お取り扱い注意!

 二〇一二年、元旦のこと。突然荷物が届いた。
「お荷物のお届けでーす。お取り扱い注意ですので、よろしくお願いしまーす。」
「元旦早々、ご苦労様です。」
 ねぎらいの言葉をかけたけれども、その配達員はニコリともせずに立ち去った。配達すべき荷物が滞っているのかもしれない。“愛想のない男だな”と思ったものの、よくよく考えると男だったかどうか判然としない。顔を見たような気もするし、見ていないような気もする。どちらでも良いことなのだが、少し気になった。届いた物は、一辺が三十センチほどの立方体で、何の表示もない箱だ。会社名すらない。
「なんだ、こりゃ。中身はなんだ? ちょっと待てよ、伝票ってあったっけ。判子を押してないぞ。ま、いいや。」
 映画の続きが気になった私は、封を開けることもなくテレビの前に戻った。赤々と燃えさかるストーブが、私の体を暖めてくれている。そして冷たいアイスを口にする私。何という矛盾だろうか、何という贅沢だろうか。
 まるで気が付かない事だったけれども、日一日とあの箱が大きくなっていた。さすがに三日目になって、五十センチ角ほどにまで膨れ上がっているのには驚いた。玄関口を我が物顔に占領されては、気付かぬ方がおかしいというものだ。
「どうしたんだ、こりゃ。」
 思わず声を上げた。
「生ものです。お早めにご開封下さい。なお、くれぐれもお取り扱いにご注意を。」
 驚いたことに、そんな表示があった。受け取った折りには、何の表示もなかった筈だ。恐る恐る封を開けてみると、エアパッキンがぎっしりと詰め込まれている。
「なんて、梱包だ。このエコのご時世に、なんて無駄な梱包をしているんだ。」
 製品の梱包作業に従事している私には、とてものことに容認できるような代物ではない。よほどに苦情を申し立てようかと思ったが、如何せん送り主不明ときている。
「ゴシュジンサマ、オハヨウゴザイマス。」
 突然に、中から人形が起き上がった。ゼンマイ仕掛けのような仕草で、ピョンと。
「な、なんだ。人形が喋っ…。いや、珍しくもないか。今どきの玩具なら、当たり前のことか。しかし誰が……」
 まるで思い当たらぬことに、少々不安が持ち上がった。
「ま、まさか…。新手の詐欺か? いや昔からある手口だ。勝手に送りつけて、封を開けたから代金を支払えとかいう。それとも…あいつらの悪戯か? バツイチになって、もう五年近い。女っ気がなくては寂しかろうと、飲み会で集まった折にからかう、あの二人の。」
「あたし、さよこともうします。どうぞ、かわいがってください。」
 合成音らしからぬ、柔らかい口調に変わった。実に人間の声と聞き紛う声、といっていいのか。音と言うべきなのか…。
「ご主人さま、中から出して頂けますか。」
「あ、そうだな。あぁ、分かった。」
 さよこなる人形を引っ張り出すと、背丈は…そう、一メートル五十センチほどだろうか。重さは…軽くはなかった。相当に力を入れなければ、引き出せなかった。引っ張り出すという表現は、当たっていなかった。引きずり出したといった方が当たっている。
「申し訳ありません。重かったですね。体重は、今、三十七キロです。まだ成長途中です。身長は一メートル六十センチで止まります。体重は、四十二キロで止まります。ご安心下さい、それ以上にはならないようにプログラムされています。」
 神妙な顔つきで言う。眉毛を寄せて、申し訳なさそうな表情を見せもした。
「ご主人さまの体格からしますと、少し大きいようですね。申し訳ありません。」
