(百五十一 武蔵の元に、百貨店からの手紙がとどいた。ふだんならば気にもとめずに武蔵にわたすのだが、武蔵の名前とともに、小夜子様と宛名書きしてある。わざわざ連名にしていることから、これは自分宛だと気づいて、すぐに開封した。季節の挨拶とともに、来月の末にファッションショーを開くとあった。最上席を用意したので、ぜひにも小夜子に来てほしいとある。デザイナーとして、小夜子にとって運命の扉を開けてくれたマッケンジーの名があった。しかしモデルたちの中にアナスターシアの名前がない。せめてもスペシャルゲストとでもあれば、と思う。けげんに思いつつも、差出人が企画部門・坂田とそして外商部門・高井の名前がある。タケゾーの仕業ね、まったくもう。眉間にしわを寄せつつも、悪い気はしない。 明日の午後には、アメリカ将校のガーデンパーティに出席することになっている。いよいよデビューを迎えるとあって、緊張感が高まっている。武蔵の厳命で、着物姿での出席となっている。二十歳の祝いにとあつらえた振袖姿を披露することになっている。「小夜子、小夜子さま、小夜子弁天さま」と、武蔵にほめそやされて誂えたものだ。 日本髪に結うべく、美容室「千夜子」に入った。小さな美容室ではあったが最新のパーマネント機があるということで評判の店だ。英語学校で話題にあがったことから、ひと月ほど前に立ちよってみた。 「小夜子さん、お久し振りですね」 「あら、覚えていてくださったの? まだ二回目なのに」 椅子にすわるなり、店主の千夜子が小夜子の髪を惚れ惚れとした表情でいつくしむようになぜる。 「そりゃもう。わすれられませんよ、このおぐしは。ほんとにステキなおぐしで」 「ありがとう、お世辞でもうれしいです」 大鏡のなかでうっとりとした表情をみせる千夜子に、〝当たり前よね。アメリカの最高級シャンプーで洗ってるんですもの。リンスも忘れずにね〟と、得意顔になる。 「とんでもない! お世辞じゃありませんよ。どんなことをしてらっしゃるんです? あたしに真似できることなら、教えていただきたいわ」 「特別なことはしてませんけど……」。一旦ことばを止め、首をかしげる。 「やっぱり、なにかしてらっしゃるんですね?」 「してるんじゃなくて、使ってるんです。一般にはでまわっていない、アメリカ将校向けのシャンプーを」と、得意満面に言った。 驚きの表情を見せて、千夜子の手が止まる。 「そんなものが手におはいりになるんですか?」 「まあねえ、主人がGHQに出入りしてるものですから」 つい、主人ということばを使ってしまった。 「えっ! もう、ご結婚されてらっしゃる?」 「えっ? ええ、まあ」 早まったかしらと後悔の念がわきはしたが、いまさらことばをのみこむことはできない。なぜ言ってしまったのか、小夜子にも判然としない。小夜子と武蔵の関係は、他人に説明できるものではない。 「そうですか、ご結婚されてる……」 「それがなにか?」 (百五十二) 「気をわるくなさらないでくださいな。お話が、じつは来てたんです。この間お出でいただいたおりに、ご一緒されていたお客さんが、お嫁さんに欲しいとおっしゃられて。ああ、残念ですわ」と言いつつも、まるで残念がる風に感じられない。そんな話など、実のところはないのではないか? 話を面白くするための、作り話ではと思えてしまう。 「いえね。あたしはね、もう決まった方が見えますよ、って言ったんですけどね。とにかく聞いてみてくれ、の一点張りで。そうですか、ご結婚されてるんですか。それは、それは。おめでとうございます。ところで奥さま、先ほどのシャンプーのことなんですけれども。ぶしつけなお願いなんですけど、あたくしに回していただくなんてことは、ご無理でしょうか?」 奥さま、という心地良いひびきが、小夜子の胸をざわつかせる。〝ち、ちがうわよ。武蔵の妻だからじゃないわ。ことばのひびきによ。そ、そうよ。武蔵の妻だからじゃないわ〟 「奥さま、奥さま」。頬をぽっと赤らめる小夜子に、「ご新婚なんですね。お幸せそうで、うらやしいわ」と、からめ手からの話に切りかえた。新婚? 式は挙げていない。もちろん入籍もしていない。ただ、同居をしている。いやその前に、小夜子は妻となることを拒否している。あくまで正三の妻となり、アナスターシアと世界を旅するとする小夜子なのだ。なのになぜ主人と言ってしまったのか。吐いたつばはもう飲み込めないのだ。しかしそれでもいいと思った。これ以上のことを口にしなければいいのだ、と。 「こんにちわ。ちょっと早かったかしら?」 にこやかに微笑みながら、四十半ばの女だが入ってきた。 「いらっしゃいませ。少し待ってくださいね」 女は待合い用の椅子に腰掛け、「ああ、いいわよ。ヒマな身だから、いつまでも、なんだったら、夜まででも待ちますわよ」と、快活に笑う。 思わず吹き出す小夜子に、「あら! どこかで会ったかしら?」と、大鏡のなかの小夜子に目をとめた。 「またはじまったわ、松子さんの会った病が」 「ふふふ、ごめんなさいね。ところでさ、千夜子さん。奈美ちやん、アナ何とかって言うモデルのファンだったわよね?」 「アナスターシアのこと?」 