(百六十五)

 一週間ガマンした千夜子だった。翌日にもなんらかの連絡がはいるものと思っていた千夜子だった。でそのおりの受け答えを、一言一句まちがえてはならぬとメモ書きしていた。それが、二日、三日と経ってもなお連絡がはいらない。よほどにひどい状態なのかと気を揉むが、入院したならしたで、その旨の連絡があるはずと思った。案外に世間知らずな非常識人間なのかと恨みたくなる。GHQとの繋がりがあると言っていたが、ひょっとして裏社会? とも思えてきた。そうなるとおいそれと話をするわけにはいかないかも? と不安な思いが募る。しかし、それならそれでいいじゃないの、とも思う。
 結局、意を決して電話をかけた。会社に連絡をとり、不在だと聞くと「ぶしつけですが」と、自宅にかけ直した。非常識だと思いつつも、背に腹は代えられない。じり貧の店を立てなおす切り札になるのだと、勢いこんだ。
「奥さまの具合はいかがでごさいますか? 気になっておりまして」。普段はどちらかと言えば甲高い声で話す千夜子だが、いかにも心配げに声のトーンを落として話した。
「いやあ、これは申し訳ないことでした。お礼にも伺っておりませんで。お陰さまで、随分と落ち着いてきました。いま、台所にいるんです。呼びますか?」
 たかが個人経営の美容院だと考え、その内にといちとにち延ばしにしていた。どうせ婆さんだろうという思い込みもあった。それにしても相手から電話がはいるとはお礼の催促かよ≠ニ、うんざりのきもちを抱きながら電話を受けた。
「いえいえ、そんなことは宜しいんです。そうですか、ご快方に向かわれてみえますか。そりゃ、良うございました。店でのご様子がただ事ではありませんでしたので、ちょっと気になりまして。あたくしどもの使っているパーマ液が原因ではないかと心配にもなりましたし」
「そんなことはありません。モデルに肩入れしていたものですから、ショックが大きかったようでして。本当にありがとうございました。適切な処置ですと、医者も言っておりました。小夜子は加藤という人物に、良い感情を持っておりませんので。あ、いやいや。専務の加藤ではないんです。同姓の者がおりまして……」
なにを話すんだ、俺は。余計なことじゃないか≠ニ、苦笑してしまった。しかし千夜子の声に、あんがいに艶っぽい声じゃないか≠ニ、武蔵の琴線に響くものを感じた。
「じつは…。折りいってご相談がございまして」
自宅にまでかけてくるとは。この女、余程にしたたかだな。金の無心か? まずいことをした、そこまで気がまわらなかった。五平にしても珍しいことだな。あいつもそれだけ慌てたということか
「じつは、奥さまから良いお話を伺いまして、その件でお話しさせていただきたく思いまして。非常識だと言うことは、重々承知しております。ですが、どうしても社長さまにおすがりしたく…」。相手の切羽つまっている様が、手に取るように分かる口ぶりだった。

(百六十六)