 まったく、人間と見紛うばかりの精巧さだ。箱から引きずり出した折の感触からしても、体温然りだか、何よりその肌ざわりだ。すべすべとして張りもある。しかも胸の膨らみがしっかりとあり、乳首さえ付いていたのには驚いた。
「ご主人さま、お願いがあります。洋服を着せて頂けませんか。箱の中に入っていると思いますので。」
 顔を赤らめながら、小声で言う。その恥じらいは、まさに乙女のそれだった。こちらもつられて、どぎまぎしてくる。相手は人形だというのに、正視できなくなった。目をそむけたままで、洋服の入った袋を手渡した。
「ご主人様、着せてください。」
 なんてことを! 赤児ならばいざ知らず、立派な大人の女性に服を着せるなど。
「できない!」
 と手を振ると、悲しげな声で懇願してくる。
「お願いです、ご主人さま。自分では着られないのです。それとも裸姿をご希望ですか。」
「ば、馬鹿な。人が来たら、どうするんだ。」
 やむを得ず、ぎこちない所作で服を着せにかかった。肩に手を置かせてパンツをはかせ、バンザイをさせてシャツを着せて…。懐かしい思いがこみ上げてきた。幼い息子や娘に、こうやって着替えさせたものだ…。不覚にも涙してしまった。
「ご主人さま、申し訳ありません。嫌な思いをさせましたでしようか。服を着るというプログラムがありませんので。苦情申し立てをなさいますか。連絡先は…」
「いや、いい。」
 どうにも、人形であることを忘れてしまう。どんな目的で作られたものなのか、うすうす察しがついてきたが、そうは考えたくない。
「さよこちゃんだっけ、一つ聞きたいことがある。分からないなら、答えなくて良い。」
「さよこの分かることでしら、どうぞ。」
「君を頼んだ覚えがないんだけど、誰かからの贈り物なのかな。」
「そんな…淋しいです、さよこは。お忘れになられたのですか、もう。二〇一一年の八月に、懸賞サイトで応募していただいたのに…」
 思いもよらぬ答えが帰ってきた。
「ご主人さま。さよこは、お嫌いですか?」
 哀しげな目を見せる。
「いやいや、嫌いだとか何とか…。そんなことはないよ。さよこちゃんは、可愛い。」
「でしたら、お部屋に入れて下さい。いつまでも玄関先だなんて、さよこ、淋しいです。」
 肩をすぼめて、軽く嫌々をする。思わず抱きしめたくなる衝動にかられた。
「そ、そうだな。ここは寒い、風邪を惹いちゃうね。」
「じゃ、行きましょ。」
 今にもスキップを踏みそうにしながら、私の手を引っ張る。
「さよこちゃんの手、暖かいね。」
「でしょ、でしょ。ご主人さまの心が暖かいと、小夜子も暖かくなるんです。いい人で良かった、ご主人さまが。さ、それじゃ、肩揉みしますね。」
 驚くほどに気持ちの良い肩もみだった。じんわりと、暖かさが体に染みこんでくる。それにしても、肩を揉まれるなど、何年ぶり…いや何十年ぶりのことだろう。幼い娘の、戯れ的な肩揉み以来ではないか? 時折、柔らかい物が背中に当たる。十秒ぐらいだろうか、その間隔で当たってくる。
「さよこちゃん、…当たってるんだが…」
 そう言った途端に、思わず顔が赤くなった気がする。そうだった、そうだった。
「おいやですか、ご主人さま。ふふ…純情なんですね。」

「お父さん、起きてよ。こたつのうたた寝は、風邪惹きの一番の元だよ。」
「あぁ…なんだ、明美か。えっ? いつ来たんだ。というより初めてだな、アパートに来てくれたのは。どうだ、元気しているのか。仕事は、うまくいってるのか。教師だなんて、厳しいだろう、今の学校は。お父さんたちの頃の先生は、ほんとに尊敬されていたけれどもな。今は、たじたじらしいな。ちょっと待てよ。えっと…さよ、いや誰か居なかったか?」
