
第四章 蒼い殺意 〜ぼでい〜 |
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| (三)人間性 彼は、心の中を見せない。他人の侵入を極端に嫌う。それ故か、彼の部屋を訪れる者はいない。 仲間と友人。彼は、区切りをつけている。それが何故なのか? 今まで考えもしなかった。が、学友との口論から、それを考えるに至った。 ――町工場での俺は、労働の代価を受け取る。しかし夜学での俺は、支払う側のわけだ。当然、時間の自由があってしかるべきだ。労働中の俺に、自由のないことは理解できる。しかしなぜに、授業の選択が許されない? 規則だからと、諦めにも似た気持ちになっている。 高校は義務教育か? 否! 大学では選択が許されている。授業を受けるも受けないも、選択できる。しかし当然ながら責任も負わされる。単位不足という罰がある。高校には…? ない! よほどのことがない限り、進級できるし卒業もできる。そういうことか。ところてん方式か。高校での入学時の誓約書は、強制であり交渉事ではなかった。町工場への就職時には、形だけであっても交渉があった。 町工場においては、能力差がある。しかし、夜学にはない。同レベルと見なされている。ある意味での侮辱ではないのか。正当な判断を下さないその行為は、偽善ではないのか? 教育という美名の下の授業。 誇らしげに語る教師。 卑下するかの如き物腰の教師。 俺には教師の選択が許されない。 マスプロ化された授業。 言い古された言葉の羅列。 過去の説明に始まり、昨日の体験に終わる。 まるで、未来の探訪を邪道と決めつけている。 今日の我々の悩みは、授業ではタブーとされる。放課後の課題だという、今知らねばならぬことでさえ。しかもその放課後では、「忙しいから……」と、にべもない。 我ら夜学生の悩みは、同世代の悩みと同じのはず。現体制化の矛盾、疑問。現在の道徳の矛盾、疑問。異性との恋愛問題。具象がいけないならば抽象で、というわけにはいかないこともある。性の問題は、タブーなのか? 若者にとって、人生で最も重要な「恋」については何も教えてくれないのか。 言葉が万能だとは思えない。仲間と友人。仲間とは具象であり、友人とは抽象なのか? 仲間という言葉に、過剰反応する教師。生活指導部長という肩書きが、恨めしく思える。 好きな教師だけに、苛立ちが増す。 教師に、反省は無いのか? 学生の要求は越権か? 教師と生徒。 特殊な関係と、相手にされぬ。世間での上下関係とは異なると、のたまう。ならば、「すべてにおいて、スーパーマンたれ!」 と思う。 彼は、口論を好まない。他人との深い繋がりを嫌う彼だった。或意味で、弱者の立場を望む彼だった。しかし、常に強者としての己を、彼は彼自身に要求していた。彼は、保護を求めぬかわりに、他者への救済を拒む。 涙を嫌う彼だった。涙を流す余裕を嫌う彼だった。が、私は知っている。彼は涙もろい人間だ。かつて「家なき子」の読後、泣いていた。 |
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| (四)瞑想 部屋の隅で小さくうずくまる彼は、さながら動物園の檻のなかの小猿である。怯えを隠すことなく、うずくまっている。 「もしこの俺に時間を止める力があるとしたら、まず何をする?」 彼の思考は、具象を伴うのが常だ。しかしそれは、抽象の産物としての具象に過ぎない。 陶淵明作の「飲酒」の一部を引用して、彼の思考を見よう。 結廬在人境 (粗末な家を作って、人里の中にいる) 而無車馬喧 (しかし車や馬のやかましさがない) 問君何能爾 (君に聞くが、どうしてそうしていることが出来るのか、と) 心遠地自偏 (心が人里から遠く離れて、地が自然と辺鄙であるからだ) 採菊東離下 (菊の花を東のまがきのほとりで取り) 悠然見南山 (悠然として南の山を見る) 山気日夕佳 (山の気配は夕暮れで美しく) 飛鳥相興還 (鳥が連れ立ってねじろへ帰って行く) 比中有真意 (この中に人生の真意がある) 欲辨己忘言 (説明しようとすると、もはや言葉を忘れてしまう) *訳 Wikipedia より sex を否定した俺だが、案外それかもしれない。プラトニック・ラヴの存在を否定する者がいるが、俺は信じる。幼少年期における思慕を、ラヴと見るか否かが出発点だ。あいつは、愛なきfreesex は断固許せぬと言う。しかし、俺はそう思わない。sex の神格化は、sex への侮辱だからだ。子孫繁栄の為のsex など、くそくらえだ! 人間の自由の束縛だ。もっとも、かく言う俺がsex の否定を口にするからややこしくなる。激しい歓喜を伴うだろう一時的な快楽よりも、微弱かもしれぬが永続的な歓喜を、俺は望む。少年期のほのぼのとした淡い感情がいい。裏返しかもしれない。 極端な程の好奇心の、裏返しかもしれない。 もし俺に、時間を止める力があったとしたら……? そう! あの傲慢な事務員に、軽蔑しているストリップをさせてやる。