(百二十八)

 翌朝、台所から小夜子の明るくはずんだ声が聞こえてきた。ベッドのなかでまどろむ武蔵の耳に、ここちよい。
「いやあねえ、三河屋さんったら。なにもないわよ、なにも。声がはずんでるですって? そりゃ、体調がいいからよ。なにかはじめたかですって? ふふふ……、ひ、み、つ。なーんてね。いまね、着物を新調してるのよ。それを着てね、パーティに出席するの。アメリカ将校さんのお宅でね。うーん、会食みたいなものかなあ。女優さんみたいでしょうねって、ふふふ、そんなこと。口がうまいのね、三河屋さんは。だめよ、これ以上はいらないわ。じゃ、おねがいね」
 大きく伸びをして時計を見やると、九時まわ回っている。「おっと、こりゃいかん。寝坊してしまった」。あわて飛び起きると、「おおい、小夜子ー!」と、呼んだ。「まずい、まずいぞ。社長の俺がちこくなんて、示しがつかん。小夜子ー!」。なんの返事もないまま、どかどかと階段を下りた。
「どうしたんだ、小夜子」。快活にしていた小夜子が、椅子にすわったまま無言でいる。
どうしょう、どうしょう、起きてきちゃった。あ、あ、なんにも出してない=B恥ずかしさから、まともに顔を見られない。不機嫌そうな顔でなければ、体裁がわるい。
「小夜子、すまん。遅刻だ。飯は、けさはいい」。武蔵は、小夜子の不機嫌さにまるで気づかない。
「そう。あたしのご飯は食べられないの、いいですよ。どこかで、おいしいものをお食べくださいな」。皮肉たっぷりの声を浴びせながら、良かった、たすかったわ。一緒にご飯は、けさはちょっと 。小夜子のこころの声は武蔵にはとどいていない。
「分かった、わかった。帰ってから聞くよ」。バタバタとする武蔵だったが、玄関先で小夜子をよんだ。なにごとかとあわて駆けつけると、「小夜子、お出かけのおまじないをくれ」と、言いだした。キョトンとする小夜子に、「ほら、このあいだ間観た映画でやってたろうが。ほっぺに、チュッだよ」と、ほほを向ける。ためらう小夜子に、「ホラホラ!」と小夜子の口もとほほ頬をつきだ出して、急かす。勢いにおされ、軽く武蔵のほほに唇を触れた。武蔵ったら、なにをさせるの≠ニ、顔を赤くする小夜子だ。しかしこの些細なことで、小夜子の気持ちがいっきに明るくなった。♪ふんふんふん♪。流行歌を口ずさみながら、いそいそと家事にいそしむ小夜子がいた。「きょうはどうしょっかな? 学校、休もっかな? さいきんお掃除、手抜きしちゃってるものね。千勢がいなくなってから汚くなったなんて言われたら、いやだし”
 それにしても不思議なもので、家事が苦手なはずの小夜子が、いまは嬉々としいそしんでいる。掃除、洗濯はもちろんのこと、毎晩、帰宅時間のも分からぬ武蔵のためにしっかりと夕食を用意していた。

(百二十九)

「将来のためよ。正三さんに、美味しいものを食べていただくための練習なの。そして、アーシアに和食を食べさせるの。ホテル住まいばかりじゃなくて、どこの国でもいいから……そうね、やっぱりアメリカかしら。お家を買うの、お庭のついてる。そこであたしが待ってるのよ。疲れて帰ってくるアーシアに、美味しい和食をたくさん食べさせて……。ああ、だめなのよね。いいわ! すこしの量で、たくさんの種類を用意してあげるの。とにかく、お野菜とお魚と、そしてたまにお肉。そういえば、アーシアって、お肉はぜんぜん口にしなかったわ。だめなのかしら? 食べちゃ。嫌い、ということはないわよね。ああ、はやく会いたいわ。会うといえば、正三さん、どうしたのかしら?」。誰に聞かせるともなく、小夜子の口から声がでていた。それにしても、矛盾をむじゅんと感じない小夜子だ。正三とアーシア、同一人物かのごとくに思っている。