「何よ、誰かと暮らしてるの? 一人暮らしだだって言うから、ちょっと心配になって来てみたのに」
 娘の詰る声に、慌てて答えた。
「いやいや、一人さ。お客さんがな、来てたような…夢だったかな…」
 確かに考えてみれば、変なことばかりだった。ありえないことばかりだった。夢だとしたら、確かに納得がいく。
「お父さん、聞いてる? 少しは、反省してるの? お母さんが怒るのも、無理ないわよ。一度ならまだしも、何とまあ、三度もでしょ。それも、社内不倫だなんて。降格はまだしも、部署も物流なんかに回されて。きついんじゃない? 仕事。肩なんか、バキバキじやないの。ま、自業自得よね。お兄ちゃんが言ってたよ。『もう少し、うまく立ち回ればいいものを。』って。あたしに言わせれば、一度でも許せないけどさ。でもお父さん、もてるんだね。ちょっと嬉しいかな。」
「そ、そうか? やっぱり、もてた方がいいかな。」
「どんな不満があったの? そりゃまぁ、気の強いところはあるけどさ。あたしだって、時々頭にくることがあるけど。でも、お母さんにしても一生懸命だったよ。」
「お前は、お母さんの味方だからな。父さんだって、いろいろ頑張ってはみたんだ。それにだ、物流を馬鹿にしちゃいけない。第二の営業と言われてるんだから。まあ、しかし、懲罰的人事であることは間違いないがな。」
「ふっ、負け惜しみを言っちゃって。」
 娘には、ひと言もない。親の都合で離婚をしたのだ。子供には何の責任もない。これからの人生において、何かと不利な事もあるだろう。特に、結婚となると、片親では条件が悪くなるだろう。とにかく、子供たちに対しては、すまなさで一杯だ。 それにしても、まさか娘が来てくれるとは思いも寄らなかった。
「『親子の縁を切る』って、言ってましたよ。よほどに嫌われたのね、あなたは。」
 別れた妻に告げられた。
「会いたいんだが…」
 と、別れた妻を通して連絡を入れた後の返事だった。以来、妻を経由しての手紙に対する返事は、一通もない。もうすでに、子供たちと離れて、二年いや二年半か…。毎月の養育費を送り続けていれば、子供たちの気も変わるかと半ば期待したけれども。
「養育費を送れば良いというものじゃないですからね。」
 そんなきつい手紙を受け取ったばかりだ。しかし案外、気が変わったのかもしれない。それとも、今の今まで知らなかったのか?
「お風呂に入ったら、お父さん。用意できてるよ。」
 湯舟に浸かっていると、心底体が暖まる。そしてまた今日は、娘が初めて来てくれた日だ。ことさらに心身ともに、暖まる。
「あなた。背中を流しますから、早く上がって下さいな。」
 別れた妻が、優しく声をかけてくる。空耳かと、耳を疑った。
「後がつかえてますから、早く上がって下さいな。」
 間違いない。妻の声だ。しかしおかしい。妻に背中を流してもらったことなど、一度としてない。新婚時は風呂場が狭すぎて、入りたくても一緒というのは無理だった。子供が生まれてから、風呂場の大きいアパートに移ったが、その時は子供に妻を取られてしまった。今思えば、風呂を一緒にして背中を流してくれていたら…浮気心など起きなかった…いやいや、それはどうだったか…。湯舟を出て、妻に背中を向けて腰を下ろした。
“ギッギッ、ギギィ…”
 擬音がする。
“シンジャエ、シンジャエ!”
