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齢七十となり、チラホラと訃報がとどきます。若すぎた死を悼む声もあれば、大往生でしたねと慰める声があります。そんな中、わたしもそろそろ終活を意識せねばと思いはじめたのです。といっても独りぐらしのわたしですし、特段これといって遺したい物もありません。もっともわたしの遺物などを欲しがる人がいるはずもありませんが。
そうだ、これは欲しがる人がいるかもしれません。4Kテレビなんですがね、家電量販店で買い求めました。そのおりの笑うに笑えないエピソードを聞いてもらいましょうか。わたしという人間の一端がわかっていただけるかもしれませんし。
そもそもはパソコンの購入で出かけたのですが、いつの間にかテレビの話になってしまいました。わたし絵画を観るのが好きでしてね、ちょくちょく美術展に出かけます。そんな話を販売員としていましたら、テレビの画面が水族館から、突如ルーブル美術館に変わったんです。モナリザが出てきましてね、驚きました。なるほど違いますわ、たしかに。絵の具のひび割れ具合までくっきりと現れています。
思わず額をくっつけてしまいました。苦笑いする販売員に気づいて画面から離れましたけど。「結構いらっしゃるんですよ、画面に顔を付ける方が」なんて声が聞こえました。わたしを慮ってのことではなく、事実のようですね。
けれどもそのまま真うしろに離れたのではなく、意地悪心がムクムクと湧いてきまして、斜め横から見てみました。思わず唸ってしまいました。販売員の言を借りれば、「そのまんま」でした。どういう意味かというと、歪みゼロ、輝度不変、あといくつか特徴を話してくれましたが、耳に入りませんでした。
最後に、音質の説明です。左右はもちろんのこと、上下からも音が聞こえるそうで。つまり、音に包まれる感覚になるとか。大げさに言えばですが、と前置きされての話は〝こいつ、できるな〟と思わされました。
「宇宙空間です」
「ソファに座られて目を閉じて頂くと、身体が宙に浮いた感覚を味わえます」
「音が上下左右からまとわりついてくる感じです」
「本店に行ってもらえれば視聴ルームを用意してまして、そこでならば体感して頂けるのですが。東京ですから……」と申し訳なさそうな顔を見せるのです。但しその音響システムは、8Kのみですとか。まあハイエンド製品といったところですか。
本音を言えば8Kが欲しかったのですが、価格がねえ。とてもじゃないですが手がでません。それより何より大きすぎます。六畳の部屋に六十インチの大画面はダメです。で、やむなく4Kの四十三インチにしました。価格ですか? 奮発しました、これは。六桁ですからね。清水の舞台から飛び降りるなんて、もう古いですかね。分不相応だとはわかっています。分かってはいますが、どうしても欲しかったのです。脳に大量のアドレナリンが分泌されてきました。そしてその気になったところで、地獄に落とされました。
「じつは……。もう一点、4Kチューナーをご購入していただくことになります」。申し訳なさそうに、すこし腰を折っての小声です。おいおい、話がちがうだろうが。で、いくらするの? という話ですが、これまた五桁の金額で。こころが折れました、大きな音が、ガラガラと、頭の中でひびきました。まだ残暑の名残りが残っていたのですが、ピューピューとからだのなかを木枯らしが吹き荒んでいる感じです。たぶん肩を落として、背中が十五度ほど曲がった状態で店を出たと思います。
話がちがうじゃないか、というご指摘、ごもっともです。たしかに「買い求めた」と、冒頭でお話ししました。ですので、すこし補足をしなければなりません。このエピソードは、数年前の秋の十月の話です。買い求めたというのは、昨年末のことです。悩みに悩み、うじうじと考えつづけ、コロナ禍のおかげで外に飛びだすこともできずに、とうとう……。清水の舞台から飛び降りたのは事実です。
いくばくかの年金と、半日仕事の派遣による収入です。預金も、先日飛びだした二千万円などには到底およびません。桁がひとつ違います。ですので、まだまだ働きつづけねばならないのです。本来はムリな買い物なのです。分不相応だとは分かっています。いただく給料の六ヶ月分ほどがとんでいきます。分割? とんでもない! 出ていく金額が、金利の分だけ上がるじゃないですか。一括だとしても、通帳における現金不足というわけではありませんので。
