| シン君とアコちゃん、どうかしらねえ。 シン君、もう高校生でしょ。 アコちゃんは、小学六年生だしね。 井戸端会議の声が、胸に突き刺さる。 せまい故郷に帰ってきて、わずか二日目のこと。 夕立ちの雨が、激しく大地を叩きつける。 |
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| (一) 西の空に、どんよりとした雲がうかんでいます。どうやら、雨を呼びそうなけはいです。きょうは久しぶりのデートだというのに、なんとも意地悪な天気の神さまです。不安げに見あげるシン公の顔には、それでもどことなく歓びの色があります。しっかりと握りしめられたそのこぶしには、どことなく大人が感じられます。 いつも肩を怒らせて歩く姿は、まだまだ子どもだったのですが、いまこうして握りしめられたこぶしからは、たしかに大人が感じられるのです。シン公との身長差を、いつも気にしながら歩いているアコは、その握りしめられたこぶしを、うらめしく思います。その大きな手は、アコの手をにぎってくれないのです。うらめしげに見上げるアコですが、シン公にはそんな乙女心が、一向に通じないのです。 アコには、手にもった傘が、重たく感じられます。家を出るときに、雨が降りそうだからと、母親にむりやり持たされた傘なのです。それが、妙におもく感じられるのです。シン公が、「貸せよ、持ってやるよ」と、ぶっきら棒に言ったときには、軽いものだったのです。小指一本でも持てそうな、軽いものだったのです。 それが今は、ズシリと重いのです。 「もうすぐ、春だなあ……」 シン公の遠くの空をみる目をみつめながら、アコはうなずきました。しかし、こころでは素直にうなずいているのに、口から発せられたことばには、険が感じられます。 「あたりまえよ。カレンダーぐらい、みなさいよ!」 乙女ごころを解しないシン公に、アコは腹をたてているのです。 (二) 「こりゃあ、ひと雨きそうだな。ああ、かさ、持ってやるよ」 無造作につきだされたその手――ようやくこぶしが解かれたその手に、アコは傘をわたします。そして、あれほどにつなぎたいと思ったシン公の手にふれることなく、アコは手を引っこめました。 きょうの町並みは、すこし色あせて見えます。お日さまがかくれているせいなのでしょうが、それだけではないようです。子どもあつかいをするシン公が、にくたらしく思えているせいなのです。三つ年上のシン公です。中学生になったばかりのアコと、高校に行ってしまったシン公。追いつけないのがくやしい、アコなのです。 シン公がとつぜん立ち止まり、アコのうしろに回りました。そしてアコの背中に、人さし指で、なにやら書きはじめました。 「イヤ〜ン! くすぐったい!」 アコは背中をそらして、シン公にやめて! と、言いたげです。 「こらっ! 動くなよ。なんて書いたか、わかるか?」と、言います。 「ええっ!? もう一度、書いてみて。」と、アコはシン公にせがみました。 シン公は、ねんいりに、力をこめて書きます。その小さな背に、大きくゆっくりと、シン公は書きます。アコは、慎重に、ひとつひとつを口にします。 「ア ・ メ ・ ガ ・ フ ・ ル」 「はいっ、ご名答! じゃ、次だ!」 「ハ ・ ラ ・ ペ ・ コ ・ ペ ・ コ ・ 、やーい、くいしん坊!」 アコは、思わずうしろをふりむきました。シン公は、白い歯をみせてわらっています。 (三) 「ほら、次だ!」。シン公の大きな手が、アコの頭を包みます。暖かい、手でした。 「ア・コ・ハ・オ・レ・ガ・ス・キ」 「へえー、そうかい? アコは、俺が好きなんだ」 「バカ! 知らない! イーだ!」と、口を尖らせるアコでした。 「それじゃ、これだ。」 「オ・レ・ハ・ア・コ・ガ・キ・ラ・イ。ええ、いじわるう! それじゃ、こんどはあたしのばんよ」 アコはすぐにシン公のうしろに回り、大きな背中に小さく書きました。 「なに? そんな小さくちゃ、分かんないぞ! うん? キ・ス…キス?」 シン公の素っ頓狂な声に、アコはプウー! とほほをふくらませました。 「もお、シンちゃんの、えっちい! スキって、かいたのよ。それを、最初のスだけ、いわないんだから!」 アコは不満げな声を出しながら、シン公の背中に耳を当てました。力強い心臓の鼓動が、アコの耳に心地よく響きます。 アコは、シン公の本心が知りたいのです。「好きだから、こうやって、一緒に歩くんじゃないか」と、いつもシン公は言います。