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(一) 今日、三十五才の誕生日を迎えた栄子。誰とて祝ってくれる人もいない。今さら祝ってもらう歳でもあるまいしとうそぶくが、やはり心内では寂しくもある。人気ヒトケのないスタジオにひとり残った栄子に、声を掛けて退出した練習生はひとりもいない。この教室ではベテランになってしまった。同期生のすべてが家庭にはいり、子持ちになっている。子どもの手が離れたら戻りますから…と、みな退会してしまった。 今夜は昔風に言えば花の金曜日、窓から見る通りには腕を組んで歩くカップルが目立つ。四、五人のグループが信号待ちをしていたが、まだ赤信号だというのにその内のひとりが車道に飛び出した。急ブレーキを掛けてタクシーが止まり、事なきを得たが、相当に酔っているように見える。残りの者が平身低頭して、その車に謝った。しかし当の本人は、どこ吹く風とはしゃぎ回っている。 雑多な騒音が飛び交うなか、部屋の中に街頭のにおいが入り込んでくる。体にまとわりつく熱気も、栄子を苛立たせる。エアコンが切られて三十分ほどが経っている。すでに室温は三十度を優に超えた。クルリクルリと体をターンさせて、両手を大きく上に伸ばす。指先にスイッチが入ると、ゆっくりと柔らかく動かす。手首を軽く動かしながら、腰を軽く回していく。体は十分に温まっている。すぐにも激しい動きにはいれる。音楽を流しながら、頭の中で動きを思い描く。カンタオールの強い声が、栄子を突き動かす。タンタンと足を踏みならしながら、声に合わせて手をグルグルと回す。次第に動きが大きくなり、力強くそして早くなる。どっと噴き出す汗が、ぼとりぼとりと床に滴り落ちた。 「エアコンの効いた中での練習では、スタミナが付かないのよ」 栄子の持論は、練習生とは相容れない。彼女たちには趣味としてのフラメンコなのだ、栄子のようにプロを自任する者とは、一線が画される。そしてそんな練習生が増えたいま、栄子の時間が削られていく。まったりとした空気が漂うなか、ますます追い込まれていく。次第に険のある表情を見せることが多くなった。主宰からの注意を受けることも度々だ。踊りにおいても、力を抜きなさいと、口酸っぱく言われる。いまの精神状態では身体にも余計な負担を掛けてしまうわよと、指導を受ける。しかし栄子に納得できはしない。「嫉妬しているのよ」そう思っている。いや、思い込もうとしている。 つい先日に、十一月中旬のショー依頼が入った。代役ではあったが教室としても久しぶりのことで、大いに盛り上がった。力のはいった練習がはじまったのだが、栄子以外の者はすぐに音を上げた。明らかにスタミナ不足だ。といって練習量を増やすことを、みなが嫌った。仕事に影響が出ては困るのだ。あくまで趣味としての範囲を逸脱しない、それがみなの気持ちだった。結局のところ、栄子の踊りを増やし、全員はラストの一曲だけということになった。さらには客をステージに上げて簡単なステップの披露をすることで、45分のハーフショーを組み立てた。 今夜は、健二が来る予定だ。フラメンコのギタリストではないのだが、栄子のためにとエレキギターをフラメンコギターに持ち替えて演奏してくれる。CDによる演奏では、どうしても型どおりになってしまい、栄子の踊りができない。舞台では演じ手の癖がある。それぞれに微妙にテンポが違うのだ。もちろん栄子のテンポに合わせてくれる演じ手もいてくれる。しかし栄子には、健二との相性が一番だ。健二の奏でるギターの音色に包まれると、苛立つ気持ちも消えていく。 時計を見ると、八時半を指している。 「いつものことよ、あいつが約束を守ったことなんて、ほんの数えるほどじゃないの」 口に出してこぼしてみるが、誰も慰めてはくれない。気を取り直してCD機に手を伸ばした。 「ごめん、ごめん。遅くなっちゃったよ」 健二の声が背後から届く。決して正面切っては顔を見せない。どうせ、せせら笑いをしているのだろうと栄子は思う。ぐっとこみ上げてくる涙をこらえながら、「来てくれるとは思ってなかったわ。どういう風の吹き回しかしら?」と、せめてもと険のあることばで返した。 「なあ、栄子。もう一度医者に診せないか。知り合いがな、大学病院の医師を紹介してくれると言うんだけど。手術は、イヤか? 五分五分だとは……。けど、日常生活においては」 栄子の背に話しかける。相手の目を見て話すことが苦手な健二だ。自分さえ持て余し気味なのだ、他人の人生を背負いこむことなど到底考えられない健二だった。栄子に対する愛情は本物なのだ、しかし漠然とした不安が健二を押しつぶそうとしている。 「やめて、その話は! あたしはつづけるのよ、まだ。トップに立つのよ。どうなの、協力してくれる気はあるの。どうなの!」 健二の話を遮って絶叫する栄子だ。 健二は無言でギターを手にした。ゴルペ板を指先で叩きながら「カンテは誰なんだ」と、栄子に問いかけた。右足を前に出して準備を終えた栄子が「知らないわよ、そんなこと。急な話だから、主宰も大慌てよ」と、不機嫌に答えた。 健二の演奏に合わせて、ゆっくりと背を伸ばし両手を高く掲げる。くるりくるりと回る手首、指先もまた動きはじめる。健二の甲高い声が響くと、その声に合わせて足を踏み鳴らす。ギターのリズムが早くなると同時に両手を腰にあてがい、大きくターン。つづいてスカートの裾をつかんで大きく跳ね上げる。 片手を上げて背筋を伸ばし、大きく再度のターン。床を踏みならす靴音がより激しくなる。額に噴き出す汗が左右に飛び散った。「オーレ! オーレ!」の掛け声と共に指の動きも激しくなり、腰を使っての動きも強くなる。 突然ギター演奏が止まった。苦痛に歪んだ表情を見てとった健二が声を張り上げた。 「だめだ、だめだ! 引退だ、もう。床が泣いてるぞ。栄子にも分かってるだろう」 顔面蒼白で立ちすくむ栄子、ひと言も発しない。ただじっと足下を見つめて、噴き出る汗を拭こうともしない。床にポタリポタリと滴が落ちる。汗なのか、涙なのか…。 「つづけて!」。栄子の絶叫が響いた。 「もういい、やめろ! 今夜はここまでた。これ以上ムリして、もっとひどくなったらどうするつもりだ。休養することも大事だぞ」 ギターをケースにしまい込みながら「ひさしぶりに一杯飲むか?」と、栄子に優しく声をかけた。立ちすくんでいる栄子、返事を返さない。じっと床を見つめている。ボタボタと落ちる汗を拭こうともせずに、なにやらぶつぶつと呟いている。健二を見ることなく、床を見つめたまま呟きつづけている。「勝手にしろ!」。捨てゼリフを残して健二が去った。それでも栄子は微動だにしない。床を踏み鳴らしている。先ほどの激痛は走らないが、まだ痛みが走る。「どうしたの、どうしてなの。あたし、悪いことをしたかしら?」 誰に言うでもなく、はっきり声を出した。トップダンサーを夢見て踊りつづけてきたこの二十年の余。中学一年の折にフラメンコの世界に飛び込んだ栄子だ。