そもそもが、そんな高精細な画像など不必要なことでしょう。現在のハイビジョンテレビでも十分にきれいな画像なのですから。あと何年生きられるやらも分かりません。同僚には「手相によると百歳越えするらしい」と豪語していますが。というのも、生命線に当たる筋が手首にまでたっして、手のひらの端っこにまで達しているのです。占い師によってその説明は若干違いますが、生命力が強いということらしいです。
完全リタイヤ後も、三十年ほどを生きつづけるらしいのです。年金だけではとてものことに生活を維持するとはできないでしょう。ですので、毎月いくばくかの金員を、この年になってまでも貯蓄せねばならぬのですよ。なのに、なのに……。わたしの非常識さが、このことにもその一端がでていますね。がしかし、どうしてもあの精微な画像を忘れることができず……。美術館めぐりにお金をつかうことを考えれば、と決断したわけです。まあすくなくともあと五年、七十五歳までは仕事を頑張ろうと思っています。会社も認めてくれそうですし。
ただね、楽観できそうなところもあるのですよ。毎月の支出に関して調べてみたんですよ。岐阜市という地方であることから、生活費が格段に安いわけです。細かい内訳は省きますが、月に十万円もあれば何とかなりそうなんです。美術館めぐりの旅行は行きませんし、外食も元々しません。車は一応は保持しますが、いざとなれば処分します。車検やらなんやらを計算すると、維持費として年間十万円ぐらいでしょうか。月に換算すると、四、五千円ということか。年金だけになると、やはり先々では考えるべきでしょうか。まあその前に、年齢的なことから免許返納となるでしょうがね。
ほかには……、やはりないですね。わたしが遺したいと思うものは、趣味で書いている小説やら詩などは、いまはネット世界というありがたい代物もありますしね。いつまでネット世界で生きつづけてくれるかどうかは分かりませんが、誰かひとりでもわたしの作品を気に入ってくれて記憶に留めてもらえれば、それで十分だという意識もあります。むろん、それがより多くの人ならば、それにこしたことはありません。
わたしには兄がひとりいます。父親は平成七年に死去しました。両親は離婚しています。わたしと兄は父親に育てられて、母とは音信不通です。中学二年の冬でした。母が家出してしまい、そのまま帰らずです。大正十四年生まれです。生死のほどは分かりませんが、多分……。、
兄は、わたしの子どもふたりをのぞけば、唯一の肉親です。言い忘れていました、わたしもまた離婚をしています。子どもたちとは恥ずかしい話ですが、現在は音信不通です。正直、良い父親とはいえません。経済的にも苦労をかけましたが、なにより父親としての愛情を注ぐことに失敗した気がします。わたしのidentity確立失敗にかかわることなのですが。
唐突ですが、お尋ねします。あなたは、愛情を信じられますか? 感じられますか? お持ちですか? そもそも愛情とは、なんですか? 辞書には、明快に書いてあります。
「好ましく思うこと、慈しむこと」
「ありのままの相手を受け止め、成長を願うこと」と表されている辞書もありました。わたしにしても、子どもを好ましく思い、慈しみたいと願い、健やかに成長してくれることを念じました。ですが、いつの時もいつの場でも、まずは自分が一番でした。いえ、食べるとき、観るとき、触れるとき、ほとんどのことにおいて、子どもを優先させました。子どもの意思を確認してから、動きました。
でも、でも、なにかがありました。その前に、いつもなにかがありました。どう表現すればお分かりいただけるか、非常になやんでいます。「子どもを第一にかんがえる」。それは実践をしました。甘やかしたつもりはありませんし、なんでも言うことを聞いてきたわけではありません。第一、子どもが、わたしを一番に考えていましたから。そう! そうなんです! それこそが、「なにか」だと思います。わたしがそうでした。父母に対して、どうしても超えてはいけない一線を感じていたのです。貧乏だからわがままを言えなかった? 共働きで朝から晩まで働きつづけていたから甘えられなかった?
