(百二十)
鮨店の座敷にあがりこんだ武蔵は、小夜子の酌で酒を楽しんだ。
「いやあ、小夜子の酌で飲む酒は格別だ。同じ酒でも、まるで味が違う」。「ホント? 美味しい? あたしも、少し飲んでみようかな?」。上目づかいで、手を休めて言った。
「よし、飲んでみるか?」。武蔵は新しいお猪口をもってこさせた。半分ほど注がれたところで手をとめた武蔵にたいして「いっぱい、入れて!」と、小夜子が不満げな顔を見せた。
「ハハハ、まっ、少し飲んでからだ」。「いや! 飲めるわよ、そのくらいは」「分かった、分かった」。小夜子はあふれんばかりに注がれたお猪口を、恐るおそる口にはこんだ。半分ほどを口に入れたとたん、ぶっ! と 吐き出した。
「からーい! なにこれ、ちっとも美味しくないわ」。眉間にしわを寄せて、武蔵をじっと見つめた。武蔵はニタニタと笑いながら「おいおい、もったいないぞ。まだ小夜子には、むりだな。まっ、大人になれば、この味がわかるさ」と、小夜子のお猪口を手にとった。そして「どれどれ、小夜子と間接接吻でもするかな」と、一気に飲みほした。
「いやだ、間接接吻だなんて。しゃちょうさんの助平!」。はにかんだ表情を見せながらも、小夜子の目は笑っていた。初対面時の嫌悪感は、いまではまるでない。小夜子の足長おじさんとして頼り甲斐のある男だと、感じていた。
「ねえ、しゃちょうさん」。甘えるような声で、「この間の話、覚えてる?」と、武蔵を覗きこんだ。
「なんだ? どんなことだ。言ってごらん」。「覚えてないの? 梅子姉さんが『お酒の席での話は、間に受けちゃだめ!』って言ってたけど、やっぱりか……」
肩をすぼめる小夜子にたいし、「言ってごらん。小夜子の頼みはなんでも聞いてやるから」と、身を乗り出した。
「あたし、ひとり暮らし、したいの。きゅうくつなのよ、いまのお宅は。いろいろお小言を聞かされるしさ」
「そうか、お小言をな。夜の仕事だからな、小夜子みたいなおぼこ娘が、あんなナイトクラブで働いているんだ。いくらタバコ売りだとはいえ、なあ。まあ、それが当たり前だろうな」
「違うの! あたしが言いたいのはそんなことじゃない!」。武蔵が加藤と同じことばを口にすると「女が社会で活躍することは、そんなにいけないことなの? 家に閉じこもっていろというの? そんなの、男の横暴よ」と怒りのことばをぶちまけた。平塚らいてふからの受け売りことばを使い、いかに女性がしいたげられているかとまくし立てた。小夜子の頬は、ほんのりと赤みを差している。吐き出したはずの酒に、すこし酔ってしまったようだ。それが小夜子を饒舌にしたともいえる。
(百二十一)
「分かった、分かったよ。これから女性の社会進出は、当たり前のことになるさ。その先進グループに入りたいんだな、小夜子は。しかしひとり暮らしは、なあ。どうだろうなあ。そうか思い出したぞ。『愛人になれ!』と、口説いたんだ。だけど小夜子は、即座に『イヤッ!』と言ったんだ」
「それはそうよ。あたしには好きな人がいるんだから、愛人はだめ」
奥さんなら、いいかも=Bとつぜん、小夜子の声が、思いもよらぬ声が耳にとどいた。ポッと、ほほを赤らめた小夜子だ。
武蔵は、物おじせずに答える小夜子がかわいくて仕方がない。軽くお触りをしようとすると、即座に“ピシャッ!”と、手がとんでくる。そんな仕種がまた、武蔵にはかわいい。とにかく何をしてもなにをされても、とにかく嬉しいのだ。ひいきの銀幕スターの、なにげないことばやしぐさに声をあげるファン心理にも似たものなのだ。
「そうだ、そうだ。段々、思い出してきた。ひとり暮らしのときには援助してやると、いったんだな。そのことか?」。「そう! そうなの。だからね、おねが〜い。愛人はだめだけど、月に一度か二度ぐらいこうしてお酌してあげるから」。茂作を陥落させるときに使っていた、小首をかしげてのおねだりポーズをとる。「ハハハ。愛人のことは、冗談さ。お前みたいな、ねんねは相手にせん。ションベン臭い未通女なんぞ、女じゃないさ」