 慌てて後ろを振り向くと、そこには妻ではなく、大きく口を開いた鬼女人形が居た。ギィギィと音を立てて首が回り、さよこが現れて…大きく口を開けた鬼女人形が居た。

「おじいちゃん、死んじゃうの? おじいちゃん、死んじゃうの?」
 幼稚園のモック姿の女児が、半泣きしながら叫んでいる。
「大丈夫よ、大丈夫。ちょっとね、お熱が出ただけだから。今日はこのまま病院に泊まるけれど、明日にはおうちに帰れるから。」
 にこにこと笑みを浮かべた老婆が、女の子の頭をなでている。
「でもでも、おじいちゃん、目をあけないよ。お口にカップをかぶせてたら、いきができないよ。」
 なおも女児が、涙声で叫んでいる。
「これはね、おじいちゃんにね、いっぱいいっぱい酸素を送ってるの。おじいちゃんにね、息が楽にできるように、わざと付けてるんだよ。」
「ほんとに、ほんとに? あしたには、おうちにかえれるの? マーちゃんが、ようちえんからかえったら、もうおうちにいる?」
ヒックヒックとしゃくり上げながら、老婆とベッドの中の老人を交互に見て、少し安堵の色を見せている。
「えぇ、えぇ。大丈夫だよ。ちゃんと、帰ってるよ。だから安心おし。さあ、お母さんが来たよ。もう帰りなさい。ここはバイ菌が一杯だからね。」
 母親を見つけた途端、暗くうちひしがれていた女児の顔が、パッと明るくなり飛びついていった。
「甘えん坊さんね、マーちゃんは。さあさあ、お家でおやつを貰いなさい。美子さん。じいちゃんは、大丈夫だから。肺炎のおそれは無いって事だし。ただの風邪だって。今晩ひと晩様子を見て、朝に熱が下がってたら退院だつてことことだから。マーちゃんにうつるといけないから、早くお帰りな。」
 スキップをしながら部屋を出る女児と入れ替わって、看護婦が私の元にやってきた。
「山本さん。目が覚めましたか? 良かった、良かった。ここがどこか分かります? どうしてここに居るか、分かります? 宅配便の業者さんがね、救急車の手配をしてくれたんですよ。荷物の受け取りの時にね、山本さん、倒れたんですよ。あぁ、お熱はないですね。どうです、気分は。息苦しさは、なくなりましたかね。胸のむかつきはどうですか。はい、血圧も良いですね。酸素も…九七%で、OKですね。でね、山本さん。今夜は、このまま入院してもらいます。ご家族は…あ、お一人暮らしでしたね。とりあえず、検査入院ですから、着替えなんかはいらないでしょう。それじゃ病室の用意が出来…」
「だめだめ! もう帰るから、もうなんともないから。おかげで、すごく気分が良くなりました。どうも、ありがとうね。」
 勝手に入院の手続きに入ろうとする看護婦を制するように、声を荒げた。冗談じゃない、まったく。つい先月にも入院させられたじゃないか。この三ヶ月の間に、二度も入院しているんだ。三度目なんて、冗談じゃない。一度目は会社の検診で、「大腸にポリープがあるようです。精密検査を受けてください。」と言われて、一泊二日だからとOKをした。結果は良性のもので、その検査中に切除してもらった。
 二度目がひどかった。突然腹部に激痛が走り、脂汗をかいてしまった。若い頃の尿管結石以来のことだ。二度のCTと腹部エコーから、胆石による胆のう炎と診断された。今回の激痛は、その石の一部が胆管に入り込んでの痛みと診断された。どうも私は、石が出来やすい体質のようだ。
「とりあえず当院では、胆管から石を取りましょう。胆のう内の石の方は、もう少し様子を見ましょう。当院では処置できませんから、別の大きい病院を紹介します。ハハ、大丈夫ですよ。お腹を切るようなことはありません。胃カメラを使って、チョチョイのチョイですから。」
 また胃カメラかと辟易したが、やむを得ない。あのゲーゲーという辛い思いを味わうのかと絶望的な気持ちになったが、この激痛から解放されるのならばと観念した。しかしその二回の入院時の出費は大きく、預金もほぼ底をついてしまっているのだ。
「だめですよ、帰るなんて。待ってて下さいよ、先生を呼んできますから。まだ、横になってて下さい。」
 点滴のチューブと酸素マスクが外れると同時に立ち上がった私を制すると、慌てて部屋を出て行った。五分ほど経ったろうか、野本というネームを付けた医師がやってきた。
