(九十三) 年があけて、限られていた好景気のなみが国全体にいきわたりはじめた。三種の神器と称された白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が売れはじめた。冗談で「三種の神器を、うちでも扱うか」と武蔵が酒の席で、頻繁に口にしはじめた。五平がその気になりかけると、「だめだ、だめだ。小売りは効率が悪い。第一あのあたりは製造メーカーに縛られている。価格なんか言いなりだろ。まっ、俺たちは雑貨品あたりが分相応ってところだろう」と、はしごを外してしまうのが常だった。武蔵の頭の中に「メーカーと対等にわたりあえるのは、まだ先の話だ」という、じくじたる思いが渦巻いているのは、五平にもわかっていた。 「それはそうと、社長。オンリーを探さなくちゃいかんのですわ。最近、アメさんの要求が厳しいんですわ。まあ英会話のできる女は増えてはきたんですが、中々におメガネに叶うような女が見つからんのですわ」 嘆息まじりに、五平が窮状をうったえた。 「五平のことばとは、思えんな。そんなに、難しくなってきたのか? というより、探すポイントを間違えてるんじゃないのか。英会話ばかりに、こだわってないだろうな。ことばなんて、その気になればなんとかなるもんだろうが」 武蔵を引っ張りこもうという魂胆は見えみえだった。こと女性のくどきに関しては、武蔵は五平の足下にもおよばない。その五平が難事だというのに、武蔵ごときが対処できるはずもない。しかし突き放すわけにもいかない。なんらかの算段があっての、五平の振りなのだ。 「まあ、そりゃそうなんですが。どうもね、最近の女ときたら。あたしが声をかけると、うさん臭い顔をするんですわ。社長、ひとつご足労ねがえませんか」 「分かった、分かった。そうか、敬遠されるか。そうだな、久しぶりに銀座の空気でも吸うかな?」 夕闇のおとずれた銀座は、きらびやかなネオンに彩られていた。復興の速度は目を見張るものがあり、日本人の底力をまざまざと見せつけている。朝鮮特需という神風が吹いたせいもあろうが、やはりのことに日本人特有の勤勉さがきわだつ。 「社長、見つけましたよ。あそこの店で、洋服を見てる女がいるでしょう。ちょっと、声をかけてきます。あたしが社長の方を見たら、その帽子をちょっと上げてみてください」 五平に「是非に!」と言われ、ダブルのスーツを着込みソフト帽を被ってきた武蔵だった。普段ならば開襟シャツに麻の背広姿なのだが、今夜ばかりはそうもいかない。小なりと言えども、一国一城の主としての威厳をかもしださねばならない。 五平が目を付けた女性は、当世としてはやや大柄だ。うしろ姿での判断では、肉付きは良さそうだ。武蔵には太めと感じるが、アメリカ将校はそれが良いらしい。所在なく立ちすくんでいた武蔵に、五平が手を上げてきた。武蔵は言われたとおりに、帽子をすこし上げた。すると、五平が手招きをする。 なんだなんだ、俺が行くのか=Bすこし不満に思えたが、これも仕事のうちだと、ゆっくり歩いた。 「社長! 永山三保子さんです」。「永山です」 すこし甲高い声だがたぶん緊張のせいだろう、そんな感想を持った武蔵は、威厳を保ちながら軽く会釈をした。こころなしか、三保子の顔が赤らんでいる。どう話を持ちかけたのか判然としない武蔵は、チラリと五平を見た。 「どうです、社長。この方なら、メガネに叶うと思うんですがねえ。食事でもしながら、詳しい話をしましょう」 誰のメガネに叶うのか、武蔵には分からない。しかし、若い女性と食事をともにするのは、武蔵ならずとも嬉しいものだ。 しかし三保子は「申し訳ありません。わたし、夕食は済ませています」と、にべもない返事を繰り返した。 「そうですか。それじゃ、銀座に行きましょう。じつのところ、その途中なんですよ。お酒なんか、どうです? 見たところ、いける口だと思いますが。若い女性とお酒を飲めるなんて、滅多にないことですから。社長! 社長からも、お願いしてくださいよ」 脈ありと見ているのか、五平は有無をいわさずといった風情だった。 (九十四) 「社長、ちょっと。失礼、永山さん」と、武蔵に目配せをしてきた。 「なんだ? どうした」。五平の意図を測りかねる武蔵は、怪訝そうな面持ちで五平に答えた。三保子からすこし離れた五平は、 「彼女に、ドレスでもプレゼントしてくださいな。あたしがうまく言いますから、頷いてください。