たしかに。たしかにそれはあった気がします。でも、そんなことは枝葉末節でしょう。では、ではなにが、なにがわたしを押しとどめたのでしょうか。そしてなにが、子どもたちにしてわたしを一番に考えさせるようにさせているのか。なにに脅えさせてしまったのか。暴力的なことは一切していません。妻にたいしても、一度たりとも手をあげたことはありません。口汚く罵ったこともありません。一番つらい、一番こたえること――無視をしたこともありません。
ただ、稼ぎの悪かったわたしのせいで、貧乏生活をさせてしまいました」。別れた妻から言われました。「うそを吐かれたことが辛かった」。責められました。たしかに吐いた覚えがあります。でも……。まあいまさらどんな言い訳をしても、詮ないことです。いえ、これからの話に、またうそが混じるかもしれません。できるだけ本当のこと、本心をお話しするつもりですが。
もう何年前になるでしょうか、生まれ故郷である伊万里市に帰ってみたいなと思いはじめたのは。きっかけは「まるで違う街みたいだったぞ」という兄のひと言でした。いえ、正直に言いましょう。あることを確かめたくて――本人の口から直接聞くことができれば、それが一番なのですが。いまどこで何をしているやら。いや、おそらくはもうこの世には居ないでしょう。そもそも小説を諸々の賞に応募しているのは、ある人に気づいてもらいたいということなのです。あなたが捨てたわたしは、ここに居ます。そしてこんなわたしになりました、と知らしめたいのですから。そのためにも、わたしがわたし自身をより強く知らねばならぬと思っているのです。
恥をさらすようですが、人間としての資質に疑問を抱いているのです。失礼、だれのことなのかを説明していませんでした。ああ、お分かりですか、もう。そうなのです、わたし自身のことなのです。片端者じゃないかと、身体のことではなく精神的になのですが。どうにも常識というものに欠けているのではないかと、考えてしまうのです。反社会的な考え方をしているといったことではなく、感謝の心、協調性がない……、いや違うな。
すみませんね、混乱の極み状態に陥ってしまいました、わたし。いや、これもまた欺瞞だ。基本的に、わたしはうそ吐きなんです。本心を明かすことがすくなく、むろん本音を語るというか口をすべらせるというか、それは多々あります。が、うそを吐くのです。当たり障りのない答えをだしてしまうのです。相手が喜びそうな答えを口にしてしまうのです。上すべりのことばを口にしたり、文字にしたりします。そう、そうなんです。文字が、うそを吐くときのツールになるのです。
それだけではありません。自分の資質に疑問を感じるのは、他人が吐くうそが許せないことなのです。おのれのうそ吐きは棚にあげて、他人のうそには拒否反応を示してしまうのです。「後になってバレてしまうのに、どうしてうそを吐くんだ」と、他人をなじる自分がいるのです。そして自分が吐いたうそがバレたときには、「あの時は……」と、また言い訳としてうそを重ねてしまうのです。そして、そんな自分は許してしまうのです。
「弱い人間なんだ、ぼくは」。自分にたいして告白するわたしなのです。そしてそんな自分が哀れで、己に対して慈しみの気持ちをいだき、涙をながして許してしまうのです。それどころか、そんな自分がたまらなく好きになってしまうのです。ある意味、ナルシストということになるのでしょうか。でも、そうでなければ、崩壊していたかもしれないのです、こころが。
どうして? 当然の疑問ですね、お答えせねばならぬと思います。でなければ、この後もわたしの話など聞いてもらえないでしょう。が、しばらくお待ちください。わたしの本質というか、この話の中核をなすべき事柄ですので。いえ、決してごまかすつもりではありません。かならずや後日にキチンとお話します。ただ、これから話します、と大上段に構えることはしません。それとなく、静かにそこに進みたいと思います。大丈夫です、ああこういったことからか、と納得していただけるようにしますので。
もう少し前段のようなものを聞いてください。
小学生のおりには、作文でよく褒められました。昔々に「計画学習」という教材誌がありました。団塊の世代の方ならば、ひょっとして覚えてらっしゃるかもしれませんね。それに投稿した詩やら作文で、賞をいただいたことがあります。だれもがわたし本人の体験談だと思いました。小学生なのですから、それが当然のことでしょう。