道路上でだ。尊敬する社長を侮辱したむくいだ。 つぎは、皮肉ばかり言うあの主任を棒きれで打ちのめしてやる。俺の仕事に、文句の多いふたりだ。? そして、クラスメートのひとり。自分の3サイズを自慢する女。俺のことを、いつも侮辱するおんな。 曰く、弱虫。 曰く、チェリーボーイ。 曰く、遅刻魔。 くそっ! どうしてやろう。誰もいない部屋で裸にするか? そして悪戯するか? いや待て! フンッ! と、そっぽを向いた方が、より効果的か? 物理的に不可能なことに、胸を躍らせる彼だった。非人道的手段を、頭に浮かべる彼だった。同年代の若者との壁を自ら作り、ともすれば、押し流されやすい彼自身を叱咤するが如くに。 あなたにそっと 口づけがしたい あなたの知らぬ間に 青空の下で 彼の心情を、端的に現した詩である。が、彼自身は、そんな自分に、嫌悪感を抱いてはいる。 彼の嫌いなものの一つに、夜の川がある。人々が休息をとるその時でさえ、流れることを止めぬ川が腹立たしいという。追い立てられるが如くに流れつづける川が、嫌いだと言う。そう、彼自身に、似ているからだ。 今という時に満足のはずが、常に追い立てられている。 |
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| (五)来訪者 瞑想から我に返った彼は、運命の時刻の訪れが近づいたことに気付いた。昨夜の学友との口論の後、あの女学生が例の如く彼をからかったのだ。 「口先ばっかりよ。机上の空論よ。だめだめ、〇〇君は」 もちろん彼も言い返した。 「馬鹿にするな! 俺も男だ。『いざ鎌倉!』と言う時には、やるさ」 しかし、一笑に付してしまう女学生。珍しく、彼が反撃した。 「男の部屋に来れないような奴に、とやかく言われる覚えはない!」 私から見るに、男の部屋に云々というのは言葉のあやに過ぎない。困ったことに、女学生はそれを良しとしない。それを、言葉のあやと簡単に片づけようとしない。 「いいわ。じゃ、お昼過ぎに行くわよ。いいこと、逃げ出さないようにね」と、さも決闘状を手渡すように言い放った。 まるで予期せぬ女学生の言葉に、彼は何も言い返せない。ただただ、唖然と相手を見つめるだけだ。それが、昨夜のことだ。軽い頭痛を覚えた彼は、横になるやすぐに眠りに入ってしまった。 「起きなさいよ!」 聞き覚えのある声に、彼は飛び起きた。彼の視界に入った女学生は、”約束通り来たわよ!”と、突き刺すような目を見せた。 「なによ、この写真。あなたのばかりじゃない。それも変な顔ばっかり。自意識過剰じゃない? 泣き顔・笑い顔・怒り顔、正面・横・上向き・下向き・斜め……呆れた! どういう人なの?」 彼が、口を開いた。 「民主主義の究極は何だろう? 無邪気な子供の悪戯だろうか? 憎めない悪戯だろうか?」 小学四年生の子供が遊び仲間の言葉を真にうけて、凧に母親の陰毛を貼り付けようとする。「高く上がるんだぞ!」という言葉を信じて。それを聞いた教師は、叱るどころか頭を撫でて笑った。大人から見るととんでもない事なのだが、子供にはまるでわからない。教師の頭を悩ませていた恋愛問題が、絵空事に思えてしまったとか。 常識という枠を飛び抜けた、純真さから生まれた行為。世間的には恥ずべき行為だ。しかしそれが子供の悪戯心からだと、なんのエロチシズムも感じないから面白い」 とつぜんの彼のことばに、呆れ返る女学生。 「また訳の分からないことを。いいわよ、勝手に言ってなさい。あたしは、掃除してるから」 彼にしても、なぜこんな事を口走ったのか……分からずにいる。わたしに言わせれば、単なる照れ隠しのように思えるのだが。 「今は、昔じゃないんだ。豊かになった。食料のことで争うこともない。働けばお金が入るし、食べてもいける。そもそも、職業を固定化することはおかしい。その日の自分の状態で、最も適していると思える仕事をすればいいじゃないか。人間は自由なんだ。お金だとか、そんな物質的なものに縛られちゃだめだ! 秩序だとか、道徳だとか、そんなものは自然に任せればいい。この間、『他人の顔』という小説を読んだ」 黙々と片づけを続ける女学生の甲斐がいしさが、すがすがしい。学校での彼に対する態度が嘘のように思える。女学生の反応はなかったが、彼はなおも話しつづける。沈黙に耐えられないかの如くに。 「顔全体に火傷を負った中年男の話なんだ。以後、妻はその夫とのsex を拒みつづける。火傷を負ってからの、夫の自信喪失が妻には大きくのしかかったようだ。『愛の証し』として強要する夫に、妻は拒否反応を起こすんだ。そのことが夫にはわからない。不具者ゆえだと思いこむ。そこで、仮面をかぶることによりその烙印から逃れようとする。『他人の顔』になるわけだ。手術後、ぐるぐる巻きの包帯顔で登場だ。 誰も自分を知らないんだ。昔の自分ではないとなるとだ、まるで自由なんだ。全ての物から解放されるわけで、囚われる必要がない。素晴らしいよ、自分自身の心まで欺けるんだから。しかし、しかしだ。ひとつ、問題がある。自己の確認だ。誰も彼のことを知らないわけだ。当たり前だ、とつぜん現れたわけだから。彼の過去は、今の『他人の顔』の過去じゃないんだ。そしてその内、彼自身が何者なのか分からなくなってしまう。 もちろん名前もあるし、本質的には変わってはいない。だけど、その証明ができない。人間の証明は、結局『顔』だからね。有り余る自由を手に入れたが為に、自己の確認をする術を失ってしまったわけだ。人間というもの、所詮、他人あってのものか?」 |