お願いしますよ、トーマス准将のタイプなんです」と、耳打ちした。「ああ、分かった」。武蔵が答える間もなく、五平は三保子に声をかけた。 「永山さん。大変失礼なんですが、ドレスをプレゼントさせてください。いや、だからといって強制することはありませんから。今夜お付き合いしていただく、そのお礼の気持ちですから」 「えっ? でも、それは……」。「遠慮しなくても、いいんですよ。社長の趣味のようなものなんですよ、プレゼントは。若い女性が美しくなるのが、嬉しいんです」 「お嬢さん、加藤にお任せなさい。往来で、押し問答もないでしょう。専務、たのむぞ」 ここがツボだとばかりに武蔵も五平につづいて畳みかけた。返答をする間もなく、困惑顔を見せつつも五平にうながされて三保子は、いましがたのぞき込んでいた洋品店にはいった。 なるほど。こういった手口で、くどき落とすのか。いちどおぼえた贅沢からは、なかなか抜けだせないだろうからな=B店のなかに消えたふたりを見ながら、武蔵はひとりうなずいた。 そう言えば、女給たちもだな。普段はなんやかやと理由をつけては逃げるくせに「鮨でもつまむか?」というと、ほいほいとついてくる。浪江は、その最たるものだ。この間は、バッグをねだられたな。まったく、高くつく女だ。その点、加奈は安あがりだ。安物のブローチ一個でも、大騒ぎする=Bそんなことを考えていた武蔵に、五平が声をかけてきた。 「社長! なかに入って、三保子さんを見てください。あたしの目に、狂いはなかったですよ。見ちがえるようです」 背中を押されるように店にはいると、恥じらいを見せる三保子がいた。ほおーっと、おもわず感嘆の声をあげた。映画女優ばりの、妖艶な女性に変身していた。大きくひらいた胸元からは、こぼれんばかりの谷間が見える。たしかに、アメリカ人が好みそうに感じられた。 「恥ずかしいですわ、わたし……」。三保子は、俯きかげんで呟いた。 「いやいや、お似合いですよ。見ちがえました、じっさい。さすがに、加藤の見立てだけのことはある。ちょっと、回ってみなさい」 言われたとおりに、三保子はクルリとひとまわりした。パーと裾がひろがり、膝の裏である膝窩が悩ましく武蔵の目にうつった。凝視する武蔵にたいし、三保子は「そんなに見ないでください。恥ずかしいですわ、社長さん」と、甘えるような声を出した。 「さっ、行きましょう」。支払いを済ませた五平が、ふたりに声をかけた。 「三保子さん、恩にきる必要はありませんから。くわしい話を聞いて、それで決断してください。納得した上で、ということにしましょう」。そう言いつつも、半ば強要している。恩にきるということばが、三保子にズシリと伸しかかった。 (九十五) 事前に連絡を入れていたのか、それとも察しの良い梅子ゆえなのか、しきりに三保子をけしかけた。 「おやんなさいよ、三保ちゃん。楽なものよ、そんなの。それに、短い期間だし。後々のことも、面倒見てくれるしさ。ひと財産できるわよ。アメさん相手だと言っても、同じ人間だしさ。それに、レディファーストとか言って、すごく大事にしてくれるわよ」 「ええ…でも…あたしなんかで…」 逡巡するそぶりを見せつつも、三保子の気持ちはすでに固まりつつあった。田舎の両親にたいして、いま以上の仕送りができそうだ、と考えていた。三保子の実家は、九州は佐賀県の片いなかだった。少しばかりの田畑をたがやして、小学五年生をひっとうに三人の弟、妹がいた。ほかに兄と弟のふたりがいたのだが、どちらも戦死していた。必然、三保子からの仕送りをたよりにせざるをえない状況にあった。 東京で働いているとはいえ、小さな会社の事務員では、月給もたかがしれている。毎月のように「カネオクレ」の電報がとどくのだが、どんなに食費をきりつめても実家が満足のいく額にはほどとおかった夜のバイトをさがさなくちゃ=Bそんな思いにかられていたおりの、五平からの誘いのことばだった。うさんくささを感じる三保子だったが、紳士然とした武蔵の出現に安心感をおぼえる三保子だった。その意味では、武蔵をひっぱりだした五平の思惑があたった。 五平の言を信じれば、いまの月給の三倍ちかい収入になる。しかも、食住の費用はいっさいかからない。衣類にしても、プレゼントされることもあるという。ゆいいつ不安といえばことばなのだが、おいおい覚えれば良いと告げられた。まわりには先達の女性がいるから、彼女たちに教えてもらえるとも。 最後に、五平が念を押した。 