(百三)

「社長。どうです? 今晩あたりに。あちこち出張がおおくて、銀座もごぶさたじゃないですか。うるさいんですよ、女給たちが。会社にまで電話がはいる始末でして、あたしも閉口してるんです。よその店にくらがえしたのか! って、つめ寄られて。それにね、以前お話した娘にも会っていただきたいんで」
 五平の執拗なさそいに、あまり気乗りのしない武蔵だったが「まっ、五平の顔をたてるとするか。梅子にもしばらく会っていないしな」と、腰をあげた。どうにも熱海の光子を知ってからというもの武蔵のこころもちにおおきなへんかが現れてきていた。所帯ということばが武蔵の脳裏にこびりついて離れない。べつだん、光子と所帯を、ということを考えているわけではない。持ちこまれる見合い話がおおくなってきたことも一因ではある。
「社長の好みにあいますって、絶対です。保証しますよ」
 自信ありげに五平がいった。武蔵は苦笑いをしつつ、「そういうことばは、もう聞きあきた。五平の絶対はあてにならんからな。いつだったかも、ハズレじゃないか」と、軽くにらみつけた。
「いや、社長。あの女性は、失敗でした。容貌だけで判断したのが、まちがいでした。しかし、楽しんだでしょうが。だいいちあのときはお遊びのあいてだこんかいは違いますから」
「楽しんだといってもだな、高くついたぞ。一回や二回では、割にあわん」
「こんどは、違いますって。社長の伴侶に、ピッタリですって。いまはまだ田舎娘ですが、みがけばひかります。いなかから単身できてるんですが、向上心がつよい娘です。英会話の勉強をしてるらしいんですが、生活費と学費を親からのえんじょではなく自らかせいでいるんですよ」。 いつになく真剣な表情で、五平はことばをつづけた。
「父親の知り合い宅にいるらしいんですが、キチンとした娘です。もっとも本人にいわせると、好きな男がいるというんですがね」。「おいおい、ちょっと待てよ。男がいるんじゃ、だめだろうが」。また五平の大風呂敷かとうたがうが「なにを気弱な! 社長らしくもない。まだ生娘ですから、ままごと恋愛でしょうって」と、語気をつよめた。

 馬車馬のごとくに働きつづけ、そしてひと並み以上に女遊びもした。いちどきに、三人の女性を愛人としたこともある。それが原因で、創業以来事務方を一手に引き受けた聡子とは別れる羽目になってしまった。聡子にしてみれば、青春のすべてを武蔵にささげた! という自負があった。いつかは妻の座に、という思いがあった。富士商会が軌道にのったあかつきには、という思いだった。しかし、株式会社として社会に認知されるようになっても、ついぞ武蔵の口から嫁にということばは聞かれない。社員から「奥さん!」と呼ばれはしても、こころは晴れない。武蔵のまえでは、決してよばれることばではなかったのだ。
「俺に、女房はいない!」。聡子が「奥さん!」とよばれていることを知った武蔵が、全社員を一喝した。社内では、あくまでも一事務員でしかなかった。聡子にしてみれば、それでも良かった。武蔵と寝食をともにしている、という自負があった。実体としての結婚生活を送っているのだ。ときに、浮気をすることはある。それでも我慢をしていた。武蔵が、外泊することをしなかったからだ。しかし徳子という愛人ができてからは、たびだひ外泊をするようになった。そのことで口論となったおりに、言ってははならないことばを口にしてしまった。「わたしは、あなたのなんなの? 妻だと思えばこそ、これほどに尽くしてきたのに」。涙ながらに訴える聡子にたいし、武蔵はつめたく言いはなった。「それだけのことは、してやっているじゃないか。おまえを妻にする気はない。気に入らないなら、出ていけばいいだろう。 わりは、いくらでもいるんだ」。
 翌日、聡子はだまって武蔵のもとを去った。

(百四)