「だめだよ、山本さん。退院なんて、とんでもない! そんなことね、医者である僕は、了解できないですよ。」
「了解も何も、先生。本人が大丈夫って言ってるんだから、いいでしょ。」
「死ぬよ、あなた。心臓がね、悲鳴を上げてるのよ。聞いてるでしょ? 主治医の先生に。あなたの心臓の力は、普通の人の半分以下なの。心臓から送り出される血流量が、二十五%止まりなんですよ。常人はね、最低でも六十%なの。心臓が大きくなりすぎてね、心臓の筋肉が伸び切っちゃったのね。だから、収縮運動ができないの。分かります? 僕の言ってること。」
 口角泡を飛ばすというか、カルテを持つ手が、ブルブルと震えている。あながち嘘ではないだろう。けれども、どう考えても納得がいかない。確かに先ほどまでは、医師の言うとおり辛かった。多分重傷なのだろう。息も絶え絶えの状態だった。
 しかし今は、ピンピンしている。酸素を頂いたおかげで、こんなに楽になってる。それを入院だなんて、これ以上何をするというのか。こちらはね、もうおあしがないんだから。無料ならね、いくらでも入院してやるよ。検査にしてもいくらでもさせてもらいましょう。いやいや無料でもだめだ。これ以上会社を休むなんて、できないって。それこそやっと見つけた就職先だ。クビになったらどうするの。おまんまの食い上げになっちまう。
 命? そりゃ惜しいがね。けどさ、六十を過ぎてるんだ。残りの人生も、そんなにはないでしょ。もう良いよ、そんなに無理して生きなくても。自暴自棄?…かもしれないな。 けどね、大したことしてきたわけじゃないけど、一応結婚して子供を二人授かって、息子は所帯を持って孫も生まれたんだ。
 娘だって…多分元気してるでしょ。何かあったら、連絡が来るだろうしさ。ねえ、最低限のことはしてきたんだ。やり残したこと?…まあないとは言わないけれども。夢みたいなことだけど、小説で賞を頂いて、それが本になって、そこそこ売れて、二冊目の本もまあ評判になって…。
 夢です、夢。叶えられたら、そりゃいわゆる至上の喜びってやつでしょう。確かに高校時代には、青い考えを抱いていましたよ。卒業したら東京に出て、バイトをしながら小説を書いて、それを出版社に持ち込んで、ってね。一社がだめなら、二社三社ってね。ネタはあった。何十とあった。その上に、まだいくらでも湧き上がってきてた。が、結局は踏み切れなかった。第一長生きしたって仕方ない。起きて、ご飯食べて、仕事して、またご飯食べて、テレビを見て、そして寝る。それだけのことじゃないの。
「分かりました。それじゃここに署名して下さい。『生命の危険のあることを説明してもらったけれども、自己責任において退院します。この後不幸な事態になっても、病院・医師に責任のないことを了解します。』とも書いて下さい。」
“やれやれ今流行りの自己責任ですか。大丈夫、先生を訴えたりしませんよ。”
「はい、これで良いですか?」
「ほんとにね、生命に危険があるんですよ。考え直しませんか? 山本さん。」
「先生の言うことを聞いた方が良いですよ。」
 医師と看護師二人が、なおもしつこく入院を迫ってくる。
「今夜ひと晩だけで良いんです。経過をね、観察したいんです。」
 真剣な目で、迫ってくる。
「お気持ちだけ頂いておきます。ほんとにね、もうずいぶんと楽になりましたから。」
 意地の突っ張り合いの様相を呈してきた。しかし意地っ張りということに関しては、私の方に一日の長がある。医師に書面を渡して、看護師に会釈をして、意気軒昂にベッドを離れた。
「今、持ち合わせがないのですが。明後日にまた来ますので、その時に一緒とということでいいですか。」
 会計の事務員に告げた。
「はい、結構ですよ。それじゃ、お大事にしてください。」

翌々日、野本医師との約束通りに来院した。
「畑中先生でお願いします。」
 主治医の名を告げた。
「申し訳ありません。畑中は、本日お休みを頂いております。代わりに岩井という医師がおりますので、そちらで宜しいでしょうか。」
 パソコンに目を向けたまま、事務的な冷たい声で告げられた。
“目を見て話さないとは、なんて失礼な奴だ。これだから若い娘は…。いかん、いかん。年寄りのひがみになってしまう。”
 暫く無言を通すと、職員が訝しげに目を上げた。
