鼠小僧次郎吉(猿と猿回し)

義賊としてもてはやされた鼠小僧次郎吉。
彼は何故、大名屋敷ばかりを狙ったのか?本当に義賊だったのか?

(鼠小僧ファンの方、すみません)
斜に構えたがる、多感な年頃の作品です。


(一)ねずみ小僧  生い立ち
 
「コラー、このガキー!待てーぇ。」
この声を聞くたびに、次郎吉は幼い頃の自分を思い出すのが常だった。近頃そんな思いをすることが多々あると、次郎吉は感じていた。
「不景気な話ばかりの、世間さまだ。」と、誰にとはなく呟いてみた。

当時、歌舞伎役者の社会的地位は低かった。ほんの一握りの役者は、今で言うパトロンを持つことにより金回りは多少良かったものの、殆どの役者は汲々としていた。
ましてその歌舞伎役者の下で働く出方を父に持った次郎吉は、貧乏人という世間さまの偏見から抜け出られなかった。

確かに、盗みを働いたこともあった。
育ち盛りの空腹を満たすには、八百屋からこっそりと大根などをかすめ盗らなければならなかった。又、自分よりも幼い子ども達に分け与えてもいた。そんな幼児達の尊敬のまなざしが、次郎吉には誇らしく思えた。

しかしそんな次郎吉でも、身に覚えのない盗みを咎められることは我慢ができなかった。次郎吉の盗癖が知れ渡っている状態ではやむを得ない、自業自得ではあるのだが。
「大人になったら大金持ちになって、あの八百屋の親爺に、小判を何枚も叩きつけてやる!」
棒きれで殴られながら、次郎吉はいつも反すうしていた。

『大人になったら・・』
それが子供の次郎吉にとっては、万能薬の如くに思えていた。大金持ちになることも容易いことだと思えていた。唯、その為に何を為すべきかは解らないでいた。
毎日が空きっ腹の次郎吉は
『大人になったら・・』と、呪文の如くに呟くだけだ。しかしながら、そんな夢のような呪文も、年を経るにつれ段々とんでいった。二十代半ばとなった今では、何の夢もなくー子どもの頃の夢を忘れているー日々を暮らしていた。
 
七、八歳の子どもが駆けて来る。手に、その手の平よりも大きいリンゴを、さも大事そうにかかえて。泥だらけの顔に、妙に目だけをギョロつかせている。幼い頃の次郎吉そのものだった。次郎吉の心に、ムクムクと湧き上がる物があった。
「よしよし、ここまで来い。おじさんが助けてやる。」
次郎吉はそう言いながら、手招きした。子どもは一瞬たじろいだが、ニッコリと笑うと、目を輝かせて次郎吉の後ろに隠れた。

その後を、八百屋の親爺らしい男が ”フーフー”と息を切らして走ってきた。
「さあ、そのリンゴを返せ!」と、先ず後ろの子どもを睨み付け、続いて次郎吉に
「あんた、この小僧っ子の兄貴かね?困るじゃないか、えーっ。」と、決めつけてかかった。
「おきやがれぇ!年端のいかねぇガキじゃねぇか。リンゴの一つや二つのことで。」と、怒鳴りつけた。
「幾らでぇ、これ。これだけあれば足りるだろう、この唐変木が!」と、一朱銀を放り投げた。

八百屋の親爺は、その出しっぷりと次郎吉の着流しの身なりから、
”こりゃ、ごろつきだ”と、急に下手に出た。地面に放り投げられた銭を拾うと、
「へっへっへ。いゃ、そんなにはしませんやね。・・・。おさん、釣り銭を持ってませんので、へぇ。」と、へりくだった。
「おきゃがれぇ、釣りなんぞ要らネェよ。とっとと、帰りな。・・おっと、子どもに『毎度ありい!』のひと言も言ってくんな。」
銭を見てからの親爺の豹変ぶりには腹を据えかねたが、往来の人だかりが気になることもあり、手を上げることはしなかった。

「坊ちゃん、ありがとさんで。」と、八百屋の親爺は次郎吉の剣幕に恐れをなして、ペコペコとしつつ走り去った。
「さあ、もう大丈夫だ。それ、そいつを喰いな。そうだ、小遣いをやるから、腹が減ったら団子でも買いな。」
次郎吉は、一朱銀二枚を子どもの手の平に入れてやった。
「ありがとう、おじさん。このリンゴ、おじさんにやるよ。俺、もう腹一杯だ。」と、まぶしそうに次郎吉を見上げると半分食べ残しのリンゴを差し出した。

そして、次郎吉の手の中に入れるやいなや、一目散に駆けだした。次郎吉は苦笑いをしながら、手の中のリンゴのかわいらしい歯形を見つめた。
”俺っちのような、半端者になるんじゃねぇぞ。”
子どもの後ろ姿に呟いた。
 (二)ねずみ小僧 見参!

