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| (六) |
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| 一月二日です。 いよいよ物語りも佳境に入りますので。今日は長崎のオランダ商館に行ってみようかと思っているんですが、その前にどうしても立ち寄りたい場所があるんです。虹ノ松原海水浴場、佐賀県の唐津湾なんですけどね。小学二年生ぐらいじゃないかと思うんですが。夏休みの間中、その海水浴場に滞在しました。といって、別荘があるとかそういったことじゃないですよ。海の家の一角を借り切ってのことです。両親はそこを拠点にして、あちこちに商売で出かけていました。実はこれからお話しするのは、その折のことだったかどうかはっきりしません。場所もどこだったかまったくわからない、ある学校でのことです。 最近では聞きませんが、わたしが中学を卒業する前にある講座が開かれました。マナー教室といったものでした。卒業後に社会人としてスタートする就職組だけを対象としたものです。要するに、洋食を食べるときのマナーですよ。なにせ外食をするといっても、近所の定食屋さんかうどん屋さん。もしくは、百貨店(当時はデパートなんてしゃれた横文字は使われていなかったはずです)の食堂ですわ。どういう風の吹きまわしなのか、社会人としてのこころ構えなんかを講義してもらえるわけです。親ごころといったところからなのか、それとも学校の恥さらしにならないようにといったところなのか――まだ十四か十五歳のガキですからねえ、実のところは。 その話ではなくて、もっと以前のお話です。昭和二十年代後半ですから、ほとんどの子どもたちは中学卒業と同時に社会人だと思います。高校進学する子どもは、ひと握りじゃなかったんですかねえ。現代の大学進学が、あのころの高校進学だったんじゃないでしょうか。社会人としてのマナーとして、お化粧の仕方を身につける。その一翼を、母が担っていたというわけでして。 母は、「ミス伊万里だったんだぞ」と父から聞かされたんですが、実家は兵庫県の姫路市なんですよ。そういうことってあるんですかね? 選出時に伊万里市に居住していたんでしょうか。まあいいや。美人であったことは間違いありませんから。面長で切れ長の目をもっていました。そしてスッと鼻筋がとおっている、瓜実顔というんですかね。着物が似合うと、よく言われていました。 昭和三十三年でした。わたし、九歳です。小学三年生です。ミスターこと長嶋茂雄さんがプロデビューされた年です。母を講師とした「お化粧教室」なる企画で、あちこち田舎をまわりました。夏休みに女子中学生を集めて、お化粧の仕方を教えるといったものです。九州の片田舎のことですから、ほっぺの赤い純朴な田舎娘ばかりです。もうねえ、大騒ぎのはずです。うれし恥ずかし、そうじゃないですかね。そこにわたしも連れられていったんです。と、記憶しています。まあねえ、九歳の子どもです。じっとしていろというのが無理な話でしょ? そこでとんでもないことを、しでかしたんです。 教室ですから、教壇があります。本来は中央に教卓があるのですが、たしか横にずらしていたと思います。お化粧をする女子生徒を、中央にすえた椅子に座らせてのことだったはずですから。当然みんなの注目を集めています。まず化粧水で肌に水分を与えることからはじまり、乳液でもって保湿のために水分を閉じこめます。それからいよいよ、本番のお化粧に入ります。このころには、みんな目を大きく見開いて、ランランと輝かせているんじゃないでしょうか。なにしろ、プロと呼べる母のお化粧術ですから。ただ単に口紅を塗るだけのものとはちがいますからね。 次に、白粉(いまはファンデーションと称しているんですかね)です。「パフ、パフ」とやわらかく叩くからパフという名前がついた? そのパフで白粉をなじませていました。