しかしそれが事実として書いたように見せかけて、実は作り話なのです。実際には体験をしていない事象を、さも事実であったかのごとくに書いたのです。こう書けばきっと先生は喜んでくれる、大人は感心してくれる、そんな思いで書いていたのです。忖度ということばは、現在においてほぼ毎日のように新聞やらテレビのニュース番組で飛び交うことばですが、あのころのわたしにピッタリです。
たとえば、小学三年生だったかな? いったん離れた伊万里市に戻りました。銭湯からの帰り道にお寺の境内を横切ったという記憶があります。――お寺の塀を左手に見て、石畳の道を兄とふたりで歩いた。空には月が浮かんでいて、どこからか犬の遠吠えが聞こえてきた――。そんな光景が浮かびます。どうしてここまで詳しく覚えているかといいますと、このときの情景を詩として書き上げたのです。
「風呂の帰り道」というタイトルで、さきほどの「計画学習」という教材誌に応募して、佳作だったかをいただきました。シャープペンシルが副賞でとどいた覚えがあります。なので、はっきりと情景が浮かぶのです。ですが、お寺の名前は覚えていませんし、その一角だけの記憶なのです。
申し訳ありません。正直に言いますと、いまとなっては本当のことだったかどうか、定かではありません。風呂上がりにふたりで帰った、これは事実だと思います。ですが、お寺の境内で犬の遠吠えがあったかどうか、これは嘘かもしれません。お寺と遠吠えのふたつでもって、こころの寂寥感を表現しようとしたのかもしれませんし。あるいは事実だったかもしれません。
ついでに自慢をさせてもらえれば、同じくその雑誌にて、こんどは作文で賞をいただきました。深く暗い井戸の底に落ち込んでいるわたしが、母親の呼ぶ声によって生還するといった内容です。これは幼稚園児だったときに大変な交通事故に遭い、まさに生死の境をさまよったおりの経験が元になっています。むろん、夢だとしています。
ですが、ごめんなさい。この井戸の底から云々というのは、作り話です。もう半世紀以上前、いえ六十年以上前になりますかねえ。ですので、決して「リング」の貞子さんのお話を借りたわけではないですから。貞子? 偶然というには恐ろしすぎます。母の名前は、貞子と言います。
(二)
どうせ九州の生まれ故郷に帰るのなら住んだ町すべてをまわってみよう、そう思いたって記憶のかぎりの小学校を書きだしました。生まれ故郷である佐賀県伊万里市立伊万里小、福岡県柳川市立昭代第一小、福岡県久留米市立篠山小、そして福岡県中間市立中間小学校です。卒業したのは岐阜市立木之本小学校です。
ただ残念なことに、最初に入学したはずの大分市の小学校時代が思いだせないのです。もうひとつ言えば、大分市には幼稚園児のおりに引っ越したはずです。大分市の幼稚園に通うことになったはずなのですが、慣れずに通わなかったと記憶しています。小学校入学前の年次だったと思います。ですが、まるで記憶がないのです。すっぽりと抜け落ちています。ただ覚えていることが、ひとつだけあります。
大分駅に降りたったのは夜でした。見あげればたくさんの星がまばたいていたことを、おぼろげながらに覚えています。そして駅舎を出てから、すぐかたわらの屋台でラーメンをすすった記憶が、鮮明に思いだされます。平たい中華の模様が入った丼の中で、白くにごったスープのなかに麺があり、その上にメンマがすこしと薄っぺらいかまぼこが1枚と、そして黒々と光る味付けのりが二枚乗っかっています。なぜなんでしょうかねえ、このことだけはしっかりと鮮明に記憶されているのです。まだ五歳児だったのに。食い意地がはっているせいでしょうか。
ということで小学校については、廃校になっていない限り、簡単に調べられるでしょう。問題は住み処ですね。戸籍謄本をしらべれば住所がわかるんじゃないか? そう思い、支所に行ってみました。畑がまだ残っている郊外にあります。国道から二、三十mほど入ったところです。車の駐車スペースは十台以上はあり、十分な感じですよ。
建物は、そうですねえ狭くもなく広くもなく、ごめんなさい、はっきりとは分かりませんわ。建物は横長平屋造り(わかりにくいですか?)で、カウンターで六席ぐらいでしたか。L字型になっていて、奥に一席もうけてありました。窓際に五人掛けぐらいの長椅子がありましたが、待っている人は居ませんでした。たぶん、ほとんど使われていないと思います。取り扱う事務数は限られていますしね。
「あなたの戸籍では、岐阜市がスタートになりますね。ご結婚時に、戸籍が新しく作られますから」
えっ! そ、そんな。それじゃ、ぼくの一生はどうなる。
