ブルーの住人

第四章 蒼い殺意 〜ぼでい〜  

(九)至福のとき

 一気に読み上げた女学生は、あまりに彼らしいその内容に安堵感を抱きつつも“もしかしてあたしのことも……”と、淋しさを感じた。溜息をつく女学生、そして彼が声をかける。
「俺はそんな恋が好きなんだ。淡い恋心を持ったままで一生を過ごしたいとも思うんだ。おかしいかな?」
「わかるわ……」。幼い頃の想い出に思いを馳せながら、彼の肩に体を委ねる女学生だった。
「大人になるのって、嫌ね。恋愛も多少の打算が割り込むのよね、駆け引きとか。でも、あたしたちは否応なしに大人になっていくのよ。ううん、ならなくちゃだめなのよ」
 彼は自分の心が和みはじめていることに気づき、驚いた。暗くなった部屋で、殆ど見えない女学生の表情をはっきりと感じた。優しかった頃の、母の姿を。

「ねえ……」。
 肩に寄りかかっている女学生に気付いた彼に、暖かさが心地よく伝わってきた。
「ねえ、なにかレコードをかけてくれる? なんでもいいの、あなたの好きなもので」
「ああ……」。気だるく答えながら、立ち上がって部屋に灯りをつけた。
「いや、柔らかい灯りににして」
 鋭い語気の中に甘える声。胸の熱さが滾るのを、禁じ得ない彼がいた。 激しいビートの、ロック音楽(Led Zeppelin)をかける。
「だめ!」と、子供をたしなめるように女学生が叱る。FM放送に切り替えると、ストリングスの小気味よい音色が流れはじめた。女学生は満足気に頷いた。そして灯りが豆電球に切り替えられた。

 女学生の傍らに戻るか、ここに座るか? 思い悩む彼。女学生の温もりに未練を感じる。しかし……、と躊躇う彼だった。
「水でも飲むか?」。女学生の返事を待たずに、ポットの水をコップに注いだ。
「ありがとう」。座ったまま手を伸ばす女学生に、
「負けたよ、君には」と、苦笑しながら手渡した彼。一気に飲み干したコップに、見えるはずのない星が歪んで見えた。
「座りなさいよ」
彼が腰を下ろす。軽くリズムを取りながら、彼の腕を取り自分の肩にまわした。驚きつつも、嬉しさを隠せない。ともすれば滑り落ちそうになる腕に、彼は力を入れた。
「どうしたの? 痛いわよ、力を抜いて!」

 女学生のそのひと言に、彼は自分のぎこちなさに気付いた。自然に振る舞おうと意識しすぎたことが、却って彼を不自然にさせた。
「リラックス、リラックス! もうおかしなことは考えないで」
 女学生の屈託のない声に、「おかしなこと」のことばが、女学生の意図した意味ではなく、眠っていた獣の目を覚ましてしまった。肩においた手を外し、彼は大きく背伸びをする。そして、目を閉じながら故郷を思い浮かべようとした。
 そして下ろした彼の腕にふっくらとしたものが……。懐かしい感覚だった。母の胸に抱かれて、乳房に戯れていた幼児の頃。時と場所を選ばず、お腹が空けばお乳をねだった幼児の頃。至福の時だった。 含み笑いをする彼に、
「なあに、イヤーね。」と、彼の脇腹をこずいた。たまりかねて声をあげて笑い出す彼に、「馬鹿!   ククク……」と、女学生も連られて笑った。

 どちらからともなく体を壁からすべらせる。淡い灯りの中でお互いの目を見つめ合ったまま、寝転がった。彼の腕を枕にして
「イーッだ!」と、鼻にシワを寄せる女学生に、
「ベーッだ!」と、彼もまた舌を出す。
「もっと小さい頃に会いたかった」。彼がつぶやくと、女学生もまた
「そうね……」と答えた。
“これだ!何のわだかまりもない状態の今。これが、俺の求めていたものだ”

「ハハハ!」
 とつぜんに大声で笑い出すと、女学生をしっかりと抱きしめてそのまま転げ回った。
「なんて素晴らしいんだ! ああ、このまま時間を止めてしまいたい! ハハ、ハハハ、ハハハ!」


(十)蒼い殺意

 高らかに笑う彼の腕の中。体中の力が抜け、宙に浮いてしまうような感覚。
 女学生にしてもはじめてのことだった。ともすれば彼の腕からこぼれ落ち、大地に叩きつけられそうな不安を感じてしまう。しっかりと彼にしがみついているつもりが、いつの間にかまた力が抜けてしまう。
「いや、いや!」。思わず叫んだ、女学生。こぼれ落ちそうになる不安から、叫んだ。
「えっ、!」
 その言葉に我に返った彼は、反射的に上半身を起こした。
「ごめん!」と、重おもしく言う彼に、
「違うの、ちがうの。」と、言う。意味を取り違えている彼に、必死に女学生は言った。