「永山さん」。親しげに三保子さんと呼んでいた五平が、改まった口調で告げた。 「念を押しますが、夜の生活を拒否することはできません。が、心配は要りません。彼らは、非常に紳士的です。決して、無理強いはしません。体調がすぐれないときや、気分が乗らないときには、寛容な態度でせっしてくれます。しかしたび重なるようですと、解雇せざるをえません」 不安げな表情を見せる三保子にたいし、五平はにこやかに付け加えた。 「なあに、案ずるより有無がやすし、です。なにも心配することはありません。すこしの間、社長とお付きあいしてください。いろいろと、教授します。せいぜい美味しいものを、ご馳走してもらいなさい。洋食になれる必要もありますからね」 とつぜんの五平のことばだったが、武蔵は「任せなさい、わたしに」と、軽く三保子の肩をたたいた。 「わかりました、お世話になります」 意を決したように、三保子は頭をさげた。そしてひと月の間に、武蔵は三保子との逢瀬をいくどとなく重ねた。 「できるだけ、贅沢の味をおぼえさせてくださいよ」という五平の進言もあり、武蔵は一介の女子事務員では味わえない世界を教えこんだ。嬌声をあげる三保子を見るたび、武蔵は満足感にひたった。一流ホテルでの食事やら、ナイトクラブでのダンスやら、三保子にとっては別世界のことだった。二度目の逢瀬のおりに体をゆるした三保子は、しだいに武蔵の愛人になりたいと思いはじめた。 (九十六) いよいよオンリーとしての生活が始まる。三保子の表情にかげりが出はじめたことに気づいた武蔵は、五平にその旨を告げた。 「五平、困ったぞ。どうも、勘違いをしたらしい。いや、かんちがいというより、誤算というべきかな? 俺の愛人になりたいというんだ。どうしたものかな、これは」 「そうですか。すこし、遊ばせすぎましたかな。分かりました。あとは、あたしが受け持ちます。なに、大丈夫です。いまさら戻れませんから。うまく引導を渡します」 五平がどのように因果をふくめたのか、武蔵には知るよしもなかったが、予定通りに三保子はオンリー生活にはいった。二度ほど、武蔵のもとに電話がはいったが、幸か不幸か武蔵は出張に出ていた。取扱商品が増えたこともあり、繁忙さはいぜんにもまして激しいものになっていた。 熱海での徳利事件をきっかけに高級陶器に興味をおぼえた武蔵は、伊万里・有田・萩そして、瀬戸をまわった。五平は時期尚早だと反対し、武蔵自身にも確たる勝算があったわけではない。しかし各地の窯元から、根強い需要があると聞かされた。料亭や旅館向けの出荷が、徐々にではあるが増加しているらしいのだ。武蔵は、熱海での慰安旅行時のことを思い浮かべた。 あの女将も、客足が少しずつではあるが戻りはじめた、と言っていたな。よし、熱海に行ってみるか=B出張から帰ったばかりだというのに、五平にたいしてその旨を告げた。「いくら何でもこう立てつづけでは」と苦言を呈する五平に対し「善はいそげだよ」。「きょうは早退する。あすは始発で出るから」と告げて、そそくさと会社を後にした。 「やれやれ。出勤したと思ったら、もう退社か。まったく落ち着きがないというか、動き回ることの好きな社長だな」 こぼす五平にたいして「専務がおられるからこそ、安心して飛びまわってらっしゃるんですよ」と、徳子から声がかかった。 商工会議所で情報取得をしたおりに、熱海以外では伊東温泉と下田温泉が人気が上がってきたときかされた。まずは伊東温泉に照準をあわせた。国道沿いに立ちならぶ旅館群のなかから名のとおった旅館に当たりをつけて、飛びこみの営業にはいった。この地区は武蔵にとってはじめての地であり、また人脈とてない。当たって砕けろだとばかりに、帳場にすわっている番頭やら女将に声をかけた。しかしどこも判で押したように、宿泊ではなく売り込みだとわかると、木で鼻をくくったような態度を見せた。親身に話を聞こうなどとする所は一軒とてなかった。銀座の老舗テーラーで誂えたスーツ姿で行けば、それなりの対応をするはずともくろんでいた武蔵にとってはまったくの誤算だった。 いんぎんな態度に終始し、決して「ここではなんですから」と上がらせもしない。飛び込みの営業においてかんたんに相手が話にのってくることは、たしかにいままでにおいても殆どない。しかしこれほどの冷淡なたいどを取られることは、武蔵にはそれがなにゆえなのかどうしても分からなかった。