(百十)

 待ちにまった正三からの手紙が、小夜子にとどいた。まさしく、情熱がほとばしる恋文だった。正三の小夜子にたいする思いが、切々とこめられていた。

小夜子さん、お元気ですか。小生、やっと小夜子さんの元にたどり着けました。なんと長い、無味乾燥な日々を送ったことでしょう。わずか三月足らずと、言うこと勿れ。小生にとっては、まさに地獄の日々でありました。
貴女のごとき魅力的な女性を、都会の野獣どもが見逃すわけなく。いえいえ、ご聡明なる貴女のこと、見事に難をのがれる術をお持ちとは信じておりました。なれども、小生の思いは千々に乱れました。
貴女よりの便りすべてが、親の元に留め置かれておりました。いかにも、口惜しく思えます。その便りが小生の手元に届いておりますれば、之ほどの思いはありますまいに。小生の思いの丈をとどける術もなく、日々落胆でした。

小夜子さん、与謝野晶子女史の詩作になぞらえて贈ります。
 
 あ丶小夜子よ君に泣く 吾を忘るること勿れ
 才色兼備の君なれば 群がる男も数多なれ
 君を誉めそやす男に 吾は如何とす
 君に贈する男に 吾は如何とす
 
 遠き地に居る吾は 君を畏るる
 君が熱き吐息を欲する吾は 如何とす
 君が気高き意を聞けぬ吾は 如何とす

 今 君が居るこの地に辿り着きし吾
 今 君と同じき気を感じられる吾
 
 至福の境地に至りし吾
 あ丶小夜子よ君に泣く 吾を受け入れ給え
 あ丶小夜子よ君にひれ伏す 吾を受け入れ給え

すぐにも貴女との逢瀬を、と思いはするのですが、中々に難しいのです。入省したての小生なれば、休みを取ることが叶いません。伯父の引きがあればこその、官吏なのです。どうやら父親から文がとどいているらしく、なかば監禁状態です。通常ならば寮生活を送るはずなのですが、伯父宅での下宿となってしまいました。
小夜子さん、いまの小生の願いをご存知でしようか。恥ずかしきことながら、毎夜のごと如くに夢を見ております。淫靡な夢に、さいまれております。お許しください、小夜子さん。毎夜、貴女の……。まいよ、あなたとの接吻をこころみております。お怒りにならないでください。あのおりの、貴女からの接吻が、小生の頭からはなれないのです。あまりにも、甘美でした。

どうぞ、小夜子さん。いましばらく、ご猶予をください。かならず、貴女の元に馳せ参じますゆえに。かならず、貴女を妻として迎え入れます故に。 貴女の下僕 正三より
                                        
(百十一)

 正三からの恋文をよみおえた小夜子は、思わず小おどりした。すぐにも逢いたいという気持ちをおさえることが出来なかった。さっそくにも返書をしたためようと思ったのだが、封書にもびんせんにも住所の記載がなかった。逓信省あてに、とも考えてはみたが、所属部署がわからぬ郵便物では正三にとどくかどうか怪しく思えた。
書き忘れかしら……それとも、意図してのことなの?=B小夜子は、うらめしくその便箋を見つめた。
どうして、逢いに来てくれないの。妻としてむかえてくださる気持ちがおありになるのなら、万難をはいしてでも。あの方なら、きっと、来てくださるでしょうに=Bとつぜんに、小夜子の脳裏に武蔵がうかびあがった。あの夜以来、三日と空けずにかよってくる武蔵だった。女給たちが多数おしかけても、小夜子だけとの会話をたのしんでいく。そして三度に一度は、小夜子をつれだした。
 昨夜もそうだった。
「小夜子ー、居るかー!」。フロア中にひびきわたる武蔵の声に、かおを真っ赤にした小夜子が武蔵のボックスに来た。
「お願いですから、大声でよぶのはやめてください」
「いや、やめん。小夜子に、悪い虫がつかないようにしてるんだ。小夜子は、かわいい娘だ。いつなんどき、小夜子をねらう不逞のやからが現れるやも知れん。俺のひいきだと知れば、手をだす男もおらんだろうから」。懇願する小夜子にたいし、武蔵は快活に笑いながら答えた。武蔵を取りかこむ女給たちも、いまでは小夜子に悪感情をいだく者はいなくなった。みな、微笑ましくふたりの痴話話を聞いている。

