(百三十九)
「佐伯君、この案件を報告書にまとめてくれ給え。次官さま提出用だから、頼むよ」
「かしこまりました。すぐにも、取り掛かります」
正三は声を掛けられたとたん、弾かれたように立ち上がった。やっと、ここまでに辿り着いたのだ。
正三は小夜子の上京からおくれること三ヶ月あまりの二月に、逓信省に途中入省した。その後すぐに総理府内の電波管理委員会に出向を命じられ、テレビ放送に関する免許交付にかかわることになった。大きな利権がからんでいるだけに、正三の行動はきびしく制限された。先輩職員らと同様に外部との接触がいっさい禁じられ、府内への泊りこみもしばしばだった。
そもそも新任の正三ごときが組み入れられるようなプロジェクトではなかったが、叔父である佐伯源之助の強引な引きがそこにあった。源之助にとって本家筋の跡取りである正三を、一介の官吏で終わらせるわけにはいかないのだ。この後一旦休職とし、東大の法学部へ入学させる手筈を整えていた。わざわざこの時期に入省させたのは、このプロジェクトに関わらせたいが為だった。
テレビ放送を含む電波行政が、こののち逓信省において主流になると踏んでのことだった。ただ、師範学校出身の正三では、出世レースから取り残されることは目に見えている。そこで自身の母校である帝国大学への入学させ、どうしても局長までは出世させたかった。そしてあわよくば、事務次官にまで上り詰めさせたかった。おのれ自身が局長止まりであることが、次官レースに遅れをとったことが、悔やまれてならなかった。現次官の天の声によって、源之助の夢は断たれた。地元出身の代議士を動かしての運動も実らず、佐伯本家への借財が残ってしまった。
「源之助よ。金のことはいい、くれてやる。それよりも、正三を頼む。なんとしても、お前の後釜に座らせてくれや。いやいや、次官さまは無理じゃて。正三の器量は、親の儂が一番よく知っておる。局長じゃ、お前と同じ局長さまにならせてくれや。それとな、悪い虫がついてしまって、困っておる。ほれっ、一攫千金ばかり狙うちょる茂作という男を知っとるな? そこの小夜子ちゅう娘がの、正三にちょっかいを出しとる。あんな家と親戚筋なんぞに、なるわけにゃいかんのだ」
「分かっとります、わかっとります。ご本家のためです、なんとしても、正三くんを次官にまで上り詰めさせましょう。後押しさせていただきます。それに、小夜子とかいう娘、正三くんには近づけさせません」
ふたりのひざ詰談義で、正三のレールが敷かれた。
この報告書を書き上げれば、小夜子さんに逢えるんだ=B正三は、となり町に出かけて観た映画のあとに、暗くなった公園での「約束よ」という声とともに触れられた、小夜子の柔らかい唇の感触が忘れられなかった。夢のなかで幾度となく吸い合った小夜子との接吻に、毎日まいにち、思いを馳せていた。
もうすぐです、もうすぐです。今日中に報告書を書き上げます。徹夜してでも、書き上げます。そうすれば、ぼくは、ぼくは、貴女のもとに馳せ参じます。もうすぐです、もうすぐです
翌朝大役を果たし終えた正三は、早退届を提出した。報告書を受け取った課長は、「うん、ご苦労さん。よく頑張ってくれたな。疲れたろう、ごくろうさん」と、機嫌よく了承した。
昼休みのおりに中庭にでた正三は、久しぶりの俗界に触れた気がした。正三の気持ちは昂ぶっていた。大きく背伸びをして、一、二と声を挙げて腰をまわす。そんな正三に、ふたりの男が声を掛けてきた。
「終わったなあ、佐伯くん」
「さあ、思いっきり騒ごうじゃないか」
「いや、今日は、ちょっと」
口ごもる正三に対してふたりが声をかぶせてくる。
「夜七時に集合、でどうだい? 場所は、うーん……」
「なにを迷うことがあるんだ。我が郵政省御用達が、あるじゃないか」
「ああ、そうだな。まだ極秘なんだよな、我々の仕事は。結局、あそこか」
「いやじつは、今日は大切な用があるんで。悪いけれど……」
小夜子に逢いたいとの思いが強い正三は、先輩たちの誘いを必死に断った。しかし、先輩たちの興奮ぶりは納まらない。
「なにを言うかあ! 我々との交流を拒否することは、許されんぞ。君は将来、次官さまを狙っているんだろうが」
「そうそう、次官さま狙いだ。だとすればだ、我々の協力なしには、有り得んぜ」
「今夜ばかりは、例え親の生き死にであろうとも、優先されるべきだぜ、佐伯くん」
「そうだ、そうだぜ。今夜の慰労会が終わるまでは、このプロジェクトは完遂しないんだぜ」
有無を言わせぬものだった。殺気立った物言いだった。
「分かりました、わかりましたよ」
興奮状態のふたりに対し、そう答えざるを得ない正三だった。小夜子さん、ごめんなさい。明日、あすには必ず、馳せさんじますから=B念じるような気持ちで、頭にうかぶ小夜子に手をあわせた。幸恵からの手紙で、加藤家に身を寄せていると知らされている正三だ。「手紙だけではだめ! 必ず、かならず赴いてください」。強い口調での文言があった。それも、三度も。便せん二枚というのに、三度もだ。これではさすがに、気弱な正三でも応じざるを得ない。そしていま、大役を果たし終えたという安堵感が、高揚感が、正三をして、もう昔のぼくではない! と、気概を持つに至っていた。