「正三さんとかいう彼と所帯をもって、アーシアと一緒に世界をまわればいいじゃない」。前田が無責任にいったそのことばを、真にうけている。
正三さんなら、大丈夫。きっと分かってくれるわ=Bしかしその正三からの連絡は、途絶えたままだ。
あの情熱的な恋文は、なんだったの?=Bこころ変わり?=Bまさか、加藤家が?=Bいろいろ思いめぐらせてみるが、驚いたことに小夜子の気持ちのなかに、かつてほどの焦りはうかんでこない。小夜子の胸は、さ程にいた痛むことはなかった。加藤家で世話になっていたおりに感じた焦燥感が、まるで湧いてこなかった。
正三さんを信じているもの=Bおのれ自身にいいわけをしてみるが、熱情がうすれはじめていることを認めないわけにはいかなかった。しかしそれでも、正三に再会すればすぐに復活するといいきかせていた。正三さんじゃなきゃ、だめなのよ。アーシアと一緒に暮らすためにも=Bあくまで、アナスターシアなのだ。未来――小夜子にとってはすぐの、手をのばせばすぐにも届きそうな、明日あさってではなく、ひと月ふた月というものでもなく、時間という物差しでははかることの出来ないものだった――におけるアナスターシアとの生活がすべてで、そのための現在でしかない、と思うていた。

 しかし最近、小夜子に予感めいたものが、じわじわと攻めたててくる。あたしの処女は、武蔵にささげることに、ううん、奪われることになるわ。でも、こころだけは許さないの。こころはもう、アーシアに預けてあるもの
こんなたくさんの、お洋服やらアクセサリー、それに着物も作ってくれたし。処女ぐらいは仕方ないわよ。梅子姉さんも言ってらしたもの。『物をもらったら、それなりのものをお返しするものよ。こころをもらたこころ、心でお返しするの』。ほんとは正三さんにあげたいんだけど、仕方ないわよね。そうだわ、あたしの初接吻は正三さんだったわ=B武蔵にたいする恋ごころらしきものがじわじわとにじみ出てきたことを、かたくなに認めない小夜子だった。「正三一途」という金文字が頭からはなれない。
金品にまどわされる、小夜子じゃないわ!=B決意にも似た思いを、ことあるごとに呪文のごとくに口にする。しかし金員を湯水のようにつかうことが、武蔵の愛情表現だと知る小夜子だ。そしてそれが、小夜子の金看板にも思えてしまう。

(百三十)

 ひさしぶりに自宅でくつろぐ武蔵にたいし、小夜子はあれこれと世話をやいている。鼻歌まじりで洗濯ものを干した。出がらしのお茶っ葉を畳のうえにまいての掃き掃除も、きょうは楽しいものに感じられる。
「なんだあ、小夜子。えらくご機嫌じゃないか? なにか、良いことでもあったのか。英語学校の先生にでも、誉められたか」
「べつに、なにもないよ。お天気が良いから、気分がいいの」。武蔵に声をかけられて、高揚している気持ちに気づいた小夜子だった。
べつに、武蔵だからじゃないわ。そうよ、誰でもいいのよ。ひとりぼっちが、つまんないのよ=B武蔵がい居てくれるからだとは、思いたくなかった。あくまでも武蔵は足長おじさんであり、小夜子の思い人は正三でなくてはならないのだ。ハガキきの一枚も送ってこない不実な男であっても、小夜子にとってはただひとりの男なのだ。そうでなくてはいけない、と言い聞かせていた。