「どんなことでしょう?」
「明日、お会いできませんでしょうか?」
 とつぜんに、すがるように両手を合わせる様が武蔵の脳裏に浮かぶ。
「明日ですか? うーん、そうですなあ……」
「申し訳ありません、無理なお願いをいたしまして。まだ日にちも経っていないというのに、ご無理を申しました」
 千夜子の溜め息に、艶を感じた。どうにも気になる声だと、浮気の虫が騒ぎ出した。そろそろ銀座にでも足を伸ばすか、と考えていた矢先のことだ。
「待ってください、そうですなあ。明日というわけにはいきませんが、なにやらお急ぎのようだ。二、三日後ということなら。こちらから連絡しますよ。小夜子の状態も良くなっていることですし」
 そして翌日、明日の夕方で良ければと、連絡をいれた。
「かしこまりました。五時過ぎでございますね。ご無理を申しまして、本当に申し訳ありません。その時間に会社の方へお伺いさせていただきます」
 当日、臨時休業の札を出してなんとしても、話を決めなきゃ。ここが勝負どころよ、別れ道なのよ≠ニ、気合を入れまくる。最新モードに身をつつみ、派手めの化粧で気合い充分だ。
 日本橋……。東京駅を降りて、高島屋そして三越本店と歩き、やっと日本橋本町まで歩き着いた。それらの大きな建物に気後れしつつも、この取引がうまくいったら、百貨店でのお買い物もできるのよ≠ニ、おのれを奮い立たせた。
なんとしても取り引きに応じてもらわなきゃ≠ニ思いはするものの、立派なビルねえ。ええい! 千夜子、気後れしてどうするの。頑張れ!≠ニ、ひるむ心に気合を入れ直した。
 忙しなく動き回っているひとりに声をかけた。
「すみません。社長さんは、お見えでしょうか?」
 しかし「はあ? すみません、小売りはしてませんので。卸し専門なんですよ、富士商会は」と、にべもない。
「いえ、そうじゃないんです。お約束をしてあるんです」
「約束って、社長にですか?」
 うさん臭げに、じろじろと見る。どう見ても、水商売関係に見えてしまう。店先で押し問答をつづけるふたりに気づいた事務方の京子が飛んできた。
「ちょっと、だめでしょ! 店先で」
「いえ、この人が……」
「社長さんとお約束している、松尾千夜子という者ですが」
「お約束、ですか? 松尾さまですね」
 どうも話が通じていないようだ。困ったことになったと思っている千夜子に、救いの神があらわれた。奥の倉庫からもどった竹田が「ひょっとして、美容室の方ですか?」と、声をかけた。
「はい、そうです」。やっと話の通じる人間がきたと小おどりしたくなる千夜子だった。と、そのひと言に、聞き耳を立てていた者たちから、どっと歓声が上がった。

(百六十七)