十軒目の旅館を出たおりには、さすがの武蔵も疲労こんぱいの極にたっした。 (九十七) うーん。やはり、まだ時期尚早か。むだ足だったか=B重い気持ちになったものの、あの女将に会ってみるか、うそを吐いたとも思えんし≠ニ、思い直した。熱海駅の公衆電話を利用して、連絡を取ってみた。 「はい、明水館の女将でございます」 女将のはつらつとした声が、武蔵の耳にここちよく響いた。 「や、どうも。昨年の秋にお世話になった、富士商会の御手洗ですが。覚えていてくれ」 「まあ、社長さまですか? その節は、ありがとうございました。お礼にうかがわねばと思いつつも、なかなかに時間が取れずにおり、申し訳ありませんでした」と、武蔵のことばをさえぎった。 「いや、そんなことは。じつはいま、熱海に来ているんです。でね、こんやの宿をお世話になろうかと思いましてね」 覚えていてくれたか。まんざら、社交辞令でもなかったわけか。いやこんなことは、女将として当たり前のことか?=Bすぐにも快諾がかえるものと考えていた武蔵に、意外なことばがかえってきた。 「本日でございますか? ちょっと、お待ちくださいませ」 なにを勿体ぶるんだ! 平日ならガラガラだろうに。この女将も、やはり商売人か=B気持ちのよい女だと感じていた武蔵だけに、落胆のおもいが激しくおそった。しばらくして武蔵のイライラが頂点にさしかかったとき、「お待たせして申し訳ありません。いま、どちらにお見えでしょうか? これからすぐにお迎えにまいりますので」と、息せききった声が武蔵の耳にはいった。 受話器をおくと、国道のむこうがわの海岸から海風が吹いてくる。半年ほど前のどんちゃん騒ぎが昨日のことのように蘇ってくる。正直のところうしろ髪をひかれる思いで宿をあとにしたが、そんな思いははじめての経験だった。というよりは、思いをとげずに帰ることのない武蔵ゆえのことなのだが。気にいった女性に出逢うと一日二日と滞在を伸ばしてきた。そしていちど限りになることの多いちぎりを交わす。 むろん「また来る」といいのこしはする。そのことばに嘘はない。たしかにそう思うのだが、列車に乗ったとたんにその感情が雲散霧消してしまう。「情がないんだよ、社長には」とはキャバレーの梅子のことばだが、たしかにと納得する武蔵だった。なので、あの女将のこともそうなるだろうと思っていたのだが、あにはからんや糸を引くように思いが消えないでいた。 所在なげに煙草をふかしながら待っている武蔵のよこに、かぶと虫という名称で親しまれている小型の車がよこづけされた。 「申しわけございません、社長さま。お待たせいたしました」 おどろいたことに、女将自身がむかえにあらわれた。車からおりた女将は、にこやかな表情でふかぶかとお辞儀をした。 「いや、これは。女将直々の出迎えとは、恐れ入ります」。さきほどまでの不機嫌もどこへやら、武蔵は相好をくずした。大型のアメリカ車にのりなれている武蔵には、その車はあまりに窮屈に感じられた。すこし体を動かしただけで、すぐに隣のシートに当たってしまう。しかしいやな気持ちはまるでなかった。どころか、女将がより身近に感じられる。 「おどろきました、女将が運転されるのですか?」 女性が車をはしらせることなど、思いもよらぬ武蔵は感嘆の声をあげた。 「お怖いですか? 大丈夫でございますよ、のりなれている車ですので」 「いや、そうではなくて」。あわてて武蔵が声をだす。 「およろしいのですよ、社長さま。女だてらに、とよく言われますので」 ゆっくりとしたスピードで走らせながら、女将は「じつのところ、お客さまのお迎えははじめてなのでございます。社長さまのお声を聞きましたら、居ても立ってもいられなくなりまして」と、鼻を鳴らしてこたえた。 「それは、光栄ですな。女将となら、心中となっても本望ですよ」 武蔵の冗談ともも本気ともとれることばに、「まあ、ご冗談を」と、顔を赤らめる女将だった。 (九十八) 女将の運転はじつにスムーズな運転で、浜辺を見やるゆとりが武蔵にあった。 ♪熱海の海岸 散歩する 貫一お宮の ふたり連れ♪ 武蔵にしては珍しく、鼻歌を口にした。 「社長さま、ご機嫌でございますね。ご商談が、上手くいきましたのですか?」 「いやいや、とんでもない。見込みちがいだったかもしれんのです。伊東温泉の旅館群に、陶器の売り込みをと思ったんですが。どうにも駄目みたいで。ああ、いまの鼻歌のことですか? 女将との逢瀬を楽しんでるんです」 「あらまあ、それは光栄ですわ。