「やるっきゃないのよ!」。己を叱咤するように、大声で叫んだ。呼応するように急停車のブレーキ音が聞こえた。思わず窓を開けて、外を見た。運転手が怒鳴り、車から男が降りてきた。 窓から見やる栄子、なにげなく見上げた正男、ふたりの視線が偶然に重なった。思わず正男が叫んだ。「あのダンサーだ!」。窓に描かれているフラメンコの文字に、正男の脳裏に栄子の艶姿が浮かんでいた。窓から顔を出した女性が、三重県のスペイン村でのフラメンコショーで観た栄子だと、確信があったわけではない。しかしフラメンコのダンサーだということは間違いがない。そしてそれは、誰でもない栄子なのだ、いや栄子でなくてはなくてはならないのだ。 (二) 激しい雷雨の中、東京駅の時計は夜の九時を指している。久しぶりの外出をした松下だった。電車からの乗降客と雨宿りのために留まった乗客たちで、構内は大混雑だ。諦めて雨の中に走り出す若者たちが増える中、どこといって行くあてを持たぬ松下だ。外出と言えば聞こえは良いが、実のところは自宅マンションから逃げ出してきた。一年近くの同居生活を送っているユカリからの逃避だ。 今日も朝からパソコンに向かっていた。隣の居間では、これみよがしに大音量で映画に見入るユカリが居る。 「あーあ、こんなことならお店を辞めるんじゃなかったわ」 松下に向かって大声で話しかける。しかし松下からはなんの反応もない。腹を立てたユカリ、大きく足を踏みならしながら部屋に入った。チラリとユカリを一瞥した松下だが、なんのことばもなくモニターに目を戻した。 窓などのない部屋で、ライトグレーの壁には装飾物はなにもない。 ランプ型の高級壁掛けライトが設置してあったのだが、仕事部屋にふさわしくないと取り外してしまった。まったくの無機質な壁にしてしまった。 そしてその壁際に大型のディスプレイが五台設置してある。東京・ニューヨーク・ロンドン・上海と、そして香港市場での指標が映し出されている。めまぐるしく動くその指標を追いかけながら、カタカタとキーボードをたたいてる。 八丈ほどの広さで、反対側の壁にはソファベットが設置され、仮眠をとるための寝具が乱雑にある。ゆかりはこの部屋にはじめて入った。「なんにもないのね。水もないの?」 持ってこようかと言わんばかりのことばに、「」いらん とぶっきらぼうに答える松下だった。「キーボードに水をこぼしたら大変だ」と、憮然としているゆかりに付け足した。 精一杯の好意を見せたつもりのユカリは、その場に立ってじっと松下を睨み付つた。しばらくの後「どういうつもりなの、あなた!」と、ユカリが口を開いた。振り向くこともなく「なにがだ」と松下が答えた。見る見るユカリの顔が紅潮し「人の目を見て話しなさいよ。失礼でしょ、そんなのって」と、きつい口調で詰った。 「大事な場面なんだよ、今。話なら後にしてくれ!」 思わず怒鳴ってしまった。そしてうるさそうに、手で払う仕草を見せた。 「もう、頭にきた!」 そう叫ぶや否や、パソコンのコードをコンセントから引き抜いた。画面の消えたモニターを見つめながら「どういうつもりだ。今、どれだけの損失を出したか分かるか。お前の年収分ぐらい、吹っ飛んだかもしれないんだぞ」と、静かな声で言った。 「知らないわよ、そんなこと。あなたが悪いんだから」 口を尖らせるユカリに、松下の怒りが爆発した。左頬に信じられない痛みを感じたユカリは、ベッドのうえにあった枕やら羽布団やらを、手当たり次第に投げつけた。 「許せない、許せない!」 ヒステリックに泣き叫ぶユカリに手を焼いた松下は、ほうほうの体で部屋を逃げ出した。ひとり取り残されたユカリは、その場にしゃがみ込んでしまった。自問自答を繰り返すが、答えは出ない。 “どこを間違えたの? 玉の輿に乗ったはずなのに…” 昨夜も口論となった。中食と称される総菜類を並べるユカリに対し「たまには料理ぐらいしたらどうだ!」と、松下がこぼしたことからの口論だった。家政婦じゃないんだから、と言い返したものの、己に非があることが分かっている。ただただ泣き叫ぶしかなかった。 「あたしがどれだけの犠牲を払ったと思っているのよ。ナンバーワンのあたしがお店を辞めて、ここに来てあげたのよ」 しかし松下の反応は冷たいものだった。 「なにが来てやった、だ。頼んだ覚えもないのに勝手に来て住み着いたんじゃないか。ナンバーワンだ? ほのかに追い抜かれて、KAYの三人娘にも追い上げられて、青息吐息だったろうが。ことみ・あかね、わかの三人だよ。俺の情報収集力をなめるなよ。投資というのは、情報が命なんだよ。そもそもあの店に通ったのは、なにもお前が気に入ったからじゃないんだ。あそこに通っていた…」 話しつづける松下のことばが、ユカリには届かなくなった。ナンバーワンではなくなっていたという事実、与えられていた特権を剥奪されたという事実、松下の元に逃げ込んできたという事実、それらすべてを見透かされていた。ユカリのプライドが、今、ずたずたに引き裂かれた。ふらふらとテーブルを離れ、寝室に閉じこもった。 さすがに言い過ぎたと感じた松下、ドア越しに「悪かった、ユカリ。言い過ぎたよ。次の休日に、食事に行こう。それからどうだ、もう一度パリに行かないか。明日にも相談しようじゃないか」と、声を掛けた。このことがあっての今日だった。楽しみにしていたユカリに対し、松下からなんの話もない。朝から夜になった今まで、株のチャート画面ばかりを見ている。 朝に声を掛けたおりには、五台あるモニター画面のひとつとして、旅行会社のサイトは出ていない。ならば午後からにと思っても同じくで、そして夜になってもだ。昨日のことばはその場限りのことだったと、ユカリの気持ちが爆発した。 松下の居ない部屋で、ひとり取り残されたユカリ、これからのことを考えると不安でいっぱいになる。自殺という文字が頭をかすめた。“あてつけにやってやろうかしら” しかしそれができない己であることは、ユカリ自身がよく知っている。感情的になりやすいが、それとてすぐに収まってしまう。そしてその因を分析しはじめる。相手に非があってのこともあるが、そのほとんどは己の我がまま、思い過ごし、そして予測ちがいによるものだ。そうなのだ、この分析癖が、ユカリをして突発的、衝動的行動をなかなか取らせないのだ。「お前ならナンバーワンになれなくても、オンリーワンになれるさ」 何かのおりに、松下がもらしたことばだ。ユカリが「それって、歌でしょ」と詰め寄ると「ばれたか。でも、ほんとだぞ」と、真顔で言う松下だった。“戻ろうかしら、また…”。頭に過ぎったことが、早晩そうなりそうな気がしてくるユカリだった。 松下もまた同じ思いにかられていた。キャバクラに通って半年、そして同居生活を含めてもわずか一年の期間だ。元々ユカリを指名したのは、ある意図があってのことだった。観察力、洞察力のあることが条件だった。はじめての入店時に、わざとみすぼらしい格好をしたのも、靴だけは高級品にしたのも、そのテストのためだった。 