ブルーの住人


第六章 蒼い情愛 〜はんたー〜  
寝ぐるしい夜があけた朝、母が、おれの記憶から消えさっていた。
そしてその日から、母にたいして怨嗟の念をだいていた。

「親としての責務をはたせよ!」
「ごめんね、ごめんね……」

ときおりかかってくる詫びの電話。
嗚咽とともにくり返される、詫びのことば。
しかし日が経つにつれて、単なる雑音となった。

なんの感慨もわかず、なんの感情も入ってこなくなった。
そしてそれは、けっして自暴自棄のこころでは、ないはず筈だ。
そう、思った。
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 (一)鼠

その[し]刑囚は[し]への恐怖心がうすれるにつれ、生あるときを思いおこした。活きいきと生きた、そのときを思いおこした。
己のつみを意識し、悔いた。しかしその悔いは事件にたいする悔いではなく、おのれの過去と未来への悔いだった。
「[し]刑に処する」
冷たく事務的なこのひと言は、[し]刑囚にはなんの意味ももたなかった。それどころか、人をころしたことへの後悔の念をあとかたもなく捨てさせた。鼠が食べのこしたチーズひと欠片ほどの反省心さえも捨てさせた。
その恐ろしく事務的な声は、ひんやりとした空気のただよう場を直線的に走った。そしてそのことばの矢は、じっと聞き入っていた傍聴人たちのざわめきを呼びおこした。
そのざわめきは、皮肉にも[し]刑囚の緊張感をやわらげさせた。刺すような視線を全身に感じて、肌にいたみを感じていた[し]刑囚の、こころのざらつきを消し去った。
しかしつぎの瞬間、その緊張感とこころのざらつきを、至極なつかかしいもの
――冬眠を終えた蛙が、暖かい春の陽射しの下にでた歓びにも似る――と、感じた。


(二)繋がり

 その[し]刑囚は、冷たい銀のフォークの眼差しで、裁判官の胸をつき刺した。「あんたに、なにがわかる!」。こころのなかでつぶやいた。
 ひとり、[し]刑を宣告された現実をかみしめる[し]刑囚。
 うす暗い、四方を冷たいコンクリートで閉ざされた部屋。
 便器と文机と、そしてキチンと畳まれたせんべい布団一式。
 俗界につながる、唯一の楽しみの窓は、頭上高くにある。
 太陽がのぞきこむ少しの時間と、空の一部のみを見るという哀しみ。
 いっそ、なければいいのに。
 いやいやいまの[し]刑囚にはそのことよりも、その窓があるということが、忌いましい。
 その窓が、し刑囚の俗界に対する未練心を、郷愁をかきたてさせることが腹立たしい。
 いっそ、なければいいのに。
 もし…窓がふさがれたら…やはり腹立たしい。
 青空…雲…流れる…流浪…涯て…老い…[し]
 思い浮かぶことばが、[し]刑囚の意図することなく繋がりをもとめていく。


(三)絶叫

 その部屋は、閑とした部屋。つめたい空気だけがおともだち。
 潜在的な[し]に対する恐怖感を感じさせたが、ややもすると[し]への恐怖感を超越しがちでもあった。
“地獄ってのは、あるのか? ふん、あるわけないか”
“地獄がない、とは… 言えないか…”
“意識が遠のく…とだえる…それが、[し]か?”
 恐怖の究極…不安と絶望と、そしてやはり恐怖。そしてそのどれもに、絶叫をともないそうだ。
 絶叫――
 なんにんが[し]刑の宣告を受けて、こうやって執行の日を待った? 
 なんにんが、落ち着いて[し]を待ったんだ? 
 待った、のか! ほんとに、まったのか!!


(四)ぜいたく

裁判官は、おれに[し]刑だと宣告した。
その理由を、前途有望なるふたりの若い男女を[ころ]したからだという。未来に大きな夢をいだいていたであろうふりの[さつ]害は、重い罪だという。
じゃ、おまえはどうなんだ! このおれにだってゆめがある。おれいがいの、なんにんを[ころ]した? [し]刑とした? 法律をたてにとって、人を公然と[ころ]しているくせに。
[し]? なんだ、そりゃ。生きるってのは、どういうことだ? 案外、いまこそ生きてるのかもしれないぞ。こんな立派な鉄筋のビルだ。雨風をしのげて、窓からは太陽をおがめるし、月だってのぞける。お星さまだってみえるんだ。
一日三度のおまんまが食べられるし、仕事だってさせてくれる。時間になったらキチンと休憩もとらせてくれる。まったくぜいたくな生活だぜ。


(五)マシ

 その昔、軍隊に喜んで入隊した男がいたってことだが、その間抜け野郎の気持ち、いたいほどわかるぜ。
 こりゃひょっとすると、『人でなしの国』も良いかもしれんぞ。
 どうせ人間一度は[し]ぬんだ。なにをして、どう[し]のうと同じさ。
 地獄があるわけでもなし。それにどうだい、なんの苦痛もなく[し]なせてくれる。
 キチンと、後始末もしてくれるんだし。下手に行き倒れや餓[し]で[し]ぬよりは、よっぽどマシってもんだ。