「お父さんの生前時ならすべて記録として残っていたのですが、亡くなられてはねえ。もう二十年も以上前のことですか。いまとなっては、ちょっともう……」
ということで九州のなかで転々とした、伊万里市→大分市→再びの伊万里市→柳川市→久留米市→そして仲間市。それらの住所がわかりません。生家のあった伊万里市の住所は分かります。駅に向かう大通りがあり、駅まで百メートルだったか、二百メートルだったかの位置に紅屋というお店を構えていました。そして店のとなりに食堂だったかがあり、真向かいには洋菓子屋さんがありました。
兄に言われています。「まるで違う街だ」と。でもそれでもなんとか分からないかと、少しの面影はないかと、インターネットの地図サイトで探してみたのですが、六十年以上も前のことです。やはり兄の言うとおり大きく街並みは変わっていました。他の場所についても、断片的な地区の記憶しかありません。残念です、ほんとに。「死亡届を出したときに、戸籍謄本を取っておけば……」と、後悔しています。悔やんでも悔やみきれません。
ということで、終活の意味もこめて、わたしという人間のルーツを探す旅への出発です。話がすこし逸れてしまいました。さあそれでは、わたしの[ルーツ探しの旅]へ出発です。平成三十一年、十二月三十日。当日は、まったく雪の気配なし。前夜の雪がうそのようですわ。晴天にめぐまれての、出発です。わたし、晴れ男なんですよね。天気予報にも負けませんし、たとえ出発どきに雨が降っていても、目的地の到着どきには雨上がりとなっています。だいたい八割程度の勝率です。ただ、雨男やら雨女同伴時には、その割合がすこし下がります。ですけど、五割以下にはなりませんから。
高速に乗るのはホントにひさしぶりで、すこし緊張気味です。速度が八十キロにたっした時点で、固定することに。といっても、オートクルーズとかいった機能はありません。あくまで自分の足でコントロールです。いま走らせている車は、ローン・レンジャー号(別名:ダイハツ製のミラ・ジーノ クラシック)です。わたしが名付け親ですので、悪しからず。初年度登録=平成十二年ですからねえ。骨董品に近い車ですが、頑張ってくれている車なんです。バンパーがデザインとして付いてるんですが、これがねえ、良いんですよ。それに木目調のパネルとハンドルがグーですよ。
高速道路の一宮JCTが近づくにつれて、ゆるんでいた緊張感が高まってきました。車が混みはじめました。「右車線に寄れ」と、ナビが指示します。走行車線を走っているわたしは、右後方をサイドミラーで確認です。右車線に、赤いBMWが見えます。車線変更するには、距離が近すぎます。で、すこし速度を落としてやりすごすことにしました。あいては高性能のドイツ車ですし、こちらは軽自動車ですからね。そこは敬意を表して、ですよ。
東京方面と大阪方面にわかれる分岐点が、見えてきました。そろそろ車線変更をしなければいけません。が、速度を落としたはずなのに、BMWはいまだにななめ後方に位置しています。速度を確認すると、七十キロほどです。あちらも減速したのでしょうね、でなければ並走するわけありませんもん。もう限界だと思い、後ろの車には申し訳ないですが、さらに減速しました。六十キロ近くまで減速して、やっとBMWの後方になりました。
新手のあおり運転というか、いやがらせ運転かと、少々腹が立っています。ですが後ろについて納得です、高齢者マークを見つけました。ごていねいに、二種類のマークが貼ってありました。「一枚は前につけておいてくれよ」なんて、ブツブツ言いながら走りましたよ。
で、大阪方面に入ると同時に、本当はいけないのですが、走行車線に移り追い越し車線を走るBMWを追い抜くかたちで、追い越しました。わたし以外の車も続々と、走行車線で追い抜いてから、追い越し車線に入ってきます。BMWの高齢ドライバーさん、速度が遅いときは、かならず走行車線を走りましょうね。
名神高速養老SAを出てすぐのトンネル手前で、ハザードランプを点滅させている車列にぶつかりました。ぶつかったと言っても、衝突ではないですからね。「遭遇する」の方ですよ。ええっ! まさかの、渋滞ですか? 勘弁してよ。ただでさえ出発時間がおくれたせいで、時間がおしているんだから。今日は、フェリーに乗るんですよ、初めてのフェリーなんだから。大阪南港という、初めての場所なんだから。大都会を車で走るのは大変なんだから。と、愚痴のオンパレードが口から出ます。
