作品鑑賞
高校時代に傾倒していた、芥川龍之介についての論文を
「灯」という文芸誌にて、発表しました。

18才というのは恐い物知らずですね。
読み返してみると実に生意気です。
「うん?」という箇所も、ありました。
が、

当時の思いを大切にして、そのまま発表させて頂きました。
彼、芥川龍之介についての研究は、昔から盛んなようで、その著書の数は帯びただしい。その研究にもやはり、ピンからキリまである。さしずめ、私のこれはキリの部類だろうとは思う。しかし、私は私なりに、芥川龍之介を研究し、そしてその結果としてこの研究を書いてみたいと思ったのである。
私の感じた彼は、多くの専門家が見た彼とは、幾分異なるかもしれないが、未だ18才の私故に、そこは少々無理をしていただきたい。彼の出生のこと、その後の養子ののこと、生活環境のことなどは、多くの論文に掲載されている故、私はそれを省き、すぐさま彼の真髄に入っていこうと思う。


まず、芥川が最も活躍した大正時代の文壇について調べたところ、まさに文学者相互の交友機関、或いは互助機関的な要素を多分に持っていたようである。それの是非はともかく、読者とのつながりは少し薄すぎたキライが多分に見受けられる。私としては喜ばしいことだと思うのであるが、唯その程度が問題となるだけだ。私の喜ばしいとする理由の一つに、芸術の純化があった。

が、大正時代の文士の何には、完全に売文の徒となった者も少なからず居る。非常に残念だ。この芥川にしても、自分自身を「売文の徒」と蔑んだこともあるが、その一生は、やはり小説家と見るべきである。そしてそれらのことを見合わせ考察すると、一般大衆との繋がりは、ある程度は濃くてもいいのではないかということになる。
しかしその場合にも、前者と同じようなことが起きるような気がするのである。結局、そう言う輩の存在は致し方のないことだということになって、私もようやく落ち着いたのである。結局は、社会の組織化・複雑化による、人間の本質の移動か?ということに迄発展してきた。

そんな大正文壇のせいか、芥川の師とした夏目漱石は、芸術的に低く評価された。或いは又、専門の文士以外の何かであるとして敬遠もされた。それには、少し漱石へのひがみもあると私は感じた。しかし一面では、その批評も当たっている。大衆の味方として登場したことは明らか故に。
そして又、森鴎外の地位も低かった。しかし鴎外は、その当時の大御所・坪内逍遙との論戦があり、その博学の程を示し漱石程ではなかったと思われる。又、医師としての社会的名声の高かったことも忘れてはなるまい。芥川は、そんな二人を直接の文学の師としたのである。

芥川は、大学時代の仲間の林原耕三の紹介により、漱石と対面をした。芥川はその時、感動の余り何もしゃべることができなかったということだ。漱石との対座の際のことを、このように語っている。

「この頃久米と僕が夏目さんの所へ行くのは久米から聞いてゐるだろう。始めて行った時は僕はすっかり固くなってしまった。今でもまだ全くその精神硬化症から自由になっちゃゐない。それも唯の気づまりとは違ふ人だ。(中略)現に僕は二三度行って何だか夏目さんにヒプノタイズされそうな気がした。たとへばだ、僕が小説を発表した場合に、もし夏目さんが悪いと云ったら、それがどんな傑作でも悪いと自分でも信じさうな、物騒な気がしたから、この二三週間は行くのを見合わせてゐる。(略)」(原文のまま)

芥川の夏目漱石への敬慕の念は、文壇の悪評にまどわされることなく、次第に高まっていった。そして芥川は、文学上ではなく、漱石の人格上に魅かれ、多大の感化を受けた。

「彼は大きい樫の木の下に先生の本を読んでゐた。樫の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動かさなかった。どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤が一つ、丁度平衡を保ってゐる。ー彼は先生の本を読みながら、かう云う光景を感じてゐた。・・・・・」(或阿呆の一生『先生』より)

これは、芥川が師夏目漱石の作品の印象を、端的に表現した一章である。漱石のー次に述べることのー人格の中心たる核を持つことを暗示している。
さて、このへんで彼の作品に対する、文壇の態度に入っていきたいと思う。しかしそれには、芥川の作品についてもう少し調べる必要がある。