そして最後に、目ですね。ここがいちばんのキモだったようで、饒舌だった母が口をとざして真剣モードに入ります。ここです、このときです。女子生徒たちが、突然に大笑いです。なにごとかと手をとめた母の目にとびこんだのが、……わたしのいたずらです。大河内伝次郎張りの、丹下左膳の登場なんです。 ご存じない? 「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」(姓は丹下、名は左膳)。覚えてみえるでしょ? 右目だったか左目だったかに傷をもつ隻眼の剣士ですがね。あれをね、やっちゃったんですよ。口紅でななめの線を描いて、突然に教卓の陰から飛びでして、さっきのセリフを大声で叫んだんです。 拍手大喝采でしたよ。もっとも、母にはこっぴどく叱られられましたが。でも、それが評判を呼んだらしく、そのあと何ヶ所かにつれられました。ただ、なんせ幼児みたいなもんです。飽きちゃいましてね、すぐにもやめた気がします。 海水浴場に着きました。ええっ! ここが? まるで様変わりです。防風林の間を国道が走っているのですが、そこは記憶と同じです。ちがうのは、海岸までの距離です。まるで狭い。いくら幼児のころだったから大きく感じたとしても、こんなに小っちゃな砂浜じゃなかったのに。第一、海の家がないんです。いや、それを設置するスペースがないんです。砂浜にあった散髪屋がない! 野球中継で大騒ぎしていた大人たちがいたのに。八百屋がないと、スイカが買えないじゃないか! それにそれに、あの岩だけの小島はどこ? トンボロ現象で、干潮時に小島までの道が生まれたはずです。ここじゃなかったのか、でもここしか考えられないんです。兄がそう言ったのだから。兄が間違えるはずはないんです。 話をつづけましょう。 病院、いや診療所だったでしょうか。母が入院していた病室の窓から、大海原が見わたせたんです。ガタガタと音を立たせて窓を開けると、あの海の香りが入ってきます。お盆の前後だったと思うのですが、母が入院したのは。といっても、わたしには知らされていませんでした。あのころは父は早朝から出かけていましたし、母もまた「お化粧教室」でもって連日出かけていました。ですので、当たり前のことと思っていたのです。ただひとつ、いつもはいる兄がいないことをのぞけば。 いつもいつも金魚のフンのように後を追いかけまわしていたんです、兄の後ろを。うっとおしかったと思いますよ、実のところは。父親からの厳命なので、やむなく、仕方なくといったところでしょう。そしてその日に、わたしにとっては生き死にに関わる大事件がおきたのです。いつものようにトンボロ現象によって浜辺と岩だけの小島とが陸つづきとなり、歩いて渡ったのです。 そこには兄と地元の少年たちとで、よく出かけていました。満潮時にはけっこうな深さとなる場所で、魚がたくさんいるわけです。わたし以外の少年たちは、その海に次々に飛びこんでいきます。そこにひとりで行ったわけです。そのときにその場所で、どんな遊びをしたのか、まったく覚えていません。ただ帰る段になると、トンボロ現象が終わっていたんです。 浜辺につながる道が海に沈んでいるんです。絶海の孤島と化すわけですよ。いや実際は違いますよ。距離的には、おそらく百メートルもなかったでしょうから。ですがあのときのわたしには、絶望的な距離なわけです。遠くに、とにかく遠くに浜があるわけです。 ですが結果としてわたしがいま、こうやってお話しをできているわけですから、生還はできたんですがね。ただその戻り方がね、ちょっと……。詳しいことは、また改めてスピンオフ作品「せからしか!」にてでも。 翌日に、父には内緒で母のもとにいきました。前夜しこたま叱られた兄が、もうおまえの相手はしてられんとばかりに、母親に投げたわけです。打ち沈んだ表情を見せる母親にたいして「かあちゃん、ズルイぞ。じぶんだけたべて!」