(百四十)
「女将、おかみ、女将。聞いてるか? この佐伯正三さまはな、驚くなかれ、恐れ多くもだ。将来において、逓信省の次官さまになられるお方なんだよ。我々とは、まるで違うお方なんだ」
「そうですよ、そうです。年次としては、我々の後輩ではありますよ。年下です。とつぜんにこの極秘プロジェクトに参入した、新人ですよ。でもね、佐伯保険局局長さまの甥っ子さまであらせられる。控えおろう! ってな、もんですよ」
ネクタイをねじり鉢巻にしたふたりが、口々に正三をもて囃した。
「まあまあ、そうですか。佐伯局長さまの甥っ子さまですか。いつも、佐伯さまにはご贔屓にしていただいて、ありがとうございます」
「でな、女将。今夜の……」。口ごもる正三に対して、
「まあまあ、みなまで仰いますな。分かっておりますですよ、万事お任せあれえ、です。どうぞ、心ゆくまでお遊びくださいまし。もうそろそろ、芸者衆も来ますですし」と、女将は胸をポンと叩いた。
「甥っ子の正三が多人数で行くはずだ。遊びを知らん連中だから面倒を起こすかもしれんが、面倒を見てやってくれ」。源之助からの連絡が入っている女将だったが、素知らぬ顔で正三たちを迎え入れた。縁側のある部屋で、築山のある庭園が観られる。石組みやら生け垣やらのある趣たっぷりの日本庭園だった。
上座に座らされかしこまったままの正三は、女将に勧められるままに盃を空にした。「こんばんわあ」と華やいだ声がかかり、ふたり三人と、芸者衆が部屋にはいった。いっきに座敷が盛りあがり
「よおし、来たきたあ。さあ、俺は歌うぞ。お姉さん、おねえさん。トンコ節を頼むよ。踊り? いいよ、いいよ、そんなもの。俺たちにゃ、分かんねえからさ。おしゃみ、三味線を頼んますよ」
「よし、お姉さん。わたしは、分かるよ、わかります。踊りましょ。ね、おどりましょ。無粋なやつは放っといて踊りましょ。なんてたって、ワルツです。芸者ワルツだよ。ね、いっしょに踊りましょ」
戸惑う芸者にたいし、調律を終えた三味線弾きが声をかけた。
「お姉さん方、こちらは若手の官吏さまたちですよ。さあさ、楽しくいきましょう」
盛り上がるふたりに対し、正三はただただ盃を空にした。いつの間にか女将が消えて、色香を漂わせる芸者が相対していた。
「未来の次官さまあ、あたしにも頂かせてくださいなあ」
正三のとなりに席を替えると、正三の手から盃を盗みとった。グイッと盃を空にすると、さあと言わんばかりに、正三の肩にしなだれかかった。ほろ酔状態にある正三は、科を作るその芸者に、「おい、きみに分かるか? ぼくわねえ、小夜子さんが好きなんだよ。だからぼくの肩にもたれかられるのは、はなはだ不愉快だ」と、険を見せた。
「正三さん、わたし、小夜子よ。今夜だけは、小夜子なのよ」。芸者はそんな正三に、まるで動ぜずだった。
翌朝のことだ。目覚めた正三のとなりに、見知らぬ女がいた。ズキズキといたむ頭に、おぼろげに昨夜のことが思いだされてきた。
ちょうずに行って、厠に行って、だれかが……。なんてこった! ぼくの、あれを、ズボンのなかから……
それから、どうした? 芸者に手をひかれて、廊下をあるいた。月が半月だったか? それをながめて、腰を下ろして
芸者の袖口に手を入れて、いやそうじゃない。芸者がぼくの手をつかんで、胸元からだったような=@
そのあと部屋にはいり、敷かれてあった布団の上に倒れこんだところまでは思いだした。しかしそのあとのことが、鍵のかかった引き出しのなかに記憶があるようで、判然としない。正三のなにかが、その鍵を開けることを拒否しているように感じた。しかし、音が、シュルシュルといった、帯のすれる音が聞こえた気がした。
「なんて、こった。なんてことを、このぼくは。ああ、小夜子さんに会わせる顔がない」。顔面蒼白の正三だった。はげしい後悔の念にさいまれながら、頭をかきむしった。白いシーツの上に、正三の髪の毛が無数に落ちた。床のなかから、気だるそうに女が声をかけてくる。正三は、そのことばに弾かれたように立ち上がった。
「:34*;%&$#・・」。女から発せられたことばも、いまの正三には異国語に聞こえた。「放っといてくれ!」。女のさし出すワイシャツを引ったくるようにして、正三は部屋をでた。
「小夜子さん、小夜子さん。ごめんなさい。ぼくは、酔ってたんです、ほんとうに酔ってたんです。前後不覚になっていたんです」。呪文のように、なんどもなんども呟きながら、のろい、亀のような歩をすすめた。
(百四十一)
その夜、正三は叔父である源之助の前で小さくなっていた。背筋をピンと伸ばしての正座を余儀なくされていた。
「正三。きょう、役所を欠勤したそうだな。それも、無断欠勤だ」
「はい、申し訳ありません」
「まあ、いい。いまさら怒っても仕方がない。二度としないことだな」
「はい、決して」