だけれども、アコには物足りないのです。アコは、love がほしいのです。 でもシン公は、like しかくれません。同じスキでも、微妙にちがうのです。 こころとは裏腹に、アコはシン公にぶーたれることが多いのです。逆らうことが多いのです。 (四) シン公が、「ラーメンを食べたい」と言うと、「バーガーにして!」と言います。シン公が、「公園でゆっくりしよう」と言うと、「映画が観たい!」と言います。「ボーリングに行こう」と誘うと、「レコードを聴きたい」と言います。シン公が、ストロベリー味のアイスクリームを買うと、チョコレートが良かったのに! と、言います。 でも、どんなにやんちゃを言っても、いつでもシン公は、笑っています。ちっとも、怒ってくれないのです。いつまでも、子供あつかいするのです。目を閉じてキスをせがむと、おでこに軽くチュッ! と、してくれるだけなのです。 ときおりシン公は、ロマンチストになります。あまい恋のささやきを、口にすることがあります。でも決まって、ひと言付けたすのです。「アコには、早すぎるかな?」。そしてそれは、照れ隠しともとれるし、本心とも思えるのです。アコは、いつも焦っています。 シン公には、アコの知らない女友だちが居るらしいのです。高校の先輩らしいのですが、話してくれないのです。どうやら憧れの女性らしいのですが、どこの誰とも分からないのです。 シン公が、その先輩と交際をしているかどうか、それすら分かりません。ほんとうのところは、シン公にとってのその先輩は、あこがれの女性であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。学校ですれちがうときに、会釈をするだけなのです。じつはアコの杞憂にすぎないのです。シン公にとってのアコは、妹のような存在なのです。まだ恋愛の対象としては、考えられないのです。 なにせ、アコが幼稚園児のころから、遊んでいるのです。おなじ町内にいることから、アコの両親が共働きをしていることから、ずっと遊び相手になっているのです。妹と見てしまうのも仕方のないことかもしれません。でもいま、シン公の心に葛藤がうまれはじめています。アコも、中学生になりました。少女に、なりました。すこし、ニキビが出はじめています。 あやしかった雲行きは、とうとう雨を呼びました。ポツリ、ポツリ、と降りはじめました。そしてすぐに、本降りになりました。シン公は、あわてて傘をひろげると、アコに寄りそいます。街灯の灯りが、ふたりのかげを舗道にうかびあがらせました。相々傘の、ふたり並んだその影はまるで恋人のようです。 「つめたい! シンちゃん、ぬれるわ!」 「ゴメン、ゴメン」 (五) シン公は、アコの肩に手をまわして抱きよせました。おんなものの傘は、ふたりで使うには、すこし小さいようです。シン公の胸に顔をうずめるアコに、シン公のあたたかい体温がつたわります。シン公の腕にも力が入っていきます。おもわず、ポッとほほを染めるアコです。そして、右手を、シン公の腰にまわします。しっかりと、寄りそいます。アコのハートが早鐘のように鳴っています。聞かれはしないかと、心配なアコです。 「よく降るなあ……」。 シン公の吐息が、アコの髪にかかります。アコは顔を上げると、その吐息を思いっきり、すいこみました。あまずっぱい、レモンのような味です。アコは、シン公に寄りそいながら、思わず目をとじてしまいました。シン公の手が、アコの肩に、グッと食いこんできます。すこし痛いほどです。 いつものアコなら、「いたいよ、シンちゃん!」。言ってしまいそうです。でも、アコは嬉しいのです。その痛みが、シン公の、アコに対する気持ちのように感じられます。「し・あ・わ・せ」。ちいさく、つぶやいてしまいました。シン公は、アコのかわいらしいふくらみーまだかたさの残るそれを、体に感じます。こころの中にざわつきを感じながら、歩きます。 まるみを帯びはじめたアコの肩を、力をこめて抱いています。ゆるめることなく、しっかりと抱きよせています。まだ中学一年生じゃないか、でも、もう中学一年生なのです。ふたりとも、無言のままです。町の騒音が、雨のなかに消えています。ふたりの呼吸音だけが、耳にとどいています。 ふたりとも、押し黙ったままです。行きかう人たちも、雨のなかに消えています。もう、ふたりだけしかいませんでした。夏の日の夕立ちです、レモンの夕立ちです。 |