「もう、悪い虫は付いてるだろうが。タケゾー虫が」
 梅子が、ニコニコと席につく。わざわざ武蔵と小夜子の間に、割り込んで座り込む。小夜子にたいする思いやりではなく、武蔵への援護射撃なのだ。ギラギラとした武蔵からの風を、やわらげているのだ。
「どうだ? 愛しい彼からは、連絡はきたのか? もうこっちに、来ているころだろうに」。なかばからかい気味にいう武蔵だったが、みるみる小夜子の顔がくもった。
「こりゃ、いかん。俺が悪かった、勘弁してくれ。入省早々というのは、なにかと忙しいもんだ。なにせ、華の官吏さまになったんだからな」
「ほらほら、ジュースがないぞ!」。フロアのボーイに、梅子がどなる。
「それとも、迷子になっているのかもしれんぞ。キチンと住所は書いたのか? 番地をまちがえたりすると、とどくまでに時間がかかるぞ」
 無言をとおす小夜子にたいし、武蔵はなんども言葉をかけた。とつぜんに小夜子が、梅子のむねで泣きじゃくりはじめた。先夜の加藤の小言が思いだされて、溢れる涙をとめることができなくなった。

(百十二)

 夜の仕事は、思った以上に負担になっていた。どうしても、帰りつく時間が午前一時をまわってしまう。家人の眠りをさまたげないようにと、息をころして歩くのだが、ときとして起こしてしまう。奥方のせきばらいに、肩をすぼめることもしばしばだった。
「いま帰ったのかね。ちょっと話があるから、書斎にきなさい」
 思いもかけぬ、加藤の声だった。ためらいつつも、断るわけにはいかない。明日の朝では、だめでしょうか?=Bのどまで出かかったことばを、小夜子は飲みこんだ。

「遅くなりまして……失礼します」
 そっとドアを開けて、小夜子は深々とお辞儀をした。加藤だけだと思っていた小夜子だったが、痛いほどの奥方の視線を感じた。さげすみの色が、その目にやどっていた。
「いつまでも夜の仕事をつづけるのは、どうだろうねえ。聞くところによると、学校ではいねむりが多いというじゃないか。そもそも、女ごときになにができるというのかね。婦女子は、家庭にはいるのが一番だよ。どうかね、故郷に帰ってどこぞに嫁いでは」
 加藤のことばの端々に、やわらかい口調ではあるものの冷たさがはいっていた。
「そうですよ、小夜子さん。女はややを生んで、家庭を守るものですよ」
 ソファに並んだ奥方からも、辛辣なことばをあびせられた。小夜子は入り口に立ちすくんだまま、うなだれていた。将来の見とおしを持っているわけでもない小夜子には、耳のいたいことばだった。たしかに毎日の睡眠時間が不足はしている。休日をとることのない生活をおくる小夜子には、正直きつい。猛烈な睡魔におそわれることが、間々あった。
「ご心配をおかけして、申しわけありません。もうすこしの間、お世話にならせてください。できるだけ早く、どこぞにお部屋を借りますので」
「いや、迷惑だといってるのじゃないんだ。だいいち、若い身空でひとり暮らしなど、もってのほかだよ」
「そうですよ、小夜子さん。そんなことは、させられません。世間体と言うものがありますからねえ」