千勢に、もうすこし教えてもらえば良かった。こんなんじゃ、アーシア、食べてくれない=B味つけがうまくいかないことに、いらだちを感じはじめている。出汁がうすいからとつぎ足せば濃すぎてしまう。すこし薄めたつもりが、こんどは多すぎる。また出汁をすこし継ぎたしせねばとすこし入れてみるが、まだ薄い。で、もうすこしと足せば、やはりのことに濃くなってしまう。その繰り返しがいくどとなくつづき、二人前の汁が三人いやいや五人分にも増えている。
 煮物をつくれば、味の薄い濃いが毎回ちがう。鍋底のこげで、いくつの鍋をとりかえたことか。さればと魚を焼きにかかれば、真っ黒に。それならと控え目にすると、生焼け状態。立ち込める煙に、なんどか涙したこともある。それでも武蔵は、「どうせ、魚の皮は食べないんだ。真っ黒でいいじゃないか。小夜子の愛情を感じるぞ」と、パクついてくれる。

「どうだ、今夜はひさしぶりに、そうだな、ビフテキでも食べるか? 客との食事は、あっさりだからな。コッテリしたものが、食べたくなった。デザートには小夜子を食べたいがな」。いつもならすぐに「いや! そんなこと言うなら、行かない!」とはんばくする小夜子が、きょうに限ってはおとなしい。
「どうした、熱でもあるか?」。小夜子のおでこに手を当ててみるが、さほどのこともない。「うわあぁぁ!」。小夜子がとつぜんに、武蔵の胸になきくずれた。
「ど、どうした? 気にさわること、なにか言ったか? したか?」。背中をさすりながら、小夜子のおちつきを待つ武蔵だ。
「小夜子がきてから、生活に張りができたよ。家に帰るのが楽しくなった」。あぐら座りのひざの中に小夜子をすわらせて、優しく声をかけた。

(百三十一)

「うそ! ちっとも帰ってこない! 二ヶ月ぶりよ、お日さまのたかい時間に、お家にいるの」。いつもの武蔵をなじる声が、やっと出た。
「そんなに、なるか?」。「そうよ! 帰ってこない日だってあったんだから」。いつものようにぷーっと頬をふくらませて、口をとがらせる。
「いやそれは。関東からはなれると、どうしてもな」。「ほんとに、ぜんぶお仕事? 浮気してないの! お土産のないときある!」
 立てつづけに非難のことばを吐く小夜子に「そりゃ、すまんすまん。次からは、忘れないようにするから。な、な、忘れないようにするから」と防戦一方の武蔵だ。女っていうのは、ほんとに鋭いな≠ニ、舌をまく。たしかに出張だといつわっての浮気もある。英雄は色を好むものだとばかりに「和食ばかりじゃ飽きもくるもんさ、たまには洋食や中華も食べてみたくもなるさ」と、五平にうそぶいたことがある。「女のきゅうかくは馬鹿にできませんよ、ほどほどに」という五平のことばが重く感じられる。
「女のにおいは、徹底的にけしてください。風呂がいちばんですが、石けんのにおいはまずい。そうですな、すこし走ってください。ひと駅まえというのが1番ですが、社長のばあいは車ですから……。ふたつほど手前の角でおりてください」。五平直伝だ。

「あたしの知らないうちに帰ってるし」。「そりゃあ、小夜子を起こしちゃ悪いじゃないか。抜き足、差し足、忍び足さ。どうだ、落ち着いたか?」。「うん……」。「どうした? 何が悲しかったんだ?」。華奢な小夜子の手を、両手でつつんで聞いた。
「あのね、お料理がね、うまくできないの。千勢にキチンと教えてもらえば良かった……」。肩をおとして、小夜子がこたる。
「なんだ、そんなことか。それじゃ、またお手伝いを入れるか?」。小夜子の手を、ピシャピシャと軽くたたきながら、解決したぞとばかりに、相好をくずした。
「ダメ! あたしが、お料理するの!」。武蔵の手を、ピシャリ!とたたいて、決然と言う。
「そいつは嬉しいな、小夜子の手料理が食べられるんだな。それじゃ、どこか教えてくれる所をさがしてみるかな」。「おねがいよ、早くね!」。違う、ちがう。武蔵のためじゃない。アーシア、アーシアのためなの=B必死におのれに抗弁する小夜子だった。
「ああ、分かった、分かった。美味いもの、食べたいからな」。「ああ、やっぱり、不味いって思ってる!」。「不味いとは言ってないぞ。美味いのを食べたいだけ、やめたやめた。とにかく、夜はビフテキだ!」

