(百三十五)

 銀座のランプ亭で、小夜子が武蔵に問いただす。
「お父さん。聞きたいことがあるの!」
「なんだ? そんな恐い顔して、どうした?」
「あたしのこと、どう説明したの? 高井さんの話だと、あたし、お父さんのお嫁さんになるみたいだけど」
「なんだ、そのことか。高井が勝手に決め付けたんだ。『そろそろ身を固められる頃じゃありませんか?』なんて言うから、そうだなって答えたんだ」
「それがあたしって、わけ?」
「うん、そう言うことだな。高井が言うには、小夜子は良いお嫁さんになるってことだ。で、『その節は、当デパートをご利用下さい』と言うわけだ」
 良いお嫁さんと言われて悪い気はしない。
「お父さんも、そう思ってるの?」
 つい聞いてしまった。
「もちろんだ! 小夜子以外には、俺は考えていないぞ。どうだ、嫁さんになってもいい気になったか? 大事にするぞ。お爺さんだって、大事にしてやる。茂作さんは、なにか困ってることはないか。おれが解決してやるぞ」
 茂作のかか抱える借財のことを口にしようかとも考えたが、小夜子が嫌がるかもしれないと、止めた。武蔵にたいする気持ちの変化には気づいてはいたが、急いては事をし損じると、早るこころにブレーキをかけた。
「お父さん。だから、あたしのこと、どう言ったの」
 肉を頬ばりながら、怒りのことばを武蔵にぶつける。
「ううむ。やっぱり、美味しいわ! お肉がぜんぜん違うのよね。だから、あたしをどう紹介したの?」
「おいおい。食べながらじゃ、怒ってるのかどうか分かんないぞ」
 苦笑いしながら、武蔵が受ける。高い天井には大きなシャンデリアがあるが、輝度は弱めだ。壁にもランプ形の灯りがあり、それらで以て店内を柔らかい照度で照らしている。各テーブル上のランプの炎が、シーリングファンの微風でゆらりと動く。小夜子の眉がピクリと動き、八の字になった。
「怒ってるに決まってるでしょ」
「ハハハ、まあそう怒るな。高井の早とちりなんだから」
「そういう言い方したんでしょ? うわあ、このじゃがいも、ホクホクしてる!」
 怒りの口調のなかに嬉々として頬ばる様は、どうしてもそぐわない。
「小夜子、どうも調子が狂う。食べ終わってからにしろ」
「そうね、そうするわ。ああ、でも、ほんとに美味しいわ。お父さん、ずるい!」
「なんでだ?」
「だって、いっつも食べてるんでしょ? だから今夜は食べないんでしょ?」
 口を尖らせて詰る小夜子の唇が、武蔵には悩ましくそして好ましく見える。今この場でその唇に触れたいと思ってしまう。吸い付きたいと願う。ときに傍若無人な態度を見せる武蔵といえども、ここでのそれは憚られる。
「俺の嫁さんになったら、毎晩でも食わせてやるぞ。どうだ、なるか?」
「うん、なるなる、なんて言うわけないでしょ。正三さんのお嫁さんになるの。そして、アーシアと暮らすの」
 あっけらかんと言う小夜子に、武蔵は耳を疑った。
「ちょっと待て。正三くんの嫁さんになって、アーシアと暮らす? そのアーシアって、誰だ? 初耳だな」
「アーシアは、アナスターシアと言うモデルさん。世界中を旅してるの」
「世界を旅するモデル?」
「そう! 人気があるの。あたし、以前にあの百貨店に来たの。で、あたしもモデルとしてお手伝いしたの。それが縁で、アーシアの妹になったってわけ。分かった?」
「デパートに来て、その時、ファッションショーとかでもやっていたのか?」
「そうなの、偶然だったんだけど。ホントは、ジャズ演奏を聞きに来たのよ」
 話の内容があちこちに飛んでとまうのは小夜子の常だったが、今夜の小夜子はとくに激しかった。久しぶりに訪れた百貨店で、高揚感がはげしい。とくにアナスターシアとの想い出が詰まった、この百貨店は特別なのだ。

(百三十六)