と、部屋にはいるなり、なじりました。甘いにおいが充満していたのです。なつかしいにおいでしたが、すぐにはそれが何なのかを思い出すことはできませんでした。キョロキョロと部屋をながめますが、わかりません。そのにおいをかもし出すお花があるわけでもありませんし、果物があるわけでもありません。 そこは殺風景な部屋で、真っ白な壁が印象的でした。ベッドの横に椅子がひとつと、小さな正方形の台があるだけです。そしてその台の上にあるのは、吸い飲みだけです。くすりを飲むときに使うのでしょうが、ひょっとしてその水がにおいの正体かと口にしてみました。ですがやはりただの水で、無味無臭そのものでした。「ぼくにもたべさせてよ、のませてよ」。せがんだ気がします。 そのときに看護婦さんがやってきて「お母さん、あした手術なの。こまらせないでね」と、わたしに言います。なんのことか分からぬわたしは「しじつってなあに?」と、ベッドに座っている母親に抱きつこうとしました。 「だめ、だめ!」。看護婦さんに、強い口調でたしなめられました。「ボクちゃんは強い子、男の子でしょ」。母もまた、わたしを拒否したのです。その部屋にはなにものも寄せ付けない潔さがあって、そのくせ寂寥感もただよっていた気がします。 夏休みが明日には終わるというのに、母が戻りません。まだ病院かと思い、行きたいと兄に告げても首をたてにふりません。父には内緒のことですので、話すわけにもいきません。ひとりでと考えもしますが、どこをどう歩いたのか、わからないのです。兄に連れられて歩いたがために、あちこちとよそ見ばかりをしてしまい、道順がさっぱりです。なんどか右に左にと道を曲がったことは覚えているのですが、ひとりでは迷子になるのが関の山です。 結局のところ、新学期がはじまって二日目にもどってきました。後になってわかったのですが、家出をしていたのです。それからです、父のわたしに対する猫かわいがりがはじまったのは。そして母との思い出が、ぷっつりとなくなってしまったのは。 疲れました、今日は。あちこち歩きまわりすぎたかもしれません。、変なの? 別府での地獄巡りやら吉野ヶ里遺跡公園なんかも、結構な距離を歩いたんですよね。今日の方が、距離からすると少ないです。きのうの疲れが残ってる? 否定はしませんが、でもねえ。たぶん、諸々のことを思い出すうちに、こころが疲れたんですよ。ということで、早めにホテルに入ることに。わたしの生地である伊万里市のビジネスホテルです。 基本的に宿はビジネスホテルと決めています。なんといっても安いですから。それに昔とちがって、ホテル側もビジネス客のみとは考えていませんからね。あれは東京でしたかね、大挙した外国人グループと鉢合わせしましたから。朝の食事どきだったんですが、どっと入ってきて大変でした。どちらかといえば小さめの場所でしてね、テーブル席が、十いや十五ぐらいですかね。二十テーブルはなかったと思います。さらには、半分近くが二人用でしてね。大体がおひとりさまになっちゃうじゃないですか。 で、半分近くは埋まっていました。そこに三十人近くのグループが入ってきたわけです。もう、うるさいことうるさいこと。ホテル側のスタッフもことばが分からず、なかば右往左往状態でした。しかしさすがは日本人です。おひとりさまたちが、「ここ、よろしいてすか」と声をかけあって席を空けました。わたしですか? 当然ながら「どうぞ、どうぞ」ですよ。でもねえ、ひと言ほしかったですねえ。「シェイシェイ」のことばぐらいは。あ、分かりました? グループの国籍が。 伊万里のホテルに戻りましょう。無性にちゃんぽんが食べたくなりまして、ホテルの真向かいにあった居酒屋風のレストランをのぞいたのですが、客待ち状態でした。そうなんです、またまた外国人さんたちのグループがいまして。国籍は判然としませんがね、やめました。店内は至って静かだったんですが、わたし基本的に待つのが嫌いでして。