 思いもかけぬ小夜子の返事に、ふたりは慌てた。しかし小夜子は、「いえ、もう当てがありますから。この月内には、移り住めると思います」と、勝ちほこったように言いはなった。じつのところは、当てがあるわけではなかった。加藤家での息づまる生活に、耐えられなくなっていた。
「当てがあるとは、どういうことだね!」
 詰問調に、加藤がいった。
「はいっ。お店のお客さまのご紹介で……」
 もうあとにはひけない。武蔵を思いうかべながらこたえた。
「み、店の客とは、どういうことだ!まさか、その、なんだ、ふしだらな関係……」
 気色ばむ加藤に対し、小夜子はことばをさえぎって叫んだ。
「ち、違います! あの方は、そんなお人じゃありません! 足長おじさんです、あたしにとって」
 憤然とした面持ちでこたえた。
 武蔵が現れてからというもの、日々の給金が増えていた。たしかにタバコの売り上げがあがっていることは分かっているが、それにしてもと思われた。つい先日に、「社長がね、すこし援助してくれてるの。『もっと出してもいいぞ』というのを、あたしが止めているんだよ。負担に感じない程度にさせているんだ」と、梅子から聞かされた。
「気にすることはないからね。その分はしっかりと働いているんだ。女給じゃないあんたが相手をしてやっているんだから」
 そう梅子にいわれれば、たしかに……と思えもする。武蔵が遊びにくれば、小夜子は煙草を売ることができなくなるのだ。なので武蔵が現れると、どこからかもうひとりのタバコ売りが現れる。一度や二度なら小夜子も気にはならない。しかし武蔵の現れない日は小夜子だけで、その女は来ない。
 気になり始めた小夜子が梅子に、「社長さんがお見えになったときだけの、タバコ売りさんがいらっしゃるんですか?」と聞いてみた。その娘にたいして、申し訳ないわという気持ちがあったわけではない。ただ気になった、それだけのことだった。
「ああ、あの子ね。小夜子ちゃんが気にすることはないよ」
 それだけのことばを言うだけで、くわしくは教えてくれなかった。たしかに店としても、ふたりのタバコ売りはいらない。小夜子を女給として雇い直して、新しくタバコ売りを増やせばすむことだ。しかしそれは小夜子が了承しない。あくまでタバコ売りでの契約なのだ。だいいち、武蔵が納得をするわけがない。武蔵の店への貢献度は高い。武蔵自身もそうなのだが、武蔵の声かけで来てくれるようになった新客も多々いる。服部、山田のふたりも、あれいらい律儀に毎週かよってくれている。日当を出すタバコ売りがいたとしても、十分に割があう。その娘にしても、毎日ではなくと言うのを気に入っている。ただ、急な呼び出しだけが気にはなっている。しかし日当の他に客からのチップもあり、娘もまた割の良い仕事ととらえていた。

(百十三)

