ったぞ、こりゃ。当てがはずれたな=B電話だけとはいえ、武蔵が相手の目論みをはずすなどついぞないことだ。海千山千かそれとも単なる人の好い人物なのか、まだ図りかねる武蔵ではあった。 「最近、お恥ずかしい話でございますが、同業者が増えてまいりまして。なにか特色を出さないことには、じり貧でございます。パーマネントの機械を入れてはおりますが、これとて他でも……」 千夜子の切実な声に、武蔵も無節操な考えを捨てた。 「なるほど。厳しさは、どちらも同じですな」。盃を置いて、酒をすすめる千夜子に手をふった。 「はい。そんなおりに、奥さまの素晴らしいおぐしに出会いまして。で、お使いのシャンプーをお聞きしたようなわけでして」 打って変わって、武蔵が射るような視線を浴びせる。千夜子もたじろぐことなく、視線を返す。 「分かりました、お譲りしますよ。どうです? いっそ、共同購入を他の店に持ちかけられては。千夜子さんには、口銭として売り上げの三分、いや五分差し上げましょう。いかがです?」 どうだい、豪気だろうが。通常、三分のところを五分だとしたんだ。あの熱海の女将には、三分だからな。飛びついてくるか? 探るように千夜この目を凝視する武蔵だが、「ありがたいお申し出でございますが、あたくしの店だけというわけには? もちろんある程度の量は、引き取らせていただきます。と言いますのも、他のお店とはちがうという特色ある店にしたいのでございます。三、いえ二年で結構でございます。まずあたくしの店で評判を取りまして、その後ということでは? その方が、結局は社長さまにもおよろしいかと思いますが」と、千夜子が返してきた。意外な返答に、武蔵も感心せざるを得ない。目先の利益にくらむことなく、将来を見据える術を持っている千夜子と思えた。 これは意外に女傑だ。色恋ぬきでも、付き合いたい女だ。熱海の光子ならば、共同購入に飛びつくだろうに。独占しようなどとは考えないだろう。そうか、それが老舗旅館としてのプライドということか 「なるほど、なるほど。そうですな、そうしますか。いや、共同購入のおりには、月に一度でもお会いできるかと、すこし期待したものですから」 やはり未練ののこる武蔵ではあった。生来の浮気癖は、小夜子をめとるからとて消えるものではない。 「あらあら。こちらこそ、お願いいたしたいことです」 満面に笑みをたたえて、千夜子が言う。 商売抜きでの付き合いが、できそうな男だわ。奥さまには悪いけど、あたしにも、ね そうか、やっぱりこの女もその気だったか。それにしても、商才がある。女にしておくのは、勿体ない。いや、女だからこその商売があるかもしれん。会社の女たちのなかにも、案外いるのかもな。明日にでも、話してみるか 「どうなさいました? ご迷惑ですか、月一度というのは」 「いやいや、これは失礼。千夜子さんの商売熱心に感服しまして。つい、見とれてしまいました」 「まあ、お上手ですこと。ほんとに遊び慣れてらっしゃること」 「そろそろ、鮨をつまみますか?」 パンパンと手を叩き、階下から呼び寄せた。 「ありがとうございます。社長さまには、あたくしもつまんでいただこうかしら」。妖艶に誘いかける千夜子に、武蔵は背にゾクッときた。 「いや、それは大好物です」。すぐにも飛びかかりたいところだが、トントントンと階段をあがってくる音がした。 静かにふすまが開き女将が顔を出した。 「今夜は鮨にするよ。それから、一人前、それぞれに用意してくれ。娘さんがおられるようだから。それにしても、良い取引ができた」 |