せっかちではないんですが、ボーッとしているのが苦手なんです。文庫本でも持ってくればよかったと、正直のところ後悔しました。 すぐそばにスーパーがありましたので、そこで弁当やら夜食用の菓子パンを買いこみました。アイスも、と思ったのですが、溶けちゃうでしょうからあきらめました。毎日ほおばっているわたしには、地獄の三日間です。「明日には絶対にソフトクリームを食べてやる!」。そう自分に宣言しました。七十歳になった現在、とにかく自分を甘やかして甘やかして、許されるかぎりのわがままを通させているんです。 思春期に注がれなかった、と感じている家族愛を、自分で自分にたっぷりとふり注いでいるんです。宿をビジネスホテルにしているのも、できるだけマイカーによる移動にしているのも、節約のためです。疲れますよ、そりゃ。東京のような大都会に出向く場合には夜行の高速バスを使いますしね。新幹線等を使っての移動のほうが、そりゃ楽ですよ。とにかく移動やら休息に関しては、ケチケチです。収入が少ないですから、本来はそんなには旅行なんて出かけられません。ですので日々の生計費を節約して、旅行費用に充てているわけです。「お大尽はちがうねえ」。会社の同僚やらおとなりさんたちから言われますが「いま楽しまなくちゃ、いつ楽しむの?」と、ことばを返しています。 刹那主義? かもしれませんね。ですが「あとどれくらい動ける?」と、よく自問自答しているんです。旅先で倒れたら? という心配ですか。家族旅行? いえいえそれはないです。さらには家族に看とられてなんてことはないでしよう。わたしの大好きな、歌手であり役者さんが、先日亡くなられたとの報道がありました。そして娘さんたちのことばに「お父さんの娘で良かった」というコメントを聞きました。羨ましいかぎりです、最大限の褒めことばじゃないでしょうか。考えたくはありませんが、孤独死ということばも覚悟しています。まあ、できるだけご近所に迷惑はかけないようにしようとは考えていますが。 翌日は、六時半ごろにめざめました。もうひと眠りとベッドから離れませんでしたが、テレビを漫然と見ていました。ですが気が付くと八時半です、あわてて起きました。どうやら、いつの間にか眠ってしまったようです。至福の時間です、これが。眠りたいときに眠り、起きたいときに起きる。これですよ。「あるがままに」そして「水が流れるように」時間を自分でコントロールする。これが、最高の贅沢です。なにものにも縛られず、己の欲するがままに過ごす、ですよ。 ではでは、伊万里小学校へとまいりましょうか。ナビによると、車で七分程度の位置となっています。高台にあるようです、と言うとおかしな風に聞こえるでしょうが、まるで覚えていないんです。なにせ、その当時にどこを住処としていたのか、なんの記録も記憶もありませんから。 ただ、一軒家だったとしか、覚えていないのです。お隣やらお向かいのことを、まるで覚えていないのです。一旦離れた伊万里市です。この借家は、わたしの生家ではありません。 伊万里駅から北に延びる伊万里大通りを走ると、伊万里川があります。相生橋の欄干端にある親柱に、少しくすんでいますが本来は派手々々しい彩色の伊万里焼の陶器ががすえられています。橋を渡りさらに進むと、右手に時計台がありました。伊万里市立伊万里小学校の看板です。平成元年度卒業記念、とあります。バブリーですねえ、時計台とは。さあ、この坂を上がると学校に着くようです。 校門が開いていたので、敷地内の駐車場に車を停めて散策しました。門の正面に体育館があり、横の庭には大きな木が植えられていました。種類はわかりませんが、大きく枝をのばしてりっぱでした。葉っぱは少しですわ。青々(緑々といきたいですが)とはいきませんて。冬ですからねえ、すきまだらけです。木造だった校舎も、当たり前の話ですが、立派なコンクリートです。 それにしても、伊万里小は鷹揚です。