 なぜ愛人でとどまらせていたのか、武蔵にもふにおちない。仕事はほかの誰よりもできる。無茶な要求をしても、手ばやく処理ができる。裏切るのではといった思いはいっさい感じない。信頼もしている、しかし信用ができなかった。仕事をやめさせて家庭にはいらせても良かったのだ。家事一般についても、満足とまではいかなくても――いや、苦手なことならばお手伝いを雇えばいいのだ。世間一般でも、お手伝いのいる世帯はおおい。職業として認知されているし、花嫁修業の一貫としてかんがえる娘たちもおおかった。聡子の容姿については申し分ない。外で連れだって歩いていると、すれちがう者たちのほとんどが振り向いていく。色気があり過ぎるとしても、他の男に気をゆるす女ではないし、そうさせない自信が武蔵にはある。ではなぜ? それを考えることのなかった武蔵だった。

 口述筆記をさせていた文書を途中で読ませろといったことがある。タイプをしていないからといやがる聡子から、むりやり取りあげたことがある。そしてその文書を見たときに、どうしてなのか嫌悪感を感じてしまった。走り書きされた文字が、武蔵をいらつかせた。読めないわけではないが、ピョンピョンと跳ねまわるような文字に、武蔵には聡子の正体があらわれているように感じられたのだ。気分屋の観はある。喜怒哀楽をかくすタイプではない。といって、それほど気になるほどではない。武蔵自身もそうなのだ。

 ただ、飽きっぽさが気になる武蔵だった。ひとつのことに集中できないということではない。その時間が短いのだ。すぐに他のことに気が行ってしまう。おさんどんの折に火事になりかけたことがある。揚げ物をしていたときに、武蔵の好きなおしんこが切れていることを思い出した。ぬか床からなすを引っぱりだした。しっかりとぬかを落としてから、包丁を使う。切り終えたなすを小皿にうつして「ふーっ」とひと息ついたとき、鍋の油から火柱が上がった。幸いに、ぬか床の表面が黒ずむことを嫌がる聡子は濡れ手ぬぐいを半分ほどかけている。その手ぬぐいを油にかぶせて大事に至らなかった。しかしそれを一度ならず二度起こしてしまった。武蔵の知らぬ所のことであり、その二度ともに、因が武蔵の浮気だったこともあり、あたしのせいじゃないと逃げていた。

 集中力には、武蔵は自信がある。なにかに没頭しているときは、いっさいのことが耳にはいらないし感じることもない。ひとりで部屋に籠もることも珍しくない。「たまにはあたしのために時間を作ってほしいもんだわ」。そういわれると怒りだすことの多い武蔵だ。
『男にとって、エゴが生命の素だ!』それが武蔵の口ぐせだった。強さの対局に弱さがあるように、武蔵の場合には傲慢さのかげにもろさが隠れている。それを認めたくないがためにも、常に貪欲で牙をむいた狼でなければならない。そしてそれが武蔵の場合には、エゴという形で噴出していた。

(百五)

 朝鮮特需の好景気が去り、中小企業の倒産が目立ちはじめてきた。順調に業績を伸ばしていた富士商会にしても、すくなからず影響を受けた。しかし先年の教訓を活かした武蔵の手腕とともに、新しい販売方法のおかげで軽微なものですんでいた。といって武蔵の気性からして、焦げつきを黙然と看過するわけではなかった。容赦ない債権回収は相かわらずで、夜中にトラックで乗りつけては品物を引きあげにかかった。
「富士商会の引き上げ後には、ぺんぺん草も生えていない」と、他社から怨嗟のこえがあがったのも、一度や二度ではなかった。しかし、情け容赦ない回収ばかりではなかった。再生の見こみがあると判断したおりには、他社の債権を肩代わりすることもあった。それもあって、富士商会との取引をのぞむ問屋は引きもきらなかった。「富士商会が取引している問屋ならば、安心だ」。そんな声もまた、聞かれていた。

