ブルーの住人

第四章 蒼い殺意 〜ぼでい〜  

(七)sex否定論者

「どう、似合ってる? めったに着ない服よ、これ。あなた随分ムリしてるのね、freesexを認めるだなんて。そのくせあなた自身は、sex否定論者ですって?」
 勝ち誇ったように言う女学生。おぞましくも彼は、自分の心の中に見た。女学生の前にひざまずき許しを乞う姿を。声を失う彼だ。
「どうしたの? 日頃のあなたはどこに行ったの? いつものあなたは自信満々よ。恐ろしいくらいに独善的だわ。けど、今日のあなたは変だわ!」
 追い打ちをかける女学生の言葉。体中をバラの鞭で打たれるように感じる。その痛みが、彼の混迷を増幅させた。

「sex? なぜする?」
 彼は、自分に問いかけるようにつぶやいた。とつぜんの彼の言葉に対して、女学生は彼を直視しながら毅然と言った。
「もちろん、愛の証しのためよ」
「そんな不安定な愛なら、いらない」と、自嘲気味に吐いた。そして、女学生の前に居住まいを正した。
「どうしてsexを神聖化するんだ。単なる行為だろう、快楽を得るためのいち行為じゃないのか。愛の証し? 冗談じゃない! それこそ、愛への冒涜だ」
反論を許さない強い口調だった。女学生は、freesexを否定したわけではない。といって、認めるわけでもない。いや、やはり否定しているのだろう。感性として受け入れられないだろう。道徳的にも許せないのだろう、愛のないsex は。

「男性のエゴよ、封建時代の遺物よ。女性は、あくまで受け身よ。生理上からして、そういった構造なの。男性には、終わりが終わりでしょうけど。女性には、終わりが始まりなの。ううん、妊娠だけのことじゃない。身体に混じるものなの。男の人にはわからないでしょうけど」
 母親の受け売りかもしれないその言葉は、彼の心には届かなかった。どうにも今日の女学生の服装が、その言葉に真実味を与えなかったのだ。
 女学生は、部屋をグルリと見回した。口を大きく開き、叫んでいる? 怒鳴っている? 写真。奇異な感じを抱いた。
”ひょっとして、ホントに狂ってる?”

「ネエ、この写真を撮った人、誰?」。問いかける女学生に
「ぜんぶ俺だよ、もちろん」と、見下すように答えた。
 その語気に驚いた女学生は、言葉を詰まらせた。
「おかしいか?」と、打って変わった優しい彼の声。女学生は、いつものように皮肉っぽく尋ねた。
「声、出したの? 怖いわ、この写真」
「ああ、もちろんさ。出したさ。この写真は、全部そうさ。笑う時も泣く時も、全部だ」

 胸をはって答える彼だった。女学生は、もういちど言いしれぬ不安を感じた。窓から差し込む光りが弱くなり、薄暗さを感じはじめた。理解に苦しむ行為、言葉の連続。今さらながら己の愚かさを悔いた。せめてもドアだけでも開けておけば良かった、そう思う女学生だった。
 通路に面する窓に雨戸が引いてあり、外界とは一線を画している。ドアをノックする時、ドアノブがくるりと回る。鍵がかけられていない。いつものことなのか、それとも今日ゆえのことなのか。答えを求める前に、女学生の手によって開けられた。そして中に入る時、閉じられた雨戸に気付きながら、“こういう男よ”と気にもとめなかった。
 隣人との交流を拒むであろうことは感じていた。彼の性格からして、さもありなんと思えた。しかし、彼に対して身構える必要を感じない女学生だった。むしろ、そんな獣のにおいを感じさせない彼に不満を抱いていた。力ずくで押さえつける気概を持って欲しいとさえ、考える女学生だった。

”机上の空論だ!”
”根無し草の言葉はその場しのぎだ!”
 非難されながらもそれに甘んじる彼に、はがゆさを感じていた。学友の非難の原点が、彼のsex否定にあるということは知っていた。そしてその理由が、母性を放棄し女としての人生を選択した彼の母にあることを、女学生は知っていた。そのことが、彼の心に重くのしかかっていることを知っていた。しかし彼は、それを言い訳にはしない。己の意志だと言い聞かせていた。
「あたし、帰る!」。言い残して、女学生は立ち去った。これ以上の時間は、女学生には耐えられなかった。惨めさが、女学生を襲っていた。


(八)戻った彼女

 いま、彼のこころに、惨めさが深く突き刺さっている。女学生が憮然として帰ったからではない。
不満げな表情を見せたからでもない。頑なに己自身を抑えつづけたことが、である。
反道徳だ!
無道徳だ!
その壁を打ち破ろうとしない己自身に、惨めさを感じたのだ。
「何故だ? 結局ダメなのか俺は。いまの俺に、未練があるというのか……。
 馬鹿な! 考えすぎるからかもしれない。俺は、自由が欲しい。絶対的な自由が欲しい」
 積み上げた本の中から、図書館から借りだした一冊を取り出した。 ステレオのスイッチを入れ、FM放送の音楽を流した。そしてそのリズムに合わせるように、又声を上げて読み始めた。