こんなおばさんの、わたくしごときに。で? 陶器の売り込みとおっしゃいましたが、どちらにお声をかけられましたのでしょう?」 「どうですか、女将。時間があるようなら、すこし海岸べりを歩きませんか」と、誘いをかけた。このまま旅館にはいっても時間をもて余すだけだ。そもそもがそのまま伊東温泉で一泊し、翌日には下田温泉にまわるつもりだった。それが、どうしても女将にあいたくなったのだ。 「これが、あのお宮の松で、ございますの。この下で、貫一さんに足蹴にされたところでございますよ」 道路の中央にあるその松は、もともとは羽衣の松と称されていたのだが、尾崎紅葉作の金色夜叉によって全国的に知られることになり、そしてその句碑が建てられたことからいつしかお宮の松と呼ばれるようになりましたと、女将が説明した。「明治のみよのお話でございます。男社会のなかでのお話ですので、女が立身出世することがおもしろくなかったのでございましょう」と、意外な感想を口にする女将にたいし「おもしろい意見ですな、それは。女の立身出世ですか?」と、武蔵の興をひいた。 「あらまあ、これはとんだことを口にしてしまいました。嫁ぐさきが女の勲章というのもどうかと思われましょうけれども、請われてとつぐのでございますから。それに、男が大成するかどうかは女のささえが……」と、それ以上は口をつぐんだ。 「ところで女将、社長ということばは止めてくれませんか。武蔵で、いいですよ。どうにも、社長というのは堅苦しくていかん。いまはお客ではなく、ひとりの男として女将とせっしていたいんですが」と、話しをすりかえた。しかし女将の言わんとすることにも一理あると感じた武蔵だ。 「そうですわね、わたくしもそう思っておりました。それでは、わたくしのことも、女将ではなく光子とお呼びくださいな。光り輝く女に育て! ということで、親がつけてくれました」 「ほう、光りかがやくねえ。ピッタリだ、女将に。それじゃ、光子さんと呼びますよ」 たしかに、とうなずく武蔵を横目でみやりながら 「ところで社、いえ、武蔵さんはどちらにご商談にいかれました? もしも個々の旅館にお話しされたのでしたら、失礼ですがおまちがいでございますよ。静岡という地ではハッタリは利きませんし、よそ者にたいしてはつめたい土地柄でございます。お客さまにたいしては、それはもうおもてなしのこころはしっかりと持っておりますが。その反動でございましょうか、とくに他県からのおひとには冷たく応じます。組合の方にお出でにならなければ、みな、警戒いたしますです」と、説明した。 「そうですか、やはり、飛びこみでは警戒されますか。しかしハッタリとは、はじめて言われました。そうですか。この服装が、かえって警戒心をいだかせましたか」 「よろしければ、わたくしの方から組合に声をかけさせていただきますが」 「そりゃ、助かる。しかし良いんですか? 一見の客だったというのに、信用しても」 「ほほほ。武蔵さまのお人柄は、わたくし、しっかりと見抜いておりますわ。でなければ、わたくしがお迎えにはまいりません。私生活はべつといたしまして、ことご商売にかけましては、真摯なお方と推察しております」 ぴしゃりと、こと女に関しては遊び人だといわんばかりだった。 「そいつはお見逸れした。そうだな、客商売の光子さんだ。眼力は、たしかなものだろう。しかし、私生活は別とは、痛いところをつかれました」 (九十九) おだやかな波に反射する太陽光をまぶしく感じながら、武蔵は光子の横顔をもまぶしく感じた。いい女だ=Bひさしぶりに、こころがさわぐ武蔵だった。あの梅子以来のことだ。もっとも梅子との間には、男女関係はない。色気うんぬんではなく、人間として器の大きさを感じてのことだ。しかし女将にたいしては、女としての魅力も感じる。 「女にだらしなく見えますか?」 思わず、武蔵の常套句を口にしてしまった。きょうは色気ぬきだ、ビジネスの話をするんだ=Bそう決めたはずだ。でなければ脇の甘い交渉事となってしまう。ただ、いままでに女性相手のビジネス話は経験がない。 女性の同席があったとしても、あくまで補佐的存在であり、交渉相手は男性だった。勝手がちがうなと困惑気味になってはいる。まさか旅館組合を相手にすることになるとは、想像もしていなかった。三軒いや五軒もまわれば、一軒ぐらいは話にのる旅館がでるはずだとふんでいた。それが十軒をまわったというのに、ただの1軒も話にのってこない。