「そうそう、そのモデルさんよ」 思いもかけぬ名が耳に入り、思わず聞き耳を立てる小夜子だった。 「デパート勤めの娘によるとね、どうも亡くなったらしいわ。くわしいことはね、教えてくれないのよ。口止めされてるってことで、口がほんと重いのよね」 みるみる顔が青ざめ、わなわなと手がふるえる小夜子が大鏡のなかにいた。 「小夜子さん、どうされました? パーマ液に酔われましたかしら。大丈夫ですか?」 「顔色がわるいけど、大丈夫?」 青ざめる小夜子をふたりが気づかいのことばを同時にかけた。 「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。うそよ、大うそよ! 迎えに来てくれるんだから、きっと来てくれるんだから」。まるで抑揚のない念仏のようにつぶやく小夜子だった。 「あっ!」。素頓狂な声が店にひびいた。 「思い出した! あなた、さよこさんでしよ。この人よ。ロシアのモデルさんと一緒だった、日本の女性は」 「ほんとなの? まあ、すごい偶然ね」 ふたりがかまびすしく話すなか、相も変わらずつぶやきつづけている。 「うそよ、うそよ、アーシアが死んだなんて。うそよ、大うそよ!」 「行かなきゃ、行かなきゃ。アーシアが淋しがってるわ」 とつぜん立ちあがった小夜子は、夢遊病者のように、ふらふらと店を出ようとする。 「ち、ちょっと。危ないわ、そんな状態じゃ。ああ、どうしょう」 「ご家族に連絡を入れたら?」 「ご家族と言われても、……。そうだわ! さっき旦那さまのお名刺をいただいたのよ。会社の電話番号があるから、すぐかけてみるわ」 〝何かあったときのために、俺の名刺を持ってるといい〟と手渡されている武蔵の名刺を、千夜子にわたしていた。そこらの小娘とはちがうわよ、とばかりに見せびらかす風にわたしていた。 「さよこさん! ちょっと待って! 迎えに来てもらいますからね」 外に出ようとする小夜子を、松子が必死の力で押し留めた。 (百五十三) 「そうなんです、こころここにあらず、といった感じなんです。すぐ来ていただけけますか? はい、看板は出しております。電柱に矢印がありますから、それを見落とさないよう、お願いします。それじゃ、ごめんくださいませ」 受話器を置くと、すぐさま長椅子で呆然としている小夜子の隣にすわった。 「すぐに車でむかえに来るって。社長さんがお出かけなんで、専務の加藤さんが」 加藤という名前を聞いたとたんに、小夜子が金切り声をあげた。 「イヤ、イヤ。あそこはイヤ! ひとりで帰るから。タクシーを呼んで。ひとりで帰れるから。早く呼んでえ!」 ぐったりと力なく座りこんでいた小夜子が、死人のように蒼白い小夜子が、必死の形相でさけんだ。五平が迎えに来るというのだが、加藤という名が耳にはいったとたんに忌まわしい加藤家が浮かんだ。やっと抜け出られた加藤家にもどるなど、到底かんがえられない。 「こんなに嫌がるんだから、タクシーを呼んだ方がいいわよ」 「でもねえ、お呼びしちゃったし。そうね、分かったわ。すぐ呼びますからね、すぐに」 「アーシアが呼んでる。行かなきゃ、いかなきゃ」と、呪文の如くに唸りつづける小夜子の耳には誰の声もはいらない。うつろな目でくうを見つめ、「行かなきゃ、いかなきゃ」と呟きつづけている。そんな小夜子をみた千夜子が、状況が変わりましたと、再度電話をかけた。 「会社の車はやめてくださいませんか。えらく興奮していらっしゃるんです。強いご要望で、タクシーを呼びましたので」 「小夜子さん、お電話には出られませんでしょうか? 状況をつかめと、指示されたのですけど」 徳子が応対をかわり、小夜子に声をかけた。「徳子です、とくこです。わかります?」 「いや、いや、加藤家はイヤ!」。押し問答をつづける内に、タクシーが到着した。 「さよこさん。来ましたよ、タクシーが。分かりますか? 来たんですよ、タクシーが」 落ち着かせるためにもと、なんどもタクシーと連呼した。その甲斐あってか、やっと小夜子の表情が穏和になった。武蔵の元にもどれるという安心感が、小夜子をおちつかせた。おぼつかなくはあるが、なんとか自力で立ちあがった。 「ご迷惑をおかけしました。これ、お代金です 」 「いえいえ、まだ途中ですから」 「落ちついたら、改めてお願いしにまいります」 「それじゃその折りに頂きます」 ふたりの手のあいだを、和紙の袋がが行き来する。 「もらっときなさい、二度と来やしないわよ」。しびれを切らせて、松子が千夜子にささやいた。しかしそれでは困るのだ。千夜子は、なんとしても小夜子のシャンプーを手にいれねばならないのだ。だからいま、払ってもらっては困るのだ。未払いだからと、もう一度きてほしいのだ。 タクシーに乗りこむ小夜子を「お気を付けて」とおくりだしながら、あらためて〝お願いだから、また来てくださいよ〟と、念じた。去りゆくタクシーに向かって、深々とお辞儀をした。 「どこのお嬢さまなの?」 興味半分といったふうに、女が大鏡のなかの千夜子に尋ねる。 「くわしくは知らないの、あたしも。きょうで二度目のお客さまなのよ。社長夫人みたい」 これ以上は聞かないでとばかりに、「で? こんどはどこにお出かけなの?」と、話題を変えた。 (百五十四) 小夜子の変事を外出先で聞かされた武蔵は、その足で自宅へもどった。武蔵の目にはいった小夜子は、ソファに腰かけてじっと一点を凝視している。背筋をピンと伸ばして、時に笑みをうかべる。連絡をうけた小夜子は「とりみだしています、泣きさけんでいます」と、狂女だといわんばかりだった。しかし眼前にいる小夜子は凜として、なにごともなかったかのように見える。 「大丈夫だぞ、もう。話してみろ、なにがあった?」 小夜子の前にすわり武蔵が声をかけた。武蔵が小夜子の意識のなかに入ったとたんに「ヒクッヒクッ」としゃくりはじめて「アーシアがね、アーシアがね、」とつぶやく。しかしそのあとがつづかない。なんども「アーシアが」という名前がもれるだけだった。 「アーシアがどうした? 」 〝やれやれ、またアーシアときたか。なにものだ、アーシアってのは。調べなくちゃいかんな、本格的に〟。少々辟易している武蔵だが、可愛い小夜子のためと我慢の子だった。 「来ないの、来てくれないの。淋しいから来てほしいって、いってるの。でもね、会えないの、もう」 〝来ないだ? 約束でも……そういえば、そんなことを言っていたなあ。それが、会えないとはどういうことだ?〟。どうにも要領をえない。 「小夜子、こっちにお出で。くわしく話してくれ、手助けしてやれるかもしれん」と、小夜子をひざに乗せて髪を指ですいた。 「ねっ! タケゾー、タケゾー。アーシアを助けてあげて」 初めてのことだ。名前で呼ぶことなぞ、一度たりともなかった。熱のせいか? と思いはするが、つい顔がほころんでしまう。 「ああいいとも。小夜子の頼みだ、なんでも聞いてやるぞ」 「ありがとう、タケゾー」。「それでどこに居るんだ?」。しかしまた、大声で泣き叫びはじめた。 「分かんない、わかんないの。小夜子には、なにもわからないの。小夜子がね、英会話がだめだからね、アーシアは手紙をくれないの。小夜子がね、学校をおさぼりなんかしたものだから、アーシアが怒ってるの、きっと」 「そんなことないさ。そのアーシアも、忙しくてだめなのさ」 「そうよね、そうよね。アーシア、世界中を旅してるから、お手紙書くひまがないのよね」 「そうとも、そうに決まってる」 「ショーにね、来るはずだったの。でも来ないの。淋しいさびしいって呼んでるの。行ってあげなきゃ」 「そうだな、小夜子はやさしいからな」 「タケゾー、連れてって。アーシアのところに連れてって」 すがりつくような目で、武蔵を見あげる小夜子。打ちひしがれた小夜子に、武蔵の想いはさらに強まった。 「よしわかった。それじゃ、一緒にさがすか?」 「うん、探そう。待ってるの、アーシアは。小夜子、はやく見つけてって、呼んでる」 「よし、それじゃ、ひと眠りしろ。起きたらさがしに行こう」 ゆっくりと体を横たわらせて、静かな寝息を立てる小夜子を見守った。 「けっこうです。ひと眠りされたら、精神的におちつくでしょう。体に異常はないですからな。心配はいりません。ま、心配ごとをなくしてやるのが一番ですよ」 「わかりました、先生。ご足労をおかけしました」 往診に訪れた医者を送りだした武蔵、そっと小夜子の寝姿を確認してから電話をとった。 (百五十五) 「専務を呼んでくれ」。電話の向こうが騒がしい。 けさのこと、「小夜子を連れてくることにした。おれのお姫さまを、みんなに紹介しようと思う」と、告げたばかりだ。 「ウオー! 社長の奥さまに会えるんだ」 「床の間にずっと飾られてたんでしょ? はやく、お会いしたいわ!」と、みなが口々に、待ち遠しさを言いあった。その小夜子がたおれたと聞かされて、全社員に動揺がはしった。 「熱を出してみえるとか」 「パーマとかの液に酔われたんじゃ?」 果ては、「ひょっとして、お目出度かしら?」などと、言いだす者さえいた。 「おう、五平か。心配かけたな、もう大丈夫だ。相当なショックを受けたらしい。それでだ、早急に調べてほしいことがある。ファッションモデルの、アナなんとかだ。消息をしらべてくれ。正確な名前? 女の子に聞け、知ってるはずだ。何でも、ロシア娘らしい。それから、きょうは戻らん。小夜子についてるよ。最近ほったらかしだったからな」 「タケゾー、タケゾー!」。二階から、小夜子の声がする。あわてて上がった武蔵を見つけるなり「どこに行ってたの! ひとりにしないで、小夜子を」と、すがるような目をむけてきた。 「悪かった、わるかった。さ、ベッドに入れ。休んでろ、な。そうだ、冷たいものを、アイスでも食べるか? どうだ?」 「要らない。タケゾー、出かけちゃう」。武蔵の上着のすそを、しっかりとつかむ小夜子だ。 「分かった、わかった。それじゃ、良くなったらにするか」 「うん。それとね、お肉が食べたい」 すこし赤みが戻った気がするが、声がまだ弱々しい。甘えてるのか? とも思いはするが、用心にこしたことはないと戒める武蔵だ。 「ハハ。そうか、そうか。小夜子はステーキが良いか。よし、それじゃ、牛一頭分食べさせてやるぞ。だから、寝ろ」 「うん。どこにも行っちゃいやだよ」。「ああ、約束だ」 小夜子のかたわらで、うとうととうたた寝をしていた武蔵が、電話のベルに起こされた。時計を見ると、小一時間ほどしか経っていない。