(百五十一)
武蔵の元に、百貨店からの手紙がとどいた。普段ならば気にもとめずに武蔵に渡すのだが、武蔵の名前とともに、小夜子さまと横書きしてある。わざわざ連名にしていることから、これは自分宛だと気づいて、すぐに開封した。
季節の挨拶とともに、来月にファッションショーを開くとあった。最上席を用意したので、ぜひにも小夜子に来てほしいとある。デザイナーとして、小夜子にとって運命の扉を開けてくれたマッケンジーの名があった。しかしモデルたちのなかにアナスターシアの名前がない。
〝タケゾーの仕業ね、まったくもう〟。眉間にしわを寄せつつも、悪い気はしない。差出人が外商部門・高井と、そして企画部門・坂田の名前がある。ピクリと小夜子の眉が動いた。横柄な態度で接しられた坂田、思いだしても腹が立つ。非常識だとののしられ、会場から追いだされかけた。もっともその口論でマッケンジーの目にとまったのだが。そしてアナスターシアとの、運命の出会いにつながった。その意味では恩人ともいえる。しかし小夜子の記憶から消し去りたいふたりの人物、五平ともうひとりが坂田だった。
明日の午後には、アメリカ将校のガーデンパーティに出席することになっている。いよいよデビューを迎えるとあって、緊張感が高まっている。武蔵の厳命で、着物姿での出席となっている。二十歳の祝いにあつらえた振袖すがたを披露することになっている。「小夜子、さよこさま、小夜子弁天さま」と、武蔵に誉めそやされて誂えたものだ。
ひと月ぶりに美容室[千夜子]にはいった。小さな美容室ではあったが最新のパーマネント機があるということで評判の店だ。英会話学校で話題に上ったことから、ひと月ほど前にたちよってみた。
「小夜子さん、お久し振りですね」
「あら、覚えていてくださったの? まだ二回目なのに」
椅子にすわるなり、店主の千夜子が小夜子の髪を慈しみながら言う。
「そりゃもう。わすれられませんよ、このおぐしは。ほんとにステキなおぐしで」
「ありがとう、お世辞でも嬉しいです」
〝当たり前よね。アメリカの最高級シャンプーで洗ってるんですもの。リンスも忘れずにね〟
「とんでもない! お世辞じゃありませんよ。どんなことをしてらっしゃるんです? あたしに真似できることなら、教えていただきたいわ」
「特別なことはしてませんけど……」。
いったんことばを止め、首を傾げつつ〝どうしょうかしら。シャンプーのこと、話していいかしら〟と逡巡する。
「やっぱり、何かしてらっしゃるんですね?」
「してるんじゃなくて、使ってるんです。一般にはでまわっていない、アメリカ将校向けのシャンプーを」
驚きの表情を見せて、千夜子の手が止まる。
「そんなものが手にお入りになるんですか?」
「まあねえ、主人がGHQに出入りしてるものですから」
つい、主人ということばを使ってしまった。
「えっ! もう、ご結婚されてらっしゃる?」
驚きの声をあげる千夜子にたいして、「えっ? ええ、まあ」と、曖昧にこたえた。
「お幾つなんですか? 」
「年齢ですか、ええ、二十歳です」
なぜ言ってしまったのか、小夜子にも判然としない。小夜子と武蔵の関係は、他人に説明できるものではない。
「そうですか、ご結婚されてる……」
「それが何か?」
〝あたしが結婚してたらどうだと言うの?〟
(百五十二)
「気を悪くなさらないでくださいな。お話が、じつは来てたんです。この間お出でいただいたおりにご一緒されていたお客さんが、お嫁さんに欲しいとおっしゃられて。ああ、残念ですわ」と言いつつも、まるで残念がる風に感じられない。そんな話など、実のところはないのではないか? 話を面白くするための、作り話ではと思えてしまう。
「いえね。あたしはね、もう決まった方が見えますよ、って言ったんですけどね。とにかく聞いてみてくれ、の一点張りで。そうですか、ご結婚されてるんですか。それは、それは。ところで奥さま、先ほどのシャンプーのことなんですけれども。あたくしに回していただくなんてことは、ご無理でしょうか?」
奥さま、という心地良い響きが、小夜子の胸をざわつかせる。
〝ち、違うわよ。武蔵の妻だからじゃないわ。言葉の響きに、対してのものよ。そ、そうよ。武蔵の妻だからじゃないわ〟
「奥さま、おくさま」
頬をぽっと赤らめる小夜子に、「ご新婚なんですね。お幸せそうで、羨しいわ」と、からめ手からの話に切り換えた。新婚? 式は挙げていない。もちろん入籍もしていない。ただ、同居をしている。いやその前に、小夜子は妻となることを拒否している。あくまで正三の妻となり、アナスターシアと世界を旅するのだ。
「こんにちわ。ちょっと早かったかしら?」
にこやかに微笑みながら、四十半ばの女が入ってきた。
「いらっしゃいませ。すこし待ってくださいね」
女は待合い用の椅子に腰掛け、
「ああ、いいわよ。どうせヒマな身だから、いつまでも、なんだったら、夜まででも待ちますわよ」と、快活に笑う。