「社長! ねんね、ねんねって、言わないで! もう大人なんだから」。口をとがらせながら、武蔵のお猪口に酒をついだ。どうしても了解させたいのだ。そして加藤家へ挨拶に行ってもらわなければ困るのだ。
「どうだ! いっそ、俺の家にこんか? 愛人になれ、とは言わん。メイドということにしてだ。お手伝いさんはもういるんだ。なにもしなくていい。昼間は学校にかよえばいい。しっかり勉強しろ。そうだな。夕食時にこうやって酌をしてくれ。卒業後は、俺の会社で通訳として働いてくれ」
小夜子の酌を制して、武蔵が言った。小夜子が加藤家で話したことを聞いていたかのような内容が、武蔵の口から出た。
勝った、かったのよ。しゃちょうさんも、もうあたしの言いなりね=B勝ち誇った気持ちが、酒の酔いも手伝って小夜子のこころを高揚させる。武蔵との同居とは考えもしていなかった小夜子だが、家政婦がいるとなれば話は別だ。ふたりきりの生活には抵抗感があるが、もうひとりいるとなれば話がちがってくる。
「メイドさん? うーん、どうかなあ。でも社長さん、ほんきなの? ほんとに通訳として、会社に入れてくれるの? 愛人は、ほんとにダメだよ。だけど、正三さんが、どう思うかな」
「彼には、内緒にしておけばいいじゃないか。なんなら親戚とでも、しておくか? 彼を家によぶときには、俺は外泊してもいいぞ!」
突拍子もないことを言いだした武蔵の真意がはかりかねたが、これも小夜子をことあるごとにねんねだからなあというように、冗談なのだとおのれを得心させた。
「ええっ! そんなこと、しないよ。社長の助平!」
「なにが助平なものか。男と女が惚れあってだな、おたがいを求めるのは、自然なことじゃないか。どうだ、もうキッスぐらいはしたのか? おっ、ほほを赤らめたところをみると、したな? どうだった。上手だったか、彼は。俺は、うまいぞ。なにせ、アメリカさん相手の本場仕込みだからな。伝授してやろうか。彼がよろこぶような、あまーいキッスを」。酔いの勢いも手伝って、武蔵は小夜子をからかいつづけた。
耳たぶまで真っ赤にした小夜子は、思わずうつむいた。武蔵の、冗談としか思えぬことばに、胸がたかぶった。あの日の、正三との初接吻を思いだした。軽く触れただけの、それこそ衝突のような接吻だったが、いまさらながら胸がキュン! と痛んだ。
はしたない女だと、思われたかしら? そういえばあれからなのね。正三さんとは逢っていなんだわ=Bうつむいたままひと言も声を発しない小夜子を、武蔵は穏やかな気持ちで見ていた。いつもの武蔵ならば、このまま一気に押したおしてしまうのだが、どうしても小夜子にたいしてはそれができなかった。
本気で惚れたみたいだな、俺も。それにしても、なんでこんな小娘に=Bこんなことは、武蔵にしてもはじめての経験だった。日いちにちと洗練されていく小夜子をみることが、武蔵にとっていまでは無上の悦びになっていた。しかし不思議なことに、いちどとして小夜子を抱きたいと思うことがなかった。成熟した女としての魅力が、まだ未だ醸しだされていないのも一因ではあった。少女としか、武蔵にはみえていない。投資のようなものさ=Bいつか花ひらくであろう日を、武蔵は楽しみにしていた。
(百二十二)
武蔵宅での小夜子の生活は、まるでひとり暮らしをしているも同然だった。小夜子が朝にめざめたときには、すでに武蔵は出社していた。夜は夜とて、小夜子が床に就いてからの帰宅もある。わたしを避けてるのかしら……。ときに、そんな思いにすらとらわれてしまう。体を求めてきたら、どうしょう。そんなことを危惧していたことが、笑えてしまう。それにしても不思議なもので、家事が苦手なはずの小夜子が、いまは嬉々として勤しんでいる。掃除、洗濯はもちろんのこと、いつ帰るともわからぬ武蔵のために夕食を用意していた。といっても、はたきを持って指さされる場所を軽くはたき、手わたされる洗濯物を物干し竿にかけるだけだった。そして座敷机にできあがった料理をはこぶだけだった。