目立たぬ出で立ちで通い地味な金の使い方をつづける松下に対して、ユカリだけが上客だと判断した。理由を問いただすと、「靴が高級だもの」と事もなげに言った。そして松下の冗談めいた頼み事――鞄の中身を撮影できるか?――を、しっかりとこなしたユカリだった。その情報で裏が取れたと判断した松下、株において大勝負を掛けて大金をせしめた。 なんの詮議もしないユカリに対し「ユカリが気に入った。パリにでも行くか?」と、褒美の旅行へと連れ出した。よからぬ企みでは? と気にはなったものの、変わらず来店してくる松下とそのお客だったことに、単なるお遊びだったのかと、胸をなで下ろすユカリだった。そしてそんな太客となった松下に、大きな勘違いをしてしまった。そしてそれが、今、ユカリを苦しめることになってしまった。松下にしても疎(うと)ましさを感じはじめてきていた。思わず「そろそろだな…」口に出てしまった。 (三) 観光特急しまかぜの車内、沙織の心内に焦りが生まれていた。ここのところの正男とのぎくしゃくとした関係を修復したいのだ。そのために、嫌がる正男を無理矢理に引っ張り出した。ここのところの正男と言えば、なにかというとホテルに入りたがる。「それしかないの!」と詰る沙織に、平然として「若いんだ、俺たちは」と答える正男だ。 「草食ばっかしなのに、羨ましいわよ。あんまり拒否してると、浮気されちゃうわよ」 「浮気ならまだ良いわよ。逃げられちゃうわよ、その内。玉の輿なんでしょ?」 大学を卒業してからもつづいているふたりの友人との会話だ。互いの彼氏を刺身のつまに週に一度は会っている、気の置けぬふたりからの忠告を聞いての旅行なのだ。新幹線内では寝不足だからと眠りこけた正男だった。名古屋での乗り換え時には、時間が押していて慌てて駆け込んだふたりだった。 先頭車両が大きなガラスを前面に配した見晴らしの良いハイデッカー車両となっていて、フロントビューの景色を贅沢に楽しめる。横に一席プラス二席の車内は広々として豪華で、沙織の気持ちを浮き浮きとさせた。しかし正男は相変わらず不機嫌な顔つきを見せている。なにが不満なのかと問い質しても、分かってるくせにと答えようとしない。 個室で予約した正男の思いは、沙織にも分かっている。しかし一泊旅行なのだ、と沙織は考えている。互いの気持ちのズレが、少しずつ大きくなっていることが気になる沙織だった。前回のデートのおりにも、ホテルへと言う正男に対し「ズルズルとした関係はイヤ!」と拒否してしまった。 そのおり、正男からプロポーズらしきことは言われたのだが「今みたいなフリーターはやめてよ」と嫌みに取られかねないことを言ってしまった。すぐにその真意を話したが、正男の引きつった顔が変わることはなかった。 結局のところ、ビュッフェ車両で昼食を摂ることになった。沙織が伊勢エビ、正男は松阪牛のステーキを注文した。舌鼓を打つ内に、次第に正男の機嫌も直りはじめた。沙織が渡す伊勢エビを食したところで「ごめん」と、思いもかけぬことばが正男から出た。正男から沙織の口にステーキが入れられたとき、沙織の目から大粒の涙があふれ出た。 一旦は仲直りができたはずだった。スペイン村で諸々のアトラクションを楽しみ、ようやくいつものふたりに戻った。しかしジェットコースターでのことは、正男の意外な一面を見た思いで、一抹の不安を覚えさせた。急降下する際に「ママ、ママ!」と絶叫する正男は、笑いを取るためとはどうしても思えない沙織だった。 さらに正男の不用意なひと言で、またしても反目し合うことになってしまった。チャペルウエディングが執り行われていたサンタクルス教会で「すてき! ここでの挙式なんか、想い出に残るでしょうね」と、目をキラキラさせて沙織が立ち止まった。沙織を喜ばせるつもりで漏らしたであろう正男の「挙げちまうか、今日」が、沙織には許せないことだった。あまりに軽く言う正男に、沙織との結婚というものが、現実問題としてとらえられていないと感じられたのだ。 フラメンコショーを観るべく会場に入ったふたりだが、踊りを楽しむという雰囲気ではなかった。そこかしこで会話の花が咲いているというのに、互いに視線を合わせることなくまたことばを交わすこともなくいた。出された飲み物を空にした正男が席を立とうしたとき「これからショーがはじまるのよ」と引き止めた。 舌打ちしながら席に戻る正男に「マナーをわきまえてよ」と小声で言った。無言のままステージに目を向けている正男に腹が立つが“まだ子どもなのよ、正男は”と己に言い聞かせる沙織だった。父親は官僚であり母親も華道の師範だ。絵に描いたようなセレブの家庭なのだ。多少の我がままは仕方ないと諦めている沙織だった。 いよいよショーがはじまった。フラメンコに興味を覚えはじめた沙織は、目を見開いてステージを凝視した。正男には奇異な感じがしている。正男の知るフラメンコは、激しいリズムを伴うものだった。実のところ、サンバとフラメンコが混同してしまっている。 流れはじめたギター、合わせるように手を叩く者がいる。もの悲しく切なく届いてくる。重苦しい気持ちに襲われた正男、チラリと沙織に目をやった。ステージにしっかりと視線を注ぎ、演奏に聞き惚れている。膝の上で合わせられている手が、正男には邪魔だ。キラキラと光って見える足が、正男にお出でお出でと呼びかけているように思える。しかしその手が、正男を拒否している。 突如、万雷の拍手が会場にひびいた。その登場を待ちかねたように、沙織もまた激しくリズムに合わせて手を打ちはじめた。何ごとかと目を上げると、四人のダンサーがステージに並んで踊りはじめた。目をこらしてみると、外人のようだ。沙織の耳元で「有名なのか?」と聞くと「黙ってて!」と、ピシャリと言った。 正男に言ったのか独り言なのか「まず、セビジャーナスね」と、頷いている。あくびをかみ殺す正男だったが、ひとりで現れたダンサーが、床をタンタンと踏みならした。腰を前後左右に振りながら、手の指をくねくねと回して踊る。「うんうん」と頷く沙織、しかし正男にはなんの感動もない。 舞台の両袖から、ふたりずつのダンサーが呼び出された。手を叩き合いながら、床を踏みならして踊り合う。互いに向き合ったダンサーたち、両手を高く上げてクルリクルリと回り合う。よく見ると左右対称の踊りになっている。 そして向かい入れられるような形で、中央に進み出たスターダンサー。五人が一斉にスカートの裾をひるがえしながら床を踏み鳴らす。白い足に釘付けになった正男の視線の先に、日本人ダンサーを見つけた。栄子だった。 素っ頓狂に「おい、日本人じゃないか?」と叫ぶ正男を、信じられないといった表情で「静かにして! 恥ずかしいでしょ」と、沙織がたしなめた。周囲もまた、眉をひそめている。頭を下げる沙織に対し、どこ吹く風とばかりにしれっとしている正男だった。パンフレットを見て「松尾栄子か、友情出演?」と声に出す。退屈さを紛らわす為なのだが、沙織には嫌がらせに思える。