 久しぶりの銀座だったが、界隈の人通りもめっきり少なくなっている。頭上のネオンが醸し出す匂いを嗅いでみたくなり、途中でタクシーを降りた武蔵だった。いままで見ることのなかった店外での女給たちの呼び込みに閉口する武蔵は、足早に歩いてキャバレーへと逃げ込んだ。「社長! あたい達を殺す気かい!」。梅子から思いっきり背中を叩かれ、手荒い歓迎を受けた。
「いゃあ、すまん、すまん。貧乏暇なしでな、飛び回っていたよ。今夜は、罪滅ぼしに、パッと騒ぐ」。「ホントだね? 女給全員を呼ぶよ、社長の席に」。満面に笑みを湛えて、梅子が武蔵にしな垂れかかってきた。
 梅子のそんな仕種は、ついぞないことだった。熱海の光子のことを知っているのか? 一瞬たじろぐ武蔵だったが、べつだん知られたからといってなにごともない。だいいち、光子との間に男女関係は生まれなかったのだ。梅子がそうであるように、光子もまた、梅子と同じく戦友のようなものなのだ。

「ああ、いいとも。ただし、不足分は梅子のおごりにしてくれよ」
 武蔵は無造作にふところから札入れを取りだすと、そのまま梅子にわたした。分厚い札入れを手にした梅子は、「ああ、いいともさ。月末にでも、集金に行くから。で、いくら用意してきた?」と、中を確認した。
「ほお、社長! 豪気だねえ、こりゃ。たっぷり入ってるじゃないか。みんな、こんやは騒げるよ!」
 武蔵と梅子のかけあい漫才をニヤつきながら見ていた五平に、「やっぱり社長だよ。しみったれ五平とはまるでちがうよ」と、梅子が五平をつつく。
「いいんだよ、五平はそれで。しみったれだから、俺がめだつつんだよ。だからモテる男になれるんだよ」
 武蔵の豪放なわらいごえに呼応するように、あっという間に十数人の女給たちが集まった。店内を見わたしてみると、たしかにまばらな客だった。中央のホールでは、数人がダンスをしているだけだった。よく見ると、女給だけのダンス姿も見られる。「なんだ、ありゃ……」。往時を知る武蔵にとって、信じられない光景だった。

「仕方ないよ、社長。みんな、暇なんだから。それに、淋しいだろうが、ホールがガランとしてちゃ。だから女ふたりででも踊ってるのさ。社長、ひさしぶりに踊るかい?」
 梅子が、肉づきの良い女給を指さした。「珠子、と言うんだよ。このあいだ入った娘でね、まだ未通娘だ。社長はグラマーな娘が好きだろう?」
「未通娘だと? あの女が処女だとでも言うのか。梅子、お前がうそをつなんて。どうかしてるぞ、世も末だな」。梅子のいわんとすることを受け止めつつも軽口をたたく。
「こんやの珠子は、まだ処女だよ。だからまだ未通娘なんだよ」と、屁理屈で笑わせる梅子だった。
「へいへい。ま、そういうことにしきましょうかね。怖いこわい梅子姉さんのおことばだあな」
 やってきた珠子を「くるりとまわりな」と、上から下へと品定めをした。ボリウムのある胸が、ドレスの胸元からあふれ出んばかりだ。腰まわりはやや太めだが、お尻はしっかりと引き締まっている。「よし!」とうなずいて、お尻をパンとたたいた。

(百六)