「社長さん、お千勢さんのことですけど」。「千勢がどうかしたか」。「いえ、そうじゃなくて……」。めずらしく、小夜子にしては口ごもる。
「意地悪、されてるのか? よし、明日は俺がかえるまで待たせておけ!」。小夜子があわてて、答える。「あたし、なんです。あたしの、我がままなんです」
「我がままって。小夜子、話がわからん。順をおって話してみろ」。あせる武蔵だ。これほどに小夜子を悩ませる千勢にたいし、猛烈に腹がたってきた。五平の手配でやとったのだが、武蔵の思いえがくアメリカ式のメイドではなく、おかめ顔の田舎娘がやってきた。五平に話がちがうとつめよると「社長。お手伝いに手をだしたらややこしいことになりますから」と、いさめられる羽目になった。「いっそ、嫁さんにしますか。それだったら飛びっきりの美女をさがしてきますが」。五平にやり込められた武蔵だった。
「あたし……、その……やりたいんです。ひとりで、ぜんぶ。とにかくやりたいんです」。相かわらず、口ごもりながらの小夜子だ。
「やりたいって、なにを? したいことがあるなら、やればいい。金がかかるんならいえばいい。小夜子の好きなこと、やりたいこと、なんでもやればいい」
顔を真っ赤にした小夜子がいる。いつものいどむような目、そしてまた甘えるような仕種はまるでない。どうにもこんやの小夜子は、武蔵には理解できない。小夜子自身も、こんなことでなにをウジウジしてるの。自分に納得がいかない。茂作に対峙しているときの小夜子ではないことに、怒りすら感じてしまう。来てほしいって頼まれたから、淋しいんだって懇願されたからじゃないの=Bいつのまにか、おのれの意思ではなく武蔵からの要請ということになっている。たしかに、ひとり暮らしを考えていると言った。武蔵宅への同居をせがんだわけではない。
加藤宅まで赴いて、小夜子の筋書きどおりの芝居を打つと決めたのは、たしかに武蔵だった。小夜子にしてみれば、ひとり言でもらしたことを、武蔵がかってにしたことだということになる。
「そうだぞ。小夜子から頼まれたわけでもなんでもない。俺がこうしたいと思ったことを、小夜子に強要したんだ。小夜子がこっちに来てから世話になったと言うから、お礼に出向いたんだ。小夜子にたのまれたからじゃない」。小夜子が武蔵のもとに転がり込んでから一週間ほどは、毎日のようにわざと千勢に聞こえるようにと大声をだした。機転の利く千勢もまた、武蔵の話にあわせて、「だんなさまは強引な方ですから。小夜子さまもさぞやお困りでしたでしょう。あたしにも、『くるぞくるぞ、やっときてくれるぞ』と、そりゃもう子どもみたいにはしゃがれていましたから」と、小夜子をくすぐった。
(百二十三)
「千勢に辞めてほしいんです。家のなかのこと、あたしが、ぜんぶやりたいんです」。意を決して、しっかりと武蔵の目を見据えた。しかし、すぐに視線を落としてしまった。
「小夜子は、千勢がきらいか。わかった、わかった。だれか、ほかのお手伝いをさがそう。それでいいだろ? だから機嫌をなおせ」。小夜子を抱きよせると、頭をポンポンと軽くたたいた。小夜子の意図することに反した武蔵のことばに、小夜子はあわててしまった。
「ちがうの、そうじゃないの。千勢がきらいだとか、そういうことじゃないの。あたしが、お料理やらお掃除やら、お洗濯をしたいの、ひとりで」。顔を真っ赤にして、言う。こんなことばを口にするとは、考えられない小夜子だった。