「声にしないで!」と、苛立つ沙織だった。 その夜、狂ったように沙織を求めた正男だったが、沙織の胸には“これで終わりかも”といった漠然とした思いが去来した。結婚相手としての条件は極上なのだが、正男という人間に違和感を、いや嫌悪感に近いものを感じはじめた。欠点をあげつらったらだめ、と己を戒めるのだが、どうしても消えない。ならばと、長所を思い浮かべてみる。優しい、裏を返せば優柔不断とも思える。おしゃれ、といっても母親の見立てらしい。裕福、親のことであり正男はフリーターだ。結局打ち沈むだけの沙織だった。 (四) 正男が目ざめたとき、沙織の姿はなかった。脇のテーブルに「先に帰る」との走り書きがあった。沙織の行動が理解できない正男だった。しかし満足感一杯の正男には、どうということもないことだ。それよりも夢に出てきた栄子のことが気になっていた。 はじめてのフラメンコという踊り、正男には衝撃だった。「たかがダンスだろうが…」という見下した思いが、見事にくつがえされた。栄子というダンサーがステージ中央に立つと、ギターの調子が変わり、激しいビートを奏ではじめた。カンタオーラの声が、地の底からひびくかの如くに正男の耳に入る。パンパンとリズムに合わせた拍手とともに、正男を釘付けにしていく。タンタンと床を踏み鳴らして、悩ましく腰を揺らしながら手首がくねくねと動き、そして怪しげな指先が正男を魅了する。 激しく揺れるスカートの裾が正男の眼前に飛んでくる。正男は、うっそうと茂る森林の中を彷徨(さまよ)っている。今どこにいて、これからどこに向かうのか、それが分からない。クルリクルリと回りながら、激しく空(くう)に叩き付けられるスカートが、正男の脳髄を刺激する。食い入るように見入る正男の姿は、魅了ということばでは言い表せない。激しく叩く靴音が、ややもすると金属音に聞こえるその音が、正男の琴線に触れる。 一切の俗界から遮断され、正男と栄子だけの異次元に飛んでしまった。知らず知らずに正男の目から涙が溢れはじめた。なぜ涙を流すのか、溢れ出るのか、正男にも分からない。正男を包むバリアに邪魔されて、傍にいる沙織は触れることもできない。「正男、正男」と沙織が声を掛けても、答えることはない。正夫には沙織の声が遠くで聞こえる。のぞき込む沙織の顔が、逆望遠鏡のように遠くに見えた。 うなだれて静止するダンサー、ギターも奏でることをやめた。カンタオーラも沈黙した。栄子からしたたり落ちる汗が、ステージ上で飛び跳ねる。大きな拍手の鳴りひびく中、正男ははっきりとその水音を耳にした。正男を包み込む踊りに「なんなんだ、これって。フラメンコっていうのは…」と、我に返った正男だった。夢とはいえ妙に現実感を伴っていた。 沙織とは、あの旅行を境として疎遠になっていた。今はただ、自宅とバイト先を往復するだけの正男だった。夕方に出かけて深夜の二時頃に帰り着くという日々をつづけている。母親の「身体をこわさないでね」という心配顔も、今はうっとおしく思えたりする。襲いかかる淋しさが、母親に対する暴言となったりした。 「お父さんがね、就職先を見つけてくれたんだけど、面接に行って…」 「誰がそんなこと、頼んだ! 親のコネなんてみっともない。その内、ぼくの実力を認めてくれる会社が見つかるさ。ほっといてくれ!」 しかし翌日には「母さん。ぼくって、チャラ男なの? バイト先で店長に言われたんだけど…」と泣きつく。そして決まって「今はチャラ男で良いのよ。後々それがきっと財産になるから」と慰められた。正男のざらついた気持ちも、そんなひと言で落ち着いてくる。そして自信が湧いてくるのだ。 突然に、栄子の踊る姿が目に浮かんだ。五人のダンサーのひとりに過ぎなかった栄子の存在が、中央に立って踊る栄子の存在が、日増しに大きくなっていった。憂いを含んだ瞳が、深いブルーに打ち沈んだ瞳が正男を捉えたとき、正男を鷲づかみにした。陶酔感に浸った表情の中、切なげな瞳が、正男をまさしく虜(とりこ)にした。 その日は週に一度の早出の日だった。午後三時から九時までのタイムスケジュールになっている。以前ならば沙織とのデートとなる。しかし今は、誘う相手は誰もいない。慣れてきたはずの正男だったが、今夜に限っては人恋しさに囚(とら)われていた。このまま自宅に帰る気にもならず、さりとて人混みの中を歩く気にもならない。通りかかったタクシーに乗り込んでは見たものの、行く宛はない。「とりあえず出して」。言った矢先に、急ブレーキがかかった。ヘッドレストに頭をぶつけた正男、そのまま車を降りた。 「もういい、やめろ! 今夜はここまでた。これ以上ムリして、もっとひどくなったらどうするつもりだ。休養することも大事だぞ」 ギターをケースにしまい込みながら「ひさしぶりに一杯飲むか?」と、栄子に優しく声をかけた。立ちすくんでいる栄子、返事を返さない。じっと床を見つめている。ボタボタと落ちる汗を拭こうともせずに、何やらぶつぶつと呟いている。健二を見ることなく、床を見つめたまま呟きつづけている。「勝手にしろ!」。捨てゼリフを残して健二が去った。それでも栄子は微動だにしない。床を踏み鳴らしている。先ほどの激痛は走らないが、まだ痛みが走る。「どうしたの、どうしてなの。あたし、悪いことをしたかしら?」 誰に言うでもなく、はっきり声を出した。トップダンサーを夢見て踊り続けてきたこの二十年の余。中学一年の折にフラメンコの世界に飛び込んだ栄子だ。「やるっきゃないのよ!」。己を叱咤するように、大声で叫んだ。呼応するように急停車のブレーキ音が聞こえた。思わず窓を開けて、外を見た。運転手が怒鳴り、車から男が降りてきた。 窓から見やる栄子、何気なく見上げた正男、ふたりの視線が偶然に重なった。思わず正男が叫んだ。「あのダンサーだ!」窓に描かれているフラメンコの文字に、正男の脳裏に栄子の艶姿が浮かんでいた。窓から顔を出した女性が栄子だと、確信があったわけではない。しかしフラメンコのダンサーだということは間違いがない。そしてそれは、栄子なのだ。 栄子とふたり、こぢんまりとした五、六人の客が入れば満席となってしまう小さなバーに入った。くわえ煙草で氷を割るママに「いい加減に割れた氷を買ったら」と栄子が言う。「ウィスキーの氷はね、手で割ったものが一番なの」とママが答えた。十年来のなじみの店だ。正男は栄子のとなりで小さくなっている。 「珍しいわね。というよりはじめてじゃない、健二以外の男連れなんて」 正男を抱き寄せて「健二とは別れたの、もう。でね、今夜はこの坊や。あたしの、今夜のペットなの。どう、可愛いでしょ?」と正男を見せびらかす。じっと正男を見つめるママ。心の奥底まで見透かすような、強い視線を投げかける。思わず目を伏せた正男に「逃げないの!」と強いことばを投げ付けた。そんな正男を「ママ、いじめないでよ。今夜会ったばかりなんだから」と、栄子がかばった。 「実はね…」と今夜のことを語った。健二との会話のやり取り、そしてひとり残されたこと。