「小夜子奥さまって美人ですか?」。「お姫さまみたいだって聞いているんですけど」。「背丈はどれ位ですか?」。「笑顔が素敵だって、聞いたんですけど?」。あっという間に千夜子を取り囲んでの質問攻めとなった。
「いい加減にしろ! 困ってみえるだろうが。失礼しました、中へどうぞ」と、竹田につづいて倉庫から出てきた中山が一喝した。
「じゃ、ひとつだけお答えしますわ。とっても素敵な方ですよ、みなさん。お会いになられたら、きっとため息をつかれますわよ」
 一斉に、拍手が沸き起こった。
「こら! なにを騒いでるんだ!」と、二階から武蔵が顔をだした。
「社長! ほら、美容室の方ですよ」
「ああ、これはこれは。うーんと、俺の部屋でお待ちしてもらえ。ああ、もう五時になってるじゃないか。すみませんな、すこし押してしまいまして」
「お忙しいようでしたら、また日を改めまして」
 若者たちの熱気に押され、またしても気後れしてしまった。
「いやいや、とんでもないです。このお客できょうの仕事は打ち止めですから」
おいおい。どんなおばさんかと思っていたら、中々のものじゃないか。俺の直感が当たったな。こんな艶美人を帰すなんて、とんでもない=B武蔵の悪い癖がでた。
 通された二階の社長室でグルリと壁を見まわすが、じつに殺風景だ。部屋の広さに似合わぬ、どっしりとした机が正面にある。そして書類棚がひとつに、帽子掛けがあるだけだ。 壁にしても、絵画のひとつも掛かっていない。銀行名のはいった日めくりの暦があるだけだ。
「味気ない部屋ねえ」
 千夜子がポツリと洩らしたことばに「なにもない部屋でしょう? 言われるんですよ、絵ぐらいかざ飾ったらどうだ、と。ま、好みから言うと、裸婦あたりですかな。ドガの踊り子も、良いかなあ」
「らふですか? ドガの踊り子と言いますと。ああ、ベッドに横たわっている…。まあ、ご趣味がご高尚ですこと」
 とつぜんに声をかけられても動ずることなく、千夜子は受け答えする。
「いやあ、まったくもって、面目ないです。こちらがお伺いしなくちゃいかんのに、ご足労いただきまして。こんな殺風景な部屋では…。どうですか、このあと何かご予定はおありですか? よろしかったら、うまい鮨でもつまみせんか?」
俺としちゃ、あんたをつまみたい心境だがね。小夜子には若い者を担当させるなんて言ったけれども、とんでもない、俺が担当だ。さあ、食いついてくれよ。ここは変に勿体ぶらずに、素直にだ
「まあ、お鮨ですか? 嬉しいですわ、大好物なんです。もう、予定がありましてもお受けしますわ。でも、お宜しいんですか。奥さま、おひとりじゃございませんか?」
「いや、大丈夫です。付きそいを頼んでおります。小夜子が信頼を寄せてる女がいましてね。小夜子を見初めた所の、梅子という女なんですが」
いかん、いかん。どうして梅子のことまで言うんだ、俺は。どうもこの女には、隠し事をしたくないと思ってしまう。素の俺を見せたくなってしまう
「それでは、お供させていただきます」
甘ちゃんなのかしら? 聞きもしないことまで、ベラベラと。お坊ちゃん? 二代目なのかしらねえ。どうりで常識にかけるところがあったのね=B組み易しとほくそ笑む千夜子だ。柔らかい物腰のなかにも、凛とした風情がある。銀座のクラブママに通じるものを漂わせている。
「それでは、出かけましょうか。お帰りがおそくなると、ご主人に叱られそうだ」
「あたくし、戦争未亡人ですの。母ひとり娘ひとりですから、お気遣いなく」
 狸と狐の、腹のさぐりあいがつづく。どちらもあわよくば、と考えているが、その目的はまるでちがうのだが。
「ご主人は、どちらで?」。まずは、ジャブだとばかりに武蔵がくりだす。
「はい、ニューギニアだと聞いております」。ここは素直に受ける千夜子だった。
「そうですか、南方は大変でしたな」。変則パンチを繰り出そうかとも考えたが、ここで時間を使うわけにはいかぬとフットワークで前に一歩をすすめた。
「社長さまも、南方の方でいらっしゃいますか?」。千夜子は、あくまで正攻法に受け止めた。
「いや、内地で終戦を迎えました」。やっぱり、お坊ちゃんね。父親の伝で、内地だったのね=B抑えがたい憤怒の思いにとらわれたが、ぐっと押さえ込んだ。

(百六十八)