お姫さま然の暮らしをさせてくれるかもと期待する思いがあった小夜子だった。「お手伝いの娘がいるから、好きなことをして時間をつぶせばいい。そうだった。学校があるんだったな。しっかりと英会話の勉強をしろ」。そんなことばをかけられている。そしてそのことば通りに家事のすべてを任せて、小夜子は毎日を英会話の勉強についやした。しかしふた月をすぎた頃から、すこしずつ小夜子の気持ちのなかに違和感が生じはじめた。
アナスターシアと旅をしながら、アナスターシアの笑顔をつくるべく、アナスターシアの身のまわりの世話をする。アナスターシアがやすらげる場を、小夜子がつくりあげる。そのための英会話の勉強だったはずだ。その思いはいまも変わらない。やっとアナスターシアへの連絡ができるようになった。ただ、日本国内のようにはいかない。片道十日以上はかかる。マッケンジーの事務所あてに手紙を出して、運良くアナスターシアがアメリカ国内にいれば、すぐに転送してくれる。しかし国外に出ているときには、帰国するのを待たねばならない。
なので、早ければひと月もかからずに届くが、間が悪いと二ヶ月も三ヶ月も待たされることがある。それでも、アナスターシアからとどく手紙を、辞書を引きひき訳してよむ時間は至高のときだ。あふれるほどの愛のつまった手紙は、なにものにも代えがたい。すぐにでもアナスターシアの元へと飛んでいきたいと願う小夜子だが、異国の地での生活において会話のたいせつさを痛感している。通訳を介しての、たった一日のことだったが、いかに味気ないものか、いかに痛痒なことか、身にしみている。
しかし日が変わると、そしてまた武蔵の姿を目にすると、もうひとりの小夜子が現れる。人形に恋する娘は、おさない童女。恋を愛と勘ちがいするのは、少女。愛をあいと信じられるのが女性。小夜子。あなたは新しい女性になるんじゃなかったの?=B痛烈なしっぺ返しを受けたような感覚におそわれる。足長おじさんなの、そう強弁してみるが、納得する小夜子はいない。
「猫が落としたの」。棚のうえから落ちている花瓶を指さしながら、「自分じゃない、猫がわるいの」と母親につげる子ども。母親の目を正面からみることができずに視線をおとして告げる子ども。柔らかい視線につつまれても、(分かっています、あなたでしょ)と叱責されている思いがつたわってくる。嘘を吐いてしまったという自責の念から顔をあげることができない。夢想の世界と現実の世界とのはざまに追いこまれている感覚が、どうしても拭えない。しかしアナスターシアとの暮らしは、捨て去ることのできない小夜子の強い願望だ。
(百二十四)
「そうか、そうか。小夜子が料理を作ってくれるのか。それは、楽しみだ。そういうことなら、千勢は辞めさせよう。そうか、小夜子が作ってくれるのか、そいつは楽しみだ」
相好をくずして、大きくうなずく武蔵だ。一時のことかもしれんが、ま、いいさ。飽きたら、また雇えばいいことだ=B小夜子の気まぐれに付きあうことに慣れてきた武蔵で、子猫のじゃれのように見えている。ひざの上でのどをなでると、ゴロゴロと音を鳴らしなから目をつむる。なでることをやめると、もっと! と催促の目をあける。でまたなではじめると、ゴロゴロの音とともに目をとじる。じんわりと伝わってくるやわらかい体温が、武蔵のこころを凪いでくれる。
一分でも一秒でもはやく帰宅したがる武蔵に「すこしは会社のことにも気を配ってくださいな」と、五平が苦言をていするほどだ。取引先の接待に関しても五平に任せっきりとなり、果ては服部たち社員にまでまかせはじめた。「将来の幹部候補生だぞ、すこしは任せてもいいだろう」と言い訳をする。
「いいかしら? 千勢さん、困らないかしら?」
「大丈夫、大丈夫だ。そんなことは、小夜子が心配しなくていい。ひと月分の手当を余分にわたしてやるから。家政婦紹介所にたのんで次も用意してやる。小夜子の手料理をなあ、食べられるのか。そうかそうか」。えびす顔の武蔵だった。