どこも判で押したように「間にあっています」と断られた。 なにがまずかったのか、身なりに関しては文句のつけようがないはずだ。わざわざ銀座の老舗テーラーであつらえたスーツにした。服に着られることを避けるためにと、三ヶ月の間その服だけであちこちを飛びまわった。まさかそれが裏目にでたとは、信じられぬ思いの武蔵だった。真に女将のいうとおりによそ者にたいする警戒心が強い土地柄なのか、それとも復興の度合いを見あやまったのか。その判断がつきかねる武蔵だった。それだけに旅館組合での交渉がキモなのだ。女将はあくまで仲介役だ。その女将に色目をつかっているようでは足下を見られてしまう。組合長、もしくは理事長をくどき落とさねばならない武蔵だけに、慎重の上にもしんちょうをきさねばと意気ごむ武蔵だった。 「ぼくは女にだらしないし、一目ぼれがはげしい。しかし女将、いや光子さんだけはべつだ。心底、惚れました」 口に出てしまってはあとの祭りだ。女将の色気にまけたといっても過言ではない。どうにも五平のことばが耳からはなれないでいる武蔵だった。 「社会的責任というのかな。世間さまってのは、意外に家庭持ちかいなかってのを気にするもんです」 あの社員旅行以来、女性にたいする見方がかわってしまった。将来の伴侶としてどうだ? という視点がふえた。取引先からも「そろそろ身を固められては…」とさぐるような視線を感じることがある。銀行からも「こんな女性がいますが…」と声がかかったりする。どうやら五平の思惑どおりにことが運びはじめたようだ。他人の敷いたレールの上を走るのは好きではない武蔵なのだが、どうにも今回は勝手がちがうと感じる武蔵だ。 「まあ、ほんとうに? それは光栄ですわ。わたくしも、武蔵さんに惚れこんでおります。旅館の女将でなければ、東京まで押しかけていきたいほどですわ」 さすがに女将である、サラリと受け流した。これでは武蔵としても、ほこをおさめざるを得ない。 「まいった、まいったよ、女将。くどき落とせなかった女は、光子さん、あんただけです」 快活にわらう武蔵に、女将はすねた表情を見せつつ、 「あらあら、もう降参ですか? もうひと押しあれば、わたくしの方がよろめきましたのに」と、武蔵のうでを軽くつねった。 (百) 「光子さん。こんなことを聞いていいのかどうか、正直分からんのですが」。「まあ、こわいことを。どんなことでしょう?」 武蔵にしてはめずらしく、ことばが饒舌にでてこない。「べつに聞くことでもないし、聞かない方がいいのかも、しれんし……」 「武蔵さまにしては、珍しく弱気ですね? そんなことじゃ、陥ちるものもおちませんことよ」 にこやかに微笑みながら、光子が急かす。 「答えたくなかったら、こたえなくてもいいですから。いやいかん。もう、弱気の虫がでた。ふかい意味はないんです、ただ聞きたいだけですから」 「はいはい、どんなことでしょう? あたくしも、どんなことを聞かれるのか、楽しみになってきました」 砂地に足をとられての歩みは、すこしの時間といえども結構きつい。足腰のつよさでは人後におちない武蔵だが、ふくらはぎに違和感をかんじはじめた。武蔵の顔のゆがみが、そして眉をひそめる回数がふえたことに気づいた女将が「ここに、腰をおろしません?」と、砂地をゆびさした。 「そうだね、すこし足がつってきた」 男のこけんに関わることではあるが、ここは女将の気づかいとして受けいれることにした。というよりも、武蔵の弱音をさらすことも女将にはなにかしら有効な手段におもえた。女傑の女将だ、あまり男を強調したのではかえって反感を買いそうな気がしたのだ。砂つぶで遊びながらあいかわらず笑みをたやさない光子と、おのれの優柔不断さにいらだつ武蔵だ。 「光子さん、分かってるんだね。ぼくの聞きたいことが。それでそんなに、にこやかだとは。人がわるいね、意外と」 意を決して、武蔵がつづけた。 「旅館業というのは、やはり女将しだいですか?」 おや? という表情で、しかしきっぱりと光子は答えた。 「はい。基本はおもてなし、でございますから」 「ふーん。男は、裏方、ですか」 「そうでごさいますね、表に出てくることはございません。でもだからといって、遊んでいて良いいわけはないのでございますよ」 武蔵の意図に気づいた光子だったが、あまり先回りしても、と考えた。 「髪結いの亭主、とはいきませんか」 「ほほほ。