(一)

「若者よ、あれがキャバレーの灯だ!」
 チャールズ・リンドバーグが大西洋横断を果たしたときに発した言葉をまねて叫び、ドン・キホーテが大きな風車に向かって突撃した折に突き出した槍のように、服部が腕を突き上げた。その指差す先に、煌々と光るネオンサインがあった。
「すげえ! キャバレーだぜ、おい」。打ち沈んでいる竹田の肩を叩きながら、黒塗りのハイヤーから飛び出して山田がはしゃぎ回る。苦笑しながら少し猫背の男が「ご苦労さん」と多めの金員を渡した。「いつもどうも」と言葉を残して運転手が走り去った。
「こらあ、若者たちよ! こんな所に居るなんて、どういう了見だ」。「お前らごとき若造が来る街じゃねうぞ」。「そうだ、そうだ。帰れ、帰れ」。路地から悲鳴に似た怒声を上げて、三人の男たちが飛び出してきた。しかしジープに乗った進駐軍を見た途端、体を小さくして通り過ぎた。
「専務、あそこですよね。あの、ムーラン・ルージュという店ですよね」。興奮気味に、服部が念を押す。専務と呼ばれた男、加藤五平が慇懃に答えた。
「ああ、そうだ。社長に言われたのさ。お前たちを遊ばせてやれとな」
 その言葉が聞こえぬかのように、二人がはしゃぎ回る。
「おい、上をみろよ。空だよ、空。こんなに明るいなんて、昼間みたいだぜ」
「そうだな、ここら辺りは不夜城だからな。いや、竜宮城かもしれんぞ。乙姫さまが居るかもな」
「すげえ、すげえ」と騒ぐ二人の背中を押しながら、沈んだ表情がとれない竹田に目を移した。
「入るぞ、竹田。今夜は楽しめ!」。五平の先導で、店内に入っていく。こんな若造たちがといぶかしげな視線を投げかける通行人をギロリと睨みかえしながら、五平に習って胸を反り返して入っていく。重々しい扉が黒服に開けられると、フルバンドの演奏が耳に入ってきた。その大音量に度肝を抜かれはしたものの、若者特有の図太さですぐにもそのリズムに乗って小刻みに体を動かし始めた。
「服部、山田、踊りたいのか。少し待て、美女を呼んでやるから。一緒に踊ったらいいだろう」
「はい、専務。ぜひお願いします」
 大ホールの天井中央では、輝くクリスタルが眩いばかりに光を反射していた。壁にはステンドグラス模様のがラスがはめ込まれている。磨き込まれた床では、深いスリットの入ったチャイナドレスに身を包んだ女給たちが男たちとダンスに興じている。キョロキョロと品定めをするがごとくに女給たちを、なめ回すように見続けていく。ホール奥の一段高いステージ上では、フルバンドで音楽が奏でられている。全くの別世界に迷い込んだように、三人は感じた。
「いらっしゃいませ加藤さま。今夜は部下の方同伴ですか。ありがとうございます。おや? 社長さまはどちらに」
「うん。今夜は、社長は欠勤だ。どうやら、皆勤賞は俺がいただきだな」
「加藤さま。月に二度や三度では、皆勤賞はさしあげられないですよ。せめて、週二回はお出でいただかねば」
「そうか、そりゃ厳しいな。ふところの財布と、相談しなくちゃな」
「なにを、おっしゃいますやら。評判ですよ、富士商会さまのことは。独り勝ちしてらっしゃると」
「ハハハ…他人の庭は良く見えるもんさ。今夜は、若い者を楽しませてやってくれ。こいつらなら、皆勤賞をとるかもしれんぞ」
 深々とお辞儀をして立ち去ろうとするボーイに、五平はそっと札を握らせた。
「いつもお気遣いいただいて、ありがとうございます」