真っ直ぐ進むと八百屋がある。
次郎吉は、いかにもその八百屋の前を通りたくないと言いたげに、わざわざ唾を吐き捨てて左へ折れた。どことて行く宛の無い気の向くままの散歩、一見そう見えるように肩をいからせて。が、次郎吉の心の中では、先ほどの子どもの事を見ていた者には考えもつかぬ、恐ろしい計画が練られていた。この通りをもう少し歩くと町屋から外れ、大名屋敷の連なる一帯に出る。

実は、そこが次郎吉の目的の場所だったのである。子どもの一件は、次郎吉にとって天の配剤とでも言うべきものであった。しがられることなく、土屋相模守の屋敷前に来られたのだ。
次郎吉の計画は、土屋相模守の土蔵破りであった。すでに、見取り図はある。昨年、建具職の手伝いとして出向いた折りに、屋敷の腰元といい仲になっている。その腰元の手引きの元、苦もなく侵入する手筈を整えた。

計画は、ほぼ完全だ。
屋敷内の長局奥向きには、腰元たちだけがいる。この長局の部屋には、屋敷に居中する家来といえど、むやみに踏み入ることは許されなかった。その都度、了解を求めなければならない。否、奥向きよりのお声がかりがなければ、誰も寄りつかない。従って、警備の方も手薄だった。

次郎吉の散策の目的は、逃亡用の道順を探すためであった。盗みの難しさは、その侵入時ではなく退避時だというのが、次郎吉の持論というべきものであった。身一つであれば、屋根伝いに逃げることも簡単ではあるが、時として金子箱ごと持ち出す場合もある。
一度、屋根伝いの逃亡の折りに、足を滑らせ金子箱内の金子を落としたことがある。それ以来、道順を探すのが重要な仕事の一つになったのである。そう!次郎吉の意思に反して、金子を落としてしまった。
そしてそれが、〔義賊・ねずみ小僧 〕の誕生だった。
 
それから三日後の、文政八年(1825年)二月二日の夜のことである。
次郎吉は、某料理屋の二階で女と対座していた。例の腰元である。次郎吉はあぐらをかき、腰元は正座している。とても、大工の娘とは思えない。しかし土屋相模守の屋敷内では、どこをどう間違えたのか廻船問屋の娘となっているのである。

というのも、行儀見習いとして奉公に上がるその日、廻船問屋の娘は店の手代と駆け落ちをした。慌てた廻船問屋は、女中として奉公に来ていた大工の娘ー年格好が似ているこの女を、屋敷に上がらせたのである。勿論、事の真相が知れれば、女の打ち首は必然である。廻船問屋も只ではすまない。
二年間の屋敷奉公が無事終われば、大工の娘は多額の礼金をもらえる。そんな事実を次郎吉に知られてしまった。言葉巧みに口説かれ身体を許してしまい、つい事の真相を漏らしてしまったのだ。

次郎吉が、初めて屋敷に建具職人としての仕事に入った折り、お手洗いがわからずマゴマゴしている所に、たまたま出くわした腰元が、親身に世話をしたのがそもそもの因縁であった。
そのころの次郎吉は、建具職人として真面目に働いていた。親方連に受けが良く、仲間内でもコマネズミのように動く為、可愛がられていた。後述の理由からの、猫かぶりだ。

小柄な次郎吉は、実年齢よりも若く見えた。腰元の方が年下であったが、次郎吉の所作や言葉使いに、弟のように思えた。屋敷内において、回船問屋の娘であることを常に意識している腰元は、実の所疲れていた。気の許せる相手を捜していたのである。
臨時に入ってきた次郎吉は、腰元にとって格好の相手であった。暇を見つけては次郎吉と談笑していて、見咎められることも多々あった。

二人の心がうち解けるにつれ、ついつい己の秘密を漏らしてしまった。些細なことで叱りつけられることに憤慨をしている時、次郎吉に慰められたことがきっかけであった。やれ、かんざしだ、くしだと、贈り物をされたことで、次郎吉に好意を抱き始めていたことも、理由の一つであった。
次郎吉の豹変に、腰元は錯乱状態に陥った。後悔の念・悔しさそして未練の心が渦巻いていた。
”こんな性悪の男に・・・”
そう思いつつも、呼び出される度に胸が踊ることも事実であった。

