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| (五) |
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| 今夜の宿泊は、福岡県朝倉市の街中にあるホテルです。福岡市からはすこし離れた場所になるのですが、なにより料金が安い宿を検索してのことです。玄関前の一角に身障者マークのある駐車場ががありましたので、ありがたく停めさせてもらいました。だってそうでしょう? 一般車のスペースだと一台分減るじゃないですか。 わたしがここに停めれば、一台分の一般向けが空くわけですし。決して楽しようとしているわけではありませんので、いやたしかに入り口に近いという利点はあります。しかしそれだからと言うわけではありませんので。なんども繰り返すのは怪しいですって? そりゃ……。いえ、あなたの邪推です、それは。 翌朝は、七時に起床しました。新年を独りで迎えたという寂寥感を抜きにすれば、実にさわやかな目覚めでした。普段のわたしはいつもどんよりした疲労感におそわれつつ、「いちにちのはじまりだぞ!」と自分に声かけをしてからの起床となるのですが。旅先だという高揚感のせいもあるかもしれません。そしてまた生まれ故郷に近づいているという、わくわく感がいっぱいです。 ただ、お正月のせいでしょうか、正直のところ宿泊代が高いと不満でした。と、予約時には思っていたのですが、とーんでもない! お釣りが来るほどの、もてなしを受けました。まさかまさか、の、おせち料理です。もしかして追加料金が必要では? と不安が過りました。いえいえ、おせち料理代込みだったとすれば割高の料金も納得です。 いまさら、といった観ですが。ここで、新年に思ったことを。平成そして令和という時代は、昭和に比べて「弱者に優しい社会」になったと思いますね。その恩恵に充分すぎるほどに、わたしもまた預からせてもらっています。ただ、社会全体が義務感として受け入れているように感じられるのですが。 それ故のいら立ちやイラつきを抑えていると感じてしまうのは、わたしだけでしょうか。「そこまでしてもらえて、ほんとに嬉しいです」と、感謝のこころを持たねばなりませんよ。何かにつけて、身障者用というスペースやらサービスを用意してもらえているのですから。さらには、全てにおいて割引制度がありますし。 元旦です。平成三十二年となりました。五月には令和元年となるんですよね、じつに感無量です。さてさて、それでは出発です。当初予定では、近辺の秋月城町探索をと思っていました。なのに予定変更をしてしまいました。別段ホテルからの出発時間が遅れたわけではありません。ただ単に、歩くことがおっくうに感じられただけです。 ですが、これが大正解! 幸先の良いスタートでした。十一時前でしたか、吉野ヶ里遺跡に着いたのは。この地は、故郷である佐賀県が誇る、卑弥呼女王の地、だったかもしれないのです。さあ、いざ、弥生時代へ! と意気込んで階段を上がると、な、なんと!はっぴ姿の若者と、観客たちでいっぱいです。なんだか、若者たちがせわしなく動いています。入場券を買おうと窓口に行ったものの、ちょっと気になります。「何かあるんですか?」。係員さんに尋ねてみました。 「はい。新春特別和太鼓ショーです。お急ぎでなかったら、もうすぐはじまりますのでお聞きになって下さい」 こいつは春から縁起が良いやあ! ってね。いや、まったく知らなかったんです。ほんと、まったくの偶然なんですよ。やっぱり、こういうものは生演奏に限ります。多少の上手下手はあるとしても、ほとばしる汗とともに演者の真剣な表情は胸を打ちますよ。 それに、地響きのごとくに押し寄せる和太鼓の音は最高です。綺麗なお嬢さんたちや、いなせな男衆たちが、一所懸命に腕をふりあげて叩くんですから。大太鼓が「どーん、どーん」と叩かれたときなんか、邪気が払われていく感じでした。バチを垂直に立てるのは、天への思いでしょうか。それとも、天からの気を受け取るためでしょうか。 さあ、起、承ときて転にはいったようです。太鼓とともに笛の音が鳴りひびきます。