(七)

 ずっとずっと、母を責めつづけてきました。あの海水浴場で入院をして、とうとう夏休みが終わっても戻らなかった母です。ああ、失礼しました。「戻らなかった」というのは言い過ぎでした。三学期がはじまると、いつのまにか元の生活に戻っていました。しかしそれからその後も毎年繰りかえされて、変な話ですが、慣れてしまいました。〝ああまたか……〟。恐ろしいことに、いつの間にかそう思うようになっていました。そしてとうとう、中学二年の冬に家をで出て、そのまま帰らなかった母です。
「かわいそうに……」ですか? すみません。そういった感情はわいてこなかったと思います。母がいなかった朝も、母が台所に立っていたであろうことも、イメージがないんです。覚えているのは、というより写真として残っていたのは、あるアパートでの写真が一枚だけです。えっと、中学に入っていましたね。新入生ですよ、たしか。その時代の写真のはずです。誰が撮っていたのでしょうかね、知りません。家族写真というものは、一枚もありません。というか、残っていないと言いましょうか。九州時代に引っ越しを繰り返したせいです。大体が一年で引っ越しています。
 行商も、結局はうまくいかないようでした。いわばその日暮らしのような状態で、収入も安定しなかったようです。近隣を一年も回れば店舗を抱えている方たちからの突き上げがあったのはではないでしょうか。。昔のよしみでの品物の調達も、やはり限界だったんでしようね。やはりキチンとした店を持たなければ、信用というものが得られなかったのだと思います。
 しかし天は見捨てるようなことはなさいませんでした。昔の商売がらみで、幸いなことに父の仕事が愛知県一宮市に見つかったと喜んでいました。新設する予定の営業所の所長として辣腕をふるってほしいという話が舞い込んだのだとか。ただ準備が間に合わず、翌年の四月からだということがネックになってしまったのです。
 結局のところ小学六年生の夏休みに九州を離れて、母の妹さんがいるということで岐阜へ来ました。とりあえずの仮住まいということで、木賃宿のひと間に落ちついたのです。そのような事態だということから、突然のことだったようです。なぜあわてて九州を離れなければならないのか、なぜに待てなかったのか、それはわたしにはわかりません。なにか決定的ななことがあった? たとえば、親戚関係からの借金問題とか……。

 岐阜と愛知はとなりあう県ですし、父の通勤にすこし時間がかかるだけのことと、決断したようです。しかしどういう事情なのか、一宮市の営業所新設の話が立ち消えとなり、父の目論見は外れてしまいました。まさかとは思いますが、詐欺話だったかも? という懸念が生まれたようです。他人さまを疑うということのない父でした。そもそも生家を失うきっかけとなったのも、借金の保証人になったからだという話を、わたしが成人になってから兄に聞かされました。
「今太閤だ」「伊万里の佐倉惣五郎だ」と持ち上げられて、面倒な事案に奔走していたという父です。そんな己を貶めるような人物がいようとは、まったくの想像外だったらしいのです。ですので、「運がなかった」、「先祖伝来の仏壇を処分した罰だ」とぼやいていたとのことです。
 母が手っとり早く収入を得るためにと、夜の世界に身を投じました。なぜか妹さんもまた、同様でした。父は昼間に仕事をし、夜は夜とて繁華街での皿洗いのバイトを入れました。母の迎えを兼ねてのことだったようです。父が、五十四歳、母は三十六歳の女盛りでした。ですので、わたしたち兄弟はふたりだけで夜を過ごすことになり、ますます母とのつながりが薄くなりました。
 そうそう、その頃の思い出のことです。父がよく映画館に連れて行ってくれました。覚えています。「シェラザード」、「ロードージム」といった、いわゆる大作と称される外国映画でした。ああ、「007・ゴールドフィンガー」もです。一発で、ショーン・コネリーの大ファンとなりました。彼主演の007シリーズは、全巻DVDで所有しています。そのときの映画はわたしだけで、兄は留守番――というより、中学三年生でしたから受験勉強に励んでいたのでしょう。その甲斐あって、岐阜県でも一番の進学校に入学できましたから。

 写真のことです。木賃宿から抜け出した翌年、昭和三十七年か三十八年あたりではないかと思いますが、一枚だけ記憶にあります。アパートの外壁に水道の蛇口があり、共同洗濯場になっていました。わたしの体感としては、昭和三十年代から電気洗濯機が一般普及しはじめたと思うのですが。残念ながら我が家で購入できたのは、ずーっと後のことだったと思います。
 その写真のことです。たらいと洗濯板を使っての洗濯を、母親がしているシーンです。くわえタバコをしていました。意図していなかったのでしょう、すこし煙が目にしみるといった風の少ししかめっ面の表情でした。声を掛けられたんでしょうね、左側を向いている写真です。
 よーく覚えています。そこには、あのミス伊万里だった女性はいません。九州の炭鉱地区の学校で、「たんげしゃぜんだぞ!」とイタズラしたおりの、綺麗な女性はいません。割烹着姿のおばさんです。そしてその写真だけが、唯一の母の思い出です。
 そのアパートの間取りは、ドアを開けると一畳ほどの入り口で、その半分が土間で上がり口となります。左のふすまを開けると、縦長の三畳の部屋がありました。そこがわたしと兄との部屋です。またふすまがあり、そこを開けると六畳の部屋です。で、その向こうが奥行きが一間ほどの土間になっており、そこが台所です。
 引っ越しのたびに諸々の物がなくなっていきまして、その当時にはタンスすらなかったです。ちゃぶ台ひとつじゃなかったですかね。両親とは時間差での、食事じゃなかったですかね。ですので、狭い我が家という感覚ではなく広い部屋でしたよ。六畳が、十畳にもそれ以上にも感じられましたからねえ。なにせ間借り的な住まいやらが多く、アパートに移ったりしてもベランダなしの部屋が多かった時代でしたから。トイレはもちろん、台所すら共同ということもありましたからねえ。
 ああそういえば、ひとつだけ母との思い出がありました。虫歯です。歯の痛みに耐えかねて、何度もなんども歯ブラシでゴシゴシ磨きました。そんなことで痛みが収まるはずもありません。ですが、なにかしていなければ耐えられません。泣きながら、涙を流しながらゴシゴシとやったものです。真夜中になって、やっと母が帰ってくると、「いたい、いたい」と訴えたはずです。ところが不思議なもので、母の胸にやさしく抱かれると、あれほどにひどかった痛みが嘘のように消えたのです。その夜は、母のふとんの中で眠ったとおもいます。