思わず吹きだす小夜子に、
「あら! どこかで会ったかしら?」と、鏡のなかの小夜子に目をとめた。
「またはじまったわ、松子さんの会った病が」
「うーん、違うかなあ。人ちがいかな? ごめんなさいね。ところでさ、千夜子さん。奈美ちやん、アナ何とかって言うモデルのファンだったわよね?」
「アナスターシアのこと?」
「そうそう、そのモデルさんよ」
思いもかけぬ名が耳にはいり、思わず聞き耳を立てる小夜子だった。
「デパート勤めの娘によるとね、どうも亡くなったらしいわ。詳しいことはね、教えてくれないのよ。口止めされてるってことで、口がほんと重いのよね」
みるみる顔が青ざめ、わなわなと手が震える小夜子が鏡の中にいた。
「小夜子さん、どうされました? パーマ液に酔われましたかしら。大丈夫ですか?」
「ほんと。すごく顔色が悪いけど、大丈夫?」
「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。うそよ、大うそよ! 迎えに来てくれるんだから、きっと来てくれるんだから」
まるで抑揚のない念仏のように呟く小夜子だった。
「あっ!」。素頓狂な声が店にひびいた。
「思いだした! あなた、さよこさんでしよ。この人よ。ロシアのモデルさんと一緒だった、日本の女性は」
「ほんとなの? まあ、すごい偶然ね」
ふたりがかまびすしく話すなか、相も変わらずつぶやきつづけている。
「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。うそよ、大うそよ!」
(百五十四)
「行かなきゃ、いかなきゃ。アーシアが淋しがってるわ」
とつぜん立ち上がった小夜子は、夢遊病者のように、ふらふらと店を出ようとする。
「ち、ちょっと。危ないわ、そんな状態じゃ。ああ、どうしょう」
「ご家族に連絡をいれたら?」
「ご家族と言われても、…。そうだわ! さっき貰ったメモに、会社の電話番号が。すぐかけてみるわ」
「さよこさん! ちょっと待って! 迎えに来てもらいますからね」
外に出ようとする小夜子を、松子が必死の力で押し止めた。
「そうなんです、心ここにあらず、といった感じなんです。すぐ来ていただけますか? はい、看板は出しております。電柱に矢印がありますから、それを見落とさないよう、お願いします。それじゃ、ごめんくださいませ」
受話器を置くと、すぐさま長椅子で呆然としている小夜子のとなりにすわった。
「すぐに車で迎えに来るって。社長さんがお出かけなんで、専務の加藤さんが……」
「イヤ、あそこはイヤ! ひとりで帰るから。タクシーを呼んで。ひとりで帰れるから。早く呼んでえ!」
ぐったりと力なく座り込んでいた小夜子が、死びとのように蒼白い小夜子が、ひっしの形相でさけんだ。五平が来るのだが、加藤という名が耳にはいった途端にいまわしい加藤家が浮かんだ。やっと抜けでられた加藤家にもどるなど、とうてい考えられない。
「こんなに嫌がるんだから、タクシーを呼んだ方がいいわよ」
「そうね、分かったわ。すぐ呼びますからね、すぐに」
「アーシアが呼んでる。行かなきゃ、いかなきゃ」と呪文のごとくに唸りつづける小夜子だった。そんな小夜子を見た千夜子が、状況が変わりましたと、再度電話をかけた。
「会社の車はやめてくださいませんか。えらく興奮していらっしゃるんです。強いご要望で、タクシーを呼びましたので」
「小夜子さん、もうこちらに向かわれたとか……」。「いや、いや、加藤家はイヤ!」。押し問答をつづける内に、タクシーが到着した。
「さよこさん。来ましたよ、タクシーが。分かりますか? 来たんですよ、タクシーが」
落ち着かせるためにもと、なんどもタクシーと連呼した。その甲斐あってか、やっと小夜子の表情が穏和になった。武蔵のもとにもどれるという安心感が、小夜子を落ちつかせた。おぼつかなくはあるが、なんとか自力で立ち上がった。
「ご迷惑をおかけしました。これ、お代金です 」
「いえいえ、まだ途中ですから」
「落ち着いたら、改めてお願いしに参ります」
「それじゃその折りにいただきます」
ふたりの手のあいだを、和紙のふくろがが行き来する。
「貰っときなさい、二度と来やしないわよ」
痺れを切らせて、松子が千夜子に囁く。しかしそれでは困るのだ。千夜子は、何としてもシャンプーを手に入れねばならないのだ。「お気を付けて」。深々とお辞儀で送り出しながら、〝お願いだから、また来てくださいよ〟と、念じた。
(百五十五)
小夜子の変事を外出さきで聞かされた武蔵は、その足で自宅へもどった。武蔵の目にはいった小夜子は、ソファに腰かけてじっと一点を凝視している。背筋をピンと伸ばして、ときに笑みを浮かべる。連絡を受けた小夜子は「取り乱しています、泣き叫んでいます」と、狂女だと言わんばかりだった。しかし眼前にいる小夜子は凜として、なにごともなかったかのように見える。