「ピーヒャラ、ピーヒャラ、どんどんどん」です。おおっと、突然に「チンチンチン」と鐘が乱入です。元旦にふさわしい、にぎやかで元気で派手な演奏でした。落ちついた静かな新年を迎えたいと思われる方にはもうしわけないです。少しのあいだ耳をふさいでいてくださいな。 「コンコンチキチキ、どんどんどん。ピーヒャラピーヒャラ、どーんどーん!」。天に大きく羽をはばたかせて不死鳥が出現し、樹木には猿がヒョイヒョイと飛び移っています。地では犬が吠えまくり猫もまた浮かれています。 結に入りましたね。全員による総太鼓(というのでしょうか)で、会場中に「ドンドン、テレツクテレツク、ピーヒャラピーヒャラ、どんどん、どーんどーん」と響きわたり、大騒ぎです。覚えてみえますか、チンドン屋さんのことは。新規開店やら大売り出しやらのおりに、街中をねり歩いていましたよね。道路脇に大勢の人たちが立ち並んで、拍手やらかけ声やらで大浮かれだったじゃないですか。じつに懐かしい、ワクワクさせる饗宴ですよ。 思い出しますわ。親父が肩車をしてくれて、人だかりの後ろからでもしっかりと見ることができました。そして、チンドン屋さんの後ろから芸達者な大道芸人がつづいていました。三本ほどのナイフをお手玉のように放り投げたり、ひょっとこ面が面白おかしく体をくねらせながら歩いたり、そしてお兄さんがバック転をしたりと。そう、小っちゃなサーカスのようでしたよ。もう、お腹いっぱいになりました。 短いタイムトンネルを抜けると、真っ青な――どこまでも突き抜けるような、まさに青藍の空がありました。なんだか空気が変わった気がしますよ、同じ地のはずなんですがねえ。でも現代においても、都会から田舎へと移動すると、空気が変わる気がしませんか? ほら、よく言うじゃないですか。「空気が美味い」って。 弥生時代なんですよ、ここは。卑弥呼さまが統治された、聖地なんですよ。 現代でもそうなんですが、巫女さんて女性ですよね。「なんでですかね」。そんな疑問を持ったことはありませんか、あなたは。神さまは男と決まっている? そう考えると、納得できるんですが。いやいや、初代神は天照大神であり、卑弥呼さまは女王ですからね。でもいまは、天皇陛下は男子に限られるんですよね。 それとも、外を守るのは男の仕事、内を守るのは女の仕事と、そういうことでしょうか。もっとも現代では崩れていますよね。でも、わたしの両親は共働きでした。化粧品販売を中心とした雑貨店を開いていました。郷里の伊万里市では、結構な存在だったみたいです。 「伊万里の佐倉惣五郎だと言われたもんだ」と、酒を飲んでは謳っていましたから。どうやら、己の現状と惣五郎が処刑されたことを結びつけていたのかもしれません。店を畳んで郷里を後にしたことにより、社会的に抹殺されたも同然の父親でしたから。 竪穴式住居の近くに、土葬用の瓶が見つかったらしいのですが、そこには幼子用の小さなかめが多数あったようです。不憫に思う親ごころでしょうか、そばに置いておきたいと考えたのでしょうね。江戸時代あたりまでは、幼子の死亡率が高かったと聞きますから。わたしにしても、九死に一生を得た者として、感慨深いものがありました。そのことについては、後にということで。 勇んで吉野ヶ里公園を訪れたというのに、気持ち的には落ちこむばかりです。いえいえ、諸々の建物やら施設は素晴らしいものばかりでした。竪穴式住居はもちろん、高床式の倉があり、大きな堀立柱建物が点在していました。櫓門もありましたが、やはり外敵を想定してのことだったようです。人々が定住すると、どうしても食糧事情の関係からでしょうが争奪戦が起きるものなんですね。どうしても多数の人が寄り合えば、なんらかのもめ事は起きるでしょうし、そうなるとそれを仲裁すべき者が生まれる。その場としての建物がありましたし。そこから権力者というものが生まれ、いわゆる階層ができてしまうものなんでしょうか。 現代における格差社会も、すでに弥生時代には存在してしまったということでしょうか。努力した者と怠けた者との間に格差が生まれるのは仕方のないことだとしても、出自における格差・差別はなくしたいものですが。