「他の医師にしますか?」
 今度は目を上げて、私を見た。
「いえ、その岩井先生で結構です。」
「それじゃ、お席でお待ち下さい。」
 待合の席に座ろうとした私に、通りがかった看護師が声をかけてきた。この間の入院時に世話をしてくれた看護師だった。実に気立ての良い娘で、いつも明るく笑う娘だった。
「山本さん、ラッキーでしたね。」
「なんで?」
 笑みを返しながら、尋ねてみた。
「良い先生ですよ、岩井先生って。いつもは予約だけの先生なんですよ。ね、島田さん。」
「今日はね、畑中先生が休みなものだから、急遽ピンチヒッターでお願いしたの。」
「山本さん、ついてるわ。」
 うんうんと頷きながら、一人納得して去って行った。良い先生かどうかは、診察を受けてからだと、あまり期待もせずにいた。しかしこの先生に会ったことで、私の人生が一変したと言っても過言ではなかった。ほどなく看護師に呼ばれて、問診を受けた。昨日今日と落ち着いた一日を送っていた私は、意気軒昂に告げた。
「おかげさまで、非常に良い体調です。元気です、この二日間。」
「入院を勧められたのに、断られたんですね。なにか、都合の悪いことがあったんですね。はいそれじゃ、血圧を計りますから、腕を貸して下さい。」
 私の言葉など耳にしていないかのような態度に、少しばかりムッとしたものの、“女ごときに何が分かる!”と、矛を収めた。最近は、馬鹿丁寧な言葉遣いが多くなってきたけれども、心のこもらない言葉遣いでは、逆に馬鹿にされているように聞こえてしまう。ひがみだと言われてしまえば、反論のしようがないのだけれども。
 しばしの時間が経った。この待ち時間が苦痛になる。常連らしき人は、新聞なり雑誌を読んでいる。そういえば、入り口近くに新聞が置いてあった。あんな遠くから持ってきたのか…と、半ば羨ましく思えた。
「山本さん、五番にお入んなさい。」
 当初は聞き間違いかと思ったが、何度聞いても、「お入んなさい」だった。何とも、暖かさを感じさせる呼びかけで、嬉しさを感じた私だった。心がある、なぜか直感的に思った。ドアを開けると背筋がピンと伸びた老医師が、にこやかに迎えてくれた。
「はいはい、山本さん。今日は気分が良さそうだね。うん、良かった良かった。さあ、お座んなさい。」
 またしても、「り」ではなく「ん」だった。そして人なつっこい話し方だ。やはりベテラン医師は違う。何というか、お医者さま、という雰囲気がある。患者に人気があるのも無理はないと感じた。
「ほうほう。山本さんは、ひとり暮らしで、自炊してるの。うんうん、偉いねえ。中々出来ないよ。立派だ、山本さんは。」
「いえ、先生。自炊と言っても、休みの日に、一週間分を作っちゃうんです。それで冷凍庫に、入れておくんです。。まあ、作ると言ってもですね、弁当用のご飯とおかずですから。日々の夕食には、総菜を買うんです。あと、簡単な一品を添えましてね。それだけです。」
 褒められることのなかった私は、久しぶりのことに、気分が高揚してきた。事務的な会話しかなかった医師との会話が、これ程に弾むことはなかった。
「それでも、立派だ。ねえ、山本さん。わたしもひとりなんだけどね、娘たちがあれこれと届けてくれる。山本さん、あなたはどうなの? 子供さんたち、行き来あるの?」
「いえ、それはないです…別れた妻が、あることないこと吹き込んだんでしょう。一度会ったきりでして。まあ確かに、父親らしきことは、してやれませんでしたし。貧乏暮らしをさせてしまいましたし…」
「そりゃ、気の毒だ。しかしま、時が経つにつれ、気持ちも変わるもんだ。でね、山本さん。あなたの心臓はね、もう一杯一杯なの。頑張りすぎて、悲鳴を上げてる。拡大型心筋症という疾患です。」
 急に重々しい口調になり、柔和な顔がぐっとひきしまった。私も姿勢を正して、座り直した。
「聞いてるかな、主治医の先生から。えっと、畑中先生だね。うん、真面目な先生だ。真面目すぎるくらい真面目な先生だ。安心して、任せて良い先生だ。そこでね、ペースメーカーって、知ってるよね。手助けをしてあげる機械です。それをね、入れましょう。高額ではあるけれども、それを使わないといけないの。大丈夫です。あなたはね、身障者の一級に当たります。そうすると、医療費は、全て無料になるから。お金の心配は、一切要らない。今まで苦労したよね、ほんとに。医者には、何かというと休養だ入院だって言われてね。でもお金はかかるし、仕事は続けなくちゃいけないし。ほんと、辛かった。うんうん、良く分かるよ。」