ビルから栄子が出てくるなり「ぼく、あなたのファンなんです」と頭を下げてきた正男。胡散臭(うさんくさ)さを感じつつも、笑顔に安心感を感じたこと。そして何より、糊の利いたシャツが好感度をアップさせたこと等々。 今夜は人恋しくもある栄子だ。三十五才という年齢が、現実感を伴って栄子に襲いかかっている。そんなときの正男の出現だ。何かしら運命めいたものを感じてしまった。正男にしてもそうだ。今夜に限って行くあてもなくタクシーに乗り込んだ。そして交差点での酔っ払い、車を降りたところで栄子に出会った。 正男が目ざめた時、まるで見覚えのない部屋にいた。殺風景な部屋で、廉価なビジネスホテルまがいに感じた。身体を起こして、まず目に飛び込んだのは、全身が映りこむほどの特大ミラーだった。しかも所狭しと五枚が並べられてあるのに驚かされた。また別の壁には、ひと月ごとのカレンダーが貼ってあり、予定らしきものがびっしりと書き込まれている。なぐり書きされたそれは、正男には判読不能な未知の文字−記号にすら見えた。 布団の中にまだぬくもりがある。誰かいるのかと手を入れると、そこに栄子がいた。霞がかった頭に、昨夜のことが少しずつ思いだされてきた。顔相を見るというママから「栄子があんたの救い主だよ。母親の呪縛から解き放ってくれる救い主だよ」と、告げられた。 酩酊状態の栄子を、送り届けることになった。タクシーが走り出してしばらく後に「泊まっていきなさい」と酔ったふりをしていた栄子が耳元で囁いた。甘い香りが正男を包み込み、思わず「はい」と答えてしまった。 沙織では主導権を持つ正男だが、栄子相手では太刀打ちできない。栄子には、されるがままの正男だった。官能の世界にどっぷりと浸った。五体全てが正男から離れ、それぞれが暴走をはじめた。果てても果ててもなお求めつづける正男、そして応えつづける栄子。ついには正男の意識すらも、正男を見捨てた。“ママが言ってた運命の女(ひと)って、栄子さんなんだ!”。そう確信した正男だった。 (五) 久しぶりのステージだった。会社創立五十周年記念パーティのアトラクションして、フラメンコダンスが指名された。会長の肝いりで決まったショーで、栄子の所属する教室に突然のオファーが舞い込んだ。会長がパトロンを務めるダンサーが突然に断ったゆえのことだった。スペインでのショー出演に飛びついたとの情報も流れた。そのため関係が切れたという噂も飛び交った。 栄子にとっては、千載一遇のチャンスでもあった。会長に自身の踊りを見せることでアピールができるというものだ。パトロン関係が成立すれば、潤沢な資金援助を期待できる。うまくすれば独立することさえ可能なのだ。もちろんその裏には愛人という文字がちらついてはいる。八十に手が届こうかという年齢がどう転ぶのか…栄子には分からない。 健二が顔を合わせる度に「やめろ、やめろ。年寄りの玩具になるつもりか! おれの惚れた女は、そんな女じゃないはずだ」と噛み付いてくる。分かっている、栄子を思っての言葉だとは理解している。だが栄子は「あたしの好きにするわよ。応援してくれなくてもいいけど、邪魔はしないで!」と譲らない。 そして秋も深まった十一月の今日、ホテルの大広間をつかってのパーティが催された。式典の後に、いよいよアトラクションへと移る。「五分前です、よろしくお願いします」ホテルの従業員から声がかかる。ガヤガヤと騒がしかった控え室が静まり返り、ピンと張り詰めた空気が漂った。 「栄子。いいわね、スタートが大事よ。ざわついている観客をだまらせなさい。今日は、あなたがスターなのよ!」 軽く床を鳴らしてみる。鎮痛剤が効いているのか、足首に痛みがない。思いっきり床を叩けそうだ。“いいわね、栄子。今日が勝負よ!”頬をパンパンと叩いて、気合いを入れた。 「大変お待たせ致しました。アトラクションに入らせていただきます。フラメンコショーでございます。ダンサーは…えっ? 代わったの…」 会場から失笑が洩れ「やっぱり…会長、好きだもんな」そして落胆のため息も漏れた。「失礼しました。では、ご登場願いましょう。木内フラメンコ教室の皆さまです。盛大な拍手をお願いいたします」 屈辱だった。代役となったことが、マイクで拾われてしまった。栄子の名前も伝わっていない。そしてそして、なにより栄子を傷つけたのは観客の失笑だった、ため息だった。歌謡ショーを期待していたらしい声が、そこかしこから漏れ聞こえてきた。 「行くわよ、栄子!」 はっきりと声に出して、己を鼓舞した。ギターの音色が流れ始めると、一応は静まり返った。落とされた照明の中、栄子にスポットライトが当たる。まばらにお義理の拍手が起きた。中央最前列の会長に目をやると、隣の男と談笑している。こっちを見て、とばかりに床を鳴らして直立不動の姿勢をとった。 ゆっくりと、しかし力強く手首を回しながら指をくねらせる。真上に手が揃ったとき、ギターがタンタンとボディを鳴らす。小さく床を鳴らしながら、腕を下へとおろす。スカートの裾を持ってクルリとターンし、力強く床を鳴らす。それが合図の如くに、ギターがつまびかれる。 栄子の表情に妖艶さが浮かんだ。おっ! という表情で会長が見入る。カンテに合わせて手を叩く会長に、隣の男もつられて見上げる。ギターの盛り上がりとともに、背を向けていた者たちも栄子に視線を注ぎ始めた。その視線に応えるように、栄子の動きが激しさを増す。カンテが最高潮に達すると、ギターもそして床を鳴らす靴音も負けじと響き渡る。 栄子の一挙手一投足に視線が釘付けになっている。やがて楽曲の終わりが近づき、片手を大きく伸ばし片手でスカートの裾を持ち上げて止まった。会長が満足げに頷きながら、立ち上がっての拍手をする。割れんばかりの拍手が起き、指笛もそこかしこから鳴った。 圧巻だったのは、ステージ最後の全員での踊りだった。全員が後ろに控える中、栄子が軽快に踊る。手拍子が高まるにつれて、栄子が後ろに下がり全員が揃う。大きな動きをしながらも互いを気遣う踊りは、壮観なものだった。会場の殆どが総立ちとなり、手拍子で応える。「オーレ!」と会長がハレオを入れて、場を盛り上げた。 一時間ほどのショーは興奮のるつぼと化して、女性たちの間から「あたしもやってみたい!」と言う声が飛び交った。互いをたたえ合う声の中、控え室で帰り支度をしている栄子の元に会長が現れたことで、控え室も又大騒ぎとなった。そこかしこで、パトロンの話ねと囁かれた。 「よろしいかな、皆さん。今日はほんとにありがとう。みんな大喜びでした。ステージ上での素人相手のレッスン、実に良かった。入会希望者がたくさん居ますよ。ありがとう」 主宰の手を取り、何度も謝意を述べた。 にこやかな表情で「ところでと、あなた、あなた。お名前は…松尾栄子さんだったね」と栄子に声を掛ける。栄子の手を利用手で包みながら「あなた…スペイン村のフィエスタ・デ・フラメンコで優勝されましたな」と、思いもかけぬことを言った。