もっとも出自が良くても没落するということもあるのですから、やはり不断の努力というか勤勉というか、個々人のもつ器量もあるとは思いますが。というより、あってほしいものだと思います。でもわたしのような怠け者は、ねえ。 吉野ヶ里遺跡公園をあとにして、福岡県柳川市の昭代第一小学校へ向かいました。小学三、四年生だったと記憶しています。年度途中での天候を繰り返し、一ヶ所に一年ほどしか居ませんでしたから。昭代第一小学校の校門前にあったお店――駄菓子屋さんだと思っていたら、実際は酒屋さんでした――でのことです。。店の横にビールびんやら酒びんが山積みされていました。失礼ながら、小学校の真ん前なんですが。でも、すこしばかりの文具もありましたけど。たまたまお店の前におられたおばちゃんと長話をしました。残念ながら六十年も前のこととなると、当時のことはまるで知らないとのこと。仕方ないよな、お嫁入りされてきたんだから。おばちゃんの旦那さんは数年前に亡くなられたとのことで「生きていたら、ひょっとしたらねえ」と言って下さいました。 「岐阜から来ました。と言ってもお分かりにならないでしょうけど」 「とんでもない、知ってますって。親戚がシラカワにいますから」 白川町は、兄嫁の実家がある所なんです。もう、びっくりですよ。ただいろいろと話をしていく内におかしなことに。美濃加茂市、川辺町までは良かったのですが、どうも白川町ではなく白川郷の白川村らしいんです。おばちやんは同じ地区だと決めつけているような話しぶりでした。岐阜のことを知っていてくれるといことが嬉しくて、話を合わせてしまいましたけれど。どのくらい話しこみましたかねえ、なにしろお客さんが来ないし、それ以上に誰ひとりとして通りませんでした。 いま思うと、なにか買わなくちゃだめでしたね。どうもそういった世間的な常識に欠けるわたしでして、いつも「しまった」と後悔するのです。ごめんなさい、おばちゃん。そこでいま読まれている方で、もしも昭代第一小学校近くを通られることがありましたら、このお店でぜひにもなにかひとつでもお買い上げ下さいな。バカなお願いだとは分かっていますし、万にひとつもあり得ないことだとは思いますが、こんな風に宣伝することで、わたしのこころの痛みがすこしは和らぎますので。ほんと、自己チューなわたしです。どうしてこんな自己チューなわたしが誕生したのか、それがこの旅行の目的なんです。 そうでした、学校です。当然ながら、外見はまるで違います。当時は木造でしたが、いまはコンクリートの校舎です。車を動かして、裏手にまわることにしました。運動場なんですが、意外に小さいです。もっと広く大きかった記憶なんですが。敷地に沿って左に曲がると、せまい道路です。大型の車が来たらすれ違えないかもしれません。わたしが学校のフェンスをこするか、相手の車が畑に落ちてしまうか、どちらかでしょうね。いっそのこと一方通行にしてしまえばいいのに、なんて勝手なことを考えてしまいました。「まさか進入禁止の標識に気づかずに入った?」。いやなことを言わないでくださいな。 ところで皆さん。初恋といえば、どうなんでしょうか。辞書には「はじめて異性に恋の気持ちを起こすこと」とありますが。聞いてみましょうか、小学生だったわたしに。「ボクの初恋はだれ?」、「昭代第一小学校の井ノ口せんせえ。転校するときに、犬の置き物をくれた」。そうでした。まん丸顔というのはオーバーかもしれませんが、ほっぺたがパンパンに膨らんだ先生でした。むろんのこと、小太りタイプです。たぬき、なんて比喩すると叱られちゃうかな。でも優しい先生でした。ませてます? もっとも、初恋と呼べるかどうか怪しいものかもしれませんが。なにせ母親にはまるで構ってもらえませんでしたからね。甘えん坊だったと思います、だからこその餞別だったのでは。 そうでした、算数の時間でした。黒板下のすみっこで、椅子に座っている先生の耳元で、ひとりずつ九九を暗唱するんです。そんなに先生に近づけることなんてないことですし、以前にお話しした通りわたし女人恐怖症ですから、嬉しいんですが恥ずかしくてはずかしくて。顔を真っ赤にしていたと思いますよ、耳たぶが熱く感じたことを覚えていますから。 