 しかし、理性を取り戻した彼はもう元には戻れない。瞬時ではあったが、幼児に戻った彼だ。しかしいまはもう、ひとりの女性として感じてしまった。そんな彼の腕を引っ張り、寝転がせた。けれどもいまの彼には、同じようにしっかりと抱きしめてはいても、女学生の柔らかい感触だけが伝わり、あの温もりは感じ取れなかった。ひと時のあの世界は、もう彼の心の中になかった。
“脆い”と、いまはもう機械的に女学生を抱きしめる彼だった。そして彼の心の中に、幼い頃に見た恐ろしい光景が浮かび上がった。今日(こんにち)の彼を作り上げた原体験が。
 暑い夏の夜、あまりの寝苦しさに目を覚ました幼児の彼が見たものは、両親の交わりだった。苦痛に歪んだ母の表情に、幼児の彼は恐怖心から大声で泣き叫んだ。そのことがトラウマになっているのは、間違いなかった。

 彼の変化に気付いた女学生は、彼の腕から逃れようともがく。しかしそんな女学生のもがきが、裏目に出る。彼の欲情、獣の叫びを呼び起こす結果となってしまった。
「イヤッ!」 。女学生は、激しく頭(かぶり)を振った。
「怖いっ! いつものあなたじゃない!」
 女学生の頭の中に、彼とのsexがまるでなかったわけではない。むしろ “彼がその気になってくれれば、許してもいいわ…”とさえ、考えていた。夜学生の中で独り浮き上がった存在の彼だった。そんな彼に好意を抱いている己に、ある種優越感を抱いていた。
“彼を理解できるのは、あたしだけよ”
 級友たちは、口を揃えて 「あの子ってさ、変よね。なにを考えてるか、分かんないもんね」と、不気味がった。

女学生も、
「そうねえ、変わってるわね」と、応じてはいた。しかし心底では、“彼の本質が見えてないのよ、貴女たちには”と、半ば馬鹿にしていた。
“彼のsex嫌いを、あたしが治してあげる。そう、軌道修正してあげるの”
“あたしの胸で、彼を抱きしめてあげる。あたしの手で、優しく髪を撫でてあげる。そして軽く髪に口づけしてあげるの。きっと、頑なな彼の心をほぐせるわ”
 そんな不遜な思いに、女学生は駆られていた。しかし、こんな暴力的なsexは許せなかった。“ちがう! かれじゃない! こんなの、うそよ!”
 女学生は溢れる涙を止められなかった。
“お願いだから止めて! こんなことで嫌いになりたくない!”
“おかあさん、たすけて! こんなつもりじゃなかったの、こんなかれじゃないはずなの。おかあさん、おかあさん、たすけて!”
 悔やんでも悔やみきれない思いの中に、母親の顔が浮かんだ。怒り顔の母親が、浮かんだ。

 女学生の立ち去った部屋にひとり残された彼は、一瞬に天国と地獄を見たように感じていた。今ほど自分を恨めしく思ったことはない。これまでの十七年間の彼が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
「こうして大人になっていくのか……。嫌だ、いやだ! 大人になんかなにりたくない! チルドレンシンドローム……それならそれでいい。一生を酔っぱらいで過ごしてもいい。狂人というのなら、狂人でいい」
 彼の観念の世界を滅ぼした己に激しい自己嫌悪を感じ、罪悪感に苛まれた。女学生の肌の温もりが、彼の体に強く残る。しかしそれを意識する度に、彼の苛立ちは増した。
「偽善者だ!ピエロだ!」
 彼は、彼自身に、はじめて『蒼い殺意』を持った。

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=余談=

当時交際あっていた女の子に、この原稿を読まれてしまいました。
“バチン!”
平手一発、なら良かったんですが、涙を浮かべて部屋から飛び出していきました。
無理もないです、それまで手ひとつ握ってなかったんですから。
はじめてアパートに、呼んだ日でした。

気付かれましたでしょうか、彼の言葉を。
「狂人というのなら、狂人でいい」
この作品をきっかけに、「狂ぃ人の世界」を思い付いたんです。

そのままでは芸がないと思い、神と悪魔の前段を、付け足しました。第二幕、第三幕、とあるのですが
まだ整理がついていません。できるだけ早く、とは思っているんですが中々に。