「じつはご相談と申しますのは、奥さまがお使いになってらっしゃるシャンプーの件でございます。お恥ずかしい話ですが、あたくしどもの店では手に入らないような商品のようでございまして。ですのでなんとか、あたくしにお分け頂けないものかと、思いまして」
「はあ? シャンプー、ですか? ハハハ、こりゃ失礼。思いもよらぬことでしたので」
 拍子抜けしてしまう武蔵だ。思いもよらぬ話に、つい腹をかかえて笑ってしまった。笑われてもいい、とにかくこの話はなんとしても決めなくちゃ=B改めて気持ちをひきしめる千夜子だった。
「髪は、女の命でございます。美しい髪は、永遠のねがいなのでございます」
 真剣な眼差しで武蔵にせまる、千夜子だ。
「そんなものですか? 男のぼくには、分からんことですなあ」
こいつは驚いた、金の無心じゃないのか。参ったぞ、こりゃ。当てが外れたな
「お恥ずかしい話でございますが、同業者が増えてまいりまして。なにか特色を出さないことには、じり貧でございます。パーマネントの機械を入れてはおりますが、これとて他でも」
「なるほど。厳しさは、どちらも同じですな」
 千夜子の切実な声に、武蔵もそうそう無節操なことはできんなと考えをかえた。どこか近場の鮨屋ででもと考えていたが、「築地だ」とタクシーに告げた。
「はい。そんな折りに、奥さまの素晴らしいおぐしに出会いまして。で、お使いのシャンプーをお聞きしたようなわけでして」
 打って変わって、武蔵が射るような視線をあびせてくる。しかし千夜子もたじろぐことなく、視線をかえす。
「分かりました、お譲りしますよ。どうです? いっそ、共同購入を他の店に持ちかけられては。千夜子さんには、口銭として売り上げの三分、いや五分差し上げましょう。いかがです?」
どうだい、豪気だろうが。通常、三分のところを五分だとしたんだ。あの熱海の女将には、三分だからな。飛びついてくるか?
「有りがたいお申し出でございますが、あたくしの店だけというわけには? もちろんある程度の量は、引き取らせていただきます。と言いますのも、他のお店とちがう面を持ちたいものですから。三、いえ二年で結構でございます。まずあたくしの店で評判をとりまして、その後ということでは? その方が、結局は社長さまにもおよろしいかと思いますが」
 意外な返事に、武蔵も感心せざるを得ない。目先の利益にくらむことなく、将来を見据える術を持っている千夜子だと思えた。
これは意外に女傑だ。色恋ぬきでも、付きあいたい女だ
「なるほど、なるほど。そうですな、そうしますか。いや、共同購入のおりには、月に一度でもお会いできるかと、すこし期待したものですから」
 やはり未練の残る武蔵ではあった。生来の浮気癖は、小夜子を娶るからとて消えるものではない。
「あらあら。こちらこそ、おねがい致したいことです」。満面に笑みをたたえて、千夜子が言う。
商売ぬきでの付きあいが、できそうな男だわ。奥さまには悪いけど、あたしにも、ね
そうか、やっぱりこの女もその気だったか。それにしても、商才がある。女にしておくのは、勿体ない。いや、女だからこその商売があるかもしれん。会社の女たちのなかにも、あんがい案外いるのかもな。明日にでも、話してみるか
 十分ほどで着くはずが、夕方ともなれば車の渋滞も始まってくる。隅田川にかかる勝どき橋――英国や独国の技術にたよることなく、日本独自の設計施工で完成させた可動橋――には相当な車がたまっている。運転手の機転で早めに大通りから裏道へと入りこんだ。普段のルートを変えられたことで、疑問に思った武蔵の口が止まった。
「どうなさいました? ご迷惑ですか、月にいちどと言うのは」
「いやいや、これは失礼。千夜子さんの商売熱心に感服しまして。つい、見とれてしまいました」。運転手の意図に気づいた武蔵が、また千夜子との会話に戻ってきた。
「まあ、お上手ですこと。ほんとに遊び慣れてらっしゃること」

(百六十九)

「へい、いらっしゃいぃ!」
「いらっしゃいませ。まあ、やっとお出でいただけましたですね。首を長〜くしてお待ちしておりました」
 威勢の良い声がかかる中、鼻にかかった艶っぽい声があった。
「そうしょっちゅうは、来れんさ。こんな高級鮨店には」
「あらまあ。富士商会の社長さまともあろうお方が、そんな情けないことを。あの可愛い奥、」
 千夜子の姿に気づいた女将、次のことばを呑み込んだ。
「おいおい、変な気をまわすなよ。このお方は、小夜子の恩人だ」
「あら、そうでしたの。それは失礼いたしました」
 眉をへの字にした大将が、いつもの仏頂面で握っている。そのとなりの職人はニコニコと愛想のいい笑顔をみせながら、かるく武蔵に会釈をした。
 武蔵が足を踏みいれたときから、カウンター席の若いおんなが値踏みするような視線を投げかけている。その若いおんなに、初老の男性がひと言ふたこと声をかけた。窘めていることは、若い女が「すみません」と謝ったことばから、すぐに分かった。それでもチラリチラリと視線を向けてくる。
「どうもどうも、お元気ですか」。老紳士に武蔵が声をかけると、席を立ちあがって「おかげさまでね」と声をかえしてきた。ふたりして奥の方にすすむと、小声での話がつづいた。
「それじゃ、そういうことで」と話を切りあげた武蔵が、
「なんだ、おい、大将。ネタが少ないじゃないか。それともどこかに隠してるのか?」と、ネタケースを覗きこみながら、不満の声をあげた。
「今夜はとびきりの刺身でもと思ってきたんだぜ。俺に恥をかかせるなよ」
「すいやせんねえ、社長。でもねえ、御の字でさあ、これで。他所の店を見てみなせえって、哀れなもんですぜ」
「構うもんか、そんなこと。遠慮しないで言ってくれよ。それじゃ、二階にあがらせてもらうよ」
「へい、どうぞどうぞ」
 案内しようとする女将を制して、奥へと千夜子をつれて武蔵がすすんだ。二階にはふた部屋があるが、余ほどの上客でなければ上がれない雰囲気が、千夜子にはすぐに分かった。
 六畳ほどの部屋にはいった千夜子は、「ご常連なんですね、社長さまは」とすこし鼻にかかった声を出した。千夜子の思う以上に富士商会という会社の格が高いことを、認識させられた。
「うん。まあ、なんと言いますか。こけおどしのようなもんですよ。こういう店ですとね、富士商会を、一流会社として見てもらえるんですわ」
 左手はとなりの部屋との境となる襖であり、右手は障子つきの二重窓だった。
「この窓から隅田川の花火が見えるんです、そりゃあ豪勢なものです。ドーンという音がして、ヒュルヒュルという音がつづきます。龍が天に昇るがごとくに花火が夜空に駆けあがるところは、なかなかのものです」

