n(ス・キ!)n

西の空に、どんよりとした雲が浮かんでいます。どうやら、雨を呼びそうな気配です。不安げに見上げるシン公の顔には、それでもどことなく歓びの色があります。しっかりと握りしめているその拳に、どことなく大人が感じられます。
いつも肩を怒らせて歩く姿は、まだまだ子供だったのですが、今こうして握りしめられた拳からは、確かに大人が感じられるのです。

シン公との身長差を、いつも気にしながら歩いているアコは、その握りしめられた拳を、恨めしそうに思います。その大きな手は、アコの手を握ってくれないのです。苛立しげに見上げるアコですが、シン公にはそんな乙女心が、一向に通じないのです。

アコには、手に持った傘が、重たく感じられます。家を出る時に、雨が降りそうだからと、母親に無理矢理持たされた傘なのです。それが、妙に重く感じられるのです。
シン公が、
「貸せょ、持ってやるょ。」と、ぶっきら棒に言った時には、軽いものだったのです。小指一本でも持てそうな、軽いものだったのです。それが今は、ズシリと重いのです。

「もうすぐ、春だなぁ・・」
シン公の遠くの空を見る目を見つめながら、アコは頷きました。しかし、心では素直に頷いているのに、口から発せられた言葉には、険が感じられます。
「当たり前ょ。カレンダー位、見るでしょ!」
乙女心を解しないシン公に、アコは腹を立てているのです。

「いやぁ、ひと雨来そうだからさぁ。あ丶、傘、持ってやるょ。」
無造作に突き出されたその手ーようやく拳が解かれたその手に、アコは傘を渡します。そして、あれ程に繋ぎたいと思ったシン公の手に触れることなく、アコは手を引っ込めました。

今日の町並みは、少し色褪せて見えます。太陽が隠れているせいなのでしょうが、それだけではないようです。子供扱いをするシン公が、憎たらしくも思えているのです。

シン公が突然立ち止まり、アコの後ろに回りました。そしてアコの背中に、人差し指で、何やら書き始めました。
「イヤ〜ン!くすぐったいょお!」
アコは背中を反らして、シン公に止めて!と、言いたげです。

「こらっ!動くなょ。何て書いたか、分かるか?」と、窘めます。
「えっ!?もう一度、書いてみて。」
アコは、シン公にせがみました。

シン公は、念入りに、力を込めて書きます。その小さな背に、大きくゆっくりと、シン公は書きます。アコは、慎重に、一つ一つを口にします。
「ア・メ・ガ・フ・ル」
「はいっ、ご名答!じゃ、次だ!」

「ハ・ラ・ペ・コ・ペ・コ・食いしん坊!」
思わず、後ろを振向きました。シン公は、白い歯を見せて笑っています。
「ほら、次だ!」
シン公の大きな手が、アコの頭を包みます。暖かい、手でした。

「ア・コ・ハ・オ・レ・ガ・ス・キ」
「へぇー、そうかい?アコは、俺が好きなんだぁ。」
「バカ!知らないぃぃ!」
イー!と、口を尖らせるアコでした。

「それじゃぁ、これだ。」
「オ・レ・ハ・ア・コ・ガ・キ・ラ・イ・意地悪ぅ!じゃ、今度は私の番!」
アコはすぐにシン公の後ろに回り、大きな背中に小さく書きました。
「なに?そんな小さくちゃ、分かんないゾ!うん?・・キ・ス・キ・スぅぅ?」
シン公の素っ頓狂な声に、アコはプゥー!と頬を膨らませました。

「もぉう、シン公のぉ、えっちぃ!スキって、書いたのょ。それを、最初のスだけ、言わないんだからぁ!」
アコは不満げな声を出しながら、シン公の背中に耳を当てました。力強い心臓の鼓動が、アコの耳に、心地よく響きます。