小夜子に握られた手を、そっとはずして立ちあがった。 「おう、早かったなあ」 「わたしも驚きですわ、すぐに連絡がきました」 「で? どこなんだ、居場所は」 「居場所もなにも、あの世ですわ。事故死か自殺か? と、大騒ぎらしいですわ。アメリカでは大ニュースらしいです」 「おいおい。そんなに有名人なのか? そのアナなんとかは」 予想外の報告におどろく武蔵だ。田舎娘に声をかける女なんて、と高をくくっていた武蔵だった。 「わたしらみたいな無粋人には縁のない世界の大スターらしいですわ。会社の娘っ子も、大さわぎです。泣きだす子もいる始末でして。まいりました、まったく。しかしなんでまた、そんな大スターさんを調べろなんて」 「いや、小夜子がな」 「まさか! それがショックで、ですか? そんな大仰な」。明らかに憤懣やる方ないといった五平だ。 「ちがうんだよ、五平。単なるファンじゃないらしい。なんでもな、その大スターさんと義兄弟、じゃなくて義姉妹っていうのか? 家族になる約束をしてたらしいんだ」 「ちょっと待ってくださいよ」。そんな話を聞いたような気がする五平だったが、単なる夢みる少女の妄想だろうと思っていた。 「待てまて、五平。相手がどこまで本気だったかは、わからん。しかし小夜子は信じこんでたみたいだ。だからこその、ショックの大きさだ。わかってやってくれよ」 (百五十六) 再度の連絡がはいったときには、もう夜になっていた。 「えらいことです、タケさん。小夜子さんの話は、ほんとのことでした。トーマスに頼んだところ、くわしい事情がわかりました」 「なんだ、ほんとのこととは。なにを、興奮してるんだ」 五平が武蔵をタケさんと呼ぶのは、よほどに慌てているときだ。 「飼っていた犬が死にましてね。元々が天涯孤独の身の上で、相当に堪えたらしいんです。で、体調をくずしているそのときに、日本でファッションショーが開催されることになり、そこで小夜子さんに出会って、惚れると言ったら変ですが、ご執心となったらしいです」 ニュースで流れた情報ではなく、極秘のことだという。 「なんで分かるんだ、そんなことが」 なおも問い詰める武蔵だが、トーマス軍曹からの情報となれば信頼するに値するものだ分かってはいた。 女がおんなに惚れる、そんなことは考えたこともない武蔵だ。たしかに、男がおとこに惚れるということは分かる。俠気のある男に出逢った経験のある武蔵であり、おのれ自身もそうありたいと憧れの気持ちを抱いたこともある。そしていま、その俠気のある男として、五平はもちろんのこと会社の従業員たちから慕われている。しかし、女がおんなに惚れるとは……。どうしても理解できない。 しかも、名をなした女性ではなく、小娘なのだ。わがままで高慢ちきで嫉妬心も強い。どうひいき目に考えても、そこらにいる田舎娘なのだ。ならばなぜおまえはここまで固執するのかと問われれば、武蔵も返答にこまる。琴線に触れた女だ、そう言わざるをえない。まさか、アナスターシアという女もまた、武蔵が見つけた小夜子の本質に触れたのか……。アナスターシアなる女が俺と同類なのか。小夜子を奪おうとするアナスターシアに、猛烈な嫉妬心を感じる武蔵だった。 「えっと、なんて言ったか……。そう、マッケンジーですわ、服飾デザイナーの。この男がゲロしたらしいですわ」 得意げな話し方をする五平にたいしても、怒りがこみあげてくる。「ああ、もういい! 電話じゃ、だめだ。来い、すぐにこい!」と、思わず怒鳴りつけてしまった。 「どうしたの? なにか、あったの」 「起こしてしまったか? すまん、すまん」。まだふらつき気味の小夜子が、階段の手すりをしっかりつかみながら降りてくる。 「なにかあったの?」 「うん、五平を呼んだ」と、小夜子を支えながら武蔵が答える。 「あたし、あの人きらい」。反射的に、小夜子の口からでた。 「そうか、嫌いか。そいつは困ったな。俺にとっちゃ、福の神なんだがな。なんといっても、小夜子に引き合わせてくれた、恋のキューピットさまだ」 〝嫌いよ、大っきらい! キライ、きらい、嫌い!〟。こころのなかで、なんども呟いた。眉間にしわを寄せて、嫌悪感をあらわにする。あのような出会い方をしていなければ、これほどのことはなかったかもしれない。キャバレーでのタバコ売り時代を知る、その五平が嫌いだった。惨めな、小夜子にとって恥部と感じる時代を知るのは、武蔵ひとりで良かった。〝五平なんか、この世から消えればいいんだわ〟。あの加藤家とおなじ姓をもつ、加藤五平がいやだった。 (百五十七) 負の時代を経てのいまなのだが、小夜子には我慢ができない。晴れやかな輝かしい道を歩きたい小夜子にとって、あってはならぬ道程だ。たとえいまの生活を失っても、消し去りたいと思う小夜子だ。 アナスターシアだけでいい、アナスターシアとの出会いだけでいい。そう思いつづけた小夜子だ。しかしいま、そのアナスターシアが消えた。光りかがやくはずだった未来が、消滅してしまった。なのに小夜子には、他人ごとのように思える。 「かわいそうな人」と、小夜子がつぶやく。そこにいるのは、おのれではない別の人間だ。日々を泣きあかすであろう人、将来に絶望するであろう人、それは決して小夜子ではなかった。