 あの夜以来、なにかとプレゼントを持ってくるようになり、以前にも増して軽口をたたくようになった。小夜子もまた、武蔵にたいする警戒心が薄れた。なにより、正三という婚約者の存在をみとめてくれている。あたしさえしっかりしてれば、大丈夫!=Bそんな思いが、小夜子のなかにはある。そしてひさしく味わえずにいた女王然とした態度をよろこぶ、武蔵がいた。すこしサービスしてあげると、感激するのよね=Bすこしずつ女給たちに感化されはじめたことに、まるで気づかぬ小夜子だ。
「小夜子、今夜はバッグを見つけてきたぞ。どうだ、最高級のわに皮製だ。小夜子にはすこし早いかもしれんが、掘りだし物があったんでな。で、どうだ? 決心は、ついたか? 愛人になってくれたら、もっと凄いプレゼントをしてやるがなあ」。女給たちの羨望のまなざししを受けながら、小夜子は嬉々としてそれをうけとった。
「嬉しいい! でも、これと愛人とは別物よ。どうせ愛人になったとたんに、なにもくれなくなるんでしょ! その手には、乗りませんよーだ。でも、ありがとう!」。武蔵に抱きつきながら、小夜子もまた戯れごとでかえした。
 当初こそ遠慮がちな態度をとりつづけた小夜子だったが、いまではあからさまに「あのバッグが欲しいわ。それと、あの靴も。このあいだ買ってもらったお洋服には、ぜったいに必要なの!」と、要求するようになっていた。そのあまりのことに、梅子が苦言を呈したこともあった。
「小夜子ちゃん。あなた、分かってるの? どれくらい散財させているか。世の中、そんなに甘いものじゃないわよ」
「大丈夫ですよ、梅子さん。社長さん、すごく喜んでくれるんですよ。おねだりをしないと、かえって叱られるんですから」と、まるで意に介さなかった。
「小夜子ちゃん! 気をつけなさいよ。社長の常套手段よ、それって。どれだけの女が、それでだまされたことか。だめよ、愛人になっちゃあ」。真顔でを、珠子がつげた。じつのところ、珠子の心中はおだやかではなくなった。珠子にしても、武蔵におねだりをくりかえしている。しかしときとして、拒絶されることがある。が、小夜子にはまるであまい武蔵だった。
「お前らなあ、どうしてそんなに、人の恋路を邪魔するんだ? 俺の純な想いをだな、踏みにじるよう……」
「なにが、純な思いよ。下心見え見えだよ!」。武蔵の口をさえぎるように、梅子が武蔵の太ももをつねった。これ以上の会話がつづけば、小夜子にたいする嫉妬心がうず巻くかも、というおそれを感じたのだ。
「いたいっ! こらあ、梅子。どうせさわるなら、こっちにしろ」。立ちあがった武蔵がズボンを脱ぎはじめた。思わず小夜子が、うつむ俯いてしまった。
「こりゃ、いかん。小夜子のまえでは、俺は紳士でなきゃいかんのだ」。梅子の意に気づいた武蔵が即座にこたえた。やっぱり梅子だ。気をつかわせちまった、こんどなにか用意しなくちゃな=Bだれにも悟られぬように、梅子にたいしてうなずいた。
「小夜子ちゃん、今夜はもういいわ。社長、今夜は大人の遊びをしたい気分らしいから」。梅子にうながされて、小夜子はペコリと頭をさげて席をはなれた。
「おお、ご苦労さん!」。武蔵のねぎらいの声に、小夜子は「また、食事につれて行ってね」と、片目をつむってみせた。

(百十四)

 小夜子が立ちさると珠子に対し、「珠子! 新しいボトルを持ってといで」と命じた。「ボーイさーん!」。手をあげてボーイを呼ぶ珠子にたいし、「あんたが行くんだよ、男衆を呼ぶんじゃない!」と、珠子を立ちさらせた。
「社長! すこし甘やかしすぎるんじゃないかい? あれじゃ、世の中をなめきってしまう。ぜいたくに慣れきった女の末路は、そりゃあ悲惨だよ」
 梅子が真顔で、武蔵をたしなめた。
「いいんだよ、あれで。小夜子には、ぜいたくな女になってほしいのさ。いなかじゃ貧乏神につきまとわれた生活だったんだ。ときどき卑屈な目をみせるんだよ。着かざった女がいると、腰がすわらんと言うか……。だからぜいたくな女があこがれの的になってるんだよ。あれじゃいかん。ぜいたくがどんなものなのか、分からせてやりたいんだよ」
「あんたって、人は。本気なんだね、やっぱり。単なる気まぐれじゃ、ないみたいだね。それじゃあもう、なにも言わないけどさ」
 あきれ顔で、梅子は深くため息をついた。
「で? 珠子はどうすんのさ。ご用済みにするのかい? その内に」
「珠子を? なんで別れなきゃいかんのだ。あいつの体は、絶品だ。まだまだ、味わいたいぜ。それにだ、いますぐって訳じゃない。小夜子の両親の元には、年が明けてから行くつもりだからな。いま、調べさせてるんだよ。小夜子の口ぶりじゃ、相当に困窮しているらしいからな。だから、」。「お待たせえ!」。珠子が戻ったところで、話がとぎれた。

 武蔵の真意をはかりかねていた梅子だったが、これほどに武蔵が真剣にむきあっているとは、思いもかけぬことだった。単なる遊びだとは考えてはいなかったものの、小夜子の身に武蔵の魔手がおよぶ段になったおりには、なんとしても立ちふさがるつもりでいた。梅子の立場からすれば、一介のタバコ売りにすぎない小夜子だ。しかも小夜子には、おりにふれて警告をしている。
「遊ばれたとしても、あたしには何もできないからね」
 何度も告げている。そのつど小夜子は「そんなあ。梅子お姉さんの責任だなんて、あたしは思いませんから」と、ケタケタと笑っている。こうまで言われては、遊び相手として武蔵にもてあそばれたとしても、それはそれで仕方のないことと思う。しかしそれでも、いやだからこそ、梅子は小夜子の盾になるつもりでいた。小夜子がそう考えてしまう女にしたのは自分なのだ、そう考えた。