芥川は、「作家の私生活から作品を全く切り離し架構的な物語を作り出す」という理想を、純粋な形で実現しようとした。要するに、私小説を極端に嫌ったのである。その理由は、芥川の異常な程の文学への熱意故である。芥川の人生は、文学であった。そのものズバリであった。そしてそのことを端的に説明する為に、鴎外との比較を考えた。そしてそれも、言葉ではなく、現在生存中の人物で一般に良く知られている人物に当てはめてのことが最も適切と思い、試みてみる。

芥川龍之介=ピーター・オトゥール
森   鴎外=ショーン・コネリー

これは、少し冒険だろうか。しかし私は、そうは思わない。ピーター・オトゥールという人物は、俳優という職業以外では、あれ程までに成功はしなかったろうと思えるのである。この場合の成功とは、社会的というより、自分の持つ能力をどの位発揮できたか、ということである。彼は非常に細い、それ故その印象は鋭いのである。
その反面、ショーン・コネリーは非常にバイタリティーに富んでいる。それが又人気の秘密であろうが、彼は太いのである。そして俳優以外の職業でも、おそらくは成功するであろう。そんな雰囲気を漂わせる人物である。

さて本題に戻って、芥川が私小説をあまり書かなかった理由に、テーマのことがある。物語の舞台を、古今東西の歴史的時期や、非現実的な架空の世界を自由に選んだのは、その方がテーマをより強烈に表現できると信じたからである。このことについては、『羅生門』でもう一度考えてみたいと思う。
芥川の作品ー殆どが短編で、極短いコント形式的な物である。長編より遙かに抒情的で、格言的な感じさえ受ける物もある。芥川自身、そんな生活を夢見ていたのかもしれないが。

芥川が短編を多く残したのは、彼の文学への熱意の高さをまざまざと示していると思われる。小説の為の人生を送ったのである。つまり、芥川の人生において見つけた一つのことを、すぐ決まる章に置き直しそれを発表せずにはいられなかったのだろう。そしてそれも、彼自身の素晴らしい機知に富んだ皮肉等を入れて。
そんな芥川の仕事は、世間の要望にマッチしていた。とに角面白かったのである。それ故に、多くの読者を有した。その点では、或いは”売文の徒”と受け止める人も出てくるであろうが、その”売文の徒”の真の意味から見ると、外れていると思う。

しかし文壇は、世間とは違った面から彼の仕事を批判した。文壇は、芥川の生活に「都会的な処世術の過剰を認め、彼の作品中にディレッタント的現実避難を見つけた」とある。
確かに、そういう見方もある。しかし私は、こう見たいのである。

芥川の創り出す別世界に、我々が彼の本を読むことにより接した場合、実社会では感じられない、強烈で純粋な一種の現実的感動を受ける筈である。それは言葉にしてしまえば卓上理論のように聞こえるが、実は我々人間の中に内在する真の生活に結びつくものに働きかけ、感動を呼び起こしているのである。

芥川の才能は、唯美的な傾向が強かった故に、短編は唯美的なものとなった。芥川の作品の与える感動は、「田山花袋や徳田夢声のものよりも、北原白秋の抒情的の与へるものに近いと思う」という批評は当たっていると、私も感じた。つまり、『布団』などに見られる、どちらかというと俗気は弱いが油絵の具的なものである。そのくせ、鋭くくい入る物であると思う。



芥川は、唯美的な抒情詩人が、一遍の抒情詩を作り上げるのと同じような繊細な配慮でもって短編を仕上げた。芥川は、詩人となるべきであったように感じられるのである。詩的ムードを多分に持っていた。
そうした詩人にとっては、やはり感動の集中ということが問題となってくる。当然のことである。そしてその集中の為には、素材は極端に純化されなければならなくなるのである。それ故になおのこと、人間の現実社会よりも、それ以前の生まれる前の生きる前の問題を小説にしているのである。
私が作品というより文章に酔う理由は、感動を集中させる為に素材を極端に純化したからである。ひして、倫理的で主観を殺した文章を書かなかったからである。そこには常に、主観があった。そしてそれ故に、詩的ムードが漂っていた。