他の学校の正門はぴったりと閉じられて、中に入ることはできませんでした。ああそういえば、校庭でサッカーに興じている子どもたちが数人いましたね。手をふってみたのですが、わたしには気づいてくれませんでした。 ああなんということでしょう。大きなヒントがそこにあるのに、まったく気づかずです。車から降りてコンクリートの校舎をながめても、正直、感慨の念はわきません。もう六十年以上の年月が流れて、木造だったはずの校舎が立派なコンクリート製に建て替えられているのですからねえ。まったく、見覚えがありません。「こんなに立派な建物になったのか……」。これは、これまでにまわったすべての小学校に共通した感情です。少しずつ歩を進めて行く。 「えっ、えっ、ええぇぇぇ!」 「うわっ! うわあ! 見つけた! 運動場が、校舎の一段下になってるう!」 思わず声を上げました。そうそう、三段の階段があったよ。昼休みなんか一斉に運動場におりるんですが、この階段が危ないんです。将棋倒しという、どこかの花火大会かで大事故があったでしょう? いえいえ、わたしの記憶の中では伊万里小ではありませんでした。六年生ですかね、しっかりと交通整理員然として見張っていましたから。 そうか、伊万里小学校だったんだあ。転校生として出席したはじめの日に、親父がクラス全員に鉛筆をくばりながら「仲良くしてやってください」と声かけをしてくれたのは、伊万里小学校だったんだ。親父の、精一杯の愛情表現なんだよな。物品を買い与えることでしか、愛情表現ができないという、親父の哀しい性(さが)なんだよな。そしてそれは、わたしに受けつがれているかも? そうだった、かけっこのときだ。背が高くて足が長かったわたしは(自慢でもなんでもありませんから)「足がはやいはずだ」と決めつけられて、恥を……かかなかった。少しずつ離されたわたしは、「足がつった」と言いわけをしちゃって。そのまま保健室につれていかれたけれども、バレてたよな、多分。 そうだ、もうひとつ覚えてる。前の席にすわっていた男子生徒が、急に吐き気をもよおしたんだ。で、床にゲロを吐いちゃったんだけど、周りのみんなは「きたねえ!」と離れたけれども、優等生ぶっていたわたしは、そのゲロを片付けたんですよ。それに対する周りの反応がどうだったかは、まるで記憶にないけれども。しかし、そうだっんだ、あれは伊万里小学校だったんだ。 おお、どんどん記憶が蘇ってくる。ふたりの女子と仲よくなったよな。もうひとりの男子とともに、学校に着くやいなや、ふたりの女子にくすぐり攻撃をかけられた。教室中を逃げまわった記憶がある。で、そのうちのひとりの女子と放送委員になって、昼休み(給食どきも)を小いさな放送用のブースに入って過ごすことになった。毎日ではなく週一回――多分五クラスあったせいだと思うんだけど――だったはずだ。クラスに戻るとみんなから冷やかされて、おたがいに気まずい思いになった気がする。で、そのあとからツンケンな態度をとられたんだよ。それまではなんの意識もしていなかったのに、変な雰囲気になっちゃったな。 ピッカピッカの一年生として入学したのは、どこだったんだろう。青菜に塩状態の脳みそへ活を入れるべく、アイスクリームを口にしたとたんに、ひらめいた。いまになって、やっと思いだした。屋台のラーメンだ。大分駅だと思っていたのは、佐伯駅だったんだ。大分県の佐伯市だったんだ。辺りが暗く街灯の付いていた道路わき――駅舎近くの屋台でした。その屋台でラーメンをすすったような、すすってないような。親父に食べさせてもらったような、やっぱり自分で食べたような。ただ不思議なことに、その場には母も兄もいないんです。父とわたしのふたりだけでして。おかしいですよ、これは。実のところは、いたと思います、というよりいたはずですわ。 とりあえず検索してみました。佐伯小学校と、一番に出てきました。他にも勿論たくさんの小学校があります。