 武蔵がホールに立つとどうじに、音楽がマンボに変わった。とまどう武蔵をしり目に、珠子がリズムよく踊りはじめた。すこしのあいだ立ちすくんでいた武蔵だったが、見様見真似で踊りだした。そのぎこちない動きに、そこかしこから笑いが起きた。
 あっという間に、手持ちぶさただった女給たちがホールになだれ込み、さながらダンス大会の様相を見せた。そんななか、客席ボックスのあいだで小刻みにリズムをとっている娘がいた。タバコのはいった籠を大事そうにかかえている娘に、武蔵の視線はくぎ付けになった。まだ少女の面影をやどしているその娘は、武蔵の好みとは無縁だった。スレンダーな体つきで、どちらかといえば骨ばって感じられた。しかし涼しげなそして強い光をはなつ目が、武蔵をとらえた。
 汗だくになりながら戻ってきた武蔵に、五平が声をかけてきた。「どうです、社長。いい娘でしょ? あたしが話してた娘ですよ」
「どの娘のことだ?」。武蔵が、とぼけて聞きかえした。照れかくしの思いもあったが、ふだん武蔵があそぶ女たちとは正反対の容姿だ。ひょっとして五平のいう女がその娘とはかぎらない。そうおもったのだ。
「ほら、あのタバコ売りです。いま、呼びますから」と、手招きした。
「ありがとうございます、おタバコですね」。手持ちぶさたにしていた、タバコ売りの娘がやってきた。五平は、大きくうなずきながら、「このあいだから話してる、お方だよ」と、武蔵のかたわらに立たせた。
「名前は、なんて言うの?」。「はい、小夜子と言います」
 運命的な出逢いというわけにはいかない。劇的な出逢いでもない。しかし武蔵の気持ちをざわつかせる、小夜子との出逢いだった。

 小夜子の武蔵にたいする第一印象は最悪だった。値踏みをするように小夜子を見つめる武蔵の目に、なにか卑野なものを感じた。細おもてで端正な顔つきをしているが、人を小馬鹿にするような目つきが嫌悪感をいだかせた。
「小夜子ちゃん、かあ。歳は、いくつかな? 英会話の勉強をしてるんだって? どう、すこしは話せるようになったの?」。武蔵からのやつぎばやの質問にたいし、小夜子は愛想笑いをかかすことなく答えた。以前の小夜子には考えられないことだが、茂作からの仕送りなど考えられぬ現状では、とにかく生活費と英会話学校の学費をおのれの力でかせがねばならない。つっけんどんな態度をとっていては、チップはおろか、即解雇になりかねない。東京に行きさえすればなんとかなるわと軽く考えていたおのれが、いまは恥じられてならない。

「年齢は、十八です。会話が通じるかどうかは、学校の先生以外の会話がないので、正直のところはわかりません。いちおう、学校での会話は成り立っていますけれど。早口で会話されると、まだ聞きとれないことがあります」
 うんうんとうなず頷きがらも、武蔵の視線は小夜子の全身を、なめるように見ていた。なんて、失礼なの! 目線を合わせての会話が、常識でしょうに=Bしだいに小夜子の表情に険があらわれた。ひっしに嫌悪感をかくそうとするが、どうしても出てしまう。
「こりゃ、申し訳ない。初対面の女性にたいする態度じゃなかったな。こんなキャバレーに、きみみたいな若い女性がいることが、珍しくてね。ごめん、ごめん。ここにお座んなさい。支配人には、ぼくから言っておくから」

 そう言いながら、武蔵が五平にめくばせをした。五平は梅子とともに、席をたった。「でも……」と、顔をくもらせながら、小夜子は席につくことをためらった。武蔵との接触が、この先のおのれに災いをおよぼさせるように感じられた。ほとんど直感のようなもので、漠然とした不安感を感じた。救いをもとめようとする小夜子にたいし「お座わんなさい」とばかりに、梅子がうなずいた。
「いいから、いいから。ぼくと付き合って、損はない。べつに、取って喰おうというわけじゃないんだから」

(百七)