それに反して、よく比較されるところの志賀直哉は、客観的な中に物を見つめた人である。

芥川の作品、
「平中は膝を抱へたまま、茫然と梅の梢を見上げた。青い薄桜の翻った上には、もう風に吹かれた落花が点々と幾ひらもこぼれている・・・・・」(『好色』より)
「後をふり返ると、土手の松にまじって半開の桜が、べったり泥絵具をなすっていた。その又やけに白いのが、いつになく重くるしい。」(『世の助の話』より)

これに対して志賀直哉は、『暗夜行路』で、
「四月に入ると、花が咲くように京都の町は全体が咲き、賑わった。祇園の夜桜、嵯峨野の桜、その次に御室の八重桜が咲いた。」
まさに、油絵具と水彩画である。

以上から考えると、芥川の作品が我々の日常体験から遠ざかれば遠ざかるほど、より我々の生活の本質的な部分に近づきつつあるということになる。だから、遊離とか逃避などということはなく、全く反対のものだと思うのである。

しかるに、芥川の小説は生活から遊離しているという、避難を受けがちであった。
「(もっと己れの生活を書け、もっと大胆に告白しろ)とは諸君らの勧めることばである。僕も告白をせぬわけではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起った事件を臆面もなしに書けと云ふのである。(略)僕は第一にもの見高い諸君に僕の暮しの奥底をお目にかけるのは不快である。第二にさう云ふ告白を種に必要以上の金と名とを着服するのも不快である。たとへば僕も一茶のやうに交合記録を書いたとする。それを又中央公論か何かの新年号に載せたとする。読者は皆面白がる。批評家は一転機を来したなどとほめる。友達はいよいよ裸になったなどと、考へるだけでも鳥肌になる。(略)誰が御苦労にも恥ぢ入りたいことを告白小説などに作るものか。」(澄江堂雑記 告白 より)

ここに、自己を裸にしえない芥川の面目が見える。その裏には、彼自身の家族構成の卑下心のあることも忘れてはならない。しかし自己の世界を一応作り上げた芥川は、省みて自らの文学の限界を認識せざるを得ないだろう。停滞=退歩であると信ずる芥川は、今のままでは、内面的にも停滞の迫りつつあることを感じないわけには行かなかったろう。たとえ、一作毎に作風を変えたとしても、この事実は事実だ。それを一番よく知っていたのは、やはり芥川自身だった。

ところで、芥川の作品を実際に読んでみて最初に驚くのは、作品の趣向の違いである。芥川は、殆ど一作毎にそれを変えた。しかも、彼のモザイクの制作は素材・形式ばかりでなく、人間の精神の動き方・意識の深さの多くの層を次々と造っていった。この点が、彼の文学的メリットしては重要なものでもある。
芥川のこうした精神の多様性は、よりフィクキブな作品においても、見事に今度は純粋に芸術的な理由だけにより実現されている。これは世界有数の短編作家、モーパッサン・チェーホフ・志賀直哉らとは異なった長所であるとされている。勉強不足の私にはその真偽の程はわからないが、とに角その功績というか完成というか、それは認めるものである。

芥川の場合の多様性が、人生を理知的な面からの断片的な寸景としたり、物語的空想の奔放さの舞台としたり、絵画的に絢爛たる仮装行列としたり、冷たい凍ったようなミニアチュールとした。又速力のある一つの話に縮めたり、神秘的な超自然の現れ出るすき間とした。
芥川における最も現代的文学の特質は、この人間意識の多層性を作品の中に捉えたということである。言いかえれば、人間の考えること・思うこと、それら全てを己の考え得る限りの(有限ではあるにせよ)その範囲を最大限に広めて、人間を捉えようとしたことである。

ところで、日本の明治・大正文学に最も大きい影響を与えた、十九世紀における西欧の写実主義的伝説は、世紀後半の自然派の純粋客観的主義方法において完成したとされている。が、その客観的現実認識というものは、一定の精神状態に写る現実を描き出すということであり、それはあくまで個人ではない。主観はないのである。その為に作者は個人的主義を排して、いわば科学者が実験の対象を観察するように、冷静に価値感情や好悪を混えず、社会を見つめた。そしてその筆でもって文学は発展した。