「大丈夫だぞ、もう。話してみろ、なにがあった?」。小夜子の前にすわり武蔵が声をかけた。武蔵が小夜子の意識のなかに入ったとたんに「ヒクッヒクッ」としゃくりはじめて「アーシアがね、アーシアがね」とつぶやく。しかしその後がつづかない。なんども「アーシアが」という名前が漏れるだけだった。
「アーシアがどうした? 」
〝やれやれ、またアーシアと来たか。何者だ、アーシアってのは。調べなくちゃいかんな、本格的に〟
辟易している武蔵だが、可愛い小夜子のためと我慢の子だった。
「来ないの、きてくれないの。淋しいから来てほしいって、言ってるの。でもね、会えないの、もう」
〝来ないだ? 約束でも……。そう言えば、そんなことを言っていたなあ。それが、会えないとはどういうことだ?〟。どうにも要領を得ない。
「小夜子、こっちにお出で。詳しく話してくれ、手助けしてやれるかもしれん」と、小夜子を膝に乗せて髪を指ですいた。
「ねっ! タケゾー、タケゾー。アーシアを助けてあげて」
はじめてのことだ。名前で呼ぶことなど、一度たりともなかった。熱のせいか? と思いはするが、つい顔がほころんでしまう。
「ああいいとも。小夜子の頼みだ、なんでも聞いてやるぞ」
「ありがとう、タケゾー」
「それでどこに居るんだ?」
また、大声で泣きさけびはじめた。
「分かんない、わかんないの。小夜子には、なにも分からないの。小夜子がね、英会話がだめだからね、アーシアは手紙をくれないの。小夜子がね、学校をおさぼりなんかしたものだから、アーシアが怒ってるの、きっと」
「そんなことないさ。そのアーシアも、忙しくてだめなのさ」
「そうよね、そうよね。アーシア、世界中を旅してるから、お手紙を書くひまがないのよね」
目がうつろな小夜子だった。焦点があっていない目だった。なんとか武蔵を認識させようとするのだが、こんどは体が小きざみに震えはじめた。
「そうとも、そうに決まってる」
「ショーにね、来るはずだったの。でもこないの。淋しいさびしいって呼んでるの。行ってあげなきゃ」
ソファから立ち上がろうとするが、すぐに腰を落としてしまった。崩れ落ちてしまった。
「そうだな、小夜子は優しいからな」
「タケゾー、連れてって。アーシアの所につれてって」
すがりつくような目で武蔵を見上げた。打ちひしがれた小夜子に、武蔵の想いはさらに強まった。
「よし。それじゃ、一緒に探すか?」
「うん、探そうね。待ってるの、アーシアは。小夜子、早く見つけてって、呼んでる」
「よし、それじゃ、ひと眠りしろ。起きたら探しに行こう」
ゆっくりと体を横たわらせて、静かな寝息を立てる小夜子を見守った。
「結構です。ひと眠りされたら、精神的に落ち着くでしょう。体に異常はないないですからな。心配はいりません。ま、心配ごとをなくしてやるのが一番ですよ」
「分かりました、先生。ご足労をおかけしました」
往診に訪れた医者を送りだした武蔵は、小夜子の寝姿を確認してから電話を取った。
(百五十六)
「専務を呼んでくれ。」
電話の向こうが騒がしい。けさ、「小夜子を連れてくることにした。俺のお姫さまを、みなに紹介しようと思う」と、告げたばかりだ。
「ウオー! 社長の奥さまに会えるんだ」
「床の間にずっと飾られたんでしょ? 早く、お会いしたいわ!」と、みな口々に、待ち遠しさを言いあった。
その小夜子が倒れたと聞かされて、全社員に動揺が走った。
「熱を出してみえるとか」。「パーマとかの薬に酔われたんじゃ?」。果ては、「ひょっとして、お目出度かしら?」などと、言いだす者さえいた。
「おう、五平か。心配かけたな、もう大丈夫だ。相当なショックを受けたらしい。それでだ、早急に調べて欲しいことがある。ファッションモデルの、アーシアとかいう名前だ。消息を調べてくれ。正確な名前? 女の子に聞け、知ってるはずだ。なんでも、ロシア娘らしい。それから、きょうは戻らん。小夜子に付いてるよ。最近ほったらかしだったからな」
「タケゾー、タケゾー!」
二階から、小夜子の声がする。慌てて上がった武蔵を見つけるなり「どこに行ってたの! ひとりにしないで、小夜子を」
「悪かった、わるかった。さ、ベッドに入れ。休んでろ、な。そうだ、冷たいものを、アイスでも食べるか? どうだ?」
「要らない。タケゾー、出かけちゃう」
武蔵の上着のすそを、しっかりとつかむ小夜子だった。
「分かった、わかった。それじゃ、良くなったらにするか」
「うん。それとね、お肉が食べたい」
「ハハ。そうか、そうか。小夜子はステーキが良いか。よし、それじゃ、牛一頭分食べさせてやるぞ。だから、寝ろ」
「うん。どこにも行っちゃいやだよ」
「ああ、約束だ」
小夜子のかたわらでうたた寝をしてしまった武蔵だったが、電話のベルに起こされた。時計を見ると、十分と経っていない。小夜子に握られた手を、そっと外して立ち上がった。
「おう、早かったなあ」
「わたしも驚きですわ、すぐに連絡が来ました」
「で? どこなんだ、居場所は」