ありますが、これといって決め手になるような建物ではないのです。当たり前ですか、もう六十年ほど経っているのですから。他の小学校にしても、昔の面影などどこにもありませんでしたしね。その前にとにかく何も覚えてないんです。 そうか、佐伯市だったのか。計画を立てるときには、まるで思い出せなかった土地名が、いまになって出てくるなんて。まあたしかに、印象の薄い街でした。それよりもなによりも、通学した記憶がまるでないんです。これは大問題ですぞ、ほんとに。頭の中の引き出しをあちこち開けてみますが、なかなかに。ただ、片っ端から開けていくうちに、なにやらうっすらと浮かんできたことが。 そうだ! 板塀があった。突然にすみません。一番端っこの引き出しを開けたら「ごめんなさい」って、小っちゃな声がきこえました。 「おにいちゃんやらおねえちゃんたちがはしりまわってたの、おぼえてない?」 高さはどのくらいだったか。ピョンピョンと跳び上がって、それでやっと運動場が見えたんです。そう、そうなんです。渡り廊下でした、たしかに。半間ほどの高さだと思います。ピョンピョン跳ぶのに疲れて、下のすき間からのぞきこんだような気がします。急に立ち止まったもんですから、後ろの子に蹴飛ばされたことも思いだしました。「泣いたの?」。いやあ、それは覚えてないですが、たぶん泣いたでしょうね。でもって、わたしを蹴飛ばした子も泣いたんじゃないですかねえ。みんなして、わあわあと泣いたと思いますよ。ああいうのって、どうしてだか伝播というか伝染しちゃうでしょ? それだけなんです、あとは、なーんにも思いだせません。 いやいや待てまて。体育館の外壁に水飲み場があって、その横に凹んだ箇所があって、腰掛けられるスペースがあった。そこで押しくらまんじゅうをした記憶がある。でも一年生だったんだ、他の学年が混ぜてくれただろうか。 伊万里小を出てから、まだ初詣でに出かけていないことを思い出しました。いつもはあちこち大きな有名神社に出かけています。小晦日の三十日に出かけて一泊して、大晦日に参拝です。昨年は、豊川稲荷にお邪魔しました。一年を無事に過ごせたことに感謝の意を表しました。そして新年二日に、岐阜市の金(こがね)神社を参拝です。その名のとおりに商売繁盛の神さまですが、慈悲深き母の神さまとしても鎮座されているんです。 今回は小晦日に出発していますが、大晦日も元旦にどこの神社にも参拝していません。大丈夫です、神さまは意地悪をなさいません。一月末日での初詣でも許していただけるということのようですから。電話で宮司さんにお聞きしたことですから間違いありません。ということで、伊万里神社に参拝させていただきます。おそらくは幼児のときに参拝していると思うのですよ。 伊万里川沿いに東へ走ります。どうしてなのか、親不孝通りの幸橋近くに、伊万里神社はありました。ここから上り坂になっています。ここを北上しつづけると、唐津市に入ります。唐津といえば、そうなんです。十一月初旬に開催される「唐津くんち」が有名ですね。勇壮華麗な十四台のヤマによる曳山巡行は、圧巻ですよね。岸和田のだんじり祭りに負けていないぐらいです。またまた余計なことでした。 幸橋を渡ってすぐの参道に入り、鳥居をくぐり太鼓橋(小っちゃなものですけどね)を渡り、竜宮の門から入ります。伊萬里神社の社殿が山の頂上にあるために参道は急な階段がつづき、ハアハアと息を切らしながら手すりにつかまって登段です。小さな神殿でしたが、伊万里の鬼門鎮護として鎮座されています。 「身の安全、地域の安全、開運、縁結び、勝負事に力を発揮される神々をお祀りしております」。立て看板にそうありました。多くの木々に囲まれた、なんというか、静寂さとともに霊験もたしかに感じられました。ひんやりとした空気のせいだったのでしょうかね。作法通りの礼拝を行って、帰りもしっかりと手すりにつかまって降りました。 