 武蔵は席をたって、小夜子をむりやりボックスの中ほどにすわらせた。珠子と武蔵にはさまれる形になってしまった小夜子は、女給たちのするどい視線をいっしんに浴びた。
「こら、こら! そんなに睨むんじゃないぞ。怖がってるじゃないか」
 武蔵のことばに、女給たちは肩をすぼめた。
「わたし、タバコ売りの仕事がありますから」
「買うよ、ぜんぶ。それだったら、良いだろう?」
 ふところから財布をとりだそうとした武蔵だったが、「しまった! 梅子にあずけてしまったんだ。ま、いいさ。戻ってきてから、払うことにするさ。で? 英会話を勉強して、どんな仕事をするつもりなの」と、こんどは小夜子の目をしっかりととらえてきた。その射るような目に、小夜子はすこしたじろいだ。
「仕事って……そうじゃなくて、アーシアと……」。小声でつぶやくと、小夜子はうつむいた。武蔵の視線に、耐えられなくなってしまった。

仕事? そう言えば、なにをしたいんだろう? アーシアといっしょに世界を旅するつもりなの、あたしは? だけどそれじゃあたしって、犬のイワンの代わりじゃない! そんなの、だめよ
「家族に……」。そう言ってくれた、たしかに。しかしアナスターシアのことばだけでそれが本心だったのかどうか、確認のしようがない。その場の勢いだけのこと、そう思えばそう思えなくもない。しかし通訳の前田はくち酸っぱく強弁していた。
そうよ。あたしは、アーシアの妹になるの。だから、あんないなかに居ちゃだめなの。アーシアの妹にふさわしい、新しい女性にならなくちゃ=Bしかし、それすら前田のことばであって、アナスターシアから直接聞いたわけではない。そもそもことばが通じなかったのだ、どこまで信用していもものか……。

 英会話の勉強ということが、単なるの口実のように思えてきた。いなかから抜けだすための口実のように、思えてきた。そしてついには恐ろしい思いが、疑念が浮かんできた。アーシアの妹? 本気でアーシアはわたしのことを?=B遠い異国におけるお遊びだったとしたら……=Bそんなことない! あのときのアーシアは本気だったわ
 強い気持ちを持つのよと言いきかせてはみるものの、いまのおのれを考えると情けなさが全身をかけめぐってしまう。そして、そんな疑念を抱かせる武蔵のことが、憎にくしく思えてきた。夢みる少女をうつつにもどしてしまう、魔道士のようにみえた。

「悪かった、わるかった。としはのいかぬ娘さんに、そんな先のことまで考える余裕はないかもしれんな。勉強をしたい! その気持ちだけで、十分だろう。おい! この娘さんに、ジュースでも持ってきてくれ」
 肩をふるわせながらぐっと涙をのみこんでいる小夜子がいじらしくなり、大人げないおいこみ方をしたと、らしからぬ思いにとらわれる武蔵だった。
「社長! 言ってきました。その娘の仕事は、もう終わりです。いつ帰っても、良いんだからね」。もどった五平が、小夜子にやさしく声をかけた。
「おう、分かった。梅子! この娘さんに、チップを渡してやってくれ。いや、いい。五平、札入れを出せ」
 五平の札入れから、無造作に二、三枚の紙幣をとりだすと、小夜子の手ににぎらせた。
「こ、こんなにたくさんは」。にげごしになる小夜子に、武蔵は「気にしなくていい。それより、お腹は空かないかな。寿司でも、つまみに行こうか。梅子、お前もどうだ?」と、たたみかけた。
「あたしは、無理だよ。店がはねたら行くから、先に行ってて。小夜子ちゃん、うんとごちそうになりなさい。大丈夫! この社長はね、女ぐせはわるいけど、ネンネは相手にしないから。梅子姉さんも、あとで行くから」。武蔵の意図をしる梅子は、不安げな表情を見せる小夜子に声をかけた。
「いいなあ、あたしも行きたーい!」。口をそろえて、ほかの女給たちが声をあげた。
「お前たちが来ると、店がうるさくてかなわん。このつぎに、ごちそうしてやる。今回は、梅子だけで良い。さっ、それじゃ出るか」。武蔵が立ち上がると同時に、珠子が小夜子の背をおした。
「きっと、ですよ。きっと、来てくださいよ」。すがるような表情で、小夜子は梅子を見た。
「分かってる、って。心配ないよ、小夜子ちゃん。社長は、やさしいから。安心して、おまかせなさい」。小夜子の肩をだきながら、耳元に梅子がささやいた。