(二)

| そうか、俺も他人さまにうらやまれる男になったか。いや、妬まれているといったほうか。しかし、人生ってのは分からんものだな。どこぞでのたれ死ぬ運命だろうと思っていたのに。軍隊に入って、女衒というなりわいがばれてからというもの、地獄のような毎日を送っていたものを。これまでかと腹を決めたときに、武さんが現れた。こんな俺なんかをかばってくれて、一緒に殴られ続けてくれて……。結局、武さんの御手洗という苗字にかこつけて、便所当番を言いわたされた。しかしなにが幸いするのか、分からんものだ。『ずっと、厠掃除をやらせていただきます』なんて、武さんが言い出して。まあそのおかげで、口で罵られることはあっても殴られることはなくなった。『厠のにおいが移るぞ』という軍曹のひと言で、ぴたりと収まった。武さんには分かっていたのか、それとも事前に話を付けていたのか。まったく凄いお方だ。さらには、『厠は、宝の山なんだよ。開けてビックリ玉手箱だって』と言いだす始末だ。はじめは何のことか分からなかったが、実際の戦況を知ることができたし、下士官たちの下世話なうわさ話も耳にはいってきた。そのことで、多少のおいしいこともあったし。しかしなんと言っても一番の収穫は、終戦の情報だ。上官の話では、本土決戦だ! なんて勇ましい話を聞かされたけれども、その裏では、せっせと物資を隠匿してやがった。もっとも、この情報のおかげで、富士商会を立ち上げることが出来たんだがな |
 ソファに深々と腰かけながら、ミラーボールに照らされる天井を見あげた。故郷で見た夜空の、まばゆいばかりに輝いていた満天の星がおもいだされる。可愛がってくれた祖母との会話は、所々が節くれだっている縁側に腰かけてのものだった。
「いいか、五平よ。おてんとうさまは、みいんなお見とおしだ。どんなにじょうずにかくしたところで、お空のうえからはまる見えだ。おてんとうさまのいない夜には、ほれ、あのお月さまが見てなさる。それに、お星さまもだぞ」
「分かってるって、ばっちゃ。他人さまから後ろ指さされるようなことはしないって」
| 後ろ指さされることはしないって、か。ばっちゃが死んでからというものは、さされることばかりをしてまったな。ごめんな、ばっちゃ。いまごろはカンカンだろうな。頭につのが生えてるかもしれんな。いやいや、そんな鬼のようなばっちゃにしてしまったのは、この俺だ。でもな、ばっちゃ。これからの俺は、まっとうな生き方をしていくよ。決してもう、他人さまを悲しませるような、非道なことはしないよ |”

(三)

 新橋の地で焼失をまぬがれた木造の商家をまえにして、ガクガクとした体のふるえをおさえきれない五平だった。となりに立つ武蔵からもピリピリとした緊張感がつたわってくる。奥歯をぐっとかみしめてにぎりしめられた拳が、心なしか震えている。五平のひりつく喉から絞り出された声が、「今日はやめますか」ということばが、掠れてしまう。「馬鹿言うな、今日をやめたら二度と来れるもんか」と、武蔵もまたかすれた声になった。
 ガラス戸から見える中では、屈強な男たちが五人いる。その中で二人がテーブルをはさんで額を付き合わせている。その後ろにそれぞれに一人が立ち、一人が外をじっと見ている。角の電信柱付近でなにやら言い合っているふたりが気になりはじめた。いぶかしげな表情を武蔵と五平に向けている。このままこの場に立ちすくんでいては、早晩男が飛び出してくることになる。意を決した武蔵が、パナマ帽を軽くあげて頭を下げながらガラス戸に手をかけた。
「なんだ、こりゃあ!」と、武蔵たちをにらみつけていた男が立ちはだかった。ソファ後ろの男二人も気色立つ。もうふたりの男たちは、穏やかな風体で座っている。
「先ほどご連絡を入れました、御手洗と申します。親分さんへのご挨拶に伺いました」。体をピンと伸ばし張りのある声で、奥の部屋にいるであろうこの屋の主へとどけとばかりに声を上げた。
「おう! お入りなさい」。しわがれた声が、しっかりと武蔵と五平の腹にドスンと入ってきた。武蔵たちを威嚇した男が、膝をまげ腰を落として「どうぞ、こちらへ」と、奥の部屋へと誘導した。しっかりとした仕切り板の横を抜けると、壁のあちこちに動物たちの剥製が飾られていた。大きな角を持つ鹿の頭に、ギョロリとした眼光鋭い虎の頭部、そして重厚感のある机の前には革張りの三人掛けソファが向き合って二台おいてある。むろん一人がけがあることはいうまでもない。
 それよりも武蔵たちの度肝を抜いたのは、床に虎の全身の敷物があることだった。歩を進めることをためらう二人に対し、小柄でやせた風体の老人が「さあさあ、お座りなさい」と、鋭い眼光を穏やかな表情にかくして指さした。
「先日は大変に貴重な物ばかりいただいて、ありがとう。孫たちが大喜びしましてな、わたしの株も上がったものですよ。それに奥も喜んでおります。いつか事務所ではなく拙宅にもいらっしゃいな、歓待しますよ」