「タケゾー」と呼んだ小夜子、快活にふるまう小夜子。別人格のごとき小夜子、しかしいつまでその小夜子でいられるのか。 小夜子から、正三への思いが一気にうすらいだ。思いかえしてみればあくまでアナスターシアあっての正三だった。アナスターシアを失った小夜子には、正三の居場所はない。この地に来るはずみをつける役目の正三だった。単なるエスコート役の正三を、将来の伴侶と位置づけさせたのは? そうなのだ、アナスターシアの通訳をつとめた前田なのだ。前田のなにげない、ひと言だった。「彼だったら、あなたの意のままじゃない?」。そのひと言が、小夜子のなかにひそむ夜叉を呼び起こしたかもしれない。 「小夜子。お前を一番大事に思っているのは、この俺だぞ。お前の望みを叶えてやれるのは、この俺だぞ」 そんな武蔵のことばに、嘘は感じない。アナスターシアのいないいまとなっては、誰よりも小夜子を満足させうるのは、たしかに武蔵なのだ。しかし、伴侶はあくまで正三でなければならない。〝薄情な女じゃない〟。貞節、という二文字が頭から消えない。〝いっそ、この世から消えて……〟。だれのことを思い描いてのことばなのか、武蔵なのか正三なのか、あるいは小夜子自身なのか。いまの小夜子には判然としない。 ゆっくりとソファに座らせて、小夜子の額に手を当てた。 「うん、熱は下がったようだな。五平がアイスを買ってくるはずなんだが、食べるか?」 「アイス? 食べる、食べる。そういう五平なら、好きになってもいいけど」。小夜子の眉が八の字になった。 「五平です」。のっそりと、五平が顔を出した。手に、ドライアイス入りの菓子箱を持っている。 「こりゃお邪魔でしたか? お久しぶりです、小夜子奥さま」 「まだ奥さまじゃないもん」と、膨れる小夜子。そんな小夜子を愛おし気にみつめる武蔵。奥さんと呼ばれて、それを否定しなかった小夜子に顔をほころばせだ。小夜子は、ただただ、五平の手中にある箱に熱視線を送っている。 (百五十八) 「ああ、これですか。ご所望のアイスです。ドライアイスを入れさせてますから大丈夫だとは思いますが」。五平が言い終わらぬうちに、「ちょうだい、ちょうだい!」と、小夜子の手がのびる。 「小夜子、二階で食べてろ。五平とすこし話があるから」。「はーい!」 小夜子のあかるい返事が、五平を驚かせた。電話から聞こえてきた様子はただ事ではなかった。いまにもあと追いをするのではないか、そんな不安に刈りたたせるものがあった。 「そんな不思議そうな顔をするな。空元気だよ、からげんきだ」 「でしょうね」と、五平が相づちを打つ。好物のアイスを見て、気分が高揚したのか、とも思う五平だった。的確なアドバイスは、さすがにタケさんだと納得した。 「明日が心配だ。あすも元気なら明後日だ。とにかく気をまぎらわすことだ。バタバタさせて、疲れさせて、なにも考える時間をあたえないようにしなくちゃな」 武蔵もまた、眉間にしわをつくる。 「へえー」。にやつく五平に、「何だよ、その『へえー』は」と、すこし声を強くした。 「いや、感心したんです」と、顔の前で手をふる。 「ああ、いまのは医者の受け売りだ。医者の言うことだ。間違いがないだろうに」 「いい機会じゃないですか、タケさん。身をかためてくださいよ」 ふたりで酒を酌みかわすおりに、五平が毎度のごとくに口にだす台詞だ。当初こそ「ああ、その内にな」、「相手が見つかればな」と答えていた武蔵だが、最近では鼻で笑うだけだった。それがきょうは「会社に連れていくつもりだったんだがな。ま、体調のいいときにでも」と、本気度をうかがわせた。 「そりや、いい。みんな、喜びますよ。心配してますからね。元気な姿を見たら、きっと大騒ぎですよ。とに角、お人形さんだぞ! と言ってありますから」 「オーバーなことを。まあ、いい。で、モデルの状況はどうだったんだ」 「犬が死にましてね。そりゃもう、ひどい落ち込みようだったらしいですわ。なにせ、天涯孤独の身の上の娘でして」 それは聞いたと言う武蔵に対し、「うわさの域を出ないんですが、ロシア皇帝の娘のひとりじゃないかと」と、つづけた。 「おいおい、話が出来すぎてないか?」 「まあですね。ガセネタだと、あたしも思いますがね。ノイローゼになったらしいんですよ。しかしアメリカさんてのは、酷な国ですわ。契約だからと、仕事をつづけさせましてね」 「おいおい、そんな状態でも仕事させるのか?」 「ま、それだけ人気があるってことでしょうね。結局は、お定まりの不眠症になりまして。睡眠薬のお世話になった、と」 いまでこそ富士商会も、体調をくずした社員には「休め、休め。他のやつらに移されちゃ叶わんからな」と冗談まじりの声をかけ、すぐに退社させた。しかし設立当初には「馬鹿野郎! たるんでるからだぞ。仕事をして汗をかいたら病の方から逃げ出してくれるさ」と、尻をたたいたものだ。 「そうか。しかしあれは、常習ぐせがつくって話だろうが」 「仕方ないでしょう。眠れないって、暴れたってことですから。ところがですね、小夜子さんとの添い寝で熟睡できたと言うんですわ。小夜子さんの写真を枕元に置いておくと、不思議と眠れたと言うんですわ」 「そりゃまた、すごいご利益じゃないか。