(百十五)

 考えたすえに、小夜子は武蔵のもとに身をよせることにした。まだ武蔵に話してはいないのだが、間違いなく受け入れてくれると確信していた。そうなのだ、あの正三と同じく、武蔵もまたおのれの味方になってくれると、確信していた。
 悩みになやんだ小夜子だったが、加藤家での居づらさは増すばかりだった。あの夜以来、奥方のせきばらいが毎夜のように聞こえた。小夜子の空耳かも知れないのだが、どんなに足音を忍ばせても聞こえてしまう。そしてせきばらいのあとには必ずといっていいほどに、嘆息まじりの小声が聞こえてくる。はっきりとは聞きとれないものの、小夜子への当てつけに決まっていると感じられるのだ。
 英会話の授業に支障をきたしはじめたことも、小夜子のこころを決めさせる一因になった。教室内での会話すべてが英語であり、ときとして疎外感にさいなまれてしまう。簡単な挨拶は理解できるのだが、日常の事柄をかたりあう学友の輪に入れなくなることが多くなってきた。

「いかがわしい場所で働いているんですって」
「女給でしょ、いやあねえ」
「お酒の匂いをプンプンさせて」
「そのうちに教官にたいして色目でもつかうんじゃない」
 小夜子が挨拶のことばをかけても、だれも返事をしなくなってきた。これじゃ、だめだわ。なんのために上京してきたのよ=Bそんな思いが、日々つよくなった。
 不安がない訳ではなかった。武蔵のことばに嘘はないと思いつつも、いつ変心するやもしれぬという思いは消えなかった。
その時は、そのときよ。いっそのこと、処女を正三さんにあげればいいのよ
 そんな思いが、頭をかけめぐった。それにしても、あの手紙からもう、ひと月の余が経ってしまった。以来、正三からの手紙は来ない。まさかとは思うけど、正三さんからの手紙、隠されているのでは=Bそんな疑念が浮かんでくる。
それとも。ご両親の反対で、正三さん、翻意してしまったのかしら。いえ! そんなことは、決してないわ! そんな正三さんじゃない!

 日曜の夜、小夜子は加藤夫妻と対峙した。こんな事態をのぞんだわけではなかったが、武蔵のもとに身をよせるためには避けて通れぬことだった。
「一年あまりの長いあいだ、本当にお世話になりました。あらためて、お礼方々ご挨拶にうかがわせていただきます」
 畳に頭をこすりつけんばかりに、お礼のことばを述べた。とつぜんの小夜子の申し出に、加藤はおどろくだけだった。奥方は女の勘とでもいうのか、小夜子の微妙な変化に気づいてはいた。しかしまさかこんなにはやく、加藤家を去るとは、思いもおよばなかった。
「考え直さないかね。都会でのひとり暮らしは、いろいろと問題が多い。茂作さんだって、許さんだろうに。だいいち、生計はなりたつのかね。茂作さんからの仕送りを期待しているのなら、それは無理だよ」
 困惑顔で、加藤は小夜子に翻意をうながした。じつのところは、茂作の本家から毎月決まった額がおくられてきていた。澄江が本家に託した金員からの出費だった。なぜ本家から? と疑念を持たないではなかったが、問い合わせることもおかしな話だと、茂作にたずねることはしなかった。

(百十六)