「で、どうだ? 昨夜は楽しかったか。三人で、どんちゃん騒ぎをしたそうじゃないか」
身がまえる正三にたいし、源之助は相好をくずしていた。葉巻の煙をゆったりとくゆらせた。
「申し訳ありません、叔父さんのお名前を使わせていただきました」
体を硬直させながら、ソファからから立ち上がって直立不動になった。
「構わんさ。いいことじゃないか、うん。あのふたりはな、これからお前の手足となって働いてくれるだろう。どんどん飲ませなさい。わたしの名前をつかって、どんどん遊ばせなさい。しかしだ、正三。お前は気をつけなくちゃいかんぞ。酒もいい、女もいい。しっかり遊べ、飲め。しかし、飲まれちゃいかん。酒で失敗した例は、多々あるんだ」
「はいっ、こころ致します」
顔面が蒼白になった正三だった。昨夜の女のこと、ばれているのだろうか?≠ニ、気が気ではなかった。
「いま、坊ちゃん と呼ばれているそうじゃないか。いやいや、責めているんじゃない。むしろ褒めてやりたいぐらいだ。但し、だ。ふたりではいかん。少なすぎる。もっと増やせ。最低でも、五、六人は家来をつくれ」
一瞬、源之助に皮肉られていると感じた正三は、すぐさま直立不動の態勢をとった。
「申し訳ありません、叔父さん」
「おいおい、褒めてるんだぞ。いいか、お前を、坊ちゃんと呼ぶということはだ、お前を一段上の人間と考える素地があるということだ。残念ながら、いまのお前はまだ半人前だ。他の者に認められていないだろう。今回のプロジェクト入りで、少しは認めさせることができたろうが、今日の体たらくでは……。とに角酒を飲め。赤坂でも銀座でも、一流の店に行け。ひとりじゃないぞ、大勢を連れ歩け。いまは仕方がない、金をどんどん遣え。軍資金の心配はするな。お前のお父さんから、たっぷり回ってくる。そうだな、週一回は行け。いいな、わたしの贔屓の店を教えてやる。格の違いを、見せ付けるんだ。それから、女も抱け。女将連中には連絡をしておいてやる。一流の女を抱け。場末の女はいかんぞ。間違っても、あの小娘はいかん、いいな!」
語気するどく、源之助の厳命がくだった。反抗を許さぬ、強いことばだった。
「でも、叔父さん、小夜子さんとは、将来を誓いあった仲でして…」
モゴモゴと、うめくような小さな声を出した正三だった。
「なにっ! まさか契りを結んだのか?」
気色ばむ源之助は、葉巻を灰皿に押しつぶした。
「い、いえ、その、接吻を」
「ふん。そんなものは、いい。まあ、契りを交わしていたとしても、そんなもの!」と、吐き捨てるように言う源之助だった。
「とに角だ、もう会うことはまかりならん。どうなんだ。会ったのか、連絡はとったのか」
「いえ…」
「こうしょう。幾ばくかの金員を与えてだな、一筆書かせよう。素人ではいかんな。やはり、弁護士を使うか。で、居場所は分かっているのか」
「いえ、それが…」
あやうく、加藤家の名前をだすところだった。グッと飲みこむと、下を向いて顔を上げることはなかった。
「まあいい、わたしの方で調べよう」
父親に逆らえない正三だった、ましてや叔父には絶対服従の正三だった。加藤宅での下宿を隠すのが、精一杯の抵抗だった。
「上京して、どのくらいだ? ふん、いまごろはどこぞの不逞の輩の女になっているかもしれんな」
源之助が去り際に発した捨てぜりふに、正三の動揺は激しかった。
まさか、小夜子さんに限って。でも、なんの連絡もしていないし。いやいや、大丈夫だ。あの小夜子さんが、そんなことあるわけないさ。けれども、この俺ときたら。しかしだ、女と寝たといっても、正気じゃなかったんだから。なにしろ、しこたま飲んだ酒に酔ってのことだし。裏切ったなんて、大げさなものじゃないんだ。いや、枕代わりに抱いたということなんだ。だから裏切ってはいない≠ニ、官吏特有の屁理屈を考え出した。
(百四十二)
源之助は佐伯本家へ連絡をとり、小夜子の居場所をしらべるよう要請した。佐伯家からすぐさま竹田本家へ問い合わせがあり、しぶる茂作だったが、本家からの詰問には答えざるを得なかった。その翌日、省内の源之助の元に連絡が入った。
「ふむ、ふむ。加藤ですな? で、どこへの勤め人ですかな? ほう、ほう、分かりました。なあに、大丈夫です。正三にはきつく申し付けました。もう、一切会わせませんぞ。小夜子なる娘にも、もちろん因果をふくめさせます。はい、こ安心ください」
源之助は弁護士にすべてを任せる気でいたが、正三があれ程にこだわる小夜子に会ってみたくなった。とりあえず電話をいれて来訪の意思をつたえた。しかしそこに小夜子は居るはずもなく、富士商会へ就職したと聞かされた。加藤も、まさか武蔵宅へ転がりこんだとも言えず、会社の寮にはいったらしいとの返事をした。
ほう、とりあえずはまともな生活を送っているのか。まぁ、正三が惚れたという娘だ、そうであってくれなくては困るというものだ≠ニ、受話器を持ったまま頷く源之助だった。
翌日の午後に、源之助は富士商会へ電話をかけた。秘書にかけさせようかとも思ったが、受付の様子で会社が分かるものだと思った。