例えば、そういう客観的態度から生まれた最も偉大な作品は、トルストイの『戦争と平和』であろう。トルストイの精神は、絶えず一定した澄みわたった鐘の如きもので、いわば神の視線が下界を見下ろしているという感じである。それ故に、あのように生き生きとした最も多くの人間が描かれたのかもしれない。全く素晴らしいものである。



芥川を追い越した作家と称されている三島由紀夫は、芥川のことをこう受け取っている。

「芥川の英雄否定・美談否定は、思想というより趣味の問題で、当時の浅薄な時代思想の反映である。『手巾』という作品は、美談否定物であるが、その他に、『型』の美がある。『南京の基督』は、谷崎潤一郎の初期作品に比べると、短編技巧では谷崎の方が粗雑かもしれないが、あの悪童が泥絵具をおもちゃにしているようなバイタリティーが感じられない。芥川のもつ最も善く、そして彼自身軽んじていたものー軽やかさ・若々しさ・ういういしい感傷が、特に目立つのは、『舞踏会』である。」

私としては、英雄否定・美談否定が、果たして思想なのか趣味なのか、正直いってわからない。第一、三島由紀夫の使った趣味という言葉の範囲さえ、この私には理解できないのだから。しかし、これだけはこの研究不足の私にでも言える。
芥川は、本質的にワットー的な才能だったと思うことである。これは、三島由紀夫著のもので読んだのだが。「時代と場所を間違えたワットーには、実際の所、皮肉も冷笑も不似合いだったのに、皮肉と冷笑の仮面をつけなければ世渡りができなかった」そんな意味のことがあった。

生まれついてからの複雑な芥川家の内情は、少なからず芥川の思想(或いは趣味?)に影響を及ぼしたであろう。そしてそれが、芥川作品に底辺として流れ、いつか現れだしたのだろう。しかしそんな中にも、彼の奥深くに潜んでいる真の心は、時折顔をのぞかせる。『蜜柑』という作品はその一つだと思われる。私は、あの作品を読み終えた時の何ともいえないすがすがしさを今も忘れることはできない。そしてそれは、どんなに巧みで、しかもうまい皮肉や風刺よりも強烈な印象を与えた。これが、前に述べたところの、強烈で純粋な一種の現実的感動だと思う。

しかし物の見方には色々あって、今のようにもとれれば、又こうともとれるかもしれない。皮肉や冷笑ばかりを書いている内に、読者は勿論自分自身までがマンネリ化し、それ程の興奮を呼び起こさなくなってくる。そこで、自分自身の為に惹いては読者の為にも、皮肉や冷笑抜きの素直な気持ちでの作品を必要とし、あの作品を書いたのだ。だから、作者の真実の吐露とは言い難い、と。
しかし私としては、前者をとりたいのである。少々、主観的ではあるけれども・・・。是非に、あなたに詰め寄ってでも、私はそう主張するものである。

芥川の内面の苦しみは、そんな初期の頃の『蜜柑』のような心境を、だんだん許さなくなってきた。後期の作品には、もう軽やかさ・若々しさ・初々しい感傷は消えてしまった。
『河童』という作品により、このような娑婆苦に苦しめられている自分自身の姿を描き、厭世的傾向を表した。
又『西方の人』は、罪悪感や被害感に苦しみ始めた芥川が、何かに取りすがらずにはいられない一心から求めた「求道」の産物である。

「彼は神を力にした中世期の人々に美しさをかんじた。しかし、神を信ずることはー神の愛を信ずることは到底できなかった。」

芥川の理智が、英雄否定の心境が、キリストを神として見ることを拒否したのである。そして又、ここに漱石の悩んだ近代人的要素も潜在的にあると思う。ゆとりのなくなった芥川には、最早、テーマもフィクションも問題ではなくなり「地獄よりも地獄的」な人生に生きてゆかねばならぬ自分自身の苦悩を、何ものかに向かって吐露せざるを得なくなったのである。
母の狂気の遺伝・経済的苦痛・社会的不安・芸術的行き詰まり、これらの中に生きた彼にとって、まさに「人生は、地獄よりも地獄的」であったのである。