「そうですよ、小夜子さん。宅の言うとおりです、ご実家にお帰りになるというのならまだしも。でもまあ、決心はかたいみたいですね」
 奥方は口でこそ小夜子を引きとめるが、その目のなかには、厄介払いが出来ると、安堵のいろが見える。
「ご心配をおかけしまして、申しわけありません。でもひとり暮らしといいましても、会社の寮に入りますので。学校にかよいながら時間の空いたときに、事務のお手伝いをさせてもらうことになっております。卒業後は、その会社で通訳のお仕事をさせていただけることになりました」
 凛とした小夜子の態度に、加藤はおどろいた。上京し立てのおどおどとした態度がみじんもない。それどころか、自信にみちた表情を見せている。なにがあった、と言うのだ。まさかとは思うが、正三君との間になにか約束ごとでもできたのか?=B家どおしの複雑なからみ合いで小夜子の味方になれぬ加藤だ。
 家系図をひもとくと、三つの家系を並べねばならない。五平の本家である竹田家、正三の佐伯家、そしてもうひとつは加藤の本家だ。この加藤家、GHQによる農地解放をうけて、「お上のなさることだ」とふたつ返事ですべてを解放した。親戚縁者から「もうすこしやりようが……」と不満が噴出したが、もうあとの祭りだった。

 おくれて農地解放にたずさわった佐伯・竹田の両家は、親類縁者はもちろん、その子・孫にまでわたすことにより、なんとか先祖代々の土地をさほどに減らさずにすんだ。売買価格にしても、「土地が痩せている」「水引きに問題がある」はては「イノシシなんぞらに荒らされるかもしれん」などなど多くの言い訳をつけて二束三文の価格にした。
 むろん村役場には鼻薬をかがせているし、昔からのつながりということもあった。山奥近くに位置していたこともあり、あまり詮索されることもなく、穏便な形でおさまった。でそのおりに、真正直すぎた加藤家にたいし、幾ばくかの土地をそれぞれがわけあたえることで、縁者の不満も抑えられたという経緯がある。なので加藤しにても、逆らうわけにはいかないのだ。

 加藤は小夜子の顔をまじまじと見つめながら、「その、なんだ。正三君とは、連絡を取り合っているのかね?」と、問いただした。
「いえ。正三さんには、まだお話をしていません。それでお願いなのですが、もし手紙がとどきましたら、この会社あてに転送していただきたいのです」と、武蔵にわた渡された名刺を、加藤のまえにさしだした。
「なになに。雑貨品卸業 株式会社富士商会 代表取締役 御手洗武蔵、か。通訳とかいったね? 貿易関係の仕事でもなさそうだが、どういうことかね?」
 なめるように名刺を見ながら、加藤はけげんそうな表情を見せた。
キャバレーの客だろうが、まさかパトロンではないだろうな。正三ではなく、この御手洗某にそそのかされたのか
 加藤の頭のなかを、そんな思いが駆けめぐった。そしてこんな年端も行かぬ小娘を蹂躙するつもりか!≠ニ、怒りの思いがふつふつとわいてきた。
「小夜子ちゃん。もうすこし考えてみては、どうかね? その、なんだ。どうもうさん臭さをだね、おじさんは感じるんだが、、、」
 小夜子は加藤の声をさえぎるように、武蔵に教えられたとおりによどみなくこたえた。
「GHQ相手のご商売をされています。これからは、貿易品も手がけられるとか。で、通訳が必要になるとかで。後日に、社長がご挨拶にうかがいたいと申しておりました」
「まあまあ、そうなの。GHQがお相手ならば、しっかりした会社なのね。あなた、心配するようなことじゃありませんわよ。それは、良かったわ」
 奥方のことばによって、やっと小夜子は解放された。

(百十七)