アコは、シン公の本心が知りたいのです。
“好きだから、こうやって、一緒に歩くんじゃないか。”と、シン公は言います。だけれども、アコには物足りないのです。アコの気持ちは、loveなのです。でもシン公は、likeのようなのです。同じスキでも、微妙に違うのです。

心とは裏腹に、アコはシン公にブーたれることが多いのです。逆らうことが多いのです。シン公が、ラーメンを食べたいと言うと、バーガーにして!と言います。シン公が、公園でゆっくりしようと言うと、映画が観たい!と言います。

シン公が、ストロベリー味のアイスクリームを買うと、チョコレートが良かったのに!と、言います。それでもシン公は、笑っています。ちっとも、怒ってくれないのです。いつまでも、子供扱いするのです。
目を閉じてキスをせがむと、おでこに軽くチュッ!と、してくれるだけなのです。

時折シン公は、ロマンチストになります。甘い恋の囁きを、口にすることがあります。でも決まって、ひと言付け足すのです。
“アコには、早すぎるかな?”
そしてそれは、照れ隠しとも取れるし、本心とも、思えるのです。

アコは、いつも焦っています。シン公には、アコの知らない女の人が居るらしいのです。高校の先輩らしいのですが、話してくれないのです。どうやら、憧れの女性らしいのですが、どこの誰とも分からないのです。
シン公が、その先輩と交際をしているかどうか・・、分かりません。でも、アコには感じられるのです。likeではなく、loveの思いを抱いてる、と。

本当のところは、シン公にとってのその先輩は、憧れの女性であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。学校ですれ違う時に、会釈をするだけなのです。
アコの杞憂に過ぎないのです。シン公にとってのアコは、妹のような、存在なのです。まだ、恋愛の対象としては、考えられないのです。

何せ、アコが幼稚園児の頃から、遊んでいるのです。同じ町内に居ることから、アコの両親が共働きをしていることから、ずっと遊び相手になっているのです。妹と、見てしまうのも仕方のないことかもしれません。
でも、今、シン公の心の中に葛藤が生まれ始めています。アコも、中二になりました。少女に、なりました。少し、ニキビが出始めています。

怪しかった雲行きは、とうとう雨を呼びました。ポツリ、ポツリ、と降り始めました。そして、すぐに本降りになりました。シン公は、慌てて傘を広げると、アコに寄り添います。
街灯の灯りが、二人の影を舗道に浮かび上がらせました。相々傘の、その影は、まるで恋人のようです。

「冷たぃい!シン公、濡れるわ!」
「ゴメン、ゴメン。」
シン公は、アコの肩に手を回して、抱き寄せました。女物の傘は、二人で使うには、少し小さいです。

シン公の胸に顔を埋めるアコに、シン公の暖かい体温が伝わります。思わず、ポッと頬を染めるアコです。そして、右手を、シン公の腰に回します。しっかりと、寄り添います。

「よく降るなぁ・・」
シン公の吐息が、アコの髪にかかります。アコは顔を上げると、その吐息を思いっきり、吸い込みました。甘酸っぱい、そしてストロベリーのような味です。
アコは、シン公に寄り添いながら、思わず目を閉じてしまいます。シン公の手が、アコの肩に、グッと食い込んでいます。少し痛いほどです。

いつものアコなら、
“痛いょ、シン公!”と、言ってしまいそうです。でも、アコは嬉しいのです。その痛みが、シン公の、アコに対する気持ちのように感じられます。
「し・あ・わ・せ・・」
小さく、呟いてしまいました。

シン公は、アコのかわいらしい膨らみーまだ固さの残るそれを、体に感じます。心の中にざわつきを感じながら、歩きます。丸みを帯び始めたアコの肩を、力を込めて抱いています。緩めることなく、しっかりと抱き寄せています。

二人とも、無言のままです。町の騒音も、雨の中に消えています。二人の呼吸音だけが、耳に届いています。
二人とも、無言のままです。行き交う人たちも、雨の中に消えています。もう、二人だけしか居ませんでした。
wail 小 説