(四)

 ほとんど九十度に近い最敬礼をした後に、指示されたソファに座り込んだ。背筋は伸ばしたままで、両手もひざで揃えた。どんな仕草で難癖をつけられるかもしれない、と生きた心地のしない五平だった。それに対し、武蔵も背筋こそ伸ばして両手もひざに揃えられてはいるが、少し口元がゆるみ緊張感もとれているように感じられた。武さんはヤクザの怖さを知らないか=Bそんな危惧感が五平には感じられた。
「お初にお目にかかります。わたくし御手洗武蔵と申します。若輩者ですが、どうぞよろしくお見知りおきください」
「わ、わたくしは、加藤五平です」
 落ち着いた声の武蔵に対し、五平の声はかすれている。深く沈みこむように座っているテキ屋の総元締めが、ゆっくりと武蔵たちが贈ったキューバ産の葉巻をくゆらせている。二人の態度に満足そうに頷くと「これ、早速ためさせてもらっていますよ。まあそう緊張なさらぬように」と、歯を見せた。
「ここの端っこに富士商会という屋号で、雑貨卸をやらせていただきます。親分さんのご了解をいただきたく、お伺いしたようなわけでして。五平、おみやげを親分さんに」
 風呂敷包みをテーブルの上に乗せた途端に一人が総元締めの前に移り、もう一人が五平の前に立った。
「決して出所のおかしな物じゃありません。親分さんには包み隠さずお話しますが、どうぞ他へはお洩らしにならぬように」
 驚く五平に対し「親分さんなら大丈夫、義侠心のお方だから」と、制した。
「GHQでございます。この加藤の親戚筋が、GHQにコネがありまして。ま、いろいろ手を尽くしたわけでして」
 さすがのGHQで、その威光には総元締めといえども歯が立たない。
「あたしらはね、半端者です。額に汗して働くことができない、クズ共の集まりです。ですがね、堅気さんたちをね、理不尽なことからお守りするためにゃ、命を賭けます。筋の通らないことは、決して許しません。御手洗さんでしたな、ご商売に精をお出しなさい。事あるときにゃ、あたしらが、命を張ってお守りしますよ」
 柔和な表情の中でも、眼光の鋭さは消えない。
「ありがとうございます、なによりのお言葉です。それでは店が立ち上がりましたら、改めて伺わせていただきます。本日は貴重な時間をいただきまして、まことにありがとうございました」

(五)