「あら? 素敵な小物入れね。あなたには、ちょっと似合わないわ。あたしぐらいの年齢にならなくちゃ」。武蔵がトイレに立ったさいに、はじめて席に着いた典江が小夜子につめよった。武蔵からのプレゼントだろうと、あわよくば取り上げてしまおうと考えた典江だ。
「こらこら、人の物を欲しがるな! お前さんの悪いくせだぞ 」。すかさず、梅子がたしめる。典江は首をすくめて、その小物入れを小夜子にもどした。
「これだけは、だめなんです。あたしの宝物なんです、アーシアにもらったものなので」。
頬ずりせぬばかりに、胸の前でしっかりと抱きしめた。
「あら? この絵柄……えっ! ま、まさか。これ、アナスターシアから貰ったの? どうやって貰ったの? 何なに、なんて書いてあるの! 」。特異なロゴを目ざとく見つけた典江が、声を荒げた。
「小夜子へ、アーシアより。ですけど」。「どういう関係なの。ちょっと待って。あなた、さよこって言ったわね? ひょっとして、ファッションショーに出なかった? 」。「マッケンジーさんのですか?」。典江のあまりの剣幕に気圧された小夜子は、小声でききかえした。
「ああ、そうなんだ。そうよ、あなたよ。あたし、覚えてないかなあ。うん、うん。見覚えがあるとは思ったけど。そっかあ、あなただったんだ」。ひとり悦にはいる典江に、おしゃべりに興じていたほかの女給たちが口をそろえて聞いた。「なになに、どういうことなの?」
「この小夜子ちゃんが、あたしの敬愛するアナスターシアのお友だちってことですよ」。小夜子をしっかりと抱きよせて、得意げに典江が言う。「ああ! 雑誌に載ってた、新進若手モデルって、この子?」
「なんとか小夜子。そう、竹田、竹田小夜子だ。ね、雑誌にね、載ってたよね 」。小夜子の両手を大きく上下させながら、典江が興奮している。
「そうなんです。掲載しないはずだったのに、載せられちゃって。おかげで学校にバレちゃいました。退学騒動になっちゃって。わたしとしては退学でも良かったんですけど、結局は停学処分に決まって 」
「良かったじゃないの。退学というのは、だめよ。あたしは、退学なの。でさ、父親のコネを使って就職をねらったけど、だめ。あたしの素行不良がたたって、父があきらめちゃった 」
「なんだ、そりゃ。情けねえ親だな。ごり押しすりゃいいのに。俺だったらやるぞ。可愛いおまえのためだ」。後ろから武蔵が、顔をのぞかせた。
「イヤだもう、社長ったら。 どさくに紛れて、どこ触ってるの。珠江ちゃんがにらんでますよ!」

(百十八)

 武蔵に言われるまま、今夜もまた小夜子は店を早退した。
「この時間では、あそこだな。本当はビーフステーキでも、食べさせてやりたいんだがな。そうだ、休みの日に時間をつくれ。銀座一の店につれて行ってやるぞ。どうだ?」
「ほんと? ビーフステーキをご馳走してくれるの? 約束よ、絶対よ」。小夜子は目を輝かせて、武蔵を見あげた。口にしたことは絶対に実行してくれる。よしんば忘れていても、催促すればよしだ。それが小夜子の作り話だったとしても、「そうだったか?」と、したがってくれる。しかし小夜子にもそれを要求する。贅沢をすると言うことには、それだけの責任感を求められるんだ、そう言われる。いまの小夜子にはまだ理解ができないことだけれども、覚えておかねばならぬと思った。゛
「それに、服も買ってやろう。小夜子には、もっとレディになって欲しいからな。俺の愛人にしては、その服は見すぼらし過ぎる」。「嬉しい! 約束よ、きっとよ。今度の日曜日がいいわ」

 武蔵の周りをスキップしながら、小夜子は満面の笑みを見せている。これだ、この笑顔だ。この笑顔が欲しいんだ。いや、すねた顔でもいい。口をとがらせての顔でもいい。思いっきりの泣き顔でもいい。喜怒哀楽の顔がいるんだ、俺には=B武蔵の周りには、つねに誰かしらがいる。通いの家政婦がいるとはいえ、ひとり住まいの自宅から一歩でれば、町内の面々から「旦那さん」と声をかけられる。是非にと懇願されたことがあり、一年だけ副会長職に就いた。「副ですから、あくまで会長の補佐ですから」。しかし実態は単なる補佐ではなく参謀役としてすべての行事に携わることになってしまった。それがために幾度かのビジネスチャンスを失ってしまった。で、寄付金を出すことで町内会のすべての役職を辞退している。
 会社に着けば当然ながら社員たちがいて、みなから笑顔をもらう。ときに武蔵の叱責にふるえあがる者もいるが、大半はニコニコと笑顔で接している。取引関係についても、強面で接することはあるけれども、こちらも大半はえびす顔でいることを意識している。当然のことながら相手もまた笑顔で接してくる。
 なかには、おのれいや所属する会社や職位を誇示するかのごとくに渋面で接する者がいるが、武蔵にはまるで意味のないことだ。媚びへつらうことがなにより嫌いな武蔵で、相手にたいしてもそのような行為をする者にたいしては嫌悪感を丸出しにする。武蔵個人にたいしてはなく、武蔵の持つ財力に対する畏怖観だと感じてしまう。