髪結いのご亭主さまも、けっして遊んでばかりいられることはないと思いますわ」 「だとすると、光子さんのご主人も……」 「宅は、だめでございます。恥を申し上げるようですが」 武蔵のことばをさえぎってのことばだが、表情がいっきに暗くなった。 「お酒が、多くなりました」 「そいつは、耳がいたい」 「いえ。武蔵さまのご酒は、楽しいご酒でございますから」 お酒と、ご酒。使い分ける女将は、身内とお客とをしっかりと区別していた。 (百一) 酒を飲むことに、楽しい酒とは、意味がわからない。いや、そのことばに意味があるのかもわからない。とりあえず「ご亭主の酒は?」と聞くしかなかった。 「落ち込むお酒、でございます。グチの多い、ひがみが激しい、そして終いには、暴力のでる、お酒でございます」 気丈にふるまう光子だったが、波間のつよい反射光をさけるがごとくに手を顔にあてた。あふれそうになる涙を、武蔵にみられたくなかった。 「戦争前はそれほどでもなかったのですが、帰還してからというものひどくなりました」 「外地に? 」 「はい。ですが、どこと言わないのです」 「船便で分かるでしょう? 我々は内地でしたがね」 ゆっくりと煙草をくゆらせながら、いつもの武蔵にもどった。 「左様で。宅は、二十二年の冬でございました。ひょっこり帰ってまいりまして。一年ほど、どうもあちこちたずね歩いていたようでございまして。でもどうして、なにも言ってくれないのか」 砂地を指でほじりながら小声になっていった。 「言いたくない事情があるんでしょう。我々だって墓場まで持って行くものがありますから」 「でも、妻のあたくしなら……」 「光子さん。そりゃ、無理だ。ぼくには、ご亭主の気持ちがよくわかる。内地のぼくだから、人づてに聞いたことでもあり、ほんとうの意味でわかっているとは言えんのですが。戦争はね、地獄です」 ことばを選びながらその悲惨さをかたった。 「しまいには、人間がにんげんでなくなります。まともな神経の持ち主なら発狂するでしょう。あるいは人格を変えてしまう。ご亭主は、どうやら後者のようですな」と、結んだ。目をふせたままただじっと聞きいっていた女将だが、指からこぼれる砂粒とともに、あふれでる涙を砂地に吸いこませた。 「おふたりはご戦友で?」 「そうです。親兄弟よりつよい絆があります」 「男のかたは、およろしいですね」 嘆息まじりのことばを洩らし、ゆっくりと立ちあがった。そのことばから羨望感といったものは感じられない。ただ単に、とってつけたような、砂地のあちこちに顔を出している貝殻のように誰もがみつけられるようなものだった。 「女は、いやらしいものです。家族のためという美辞麗句をならべたてて、おのれを擁護します。それがどんなに……」 「女将らしくないですな、そんな弱気は」 聞いてはいけないことばがそのあとにつづきそうな予感がした武蔵は、あわてて女将のことばをさえぎった。女将もまたそのことばをぐっとのみ込んで、これ以上はないとっておきの笑顔で武蔵にこたえた。 (百二) それは大通りから一本なかに入った路地裏にあった。古い商家をそのまま使っているようで、ガラス戸を開けるとすぐに土間になっている。すこし奥に古びたソファが置いてあり、テーブルをはさんで対面式になっていた。くたびれたジャケットを着こんだ中年の男が、書面を前に考えこむしぐさをしていた。客に説明している若い男ははいってきた女将に気づくと、すぐさま立ちあがり直立不動の姿勢をとった。 「名水館の女将さんです」 大声でつげると、どうぞ奥にと、手をうごかした。渋面をしていた男も、名水館というなまえを聞いたとたんに立ち上がって、「いらっしゃいませ」と頭をさげた。商家ならいざ知らず、旅館組合といった、準公的機関においてのことばとは思えなかった。若い男といい中年男といい、光子に特別な感情が働いていることは間違いなかった。 パーテーションの奥からは、電話対応をしているらしい声が聞こえる。元々は畳だったものが、現在は板敷きとなっているようだ。床のギシギシときしむ音と、くぐもった靴音が聞こえてきた。 「まあ女将さん。どうされました? 理事は、いまお出かけですが」と、女子職員があわてた風にこたえた。「あらそう」とあきらめ顔の表情を見せつつ、武蔵にこごえで告げた。 「主人ったら、まだ寝ていますわ。どうせ夜だけの顔出しでしょう。