「ジャズ? 小夜子はジャズが好きなのか?」
「知らなかった? 英語の勉強もだけど、ジャズを聞きたいというのもあるの」
思いも寄らぬ返答に、普段の小夜子からは感じられぬその嗜好に驚きを隠せなかった。小夜子のすべてを知りぬいたつもりの武蔵だったが、アナスターシアとのことといいジャズ音楽への入れ込みようといい、底の知れぬ女だと嬉しくなる武蔵だった。
「どうして早く言わないんだ。連れてってやろうか、本場のジャズが聞けるところに。日本人は聞けないぞ」
「ほんと? ほんとにほんと? 約束だよ、ぜったいだよ」
 身を乗り出して、武蔵の前にナイフを振り回す。
「おいおい、危ないじゃないか」
「ごめんなさい。で、いつ? 明日? 明後日?」
「いや、そんなに早くは無理だ。二、三ヶ月は先だろうさ。先月に来たばかりだからなあ、慰問団が。そう、しょげ返るな。日本人のバンドが、週末毎に演奏してる所もあるから。アメリカの将兵さん相手にな。そこに潜り込ませてやるよ」 
 顔を輝かせて、そして大きく目を見開いて、武蔵になんども念を押す。大きくなんども頷きながら、約束よと、指切りげんまんをさせられた。そんな子供じみたことをせがむ小夜子にジャズ音楽の嗜好があることが、どうしても腑に落ちない気持ちがつきまとった。
「一緒に、来てくれないの? ひとりじゃ、怖いわ」
「俺は、ちょっとな。代わりに、誰か付けてやるよ。そうだ! 小夜子。近い内に、会社に来い。みんなに会わせておこう。顔つなぎをしておくのも、いいだろう」
「でも、あたし……。アーシアの都合次第では、来年にでも……」
「その時は、そのときだ。その前に、小夜子。会話の方は大丈夫か?」
「うーん、多分ね。学校ではなんとか話してるけど、どうなんだろ、実際は」
「いいさ、いいさ。パーティではアメリカ人ばかりだ。試験を受けるつもりで話をしてみろ」
「試験?」
「ああ、アメリカさんのパーティだよ。そこで分かるだろう。小夜子の英語が、どの程度通じるか」
「うわあ、なんだか怖いわ。でも、会話してみようかな?」

(百三十七)

「どうだ? 俺の嫁さんになると、こんなに良いことがいっぱいだぞ。その、えーと、アーシアとかいうモデルより良いだろうが」
「ダメエ! アーシアって呼んで良いのは、あたしだけなの。日本では、ね。世界でも、数人しかいないのよ」
「そうか、そいつは悪かった」
「良いわ、許してあげる。知らなかったんだから。でね、アーシアってね……」
 とたんに目を輝かせて、アーシアとの交流を話しはじめた。しかし武蔵には、まるで話が見えない。アーシアとかいうモデルと暮らす。それは分かったとしょう。それじゃ正三は、なんなんだ? なんで結婚なんだ? 正三は承諾してるのか? まさか付いて行くわけでもあるまいし。それとも小夜子の勝手な思い込みか?
 どう考えても理屈が付かない、正三の気持ちが理解できない。正三くんは了解してるのか? 口に出して聞いてみたいと思うが、止めた。不機嫌になることは、目に見えている。
「ああ、美味しかったあ。さてと、最後のお菓子は、…やっぱり冷たくて甘いものよね。あれ、なんて名前だったっけ?」
「アイスクリームのことか?」
「そうそう、それそれ。頼んでくれる?」
 武蔵が手を挙げると、すぐさまウェイターが飛んできた。
「こちらのお姫さまが、アイスクリームをご所望だ。頼むよ」
 承知しましたと、深々と礼をして下がる。
「ふうん。お父さんって、どこに行っても、上客なんだね。他のお客さんと、扱いが違うみたい」
「まあな。俺は紳士だからな。敵にたいしては容赦しないが、味方にはとことん応援する」
「それって、お父さん。あたしに、言ってるの? 恩知らずって、思ってるんでしょ? あたしだって、いろいろ考えてるから。お父さんには、キチンとお世話になった分、お返しをするつもりだから」
 ポッと頬を染める小夜子だが、武蔵には酔いが回ったせいと映った。
小夜子の奴、どこまで本気なんだ? 夢物語りに聞こえはするが、ひょっとしてひょっとするか? どうなんだ、武蔵。手ごめにしてでも、ものにするか。それとも最後まで、小夜子の言う足長おじさんでいるか?
 目を閉じて考えこむ武蔵を、小夜子はスプーンを止めて見やった。
ごめんね、お父さん。お父さんのこと、好きよ。でもそれは、感謝の意味なの。でも……。アーシアに会っていなかったら、ひょっとしたら。お嫁さんになったかも? ううん、だめだめ! やっぱり、正三さん。正三さんなの。先にお父さんに会ってたら、また違ってたかもね