路肩に止めていた車に戻ろうと横断歩道を渡っているときに、石垣の上にある建物の壁に鳥の絵を見つけました。なんて言うんですかね、「虫の知らせ」は良くないことを感じることですから、違うな。胸騒ぎ? なんだか気持ちがざわつくんですよ。なんとなんと保育園がありました。わたしがですね、ご幼少のみぎりにですね、たぶん通ったであろう、保育園なんですよ。まったく予想していなかったことでしたから、もう感激! でした。ただ、ここに通っていたであろう時期に、あの忌まわしい交通事故に遭ったんですねえ。 どういうのでしょうね、ほんとに。普通ならば来た道を帰るでしょうに。それが吸い込まれるように橋を渡って左に曲がり、わざわざ川沿いのせまい道に入ったんですよ。そうしたら、これが大当たり! 思いもしていなかった、あの、あの病院を見つけました。屋上に上がって眼下の伊万里川を見た、あの病院です。母親にお茶断ちをさせ、あの酒好きの父には酒断ちをさせた大事故から救ってもらった、あの病院です。これは間違いありません、絶対です。これって、啓示――わたしのルーツ探しに対する、神さまからの贈りもののような気がするんですが――でしょうか。 あまりこういうことばは使いたくないのですが、正真正銘の「九死に一生を得た」という事例です。幼稚園の年少だったときに遭った大事故です。数枚の十円玉をにぎりしめて向かい側にある洋菓子店に駆け出したわたしです。その洋菓子店は、カステラの切れ端ばかりが入った袋を、数十円かで分けてくれるお店なんです。すぐに売り切れちゃいます。 お店に「キレハシ袋できました」という看板を見たわたしは、それこそ脱兎のごとくに飛び出したんです。焦っていたこともあり、道の小さな穴ポコにつまづいてしまいました。まるで身体に力が入らずに転んじゃったんです。そこに運わるくオート三輪車が走ってきまして、ドン! でした。 あっという間のことでした。大きなブレーキ音と衝突音に気づいた母が、店から飛びだしてきました。そして血まみれになっているわたしを抱きかかえて、あの病院に向かって走り出したんです。「きゅーきゅーしゃ、キューキューシャ!」。そんな叫び声をあげながら走ります。駅前の大通りを右にまわると、商店街に入ります。買い物客が行きかう中を「どいて、どいて!」と、いえ、ことばにならない擬音のような声をあげて走りぬけます。 血だらけの幼児をかかえてのその様は、異様なものでした。キャーと悲鳴が発せられています。母を知る人からは「どうしたの?」「としちゃんなの?」と声がかけられますが、もちろん母はなにも答えません。ただただ「がんばって、がんばって」と、わたしになのかそれとも母自身になのか、何度も何度もつぶやくだけです。大粒のなみだがあふれています。ひょっとしたら、そのなみだのせいで前が見えていないかもしれません。あやうく人にぶつかりそうなることも度々でした。 どのくらいのあいだ入院していたのかはわかりません。一度、通っていた幼稚園の先生がお見舞いにきてくれたらしいです。 包帯でグルグル巻きにされているわたしを見て、おいおいと泣いてくださったとのことです。ですがわたしは眠っていましたので、ことばを交わすことはありませんでした。もっとも起きていたとしても、満足な会話はできなかったと思いますよ。というのも、頭蓋骨が真っ二つに割れていたとのことで、前歯の二つをはりがねで固定されていたと聞きましたから。 やっと包帯もとれて前歯のはりがねも外され、なんとか声を出すことができるようになったときのことです。病室で母に事故の話をしました。嫌がる母でしたが、「ボク、鼻からジゴがでてたよね。いっぱい、たくさん」というわたしのことばに血相を変えて「だれに聞いたの!」と叱られました。そのあまりの剣幕に、わたしの目からどっとなみだがあふれ出て「ごめんなさい、ごめんなさい」としゃくり上げたんです。すぐさま母もキツイ言い方だったと気づき、ほほのなみだを拭いてくれながらあやまってくれました。 