「せ、せんせ……」
 不覚にも、落涙してしまった。体から力が抜けていった。手を足に添えて、ぐっと肩をいからせた。
「でもさ、山本さん。人間、命あっての物種だ。健康でいてこその、仕事でしょ? 山本さんの場合は、健康になる以前の、生命の危機にあるわけだ。本来、心臓移植ものなんです、心臓は。残念ながら山本さんはお年を取り過ぎてる。どうしても、若い人優先となっちゃうから。申し訳ないけどね。このまま心臓を酷使していたら、心筋梗塞を起こしかねない。そしてそのまま死亡、ということもあるわけだ。死んでも良いなんて、考えてないかい。大きな考え違いだよ。山本さん。何か一つぐらい、やり残したことがあるでしょ。お子さんたちにも会いたくないかい。孫の顔は見たの? これはぼくの気持ちだけれども、中学時代の初恋の人にね、久しぶりの同窓会で会ったの。年はとったけれども、それは美しい人でね。もう一度二人だけでね、会いたいと思っている。さあ、ぼくのことは置いといてだ、山本さんはどうなの。もうひと花咲かせたいとは思わないの。」
 老医師の淡々とした話しぶりに、次第次第に私の心がほぐれていった。冷たい風が吹いていた体に、ぽかぽかと暖かい光が射し込んでくるような感覚にとらわれた。
“金がかからないのなら、ベスメーカーとやらを入れるのもありだな。”
 そんな思いが湧いてきた。しかし“こんな自分のために、高額な機器を使って良いものろうか…”という思いもでてきた。
「山本さん。あなた、健康保険料、払ってきたでしょ? どのくらいの金額になると思うかな。何とね、一千万円だよ、一千万。ぼくの計算だけどね、山本さんは六二歳でしょ。すると、ざっと五百ヶ月ぐらい払い込んでいるわけだ。利息なんかを考えるとね、優に一千万を超えてる。信じられない? 住宅ローンを考えてごらん。あれなんか、借りた金額のね、二倍三倍と返してるのよ。二十年ローンぐらいでも。山本さんは、残念ながら今は低所得者だ。だからって高額な医療を受けられないなんて、不公平だ。遠慮することなんかない。ぼくに任せなさい。身障者の申請をしなさい。きっと一級になるから。それで、医療費は無料だ。仕事のことも、心配する必要はない。クビにはできないんだ、身障者は。むしろね、国から補助金を貰えるんだから。会社にとっては、万々歳だよ。山本さんが一生懸命仕事して、それでお上からお金を頂けるんだから。安心してペースメーカーを入れようよ。楽になるよ、ほんとに。いやいや、命が助かるんだから。そうしなさい。」
 老医師の言葉は、逡巡していた私の背中を、とんと押してくれた。
「分かりました、先生。すべて、お任せします。よろしくお願いします。」
「人生すべからく、お取り扱い注意ですよ。ねえ、山本さん。」
 席を立つ私に、老医師の言葉が届いた。 


講 評
ぐうの音もでません、見事に言い当てられました。
ひと言で言えば、いえ、ふた言ですね。
「弱点をつかれた」
「木を描いて森を描けず」

要約すると、こうでした。

着想が面白く、世の中の表裏が機知に満ちた手法で描かれていて、印象に残る。
幻想・不条理、人間と社会の闇を衝いていて、その視点は値打ちもの…
センスの良さがうかがわれる。
前半後半のテーマと状況が異なっていて、二種類の作品に見える。
前半と後半をうまく統一できれば、良かった。

わたし……
「エピソードの羅列で話を創り上げていく…」
「枚数合わせに二つの作品を繋ぎ合わせてしまったのだろうか…」
「前年の講評でも、似たようなことを指摘されていたのに…」

テーマ…
そういえば、何を描きたかったのか…
優しい人形が、突如鬼女人形に変わる…
文楽で観たシーンが忘れられず、一度書いてみたいと思っていたことで…

うーん……
That is life,will once more!


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