でも、ほっ! ですわ。十分? それとも十五分ぐらいか。渋滞解消の模様です。一気に速度アップして、遅れをすこしでも取り戻さねば。百キロですよ、もちろんのこと。が、百キロに到達としたと思ったとたんに、時間としては五分と経たないうちに、またしても速度ダウンの憂き目に。また混みあってきました。それからしばらくの間、速度のアップ・ダウンを繰り返すことに。こういうのって、燃費が悪くなるんですよ。
結局、多賀SAに入りこみました。あきらめて昼食を摂ることにして、コンビニ弁当を車内で食しました。空腹時ってイライラするでしょ? 事故ったりしたら大変ですからね。多賀SAといえば、若いころに近江牛のすきやき弁当を食していましたが、現在はあるのでしょうかね。千円ぐらいの、当時としては結構な値段でした。仕事で半年に一回ぐらいでしたかね、名神高速を走ったおりに購入していました。
ああそうか、上りのSAだけだったかな? すきやき弁当が置いてあったのは。どおりでいくら探しても見つからないわけだ。旅行から帰宅した後にパソコンでの検索でわかったのですが、SL(蒸気機関車D51)が展示してあるんですね。いやあ、懐かしいなあ。子どものころにSLで小学校に通学していたんですよ。まあそのお話は後々にということで。
さあもういいでしょう、渋滞解消といきたいですよね。大して走っていませんが、次は桂川PAで休憩です。距離的には短いですが、予定どおりなんです、多賀SAが予定外だったんです。どういうのですかねえ、こういう性格というのは。当初決めたコースどおりに走らないと、気持ちが落ちつかないんです。なんていうくせに、予定をすぐに変えたりもするんですけどね。
ああ、そういえば……。何年前だったか、このPAで事故に遭いました。それこそ、ぶつけられました。こちらの責任はゼロです。全面的に相手が悪いのです。歩行者がわたしの前を横ぎるという状態でしたので、止まっていましたから。一ミリでも動いていれば、百対ゼロにはならないんですけどね。警察の到着を待つということになり、わたしも車のなかでまつことに。これって、今回の旅行時ではなく、すこし前の話ですので。
免許証がいるなと思って、鞄をあさってみました。あれっ! です。ない、ない、ないんです! 車のグローブボックスだったかと中をかき回すも、ない! 焦りましたよ、このまま黙って立ち去ろうかとも考えましたよ。でも追いかけられでもしたら……まあ指名手配、なんてことにはならんと思いますけれど。なるようになるさと、開き直ってシートを倒して休むことにしました。あっ、ある! ルームミラーの上に小さなボックスが付いているのですが、その中に入れてあったんですよ。
笑い話です、ほんとに。あのときは、いろいろ考えましたよ。このPAに車を残して自宅アパートに戻る羽目になるんだ。免許不携帯ということで、当然ながら免停という行政処分を受けるかも。でもそうなると、この車はレッカー移動するの?
当然ながら旅行は中止の憂き目に。ホテルやらのキャンセル料を支払うことになるだろうしとか、諸々のことをネガティブに考えました。笑えるでしょ? みなさん。どうぞお腹を抱えて笑ってくださいな。さあいいでしょう、トイレに行きますわ。そのための休憩でしたから。予定とか性格云々なんて、冗談に決まっているじゃないですか。
さあ、大阪南港に着きました。今回は、比較的スムーズでした。そう、あくまで「比較的」です。阪神高速四号湾岸線から降りる場所を、やっぱり間違えました。「道なりに……」なんてナビが言うものですから、二車線の左側を走っていました。そうしたら、そのまま出口になっちゃって。早すぎたんですよ、ここでは。「南港中出口」ではなく、「南港北出入口」を出ちゃったんです。おかげで一般道を、あっちに行ったりこっちに行ったりしながら、「あそこに建物が見える」「あれって船じゃないか」と、右に左にへと……。でも、なんとか着きました。時間は……、十五時五十分です。二十分だけの遅れです。もっとも、順調にいけば十五時には着いているかも、というところでしたがね。乗船手つづきをすませて、現在、車にて待機中で十六時五分です。
忘れていました、ETCカード初デビューです。「オッソ!」ですか? ETCカードだと安くなるとは聞いていましたがね、ETC機器にお金がかかるでしょ。ほら、わたしは、身障者割引が使えるじゃないですか。でですね、大した差額じゃないだろうと、高をくくっていたのです。ところが、聞くところによると、ETC割引後に身障者割引がきくはずだと。使い道のないギフトカードが一万二千円ほどありましたので、決断しました。こんなことなら、もっと早くに取りつければ良かったと、そう後悔してもあとの祭りでした。