それがなんでまた、なんでこんなことになったんだ?」 「わかりません、それは。なにか、あったんでしょうな。不眠症が再発して、薬の多量服用です。で、帰らぬ人になったということです」 「わかった、ご苦労だったな」 (百五十九) 一礼をして立ち去ろうとする五平を「すまんが、二、三日会社を休むぞ」と、呼び止めた。 「もちろん、そうなさってください。とにかく一日もはやい回復をいのっております」 やっとその気になってくれたかと安堵の気持ちをおぼえる五平だが、その一方で、女のことで会社を休むなどまるで考えられない武蔵なのに、と不安のかげがよぎりもした。 「そうだった、今日のパーティはどうした」 思い出したように言う武蔵にたいし「大丈夫です。あちらさんは家族の異変にたいしては、我々の想像ができぬほどに寛大ですから。フィアンセだと告げたら、自分のことのように心配してくれましたから」と、安心してくれとばかりに笑顔を見せた。がその瞬間に、こんなときに笑顔というのは似つかわしくないかもと思った。しかし武蔵もまた、「そうか、安心した」とかすかに笑みのある表情を見せた。 「さてと、小夜子はどうしてるんだ?」。五平を送りだしたあと、すぐに二階へ上がった。 「はいるぞ、小夜子」。声をかけてみるが、なかから返事はなかった。そっとドアを開けると、ベッドの中で眠りについている小夜子がいた。脇のテーブルにアイスの箱が、そのままになっている。どうやら口にする前に、眠りについた模様だ。 「だれ?」。「起きたか?」。小夜子が気だるそうに起き上がった。そしてその口から発せられた意外なことばは、武蔵に奇異な感覚をもたらした。 「アーシアが来てくれたわ。タケゾー、会わなかった?」 熱に浮かされてのことだと思いはしたのだが、まだ異世界に留まっているのかと不安にさせた。 「熱で妄想をいだかれるかもしれません。そのおりには、先ほどのように、けっして否定なさらないように。本人が混乱します」 医者の、帰りぎわのことばを思い出した。 「そうか、来てくれたのか。そりゃ、良かったな。俺も会いたかったよ。アナ、スターシアだったか? 報告したかったぞ、小夜子を大事にするからって。安心してくれってな」 「アーシア、小夜子にあやまってくれたよ。『約束やぶってごめんね』って。手紙書きたかったけど、我慢できなくなりそうだから書けなかったんだって。小夜子と一緒にベッドで寝てたの、アーシア。小夜子と一緒だとよく眠れるんだって」 「そうか。小夜子と一緒だと、良く眠れるのか。だったら、俺も一緒に寝たいなあ。最近、眠りが浅いんだ」 「うん、いいよ。アーシアも、そうしてあげてねって言ってた」 額に手をあてると、薬が効いたらしくほぼ平熱にもどっているように感じだ。背中に手をまわすと、じっとりと濡れている。このままではふたたび熱を出すかもしれない。「服、着替えような。手伝ってやろうか?」と、小夜子の反応を見た。「助平!」。普段ならば、飛びかからんばかりに絶叫する小夜子が、力なく「うん」とうなずいた。思わず「よし、よし。それじゃ着替えるか」と、肩を引きよせた。 「じつはな、小夜子。アーシアはな、睡眠薬の飲みすぎだったんだ。聞いたか? アーシアから」 小夜子の反応をうかがいながら、武蔵はゆっくりと話をつづけた。 「ううん、なんにも。そう、睡眠薬を飲んでたの? やっぱり、はやく小夜子が行ってあげれば良かったのね」 「そうだな、ほんとにそうだな。けどそれじゃ、俺がさびしくなるがな。小夜子、落ちついて聞いてくれよ。五平の調べによるとだ」 とつぜん小夜子の指が、武蔵の声をさえぎった。武蔵の唇に手をあて、小夜子が口を開いた。 「ちょっと待って。アイス、溶けてない? タケゾーにも上げようと思ってね、アーシアには一つしか上げなかったのよ。えらいでしょ、小夜子。タケゾーのことも、キチンと考えてるんだから」 テーブルのアイスに手をのばして、「おかしいわ、おかしいわよ。こんなの、絶対おかしい!」と、金切り声をあげた。 (百六十) 「どうした? 大丈夫だぞ、俺に話してみろ」 「アーシアにひとつ上げたのよ。なのに、三つ入ってる。開けたとき、三つだったのよ。なのに、なのに、どうしてなの!」 「小夜子、それはちがうぞ。五つ、入ってたはずだ。五平に、五つ買ってこいと言ったんだ。三つはな、身を切ると言って縁起がわるいだろう? 四つは死だしな。だから五つにしろ、ってな」 五平の購入数など知る由もない武蔵だが、なんとかなだめようとする武蔵だ。 「そっか、そうだよね。小夜子の勘違いだね。ね、食べよう」と、武蔵に差し出た。 「どうせなら、小夜子に食べさせて欲しいがな」 「もう、甘えん坊ね。いいわ、じゃ、アーンして」 「うん、うまいぞ。こんなにうまいアイスは、はじめてたぞ」 相好をくずして、小夜子が運ぶアイスをほおばる。 「でしょ、でしょ。アーシアも、美味しいって言ってた」 「大っきな目をね、まん丸にしてね、『フクースナ!』って言ってくれたよ」 「なんだ? ふくすけ、だ? 足袋のことか?」 「ハハハ、フ、クー、ス、ナ、だよ。タケゾー、分からないんだ? ロシア語は」 武蔵の弱点を見つけたとばかりに、顔が小おどりしている。