暗唱ですか? 一発OKです。三割ぐらいの児童でしたかねえ、その中に入りこめました。ただね、〝ひとつでもふたつでもまちがえればよかった〟なんて思ったことを、思いだしました。だってそうすれば、もう一度先生のそばに行けるじゃないですか。名前順だったので、二番目に呼ばれた気がします。でボクのあとの児童には、「やり直し!」という声がかかったんです、ただただ羨ましかったです。そんな感傷に浸っていたら、また声が出たんです。「それからね、伊万里小学校の真理子ちゃん。あとねえ……」。もういい、もういい。初恋は、はじめての恋ですからね。そんなにたくさんは、ねえ。初恋はかくあるもの、そう決めつけた場合の感情ですからね。 出会い頭の交通事故的な恋――出逢ったその場で落ちた恋。大体が失恋しました。そもそも告白をしていませんから、相手には伝わっていません。それはそれで美しいものに違いはないんですが、地に足のつかないそれは、やはり根なし草のようなもので、すこしの風にも倒れてしまいそうなもんでしょう。 初恋が甘酸っぱいものだとすれば、大人の恋はどうでしょう? やはりの大いに甘いものでしょうか。そんな恋を教えてくれたのは――自ら追い求めたものではなく与えられた恋のお相手は、やっぱりminakoさんでしょう。わたしよりも三、四歳年上の女性でした。といっても、高校の同級生です。看護学校を卒業後に高校入学された方で、最終学年に知り合いました。きっかけがなんだったのか、いまとなっては思い出せません。 高校在学中から交際がはじまったのか、それとも卒業後の同窓会か何かがきっかけだったのか……。どうしても思いだせないのです。思いだすのは、……体がカッと熱くなることばかりで、わたしのアパートでのこと、そしてトラックの車内でのことなのです。ライトバンでのデートならばいざ知らずトラックでのデートなんて、いま思いだすと申し訳ない思いでいっぱいです。それでもいやな顔ひとつ見せずに会ってくれたminakoさん、心内では舌打ちされていたかもしれませんがね。 あの日は、いや、あの夜は日曜日なのに仕事になってしまい、約束の昼間のデートがダメになって。それでも逢いたい、どちらが言い出したのかそれともふたりの思いが強かったのか、取引先からの帰りに彼女を拾ったはずです。真っ暗になった道路を走りながら、途中で小さな川の堤防に車をとめました。行きどまりの脇道だから駐車していても咎められる心配はなく、車のフロントガラスには満面の星空が映っていて。目をこらすと、その小川に点々とちいさな光が。ふたり同時に「蛍だ!」と、目を合わせて……。しばらく見つめあったあとに、わたしの目は彼女の唇を見つめて……。 十二月のある日にアパートで小さなこたつにふたりで入り、「お正月、ご来光が見たいわね」、「ひるがの高原の山頂なら……」と語りあったものです。「除夜の鐘を聞きたいね」。「あたしの実家に、むかえにきてくれる?」。そのことばになんの意味があったのか、まるで気がつきませんでした。とにかく、唇が、彼女の小さく動く唇が気になって。 しっかりと約束を交わしたはずなのに、あの時はどうしたんだろう。友人らと大晦日に年越し麻雀をすることになり途中でぬける約束をかわしながら、五人目のひとりが「すこし遅れる」と連絡がはいったことでおかしくなっちゃって。午前二時、三時となり、もう出かけなければ間に合わない。結局、その彼は来なかった。そしてわたしは、その卓から離れることはなかった。 「いっしょに除夜の鐘を聞きたいね」。そんな彼女のちいさな願いを、踏みにじってしまった。 〝家のまえで寒さにこごえながら待っていてくれるだろうか〟 〝小さな白い手に、はあはあと息を吹きかけながら立っているだろうか〟 〝赤い格子柄の袢纏をかぶって、ひょっとして大通りで立っているだろうか〟 〝いま行くから、もうすこし待ってて〟 けれど、その声は届かない。いや届いていても、ぼくはまだ行けない。 ほんの些細な行き違い、わたしにとってはそうでも、彼女にとっては人生をかけた大勝負? のようなものだったかもしれなかったのに。決してオーバーじゃないんです、後になって、そのことを知りました。