いまのわたし、「身障者らしくない!」ですか? まあねえ、いろいろとアクティブに動いていますしねえ。そう思われても仕方ないかも、ですね。実はわたし自身もそう思ってます。ペースメーカーを植え込んでいるのですがね、それで永久的に身障者なんです。もう、すごいんです。ピンピンしているんです。植え込んでもらう前のときは、もうダラダラ状態で、ほんと辛かったですわ。階段の上り下りやら少しの歩きでも、心臓がバクバクになりましたからねえ。
二十年ほど前になると思いますが、夜のバイトで皿洗いををしていたおりに、突然なんですが心臓がしめつけられる感覚におそわれて、立っていられなくなりました。そのまま早退したのですが、その夜の辛かったこと、辛かったこと。布団に横になると、胸がそわそわしてならないんです。眠れません。うつ伏せ、横臥、仰向き、すべてダメでした。結局は横になっていることが辛くなって、それで起き上がったのですが、そうすると落ち着きました。そわそわ感にムカムカ感、すべてがなくなりました。が、横になるとまた症状が出ます。やむなく柱に寄りかかって眠ることにしました。
映画のなかで武士なんかが野宿をするシーンがあるじゃないですか。そんな時ってほぼ全員が刀を手にもって、柱や壁によりかかって眠りますよね。盗人やら追っ手にたいする身構えかと思っていましたが、ひょっとすると違うかも? なんてね。冗談ですよ、ジョーダンですって。わたしは刀こそ持ちませんでしたが、そのかわりにまくらを抱いて眠りました。なんというか、手の置き場が、ねえ。腕組みをしたり膝のうえに置いてみたりとしましたがやっぱり、手持ち無沙汰なんです。後日に知りましたが、身体を横たえたときのモヤモヤ感というかザワつき感というのは、心不全の症状なんですって。「そういう症状がでたら、すぐに救急車を呼んでください」とは、お医者さんのことばです。
翌日にさっそくクリニックを受診しましたが、すぐに入院設備のある民間病院を紹介されました。そこで入院となり諸々の検査を受けました。二日後でしたか、狭心症と診断されて大学病院へうつりました。そこでもまた検査の日々をおくり――前の病院とおなじ検査のようですが、どうして二度手間をかけるんでしょうかね。お金がもったいないと思うんですよね。結局のところほぼ二週間あまり後にステント(金属のチューブのようなもので、バルーンで血管内を拡張後に留置されます。血管がまた狭くならないように支える役割をします)手術ということになりました。こんな大ごとになるとは想像もしていなかったので、ビックリです。このころはと言えば離婚後でして、独り暮らしなんですよね。世話をしてくれる人間がいないということで、少々気まずくてばつの悪い思いをしました。
六人の大部屋でして、患者さん全員につきそいの方がいました。いろいろと世話をしてみえます。けれどもわたしにはだれも付いていません。日当を支払って世話をしてもらうおばさんが見えるようです。ご存じでした? 民間の医療保険に加入しておられる方が利用されるようです。が、そういった保険に一切入っていない――すべて解約してしまいました――わたしでは、その費用を捻出することができないわけですわ。
でも手術前はまだそれでも良かったのです。ひとりで出歩けますから、必要なものは売店に買いにいけるわけです。ですが手術後はそうはいきません。ベッドに縛られていますから――ホントに縛られているわけではありませんよ、比喩ですから――自由がききません。といっても、なにをしたいというわけでもありませんから、不自由は感じませんでした。ただ退屈なわけです。日がな一日をぼんやりと過ごすわけです。
声をかけてくれる相手といえば、せいぜいが看護婦さんだけですからね。幸いに窓際のベッドでしたので、空をただよう雲の形なんかに慰められたりしました。幼児でもあるまいしと思うのですが、あれは象さんだ、あっちは飛行機だ、そしてこっちはイチゴだなどとです。そうそう、怪鳥ラドンを見つけたこともありました。そのときは、どういうわけか突然に涙があふれましてね。いえ理由はわかっていました。
子どもたちと観た映画です。ラドンの映画ではなくゴジラの映画だったのですがね。そのことが思いだされて。数少ない子どもたちとの想い出なんですよ、数少ないお出かけなんです。子どもたちが観たいと言ったのか、わたしの意向だったのか。妻は板東妻三郎主演の怪談映画(夜叉ヶ池だったと思うのですが)を観たいと言いだしたことを覚えています。わたしと子どもたちだけの数少ない共有時間をもたせてくれたのだと、いまは解釈していますが。