「だれにきいたの、そんなこと。そんなことはなかったわよ」。今度は、やさしく言って聞かせるような口調でしたが、わたしは見ていたんです。母は化粧パックの途中だったらしく、目の下と鼻の横、そして口元にすこしパックが残っていたのを覚えていました。パックは、なにかの粉に卵の白身だったかを混ぜてつくっていたような気がします。白身ではなく黄身だったかもしれませんが。 ジゴですか? 鼻血のなかに、イチゴのつぶつぶが混ざっているようなものですが。ご存じないですか? 複数の辞書で調べてみましたがありませんでした。検索をかけてみましたが、わたしの言うことばはありませんね。でてきませんわ。変ですねえ、おかしいですねえ。方言として一部地方で使われているようですが。意味がまるで違うんですねえ。 そんなことより、そのときの母の出で立ちをお話ししますわ。半袖の開襟シャツの襟に、パックによる汚れ防止のためでしょうが手ぬぐいをかけていましたね。紅屋という屋号が入ってる日本手ぬぐいでした。 真っ白いシャツなのに、わたしから吹き出した血で真っ赤に染まっています。鼻から吹きでている血を止めたいのでしょうが、呼吸音がほとんどきこえない状態ではふさぐこともできなかったのでしょう。しっかりと頭を胸におしつけて、とにかく速く走るので精いっぱいだったようです。ですので、知り合いの声かけにも声を返しませんでした。 ああ、すみません。そんなことを、なぜわたしが知っていたのかをお話ししていませんでした。もう気が付かれているでしょうけれども、例のことですよ。わたしの魂が浮遊しながら、上から見ていたんです。信じてもらえなくても結構ですから、話だけはさせてくださいな。 母の後ろから、隣接する店のおじさんが付いてきています。なんていうのか、夏はかき氷やらソフトクリームやらを売っていて、冬になると焼きそばやらお好み焼きをつくってくれるお店なんです。 母がいないときや忙しいときには、その店に行って好きなものを食べています。そうそう、こんなことがありました。わたしと兄にソフトクリームをごちそうしてくれたのですが――このときの経験から、わたしのソフトボク、みつけたよ! 7クリーム好きがはじまったのでしょうね。ルーツというやつですわ――わたしのとんがりはすこしで、兄のとんがりはわたしの二倍も三倍もあるんです。 「ズルイ!」と口をとがらせたら、「お兄ちゃんのは、うしろがないんだよ」とごまかされました。多分、おなかをこわされてはという配慮だったんでしょうがね。 ああ、もうひとりいました。ちえちゃんです。店の売り子さんで、熊本だったっけから来ている十五、六歳の娘さんです。住み込みでいるんですが、父も母も実の娘のように大事にしています。ちえちゃんは、走るのが遅いです。どんどん離れていきます。まああんな風にドタバタと走っていては、だめでしょう。 商店街の一角に店を構えている父の弟さんがいます。呉服店の店先に、ハツカネズミを飼っておられます。くるくる回るゲージの中を、確かに走りつづけていましたよ。店先の喧噪を聞きつけられて、なにごとかと外に飛びだしてこられました。口を大きく開けて、それこそ目を剥いて「どうした! なにがあった!」と、怒鳴られています。そりゃそうでしょ。血だらけの幼児をかかえて、兄嫁が走っていくんですから。もちろん母はなにも言わずに走りつづけます。 隣のおじさんが立ち止まって、事の経緯を説明しているみたいです。ちえちゃんがやっとおじさんに追いついて、「もうだめ、おじさん行って」と頼んでいます。 ちょっと待ってください、わたしも頭がクラクラしてきました。母が泣き叫んでいます、でももう少しです。連絡が行っていたのでしょうね、看護婦さんたちがストレッチャーを出して玄関前で待っていてくれます。バトンタッチです、母から看護婦さんにわたしが渡されました。と同時に、わたしの記憶がとだえました。 |