(百七十)

「失礼致します」
 しずかに襖が開き、女将が酒をはこんできた。
「いらっしゃいませ、御手洗社長さま。とりあえずご酒をお持ちいたしました」
「おう」。千夜子にたいする見栄のある武蔵が、女将に横柄にこたえた。ふだんの武蔵はこんな横柄なことば遣いはしない。やはり人の子、世の男性とお変わりないわ=B女将の表情かふっと緩んだ。
「大将おまかせ、ということでお宜しいでしょうか」
女将が差しだす徳利を「あ、わたくしが」と、千夜子が受けとった。
「さ、どうぞ。さすがに丁度お宜しい燗具合でございますわ」
「ごゆっくりどうぞ」。下がりかけた女将に、武蔵が声をかけた。
「ああ、かまわんよ。美味いものを食べさせてくれ。大事なお客さんだから、よろしく頼む。小夜子の命の恩人だ」。再度恩人だと口にした。言外に、愛人ではないぞと、念を押した形だ。
「かしこまりました。そのように申し伝えます」
小夜子さんの恩人ねえ。でももうひとつの魂胆が見えみえですよ=B笑いをこらえきれなくなる女将だったが、顔を畳にこすりつけて、なんとかその顔を見せずに済んだ。襖に手をかけた女将に、「それから、内密の話があるから、呼ぶまで来ないように」と、つけたした。
「松尾さんでしたか、よろしければ下の名前を教えていただけませんか。ぼくはですね、女性にたいしては、苗字ではなく名前で呼ばせてもらっているんですよ」
「そうでございますの? 失礼いたしました。千夜子と申します。千夜一夜の千夜子でございます。親がそんな物語りを意識してのことかは分かりませんが」
「そうですか、千夜一夜物語りからですか。それは艶っぽい奥さんにはピッタリですな」
 王妃の不貞から女性不信に陥った王のこころを、夜ごとに物語りをかたりきかせることで慰めたシェラザードが、千夜子にかぶって見える武蔵だった。
「社長さま、まちがっておりましたらごめんなさい。このお店に、なにか便宜をおはかりで?」
「どうしてそう思われます?」
「はい。ことば遣いが、他の方へとはちと違うように聞こえましたので。下賎な言い方をしますれば、下手にでられているような」
「ほう。鋭いですな、さすがに。細かいところに気がまわっておられる。松尾さんは、客商売が天職のようだ。じつは、ちょっとね」
「天職だなんて、ありがとうございます、なによりのお褒めことばですわ」
 千夜子の酌を受けながら、酒がすすむ武蔵だ。
「ひょっとして、お魚などを…? やはり、GHQがらみのツテでございますの?」
「まあ、そういうことです。奴さんたちも美味いものを食べたがりますからね」
「左様でございましょうねえ」
「さてと。それでは、千夜子さんも一杯」と、盃を渡した。
 なんの飾りもない壁に富士山の絵が掛かっている。もうすこしなにか飾りでもと思う千夜子にたいし、武蔵がことばをつづけた。
「殺風景な部屋だとお思いでしょうな。ぼくの提案なんですがね」
 怪訝そうな顔つきを見せる千夜子にたいして、小声で「じつはですな」と千夜子の耳元に顔をよせた。