 むろん、金員の持つ魔力は知っている。武蔵自身、幼少期においてその力をまざまざと見せつけられている。ぺこぺこと頭を下げつづける父親を見てそだった武蔵であり、相手がいなくなったとたん端に悪態をつく父親を知る武蔵でもあった。
「びんぼうだからね、びんぼうのせいなの」。「お父さんはわるくないのよ、あんたたちのためにあたまをさげているのよ」。母親から聞かされる言い訳のことばが、いまも頭から離れない。五人兄弟姉妹の末っ子として生まれ、母親の乳がうすいことから米汁で育てられたことで、病弱な幼児時代を送った。結局のところ、男子に恵まれなかった叔父夫婦の元に養子として出された。七歳になったおりのことで、その夜ははじめての尾頭付き魚がふるまわれた。

(百十九)

叔父夫婦には十歳と八歳になるふたりの姉妹がいた。そのごは一度も懐妊できずに、来年には三十路もなかばとなる。あせる叔父にたいして「まだ若いんだ。あせらずに男子が産まれるのを待ったらどうだ」。武蔵を養子として迎える話が持ち上がった折に、叔父の母方の親戚から挙がったことばだ。その裏には、妾をかこうのもやむなし、という無言の声があった。しかしそれを良しとしない叔父は、養子をとることにした。
 代々金物屋を営む商家で、近隣の町にも名が通っている。小作人の息子である武蔵では家としての格がちがいすぎると、不平のことばが飛か交った。叔父が武蔵に目をとめたのにはふたつの理由があった。ひとつは貧乏小作人の息子ということでしがらみがないこと。ふた目は武蔵の小ずるさだった。
 幼児期に生死の境をさまようほどの栄養失調におちいり、診療所の医師に首をふられた武蔵だった。哀れに思った近隣の住民たちが持ち寄った食物すべてを、母親の機転で栄養価が高いとされたミルク飲料に隣町で交換してきた。わずかな量でしかなかったが、それが武蔵の生命ちをながらえさせる一助となった。

 物心のついた武蔵にたいして、毎夜のように「たくさんの人に助けられたんだよ」と聞かされ、両手を合わせて「かんしゃ、かんしゃ、かんしゃ」と、念仏のように唱えることを強制された。なにかにつけて武蔵が両手を合わせると「いいこだ、いいこだ」と頭をなでてくれる大人たちだった。ほかの子どもたちが叱られる場面においても、両手をあわせることが免罪符になっていた。そんな小ずるさを見抜いた叔父は(ある意味この小ずるさもしたたかさに変えられる)と思い、(これから商人としての性根をたたき込めば)と考え、(万が一に横にそれれば捨てるだけだ)と、武蔵を引き取った。しかしその三年の後に男子が産まれ、跡取りとしての武蔵の役目がうすれていった。そして太平洋戦争の開戦となり、跡取りとしての地位をうしなった武蔵が徴兵されることとなった。

「あとをつがせてくれぬのなら、せめてのれんわけでも」と実母からのうらみごとにたいして「お国のために奉公できることに感謝すべきだ」と、叔父からはにべもないことばが浴びせられた。
「跡とりならば免除してもらえたろうに、運のないことじゃ」と慰めのことばをかける周囲にたいして「これでいいんです。お国のために働けるということは、ほんとにありがたいことです」と、武蔵は本音をかくしつづけた。自活の道をもてない武蔵は、あくまでも優等生をえんじつづけることを選択した。そして軍隊において、生涯の相方となる五平に出逢うという幸運をえた。そしていま、小夜子に出逢った。