「居場所もなにも、あの世ですわ。事故死か自殺か? と、大騒ぎらしいです」
「おいおい。そんなに有名人なのか? そのアーシアってのは」
予想外の報告におどろく武蔵だった。田舎娘に声をかける女なんて、と高をくくっていた武蔵だった。
「わたしらみたいな無粋人には縁のない世界の大スターらしいですわ。会社の娘っ子も、大騒ぎですわ。泣きだす子もいる始末でして。参りました、まったく。しかしなんでまた、そんな大スターさんを調べろなんて」
「いや、小夜子がな」
「まさか! それがショックで、ですか? そんな大仰な」
明らかに憤懣やる方ないといった五平だ。
「違うんだよ、五平。単なるファンじゃないらしい。なんでもな、その大スターさんと義兄弟、じゃなくて義姉妹って言うのか? 家族になる約束をしてたらしいんだ」
「ちょっと待ってくださいよ」
「待てまて、五平。相手がどこまで本気だったかは、分からん。しかし小夜子は信じこんでたみたいだ。だからこその、ショックの大きさだ。分かってやってくれよ」
(百五十七)
再度の連絡がはいったときには、もう夜になっていた。
「えらいことです、タケさん。小夜子さんの話は、ほんとのことでした。トーマスから再度の報告で、くわしい事情がわかりました」
「なんだ、ほんとのこととは。なにを、興奮してるんだ」
五平が武蔵をタケさんと呼ぶのは、よほどに慌てているときだ。
「どうやらその娘っ子が体調をくずしていたときにですね、小夜子さんに出会って、惚れると言ったら変ですが、ご執心となったらしいです」
「なんで分かるんだ、そんなことが」
女がおんなに惚れる、そんなことは考えたこともない武蔵だ。たしかに、男がおとこに惚れるということは分かる。俠気のある男に出あった経験のある武蔵であり、己自身もそうありたいと憧れの気持ちを抱いたこともある。そしていま、そのおとこ気のある男として、五平はもちろんのこと会社の従業員たちから慕われている。しかし、女がおんなに惚れるとは……。どうしても理解できない。
しかも、名を成した女性ではなく、小娘なのだ。わがままで高慢ちきで嫉妬心もつよい。どうひいき目に考えても、そこらにいる田舎娘なのだ。ならばお前はなぜ、ここまで固執するのかと問われれば、武蔵も返答にこまる。琴線に触れた女だ、そう言わざるを得ない。まさか、アナスターシアという女もまた、武蔵が見つけた小夜子の本質に触れたのか……。〝アナスターシアなる女が俺と同類なのか?〟。小夜子を奪おうとするアナスターシアに、猛烈な嫉妬心をかんじる武蔵だった。
「えっと、なんて言ったか……。そう、マッケンジーですわ、服飾デザイナーの。この男がゲロしたらしいですわ」
得意げな話し方をする五平にたいしても、怒りがこみ上げてくる。
「ああ、もういい! 電話じゃ、だめだ。来い、すぐにこい!」と、思わず怒鳴りつけてしまった。
「どうしたの? なにか、あったの」
「起こしてしまったか? すまん、すまん」
まだふらつき気味の小夜子が、階段の手すりをしっかり掴みながら降りてきた。
「なにかあったの?」
「うん、五平を呼んだ」と、小夜子をささえながら武蔵が答える。
「あたし、あの人嫌い」
反射的に、小夜子の口から出た。
「そうか、嫌いか。そいつは困ったな。俺にとっちゃ、福の神なんだがな。なんと言っても、小夜子に引き合わせてくれた、恋のキューピットさまだ」
〝嫌いよ、ダイッキライ! きらい、キライ、嫌い!〟
こころのなかで、なんども呟いた。眉間にしわを寄せて、嫌悪感をあらわにする。あのような出会い方をしていなければ、これほどのことはなかったかもしれない。キャバレーでのタバコ売り時代を知る、その五平が嫌いだった。惨めな、小夜子にとって恥部と感じる時代を知るのは、武蔵ひとりで良かった。
〝五平なんか、この世から消えればいいんだわ〟
(百五十八)
負の時代を経ての今なのだが、小夜子には我慢ができない。晴れやかな輝かしい道を歩きたい小夜子にとって、あってはならぬ道程だ。たとえいまの生活を失っても、消し去りたいおもいをいだく小夜子だ。アナスターシアだけでいい、アナスターシアとの出会いだけでいい。そう思いつづけた小夜子だ。しかしいま、そのアナスターシアが消えた。光り輝くはずだった未来が、消滅してしまった。なのに小夜子には、他人事のように思える。
「かわいそうな人」と、小夜子がつぶやく。そこにいるのは、己ではない別の人間が横たわっている。涙にくれて目の腫れ上がった娘がいる。日々を泣きあかすであろう人、将来に絶望するであろう人、それらは決して小夜子ではなかった。「タケゾー」と呼んだ小夜子、快活に振舞う小夜子、別人格のごとき小夜子、しかしいつまでその小夜子でいられるのか。