小夜子にとっての武蔵は、アメリカで放映がはじまったスーパーマンだった。「弾よりも速く、力は機関車よりも強い」。そんなスーパーマンとしてとらえていた。日本での放送が待ちどおしいと噂がかまびすしい英語学校においてそう吹聴する小夜子だったが、もの笑いの種でしかなかった。小夜子としては、それほど頼りになる存在なのだと強調したいのだが。 武蔵の口のなかで、スプーンが踊る。カチカチと、歯にあたり音を立てる。 「ロシア語でね、おいしいよっていう意味なの」 得意げに小鼻をふくらませる、小夜子。思わず抱きしめたくなるような、小夜子だ。 「小夜子はロシア語が分かるのか? そいつは凄いぞ! ソビエトと貿易をはじめたら、小夜子が通訳してくれ」 「うふふ……いいよ。通訳してあげる。アーシアにいっぱい教えてもらうから」 どうしてもアナスターシアから離れない小夜子だ。 小夜子の精神状態が見えない現在、どう接すればいいのか分からない。 「普段通りにしてください。その内に落ち着きますから」 往診した医者は言う。しかしたかが町医者のくだした診断だ、信頼していいものか迷ってしまう。逡巡してしまう。おとぎ話の世界にいるがごとき小夜子なのだ。話を合わせるといっても、そのままおとぎ話の住人になってしまうのではないかと危惧される。小夜子は、アーシアが睡眠薬過剰摂取だと理解している。そして死亡したことも認識している、はずだ。 「アーシアはいま、天国への階段をあがっているのよ」と、口にしたのだ。しかしそれがアーシアとの会話だとなると、ほんとうのところは、アーシアの死を現実のものとして受け入れていないのではないか、武蔵にはどうしてもそう思えるのだ。。 いずれは受け入れさせねばならぬとしても、そのいずれをいつにするか。悩む武蔵だ。即断即決が心情の武蔵だが、こればかりはそうもいかない。〝医者に相談してみるか、素人考えは生兵法だ。俺が、独断専行の権化と言われるこの俺が、他人の意見に従おうとするなんて〟。どんなに高熱を出そうとも「気合いで直せ、直るはずだ」と怒鳴っていた武蔵だったが、小夜子だけには弱気の虫が出てしまう。〝そうか。こいつが、巷間で言われる、発露、心情のはつろ、というやつなのか〟 「タケゾー……」。「なんだ、どうした?」。こころなしか、小夜子の肩が小きざみに震えている。小夜子のひざに、ぽたりぽたりと滴がしたたり落ちる。 「アーシアね、アーシアね。死んじゃったの、小夜子をのこして死んじゃったの」 武蔵のひざに顔をうずめて、激しく泣きじゃくった。武蔵の危惧がふきとんだ。小夜子は正気だと確認できたことがなによりだった。産まれたばかりの赤児のように、激しくはげしく泣きさけぶ小夜子に、これ以上にはない感情の高ぶりを感じる武蔵だった。 「そっか、そっか、死んじゃったのか。アーシアが死んじゃったか。それで小夜子にお別れを言いにきてくれたのか。そっか、そっか。可哀相にな、かわいそうにな。けどな、なんの心配もいらんぞ。小夜子は、この俺の宝だ。武蔵の宝物だから」 「タケゾー!ほんとね、ほんとね。小夜子を守ってくれるよね。ほんとはね、アーシアがね、呼びにきたの。一緒にこちらで暮らそうって。でもね、小夜子、まだ死にたくないの」 「大丈夫、大丈夫。俺がついてる、武蔵が守ってやる。アーシアには、俺から話しておくから。『安心してください』ってな」。小夜子の体をだきおこすと、涙でくしゃくしゃになったほほに、軽く口をおしつけた。流れおちる涙を「俺のは酒の味がするのに、しょっぱいなあ、小夜子のは。しょっぱいけど、美味しいぞ」と、吸いつづけた。。 「バカ、そんなこと……」。ゆっくりと、小夜子の目が閉じられた。 (百六十一) 〝待てまて、急いてはことを仕損じるぞ。それとも、据え膳喰わぬは男の恥か? いやいや、小夜子は俺の伴侶になる女だ。そこらの女どもと一緒にしちゃいかん〟。小夜子のおでこに軽く触れて「もう休め。明日、ビフテキでも食べよう。小夜子、好きだもんな。牛一頭分、平らげさせてやるぞ」と、体を横たえさせた。 「タケゾーも、眠ろうよ。小夜子と一緒に寝ようよ」。武蔵の手をにぎり、小夜子の隣へと誘った。 「そうだな、寝ような。一緒に寝ような。これからずっといっしょに寝ような」 小夜子が体をずらして、武蔵の入りこむ隙間をつくった。ありえないことだ、小夜子が他人のためにおのれを譲ることは。体を動かしたのでない。いや体を動かしつつ、こころも動かしたのだ。おのれの、小夜子の奥底にある分を、武蔵にあずけた。 これまでの、わずか二十年足らずの人生だけれども。あのアナスターシアにですら、こころを許している相手だというのに、おのれの、分だけは譲らなかった。いま、ベッドの上で体をずらしたということは、小夜子のこころの領分に武蔵を招き入れたということなのだ。衰弱しきった体がそうさせたのか、弱ったこころが白旗をあげたのか。いまの小夜子にはそれすら考えられないでいた。 小夜子のかたわらで束の間の休息をとる武蔵が、小夜子との語らいにどれほどの安らぎを覚えることか。これまでに幾多の女性と、ねやをともにしてきた武蔵だ。むろんその殆どが、金員だけのつながりだ。