重大性のたっぷり詰まった、衝撃の事実を。(推理小説じゃないのに、オーバーな)。そののち彼女は奈良県橿原市の病院に移り、三年ほどして戻ってから、見合い結婚をしたとか。もしもあの大晦日の夜に、麻雀にうつつを抜かすことなくご来光を見に出かけていたら……。神前での誓いでは、わたしが彼女のとなりに立っていただろうに。 車ということではこんなことがありました。平成十年ごろじゃなかったかな。両側が畑の狭い道――農道だったかもしれません――で、ここでは車はすれ違うことはできません。わたしが半分近くに来たところで、中型の車が入ってきました。すぐにクラクションを鳴らして注意喚起をしたのですが、止まりません。どころかそのまま進んでくるのです。やむなく車を停めて「バックしてくれませんか」と声をかけました。すると勢いよくドアを開けて――ドアが外れるんじゃないかと気になるほどの開け方です――「なんだ、コラア! だれに言ってるんだよ、てめえは」と、凄んできます。 こういうところがわたしの変なところで、相手に威丈高に出られると、つい反発してしまうんです。といっても、相手を見ますけどね。これが凄みのある相手だとしたら、むろん逃げますよ。もしくは、土下座でもなんでもしますよ。 喧嘩は弱いです、わたし。というより、したことがありません。相手が逆上して殴りかかってきたとしても、無抵抗です。殴られっぱなしになります。むろん、誰かが仲裁に入ってくれるという前提ですが。どういうんですかねえ、この性格は。直りませんわ。でね、ちょっとしたにらみ合いになったのですが、わたしの作戦勝ちです。携帯電話をとりだして、ピッポッパッと操作するふりをしました。いかにも警察への通報だと思わせたんです。いえね、きっとすねに傷をもつ人間だと踏んだんです。ひょっとして傷害事件かなにかで執行猶予中じゃないか、ともです。 雰囲気的にチンピラ風でしたから、賭けにでたんです。外れていたら殴られたでしょうね。まあ、そうならそうで、警察に電話しますけどね。当たりです、大当たり! 案の定、相手があわてだしましたよ。「わかったよ、このくそヤローが」。捨てゼリフを残して車に乗りこみました。でね、ちょっといたずら心がおきて、手帳になにか書いてるふりをしたんです。 「な、なんだよ。なに書いてるんだよ、コラア!」。ことばづかいは悪いですが、哀願調でした。 「あとあとのことを考えて、ナンバーをひかえようかと」 「ねえよ、ねえよ。すぐバックするから」 そんなやりとりがありました。まったく無鉄砲でした。そうだ。こんなこともありました。わたしは軽商用車(マツダB360=通称マツダBバン)に乗って、ダンプカーを相手にしたことも。なんでだったかは覚えていませんが、対向車だったんですがね。走行中でのことで、相手がドアをバン! とばかりに開けてきたんです。もちろんダンプには車高がありますから、かすりもしませんでしたがね。ですけど思わず、車の中で頭をすくめちゃいましたけど。 どういうんですかね、ちょっとしたことで相手を怒らせるんです。困ったもんです、ほんとに。でもさすがに、あの時ばかりは土下座をしました。国道を走行中だったんですが、クラウンを追い抜いたんです。それがまずかった。相手がヤクザさんだったんです。しかも恰幅のいいサングラスをかけた方が、後部座席にデン! と。さすがに相手がヤクザのお偉いさんでは、いかなわたしでも無茶はできませんて。追いかけられて停車させられて脅されて、もうひたすらあやまりました。コンクリートに頭をこすりつけて、「ご気分を害してしまい、もうしわけありませんでした」と、ひたすらあやまりつづけました。おかげでなににごともなく終わりましたけど。 話を戻します。毎度々々、横道にそれてすみません。校舎の裏手に車をまわしたところで、思わず「ああ!」と叫んでしまいました。見覚えのある大木と、その横に土俵が見えました。土俵の屋根に、大木の枝がおおいかぶさっています。台風の進路によっては、屋根をおしつぶしませんかねえ。すこし心配です。たしか、相撲が体育の授業に入っていました。やせぎすだったわたしは、それがいやでいやでしてね。