小夜子から、正三への思いが一気に薄らいだ。思いかえしてみればあくまでアナスターシアあっての正三だった。アナスターシアを失った小夜子には、正三の居場所はない。この地に来る弾みをつける役目だったはずの正三だった。単なるエスコート役の正三を、将来の伴侶と位置付けさせたのは? そうなのだ、アナスターシアの通訳を務めた前田なのだ。前田のなにげない、ひと言だった。「彼だったら、あなたの意のままじゃない?」。そのひと言が、小夜子のなかにひそむ夜叉をよびおこしたのだ。
「小夜子。お前をいちばん大事に思っているのは、この俺だぞ。お前の望みをかなえてやれるのは、この俺だぞ」
そんな武蔵のことばに、嘘は感じない。アナスターシアのいない今となっては、だれよりも小夜子を満足させ得るのは、たしかに武蔵なのだ。しかし、伴侶はあくまで正三でなければならない。〝あたしは、薄情な女じゃない〟。貞節、というふた文字が頭から消えない。〝いっそ、この世から消えて……〟。だれのことを思いえがいてのことばなのか、武蔵なのか正三なのか、あるいは小夜子自身なのか。いまの小夜子には判然としない。
ゆっくりとソファに座らせて、小夜子の額に手を当てた。
「うん、熱は下がったようだな。五平がアイスを買ってくるはずなんだが、食べるか?」
「アイス? 食べる、たべる。そういう五平なら、好きになってもいいけど」
目をキラキラさせて、五平の、いやアイスの到着を待っている。
「五平です」
のっそりと、五平が顔を出した。手に、ドライアイス入りの菓子箱を持っている。
「こりゃお邪魔でしたか? お久しぶりです、小夜子奥さま」
「まだ奥さまじゃないもん」と、膨れる小夜子だった。そんな小夜子を愛おし気に見つめる武蔵が、奥さんと呼ばれてそれを否定しなかった小夜子に顔をほころばせた。小夜子は、ただただ、五平の手中にある箱に熱視線をおくっている。
(百五十九)
「ああ、これですか。ご所望のアイスです。ドライアイスを入れさせてますから大丈夫だとは思いますよ」
五平が言い終わらぬうちに、小夜子の手が伸びた。
「ちょうだい、ちょうだい!」
「小夜子、二階で食べてろ。五平とすこし話があるから」
「はーい!」
小夜子のあかるい返事が、五平をおどろかせた。電話での様子はただ事ではなかった。いまにも後追いをするのではないか、そんな不安に刈り立たせるものがあった。
「そんな不思議そうな顔をするな。空元気だよ、から元気だ」
「でしょうね」
「明日が心配だ。明日も元気なら明後日だ。とにかく気を紛らわすことだ。バタバタさせて、疲れさせて、なにも考える時間を与えないようにしなくちゃな」
「へえー」。にやつく五平に、「なんだよ、その『へえー』は」と、すこし声を強くした。
「いや、感心したんです」と、顔のまえで手をふる。
「ああ、いまのは医者の受け売りだ。医者の言うことだ。間違いがないだろうに」
「いい機会じゃないですか、タケさん。身を固めてくださいよ」
ふたりで酒を酌み交わすおりに、五平が毎度のこどくに口にだす。当初こそ「ああその内にな」、「相手が見つかればな」と答えていた武蔵だが、最近では鼻で笑うだけだった。それが今日は「近いうちに、会社に連れていくか。体調のいい時にでも」と、本気度をうかがわせた。
「そりや、いい。みな、喜びますよ。心配してますからね、みんな。元気な姿を見たら、きっと大騒ぎですよ。とに角、お人形さんだぞ! と言ってありますから」
「オーバーなことを。まあ、いい。で、モデルの状況はどうだったんだ」
「犬が死にましてね。そりゃもう、ひどい落ちこみようだったらしいですわ。なにせ、天涯孤独の身の上の娘でして。うわさの域を出ないんですが、ロシア皇帝のつながりじゃないかと」
「おいおい、話が出きすぎてないか?」
「まあですね。ガセネタだと、あたしも思いますがね。まあ、ノイローゼになったらしいんですよ。しかしアメリカさんてのは、酷な国ですわ。契約だからと、仕事をつづけさせましてね」
「おいおい、そんな状態でも仕事させるのか?」
「ま、それだけ人気があるってことでしょうね。結局は、お定まりの不眠症になりまして。睡眠薬のお世話になった、と」
いまでこそ富士商会も、体調をくずした社員には「休め、やすめ。他のやつらに移されちゃかなわんからな」と冗談まじりの声をかけ、すぐに退社させている。しかし設立当初には「馬鹿野郎! たるんでるからだぞ。仕事をして汗を掻いたら病の方から逃げ出してくれるさ」と、尻を叩いたものだ。
「そうか。しかしあれは、常習癖がつくって話だろうが」
「仕方ないでしょう。眠れないって、暴れたってことですから。ところがですね、小夜子さんと共寝して熟睡できたと言うんですわ。小夜子さんの写真を枕元に置いておくと、不思議と眠れたと言うんですわ」
「そりゃまた、すごいごりやくじゃないか。それが何でまた、なんでこんなことになったんだ?」
「分かりません、それは。なにか、あったんでしょうな。不眠症が再発して、薬の多量服用です。で、還らぬ人になったということです」
「分かった、ご苦労だったな」
(百六十)