これらのことから芥川の作品は、悲愴な激情や異常な感覚を示すものとなり、作品にストーリーは無くなり、内面的な心の旋律のみを伝えるだけのものとなった。文体は独白に近い告白体のものとなった。内容も病的な精神世界のみを示すものとなった。『歯車』は、その傑作とされている。
『河童』の作品中に、当時の彼を端的に描いた箇所がある。

「年の若い河童が一匹、両親らしい河童を始め・・・・・息も絶え絶えに歩いている。」
芥川の、自嘲的な自画像である。そして又、人間社会に対する抗議である。その当時の芥川には、「精神病者の方が正常人より却って進化した人間なんだ」という考えがあったらしい。これは芥川の目から見た、狂った社会に対する、僅かな反抗なのであろう。


芥川は、確かに当時の人達よりは一歩抜きんでた近代人だった。そこにも彼の悲劇が存在しているのではなかろうか。そしてそれは、漱石にもつながるものであり、そこに芥川の、漱石よりの人格影響がうかがえる。唯、漱石には前にも述べた核があり、芥川にはそれがなかったということである。
芥川の自殺の原因を、「人生に対する敗北」と定義する批評家はいても、「人生の計画の挫折」だとは、何人も定義し得ない。

「一行のボードレールにもしかない。」(侏儒の言葉・ボードレールより)
「彼は人生を・・・・・、命を取り換へてもつかまえたかった。」(侏儒の言葉・花火より)

『ボードレール』にせよ、『花火』にせよ、それに対立してある「人生」は、芥川の人生というより、彼の前に漠然と広がっている灰色の砂漠のようなものである。
単純に言えば、芥川には彼自身の人生はなかった。芥川は、自分の人生を切り刻んででも「一行のボードレール」を作ろうとしたのである。劇的な人生を望んだ(?)のだろうか?

『保吉』物は、「告白を嫌った人」の書き始めた告白小説である。それは、一作毎に新しい芸術的領土を開拓してみせようという野心が、このジャンルにおいても、独自の成功を見せることができる、といことを示す為に試みた、と解釈してもいいだろう。
そこで面白く感じるのは、比喩の大ゲサさである。例えば、『十円札』の終わりの
「保吉はかう呟いたまま、もう一度しみじみ十円札を眺めた。丁度昨日踏破したアルプスを見返へるナポレオンのように。」
苦笑いを生じさせる。では何故?それは、読者を生の事実への接触から遠ざける為と推察した。少なくとも、そう意識してのことだと思う。
これは、芥川の体験の直接的告白に対する羞恥故である。前に述べた自分の大言にではなく、芥川の性格上故のことと考えたい。

しかしそれは次第に、真の告白的小説になってゆく。そしてより自然に、作者の姿が現れ始める。異なった形式の中でのそれぞれの完成という方向ではなく、同一の自己の姿の定着という方向を指している。これは、漱石においても言えると思う。三部作や、『道草』『行人』『こころ』等のそれのように。
それは、芥川自身が最も高く評価している、『蜃気楼』の如き、静かな深い心境小説であり、晩年の芥川の特色である。そしてその心境小説を、無意識の内ではあるが、私は漱石の晩年の作品に認めるのである。これは、全く私だけの独りよがりかもしれないが。

そして又、芥川の場合のそれは、芸術家としての発展、自己の可能性の展開ではなく、一度完成した自己の文学否定への道だった。
これは、芸術家としては極めて逆説的な、人間としては悲劇的な進展であろう。つまり、とうとう自分の皮肉と冷笑の仮面を脱いだのである。寒い、凍り付くような冬の朝に、着ているオーバーコートを脱ぐことと同じだったろう。
社会的な冷たさではなく、自己的な冷たさ。自分の今までの人生の否定なのである。誰が、芥川以前に、誰がそれをしただろうか。その辛さは、容易に察せるものではあるまい。