 総元締めとの顔つなぎが終わった後には、五人の男たちが膝を曲げて腰を落とし「ごくろうさまでございました」と、往来にも聞こえるほどの声で、二人を送り出した。二人を睨み付けていた男などは、外に出た武蔵がパナマ帽をかぶり直すまで見送り、自身も外に出て、再度「おつかれさまでした」と声を張り上げた。
 トラックの行き交う中、土埃の上がる道を二人並んで歩いた。まだ胸の動悸の収まらない五平だったが、武蔵は今にも口笛を吹きそうに口をすぼめている。
「武さん、さっきはどうだったんで? こっちは冷や汗の掻きっぱなしでしたよ。なのに平然とした顔で」。思わず武蔵に確かめた。
「俺だって緊張してたぜ、顔を合わせるまではな。けど、ヒヒ親父だと思わなかったか? 動物園にいる、あのマントヒヒに似てたじゃねえか。思わず吹き出しそうになったぜ。それに、かわいいもんだぜ。葉巻を手に持つのは良かったけど、煙草みたいにスパスパやるもんじゃねえよ。あれは口ん中で煙の香りを楽しむもんだ」
 いまにも大笑いしそうに話す武蔵を見た五平は、とんでもねえお人だ、武さんは。足下にも及ばねえよ、このおれっちは。胆力がまるでちがう。いやいや、分かってたはずだ。軍隊時代の武さんを忘れちゃいけねえや=Bその場に座り込み、「タケさん、いや社長。おれっちを見捨てねえでください。この先ずっと、ついて行きやす」と土下座して懇願した。
「いいかげんしねえか!」と五平の手ををとり「二人三脚で行くんだよ。それからそんな口の利き方はやめろ」と五平の肩をなんども叩いた。
 帰りの道々、五平が「タケさんよ。また、行くんですかい? お足をつつんで、一回ですませてみても良かったと思うんですがねえ。どうも、あの手の人間はにがてなんでね。女衒のころに、なんどとなく煮え湯を飲まされてるものだからさ。テキ屋だなんだと言っても、しょせんは愚連隊あがりでしょうに」と、こぼした。
「俺もそれは考えた。だがな、五平。俺たちのブツは、そんじょそこらじゃ手に入らないものだ。ほとんど市中にでまわってないものばかりだろうが。当然ねらってくる奴が、出てくる。そんなときにだ、顔役のうしろ楯があるとなりゃ、おいそれとは手を出してこない」
「そりゃそうでしょうが…。けどそこまで、我々に肩いれしてくれますかね。いや、どころか、あの親分が……」。どうしても五平には信じられない。どんなに金をつつんでも、すぐに脅しをかけてくる。複数のあいてに話をとおさなければならない羽目におちいったこともあった。苦々しい思いが、どうしても消えない五平だった。
「馬鹿なことを言うな。だから、GHQの名前を出したんだろうが。肩入れにしたって、金次第だろうな。なあに、見てろ。でっかい花輪がとどくよ。でっかいのが、な」
「とどきますかねえ、大きいのが」
「とどくとも。店を開けたらうかがう、って言ったんだ。そのときにたっぷりとお持ちしますよ、ということだ。それが分からねえような唐変木なら、こっちが願いさげだ」

(六)

 昭和二十一年春、日用品を主にとりあつかう富士商会が新橋やみ市の一角に設立された。そしてくだんの総元締めの名前のある大きな花輪が、これみよがしに店先に飾られてあった。
 武蔵と五平、そして事務員一名に社員が三名の小さな商店であった。食べ物屋が軒をならべる人通りの多い通りではなく、その一本裏手で、ヤミ市の端っこともいうべき場所に店をかまえた。間口がせまく奥行きの長いつくりでコの字型になっており、入り口と出口がちがう店だった。商品はその通り口から左右に並べられており、必然的にひとりの客が進むことになる。入り口で渡されるカゴに気にいった商品を入れ、出口で精算となる。張られた正札野浦に、「値引きお断り」と赤字で書いてある。気に入らなければ、出口で一切の交渉なく返さねばならない。

「もっと真ん中に、でんと構えましょうや。こんな人通りの少ない場所じゃ、お客の目に留まりませんぜ。総元締めの後ろ盾もあることですし」。不満顔で訴える五平に対して「ここでいいさ、どうせいち時のことだ。一年、いや半年もしたら、このヤミ市から抜け出してみせるぜ」と、武蔵は請け合わない。
「それにだ、毎日の荷の受け入れがあるんだぞ。人が多けりゃ邪魔になるじゃねえか」
 武蔵のひと言ひと言が五平には重く感じられる。
まったく武さんにゃかなわねえ。てめえのあほさ加減がいやになるぜ
「はいい、らっしゃいませえぇ!」。「はあい、品物たっぷりありますよお!」。「いらっしゃいませえ……」。大声を張り上げるふたりにはさまれて、蚊の鳴くような小声が聞こえる。
「おい、もっと大声で呼び込め。お客が来ねえと、俺たちの給料が出ねえぞ」
「そうだ、そうだ。お前だけ、なしだぞ」
 開店当日、閑古鳥の鳴く状態だった。朝七時に店を開けて、昼どきのいまに至るまでに訪れた客は、わずか三人だった。のぞきこむ客が居るにはいたが、十個縛りの品物を一個で良いんだがと言ってはすぐに追い出されてしまった。
[素人さん、個人客、お断り!]の看板が、やはりのことに響いた。
「社長! もう、背に腹は代えられねえ。個人客もオーケーにしましょうや。ばら売りでもいいじゃねえですか」。五平が武蔵に泣きを入れた。社員たちも一斉に、五平に賛成した。
「いや、だめだ。卸で行くと決めたんだ。まあ待て。夕方には、どっと客が押し寄せるから」。「ですが、社長……」
「忘れたのか、五平。資金集めだと個人客に売ったときのことを。ちまちまやっても、大した稼ぎにゃならねえよ。明日も、どーん! と荷が入るんだぞ」。ですがねえ。ほんとに、来ますかねえ」
「おい、お前ら。昼飯を喰ったらな、この板を持って、辻々に立て。何も言わなくていい。聞かれたら、『本日開店です』って、小声で言え。小声だぞ、いいな。その方がな、効果あるんだ。内緒話に見えるようにな」。持たされた板切れには、矢印が書いてあるだけだった。怪訝そうな表情ながらも、社長命令だからと、頷いた。

