(百四十八)

 コックリコックリと、茂作が陽光のなかで至福のときを過ごしている。縁側のむこう側の花壇も雑草だらけとなってしまった。小夜子がつくっていた花々も、水をやる者がいなくなり見るもむざんに枯れてしまった。最近は小夜子のゆめを見ることも、とんと少なくなった。
 すこし前までは、小夜子のゆめを毎夜のごとくに見ていた。きらびやかな服に身をつつみ一条の光にみちびかれて、ホール中央にあらわれる。そのうしろに、多勢のバックダンサーを従えての登場。おおきく両手をひろげて歓声にこたえる小夜子がいる。
「小夜子、さよこ」。なんどか呼んでみるが、年老いた茂作の声は大歓声にかき消されてしまう。
「ほら、ここにお出で」
 小夜子の白い手が茂作にむけられ、手招きをする。夢遊病者のごとくにふらふらと、小夜子にちかよる茂作。茂作? いや、そこには小夜子にかしずく正三がいた。正三が小夜子の前にひざまずき、うやうやしく手をとっていた。
「小夜子さま、正三は永遠の愛をちかいます」
 妖艶な笑みをうかべて見おろす、小夜子。それを見上げる正三、いや茂作だった。茂作が正三に、そして正三が茂作に。入れかわるその様に、ただただ困惑するだけだ。
「大丈夫、大丈夫よ」。やさしく耳にひびくのは、たしかに小夜子の声だった。

「茂作さん、茂作さん」。声をかけられてもすぐには声が出ない。まだ夢のなかにただよっている。
「茂作さん、為替がとどいています。この証書を持って、局まで来てください」と、郵便局員が肩に手をかけた。
「あ、お前か。為替が着いたと? そうか、そうか、ありがとうよ。世話をかけたな」
 竹田小夜子名義の為替がとどきはじめてから、もう一年が経つ。差出人に疑問をまったく持たぬ、茂作。二十歳そこそこの小娘である小夜子が、いかにして工面している金員なのか、まるで気にとめない。
 村人たちの寄りあいの場では、その小夜子の稼ぎ場所が話題になっている。多分にやっかみが含まれて、いろいろとかまびすしい。
「なんぞ聞いたか?」
「いかがわしい所での稼ぎじゃねえかと、聞いたが」
「わしは、妾じゃと聞いたがの」
 酒を酌みかわしあいながら、日頃の疲れをとる酒の肴となっている。
「たしか、女給をしとるんじゃなかったのか?」
「おおかた、そこで見つけたんじゃろうて」
「まあのう、べっぴんさんじゃったからのう。ない話ではないのう」
「しかし、茂作もなさけけない。孫娘にやしなってもらうとは」

 小夜子が武蔵宅に身をよせているなど、つゆほどにも知らない。毎月送られてくる為替が、小夜子名での為替が、じつは武蔵からだとは思いもよらない。しかも先物取引からの督促がピタリと止まったのが、武蔵の手によることも知らない。
わしのいっかつにおそれをなしたな≠ニ、勘ちがいをしている。
小夜子は良い子だ。キチンと忘れずに送ってくれる。おかげで楽ができるというものよ
 それほどに畑仕事に精をだしていたわけではないが、多少の収入はあった。しかしいまは、草のはえ放題になっている。見かねた本家から苦言がくるが、どこ吹く風の茂作だ。小夜子からの為替にすっかり頼りきっている。ならばと、本家が畑の世話をすることになった。雀の涙ほどの借地代が茂作に入ることになった。
「戦前には考えられぬことぞ、本家が分家の畑をたがやすなんぞ。逆ではないか」と、お婆さまがなげく。「いっそ取りあげてしまえ!」と、怒った。

(百四十九)

 今夜もまた村の寄りあい所に集まった村人たちが、口々にうわさ話で日々の憂さを晴らしにかかっていた。
「しかし竹田の本家も情けない」
「そうよ、そうよ。たがやしてやっとるとか」
「それとも借金のかたに取りあげたのかいの」
「それがて、借りてた金を利子をつけて返したそうな」
「そりゃまた豪気なことよ、利子をつけてかいな。あやかりたいものよ」
「ほんに、ほんに」
 本音がでたところに、息せききって佐伯本家の当主である正左ヱ門がかけこんできた。
「遅うなって」
「なんの。それじゃ、始めましょうかの」
「茂作が、まだじゃが」
「構わんさ。いっつも来んから、声なんぞかけてへんわ」。
「ま、いい。今夜は良い話での。うちの正三の縁談が決まったのよ」
「ほんまですかいな、それは」
「ほんに、おめでたいことで」