一礼をして立ち去ろうとする五平を「すまんが、ニ、三日会社を休むぞ」と、呼び止めた。
「もちろん、そうなさってください。とに角、一日も早い回復を祈ってますよ」
やっとその気になってくれたかと安堵の気持ちを覚える五平だが、その一方で、女のことで会社を休むなどまるで考えられない武蔵なのに、と不安の陰がよぎりもした。
「そうだった、今日のパーティはどうした」
思い出したように言う武蔵にたいし「大丈夫です。あちらさんは家族の異変にたいしては、我々の想像ができぬほどに寛大ですから。フィアンセだと告げたら、自分のことのように心配してくれましたから」と、安心してくれとばかりに笑顔を見せた。がその瞬間に、こんなときに笑顔というのは似つかわしくないかもと思った。しかし武蔵もまた、「そうか、安心した」とかすかに笑みのある表情を見せた。
「さてと、小夜子はどうしてるんだ?」
五平を送り出したあと、すぐに二階へ上がった。
「はいるぞ、小夜子」。声をかけてみるが、中から返事はなかった。そっとドアを開けると、ベッドの中で眠りについている小夜子がいた。脇のテーブルにアイスの箱が、そのままになっている。どうやら口にする前に、眠りについていた。
「だれ?」。「起きたか?」。小夜子が気だるそうに起き上がった。そしてその口から発せられた意外なことばは、武蔵に奇異な感覚をもたらした。熱に浮かされてのことだと思いはしたのだが。
「アーシアが来てくれたわ。タケゾー、会わなかった?」
〝熱で妄想を抱かれるかもしれません。その折には、先ほどのように、決して否定なさらないように。本人が混乱します〟。医者の、帰り際のことばを思いだした。
「そうか、来てくれたのか。そりゃ、良かったな。俺も会いたかったよ。アナ、スターシアだったか? 報告したかったぞ、小夜子を大事にするからって。安心してくれってな」
「アーシア、小夜子にあやまってくれたよ。『約束やぶってごめんね』って。手紙を書きたかったけど、我慢できなくなりそうだから書けなかったんだって。小夜子と一緒にベッドで寝てたの、アーシア。小夜子と一緒だとよく眠れるんだって」
「そうか。小夜子と一緒だと、良く眠れるのか。だったら、俺も一緒に寝たいなあ。最近、眠りが浅いんだ」
「うん、いいよ。アーシアも、そうしてあげてねって言ってた」
頭に手を乗せると、薬が効いたらしくほぼ平熱に戻っているように感じだ。背中に手を回すと、じっとりと濡れている。このままではふたたび熱を出すかもしれない。「服、着替えような。手伝ってやろうか?」と、小夜子の反応を見た。「助平!」。普段ならば、飛びかからんばかりに絶叫する小夜子が、力なく「うん」と頷いた。思わず「よし、よし。それじゃ着替えるか」と、肩を引き寄せた。
(百六十一)
「じつはな、小夜子。アーシアはな、睡眠薬の飲みすぎだったんだ。聞いたか? アーシアから」
小夜子の反応をうかがいながら、武蔵はゆっくりと話をつづけた。
「ううん、なんにも。そう、睡眠薬を飲んでたの? やっぱり早く小夜子が行ってあげれば良かったのね」
「そうだな、ほんとにそうだな。けど、俺が寂しくなるがな。小夜子、落ちついて聞いてくれよ。五平の調べによるとだ……」
とつぜん小夜子の指が、武蔵の声をさえぎった。武蔵の唇に手をあて、小夜子が口をひらいた。
「ちょっと待って。アイス、溶けてない? タケゾーにも上げようと思ってね、アーシアにはひとつしかあげなかったのよ。偉いでしょ、小夜子。タケゾーのことも、キチンと考えてるんだから」
テーブルのアイスに手を伸ばして、「おかしいわ、おかしいわよ。こんなの、絶対おかしい!」と、金切り声をあげた。
「どうした? 大丈夫だぞ、俺に話してみろ」
「アーシアにひとつあげたのよ。なのに、三つもはいってる。開けたとき、三つだったのよ。なのに、なのに、どうしてなの!」
「小夜子、それは違うぞ。五つ、はいってたはずだ。五平に、五つ買ってこいと言ったんだ。三つはな、身を切ると言って縁起が悪いだろう? 四はシだしな。だから五つにしろ、ってな」
五平の購入数など知る由もない武蔵だが、なんとかなだめようとする武蔵だった。
「そっか、そうだよね。小夜子の勘ちがいだね。ね、食べよう」と、武蔵に差しだした。
「どうせなら、小夜子に食べさせて欲しいがな」
「もう、甘えん坊ね。いいわ、じゃ、アーンして」
「うん、うまいぞ。こんなにうまいアイスは、初めてたぞ」
相好をくずして、小夜子が運ぶアイスをほおばる。
「でしょ、でしょ。アーシアも、美味しいって言ってた」
「大っきな目をね、まん丸にしてね、『Bвкусно!(フクースナ)』って言ってくれたよ」
「なんだ? ふくすけ、だ? 足袋のことか?」
「ハハハ、フ、クー、ス、ナ、だよ。タケゾー、分からないんだ? ロシア語は」
武蔵の口のなかで、スプーンが踊る。カチカチと、歯にあたり音をたてる。
「ロシア語でね、おいしいよって言う意味なの」