晩年の芥川は、『蜃気楼』のような話らしい話のない作品を盛んに唱え始めた。そして、自分でそれを書き始めたのだ。自分の身を傷つけてでも。
芥川は、次第に精神統一に憧れ始めた。そしてこの統一は、世捨人的なものであったことは確かだ。
大正時代の震災直後に、菊池寛が芸術の無力さを訴えた時、芥川は「しかし芸術の生まれる土壌である熊さん、八さんは亡びない」と反論した。
芸術を神とした、人間の信仰であると信じると共に、それ程までに、芸術を愛した芥川龍之介に、深く頭を垂れるものである。

 ブルジョアは白い手に
 プロレタリアは赤い手に
 どちらも棍棒を握り給へ。
 ではお前はどちらにする?
 僕か?僕は赤い手をしている。
 しかし僕はそのにも一本の手を見つめている。
 あの遠国に餓ゑ死したドストエフスキーの子どもの手を。


芥川の自殺の根拠は何か?これは、私の最後の課題だった。
芥川には神はないから、自殺を否定する大きな障害はなかった筈である。

「乃木将軍は武士道の為に死に、
 キリストは信仰の為に死んだ。」

しかし、芥川はそんな思想や信仰の為に死んだのではない。彼の精神が、現実に耐えられなかったのだ。
「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」の為に死んだのである。誰にも責めることはできない筈である。これをエゴイズムとののしる者はののしればいい、と私は強く言う。少々主観的になりすぎ、走りすぎたことをここで詫び、次に、芥川の人格を語りたい。

芥川の倫理観・人生批評は、鴎外や漱石よりも世紀末的な色彩が濃い。芥川には、社会の進歩を信じ人間の福祉を願う、明るい希望に満ちた思想はない。
逆に、いわばキリスト教の「原罪」に似た思想が彼の中に巣くっていた為に、終生厭世主義から免れることはできなかったのではないか。その上に、芥川は鴎外や漱石よりはダンディであった。
芥川が、芸術に絶対の価値を置き人生の最高の事業と考える、芸術至上主義者として生きていたことは言うまでもない。

しかし、谷崎潤一郎の耽美主義とは異なったものであることも間違いない。谷崎の道徳を完全にけ飛ばした享楽は、芥川にはない。芥川の内部には、世間一般の道徳はないにしても、倫理的なものが、芥川自身の倫理的問題がでんと腰をすえていた。そしてそれが、芥川の芸術の後ろ髪をひいていた。そしてそれは、『地獄変』での、良秀の自殺にあらわれた。その当時の芥川には、何の不安も動揺もなかった。
良秀を自殺せしめずにはいられなかった芥川は、悲しいかな、後年の自己の運命を予感したものといえる。

最後に、芥川龍之介の、創作の特徴を考えてみた。
「芸術活動は、どんな天才でも意識してのことである。もし無意識とすれば、それは天才でも何でもない。自動偶人なのだ。
芸術は、表現に始まって表現に終わる。
完成とは、読んでそつのない作品を拵える事ではない。文化発展した芸術上の理想のそれぞれを完全に実現させることだ・・・。この完成の領域が最も大規模なものが、芸術家なのだ。」と、芥川は『傀儡師』の中で、語っている。

苦心に苦心を重ね、一行一句の文字をも実感に近づけようとした。芥川の肉体はこの苦心の為に消耗されたといっても、過言ではないと思う。
”「人生を銀のピンセットでつまんでいるような、理知的の冷淡さがありすぎる」とは、菊池寛のことばだが、芥川の或一面をうまくとらえたともいえる”という、この文章によって証明されるであろう。

人間が、現実の悩みや不安から如何にすれば逃れ得るかは、芥川には問題にならない。芥川は、高い意味で倫理的な人格者でもあれば倫理的な作家でもあった。唯、彼は人間と人生改造に絶望していた結果、高踏的に作中の人生を見下している観があった。高踏派・余裕派とは、又違った観である。
前にも述べたが、芥川の思考は現実問題ではなく、その奥の問題であった。それ故に、芥川の自殺の根拠となるものは、唯ぼんやりとしたものではなかっただろうか。常識人では、それ程の問題にもならなかったのかもしれないことが、彼、芥川には重大問題となったのである。

おやつをかすめ取った子供が、母親が席を立つ度に、ヒヤリヒヤリとする心境に通じると思うのだが。
作品鑑賞