 ひさかたぶりの、武蔵と連れだってのお出かけだった。思わずスキップを踏みたくなる。男女七歳にして席を同じうせずやら、三歩下がって影踏まずと、教えられた世代のふたりだ。小夜子が武蔵とうでをくむなど、ひんしゅくものだ。が、武蔵はまったく意に介さない。むしろ喜んでいる。正三さんなら、顔を真っ赤にして、外すでしょうね=Bつねに武蔵と正三をくらべてしまうことを、小夜子は良しとしない。すぐに頭をふって打ちけすのだが、最近はその回数がふえている。ときに武蔵の前で頭をふってしまい、思わず顔を赤らめてしまう。「なんだなんだ、どうした?」。小夜子をのぞきこむ武蔵にたいし、なんでもないと首をふるが、ますます顔の火照りがひどくなる。
 熱でもあるのかと、おでこにおでこをくっつけてくる武蔵に「恥ずかしいからやめて!」と邪険にふるまうが、内心ではうれしさを隠せない。しかしそんなおのれに腹も立ってくる。正三一途であるべきと、ことあるごとに言い聞かせているおのれ自慢の小夜子には、到底ゆるせないことなのだ。なのだが、おのれを偽ることはできない。次第しだいに武蔵にたいする警戒心がとれ、否、武蔵にたいする信頼感が醸成されてくる。いちにちの大半を武蔵のことを考えてしまうおのれに気づいた折には、大声をあげて泣いてしまった。
正三さんよ、正三さんが悪いの。ちっとも連絡をくださらないからよ!=Bおのれに言い聞かせる。しかしその日が武蔵の出張とかさなって――武蔵が帰らぬ夜だとわかっていたから泣いてしまった――そのさびしさに耐えかねて泣いてしまった。そのことに気づかされたからこそ、哀しみと怒りとがあいまじっての号泣だった。

(百三十二)

 出かける段になって、武蔵が小夜子に注文をつけた。活発に動きまわりたがる小夜子にとって、武蔵の出不精は不満のおおきな種だった。出不精といっても、外出をいやがるわけではない。ぶらりぶらりと、ただ歩く散歩をきらう武蔵だった。なにか目的があっての外出には、否とこたえたことはいちどもない。しかし暑い日中やら木枯らしの吹くおりならばいざ知らず、日差しが落ちた夕暮れどきや雨上がりの虹を見たいという小夜子の希望には、なにやかやと言い訳をしては出かけようとはしない。そのくせ、外食や買い物――といっても日常の買い物ではなく、銀座に出かけてのショッピングだが――そして映画鑑賞に観劇は、武蔵が旗をふる。ただし、移動手段に問題がある。
「小夜子、ハイヤーにするか?」。「いいわよ、電車で」。「小夜子は良くても、俺は、どうも人ごみが嫌いでな」

 武蔵の人づき合いの悪さは折り紙付きだ。気ごころの知れた相手でなければ、儀礼的な挨拶をしただけで席をはずしてしまう。しかし、こと利害のからむ商売に関してだけはちがってくる。とたんに饒舌になり、相手の心底をさぐりだす。本音をさぐりだすといえば、五平も人後に落ちないと自負しているが、武蔵のそれは多岐にわたっている。脅しにすかし、そして泣き落としと、ありとあらゆるすべをつかって聞き出してしまう。相手が武蔵の意のままに操られたと気づいたときには、すでにことが終わっている。そしてそれが、後々までうらみや禍根をのこすことになる。
「なに、可愛いこと言ってるの。わかった、いろんな人泣かせてるから、怖いんでしょ。大丈夫だって! この小夜子さんが守ってあげるって」。小鼻をふくらませて、小夜子がポンと胸をたたく。するとすかさず武蔵が「そうか、小夜子が守ってくれるか。そいつは、こころ強いぞ」と、相づちを打つ。そんな他愛もない会話が、小夜子の気持ちを高ぶらせた。