「いえ、あたしは…」栄子の言葉を遮って「まあまあ、そんなことを…」否定も肯定もせずに、主宰が口を挟んだ。その目は“恥をかかせちゃダメ”と告げていた。 もうろくしているの? という疑問を抱いた栄子だが、それでも良いと思った。なんでもいいから「パトロンとしての後援するよ」と言って欲しいのだ。 「わたしがもう少し若ければ、もう十才も若ければパトロンになってあげられたのに。実に、残念だよ」 期待が大きかっただけに、栄子の落胆は大きい。しかし今ここで、それを知られてはいけない。プライドが許さない。 「そこでだ、良い話がある。この男性を紹介したい。ぼくの知己の息子さんでね、松下くんです。年齢は、四十だったかな? 人物はぼくが保証します。彼は大層な資産家でね、彼ならあなたの後援者になれる。松下くん、自己紹介なさい」 後ろに控えていた男が前に出た。色白の長身で、ほっそりとした体型をしている。目つきの鋭い端正な顔つきだった。 「松下国雄です。あなたのステージを見せてもらい、感動しました。元来、芸術にはとんと縁のない無粋者でして。会長にお誘いを受けたときも、実はお断りしようと思ったのです。ですが無理強いをされましてね、断ったらお前との関係もこれまでだ! なんて脅しの言葉までかけられました。いやいや、良ーく分かりました、会長の真意が。というところで、いかがですか。この後ご予定がなければ食事でも」 淀みなく話す松下に対し、栄子の中に警戒心のようなものが生まれた。確たる理由はないのだが、なにかしら松下の中にへびのような陰険さを見て取った。 「今、四時過ぎですから、そうだな、六時にロビーでの待ち合わせとしましょう」 困惑顔の栄子に気付いた主宰が口を挟んだ。 「松下さん。女は、いろいろと用意があるのですよ。自宅に一度は帰りたいでしょうし」 「いや、これは失礼。気が付きませんでした。それじゃ、ここに部屋を取りましょう。そこでシャワーを浴びるなり、なさればいい」 主宰の言わんとすることを即座に理解した松下に、栄子の中にためらいの感覚が生まれた。“この男に捕まったら逃げることはできない”その反面“更なる高みへ連れて行ってくれる”そんな確信にも似た予感も生まれた。 「それと、服装はラフな格好の方がいい。今夜はぼくの好きなお店にご招待したい。飾らぬいつものぼくを見て頂きたいですから」 (六) 新宿ゴールデン街の一角にある居酒屋に、松下が栄子を誘った。ホテルで待ち合わせの後に、タクシーを飛ばしてやってきた。バーやスナック、焼き肉店に中華の店等々、さながらごった煮の街だ。 ごった返す店の奥まった場所を確保した松下、キョロキョロと周囲を見回す栄子に「こんな場所は、栄子さんははじめてですか?」と声をかける。健二と入った店はファミレスが多かった。たまには居酒屋でと言う栄子に対し「あんなごちゃごちゃした店なんか似合わない」と言う健二だった。しかしファミレスが似合うのかと、栄子自身が首を傾(かし)げてしまう。 「ぼくはレストランというのは嫌いです。こういった人間くさいところが好きなんです」 ホテルでの松下とは違った面を見た気がした。セレブ特有の人を見下すところがなく、健二のような野卑たところも感じない。 「ここはね、ぼくの仕事場みたいなものです。情報の宝庫なんです。サラリーマンの愚痴が聞ける、唯一の場所です。キャバクラなんかではね、自慢話が聞ける。あそこも、ぼくの仕事場です。」 突然に話しはじめたことは栄子には関係のないことだった。興味もない。それよりもこれからの二人の関係についての話が、本音の話が聞きたいのだ。しかし松下は東(とう)陶(とう)と続ける。 「でね、その愚痴の中に、大変な玉が隠れているんです。玉石混合ってやつです。当の本人たちは気付かない、ダイアモンドが混じっているんです…」 あくびをかみ殺して聞き入る栄子だが、もううんざりといった表情を隠すことが出来なくなった。それでも松下は話を続ける。 「ぼくはね、栄子さん。情報の海の中を泳ぎ切って、新大陸を見つけたいんだ。で、その産物として大金が転がり込むというわけだ。金が欲しいわけじゃない。成し遂げたいんです。だからね、そのためには何でもします」 話を中断させるため「ちょっと…」と、立ち上がった。すぐさま松下も立ち上がり、通り道を用意した。そんな紳士めいた態度は栄子の気持ちをくすぐる。どんな話にせよ乗らねばと、考える栄子だった。 戻ってきた栄子に「本題に入りましょう。どうです、結婚してくれませんか」と告げた。意外な申し出だった。パトロン契約であり、愛人契約だと決め込んでいた栄子には信じられない。 「今さら愛だ恋だもないでしょう。超一流ダンサーとしての地位を確立させてあげよう。その代わり、浮気は許さない。今恋人がいるのなら、別れてもらう。これが条件だ。情報入手のために、女を口説くことはある。セックスもする。でもそれは、あくまで仕事の延長線上のことだ。だから認めてもらう」 あまりに一方的条件と感じた。お前は浮気をするな、しかし俺はする。明治の世ならいざ知らず、男女平等同権が叫ばれる平成の世なのにと憤りを感じた。しかし栄子をトップダンサーにしたとして、松下に何の益があるというのか。トップダンサーを妻にしているという、自己満足だけだ。疑念が湧いてくる栄子だった。“うかつに話に乗るわけにはいかない”そんな警戒感が生まれた。 「以前はハワイアンにはまったけれど、フラメンコを知ってからは、もうこっちだよ。どうだい、あの腰のくねらせようは。ハワイアンは少女で、こいつは妖婦だ。妖艶な動きは、いやらしささえ感じさせる。けれど、ちっとも下品じゃない。まさに芸術だね。松下くん、男のステイタスの本質は、女だよ女。一流の、いや超一流の女を創り上げることだ。分かるかね、この意味が」 会場で聞かされた会長の持論が、松下の弁を強くする。 「すぐにとは言わない。けれど、ずるずるは困る。そうだな、イブの夜をふたりで過ごしましょう。この店に、八時までにお出でなさい。来なければ、この話はなしだ。それで宜しいでしょうね」 有無を言わさぬ強い言い回しに反発を感じつつも、栄子にはどうすることもできない。松下の言うように、成功への道はこれしかないのだ。国内のフラメンココンテストで優勝をして、その副賞としてのスペイン行き。本場のスクールでしごかれての凱旋公演。それでも一年と立たぬうちに、大半が舞台だけでは食べていけなくなる。 必然、自身で教室を立ち上げるか既存の教室に講師として招かれるか……、どちらにしてもプロダンサーとして舞台だけでの生計はなりたたないのだ。世界に認められたダンサーならば――ラ・シングラそしてロシオ・モリーナ――各国での舞台もプデュースがされるのだ。 松下とのパトロン契約、それも妻として迎え入れてくれるという。愛人といったあやふやな関係ではなく、しっかりと裏方に回っての支援が受けられる。愛のない結婚、それがなんなのさ、と栄子は吠える。