「はい、富士商会でございます」
「ああ、そちらに、竹田小夜子なる女性が勤務していると思うのですが、電話に出していただけますかな」
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「こちらは、逓信省の佐伯源之助というものです」
「少しお待ちください」
葉巻を燻らせながら、苛立ちを隠せない源之助だった。待たされるという経験のない源之助は、受話器を叩きつけたくなった。“この儂を待たせるとは、どういうことだ! 大した会社ではないな、躾がなっとらん!”。しかし源之助自身が電話をかけるという行為そのものが、普段ではあり得ないことであり待つ必要もない。秘書が電話をかけ、相手が電話口に出たところで受話器を取るのだ。
「お待たせいたしました。申し訳ございませんが、当社にはそのような者は在籍しておりません」
予想外の返事に、源之助の怒りが爆発した。
「在籍していないとは、どういうことだ! 貴様、民の分際でこの儂を愚弄する気か! 女のお前では分からん! 上司を出せ、上司を」
いきなりの剣幕に恐れをなした浪子だったが、あいにくのことに皆がみな出払っていた。いつもならば居る五平でさえ、今日にかぎって外出していた。
「申し訳ありません。みな、出払っておりまして。のちほど連絡させますので、連絡先をお教え願えますでしょうか」
必死の思いで応えるその声に、源之助も平静を取り戻した。
「まあ、留守では仕方がない。お嬢さん、怒鳴ったりして悪かったね。いい、いい。また、かけ直すことにしょう」
(百四十三)
「帰りましたよ、浪子さぁん」。素っ頓狂な声で、五平が立ち戻った。
「専務、大変だったんですよ」。浪子がなかば涙声で、訴えた。
「なんだい、なんだい。一体全体どうしたのかねえ、と、きたもんだ」
浪子の変事には気づかぬふりで再度問いただした。浪子は源之助からの電話を、多少誇張して伝えた。
「そうか。小夜子さんのことでなあ。分かった。わたしが処理するよ。万一、再度電話が入ったら、すまんが、『まだ帰りませんので、後ほどに』とこたえてくれ。すまんが、頼むよ。社長が戻らんと、返事ができないことなんだ」
両手をすりながら、五平は浪子に頭を下げた。泣き顔をみせる浪子だったが、社長宅に転がりこんだ娘がいるって聞いたけど、小夜子って名前なんだ≠ニ気づくと、武蔵の秘密を知ったことでなにか得をしたような気持ちになった。
さてさて、いよいよかな。タケさんにも、そろそろ決断を求めなきゃ。まさか、社長の自宅で寝泊りしてます、とも言えんぞ。それにしても、何をもたついてるんだ。いやに慎重なことだわ¢汲フ外を見やりながら、武蔵の珍しい優柔不断さを嘆いた。
「お帰りなさい! 社長」
階下から、社長をむかえる声がした。あわてて部屋から飛び出した五平は、階段下で立ち話をしている武蔵を急かした。
「社、長! 大変な事態ですよ。早く上がってきてください」
「何をそんなにうろたえてるんだ、五平らしくもない」
武蔵が部屋に入るのを待って、社長室のいつもは開け放してあるとびらを荒々しく閉じた。
「あの、娘のことです。逓信省の、えーと、局長の佐伯源之助なる人物からの電話らしいですわ。で、そんな社員はいない、と返事したらしいんですわ。いや、あたしが留守のときでして」
メモ書きを見ながら、五平は不安げに告げた。
「ふん、そんなもの。研修中で社員登録していなかった、とでも言っておけばいいさ」。武蔵は、事もなげに素っ気なく答えた。
「いやしかしですなあ、未成年ですし。親の了解もとらずに、社長宅に入れたんですから。相手は、なにせ官吏さまですから。未成年略奪罪云々と言われても、弁解できませんわ」
「そんなもの。相手はな、探りを入れてきてるんだよ。喜ぶわさ、小夜子が俺ん家に居るとわかれば。まあ、いい。俺が話をする。ええっと、電話番号は分かるか?」
「これ、この通り。直通です、この番号は」
「うん、分かった。五平、なにを心配してるんだ。この男は、小夜子を遠ざけようとしてるんだよ。正三とか言うボンボンの、叔父さんかなんかだろう。大事な甥っこの嫁に、小夜子を迎えるはずがないだろうが。それ相応の閨閥を考えるに決まってる」
「そうですなあ、たしかに。あたしとしたことが、局長という地位に、ちょっと、あわてました。こっちにゃ、つえーえバックがいるんでしたよ」
ニヤリと笑ってメモ紙を差し出す五平の顔には、もう不安の色はなかった。慌てふためいた己がおかしくなっていた。
「おう、分かった。もう、下がっていいぞ。さてと、引導でも渡すか。怒るかな、それとも泣くか? なんにしても修羅場は覚悟せにゃいかんだろう」
小夜子の気持ちを考えると少し胸のいたみを覚えたが、遅かれはやかれ通らねばならぬ道ではあった。
となると、あいつの機嫌とりをしておかなくちゃ。うーん、どうするか。それとも、いっそのこと強引に、いくか。どうもあいつのことになると、弱気の虫が出ていかん。情けないぞ、武蔵!