「頭を首切り台に載っけてぢっと待ちながら……次に来るものをに意識している。最後の一秒となっても、かふいう状態が続くのです……。と、不意に頭の上に鉄のすべる音がきこえる」
 『白痴』の一節を声をあげて読み上げた。
「それはどうしても聞こえるに相違ありません! もし僕だったら、僕がそんな風に板の上に臥てるのだったら、僕はわざと耳を澄ましてその音を捉へたでせう! それは多分一瞬間の十分の一くらいしかないでせうが、必ず聞こえるに相違ありません。それに考へてもごらんなさい。今でも世間で議論してるじゃありませんか。頭が切り離されたことを知ってたら、どう云ったらいいか」
*注:原文に忠実に掲載しています。旧かな遣いです。

「トントン!」
 ドアをノックする音を、彼は逃さなかった。“もしも戻ってきた時には……”。固い決意をしていた彼だった。耳に、“ガンガン!”と響く心臓音を、否応なしに聞いた。再度のノックに、彼は吸い付けられるように立ち上がった。
「誰?」
 押し殺した声が思わず出ていた。
「あたし! 忘れ物したの、中に入るわよ」。言い終わらぬ内に女学生が入ってきた。
「袋を忘れたの」
 女学生の指さす場所に、たしかに紙袋はあった。しかし、ゴミとしてのように隅に置いてあった。しわくちゃの紙袋のためにわざわざ戻ってきたとは思えない。

 彼としては精一杯の愛情を込めて言った。そして余計なひと言も付け加えられた。
「ついでに、テーブルの上を片づけてくれよ。そのつもりで戻ってきたんだろう」
 瞬時、女学生は頬を赤らめた。しかしすぐにキッと睨み据えた。
「なによ! 心配だから戻ってきたのに。いかにもあたし、邪魔者みたいね。ひどいわ! お掃除までしてあげたのに。だいたい失礼よ、あなた! あたしを呼んでおきながら、ひとりで訳のわからないことばかりつぶやいてばかりで。馬鹿にしないで! 嫌いならきらいと言ってよ。どうしてあの時 『来るな!』って言わなかったの。黙ってるから、あたし……」
 涙声で、言葉を詰まらせながら言い返した。

 彼は、黙ったまま窓際に座り込んだ。入り口に立ちすくんでいた女学生は、勢いよくドアを閉めた。そして彼の前に正座し、じっと睨み付けた。
暫くの沈黙が流れた。
「意気地なし!」。金切り声をあげ彼の膝に泣き崩れた。それでも彼は、黙りこくっていた。やがて、それは激しい嗚咽に変わった。彼は体を横に伸ばして、本の上の原稿用紙を取った。そしてそれを女学生に手渡した。
“読めよ!”と、目で言う。肩をしゃくりあげながら、彼の横に座った彼女。電燈の弱い光の下で読み始めた。


(八の2)ハイネ詩集より

僕たちは互いに敏感に感じ合った。
それでも申し分ない仲だった。
僕たちはよく「夫婦ごっこ」をして遊んだ。
それでもついぞ喧嘩はしなかった。
僕たちは一緒に騒いだりふざけたり、やさしく抱き合ったりキスしたりした。(*)

(*)ハイネ恋愛詩集 『抒情的間奏曲』より 抜粋
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彼女はいろいろ俺に教えてくれた。
日曜日というのにひとりで映画館に入ったのは、恋人がいないのかそれとも今日のデートがだめになったのか、そのどちらかだろう。違うとしても、”淋しい、退屈”そのどちらかだ。
そしてその映画を、「ファンタジア」というアニメにしたこと。現実の生活に疲れているということだ。これだけわかればもう十分だ。
彼女はムッツリと黙りこくり、笑わない。俺は、わざとゲラゲラと笑ってやった。さ程におかしくない場面でも無理に笑ったものだ。
彼女は、そんな俺に少しは興味を持ったのか時々俺を盗み見している。俺は、素知らぬ顔でなおも笑った。そしてとうとう、「クスッ」ときた。こうなればこっちのものだ。もう後は、あれよあれよという間にゲラゲラ笑いはじめた。
小亀が自分の利点を駆使して、大きいブルドッグを負かす場面。涙を流して喜び、そして笑う彼女がいる。これは相当の重症だ。相当の痛手とプレッシャーがあるらしい。可哀想に、慰めてやらなければ。
俺は静かに彼女の笑い声を聞いてやった。彼女は俺に気兼ねなく笑っている。“力一杯笑いなよ、俺がそばで見ていてあげるから”
彼女の笑い声を耳にし、ある快感を覚えた。素晴らしい、背筋がゾクゾクする。そう、これは俺に与えられた特権だ。俺は、彼女が笑うことを止めるまでじっと笑いをこらえた。邪魔をしたくなかった。が、とうとう俺の恐れる時が来た。幕が静かに降りて、館内が明るくなった。
さようなら、さようなら愛しい人よ。
俺は、君の顔を見ることなく帰るよ。
さようなら!
君の名も知らず、俺の名を告げることなくこのままお別れだ。
俺の、俺だけの奇妙なデートはこれで終わりだ。
−−−−−
 とうとう最後に、子供らしい思い付きで杜の谷間でかくれんぼをして遊び、あんまり上手に隠れたものだからとうとう見つからずじまいになってしまった。(*)

(*)ハイネ恋愛詩集 『抒情的間奏曲』より 抜粋