ありがたいことに、わたしの在学中には授業がありませんでした。日ごろの行いがよかったせいでしょうか。 でも災難からは逃げ切れませんでした。というのも、小学校の朝礼前に乾布摩擦という、わたしにしてみればしごきのような活動がありました。上半身を裸にして、かわいた手ぬぐいやらタオルでゴシゴシやるわけです。ときにはふたりひと組となって、背中をゴシゴシ、です。痛いんです、これが。なにせわたしときたら、骨皮筋ヱ門状態ですから。あばら骨がくっきりと浮かんでて、見られることがいやでいやで。ああ、ご安心を。女子の場合は、さすがにシャツを着ていました。 それ以外のことは、なにも覚えていません。住処にしてもどんなところにいたのやら。現在でも見わたすかぎりに田畑があり、ポツンポツンと建っている家屋があり、はるか遠くに山々が見える。見上げれば雲ひとつない快晴、ほんとになにもないです。 平成二十年ごろでしたかね。 夜中の三時すぎに目がさめて、そのときの夢を忘れぬうちにとメモ書きをはじめたのです。こんな時間では明日が辛くなるかもと躊躇する気持ちがわき、職を辞したあとなら時間を気にすることなく書けるのになんて思ったりして。けれども、そのときも時間を気にすることはないんですよ。午後からの仕事なのだから、寝坊をしたところで支障はないはず。それをためらうというのは、真剣さに欠けるということ? ものごとに真摯に向き合おうとしないということ? 本音の部分において、逃げているということかもしれない、そう思うに至りました。 夢というのが、離婚協議のことです。別段書きとめる必要もないとは思うんです。というよりも、書きとめませんよね、普通は。ですが、わたしは書きとめるんですね。そしてなにかの物語りの中で使うわけです。実際には離婚協議といったものはなくて、唐突に離婚届けを突きつけられたんですけどね。青天の霹靂というやつです。もっとも、しばらくして「さもありなん」とは思ったんですけどね。でね、その場でそのまま署名して渡しました。「去る者は追わず」といった感じでしょうか。聞こえが良いようですが、前にもお話ししましたが、もめるのがいやなんですね。口論なんかしたくないんですよ。 妻にしてみれば、ひと悶着あると考えていたかもですね。肩透かしをくらったという観かもしれませんね。怪訝な表情を見せていたような気がしますから。なので、夢を見たのかもしれません。ある意味決着の付いていない問題ですよね。それまでに何らかのトラブルが起きて話熱田と言うことでもないんですから。 そうなんです、わたしと妻の間では、話し合いを持つということがまるでなかったわけです。子どもたちは、高二と中三でした。年齢的には三歳違いなんですけど、娘が四月一日生まれです。学年としては二年違いなんですよね。それで息子の進学問題なんかで、普通は夫婦間での話し合いとかあるんじゃないですかね。わたしはまるで無関心でしてね、息子の希望通りにすればいいということです。但し、稼ぎのないわたしです。経済的には苦しいわけです。必然、奨学金なりバイトということになります。それは自己責任だぞ、ということです。 これはあくまで一例です。家庭生活におけるこまごまとしたことなど、すべて妻に丸投げです。妻の思い通りにさせていました。好き勝手にできるということです。自由裁量です、妻の。ただしその裏には、自己責任と言うことになります。なにかトラブっても、妻の裁量で行ったことならば、妻が対応します。我関せず、というか、そのことについてはわたしは聞かされていません。 ああそういえば、息子のしでかしたことでわたしが動いたことがあります。中学時代です、息子の。数人での下校途中に、他家の庭に石を投げこみ、それで窓ガラスを割ってしまったことがあります。また郊外を走る電車に向かって雪玉を投げたということで、鉄道会社から学校に苦情が入り、そのことで両関係者にたいして息子を同伴の上、謝罪に行ったことがありました。「このバカが」と、頭にげんこつした記憶があります。 兄と友人ひとりを交えての、車座での話し合いですわ。「ちっとも楽しいことなんかなかった」。妻から投げつけられたことばです。それから堰を切ったように、罵りです。