損か得か、それが基準だった。戦友だ、刎頸の友だと言い切る五平にたいしてですら、その繋がりの中に損得勘定がどこかしらに存在している。御手洗という苗字のために受けた数々の屈辱が、屈折した人間をそだてた。人にひととして対するすべをもたぬ武蔵だった。それがために、幼いころには卑屈になり、そしていまそれを隠すために、おのれの心中から消し去るために傲慢さをむき出す。 しかしまた、人のこころのあり方にも敏感になった。うつろい易いこころを引き止める術、怒り心頭に達するこころを鎮めるすべ、悲嘆に暮れるこころを慰める術、そして奈落の底に陥ったこころを奮い立たせるすべ。それらのすべてで、五平とともに富士商会を育ててきた。鬼神のこころでもって、戦後の混乱を成りあがりつづけた。いっ時の気のゆるみも持たずに、周囲すべてに気をくばりつづけた。それらが為に産まれる体の疲れは、体を横たえることでとれる。しかし、こころの疲れは消えない。酒を飲むことで麻痺させることはできる。しかしそれで消えることはない。 それが……。 武蔵の誘惑をきっぱりとはねつけた小夜子に出逢い、世俗の垢にまみれていない純真さに興味をおぼえた。世間知らずの小娘だと感じつつも、ひたむきな思いを隠そうともしない振る舞いに、武蔵の知らぬ世界に住む小夜子に惹かれはじめた。 小夜子が感じたとおりに、足長おじさんとしての感情を抱いたはずだった。五平の「嫁さんにどうです」という言葉に、〝こんな小娘なんか、俺に合うはずがない〟という思いが強かった。しかし小夜子とのたわいもない言い合いが、武蔵のこころの疲れを癒やすようになっていた。小夜子との損得抜きの会話が、武蔵のささくれ立っていた胸懐をやわらげていった。 (百六十二) 五平と、一升瓶を座卓ではなく畳のうえ上に置き、茶碗酒と決め込んだ。武蔵との出会いからかれこれ十年になる五平だが、これほどまでに上機嫌の武蔵を見たことがない。 「八年だ、八年だぞ。わかるか、五平。富士商会を立ちあげてから、早や八年だ。感慨深いじゃないか。いままで猪突猛進してきたんだ。突き進んだんだ。列を作るやつらがいれば蹴散らして先頭にたち、罵声をあびせかけるやつらをぼこぼこにしてきたんだ」 「そうですな、タケさん。頑張りましたよ、タケさんは」 「なに言ってる、五平だって頑張ったじゃないか」。茶碗を空にしろと一升瓶をかたむける。 「いやいや、あたしの頑張りなんて。たけさんにくらべリゃ、屁みたいなもんです。いつもタケさんのうしろにかくれて、小さくなってましたから」 「怒るぞ、五平。俺はお前がいてくれるから、どんな無茶もやってこれたんだ。それにだ、なんといってもGHQだよ。これが、でかい。ぶつの調達もそうだが、うしろ盾みたいなものじゃないか」 「そう言ってもらえて、あたしもうれしいです。けどねえ。あたしなんか、人間じゃありませんから。人非人です、女衒なんてのは」。畳の一点を見つめたまま、ぐいと飲み干す五平。 「それは言いすぎだ、五平。そこまで卑下することはないだろうが。そりゃ、褒められたことじゃないにしてもだ。前にも言ったが、五平のおかげで救われた者がいるだろうが」 空になった茶碗に、武蔵が酒をつぐ。 「それに、五平。お前だって、泥水をすすって生きてきたんだ。お前は男だから女郎なんてものにはならなかったにしろ、似たようなものだろう」 「はぁ、まあ。そうなんですが、そう言われりゃ。口べらしで、奉公にだされました」 「いくつだったんだ?」 「たしか、十いや十一だったですか? そんなものでしたよ。しかしまあ、あたしとおんなじ境遇の小僧ばっかりでしたよ。みんなして、毎ばん泣きましたわ」 「俺なんかも、似たようなもんさ。毎朝とうふ売りにかりだされたし、夜はよるでお袋の内職のてつだいだ。で、結局は家をおんだされて、養子だよ。けどまあ、それが良かったかもなあ。みっちりと商売の基本をたたき込まれたし。しっかし、跡とりの子どもが出来ちまったら、もう厄介もんあつかいだ。だから軍隊に召集されたときなんか、腹ん中で万歳してたよ。さすがにみんなの前では、かしこまってたがな」。一点のくうを見つめながら、武蔵がいう。 「タケさんもですか? あたしもなんですよ。他のもんはね、かげで泣いてたんですがね、あたしは小おどりしましたよ。これで銀しゃりが食えるかもしれないって」。「まあな。おたがい軍隊じゃ、殴られっぱなしだったけどな。しかし、戦地にも行かずにすんだし、なにより飯がなあ。三度さんど食えたってのは、ありがたかった」 「ほんとにですな。ところで、タケさん。今夜はえらくご機嫌のようですが、なにかありましたか?」 「ふふん」と、鼻でわらう武蔵にたいして「ひょっとして、タケさん」。小指を立てた。 「バッカヤロー! まだだよ、まだ。小夜子は、そんな女じゃねえよ。しかしまあ、なあ」 小夜子も、やっと気持ちの整理がついたみたいだな」 「そいつは、なによりだ。おめでとうございます! なるほど、それで祝杯ですか。そいつは、いいや。明日にでも、みなに教えてやりますよ。いやあ、大騒ぎですよ、きっと」 「いや、待てまて。まだ言うな。小夜子のお披露目どきに、俺から言うよ。案外のところ、はやく連れて行けそうだ」 |