(百七十一)

「GHQのお偉いさんがたなんですがね。富士のお山の絵をかざっていますとね、『HOKUSAI,HOKUSAI!』と大騒ぎするんです。彼らには、富士のお山をえがく絵師は、葛飾北斎だけなんですよ。ケバケバしい飾りなんぞ、へきえきしているんですな。『WABI,SABI』だと大喜びします」
 小声で話すようなことでもないのだが、親密感を感じさせるがための、武蔵の常套手段だった。そして「もっとも、ここで終わるはずもない。このあとに大人のお遊びが待ってるるんですがね」と、さらに小声でつづけた。そして「いやいや、それはぼくの仕事じゃない。千夜子さんもご存じでしょう、専務の加藤にまかせています」と、ぼくは聖人君子だとばかりに手をふった。
「まあ本音を言いますとね、むさ苦しい男たちとこの部屋ではねえ」と、大きく笑い声を上げた。 
 武蔵が千夜子の傍から離れたとたんに、「社長さま、千夜子と呼び捨てにしてくださいましな。社長さまには、そう呼んでいただきたいですわ」と、武蔵の目に挑んだ。
さあ、この粉かけが分かるかしら?
この女、誘ってるのか? 呼び捨てにしろとは。しかも、千夜一夜なんぞを持ち出して。親がなんて言ってるが、白々しいこった。しかし色香たっぷりの女だ、久しくお目にかかってない
 狐と狸の化かし合いは、武蔵も嫌いではない。たがいの腹の内を探りさぐりの会話を愉しむ性癖をもつ武蔵でもある。小夜子との会話ではそれが成り立たない。なにごともストレートに受けとめてしまう小夜子には、駆けひきがまるで通じない。しかしそれがまた、日々の化かしあい、駆けひきの世界に過ごす武蔵には新鮮でたまらない。
 とつぜんに居住まいを正して、千夜子が座布団からおりた。そしてなににも増して、お辞儀のおりの襟足がなやましい。
「社長さま。本日はお忙しいところを、ありがとうございます。さらには、このような過分なもてなしまでいただきまして」
「とんでもない! こちらこそ、ご迷惑をかけました。本来なら、こちらからお礼の連絡をせねばならんのですから。まったくお恥ずかしいことで」
「それにしましても、お可愛らしい奥さまで。でも驚きましたわ、たかがモデルごときにあれほど入れこまれるとは。あっ、失礼しました。ことばが過ぎまして」
 この場で小夜子を持ちだされるのは、武蔵にはきわめて不都合だ。千夜子の意図がはかりかねる武蔵だが、まだ夜は長いし、今夜がなにごともなく過ぎたとしても、まだ機会はあるさとほくそ笑む武蔵だ。
 千夜子にしてみれば、あの約束を反故にされてはならぬとばかりに、牽制球を投げつづけねばと考えていた。
「いやいや、良いんですよ。まだ、ネンネですから。なりは大人ですが、まだ夢見る少女でして。あのモデルと世界を旅するなどと、夢物語りを」
「羨しいですわ、それは。あたくしなんか、日々の暮らしに追われてます」
 武蔵の盃が空になると、すぐに千夜子の手がのびる。勢い武蔵の酔いも早まりそうだ。
おっ、来たな。大丈夫! あんたは信用できる。出してやるよ、たっぷりと。別の物も出させてくれると嬉しいんだが
 鼻の下が伸びてはいないかと、ちと気になる武蔵だ。