得意げに小鼻を膨らませた。思わず抱きしめたくなる武蔵だった。
「小夜子はロシア語が分かるのか? そいつは凄いぞ! ソビエトと貿易をはじめたら、小夜子が通訳してくれ」
「うふふ……いいよ。通訳してあげる。アーシアにいっぱい教えてもらうから」
どうしてもアナスターシアから離れない小夜子が、そこにいた。
(百六十二)
小夜子の精神状態が見えない現在、どう接すれば良いのか分からない。「普段通りにしてください」。往診した医者は言う。たかが町医者のくだした診断だ、信頼して良いものか迷ってしまう、逡巡してしまう。大学病院に連れて行こうかとも考えた。しかしこの家から離れることを、小夜子は金切り声をあげて拒否するのだ。電話で問い合わせてみると、「今はまだそのままで」と、町医者と同様の返事がかえってきた。
おとぎ話の世界にいるがごとき小夜子なのだ。話を合わせるといっても、そのままおとぎ話の住人になってしまうのではないかと危惧してしまう。アーシアは睡眠薬過剰摂取だとは理解している。そして死亡したことも伝わっている。しかしそれでもアーシアとの会話を、小夜子は口にした。アーシアの死を、現実のものとして受け入れられないでいる。
いずれは受け入れさせねばならぬとしても、そのいずれをいつにするか。悩む武蔵だ。即断即決が心情の武蔵だが、こればかりはそうもいかない。
〝素人判断は生兵法だ〟
〝俺が、独断専行の権化と言われるこの俺が、他人の意見に従おうとするなんて。どんなに高熱を出そうとも「気合いで直せ、直るはずだ」と怒鳴るこの俺が、小夜子には小夜子だけには……〟
〝そうか。これが、巷間で言われる、発露、心情の発露、というやつなのか〟
「タケゾー……」
「なんだ、どうした?」
心なしか、小夜子の肩が小きざみに震えている。小夜子の膝に、ぽたりぽたりと滴がしたたり落ちる。
「アーシアね、アーシアね。死んじゃったの、小夜子を残して死んじゃったの」
武蔵の膝に顔をうずめて、激しく泣きじゃくった。武蔵の危惧がふきとんだ。小夜子は正気だと確認できたことがなによりだった。産まれたばかりの赤児のように、激しくはげしく泣きさけぶ小夜子に、これ以上にはない感情の高ぶりを感じる武蔵だった。
「そっか、そっか、死んじゃったのか。アーシアが死んじゃったか。それで小夜子にお別れを言いに来てくれたのか。そっか、そっか。可哀相にな、かわいそうにな。けどな、なんの心配もいらんぞ。小夜子は、この俺の宝だ。武蔵のたからものだから」
「タケゾー! ほんとね、ほんとね。小夜子を守ってくれるよね。ほんとはね、アーシアがね、呼びにきたの。一緒にこちらで暮らそうって。でもね、小夜子、まだ死にたくないの」
「大丈夫、だいじょうぶだ。俺がついてる、武蔵が守ってやる。アーシアには、俺から話しておくから。安心してください、ってな」
小夜子の体を抱き起こすと、涙でくしゃくしゃになった頬に、軽く口を押し付けた。ながれ落ちる涙を
「俺のは酒の味がするのに、しょっぱいなあ、小夜子のは。しょっぱいけど、美味しいぞ」と、吸いつづけた。
「バカ、そんなこと……」。小夜子の目が閉じられた。
(百六十三)
〝待てまて、急いては事を仕損じるぞ。それとも、据え膳喰わぬは男の恥か? いやいや、小夜子は俺の伴侶になる女だ。そこらの女どもと一緒にしちゃいかん〟小夜子のおでこに軽く触れて「もう休め。明日、ビフテキでも食べよう。小夜子、好きだもんな。牛一頭分、平らげさせてやるぞ」と、体を横たえさせた。
「タケゾーも、眠ろうよ。小夜子と一緒に寝ようよ」
武蔵の手を握り、小夜子のとなりへといざなった。
「そうだな、寝ような。一緒に休もうな。これからずっと一緒だぞ」
小夜子が体をずらして、武蔵の入りこむ隙間をつくった。ありえないことだ、小夜子が他人のために己を譲ることは。あのアナスターシアにですら、心を許している相手だというのに、己のいち分だけは譲らなかった。いま、ベッドの上で体をずらしたということは、小夜子のこころの領分に武蔵を招き入れたということなのだ。衰弱しきった体がそうさせたのか、弱ったこころが白旗をあげたのか。しかしいまの小夜子にはそれすら感じられないでいた。
小夜子のかたわらで束の間の休息をとる武蔵が、小夜子との語らいにどれほどの安らぎを覚えることか。これまでに幾多の女性と閨を共にしてきた武蔵だ。むろんその殆どが、金員だけのつながりだ。損か得か、それが基準だった。戦友だ、刎頸の友だと言い切る五平にたいしてですら、その繋がりのなかに損得勘定がどこかしらに存在している。御手洗という苗字のために受けた数々の屈辱が、屈折した人間を育てた。人にひととして対する術を持たぬ武蔵だった。それがために、幼いころには卑屈になり、そしていまそれを隠すために、己の心中から消し去るために傲慢さをむきだす。