(七)

 昼どきを過ぎて一時間、富士商会へ訪れる者は相変わらずいない。バラで売ってくれないかという申し出はあるものの、頑として武蔵は受け付けない。そしてその武蔵が突然に出かけてしまった。入り口から店の奥までうず高く積み上げられた商品を恨めしく見つめる事務員ががボソリとつぶやいた。
「どうすんのよ。まだ明日も入るのよね。お金は支払ってあるから良しとしても、問題は場所よね」
 聞き咎めた五平が、いらつき気味に声を荒げた。
「いいんだよ! これから客が来るんだよ。社長がそう言ってたじゃねえか!」
「その通りだよ、五平。軒先にも品物を並べろ、箱のままでいいから。もっと、もっとだよ。そろそろ客が来るぞ。度肝を抜いてやれえ!」
「えええ? いまからですかい? また仕舞い込むことになるんじゃ…。」
 半信半疑の五平だったが、クスクスと笑う事務員にバツの悪そうな表情を見せつつも、武蔵が新たに集めてきたミカン箱を道路にせり出して置きその上に並べた。隣に店を構える金物類を扱っている安西という男が苦笑いしている。
「あんたん所にも少しは客が流れるぜ。内は大口しか扱わねえからよ。チマチマ商売しな」
 武蔵が皮肉を込めて悪態をついた。
「えっ? 来たよ、来たよ。ほんとに、来たよ」
 それぞれ三人に先導されて、どっと人が押し寄せてきた。五平の素っ頓狂な声に、事務員が店から飛び出してきた。
「大丈夫、大丈夫だよ! 今日なくなっても、明日また入るよ! 明後日も、入るよ!」
 武蔵の勝ち誇った声が、ひびき渡った。どこから品物を調達してきたのか、大量の物資をかかえもつ富士商会は、またたく間に一大勢力となった。

(八)

 頻繁に進駐軍のジープが富士商会の前に止まり、五平と親しげに話す進駐軍の通訳であるトーマス・カトウ軍曹が目撃された。たちまちの内に、富士商会で販売される商品がGHQ経由らしいという噂が広まり、盗品じゃないのかという口さがない陰口がピタリと収まった。一時は官憲の手が入るという情報がまことしやかに流れていたが、商売敵による嫌がらせと言うことですぐに収まった。
 トーマス軍曹は、進駐軍の高官達のオンリーと称された現地妻探しを極秘に命令されていた。それを五平が請け負い、その見返りとして進駐軍からの物資調達に道が開かれた。さらには、本国に戻る米兵の土産物を一手に販売する権利を得た。
 オンリー探しにあたっては、公然とは出来ない。そこで「メイドさん募集!」と新聞広告を出した。五平の元には、若い女性が引きも切らず訪れた。しかし難点の一つに、会話がある。日常の英会話に、通訳を使うわけにはいかない。ラジオで放送された[英語会話]が人気を博したが、一朝一夕で為るものでもない。必然、高学歴の女性を選ぶことになった。しかし高学歴の女性は、プライドが高い。高官達のおメガネにかない、運良く橋渡しが出来たとしても、また別の問題が起きてくる。相性と言う厄介な問題が、時として発生する。三日と持たず、追い出されてしまう女性もいた。またメイドとして応募したものの、実態がオンリーだと知って、逃げ出す女性もいた。
 街娼婦で済ませる高官もいるが、大半は嫌がる。体面のこともあるが、なによりも性病という問題がある。しかし女性たちもおいそれとはそこまで踏み込めない。五平はトラブル処理に走り回る方が、物資調達の交渉よりもはるかに難しくなった。しかしどう説得するのか、逃げ出した女性を五平がつれ戻してくる。将校たちにとって、五平の存在価値が必然高くなった。そしてそのことは、物資調達を有利なものとできた。