小夜子が来たおりのことは、いまでも鮮明に武蔵の脳裏にのこっている。連絡なしの、とつぜんのことだった。自宅に人がくるなど、めったにない。「コンコン」。玄関のガラス戸を遠慮がちにたたく音がする。三度目あたりに気づいた武蔵は、読みふけっていた新聞を座敷つくえに置くと、気だるそうに立ち上がった。
「はいはい、分かったよ。どなたですか」。どかどかと廊下を、足音も大きく歩くと、ガラス戸の向こうに華奢なシルエットが見えた。“千勢か?”。この日は月に一度の、千勢の休日だ。なにか急用かと「どうしたんだ、千勢!」と怒鳴りながら、錠をはずした。所々はげかかったベージュ色のトランクひとつで、小夜子がいた。はじめて見る武蔵のいかりの形相にたじろぐ小夜子がいた。
「あ、あのお、、小夜子です、、」。消え入るような声で、体をちぢこませて、ペコリと頭をさげた。間違えちゃったかしら、やっぱりお酒の席でのことだったの?=B不安の気持ちが小夜子のこころいっぱいに膨らみ、見るみるうちに大粒の涙があふれ始めた。
「小夜子じゃないか。いやあ、良く来たねえ。悪かった、わるかったよ、大きな声なんか出して。俺が悪かった、わるかった。さっ、入りなさい。そうか、そうか、よく来たなあ。よく来てくれた」。満面に笑みをたたえて、小夜子を手招きした。
「ひくっ、ひくっ、怖い、社長さん」。「そうだな、俺が悪かったな。ごめんな、ごめんな」と小夜子の肩をだきながら、玄関内に引き入れた。上がりかまちでためらっている小夜子に、「さあさあ、こっちだぞ。いまは借家住まいだが、すぐにも家を建てるさ。小夜子にふさわしい家を建ててやるから」とうながした。沓脱ぎ石につまずきそうになった小夜子を、あわてて支えたが、なんとも体がほそい。というよりも骨と皮だけのように思えた。
こんなにも苦労していたのか。満足な食事を摂っていなかったんだな=Bそう思えば、店をぬけだして食事につれていったおりの、あのむさぼり食うような食欲もなっとくがいく。
「そうか、そうか。やっと決心してくれたか。待ってたんだぞ、小夜子。これからは家族だ。勉学に専念しろ。家事のことなんか、お手伝いの千勢にまかせておけばいいさ。小夜子と俺は、きょうから家族だからな」。小夜子の肩を軽くたたきながら、なんども家族を強調した。
前室を右におれて廊下にはいる。左手の十畳ほどの居間にはいり、ちいさな庭を正面にみる。座敷机が中央にあり、今のいままで武蔵が読んでいた新聞が広げられている。玄関わきの壁にすえつけてある柱時計が、十一時をしらせた。
「どうだ? あとで鮨でもとってやろうか。いっしょに食べような」
「で、でも。そこまで甘えるわけには」。落ち着きをとりもどした小夜子は、座布団からおりた。「ご迷惑をかえりみず、お世話になることにしました。よろしくお願いします」と、頭を畳にこすりつけた。
「おい、おい。そんな他人行儀なことはいうな」。小夜子の思いもよらぬ作法に、戸惑いをおぼえた武蔵だった。
(百二十五)
「どうしたの? ニヤニヤして。思い出し笑いなんかして!?」。ときおりちいさな笑い声をだしている武蔵にたいして、小夜子がすねたような表情をみせた。
「いや、なに。小夜子がはじめてきたときの、ちぢこまった姿を思いだしてな。ククク」。我慢できずに、バンバンと膝をたたいて大笑いした。
「やあな、お父さん。だれだって、はじめてのお宅じゃ緊張するでしょうに。まして、赤の他人の家に転がりこもうとしているのよ!」。口をとがらせて反論する小夜子に、「それがいまじゃ、な!」と、武蔵が言う。いまは小夜子もふっくらとした体つきになり、身体のとげとげしさは感じられなくなっていた。