舞台で踊ることができるのならば、私生活などそもそも存在していない栄子にとっては、何物でもない。 しかし、いまの栄子は踏み切れない。なにかが足かせとなって、一歩を踏み出させない。そしてそれが健二という存在であることに、気づいているのに認めようとしない、認めたくない栄子だった。たしかに一度は結婚を意識した時期があった。しかし優柔不断な態度を見せる健二をどこまで信じて良いのか分からぬ栄子だった。 国内のコンテストに出場するも、なかなか結果が出なかった。常に二位止まりだった。実力的には自分が上だと思っている相手にも勝てなかった。真偽のほどは分からぬものの、パトロンが裏から手を回したという噂が流れたこともあった。 主催は「あなたの踊りには余裕がない。なにかしら、ひけらかすくせがあるの。素質は認めるわ。ひとつひとつの技術もすばらしいものよ。でもね、酷な言い方だけど、卑しさが見てとれるのよ。媚びているといってもいいかもね?」と、辛辣に言う。 分かっていた、それは。栄子自身が、鏡の中の踊る栄子に感じてしまうことだった。「ねえねえ、艶(いろ)っぽいでしょ?」。観客に媚びている栄子に気づいていた。そしてそれが、焦りからくるものだということも感じていた。 「パトロンよ、パトロン」。ヨーロッパにおける芸術家には、必ずといって良いほど、パトロンがいた。生計になんの不安なく、毎日を踊りに集中できる。「maravillosa(すばらしい)! と、毎日のように感嘆の声をかけてくれる。そしてそれが踊り手の高揚感につながり、より高みへと目指せるのだ。 健二からは与えられることのないものだ。健二はバンド活動にのめりこんでいる。アンダーグランドの世界で、すこし名が売れはじめた頃だった。メジャーデビューを夢見る、ピアノ、ドラムス(バス・スネアドラムにトムトムとシンバルのセット)に、そして健二のギターを加え、さらにふたりの女性ボーカルを抱えた、五人組のバンドだった。そこに栄子が飛び入り的にフラメンコを披露する。 まったくの畑違いなのだが、その組み合わせの妙から徐々に人気が出てきた。しかしそれが徒(あだ)となった。純粋なバンド活動組とデビューを急ぐ組との間で、論争が起きた。栄子が外れることを申し出たものの、数度の話し合いの末に、結局は解散することになった。負い目を感じる栄子に対し、「路線対立だ、おまえのせいじゃない」と健二が慰めた。 そもそものこと、純粋なバンド活動を標榜する健二が名前を売るためにとフラメンコとのコラボを提案するなど、矛盾を内包していた。健二の中に栄子への恋愛感情があったことも、事がこじれる一因ではあった。女性ファンとの一夜かぎりの睦(むつ)ごとを繰り返しては謝罪するという健二の性癖が主因だとする者もいた。「ひとりの女に縛られたくない」と豪語する健二にメンバーたちが振り回されることも多々あり、不穏な空気がただよってもいた。 (七) 三年ほど前だ。栄子に対して求婚してきた男がいた。接待を受けたナイトクラブで、フラメンコを踊る栄子を見初めた。小なりとはいえ、オーナー社長の四十代の男だった。 「後妻として迎え入れたい。ただし、踊りはやめてもらう。趣味としても困る。専業主婦として家庭を守ってほしい」と、きっぱり言い切った。フラメンコに未練を残しつつの結婚生活などうまくいくはずがない、と断じた。 普通の生活? 冗談じゃない。この二十年間を捨てろというの=Bスーパーのレジ打ちにバックヤードでの作業を汗だくでつとめた。居酒屋のバイトもしたし、キャバクラという夜の世界にもはいった。すべてがプロのダンサーを夢見てのことだ。生きるためのものではなかった。 正夫が言う。 「あなたにすべてを捧げます。ダンサーとして活躍するあなたのためなら、何だってぼくはします。夜にバイトをしていますが、昼間はコンビニで働きます。いや、正社員として就職するんだ」 目を輝かせて、栄子をしっかりと見据える。こんなにしっかりと正視されたことは、栄子には経験がない。まっすぐで胸いっぱいの思いを告げてくれる異性を、栄子は知らない。まったく打算のないことばであり、そしてただただ栄子だけを見つめてくる。あまりの光の強さに、暗闇に潜んでいる栄子は溶けそうになる。 しかしそれを信じるわけにはいかない。永続できるはずがないのだ。一年二年はつづくかもしれない。しかしある日、ふと気づくのだ。若さゆえの間違いだと、後悔の念に囚われてしまうのだ。第一に、親が許すはずもない。父親は官僚であり、母親は華道の師範だと聞かされた。そしてしかも、ひとり息子だとも。ありえないことだ。 どんなに純粋に栄子に恋い焦がれてくれたとしても、いまの正夫はあまりに若すぎる。売れないダンサーの末路など、悲惨なものだ。考えるだに恐ろしい。ふたりして地獄へと突き進むもありか? そう思えたとしても、いやいや思えるはずがない。 健二は「老人のパトロンはだめだ!」という。しかし壮年の男ならば、しかも妻として迎え入れてくれる。その旨を告げると、絶句してしまった。その後、苦渋に満ちた顔で「愛は、あるのか……?」と声を絞り出した。 主催は「賛成よ! あなたの夢が叶うのよ」と、顔を輝かせる。己の教室からプロダンサーが誕生したとなれば、どっと生徒数がふえるだろうと皮算用していた。「あなたなら世界にも出られる」。賛辞のことばが、溢れんばかりに主催の口から発せられた。 「あたしは失敗した。パトロンを得て挑戦してみたけれども、この教室止まりよ。でもね、悔いはないわ」 「日本のフラメンコ教室は、百二十とちょっと。本場のスペインでも千ぐらいよね」と、胸をはる。 そしてクリスマスイブの今夜、モザイク状石畳の遊歩道に整備され樹木や四季折々の草花が繁る四季の路を通り、先夜に連れてこられた店に入った。会社帰りのサラリーマンたちが集い、あちこちで「カンパーイ!」やら「メリークリスマス!」といったことばが飛び交っている。ふたり組の男女も、そこかしこに座っていた。 栄子の姿を入り口に見つけた松下は、大きく手を振って呼び寄せた。栄子もまたすぐに松下の姿を見つけ、軽く会釈をした。うんうんと頷く松下だったが、栄子の後ろに立つ青年を見て愕然とした。“なんだ、あの男は。まさか調査員が報告してきたプータローか?”困惑顔を見せる松下に「お待たせしました」と、栄子が笑顔を見せる。すぐさま松下が、不機嫌さを隠しもせずに「不愉快だ、ぼくは。どうしてこの若者がいるんですか」と、噛み付いた。 「それについてはお詫びします。ただ彼もまた、わたしにプロポーズをしてくれています」 “わたしのペースに持って行かなきゃ”と、涼しい顔で答える栄子だった。それに気をよくした正男も「そうだとも。ぼくにもここにいる権利があるはずだ」と、胸をはった。引き下がるわけにはいかない、父親との確執を越えての今夜なのだ。 昨夜のことだ。両親から激しく詰め寄られた。母親から栄子との交際について聞かされた父親が、珍しく定時に帰宅した。そしてバイトに出かける正男を足止めさせていた。 