 毎晩の晩酌ではカストリを口にしていたが「ウィスキーでも空けましょうや」と言う五平に対し「商売物には手を出せねえよ」と、武蔵は手厳しく答えた。「うまいもんを食うと、ぜいたく癖がつく。それなりになりゃいいが、まだまだ俺たちにはだめだ」。これには五平も、なるほどと頷くほかない。やっぱ、このひとについていくと決めたのは、まちがっちゃいねえ
「五平よ。どう口説いてくるんだ? 後学のために、教えてくれ」
「なにも特別のことはありません。話を聞いてやるだけです。でね、一緒に泣くんです。真剣に、泣くんです、うそ泣きじゃだめです。女ってのは、鋭いですよ。女衒を生業にしていたお陰で、女心というものが分かりますからね。それにね、あたしは社長のように二枚目じゃありませんから。女もね、腹の内を話し易いんです。ひと通り話を聞いてやって、泣き疲れたころに言うんですよ。『親孝行しなくっちゃな』と。これで、大抵の女は戻ります。女衒をやってたことが、ここで役に立ちましたよ。もっともね、中にはいますがね。情のこわい、通じない女も。そんな女には、『一年、辛抱しな! 大金が残るぜ』と、言ってやるんです」
「おい、おい。それで良いのか」
「そんなもの、良いんですよ。一年も続けりゃ、もう後はずるずるですよ。贅沢に慣れた女は、元に戻れません。へへ……」
「そりゃ、そうだろうな」

(九)

「しかしね、社長。最近、アメリカさんのご希望が変わってきました。『ことばが通じなくてもいいから、グラマラスな女にしろ!』ってね。どうしたっていまの日本でグラマーな女というのは、少ないですからねえ。そこで、待ってるだけじやなく、打って出ようかと思うんですが」。「と言うと?」。
「でね、社長の出番なんです。どうもねえ。このあたしじゃ、声をかけても逃げられそうで。お願いしますよ、社長。社長と一緒なら、女も話に乗ってくるはずですから」
 五平は、社長である武蔵を立てる。仕入れに関しては、武蔵は不要である。取引は、全て五平が段取りを付けている。しかし、販売となるとそうはいかない。海千山千の、ブローカー相手である。なかには、愚連隊とつながりを持つ者もいる。とてものことに、さばけるものじゃない。騙されたり、脅し取られたりするのが関の山だ。そのたびに総元締めの元に駆けつけるわけにはいかない。謝礼という余分がつきまとうのだ。
 武蔵は、五平がいなくては物資の調達がうまく行かない。これほどの量は、望むべくもない。二人三脚でなくては、成り立たない。といって、欲得だけの繋がりではない二人だ。親兄弟以上の、つよい絆で結ばれている。そしてまたもっとも重要なことは、五平が武蔵にぞっこん惚れ込んでいることだった。そしてそんな親分肌の武蔵をしたうのは、ひとり五平だけではなく他の社員たちもであった。
 夜が明けると同時に仕事に入り、どっぷりと暮れるまで動き回る。男性社員は全員、店に寝泊りした。通路にミカン箱を並べて、その上に敷布団を二枚重ねする。「一枚で十分ですよ」。五平の進言には「若いからって過信はだめだ。疲れはしっかりととれ」と、受け付けない。自宅にもどるのは、月に一度あるかないかだった。女子事務員だけは、社長である武蔵が送迎した。と言っても、実のところは武蔵の愛人だった。しかし、こと仕事に関しては、愛人といえども容赦はなかった。他と同様、少しでも手をぬけば烈火のごとくに怒った。いや、近しいからこその烈しさがあった。
「儲けの三割は俺がもらう。五平にも三割だ。のこりの四割は、お前たちに分配してやる。平等に、だ。死に物ぐるいで働け。儲かればもうかるほど、お前たちの実入りも良くなる。ただし、サボる奴は即、辞めさせる!」
 設立から一年が経ったいまも、ひとつの儀式が続けられている。毎月末になると、机の上にうず高く札束を積み上げてみせた。そして、仕入れ用の金員を金庫に仕舞い込む。それから残った札束を、それぞれに振り分けた。
「みんな、良く頑張った。今月は、いつにも増して儲かったぞ。それぞれ壱千円の大台に乗ったな、ご苦労さんだった。聡子! お前は、今月減給だ。計算間違いを幾度となく、やった。三割減給する。その分を、山田・服部・竹田の三人にわたせ。いいな!」
 有無を言わせぬ武蔵のことば葉に、聡子はただ小さく頷くしかなかった。
「いいか! お前たちも、気を抜くなよ。ミスをしたら、減給だ。もちろん、俺にしろごへいにしろ、同じだ。いや、俺たちの場合は五割の減給だ。大きいからな、損失が」
「分かっております」。五平が答える。しかしそんな武蔵のことばも、彼ら三人の耳には届いていなかった。毎月末の恒例のことではあるのだが、目の前に積み上げられた札束に、目をうばわれていた。