(百三十八)

「なに、考えてるの?」
 黙りこくる武蔵に、一抹の不安を覚える小夜子だ。あたしを、あげる。今までのお礼に、あたしの処女をあげる。いいでしょ? それで=B喉まで出かかることばを、ぐっと甘いアイスクリームと共に飲み込んだ。
「ああ、すまんすまん。ちょっと、な」と、席を立った。
「どこ行くの?」。慌てて、小夜子も立ち上がろうとする。
「違う、ちがう。小夜子を置いて、どこにもいかんよ。小夜子、知ってるか? 上機嫌のアメリカさんはな、こう言うんだ。大きく手を広げて『Nature calls me !』ってな」
「自然がわたしを呼んでる。なに、それ?」。小夜子が頭を傾げながら、問い掛ける。
「おっ、訳せるじゃないか。しかし惜しい。もうひとひねりできれば、完璧なんだがな」
「ひとひねりって?」
「ああ、いかんいかん。洩れそうだ」
「洩れそうって、いやあねえ。早く行ってきて! えっ? ご不浄に行くってことなの?」
「大正解だ。小夜子は、勘が良いなあ。大抵の女は、まだ意味が分からんものだが。しっかりと勉強しているみたいだな。これなら、将校相手でも会話できるかもな」
 相好をくずして手をたたく武蔵に、他の客たちの視線がいっせいに集まった。
「こりゃいかん。どうも、お騒がせしまして、申し訳ありません。ワイフの英語上達に、つい」
 深々とお辞儀をしてトイレへと入り込む武蔵に、
「お父さん、ワイフってなによ! お嫁さんにはならないって、言ってるでしょうに」と、小声で言う小夜子。しかし武蔵は、まるで口笛を吹きながらのような軽い足取りで意に介さない。
「言った者勝ちさ!」
 席に戻った武蔵に膨れっ面を見せながらも、目が笑っている小夜子だ。
「もう、お父さんったら! 口、利いてあげないから!」
「そんなこと言うなら、ジャズ演奏、連れて行かないぞお、だ」
「ずるい! 約束してる、じゃない!」
「ハハハ、口、利いてくれたな。俺の勝ちだ、ハハハ」
 ますます頬を膨らませて、まるでおたふく顔になる小夜子だ。
「鏡で見てみろ、面白い顔してるぞ」
 今夜の武蔵は、小夜子をからかうことを中々止めない。普段ならば「降参、こうさんだ。小夜子に口を利いてもらえないと、俺、死んじゃうぞ。勘弁してくれ、俺がわるかった」と、平謝りする。面食らってしまった小夜子だが、今さら振り上げたこぶしの下ろしようがない。と、みるみる目から大粒の涙が溢れ出した。
「お父さん、きらい!」
 はじめは微笑ましく感じてにこやかに見ていた周りの客も、小夜子の涙を見たとたんに、そこかしこで囁きはじめた。
「やりすぎたか? 形勢逆転だ。逆転満塁ホームランを打たれたな。すまん、すまん」
「度が過ぎました、失礼しました」と、再度、満座にたいし頭を下げた。
 夜の帳が降りた銀座では、夜空の星を消すほどにネオンサインが輝いていた。すぐにもタクシーに乗り込もうとする武蔵にたいして「少し歩きたいわ。ウィンドショッピングを愉しみたい」と、小夜子はさっさと歩き出した。男の後ろを付いて歩くのが女だというのに、小夜子の奴は≠ニ苦笑いをしつつも、そうだった。これが小夜子だ、新しい女だとかなんだとか、虚勢を張りたがるのが、小夜子だった“と、感心する武蔵だった。
 銀座界隈をかっ歩していた米兵に変わり、いまでは日本人がかなり増えている。三つ揃いの背広を着こなす紳士たちが増えて、女性もまたモンペ服を脱ぎ捨てて、身体にフィットするワンピース姿やらブラウスにフレアスカートと多種多彩になっていた。日本もやっと復興した=Bそんな実感を感じさせる夜だった。
「満足したか?」。「うん。でも、また連れてきてね」。武蔵の腕にしがみつきながら心地良い風に吹かれて、満足げに答える小夜子だった。タクシーの車内では、武蔵の肩に頭を預けて、軽い寝息を立てはじめた小夜子だった。