「ダンサーなんぞにかまけて、一体どういうつもりだ。一夜限りの遊びならまだしも、結婚だなどと騒ぎ立てているようだな。あいつらはな、まともな人間じゃないんだ。ロマンという化け物に取り憑かれた魔物だ。湯水のように金をつぎ込んでも、もっと、もっと! と叫ぶような、与えても与えても愛の証しを求めて止まぬ人種だぞ。聞いてるぞ、お母さんから一体幾らの金を引き出したんだ! それは授業料だとしてもだ。これからの一生を台無しにするつもりか!」 うつむいて聞いていた正男だったが「ぼくの人生なんだ。父さんの言いなりにはならない。借りた金は、きっと返す。それに今、クラウドファンディングで資金集めをしているから。もうお母さんにムリは言わないし」と、勝ち誇ったように言った。とたんに母親の顔がひきつり「正男ちゃん。やめて頂だい、そんなことは。お金ならお母さんが用意してあげるから。他人(ひと)さまを巻き込むようなようなことだけはやめてちょうだい。お父さまの立場も考えておくれ」と、懇願した。父親はあきれ顔を見せ、首を横にふるだけだった。 栄子の駆け引きかとも思う松下だが、ここは慎重にと「ママのおっぱいが恋しい年頃だろうに」と、正男に探りを入れた。顔を赤くして反論しようとする正男を制して「松下さん。今夜は紳士的に行きましょうよ」と、栄子が牽制した。 「あなたのステイタスには相応(ふさわ)しくないと思えたものでね。彼には、沙織とか言う女性がお似合いだ思うんですがね。たしかにご両親は立派だ。父上が経産省の官僚、母上は華道の師範ときている。ところがどうしたことか、彼は…」 「ど、どうして、ぼくのことを」 青ざめた顔色で正男が口を挟んだ。しかし松下は毅然として「べつに君がどうこうと調べたわけじゃない。付録だよ、付録。栄子さんには失礼だが、調べさせてもらいました。パートナーになってもらう女性だ。分かってもらえると思いますが」と告げた。 「そうですか。で、合格しましたの?」 栄子が平然と尋ねる。誤解です、そんなつもりでは…と、松下が頭を下げた。トラブルを抱えていないか、おありならば解決のお手伝いをしようと考えたと言う松下に「べつに探られて困るようなことは、なにもありませんわ」と答えた。 「じつはひとつ気になることがあります。足首のことですが、ぼくの知る整体師に診せませんか。名医と評判なのですが」 ふたりの会話に入れない正男が、「栄子さん、ぼくと結婚して下さい。いま、クラウドファンディングで資金集めをしていますが、もう少しで目標の百万に達しそうなんです。百万本の薔薇ならぬ百万円分の薔薇を、ステージに敷き詰めますから。その上で改めてプロポーズさせてください」と、どうだい! と言わんばかりに鼻を膨らませた。 「こりゃ驚いた。案外にアイデアマンじゃないか。でも、ママに相談しなくて良いのかい」と、松下が茶化した。「ママのことは言うな! 栄子さんのお陰で、ぼくは一人前の男になれたんだ。もうマザコンなんて言わせないんだから」と、はじめて正男が噛み付いた。呆(あつ)気(け)に取られた栄子は、松下と顔を見合わせて笑い転げた。 正男が真剣な眼差しで「栄子さん。ぼくは本気です。だからこそあなたに頼まれた金も用意したんだ。ぼくは今はまだバイトの身ですが、恥も外聞も捨てて父に就職の世話をしてもらいます。そしてしっかりと働いてあなたを愛しつづけます。一生をかけてあたなに尽くします。ですから、ぼくと結婚して下さい」と、詰め寄った。そして松下に対して言い放った。 「ぼくはこれから成長するんだ」 ふふんと鼻で笑いながら 「与えられるものなんかで成長するわけがないんだよ。自分の手でつかみ取るものなんだよ。もっと言えば、他人から奪い取るものなんだよ」と、正男にではなく、己に言い聞かせるように言い放つ松下だった。 「栄子さん、あなたは悪い人だ。こんな純真な若者をたぶらかすとは。本心をそろそろ明かして下さい。いや、良いでしょう。ぼくが彼に説明をしてあげますよ。あなたも言いにくいだろうから」 栄子にすがるような目を見せる正男と正対して「正男くん。世の道理というものが、君にはまだ分かっていないようだ」と話しはじめた。 「現実を見なさい。きみはフリーターの若者で、ぼくは資産家だ。この差は大きい。百万本の薔薇だって? いいだろう、ぼくなら用意できる。でもな、そんなもの何になる? それよりも一億のお金の方がどれほど有益か」 「今はまだあなたに負けているかもしれない。でもあなたにはないものをぼくは持っている。若さだ。そして栄子さんを愛する、純な心だ」 必死の形相で反論する正男だが、松下は諭すように続けた。 「やれやれ、若さか。若さは未熟以外のなにものでもない。栄子さんは、完成させなければいけない、優れた素材なんだ。トップスターにしてあげなければいけない女性だ。悪いことは言わない、自分の身の丈に合った女性を選ぶことだ。沙織とかいう女性、可愛いお嬢さんじゃないか。お似合いだと思うがね」 泣き顔になっている正男だった。救いを求めるように、栄子を見た。しかしもはや、栄子は正男を見切っていた。健二を失った淋しさを、真正面から強い光を放つ正男で埋めようとした栄子だった。いみじくも通い慣れたバーのママに言ったことば「今夜のペットなの」が、今思い出される。 自分はトップに立てるのか、そして上り詰めたその座は、本当に自分の居場所なのか。違う! 自分の居場所はトップだ。そしてそれは、いま、目の前にいる松下によって与えられるものなのだ。意を決して、栄子がふたりを前にした。 「決めました、あたし。松下さん、お世話になります。あなたの妻にして下さい。そして、トップスターにしてください。あなたの出された条件、受け入れさせてもらいます。待って、正男。あなたには、本当に申し訳ないことをしたわ。あたしが相応しいかどうかなんて、はじめから分かってた。年上の女ということではなく、あたしとあなたでは住む世界がまるで違うの。 嬉しかったわ、百万円ものお金を用意しようとしてくれていたなんて。松下さんは一億円でも……と言って下さったけれど、お金の多(た)寡(か)じゃなくて、気持ちよね。でもね、あなたは分かっていない。ネット上で夢を語って多くの支援者を募るなんて、若い人だからの発想ね。だけど、本当のロマンというものが分かっていない。どんな愛の姿が、女を動かすのか分かっていない。お金の多寡じゃないって言ったけど、それは魅力的なものよ。 ねんねじゃないもの、お金で買えない物があるなんて言わない。でもね、穴蔵のような部屋に一日中こもって、モニターとにらめっこして稼いだお金をね、惜しげもなくこんなあたしに遣おうなんて……どぶに捨てることになるかもしれないのに。それが嬉しいの」 途中なんども口を挟もうとする正男だったが、その度に栄子の指が正男の口を押さえていた。そして席を立つおりに栄子が、正男の肩に手を置き、強いことばで告げた。 「あたしはダンサーなの。そう、トップダンサー。死ぬまでずっとね」(了) |