(六)煙草

 [し]刑囚は独りつめたいベッドに横たわり、仲間からとりあげた煙草をくゆらせた。すこしずつ窓から夜のとばりが、闇が、入りこんできた。気持ちの高ぶりが少しずつ収まる。闇の広がりとともに、僧侶がしきりに唱える安心の世界に入り込んでいく、と考えた。
 しかしそんな[し]刑囚のこころの営みは、結局のところ徒労に終わる。[し]という現実の壁は、容赦なく[し]刑囚を追いこんでいく。
 しかしまた、どうして俺はあのふたりを[ころ]したんだ? 実のところ、おれにも分からない。


(七)化膿

 [ころ]すほどの、理由が見つからないんだよ。
 あの女にそれほど惚れていたわけでもないし。
 おまえひと筋だ! なんて、落とすまでは言ったけども。
 最近じゃ、ちいとばかし飽きもきてたし。
 あの男との結婚話だって、俺にとっちゃ渡りに舟だったんだ。
 ただすんなりと認めちゃ、あの女に悪いかな? ってことぐらいだったし。
 それを、世間の奴らが。
 なにをとち狂ってか、やれ「裏切られた、捨てられた」のって。
 「辛いだろうに、憎いだろうに」、って散々に。
 痛くもない傷をさすられ過ぎて、ぎゃくに化膿しちまった感じだ。


(八)格好

 知りたくもねえことをべらべらと話しやがる。
 もう、どうでもいいんだよ。
 いつ式を挙げようが、どこで披露宴をやろうが知ったこったじゃねえ! 
 馬鹿野郎がよけいなことを耳に入れやがるから、怒鳴りこまねえと格好がつかなくなっちまって。
 気がついたときには、ふたりを[ころ]してたぜ。
 だいたい、なんで止めねえんだよ。
 ひとこと言ってくれれば、やめたよ。
 だれも俺を止めやしねえ。
 どころか、やいのやいのとはやしやがって。
 おかしいじゃねえか、まったく。


(九)実感

 刑事に話してもラチがあかねえし。
 検事ときたら、頭っから信用しやがらねえ。
 裁判官だってそうだ。
 俺の言うことは、はなから嘘っぱちだと決めつけてやがるし。
 反省のこころがないだと? そんなもん、あるわけねえだろうが。
 [ころ]したって言う実感がねえんだ、俺には。


(十)It's me!

 [し]刑囚はゆっくりと大きく吐き出し、煙の行方を目で追った。そして[し]刑囚の目に映ったものは…。社会機構のなかで身うごきできない世界が、あたかも煙を吐きだすように[し]刑囚の人生を変えてしまった。
 毒々しいけむりに焚きつけられて、いつのまにか時間の暴力にのみこまれていた。そしてそののみこまれた世界は、だれもいない浜辺だった。
 うす気味わるい灰黒色の雲におおわれた浜辺で、ネイビーブルーの海をたったひとりで泳いでいる[し]刑囚を、だれかがうつろな目で見ている。
「だれだ、おまえは!」>視線に気づいた[し]刑囚が問いかける。
「It’s me!」。声がかえってきた。


(十一)罪人

 一体全体、世間の奴らはどういうつもりだ。[ころ]せ[ころ]せと焚きつけておいて、いざ思惑通りに事がはこぶと、今度はうらを返しやがって。
 やれ人殺しだの、人非人だの、残虐非道だのと責めやがって。 どっちがだ! くっだらねえ奴ばっかりだ! 
 だれかが幸せになろうとすると、だれかに横槍を入れさせる。 で、破滅を楽しむんだろうが。
『ぴかぴか光っているものはひとときのために生まれたもの。 本当のものは、滅びることなく後世に伝わります』
 人間の愛というものは、後者でありたいと願うもの。そしてそのことのために、あのふたりは[し]刑囚を罪人として責めつづける。
*『』内は、多分ですが(若気の至りで、出典元を明らかにしていませんでした)、ゲーテ作「ファウスト」だと思います。


(十二)自由

 燃え上がった絶頂に光をうばわれた花火のように、それは見た目にも味気ない。
 しかし披露宴時に殺害されたという光が、大衆の中に、一時的に写された。
『わたしが後世のことなぞかまっていたら、だれがいまの世の人を笑わせますか』
 この世から笑いという笑いが消え、哀しみという哀しみが消え去る――そう、『人でなしの国』。そしてそれが、『超人の国』だろう。裁判官という、超人の。
 いつか煙は消えていた。看守の靴音にオドオドしながらの一服ではあった。が、それでも美味かった。看守の靴音が遠ざかることを確認すると、最後の煙をひと吐きした。そしてその煙に、どことなく穏やかな色を、部屋全体に感じた。
 そのときの[し]刑囚は決して自由のないことを恨むこころではなく、むしろ束縛下の小さな自由を感謝した。
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 ヒーローは、何千何万の人間を救う義務があるのに、
 なぜ、己ひとりを救う権利がないのだろう……