小夜子にはどうしても弱気になってしまう己に活を入れようとするが、身体のどこかに穴が空いてしまうのか、すぐに萎んでしまう。頬を両手で叩いてみるが、すぐに腰折れしてしまう。これが惚れた弱みというやつかと思うのだが、俺らしくもないと自嘲してしまう。
「はい、佐伯ですが」
「お初でございます。わたくし、富士商会の代表を務めさせて頂いております、御手洗武蔵と申します」
虚をつかれた源之助だった。外部に公表していない、一部の人間しか知らぬ電話に、武蔵がかけてきたのだ。
この男、どういう男だ。政府関係者に繋がりがあるのか? こりゃあ、迂闊なことはできんぞ=Bいっきに警戒感がわいてきた。
「先ほどは留守をしておりまして、大変失礼いたしました。局長さま直々のお電話だということで、さっそく連絡をさせて頂きましたが。なんですか、竹田小夜子嬢のことだとか?」
慇懃な武蔵の口調に、源之助はつい椅子から立ち上がってしまった。
「いやいや、早速のお電話、恐縮です。実はですな、竹田小夜子はわたしの見知りおきでして。上京していると聞き及びましたので、消息を調べていましたところ、なんですか御社にお世話になっていると聞き及びまして。実家の方からも、頼まれましたものですから」
弱気な己に憤りを覚えつつも、実家に連絡もしないとは、どういうことだ!≠ニ、言外に責めた。
「ああ、そうでしたか。本人には親御さんに近況をお知らせするよう、申し付けていたのですが。これは、失礼致しました。いま現在、英会話の研修中でして、わたくしの家に住まわせております。中々にいい娘さんで、やらなくていいと申しているのですが、おさんどんもやってくれております」
「ほお、そうですか。で、社長さんのご家族は?」
「わたくし、まだ独り身でして。うーん、局長さまになら、よろしいかな、、実は、小夜子嬢を伴侶に迎えたいと思っております。時期を見て、使者を立てるつもりでおります」
「ほお、そうですか。それは、それは。小夜子を嫁に、ですか。それは、それは」
「改めましてご挨拶にお伺いさせて頂きますが、ご連絡を差し上げますのでその節はお時間の調整をお願いしたいと思います。では、失礼致します」
武蔵の電話が切れたとたん、源之助の表情が、みるみる緩みはじめた。
さもありなん、だ。気を揉むこともなかった。この地で、小娘が独りで生き抜くなどありえんことだ。これで正三も、女のことは諦めるだろう。そうだ、いっそのこと見合いをさせるか。正三は、幾つになった? なあに、身を固めるのに早すぎるということはない
(百四十四)
「佐伯正三さんですか? わたくし、簡易保険局局長佐伯の秘書官、山中と申します。佐伯からの伝言で、『今夜、自宅にお出で願いたい』とのことでございます。では、失礼致します」
とつぜんの呼び出しだった。それが小夜子の件であることは、正三にもすぐに分かった。
小夜子さんと連絡がとれたのか? やっぱり叔父さんは早い。即断即決の佐伯、との異名があるが。何を言われるか、お父さんとも連絡は取り合われているだろうし。ああ、気鬱だなあ
そんな思いとともに、これで小夜子のもとに向かわなくてもすむという、安堵感も生まれた。幸恵が危惧する、正三の気の弱さが、問題を先送りにしてしまう及び腰となりやすい正三がいる。この決断力の弱さは、ある意味では官吏向きともいえる性向かもしれない。直接にかかわることなく、といって逃げ出すのではなく、意見を言うことはないけれども尻馬に乗ることはわすれない。頓挫すれば「だから言ったじゃないか」となり、うまくいけば「言ったとおりだろう」と関わりを強める。
「深津さん、木田さん。申し訳ありません、今夜の会合には出席できなくなりました。叔父の呼び出しでして、急なんですが」
頭を下げる正三に対し、「いいよ、いいよ。局長の呼び出しでは仕方ないさ」
「そうそう。どんな話か知らんが、明日にでも聞かせてくれ」と、ふたりとも正三の肩を叩いた。
「いい話なら、良いのですが……。最近はお小言が多くて、まいります」
肩を落としてため息交じりの声に、
「そりゃあ、きみが可愛いからだよ」
「そうそう、百獣の王ライオンは、我が子を谷底に落とす、ってね」
「今夜の五三会は、主役抜きでやるよ」
「なあに、主役抜きの方がいい時もあるんだ。心配すんなよ、しっかりきみの分まで飲み食いしてやるから」
正三をバックアップするべく、二年先輩ふたりに正三と同僚の四人と課長の杉田にも声をかけて、正三も含めた総勢八人のグループが、深津・木本の両人によって立ち上げられていた。
「今夜はこの部屋にしよう」と正三が通されたのは、はじめて入る源之助の書斎だった。大きな窓を背にした幅五尺ほどの無垢材机があり、壁には天井まで隙間なく蔵書が整理されていた。塵ひとつないない部屋は、源之助を如実に現している。緊張の面持ちで立ちすくむ正三に、粗末なソファを指し示した。局長室の模様替えのおりに、処分予定の物だった。来客用というよりは、仮寝用にと持ち込んだ。自宅に客を呼ぶことのない源之助で、家族ですら入室を許されない部屋だった。
「ま、座りなさい。いいか、正三! お前もいつかは家を持つことになる。その折には、書斎を作りなさい。人間、独りになれる部屋が必要だ。瞑想ができる部屋が、だ。ところで正三お前は、この逓信省でなにを為すつもりだ?」
「は、はい?」
思いも寄らぬ問いかけに、ぐっとことばに詰まってしまった。
「そんな、なにを為すなんて……。ぼくは、いえぼくには僭越すぎます」