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| (六)本田宗一郎氏 ひと一通り片づけ終わった女学生は、独り言をつぶやき続ける彼をまじまじと見つめる。 「よくもまあ、そんなことばかり考えられるわねえ。驚いたわ! 変人だとは思っていたけれど、予想以上ね。知らない人が見たら、あなたのこと狂人だと思うわよ」 持ってきた包みを折り畳み式のテーブルに並べた。 「さあ、お昼まだでしょう? おにぎり作ってきたから、食べましょ。あたしの手作りだから、上手じゃないけど」 しかし、そんな女学生の声に耳を貸すこともなく彼の口は動く。 「だけどだ。映画のテーマはちょっと違うかもしれない。おかしいんだ。仮面を被ったまま、妻を強姦しようとする。素直に従う妻を見下ろして、『実は……』と、夫であることを告げる。すると、妻は平然と言い切った。『分かっています』ってね。たまらず、男は半ば半狂乱状態で外に飛び出した。ところが、行き交う人びとすべてが包帯を顔中に巻き付けている。かつての自分のように。 分からないんだなあ。妻の愛の証しを確かめるための行為だったのか、まったくの新しい自己確認の為のそれだったのか。難解だね、安倍公房という作家は」 テーブルの上のおにぎりに吸い寄せられるように、彼は手を伸ばした。優しさを満面にたたえる女学生が話しかけようとする。しかし、おにぎりをほおばりながら、彼はつづけた。呆れ顔の女学生に向かって。 「民主主義の究極、……無道徳。どうしてもしっくりこない。形のない物なんだよな。法律や規則の外にあるんだ、道徳は。ひとつひとつの約束事を意識せず、体に染み付いてる状態……? 分からないんだ。俺は、無道徳だ、反道徳だと叫んでいる。じゃ道徳とは? と聞かれても答えられない。無道徳は本能むき出しのことか? それじゃ獣になってしまう。いや、動物だって最低限度のルールを持っている。 元本田技研(現ホンダ自動車)社長の、故本田宗一郎氏が面白い随筆を書いていた。『時間の価値』という表題だった。人間の欲望は果てしない。俺だって、君だってそうだ。しかしそれらは文明度が高まるにつれ、満たされるだろう。 が、欲求の究極はといえば、結局のところ“時間”かもしれない。あらゆるものを克服しても、時間だけはどうしようもない。生活を無視してしまえば、有限であるとはいえ時間はつかめるだろう。 人間の生産活動の全てをロボットに任せたとしたら……。 本田氏の随筆にはこうあった。 ――人間は、己の欲するだけの時間を工場で働く。その対価として、『時間券』をもらう。その『時間券』によって、自由な時間とする―― 大体、そんなようなことだった。ひょっとしたら、ほんとにそんな社会がくるかもしれない。そうなったらどうする?」 相手の気持ちを気遣うことのない彼だ。一方的に押しつける言葉が、空虚しく部屋を流れる。 「そんな難しい話はわかんない!」 彼の言葉とは裏腹に、心の奥底で吠えつづけている獣の叫びを無視はできない。そんな獣の衝動に脅かされ続ける彼。だからこそ、会話の成り立たないことを知りつつ喋りつづけているのかもしれない。女学生の訪問は約束事とはいえ、不安定な下での約束である。彼は“来るはずがない”と、自分に言い聞かせていた。 異性がこの部屋に来ることなど、一度もなかった。誘うこともなかったが、断られるのが当たり前と思っている彼だ。いや、もっと言えば、恐かったのだ、断られるのが。他人との繋がりを持ちたがらない彼の裏返しは、まさにそれであったろうと、私は思う。 「体に毒よ! あなた、いつもそんなことばかり考えているの? だとしたら、異常よ! あたしが来ないと思っていたんでしょう! そうね、あたしも迷ったもの。こんなことお母さんに話そうものなら、泣いて叱られるわ、きっと。でも、あなたに馬鹿にされるのも嫌だったし」 突き刺すような視線と、真綿で首を絞めるような棘のある口調、と、彼は受け止めている。 女学生の服装に、彼はたじろぐばかりだ。真っ赤なミニスカートに、グリーンのブラウスという原色の組み合わせだ。制服に隠されていた乙女の脚は、彼の目に眩しい。温くなった苦いお茶をグッと飲み込むと、「いつもそんな服か!」と、詰るように強く言った。 女学生の目がキラリと光り、妖艶さを漂わせつつ 「ふふ……」と笑った。 |