会合だなんて申していますが、どこでどうしているのやら……」 そしてその職員のうしろから「これは、これは」と、恰幅のよい白髪まじりの男が「どうされました、急なご用ですかな」と、おっとり刀であらわれた。 「ええ、そうなんです。とっても良い話を持ってきましたわ。こちらは…」と、簡単に武蔵の紹介をしたあとに「いまここで契約をしませんと、よその土地に取られてしまいますから」とたたみかけた。 チラリと武蔵をいちべつした男は「女将の話なら、否も応もありませんな。しっかりした身元のかたでしょうから」と、やっと武蔵にたいして、「熱海温泉旅館協同組合 理事長 神原信之介」と印刷された名刺を手わたした。 商談は、女将の尽力のかいがあってスムーズに進んだ。武蔵のでる幕はまったくなく、すべてが女将主導ですすんだ。旅館をきりもりする女主人然とした交渉ぶりは板についたもので、五平のいうとおり、この女将は男をくらってしまうな。亭主もたいへんだろう、これでは≠ニ舌をまいた。 複数の仲介業者をとおして購入していた組合としては、廉価に購入できるというメリットを享受できた。富士商会としても新しい販路を確保でき、また販売方法をきずきあげることができた。各地の商工会やら組合やら、これからは利用していかなくちゃな。熱海くんだりまできたかいがあったというもんだ=B昨日と今日で、まったく武蔵の温泉街観が変わった。 その夜、女将と差しむかいの食事となったが、武蔵の意識のなかに男女関係はなくなっていた。まるで銀座のあの梅子が乗りうつったかのように思えていた。ただ梅子とはちがい、色気は感じている。ふるいつきたくなる女性ではあった。しかし武蔵の気持ちのなかで、光子として意識することがなかった。あくまで旅館の女将であり、富士商会熱海支店の支店長だった。 「まあ、とんだことになりましたわ。でもその方がおよろしいかも」 「わたくし、自分でも女郎蜘蛛の生まれ変わりではないか、と思います」 盃をやり取りしながら、光子の話がつづいた。 「光子さんは後家さんだと思っていましたよ」 思いもかけぬことを武蔵が口にした。 「まあ、どうしてでございましょう?」 「いや、専務の勘違いでしょう」と、この話は深入りしてはならぬと思う武蔵だった。 「よろしいのですよ、大方の想像はつきます。仲居の誰かでしょう。たしかに、夫婦であり、また他人でもありますから」 にこやかな表情を見せつつも、目が笑っていない。武蔵が感じた、男を踏み台にして成り上がった光子なのだ。最近になって、いろいろご注進とばかりに、「こんな陰口が…」と教えてくれる人物がいる。「男狂いの女将」。しかしまったくの誤解だと言い切れぬところのある女将としては、わらってごまかすしかない。しかしきっぱりと言う。 「どなたです。そんなうわさをながしているのは」 「なんでしたら、そのお方と話をしてもよろしいんですよ」 そのあとに、女将についてのうわさ話がピタリととまった。やっぱりこの男が噂の大元だったわね≠ニ、おのれの慧眼に確信をもった光子だった。あたしと懇ろになりたいと思っているのは、お見通しなのよ=B光子の強い眼光を前にして、戦意を失ってしまった。 女将が「あたくしの気持ちも武蔵同様にゆれうごいた」と告白した。電話をうけた時点では、たしかに男女の関係をねがったという。しかし組合に出むいてからのやりとりで、武蔵を食らってはならぬと決めたというのだ。過去において、エセ学者との道ならぬ恋に燃えたことがあるという。妻帯者であることを百も承知で、相手の土地へと出かけて逢瀬を重ねた。いっそこのまま駆け落ちでもと考えたりもしたというのだが、名水館という老舗旅館を捨てることができなかった。自分が去れば早晩旅館は潰れてしまう。潰れぬまでもどこかの大資本の傘下に入ってしまう、そして仲居や板前たちが離ればなれになってしまうという思いに至ったというのだ。 うそだった。真っ赤なうそだった。実態は、駆け落ちをして、そしてその男に捨てられて。自暴自棄になり身を落としかけたときに、ある料理旅館(実態は売春宿に近かったが)の女将やら同僚の仲居によって、救われていた。しかしそのことは、決して他に漏らすことはなかった。亡き先代女将以外には。そして固く言われていた。「このことは墓場におもちなさい」。そして今のいままで、かたく口を閉ざしてきた。 「人のこころを失ってしまったわたくしでございます。まさに、武蔵さまが仰った地獄を見ました」と結んだおりには、女将としての顔にもどっていた。 |