(百八)

 小夜子の不安は、杞憂におわった。
 乗り込んだハイヤーは、きらびやかに輝くネオンサインの下をゆっくりとはしった。社内での武蔵は、店内でのときと同じように柔らかい口調でゆっくりと話をした。田舎での話をきらう小夜子に気づかってか、英会話学校でのことを聞いた。途中入学になってしまったことや、田舎では英語に接することがまったくないため、発音の練習からはじまったことなどを話した。
 文字からにしても、はじめて目にするものですべてが記号に見えたいうこと、教科書では角張った表記なのに、手書きになるとつづき文字になってしまい、判読できるようになるまで時間を要したことなど、苦労話にはことかかせない。それらひとつひとつに、大げさとも思えるほどの感嘆符をつかうがごとき武蔵の会話術にしだいにはまりこんでいった。

 ランプ仕立てのガス燈やらゆれる柳を横目にみやりながら、ハイヤーは銀座の街並みに沿って走った。礼儀正しい運転手で、いなか娘にすぎない小夜子にさえ、丁寧なことばづかいと仕種でもって接した。小夜子の知る東京人は、なにかと言えば「田舎娘ふぜいが」「小娘の分際で」等々、ぞんざいな口のききようで小馬鹿にしたことばを投げつけてくる。当初こそいいかえすこともあった小夜子だが、なんのうしろ盾もない状態ではおのれの分を思い知らされるだけだった。
 あれ以来アナスターシアからの連絡はなく、いやれんらくの術がたがいにないのだと知るにいたっては、あの夜のことは夢だったのではなかったのかと思えてしまう。たしかにホテルに宿泊したという事実だけが、かろうじて小夜子に現実感をあたえていた。

 築地場外市場ちかくにある鮨店ののれんをくぐると、奥からダミ声が聞こえてきた。
「なんでい、なんでい。いやに早い出勤じゃねえかい」
「おや? はじめて見る娘っ子だね。まだねんねじゃないのさ。宗旨替えでもしたのかい」
 夫婦二人だけの店で、お客が六、七人も入ればいっぱいになってしまう。一見の客は断るという、京都のお茶屋風の店だ。
「女将にふられた腹いせに連れてきたよ。とびっきりを食べさせてやってくれ」と応じながら、先客にかるく会釈をした。
 カウンターに陣どった小夜子の前に、はじめて見るネタの鮨がならべられた。鮨といえば、巻き寿司や散らし寿司を思いうかべる小夜子だった。白身魚やらひかり物、そして貝類に海老と、食べおわらぬうちに次々とならべられる。おどろいたのは、軍艦巻きになった数の子がでてきたことだ。本家へのあいさつのおりに膳の上にのせられていた、黄色のきらきらと光っている粒々をみた記憶がよみがえった。むろん食したことはない。
 さらには、うに・いくら、そして白子と、つづいた。見たこともない鮨ネタに驚嘆のこえをあげつづける小夜子に、なんでこんな小娘が……≠ニ、はじめは憮然とした表情をみせる店主だったが、「なんという魚ですか?」おいしい!「」と、一貫さらに一貫とならべられるたびに問いかけながら目をかがやかせてほおばる小夜子に、相好をくずして一つひとつていねいに答えた。