まさか、小夜子を追いかけてきたとは言えない。小夜子がここ東京に出てくることになるとは思いも寄らぬことだったし、まったくの偶然ではあった。当初の正三は、確かに“お国の為に、等しく庶民の為に働くぞ!”という気概があった。しかし小夜子を知ってからと言うものは、小夜子にだけ思いが至っている。
「その言葉の使い方はおかしい。言葉の使い方には、その人間の教養というものが出る。本を読みなさい、といっても低俗なものはだめだ。今度揃えといてやる。しっかりと、心して読むように。まあまだ、覚悟というものはできないかもしれん。儂が、お前に目標を与えてやる。次官になるんだ! いいな、儂が果たせなかった夢を追いなさい。本来なら儂は退官しているところだ。同期の者が、名前を口にするのも腹立たしい権藤が、次官の席に座った時点で辞めなければいかんのだ。しかしだ、正三!」
源之助の声が一段と大きくなる、張りが出る。思わず直立不動の姿勢をとる、正三だ。
「入ります、お茶をお持ちしました」と、奥方の声がする。カクカクと固い姿勢で、お辞儀をする正三だ。緊張感がとれない。
「いらっしゃい、正三さん。あらあら、そんなに固くなってらして。あなた、外にまで聞こえそうなお声ですよ」
にこやかに微笑みながら、テーブルの上にお茶、お茶菓子を並べた。
「どうぞ、お食べなさいな。お夕食、まだでしょ? お話が済むまでまだ時間がかかるでしょうから、お腹空くでしょう」
目を閉じ腕組みをしている源之助だが、どこかぎこちない。省においても家庭においても、絶対君主として振舞う源之助ではあるが、内心では奥方に頭が上がらない。
「お前の入省の話が持ち上がったからこそ、恥を忍んで居座っている。全ては、お前を次官にする為だ。ご本家からは、せめて局長になってくれればと言われている。そんなことは、儂が許さん。いいか、来年にだ。儂の母校である帝国大学に入りなさい。席は、逓信省に残しておいてやる。大丈夫だ、話はついている。形ばかりの試験はある、面接のな。全て決まっているから、心配はいらん。みっちり勉強して来い。そして然るべき家から、嫁を貰うんだ。閨閥を軽んじてはいかん」
威厳をこめて、ひとつひとつのことばをしっかりと発した。正三に話しているのではなく、奥方に聞かせているといった具合だった。
奥方が退室すると、正三をとなりに呼び寄せての小声になった。
「あの嘉代は、元次官の娘だ。しかし権藤の奴、どこでどう手を回したのか大蔵省事務次官の娘を娶りよった。大蔵と言えば省の中の省だ。何とか代議士を頼って運動してみたが、やはり負けた。元次官には申し訳がない、まったく。嘉代はそのことについてひと言も不平不満を言わん。しかし不憫でな、次官の娘として育ったのに」
一点を見つめる源之助、苦渋に満ちた表情の源之助、はじめて見る叔父の、生の姿だった。
「いいか、正三。男は、仕事で名を成さねばならん。そして名誉ある地位に就かねばならん。由緒ある佐伯家の跡取りとして、恥じぬ地位にな。その為にも、嫁は厳選せねばならん。心配はいらん、儂が見つけてやる」
やっと正三に、話が見えてきた。
“小夜子さんのことか? お父さんから話が来たんだな。冗談じゃない! ぼくの伴侶は、小夜子さん以外にはありえない”
「話はそれだけだ。今夜は夕食を用意してある。外食ばかりでは身体に悪い。そうだな、週に三回は来なさい。しっかりと栄養を摂らないと、身体に悪い。身体がこわれると、心が死んでしまう。心身という言葉があるのは、そういうことだ。分かったな」
頭を垂れてこぶしを膝の上でしっかりとにぎる正三の姿に「得心がいったか」と声をかけ、部屋を出るように手を振った。しかし正三の心底では、源之助にたいする不満、いや憤怒の気持ちが渦巻いている。“冗談じゃない。家が、家がなんて、戦前の話じゃないか。天皇陛下ですら人間宣言をされたこの時代に、いつまで家長制度にしがみつかれているんだ。ぼくは絶対に諦めない。なんとしても小夜子さんを嫁にもらう。そして幸せになるんだ”。口には出せない思いを、握りしめるこぶしの中に閉じこめる正三だった。
正三が辞してから1時間ほど経ったときだ。源之助はゆったりとした気分で葉巻をくゆらせている。ひと仕事終えたあとのように、充足感にどっぷりと浸かっている。
(百四十五)
「あなた、橘家さんからお電話です」
奥方のどこか険のある声が、廊下から聞こえる。喘息持ちの奥方には、葉巻の煙は厳禁だ。「みねから、だと?」。自宅への電話などはじめてのことだ。なに良からぬことかと気が急く。
「どうした?」。「申し訳ございません」。「うん、よろしくない」。奥方が聞き耳を立てているであろうことを意識しての受け答えだ。
「じつは、正三坊ちゃまがお見えになっております」
「正三が? 一人か?」
「はい、おひとりでございます。なんだかお疲れのようで、『酒!』とひと言なんでこざいます」
源之助にだけに聞こえるほどの小声だった。奥方に聞かれては困るような内容ではない。なのに、いやだからこそのひそひそ声だった。せめての、意趣返しのようなものだった。
「そうか…、相当に堪えたようだな。分かった。今夜はしこたま飲ませてやってくれ。そうだ、先夜の芸者を呼んでやってくれんか。いや、遅くでかまわんさ。遅いほうが良かろう。で、明日はゆっくり寝かせてやってくれ。役所は欠勤させる。お前の機転で連絡したとかでも言ってやってくれ。少し荒れるかもしれんな。ま、よろしく頼む」
受話器を置くと、すぐに奥方が飛んできた。
「正三さん、大丈夫でしょうね。大事な預かりものなのですから。やはり、お泊めしたほうが宜しかったかしら」