しかしまた、人のこころのあり方にも敏感になった。うつろい易いこころを引き止める術、怒り心頭に達するこころを鎮める術、悲嘆に暮れるこころを慰める術、そして奈落の底に陥ったこころを奮い立たせる術。それらのすべてで、五平とともに富士商会を育ててきた。鬼神のこころでもって、戦後の混乱を成り上がりつづけた。いっ時の気の緩みも持たずに、周囲すべてに気を配りつづけた。それらがために生まれる体の疲れは、からだを横たえることで取れる。
しかし、こころの疲れは消えない。酒を飲むことで麻痺させることはできる。しかしそれで消えることはない。武蔵の誘惑をきっぱりとはねつけた小夜子に出逢い、世俗の垢にまみれていない純真さに興味をおぼえた。世間知らずの小娘だと感じつつも、ひたむきな思いを隠そうともしない振る舞いに、武蔵の知らぬ世界に住む小夜子に惹かれはじめた。
小夜子が感じたとおりに、足長おじさんとしての感情を抱いたはずだった。五平の「嫁さんにどうです」ということばには〝こんな小娘なんか、俺に合うはずがない〟という思いが強かった。しかし小夜子とのたわいもない言い合いが、武蔵のこころの疲れを癒やすようになっていた。小夜子との損得ぬきの会話が、武蔵のささくれ立っていた胸懐を和らげていった。
(百六十四)
半月の下、その冷たいあかりに照らされた庭先を見ながら縁側に座り、五平と一升瓶で茶碗酒と決め込んでいる。武蔵との出会いからかれこれ十年になる五平だが、これほどまでに上機嫌の武蔵を見たことがない。
「八年だ、八年だぞ。分かるか、五平。富士商会を立ち上げてから、早や八年だ。感慨ぶかいじゃないか。いままで猪突猛進してきたんだ。突き進んだんだ。列をつくる奴らがいれば蹴散らして先頭にたち、罵声をあびせかける奴らをぼこぼこにして来たんだ」
「そうですな、タケさん。今夜は、タケさんと呼ばせてもらいます。頑張りましたよ、タケさんは」
「なに言ってる、五平だって頑張ったじゃないか」
「いやいや、あたしの頑張りなんて。タケさんに比べリゃ、屁みたいなもんです。いつもタケさんの後ろに隠れて、小さくなってましたから」
「怒るぞ、五平。俺はお前が居てくれるから、どんな無茶もやってこれたんだ。それにだ、なんといってもGHQだよ。これが、でかい。物の調達もそうだが、後ろ盾みたいなものじゃないか」
「そう言ってもらえて、あたしも嬉しいです。あたしなんか、人間じゃありませんから。人非人です、女衒なんてのは」
1本だけ残した樹木の一点を見つめたまま、ぐいと飲み干す五平だった。
「それは言いすぎだ、五平。そこまで卑下することはないだろうが。そりゃ、褒められたことじゃないにしてもだ。以前にも言ったが、五平のお陰で救われた者がいるだろうが」
空になった茶碗に酒を注ぎながら、武蔵がつづけた。
「それに、五平。お前だって、泥水をすすって生きてきたんだ。お前は男だから女郎なんてものにはならなかったにしろ、似たようなものだろう」
「はあ、まあ。そうなんですが、そう言われりゃ。口減らしで、奉公に出されました」
「いくつだったんだ?」
「たしか、十いや十一だったですか? そんなものでしたよ。しかしまあ、あたしとおんなじ境遇の小僧ばっかりでしたよ。みんなして、毎晩泣きましたわ」
「俺なんかも、似たようなもんさ。毎朝とうふ売りに駆りだされたし、夜はよるでお袋の内職の手伝いだ。で、結局は家を追んだされて、養子だよ。けどまあ、それが良かったかもなあ。みっちりと商売の基本をたたき込まれたし。しっかし、跡取りの子どもが出来ちまったら、もう厄介もん扱いだ。だから軍隊に召集されたときなんか、腹ん中で万歳してたよ。さすがに皆の前では、かしこまってたがな」
たがいの身の上話は、はじめてのことだった。これまでは目先のことに追われて、過去を振り返るなどできるはずもなかった。語りはじめると、やはりのことに似た境遇だということに、ふたりして笑いあった。
「タケさんもですか? あたしもなんですよ。他の者はね、陰で泣いてたんですがね、あたしは小おどりしましたよ。これで銀しゃりが食えるかもしれないって」
「まあな。おたがい軍隊じゃ、殴られっぱなしだったけどな。しかし、戦地にも行かずに済んだし、なにより飯がなあ。まいにち三度食えたってのは、ありがたかった」
「ほんとにですな。ところで、タケさん。今夜はえらくご機嫌のようですが、何かありましたか?」
「ふ、ふん」と、で笑う武蔵に対して「ひょっとして、タケさん」。小指を立てて、武蔵の眼前でくるりくるりと回した。
「バッカヤロー! まだだよ、まだだ。小夜子は、そんな女じゃねえよ。しかしまあ、なあ」
「そいつは、何よりだ。おめでとうございます! なるほど、それで祝杯ですか。そいつは、いいや。明日にでも、みなに教えてやりますよ。いやあ、大騒ぎですよ、きっと」
「いや、待てまて。まだ言うな。小夜子のお披露目どきに、俺から言うよ。あんがいに早く連れて行けそうだ」
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