
第七章 蒼い部屋 〜じゃあず〜 |
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| 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 *コア、お分かりですよね。 精神崩壊のプロセスを描いてみました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 |
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| (一)ごっちんこ カーテンのすき隙間から射るようにさし込んだ朝の光が、閉ざされた目をするどくえぐった。顔をしかめながら、大きく背伸びをする。 ベッドの中からもそもそと起き出して、そとの景色に目をやった。その四角いかぎられた世界には、ただ一つポプラの木がそびえ立っている。その大きな葉が風に揺れ、時折透ける太陽の光ーほんの一瞬間であっても惜しげもなく光を投げる太陽の光が、ひどく眩しく感じられた。 トントンとドアが叩かれ「カズオさーん、はいりますよ。おはようー!」と声がかかり、ドアが開いた。 「ああ……」。いつものように気のない返事をかえす。 「はあい。それじゃあね、おねつとけつあつをはからせてくださいね」 いつものにこやかな笑顔を見せながら、看護婦がベッド脇に立つ。 「はい。68の121ですね、いいですよ。おねつは……と、あら? 6ど3ぶだわ。どれどれ、ごっちんこではかりましょうね」と、おでことおでこを合わせてのごっちんこをする。 平熱であるにも関わらずのごっちんこだ。そしてこの毎朝のごっちんこが、わたしを、穏やかな気持ちへと導いていくのだ。 (二)かきかき 「からだはだるくないですか? いたくないですか? かゆい? はいはい、かきかきしましょうね。はいそれじゃきょうも、ハッピーハッピー!」 とにかくよくしゃべる女で、実にやかましいと言うのが、第一印象だった。けれどもすこしも耳障りには感じられない。それどころか、この声を聞くと癒やされる。この声の言うことは、なんでも聞いてしまいそうになってしまう。 お世辞にも美人とはいえず、若くもない。といって、おばさん然としたところもない。 「お前、いくつだ? ババアに用はないぞ。出て行け!」 憎まれ口を叩いた折に 「じょせいにねんれいのことをいうのは、ルールいはんだぞ。おかあさんよりはわかいから、おねえさんにしてね」と、軽くいなされた。 そして姉として認めてくれたからと、ごっちんこがはじまった。ほのかに匂う石けんの香が、波立つ心臓をおだややかにしてざわつく胸をしずめてくれる。処方される薬など、なんの役にも立たない。はるかにごっちんこが勝る。 不安な思いも苛立つ気持ちも、なにもかもがすーっと消えていく。モノクロの部屋でさえ、フルーツ色に彩色された部屋に変わっていく。 薬をゴミ箱に捨てたときのこと、「かなしいわ、これは」と、涙目を見せられた。以来、しぶしぶながらも薬を飲むようにした。でそのあとは、決まって頭がもうろうとして眠りに入っていく。 (三)蝶々 このところ、なにをする気にもならずにいる。日がな一日を、白く塗られた天井をじっと見つめているだけだ。白? いや白ではない。ベージュっぽい白だ。そして所々にしみのようなものがある。それを見るにつけ、心にざわざわと嫌な感じがおきる。 銀縁のめがねをかけた女医に見せられたシートを思い出してしまうのだ。ロールシャッハテストと呼ばれる検査を思い出してしまい、いらだちが増してくる。 「これから絵を見てもらいます。最初に思い浮かべたことを言ってください。考えちゃいけません。直感で言ってください。すぐに答えてくださいね。正しい答えはありませんから、大丈夫ですよ」 ばあーか! ぶあーか! あいてにするのも めんどくせえ ああ かったるい かったるい! おい すこしわかいはばあ ごっちんこをしてみろ そしたら まじめにこたえてやるよ ああくそ! あたまのなかで くとうてんをかんがえるのも めんどうくせえ くどくどと念をおす女医に反感をだき、その指示をことごとく無視した。じっくりと時間をかけて、はじめおもい浮かべたこととは反対に近いことを答えた。こうもりに見えた図柄にたいして「蝶々だね、これは。誰がなんと言おうと、蝶々だ!」と、勝ち誇ったように告げた。 「蝶々じゃなくて、その前に感じたことはありませんか? 時間をかけすぎてますよ」 いらだつ女医に対して、「あんたがきらいだ!」と叫び、最後には黙りこくってしまった。 ぷいと横を向いたきり、一切の返事をしなかった。 「ごっちんこだよ ごっちんこをしろ」 ちっちゃな きこえるはずのないほどのちっちゃなこえで はやくちでいってやった キョトンとしてやがる ざまーみろ! (四)主 「コーヒーとパン、ここに置いておきますので冷めないうちにお食べください。