「いや、これでいい。橘の方がいい。今夜はしこたま酔って、全てを洗い流せばいい」
「少し可哀相な気もしますね、正三さん」
奥方の声にすこし棘がある、源之助にはそう感じられる。愛情のない夫婦生活ではあるが、邪険にしているつもりはない。どころか、細君としての立場はしっかりと与えているし、守ってもいる。対外的にも、細君としての扱いをしている。なにより、外泊だけはしないと決めている。出張時はやむを得ない。しかしそのおりには、かならず1本の電話を入れるようにしている。
哀れなのは、橘家女将であるみねだった。いったんは別れようと決めたものを、源之助のたっての願いで妾の立場に甘んじてしまった。それでいいの、仕方のないことと思いはしたものの、ときが経つにつれて、源之助の態度もあり、少しずつ奥方である嘉代にたいする恨みの思いがわいてきた。嘉代に罪のないことはわかっている。事務次官を目指した源之助が悪いのだ。閨閥婚をえらんだのは、源之助なのだ。嘉代にしても、みねのことは知らぬことだった。
嘉代には、源之助に遊びの相手がいるであろうことはわかっていた。しかし成婚とともに整理をつけてくれるものと思っていたのだ。そして新婚当初は、そうだった。品行方正に、キチンと帰ってきてくれた。それが父親の死とともに、妾をつくられてしまった。いちどは詰ろうかとも思った。しかし母親のことばによって、せめても外泊だけはしないと約束させることで、飲みこむこととした。
正三にはどこの誰かはしらぬけれども、それなりの名家から嫁として迎え入れることになる。そして、小夜子とかいう娘を妾としてしまうことになるのだろうか。漏れ伝えてくるところによると、同郷の女子で幼なじみという。そして正三がぞっこんで、どうしても添い遂げたいと願っているという。ただ、貧乏小作人の娘であることから、どこをどう動かしてもうまくいくはずもない。
ゆいいつ手があるとしたら、ひと昔もふたむかしも前にとられた手段――どこぞの華族に養子としてはいり、そしてその上で正三と添い遂げさせる――だ。しかしそれがいまの世で通用するのか、あり得ないことだと思う嘉代だった。
「何を言うか! あんな竹田の分家如きの娘なぞ、話にならん!」
さらに言いたげな奥方だったが、源之助の剣幕に押された。
そうね。役所で出世するには、どうしても、ね。でもどんな娘さんなのかしら、正三さんがこれほどに惚れ込むなんて
いちど会ってみたいものだと思ってみた。しかしその機会はあり得ないということもわかっている奥方だった。
源之助が官吏になりたての頃、この橘屋に足しげく通った。いまの正三と同じように、源之助もまた将来を嘱望されていた。東京帝国大学文学部を卒業しての入省だった。東京に居を構えていた源之助の実家は縁戚関係としては遠いものだった。ほとんど行き来がなく、本家の長寿の祝いや年始の挨拶も賀状ですませていた。それが源之助が二年前に事務次官候補にあがったことから、佐伯本家の援助のもと運動をはじめた。そのときにはじめて源之助という官吏がいることが分かったことだった。大婆さまの号令のもと大運動が画策されたが結果は破れてしまい、正三を念願の事務次官にするべく現在の職位にしがみついていた。
(百四十六)
遡ること二十八年前のことだ。佐伯源之助、二十四歳。青雲に燃える、青年だった。
「女将さん。今夜はひとりですが、宜しいですか?」
「あらまあ、お珍しい。どうぞ、どうぞ。大歓迎、ですわ」
源之助が、緊張の面持ちで部屋にはいる。にこやかな表情を見せる、先代女将だった。
「どうぞごゆるりと、お過ごしくださいませ」と、型どおりの挨拶を受けた。終わると同時に座布団を外して、畳に頭をこすりつけた。腹の底から搾り出すような声で「じつは、女将さん。大変に」と、平身低頭した。ただただ「申し訳ないことをしました」と、畳に頭をこすりつけた。
あわてて女将が、源之助の手をとり体を起こさせた。
「佐伯さま、みなまでおっしゃいますな。分かっております、承知しております。みねには、引導をわたしております」
凛として、女将が源之助に告げた。
「えっ? ど、どうして、それを。まさか、父の方から」
「おっしゃいますな。男と女のこと、出会いがあれば、別れもございます」と、源之助のことばにかぶせた。
「みねさんにお会いして、直に謝りたいのですが」
「それは、お止めになった方が宜しいかと」
「しかしそれでは」
しばらく押し問答がつづいたものの、結局は女将が頑として拒否した。娘であるみねの誇りを保たせるための、こころ配りだった。
「う、う、うぅぅ」。押し殺した声が隣の部屋から聞こえてくる。「みね!」。源之助がうめくように叫びながら、障子を勢いよく開けた。
「源之助、さま……」。すがるような、それでいて身体をひねって顔を背けるみねの姿が、そこにあった。
「みね。お前が愛おしい、愛しいぞ! やはりだめだ、お前と別れるなど、到底できぬ」
「源之助さま、源之助さま。そのおことばだけで、けっこうでございます。みねは、十分でございます」
しっかりと抱き合ったふたりに、女将の目から大粒の涙があふれでた。そして意を決しって、ふたりに告げた。
「そこまでふたりが思いあっているならば、みね。源之助さまの妾におなり」
予想だにしない女将のことばに、源之助は耳を疑った。
「なにをバカな! そんなこと、できるわけがない。みねを妾などと、正気の沙汰じゃない!」
激しく詰る源之助に、みねの口から
「源之助さま。みねは、お妾にならせていただきます。どうぞ、源之助さまはお父さまのご意志に、お従いくださいませ」と、信じられぬことばが出た。