(十)

 そして今日だ。きのうの雨がうそのように晴れあがった日、五平が武蔵に注進した。
「社長。今夜あたり、銀座でもぶらつきませんか。ほら、先日お話しました件ですよ。そろそろ、催促が入りそうなんですが」
「うん? あゝ、あのことか。五平よ、今夜じゃないとだめか? 少し先に…そうだな、来週じゃだめか? どうも最近、疲れやすいんだ。あのやぶ医者がな、『少し休息をとりなさい』ってな。だから、今夜は休肝日にしようかと、思ってるんだが」。武蔵の弱気な言に、五平はおどろいた。どれほどの危機におちいっても、なにくそ! と立ち向かった武蔵の言とは思えなかった。五平の、いつもの心配ぐせがむくむくと頭をもたげた。
よほどのことだな。いま、武さんに倒れられるわけにはいかんぞ
 新橋闇市から抜け出して、日本橋に店を構えてから三ヶ月ほどだ。社員も今では十人の余を数えるまでに膨れあがっている。これから、という時だ。
「分かりました、社長。それじゃ、来週にしましょうか」
「でな、五平。今夜は、あの三人を慰労してやってくれ。頑張っているようだからな」
「分かりました、そうしましょう」
「それと竹田のことだ。毎月、ピーピー言ってるみたいじゃないか。時々二人に、昼飯を奢られてるみたいだしな。家族問題じゃないか、と俺は思ってるんだが」
「竹田のこと、ご存知でしたか。気にはしてたんですが、つい忙しさにかまけまして…」
「聡子に話しておくから、軍資金はたっぷりと持って行ってくれ。飛びっきりの所へでも、連れて行ってやれ。金の使い道に困ってるだろう、あいつ等は。俺たちと違ってな」
 三人を引っ張り出したとき、どっぷりと日が暮れていた。伝票整理に追われてしまい、五平自身の仕事が片付かなかった。時計を見ると、七時ちかくになっていた。
「五平、いい加減に切り上げろよ」。武蔵に声をかけられてから、一時間ちかく経っていた。山田、服部のふたりは、これからのことをいろいろと詮索しあっては、ニタニタと笑っている。しかし竹田だけは、なにやら電話口で深刻そうな表情をしていた。
「済まなかったな、遅くなって。それじゃ、行くか?」
「はいっ! お供します」。二人は大声で応えながら、すぐに立ち上がった。竹田も慌てて受話器を置くと、席を立った。そして五平の前に、「これ、電話代です…」と、小銭を置いた。
「そんなもの、構わんさ。今まで、待たせてしまったんだから」。「いえ。私用の電話ですから…」と、竹田もゆずらない。「公私混同はさけてくれ」。細かなことにまで目をひからせる聡子のことばを実践する竹田だった。
「律儀なやつだな、お前は。さっ、それじゃ行くぞ!」