 庭先の樹木が盛大に葉を、誇らしげに茂らせている。となりの家では芝生を子犬が走りまわる。花からはなへと飛びかう蝶を追いかけている。通りの向かいでは、植木の剪定がすすんでいる。あちこちに飛びだす枝やら葉が、みごとに刈り取られていく。
「お出かけですか?」。「いつも仲のよろしいことで」。一人ひとりから声をかけられる。そのたびに帽子をとって会釈をする。そんな武蔵をみるのが嬉しい小夜子だった。田舎では茂作の顔をみるたび、顔をしかめてそむけられる。挨拶の声をかけてもまるで無視される。なので次第に、もさくと出かけることのなくなった小夜子だった。道ですれちがっても、気づかないふりをするのが常だった。しかし今はちがう。

 閑静な住宅街をすぎると、大通りに出る。いっきに人出がふえて、武蔵が眉間にしわをよせた。フェルト製の中折れ帽をふかくかぶり直すと、視線をおとしながら歩く。きっちりとしたスーツ姿の武蔵は、痩せ型の長身で見栄えが良い。小太りな正三とは対極の二枚目だ。正三との逢瀬では小夜子に視線があつまったが、いまは武蔵が主役だ。行きかう女性たちの視線が武蔵にあつまり、そして小夜子にたいして、こんな小娘がと、敵意にも似た視線がとんでくる。

 電車内はまばらな乗客ではあったが、やはりのことに武蔵の挙動は敬遠された。しかし武蔵は、まったく意に介さない。小夜子の方に、すこしの後悔が生まれ始めた。やっぱり、腕、くむんじゃなかった。でも、いまさらはずすのは癪だし=B小夜子の手に力がはいる。と、どうしたことか武蔵が小夜子から離れてしまった。つば広の帽子姿に肩を大きく出したドレス姿の女性に声をかけている。ピッタリと身体をよせあって、談笑している。ひとり残された小夜子は、必死に武蔵をよぶが声がでない。武蔵の元にかけよろうとするが、小夜子の行方をさえぎるように女性たちが立ちふさぐ。見おぼえのある顔がずらりと並んでいる。典江に珠子、英子と陽子に花子、そしてその先の武蔵と親しげに話に興じているのは、梅子だった。「そ、そんな……」。武蔵に見初められた、あのキャバレーの女給たちだった。

(百三十三)
 
「さ、降りるぞ」
 武蔵の呼びかけに、夢想からひきもどされた小夜子が「えっ、は、はい」と、らしからぬ声をあげて立ち上がった。素直な返事など、小夜子には似つかわしくない。「勝手に降りたらいいわ、あたしはまだ乗っていたいの」。天邪鬼な性格の小夜子が発するのはこうだろうと想像していた武蔵には、面くらう返事だった。
「どうした? きょうは変だぞ、小夜子。まだ心配ごとでもあるのか?」。「なんでもない」。それでも、力ない声でこたえる小夜子だ。
 半分ほどの乗客たちが一斉に降りていく。お先にどうぞと手を動かす武蔵に対して、「失礼」、「お先に」といった言葉がかけられていく。大人の風格をただ漂わせる武蔵のふるまいが、小夜子には誇らしく感じられる。が、先陣を切ってバスから降りたいとも思う小夜子でもあり、後回しにされているー小夜子を一番だと遇してくれる武蔵らしからぬ行動に、不満の思いもわいてきた。夢想の世界からなかなか抜け出せないでいる、そんな感覚にとらわれる小夜子だった。