次郎吉は、そんな腰元をなめつくすように見据えると、薄笑いを浮かべた。
「いいか。明晩、実行に移すからな。必ず裏木戸を開けておきな。時刻は午の刻だ、いいな。何だょ、その目つきは。」
「後悔しているのょ。どうしてあの時あんたを・・」
「フン。今更何でぇ。俺っちはお前の秘密を握ってるんだぜ。お前だけじゃなく、大恩ある廻船問屋にもお咎めが及ぶぜ。・・・ま、いいさ。この仕事が終わったら、手を切ってやるさ。心配すんな。」

次郎吉は、勝ち誇ったように言い放った。恨めしげに見上げる腰元の心中も知らずに。
”いっそのこと、ここで死のうか。”
しかし、このことで迷惑をかけるかも知れぬ廻船問屋のこと、嘆き悲しむ両親のこと、何よりも次郎吉に対する未練の気持ち、気が狂いそうであった。
狂人になれれば、どんなに楽であろうか。
「わかったわ。」
腰元は、首をうなだれて力無く答えた。

外は、月明かりの夜になっている。
夜鳴きそば屋での他愛もない話し声を聞き流しながら、
”嫌よ、嫌よ、も好きのうち、か。”と、余韻に浸りながら次郎吉は道を急いだ。
(三)ねずみ小僧 捕らわる!

「コトッ。」
裏木戸は、易々と開いた。
次郎吉は、ニヤリとほくそ笑みながら、足音を押さえて中に入った。勝手知ったる何とやらで、次郎吉は何の苦もなく長局奥向に続く廊下に足を乗せた。と、どこから見ていたのか、足を乗せた途端、隠れる間もなく武装した腰元らが、奥の部屋から並び出てきた。

不意のことに次郎吉は一瞬たじろいだが、すぐさま気を取り直すと一目散に裏木戸から逃げ出した。
”何てこった!”と、口走りながら塀に沿って走り続けた。成功するに決まっていたこの盗みが、何故バレていたのか。次郎吉には、どうしてもあの腰元が裏切ったとは思えなかった。
角を左に折れて、もう大丈夫だと思った途端、運悪く南町奉行所の見回り同心に見咎められてしまった。逃げる間もなく召し捕らえれ、後ろから追いかけてきた腰元により、露見してしまった。

取り調べでは、知らぬ存ぜぬを押し通した。
盗みを働く前だったことで証拠品は無く、腰元たちへの詮議も
「無礼者!」のひと言で無くなった。しかし奉行所にも、面子がある。捕らえた次郎吉を、腰元たちへ引き渡すことはなかった。

元大阪町専助店の次郎吉という名前で入牢した。吟味の折りに、前年七月以来千住在その他の野天で丁半・ちょぼ一などの博打をして暮らしてきたが、二月三日のあの夜は、中間の安五郎という知人を訪ねたものだと言い張った。
そしてたまたま裏木戸が開いていたので入り込んだと、切々と訴えた。屋敷内をうろついている所をあの腰元達に見咎められ、恐ろしさのあまり逃げ出しただから、盗みなどを考えていたのではない、と言い張った。土屋家に安五郎などという中間は居ない等、色々矛盾がありはしたものの、さほどの吟味も無く、五月二日、入れ墨中追放となった。

次郎吉は、喜び勇んでその後上方へ、裏事情を知ることもなく移った。
実の所、あの腰元は、覚悟を決めて古株の腰元に全てをうち明けた。そして古株の腰元も、廻船問屋のこともありそれらの事情は伏せた上で、留守居役に届け出た。留守居役としては、次郎吉を捕らえた後に内密に処理するつもりであったが、腰元達の勇み足により南町奉行所扱いになってしまった。屋敷外で捕縛されては、如何ともしがたい。

慌てた土屋相模守が、幕府の重職に泣きついた。大名屋敷に一盗人が易々と侵入したという不名誉だけは、表沙汰にしたくなかったのである。そしてそのことが、老中水野忠成の耳に入った。吟味の内情が逐一報告され、どうやら町人の間で評判の鼠小僧ではないかと、南町奉行所では色めき立った。しかし入れ墨中追放の軽い処分にと、圧力がかかったのである。

それは、寛政四年(1792年)以来の松平定信の対露政策の失政や、貨幣の質の低下・商人に対する圧政による、町人の人心の動揺・不満を抑えるためであった。
文政の改鋳は悪評だった。それもその筈で、金銀等の出目を減らすことにより、その差益を得るという目的の貨幣の改鋳だからだった。

ねずみ小僧の盗みに拍手喝采を送っている町人を刺激することを恐れたのである。大名屋敷のみを襲うねずみ小僧の仕事ぶりが瓦版で揶揄される度に、幕政への不満が和らいだからであった。もっとも、一時しのぎではあったが。
四)次郎吉 カモられる!