食べ終わりましたら、ここに戻してください」 慇懃で固い声にふり向くと、ドアのすぐ横にある小さなテーブルの上に、白々と湯気立つコーヒーと黄色のマーガリンが薄くぬられたパンがあった。 視線を合わせることもなく、冷たく光るステンレスのトレーを置いていく職員のうしろすかだが見えた。 言葉とともにドアから流れ出た空気もいまでは落ち着きはらい、部屋はまえにもまして深閑としていた。「はばあじゃねえのか。ごっちんこはなしか」。声だけがひびく。 部屋の中はキチンと整理されていた。ベッド横の壁には、この別荘を建ててくれた愛すべき祖父のいかめしい姿の額がある。まるでこの部屋のすべてを、空気でさえもを支配するかのごとくで、妙に大きく感じられる。 そのいかにも明治らしい――鹿鳴館時代にしばしば起きた、東洋と西洋の対立と調和とをまざまざと感じさせる、チョンマゲにタキシード姿。まさに明治時代から今にいたる道、この部屋のすべてを支配した主、そう、あるじそのものだ。 反対側の壁には、埋め込み式のラジオがある。シルバーメタリックのボディの中央に、ジャガード織りの布がかけられたスピーカーがある。お気に入りの調度品だ、重厚なおもむきがいい。ただいかんせん、お仕着せの音楽やらが流れていることが気にはさわる。泉から水がわきでてくるように流れてくる現代の息吹きが、しばしば額の中の支配者の目をさらにいかめしくさせたように見える。 その横には、そのつややかな肌にふかくナイフの傷跡を残しつつ、それでもおだやかかな表情の能面があった。しかし、穏やかに微笑んでいるその面に、どこか冷たさを見ては背筋に氷の入る思いをするのは、一度や二度ではなかった。 その面は、生きている人間の意志など無視しがちなある種の威厳を感じさせ、部屋全体に重くのしかかっていた。 (五)視線 その他には、ぐるりと見回しても、とりたてて言うほどのものはない。強いて言うなら、紺いろに塗られた扉があることか。小さなのぞき窓があり、ときおり神のような冷たい視線がそこから投げつけられる。 しかしそれが、どうだと言うのか。冷たい視線など、どれ程のものと言うのか。忘れたころに訪れる、女よ。いくらでも泣くが良い。たとえそれで体中がびしょ濡れになってとしても、それがなんだと言うのだ。 ただ無視すれば良いだけのこと。そんなことに気を取られるほどに、暇人ではない。このこころは、深遠な世界にあるのだ。知りたければ、……。はいってくるが良い。そっと足音を忍ばせて、のぞき込めば良い。ごっちんこをすればいい、ドアはいつも開けてあるのだから。 窓の外にはポプラがそびえ立ち、その葉をすける太陽の光、そして遙かかなたにかすんでみえる山々が連なっている。なによりも、どこかにあるのだろう滝のゴーゴーという轟音が聞こえ、水しぶきがキラリキラリと光るさまが目に浮かぶ。そして小鳥のさえずりが…、窓の外には生きた音があった。 晴れた空では、どこまでも青い空があり、そこにひとつふたつ……と流れる白い雲。やがて日が暮れるにつれ、赤く染まりゆく、すべてのもの。雨の空では、濃淡の激しい灰色の雨ー白なのか、銀なのか、はたまた緑……色のあるような、ないような、絹糸のごとき雨。 地には枯れ葉が積もり、その下では無数の虫たちが蠢いている。 (六)神 そしてend 人々が忌みきらう虫たちの生きる様。 じめじめとした地中において、もぞもぞと蠢いている虫たち。 しかし虫たちに罪はない。 あるとすれば、創造主たる神だ! 神! 神! 創造主だと? 良かろう、神が人間をつくりたもうたとしよう。 支配者としてつくりたもうたのか? この地において、まさしく支配者たれるのか? 神は、人間を忌みきらっておられる。 なぜなら、……、分からぬのか? ほんとうに分からぬのか? だとすれば、やはり人間は嫌われている。 虫たちは、ただただ、生きている。 己がこの地にあったことを、神に知らしめるために。 そしてそんな中、なんの前触れなく突如せいじゃくを破って――江戸幕府のまえにその威厳を見せつけた黒船のドン! のごとくに、地獄の断末魔と神ごうしき神がみらの歓喜の声とがいりまじった悲鳴が、この地に飛び込んだ。 ドアの無施錠に職員が気づいたときには、脱兎のごとくに階段をかけあがる影だけが見えた。そして直後に館内放送の声とともに、雄叫びともつかぬ声が大空にひびいた。 一瞬間、すべてが止まった、凍りついた。 時の流れでさえ止まった。 四方を壁で閉ざされた世界から、すべてが青空の下に移された。 見わたす所にはなにもなく――またなにかが欲しいと思えばそこにあるような気もする。 その世界は、一方では貴く気高い紫の世界であり、また一方では人間の持つ主我的という業火の世界であった。 すべては終わりを迎えた――終幕。 異国語で、end(英語),pau(ハワイ語),MURI(マオリ語),そしてfin(フランス・スペイン語). |