「いまじゃ、ってなんのこと!」。「そう、とんがるなよ。美人がだいなしだぞ」。「おかめで結構です」。ぷうーとほほをふくらませてそっぽを向いた。当初はなにかにつけて緊張感から顔をこわばらせる小夜子だった。がいまでは、すぐに怒り顔をみせたり泣き顔を作ってみせたり、先のようなすね顔をみせたりしていた。そんな変幻自在の表情を見せる小夜子をながめるのも、武蔵の楽しみのひとつになっていた。
「お父さん、お茶にします? それともコーヒー飲みます?」。小夜子は武蔵を、お父さんと呼ぶことにしていた。
「あなた、は、ダメかあ?」と、武蔵がおどけてみせたが「ダメ! お父さん、なの。それとも、以前のように、社長さんにする?」と、言いかえした。
「分かった、わかったよ。社長では他人行儀すぎる。それでいいよ」と、矛をおさめざるを得なかった。
小夜子の差し出すコーヒーをすすりながら、「うーん、美味い! 小夜子も上手になったな。はじめの頃は、薄かったり濃かったりと、とてもじゃないが飲めた代物じゃなかったがな」と、相好をくずした。
「そりゃあ、そうよ。愛情たっぷりの、コーヒーだもの。あっ、愛情といっても違うからね。変な風にとらないでよ。お父さんに対する、愛情だからね」。「おうおう、それを言うか、小夜子は」。快活にわらう武蔵に、小夜子は「そうよ、そうなの! お父さんは助平だから、勘ちがいされたらこまるもんね」と、念を押した。
「どうだ、小夜子。いちど、会社に顔をださんか?」。とつぜんに、真顔の武蔵がいう。
「会社に? あたしが?」。「ああ、顔合わせだ。小夜子に、俺の社長姿をみせるのもいいかな? と思ってな」
「なに、それって。惚れさせようって、魂胆かしら?」。「ハハハ、小夜子にはかなわん。すべて、お見通しか?」
「そうよ。お父さんの考えることなんか、お見通しよ、ぜんぶ」。腰に手をあてて胸をそらせる小夜子に、「お見それしました、元帥閣下」と、最敬礼の姿勢を武蔵がみせた。
「まいりました、小夜子さま」と武蔵が発すれば「うん、わかればよろしい」と、ますますそり返る小夜子だった。
そろそろ外堀を埋めて、小夜子の心中に武蔵の伴侶になるこころづもりを抱かせようと、かんがえる武蔵だった。会社に顔をださせることで、社員にたいして小夜子を妻として認知させる。そしてその空気を小夜子にかんじさせる。必然的に、武蔵を男として意識することになるだろう。それをねらってのことだ。
小夜子と出会って――小夜子を見そめて一年足らずとなり、この家に迎えいれてから、はやひと月ほどになる。
(百二十六)
「ねえねえ、このあいだ買い物をしてたらさ。ふふふ……奥さんって、言われちゃった。まいっちゃうわ、ほんと。『お嬢さん、なんにします? ああ、ごめんよ。みたらいさん家の、奥さんだったねえ。どう? 新婚生活は。優しくしてもらってるかい?』ですってえ」。「なんて答えたんだ? 小夜子は」と身をのりだす武蔵にたいし「ふふ、内緒。ないしょなの」と、はにかんだ表情をみせながら、甘えたような声で言った。
「気になるじゃないか、その言いぐさは。言えよ、いわなきゃこうだぞ!」
武蔵は両手をおおきく広げ、おそいかかる熊の仕ぐさをみせた。
「きゃあ、イやだあ!」と、あわてて小夜子は立ち上がった。逃げまどう小夜子を、なんども雄叫びをあげながら追いかけた。
「こわいよお、おうちの中に助平熊がでたよお! だれか、助けてよお!」。さながら鬼ごっこのこどくに、家中をかけ回った。廊下に飛びだした小夜子は、台所から玄関そして二階へとかけあがった。
「どこだあ、どこだあ。美味そうなウサギはどこに逃げたあ!」
小夜子は声をころして、階段途中で武蔵を待った。ウキウキとした気分で、おおきく両手を上下させる武蔵をみつめた。ほら、ここよ。ここに居るわよ。どうして外に行っちゃうのよ!=B玄関の戸に手をかけようとする武蔵をみた小夜子は、あわてて階段で足ぶみをした。