「子どものことも放ったらかしで」と言われたときには、正直ムッときましたけどね。ただ、思いも掛けぬ事実を告げられました。息子が、中学時代にいじめにあっていたと言うのです。 「無関心だから気がつかなかったんでしょ」と詰ります。聞いていれば、たぶんいくらわたしでも学校側に抗議に行ったと思いますよ。いじめに遭っていたとなると、あのいたずらにしても……かもしれませんからね。それに、そのときに妻がどう行動したかですよ。息子がSOSを出していたのか、それとも余所から聞かされたのか。そしてどう対処したのか。まあこれ以上は自己弁護になってしまうので、ここらでやめましょう。 もちろんわたしにも言い分はありますよ。しかしそれは、男として口にしてはならぬもの、そう思っていました。「男の沽券にかかわる」と、男の美学から口にしないという逃げ口上を考えちゃうんです。でも実のところは修羅場になるのがいやなわけで、怖いわけです。いままで、誰にもいつのときでも、本音を吐露したことがないわたしです。どんなに辛辣なことばを投げつけられても、体を交わしつづけてきちゃったんです。まともに反論することはありませんでした。己に非がないと思っていても「面目ない」とばかりに頭を下げてしまうんです。それで収まるならいいじゃないか、とばかりに。 言い訳をしないことが男の美学だとばかりに応じてきました。昭和の御代では、それで良かったのかもしれません。一端の男として、クドクドだらだらと言い訳をしないことが、ある意味立派なこととして見られたかもしれないです。でもいまは、平成そして令和の時代ですしね。ジェンダーフリーが叫ばれていることですし。いや、正直にお話ししましょう。怖かったんです。自分の思考・論理をふりかざすことが、どんなみじめな結果をもたらすか、想像しただけでも恐ろしい。まともな喧嘩など、いちどもしたことのないわたしです。 「おとなしい子どもだ」。「優等生だね」。そんな評価を口にされるたびに「おくびょうなだけです」と、口にしたかった。けれどもできなかった。小学生ならばそれで良かった。中学時代には、そんなおのれに薄々気付きながらも「家庭がムチャクチャなんだから」とごまかせた。しかし高校時代には、もうごまかしがきかない。もう家庭のせいには、父親のせいにはできない。おのれの、この性格が資質がうらめしい。なにごとからも逃げ出すことを覚えた自分がうらめしい、腹だたしい。 文字を操るすこしの能力を得たおかげで、作文のなかに逃げこんでしまった小学生時代。「だって、だれも助けてはくれなかったじゃないか」。いやちがう、真相はこうだ。「助けをもとめなかった」。ただ、それだけのことだ。みずから壁をつくって、他人をよせつけなかった。他人どころか、身内さえもだ。自業自得、そんなことばが頭の中をグルグルとまわっている。今夜は、眠れるだろうか。 室温は十三度を下まわっている。暖かいベッドからおりて、もう三十分以上も冷気にさらされている。寒い、寒いよお。暖気がほしいよお。温風ヒーターがある。点火すれば、暖風をおくってくれる。室温もあがる。身体は寒がっているし、暖気を欲している。しかしこころが「要らない」という。室温以上に冷えきったこころが、「要らない」という。 目がさえてきた。「このまま起きててもいいぞ」。身体がいう。頭のなかもすっきりしてきた。パソコンを起動させて、メモしてあるミミズがはったような悪筆を起こそうか。眠くなったら、すこし眠ればいい。時間はあるさ。よしんば寝過ぎたとしたら、仕事は休めばいい。わたしの仕事など、同僚たちがカバーしてくれる。NIGERO、にげろ、また逃げちまえ! しかしもう一人が言う。こころが、また言う。 「要らない」 今日はきょう、明日はあした。今日のために明日を犠牲にしたくない。今日の時間を失えば、今日を明日に使わねばならなくなる。今日はきょう、明日はあす。時間を区切りたい。眠ろう、明日のために。数時間ののちに訪れる明日という一日のために、眠ろう。 「ねむらねば、ベッドにはいらねば」。こころが、わたしを後押ししてくれる。 「からだがないているから」。こころが、ことばを見つけてくれた。 |