 そこかしこで祝いのことばが飛び交った。佐伯本家からの差し入れだと、酒がふるまわれている。ちびりちびりと口をつけていたが、祝いの酒と聞きみな安心をした。
「茂作のやつが知ったら……。あいつのこっちゃて、なんくせをつけるんじゃないかの」
「しかし佐伯さまのご本家じゃし。いくらなんでも、それは」
「ほうじゃがのお」
「ところでご本家さん。すこしばかり気になることがあるんですがの?」
 世話役と話しこんでいた正左ヱ門が、顔をむける。
「あととりさまはどうされるんで? わしらも、ちょいと気になります」
「そうよ、そうよ。官吏さまになられるということは、もうこちらには戻られないので?」
「いやいや、ご心配をおかけしとりますなあ。跡とりは、正三です。官吏を退職したあとに、戻ってきます。それまでは、わしが頑張るちゅうことですわ。まだわしも、五十と一ですからのう。そうそう早くの隠居とは考えておりません。まあ万が一のことがあったら、正三までのつなぎとして誰ぞを、と思ってはおりますが」。
「正三さまは、お戻りになられるんで?」
「ほうですか、ほうですか。それならわしらも安心ですわ」
「正一坊ちゃまが、ご戦死なさらねば、のお」
「それは言うちゃならんことぞ。お国のために散らされたお命じや。いまは、靖国のみやしろでお眠りになられているんじゃ」
「そうそう。お国をおすくいくださったんじゃてのう」

 次男の正二のことは誰も口にしなかったが、つなぎ役が正二かとへきえきした気持ちにさせられた。まだ十六歳のおりに隣町の娘をはらませてしまい、「勘当だ!」と追い出された放蕩息子だった。子どもが出来てからはこころを入れ替えて真面目にやっているという風のうわさが流れてきたが、「どうせ佐伯家のつくりばなしさ」と本気にする者はいなかった。

(百五十)

「こんやのよりあいは、わしぬきかい? わしにきかせたくないことでもあるのかい?」と、茂作が現れた。意地悪げに、ギロリと正左ヱ門を睨みつける。
「いやべつに、そんなことは」
「茂作。あんたは声をかけても、いっつも出て来んからよ」
「ほおじゃ、ほおじゃ」
「こんやはどういう風の吹きまわしかい?」
 ばつ悪げに声が場のあちこちから出た。
「ふん。おじゃまだったかいの? わしは」
 上がり口の土間で、着物の裾をはたいてから上がりこんだ。
「茂作、いいかげんにせんか!」と、本家の繁蔵がどなりつけた。普段ならばちぢこまる茂作だが、いまは恐いもの知らずだ。
「本家じゃからて、そうどなりなさんな。わしにはきかせとうないはなしが、佐伯ご本家からあったんじゃろ? おおかた、正三お坊ちゃんのよめとりじゃろうが」

 どこで聞いたのかと、顔色を変える正左ヱ門だ。ここにいるすべてが、今のいままで知らずにいたのだ。佐伯本家のなかでも、使用人はもちろんのこと家人すら知らない。知るのは、母親のタカだけだ。
「ふん。ふにおちませんかな? わしがしっておるのが、ふしぎですかな?」
 下座に座り込むと、ふんと鼻を鳴らした。
「ま、まさか!タ、タカが?」
 背中を丸めた茂作が、茶を出さんかとあごをしゃくった。
「いや、いや。タカさまではありませんぞ。ご本人です、あととりの正三お坊ちゃんですよ」
 これにはみな唖然とした。
小夜子が言い寄っている。分もわきまえぬ不埒なおなごじゃ!≠ニ、悪評紛々だった。それが、どうも雲ゆきが怪しい。だれも口に出さないが、正三が言い寄っているのではと思いはじめた。

「茂、茂作さん。その件については、あとでゆっくりと」。顔色を変えて、正左ヱ門が茂作に頼みこむ。
「いんや。こんやこの場ではっきりさせる。小夜子は正三のよめにはやらん。理由は、いまは言わん。ま、みなのどぎもをぬくことだけはまちがいない」

 茂作のこのことばが、まずは度肝をぬいた。
「正三坊ちゃんをそでにするとは、もさくは気でもくるうたか?」
「やっぱ、だれぞの妾になったちゅうのはほんとか?」
「うむ。そうとしか考えられんぞ」。そこかしこで、ピーチクパーチクはじまった。
「茂作、おまえ、気が狂うたか! 佐伯さまに、なんちゅう言い草じや。謝れ、早うあやまれ。わしも一緒にお許しをねがうけん」
 あわてて茂作を叱りつけるが、茂作は胸を張ってどや顔をみせる。
「いや、茂作さん。竹田のご本家さん。それは、結構なお申しでです。当方から話を持ちかけた覚えはありませんが、了解いたしました」
 居住まいを正した正左ヱ門が、キッと茂作を睨みつけた。ふん! 正三ごときに小夜子はもったいないわ=B茂作の頭のなかには、キラキラと輝く小夜子がいる。佐伯の本家に平身低頭の繁蔵を見くだす茂作のその姿にだれもが呆れつつも、心底では感心した。意気揚揚と引きあげる茂作だがその脳裏には、世界的に有名だといわれるアナスターシアと姉妹になった小夜子がいた。

 女学校にかよう娘たちに「アナスターシアとかいうモデルを知っているか?」と問いかけた茂作に、「小夜子さまのお友だちですよね」と目を輝かせてくる。「うらやましいです、ほんとに」
 半信半疑だった茂作も、娘たちがそろって嘘を吐くはずもないと納得できた。小夜子が意気軒昂としていた理由がやっと分かった。小夜子と外人娘が、にっこりと笑う姿が思い浮かぶ。そしてそのふたりにかしずかれる己を、思い描いた。