「し、しかし……」
「みねの、決断でございます。源之助さまの真ごころに対する、みねの誠でございます。どうぞ、お汲み取りくださいませ」と、女将が畳に頭をこすりつけ、みねもまた頭をたたみにこすりつけた。
「すまない、すまない、みね。きっとお前を、幸せにする。お前は、ぼくのこころの妻だ。世間的には、戸籍の上では、まだ知らぬ女性が妻となるけれども、本当の妻はお前だ」
その三ヶ月後に、奥方との華燭の典を上げた。それまで足しげく通っていた源之助だったが、婚姻後はパタリと足が止まった。みねのこころに動揺する思いが生まれた。奥方さまの目もあるし、いかな源之助さまでも=Bそう言い訳をしてみるのだが、源之助にたいする疑念の気持ちが沸々とわいてくる。それを必死におさえるみねだった。しかしひと月ふた月経ち、半年が過ぎても源之助は顔を見せない。新婚さんですもの、致し方ないわ。そうだわ、お仕事がお忙しいのよ。そういえば予算書がどうのと仰っていたわ=Bついぞ笑顔を忘れてしまったみねだ。
「源之助さまのことは、諦めなさい。情のうすい方でしたね、みね。まだお前も、若い。良縁があったら、嫁ぎなさい。橘屋は、だれぞ他の方に継いでいただくことにするから」
女将がみねを気遣うが、みねはきっぱりと拒んだ。
「わたしは、大丈夫です。一生涯をとおして、源之助さまをお待ちします。ご心配は無用です、お母さま、いえ、女将」
女将がその翌年に、この世を去った。そしてその通夜に、源之助が顔を出した。それを機会に源之助は、ちょくちょく顔を見せた。みねは恨み言ひとつ口にせず、以前のようにお妾然と振舞った。
「みね、すまなかった。長く、待たせてしまったな」
女将の置き土産を、ありがたく受け取ったみね。そして二十三歳の、若女将が誕生した。
(百四十七)
その夜、夢を見た。いや、夢であってほしいと、切に願う正三だ。じっとりと首に汗をかいている。起き上がった布団の上で「あり得ない、ありえないことだ」と、何度もかぶりをふった。夢のなかの、久方振りの小夜子は銀幕のスターかと見紛うほどに、光り輝いていた。傲然と正三のまえに立ち、居すくまる正三を見下ろしている。大きく胸元の開いたドレスに身をまとい――そう。あの、はじめて出かけた百貨店でのファッションショーのポスターにあったドレスを身にまとっていた。軽く顎を上げて左肩をほんの少しいからせて、両手を腰に当て左足をすりだしている。「これまでね」とでも言いたげにうっすらと開けられた口が呟いている。
「許してください、本意ではありません。ぼくの預かり知らぬところの、出来事なのです。酔っていたのです、前後不覚になっていたのです」
「そうだ! プロジェクトです。ぼく、叔父さんの引き立てで、秘密プロジェクトに参加しました。幹部候補生になるべく、道が用意されているんです」
「来年には東京大学に入ります。卒業後には、主査職あたりに付くはずです。次官になるべく、小夜子さんの為に日々奮闘しているんです」
小夜子の足にすがりつかんばかりに、土下座せんばかりにしている。そしてなおも、ことばをつづけた。
「小夜子さん、お願いです。許してください、気の迷いなんです。そうだ、きっと同僚に仕組まれたのです。ぼくには何のことか分からぬ内に、なんです」
そんな弁解のことばを並べればならべるほどに、深みに入ってしまう。必死の形相で、懇願する正三だった。もの言わぬ小夜子に、手すら合わせる。しかし小夜子の表情は変わらない。あいかわらず傲然と立っている。正三は、蛇に睨まれた蛙そのものだ。未練だと分かってはいる。しかし忙しさにかまけて、ないがしろにしてしまった己が怨めしい。
「正三、正三。小夜子は止めておけ。お前には似つかわしくない。お前の伴侶は、源之助に任せてある」
父親の声が、天の声となって降りてくる。
「どうだ、正三。お前の伴侶を連れてきたぞ。お前にぴったりだ」と、今度は源之助の声がする。不動明王と見まちがえるかのごとくに、三鈷剣を持って睨みつけている。
「坊ちゃん、正三坊ちゃん。大丈夫ですか?」
かっと見開いた目に、先夜の芸者が飛び込んできた。
「な、なんだ。どうしてお前がここに?」
「あらあら、ご挨拶ですこと。夕べ、他の座敷にいたあたしを、ムリヤリ呼び出したのは? 一体どこのどなたさまでしょうかね?」
「呼び出した? ここは宿舎じゃないのか?」
あわてて飛びおきる正三に、芸者が勝ち誇ったように言う。
「相当にお酔いになってらしたのに、夕べはほんと、お元気でしたわ」
「ち、ちょっと待て。たしか昨夜は……。うむ、そうだ。ここは橘か? 叔父さん宅を出て、宿舎に戻って。そうか、ここに来たんだ。で、酒を用意させて……」
しだいに昨夜の記憶が甦ってきた。宿舎に帰ったものの、襲いくる絶望感と寂しさに耐え兼ねて、ふらふらとこの橘まで来てしまった。
「酒!」
「承知いたしました。それじゃ、離れの方へどうぞ」
ぶっきら棒な正三をはじめて見る、女将。尋常ではない正三だと、仲居に告げた。
「いいこと、多少のご無理にも応えてちょうだい。万が一にも悶着にならないよう、気を付けてちょうだい」
「はい、こころします。」
ベテラン仲居に対応させるなど、最大級に気を使う女将だった。そして、源之助への報告をした。
「そうか…、相当に堪えたようだな」。源之助の口調から、女性がらみね。正三坊ちゃんも、苦しまれるのね。相手の女性もさぞかし、のことでしょうに≠ニ、感慨に耽る女将だ。

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