「さあ、着いたぞ。あの百貨店だ」。武蔵が指さす先には、あの、小夜子の人生を変えたと言っても過言ではない、あの百貨店があった。「えっ! あの百貨店?」。目を見開いた小夜子の歩がとまった。
「嫌か? だったら他の所にするか?」。「ううん、良い! あそこでいい。ううん、あそこじゃなきゃダメ!」。顔をかがやかせて言う、小夜子だった。
「なんだ、なんだ。知ってるデパートか?」。「なんでもない!」。かくす必要もないことなのに、なぜか口をつぐんでしまった。なつかしい場所だった。思えばここから、小夜子の人生が始まったようなものだ。アナスターシアとの出会いが、いまの小夜子のすべてになっている。小夜子にとっての聖地――アナスターシアと出逢った場所。アナスターシアと抱き合った場所。アナスターシア、アナスーシア。アーシア、アーシア――の、百貨店に、武蔵が連れてきてくれた。なにか運命的なことを感じる小夜子だった。さっきの、夢? よね、きっと。でもも武蔵とのわかれ、なのかしら?
 
「小夜子、なにが欲しい? 服か? 帽子か?」。武蔵の声に、ハッと我にかえる。すぐに返事をしなかった小夜子だが、考え込んでいた素振りをみせて「そうねえ。きょうはね、靴。それと、バッグだわね」と、べつだん欲しくもないものを口にした。
「靴だったら、着物用に草履をみてこい。それからバッグもな。外商の高井にこさせるから、相談しろ」
「ええっ! また、どこかに行っちゃうの?」。「おいおい、分かってるだろうが。俺は人ごみがダメなんだ」。「でも…」。武蔵との別れが近づいている。そんな思いから離れられない。
「こころ細いのか? 待ってろ、すぐに高井をこさせるから」

 小夜子はひとり、婦人靴売り場で、所在なげに立っている。真深くかぶったクローシェ帽にスカート丈が長めのピンク色のワンピース姿は、武蔵だけでなくだれもが目を細める。しかし高級靴専用コーナーには、若い小夜子ひとりではそぐわない。そこかしこで、ヒソヒソ話がはじまった。場にそぐわぬ小娘に、視線が強い。相手をしている店員たちもまた「そうでございますね」と相づちを打っている。そのなかのひとりがツンケンとした口調で「なにかご用でしょうか、お嬢さま」と、とげのある声をかけた。あんたなんかのくる場所じゃないわよ=Bそんな声が聞こえてきそうな雰囲気だった。

「小夜子さま、おまたせ致しました」
 高井が、満面に笑みを浮かべてやってくる。一瞬、フロアが凍りついた。蔑視の視線を浴びせていた小娘に、外商部の課長がふかぶかと頭をさげている。
「わざわざお出でいただきまして、ありがとうございます。ご連絡いただければ、こちらからお伺いいたしましたのに」
「武蔵が急に、出かけるなんて言いだしたんです。まさかお買い物だなんておもってもいなかったんです。このあとの食事につられて、なんです」

(百三十四)

 普段の小夜子らしからぬ弁解じみたことばが、次からつぎにと口をついて出る。高井とは二度ほど自宅で会っただけなのだが、柔らかい口調と小夜子をほめたたえることばの羅列で、すっかり小夜子のお気に入りとなっていた。が、この場所での高井は、あの坂田を思い起こさせてしまう。横柄な態度などは一切とらぬ高井なのだが、小夜子の方が気おくれしてしまっていた。
「そうですか、お羨しいですかぎりです。ほんとに仲むつましいことで。会社にお伺いしましても、小夜子さまのお話のおりは、ほんとに嬉しそうにされてます。ここだけのお話ですが、ご機嫌ななめの節は、小夜子さまのお話をさせていただきます。そうしますと、すぐにご機嫌がなおられまして……」。いまにもあくびが出そうな、小夜子。社交辞令になれない小夜子には、じれてくる話だった。
「そうですか」と、笑みをたたえつつも目がわらっていない。そんな表情をみてとった高井は、この場での接遇は自分では成り立たないと感じ、うしろに控えていた女性に声をかけた。