その後、マクドナルドで待ち合わせをしまして、ハンバーガーをそろってパクつきました。息子はビッグマック、娘がフィッシュなんとか(母親とおなじ物です)。そしてわたしは、テリヤキバーガーでした。といっても最初のひと口だけで、息子と娘にとられてしまいました。息子が大食いでしてね(これはわたし似というより、食べ盛りだからでしょう)、娘は人の物(特にわたしが食するもの)を欲しがるのですよ。でも楽しい外食でした。
入院時は、正直のところ「どうでもいいや」といった自暴自棄な気持ちでしたねえ。離婚してまだ半年も経っていない、たしか五十三歳だったと思います。娘が高一のときだったはずですから。でその部屋に、わたしに遅れること二日後でしたか、視覚・聴覚障害者の入院がありました。大変でしたよ、それが。気の毒だとは思うのですが、とにかく大声を発せられるわけです。病室って静かでしょ? テレビにしてもイヤホン使用ですからねえ。会話にしても他人に聞こえないようにと小声じゃないですか。
家族の方は手のひらに文字を書いての会話をされているのですが、その返事が大声になってしまうのです。ご当人はその認識がないらしく――まあねえ、聞こえが悪いのですからそれも当然と言えば当然なことですが。すぐさま家族の方が大声を出さないようにと手のひらに書き込まれるのですが、なかなかに。
それが一日中ですから、閉口します。おひとりになられると大変です。ご当人は昼夜の区別が付かれない状態ですしね。悪気はないのでしょうが、こちらはたまったものじゃありません。お見舞い客のなかに幼稚園児だと思われる子どもさんが見えましてね、そのあまりの大声にびっくりして泣きだしたというわけです。それで長期入院されているこの部屋の主のような方が我々の代表として、その方の個室への移動を病院側に申し入れされました。すったもんだがありましたが、個室へ移られました。
泣き出したと言えば、名古屋の東山動物園でのことです。息子と出かけたのですが、えっと、三歳だったかな? 娘が生まれた年(四月一日生まれです)のお盆休みだったと思いますが。わんぱく盛りのはずなのですが、電車で移動中に、わたしの顔をじっと見ているのです。「窓の外を見てごらん」と何度も言うのですが、そのたびにちらりと視線を動かすだけで、すぐにまたわたしを見るんです。そのたびに、にっこりと笑顔を渡してやるのですが。外の景色に見とれていたら、わたしがどこかに行ってしまうのではなんて、そんな思いにでも囚われていたのでしょうか。仕事々々に追われて、あまり相手をしてやりませんでしたからねえ。ほんと、可哀相なことをしてしまいました。
話を戻しましょう。
人には向き不むきというものがあると思うのですが、他人からの指図が大嫌いなわたしのくせに、自ら予定を立てることができない――いや下手なわたしです。そもそも予定を組むのは好きなんです、いろいろ思い描きながら行程を組むのは楽しいです。ただ、その予定というか時刻設定がだめなんです。決してムリな設定ではないんですよ。
たとえば高速道路を走るときでも速度は七十キロで計算しますし、二時間弱おきでの休憩をいれますし。それでも目的地の到着時刻がおそくなっちゃうのです。まあわたしとのお付きあいが長いお方なら、お分かりだと思うのですけれど。そんな簡単にうなずかないで下さいな、せめて「そうだっけ?」と一度は首をかしげてくださいな。わたしとあなたの仲じゃないですか。「お前とは初対面だ」と仰います? 出会いというものには、必ずに初めてということがあるじゃないですか。それにですね、ここまでおつきあいいただいたんです。だったら、あなたとわたしの仲ですよ、もう。
横道にそれてしまいました。これからも話の途中であちこちと寄り道するかもしれません、どうぞ辛抱づよくおつきあいくださいな。どこまででしたっけ? フェリーの乗船前でしたね。四時半ごろでしたか、車が動きはじめました。シートを倒してのんびりしていましたので、慌ててエンジンをかけました。フェリーの乗船口にむかって出発です。大きくゲートを開いた様は、さながら鯨でした。その鯨の口に向かって、ゆっくりとスタートです。はじめてのフェリーです、どんな感じなんでしょうか。ワクワク感と不安な思いとが入りまじっての、フシギな感覚です。
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