「親爺さん、こんやはきげんがいいねえ」。「わかい娘さん相手だと、そんな顔をするんだねえ」。そこかしこから、冷やかしの声がかかった。
「あったりめえよ! むさくるしい野郎に、とっておきの顔は、見せられるかっ、てんだよ!」。店主と客たちとのやり取りで、一気に店内が盛り上がった。武蔵は、にこやかな表情を見せながら、盃を重ねた。なるほど。五平の目も、こんかいばかりは確かだった。まだ、純な娘じゃないか。俺ごのみの女に仕あげる楽しみがあるぞ、これは。にしても、こわい奴だな、五平も。こんなガリガリのやせっぽちなんか、まったく好みじゃねえのに。どうにも気になる娘だ=B満足げな表情を見せる小夜子に、武蔵は「どうだい、満足したかな? それじゃ、送っていこうか」と、腰をあげた。
「梅子さん、待ってなくて良いんでしょうか?」。けげんそうに問いかける小夜子にたいし、武蔵はわらってこたえなかった。「お親爺、いつものようにな。それじゃ、ごちそうさん」。待たせていたハイヤーで小夜子を送りとどけた武蔵は俺としたことが、なにもせずに送りとどけるとはな≠ニ、自嘲気味につぶやいた。

(百九)

 そのままキャバレーにもどった武蔵は、いぶかしがる五平や梅子に、「なんだ、なんだ、その目は。あんな小娘をどうかするとでも、思っていたのか。こんやの相手は、珠子に決まってるだろうが!」と、珠子をよびよ寄せた。他のボックスにいた珠子だったが、すぐに武蔵の元にやってきた。
「おお、珠子! 淋しかったぞ!」と、大げさに声をあげて珠子に抱きついた。
「うれしいぃ!」と、珠子もまた武蔵の背にてをまわした。珠子の豊満な胸が武蔵の欲情に火を点け、「店が終わったら、付きあうんだぞ。こんやは、寝かさないからな」と、耳元でささやいた。「それじゃ、あとでね」と言いのこし、待ちぼうけ顔をしている客の元へともどっていった。
 珠子がはなれたあとに武蔵が、梅子にたいして「おい、梅子。あいつのどこが、未通女娘だと言うんだ。思いっきり、淫乱の気があるじゃないか」と、軽くにらみつけた。空になった武蔵のグラスにウィスキーを注ぎながら、梅子はすまし顔でこたえた。
「この店では、まだ未通女だわよ。だれも、手をつけてないんだからさ。それより、どうしたのさ ふられたのかい、あの娘に。珍しいこともあるもんね」。予想はしていたのだが、どう感じたのか気になる梅子だった。小夜子にたいする評価はふたつに分かれていて、梅子としてははやくこんな夜の世界からはやく引き上げてやりたいと思っていた。どこかの御曹司に嫁がせたいとねがう気持ちと、武蔵のような遊び人にくっつけてみたらどうなる?≠ニいう興味心もあった。
「いやいや、どう致しまして。これからさ、あの娘は。じっくりと、構えるのさ。まだ、ネンネだなからな。五平、気に入ったよ」。「でしょでしょ? あの娘はいい女になりますよ。社長! 伴侶にしてくださいよ。二、三年もすりゃ、いい女になりますって」。得意満面に、五平が答えた。
「そうだな、考えとくよ。梅子、わるいむしが付かないよう、監視しててくれ」
「あいよ! 任しときなっ。社長、本気なんだね? いちじの気の迷いだった、なんて言わないでおくれよ」。梅子が真顔で武蔵につめよった。
「あの娘は、ほんとに身持ちの堅い娘でね。なん人かの客に言いよられたんだけど、頑として受けつけない。『わたしには誓いあった人がいますから!』って、まがおで拒否するんだよ。断る方法をふたつみっつ教えたんだけど、『うそはバレますから』って、言いはってねえ。かわいい娘だよ、ほんとに」。武蔵にというよりは、おのれに言い聞かせる風の梅子だった。
「娘というには、あたしはまだそんな年じゃないし。まあ、すこし離れたいもうとかねえ」と、感慨深げにつづけた。「それにさ、なんでも英語とかを話せるようになりたいとかで、昼間は学校がよいだよ。で、昼間にも時間をつくってはどこかで仕事をしているみたいでね。けなげな娘だよ、ほんとに。そうだ! 社長。すこし援助してやってくれないかねえ。このままじゃ身体をこわすんじゃないかって、不安なんだよ」
 いつになく真剣な顔つきで、武蔵にせまった。