「長々と失礼いたしました。きみ、森田くん。小夜子さまのご相談にのってあげなさい、粗相のないようにね。この森田はこの売り場の主任をつとめておりまして、きっとお役にたちますです、はい」。「森田と申します。先ほどは店員が失礼をいたしましたようで、申しわけありません」。唖然としている店員たちが我にかえるなか、森田がふかく腰を曲げた。
「森田君、失礼って、なにかあったのか!」。顔を真っ青にして、どなりつける。森田はただただ体を縮こまらせるだけだった。
「大丈夫です、なにもありませんから。わたしがボーっと立ってて、他のお客さんたちの邪魔になってしまいました」。高井の剣幕におどろいた小夜子が、かえって申しわけなさそうにこたえた。

「まことに申しわけありません。教育がなっておりませんで。森田くん。たのむよ、ほんとに。御手洗さまとのご縁が切れたら、ぼくはクビですよ。いま、ご婚礼時の調度品を見ていただいたところなんだから」。ご婚礼? うそでしょ=Bけげんな顔を見せる小夜子にたいし、小声で耳元にささやいた。「さすがに御手洗社長は、お目が高い。小夜子さまなら、いいご伴侶になられます」
 小夜子は武蔵から、なにも言われていない。まさか今日の外食が、このデパート目当てでしかも婚礼家具の下見とは、思いもよらぬことだ。いつもの小夜子のご機嫌とりだと思っていた。まったくもう! そんなことを言いふらしてるのかしら? あとで、とっちめなくっちゃ=Bしかし悪い気はしない。不思議なことに、武蔵の未来の伴侶として接してくる高井に好感すらいだいた。

「小夜子さま。本日はどのようなお靴をお考えでしょうか?」。森田のいんぎんな態度が、小夜子にはおもはゆい。さらには小夜子に暴言を吐いたと、あの店員を叱りつけた。
「もうそのへんで。それから『さま』というの、止めてくださる?」。「とんでもございません、大切なお客さまでございますから」。あくまでことば遣いを変えない森田に、あらためて言った。
「『さま』じゃなくて『さん』にしてもらえますせんか」。「申し訳ございませんが、やはり『さま』と呼ばせていただきます」。なんどか押し問答をくりかえしたが、小夜子の希望がとおるはずもない。高井の厳命なのだ、主任の森田ごときではひっくり返せるはずもない。

 学生靴が多かった小夜子の足では、先のとがったヒール靴は合わない。それでもさすがに主任を務めるだけのことはある森田が、バックヤード内をくまなくさがして五点ほど、ダイアナそしてフェラガモの靴を持参した。やや丸めの足先で、これなら小夜子にもむりなく履けそうなものだった。
「すこしずつ慣れていただければヒールのお靴などもお履きになれると思います」。森田の見立てで、二足のハイヒールを購入した。さすがに洗練された最新モードの靴だ。がゆえ故に、いまの服では、靴がういてしまう。森田の勧めで、洋服も買うことになった。薄いグリーンの落下傘スタイルのスカートと、花柄のうすいブルーのゆったりとしたワンピースの二着が用意された。

「お羨しいですわ、ほんとに。大事にされていらっしゃって」。「ええ、まあ」。小夜子のほほが、ほんのり桜色に変わった。そうなのよね。『小夜子には最高なものが似合う』なんて言うのよね=B百貨店では、武蔵との結婚が既成事実となってしまっている。
もう、失礼しちゃうわ。みんなして、あたしをお嫁さんだって決めつけて!≠ニ思いつつも、悪い気がしない小夜子だった。
「お羨しいですわ」。森田のことばが小夜子のプライドをくすぐる。たしかに良くはしてくれるのよね。正三さんだと、ここまではねえ=B己の価値を金高におきかえる癖がぬけない小夜子だ。