「うん? 音がしたぞ。どこだ? どこからしたんだ、階段だったかあ?」。武蔵がキョロキョロしながら、階段に目をむける。満面に笑みをうかべる小夜子を見つけた武蔵は「おお、居たぞ! ガオォォ! 見つけたぞお!」と、のっそりと体をいれ替えた。「キャッ、キャッ!」と嬌声を上げながら、小夜子が階段をかけあがる。武蔵は、階段に手をかけながら「逃げられんぞお、にげられんぞお!」と、ゆっくりと登った。
小夜子は奥の部屋に入りこむと、息をひそめて武蔵を待った。
「この部屋かあ、居ないぞお! どこだあ、一階に、逃げられたかあ……」。うめくような武蔵の声が、小夜子に耳にとどいた。まるで子供のように、小夜子の鼓動がはやくなる。ワクワクとしている。ここよ、この部屋よ。ここに、居るよ=B武蔵が廊下にでた音がすると、小夜子の心臓は早鐘をうちはじめた。
「一階かあ。待てよお、もうひとつ部屋があるぞお」。武蔵が廊下をはいずる音が、小夜子の耳元にもとどいてきた。来る、くるわ。どこ? どこに隠れればいいの?=B部屋を見まわすと、小机と洋服タンス、それにベッドがあった。小夜子はあわてて、ベッドのなかに潜りこんだ。と同時にドアが開けられて「おおっ、ウサギちゃんの匂いがするぞ。どこだあ、どこだあ」と、武蔵が入ってきた。
(百二十七)
「ここかあ? いや、居ないぞ。それじゃあ、この中か? いない。おかしいぞ、おかしいぞお。匂いがするのに、見つからんぞお」
布団の中で、小夜子は笑いを噛み殺していた。部屋をうろつく音がするが、中々ベッドに近づいてはこない。「おかしいぞお、おかしいぞお。逃げられたか、またしても」
「ククク」。思わず、声を上げてしまった。
「おっと、声がしたぞ。どこだ、どこからだあ! クンクン、クンクン」。小夜子は、わくわくしながら武蔵を待った。とつぜん、小夜子の太ももに武蔵の手が触れた。
「キャッ!」。小さな悲鳴をあげたとたんに、武蔵が布団のなかに潜りこんできた。ベッドから逃げ出そうとする小夜子を、武蔵はしっかりと抱きとめた。
「見つけたぞお、やっと捕まえたぞお! さあ、どこから食べるかなあ。この腕か、それとも太ももかあ……」。一瞬間、小夜子は声をうしなった。背筋に電流がはしり、頭や手足にむかって広がった。
なに、なに…なんなの、これって=Bいっきに世界が変わった。アンデルセンの世界にどっぷりとひたっていた小夜子が、うっかり踏みいれた世界は、金瓶梅だった。エロスの世界だった。武蔵が意図したわけではなく、小夜子が仕組んだわけではない。かくれんぼのはずだったのだ。武蔵も童心にかえっての、遊びのつもりだったのだ。
一瞬間、小夜子の体は硬直した。心音だけが、早がねのように鳴りひびいていた。ど、どうなったの……どうして、どうして?=B武蔵の腕の中にすっぽりと収まっている小夜子に、南国の熱い風がふいてきた。夕陽が水平線にかくれていく。はるかな海原にしずんでいく。燃えるような赤が海原にうつりこんでいく。そして小夜子の体もその中に入りこんでいく。
「さよこ」。そのことばとともに、唇がかさねられた。正三との接吻はレモンであり、武蔵とのそれはさながらマンゴーだった。
「だめ! これ以上は、だめ、だめなの」。涙声の小夜子に、これ以上の無理じいはまずいと考えた。「いかんいかん、遊びがすぎたな。しかし、美味しい接吻だった。ご馳走だ、ごちそうだあ!」
武蔵が階段を下りる音がする。「ご馳走だ、ごちそうだあ」となんども繰り返しながら下りていく。悪童たちが夕焼けにむかって家路にむかうおりに、「はらへったあ、めしくわせえ!」とどなりながら歩く景色が、小夜子の頭のなかにはっきりと浮かびあがった。
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