 もういちど言います。母の家出――あの海水浴場でのあとには、年中行事になってしまいました。夏と冬、毎年のように繰りかえされたものです。そしてそのたびに「母ちゃんがお前たちを捨てた」と、父になじられたものです。なぜ家出を繰りかえしたのか、本当のところは定かではありません。父が言うように、貧乏生活に耐えられなくなったのか、それとも他に因があるのか。母の口から聞かされないかぎり、わからないことでしょう。 ただひとついえることは、海水浴場近くの病院での入院――手術がきっかけだったことは間違いないことです。その手術がわたしの疑念どおりだとしたら、父に対する恨みごころを持ったであろう母が、哀れではあります。 
 しかし、しかしです。
 それは母と父の問題であり、わたしや兄はどうなるのか! という思いは消えません。いや、それは言えないか。それをいえば、ブーメランのようにわたしに返ってくるじゃないか、ということです。わたしもまた、子どもたちを、ことばにしたくはないが、見捨ててしまったのですから。
「けどね、子どもたちよ。信じておくれ、父は見捨てたんじゃないんだ。わたしが感じた――受けたこころの傷を、お前たちに味あわせたくなかったんだ。言い訳にもならないことは、重々に承知している。その罰は、甘んじてうける覚悟でいるから」
 母の家出以来、父はわたしにべったりで、そして母は離れていきました。それが母の意思だったのか、父の策略――母の家出を思いとどめさせるためだったのか、それはどうでもいい。事実は、わたしと兄を置いて、なんども繰りかえされた家出という事実があるということです。そして中学二年の十二月に、最後の家出があったということです。それが、わたしと母との絆が失われた日だということなんです。わたしを、母が見捨てた日だということなんです。
「母さん、ボクは、あなたに捨てられた。ボクは、あなたを恨みます」
 けれども……。
 母さん、ごめんなさい。いまになって気づかされた。あなたがわたしを見捨てたんじゃない。わたしが、あなたを捨てたんだった。
 あの警察署の、ただっ広い部屋の片隅で、仕切り板――現在ならパーテーションと呼ぶのでしょうが――に区切られた一角で、だるまストーブが赤々と燃えさかる傍に、あなたがいましたね。仕切り板は、上半分がすりガラスで下はベニヤ板だったか。背を丸めて座っている人影がみえました。ああ、かあちゃんだ。すぐにわかりました。
 中学三年生になる直前の、春三月のことでした。
 警察署のおじさんに連れられて大きな部屋――たっくさんの事務机が並べられていて、大人たちがうず高く積み上げられた紙類にはさまれて、頭をボリボリかいている人や神経質そうにタバコをすぱすぱ吸っている人やら、小声で話し合っている人やら、じっと天井を見上げている人やら――の、大人たちの傍を通りながら奥にある仕切り板の中に入ったとき、あなたはわたしを見つけて、まるでバネ仕掛けの人形のように、ピョンと椅子から立ち上がったんです。ええええ、よーく覚えていますよ。
 みるみる目に涙を浮かべて、わたしのもとにかけ寄り抱きしめようとしてきました。けれどもわたしは、それを拒絶した。さっと体を交わして、あなたに肩透かしを食らわせた。冗談じゃない、いまさら母親面するのはやめてくれ、とばかりに冷たく言い放った。あのときは、ほんとにほんとに、怒っていたんだから。
「あんた、だれ?」
 呆然と立ちつくすあなたでした。快感でしたよ、それは。じつに、愉快だ。大声で笑いたい……。でも、引きつった表情のあなたを見たとたん、背筋になにか冷たいものが流れた気がしました。ぞみぞみと背中が波打ち、お腹がゴロゴロとゆるくなり、のどが干からびていく。
「いまさら……」。そう言ったつもりが、「なんだよ、いまごろ」とことばが変わっていました。
 がっくりとひざを落としたあなたは、「としちゃん、としちゃん」と、嗚咽のなかにわたしの名前を呼びました。はじめてじゃないですか、わたしを名前で呼んだのは。いつも「ボクちゃん、ボクちゃん」としか呼ばなかったあなたが、はじめて名前で呼んだ、呼んでくれた。ボタボタと大粒の涙をこぼしながら、なんどもなんども「ごめんね、ごめんね」と。
 そうなんだ、そうだったんだ。あなたがわたしを捨てたんじゃない、わたしが、あなたを捨てたんだった。あれほどに恋い焦がれていたあなたを、あの日のあの夜に拒絶してしまった。、でも、そう思わなければ、自分をごまかさなければ、わたしは壊れていた、んです。
 ごめんなさい、母さん。
 そうだった、そうでした。
 あのときも、そうでした。
 わたしを抱きかかえて商店街をかけ抜けてくれたあのときも、ボタボタと大粒の涙をながしていました。

 最後にひとこと、言わせてください。
「ボク、みつけたよ!」
「かあちゃんのなみだを、みつけたよ!」 (了)