春の日のデート  

 春眠暁ヲ覚エズ 処処啼鳴ヲ聞ク 夜来風雨ノ声 花落ツルコト知ル多少

 という名詩にもあるように、春の夜明けは眠いものである。
今日もまた私は、暖かい床の中でウツラウツラしていた。
外は少し風があるらしい、カーテンが揺れている。
窓が半開きになっている。母の苦心の策である。
風で揺れるカーテンの隙間からときどき光が射しこみ、その明るさで目を覚ます。
春休みの故郷での一幕である。

 見覚えのあるようなないような中年の女が、私が帰り行く家の方向からやって来る。
誰なのか思い出せない。わたし私は首をかしげながら近づいて行った。
もしかすると、関係のない人かもしれない。
 「よくかえってきたネ。ゴクローサン。疲れただろー」と、傍に寄るなりわたしのバッグを取ろうとした。
わたしの心に警戒心が起こり、思わずバッグを持つ手に力が入る。

 ”なんて図々しい奴だ、馴れ馴れしい口をきいて。しかもバッグを取ろうとするとは”
 ”私は、あなたを知りません!”
 そう言ってやろうとかとも思ったが、止めた。
それ程不快ではないのだ、なにかしら暖かいものが伝わってくる。
いい人かもしれない。お義理の声ではない。
わたしは”ああ、故郷に帰ってきたんだ”と、感じた。

 そんなわたしをよそに、その中年女はわたしにピタリと寄り添いいろいろと尋ねてくる。
向こうの水はどうだとか、食べ物は新鮮かとか、下宿の小母さんはどんな人だとか、勉強はしているかとか、・・・。
よく口のまわる人だ、まったく。
そんなわたしを驚かせたのは、わたしの帰郷の理由を知っていたことだ。
 横の畑を指さし、ことしの麦の収穫高について話しかけてくる。
父の死後、畑の世話がおろそかになり、けっこうな額が減収になったらしい。
わたし自身は、父を重視してはいなかった。
それどころか、ときには軽蔑の念さえ抱いていた。
しかし、いざ父の死に出会うと、悲しみの前に後悔の念が先に立った。

 父が亡くなる年の春、わたしはいつものように故郷の土を踏んだ。
手紙では、体が弱り畑仕事が辛くなったと愚痴をこぼしていた。
が、元気に迎えてくれた父を見て、素直に喜べた。
 その日の夜、いろりの前で父は上機嫌であった。
珍しく顔を赤くしていた。いつも以上に酒が進んだようだ。
一年に数えるほどしか会わなくなると、お互いに優しい気持ちになる。
が、顔を合わせるとどうしても邪険にしてしまう。

 「のう、お前に教えてもらった漢詩じゃったかのう。わしも作ってみたぞ」と、チラシの裏に書いた物を取り出してきた。
中学卒業で終わった父にとって、わたしが大学に進学したことがよほどに嬉しいらしく、”わしも少し勉強をしてみるか”と、漢詩に勤しみだした。
戦時中、満州にいた影響かもしれない。

  倉破れて米残り 財布春にして借金多し 
  時に感じては腹が減り 別れを恨んでは水を欲す
  絶食三月連なり おにぎり万金に値す
  米びつかけば更に少なく 全て空腹に堪えざらんと欲す

 親戚一同、どっと大笑いした。しかしわたしはムッツリと口をへの字にしていた。
 ”杜甫作春望の贋作じゃないか!”と、馬鹿にしてしまう。
中卒の父のヒガミかと思ってしまった。いま思えば、ただただ恥じ入るばかりだ。
 「学歴のない者には、この詩の良さがわからないのかナ」と、皮肉たっぷりに言った。

父の顔は勿論のこと、居合わせた家族――母・妹・弟・叔母の顔が険しくなり、その目はわたしを非難していた。
わたしはいたたまれず、その場を去った。
その足で部屋にもどり、寒い寝床に入った。
その寒さは、わたしを孤独感で襲い絶望の世界に誘った。
そして、冬に父が他界した。
 
 「ワン、ワン!」
 勢いよくスピッツが飛び出してきた。
わたしが可愛がっていたルルだった。
父の葬式のときにはこのルルが私の心の支えになってくれた。
わたしが後悔の念に苛なまれているとき、わたしの靴にじゃれつき靴紐をほどいてしまった。
なおもその紐を噛み切ろうとするに至って、わたしはルルに対し手を振り上げて叩く仕種をした。
ルルは異様な空気に気が付いたとみえ、わたしを下から見上げ得意満面の顔をした。

わたしは苦笑いしつつ振り上げた手の処置にこまった。
しっぽを千切れんばかりにふるルルの頭を撫でてやらざるを得なくなり、わたしのポッカリと空いた穴がふさがれたのを感じた。
 あの、いろりのときのわたしが今のルルだった。
そして今のわたしが、家族だったのだ。
父は精一杯の愛情をわたしに向けてくれていたのに、わたしはそれを……。

 「ワン、ワン!」
 わたしは、反射的に手を差し出していた。
が、ルルはわたしではなくとなりの中年の女を迎えに来ていた。
わたしは、『シェー!』とでもやりたい心境になった。
横目で憎らしくとなりの中年女を盗み見した。その女は、私のことなど眼中になくルルを抱え上げて頬ずりしていた。私は、ルルに少なからず嫉妬心を覚えた。

 都会での生活は、決して甘いものではない。
一歩外に出れば、それこそ七人の敵が待っている。
この、むきだしの愛情表現を間近に見て、羨ましく感じた。
そんなことを考えている内に、我が家に着いた。

一年前とは打って変わり、思いっきりモダンな門扉があった。
田舎にはそぐわないものだ。どうせ、叔父さんにでも頼まれたのだろう。
と、忌々しくその扉を押した。ビクともしない。
ますます不快感を覚え、力任せに押した。それでも開かない。
 「それは引くんですよ」。まったく不愉快だ。
”どうして引くんだ。普通は、押すものだろうが・・・”とブツブツこぼしながら玄関のガラス戸を開けた。

 「ただいま!」
 なんの返答もない。”相変わらず不用心なことだ”と舌打ちしながら、家中に響くような足音を立てて仏間に向かった。
南向きの窓からの柔らかい陽射しが、部屋を明るくしていた。
昔ながらの豪壮な仏壇にぬかずくと、両膝をそろえ目を閉じた。
父の死に顔を思い出しながら手を合わせながら、「南無妙法蓮華経」と唱えた。
 神仏を信じているわけではないが、自然に口からこぼれていた。

 「さあ、お茶でもどう」
 懐かしい声がする。忘れていたおふくろの声だ。
”ああ、帰ってきたんだ”と、再確認した。
正座したまま体を回し、母の入れてくれた苦いお茶を口にした。
 「あっ!」
 そこには、先ほどから疎ましく感じていた中年女がいた。

わたしは、唖然としたまま口を開けていた。
 「どうしたんだい、狐につままれたような顔をして。
お母さんを見忘れたわけでもなかろうに。ほほほ……」
 わたしはなにも言うことが出来ず、ただ口をパクパクと動かすだけだった。
 庭で、ルルが「ワン、ワン」と、いつものように吠えた。