次郎吉は、そんなこととはつゆ知らず、上方に移った後、名を次郎兵ェと改め、親元に戻った。その後、鳶の者金治郎をひょって、雲竜の入れ墨を二本線の上に彫り、わからなくしてしまった。
そして、湯島六丁目に住み、小間物屋を始めた。しかし、そんな堅気の生活に安住できずに、又博打にのめり込み始めた。仕入れ商品の支払いに支障をきたしたのは勿論、日々の糧すら事欠くようになってしまった。
当然の如く親元に駆け込んだが、歌舞伎役者の下で働く出方の親に蓄えがあるわけでもなく、冷たくあしらわれた。その結果、次郎吉は又、武家屋敷を襲い始めた。
 
今度の次郎吉の手口は、より巧妙になった。
前回の失敗を教訓に、単独行動をとることにした。手引きがあれば楽々と侵入はできるが、計画が漏れる恐れも増大する。当初は腰元の裏切りは露ほども考えはしなかったが、牢番達のからかい半分の話に
“ひょっとして?”と、思い始めたのである。

それにしても最近のねずみ小僧の人気は大したもので、町中のそこかしこで囁かれていた。大名屋敷を襲っては貧乏長屋にバラまいている、というのである。当の次郎吉に自慢気に話しかける小間物屋常連のご新造たちには、
「その内、こっちにも回ってきませんかネェ」と、苦笑いをするだけであった。

勿論、次郎吉には覚えの無いことであった。実際、次郎吉が上方に行っていた頃に、最も頻繁にバラまかれていた。不思議なことは、襲われた大名屋敷の名前が出てこないということである。
そして、どこの誰にバラまかれたのかすらわからないのである。瓦版で、騒いでいるだけなのだ。それでも、当時の町人は拍手喝采を送っていたのである。

次郎吉は、焦らずじっくりと構えた。そして勿論、内部の者に頼ることもやめた。が、見取り図の無いことは辛かった。広い大名屋敷である、やみくもに動き回っていては、いつ何時警護の武士に見つからぬとも限らない。次郎吉は思案に暮れる日々を送った。さすがに焦れ始めた次郎吉の所に、博打好きの中間の話をする、飲み仲間が現れた。
次郎吉は、心中で
“シメタ!”と手を叩きながらも、気乗りのせぬ顔つきで話を聞いた。そして、明晩の博打を約束して別れた。

その中間は、約束の刻限よりも早くから、飲み屋で待っていた。次郎吉は、一目見てズブの素人と見抜くと、わざと立て続けに負けた。もっとも、次郎吉自身にも博才はまるで無かったが。
「いゃあ、強い、強い。
俺っちも強いと思ってやすが、お前さんにはかなわねぇ。」
「まぁ、屋敷内では俺が一番だなぁ。最近じゃ、誰も誘わなくなっちまったょ。尻の穴が小さい奴ばかりでなぁ。屋敷と言えば、この間なんか・・・」
酒の勢いも手伝い、聞きもしない屋敷内の裏話を得意げに喋り始めた。

「兄貴、すまねぇ。ちょっと、雪隠に行って来らぁ。」と、ちょくちょく席を外した。次郎吉は、その中間に
“落ち着きのない男” という印象を与えた。そして、次の博打の場を屋敷内にすることまでこぎつけて、別れた。

一週間後の夜、次郎吉は屋敷にその中間を訪ねた。中間は、
“カモが来た” と、喜んで開けた。
「兄貴、今夜は勝たせて貰いやすぜ。負けっぱなしじや、仲間に恥ずかしいってぇもん
だ。」
「おうおう、気合いが入っているじゃねぇか。ま、精々頑張りな。もっとも、帰りにゃ泣きべそか?へへへ。」

次郎吉は、勝ったり負けたりの退屈な博打を打ち、
“雪隠、雪隠”と誤魔化し、まんまと見取り図を完成させた。
“もう用は無い”とばかりに、わざと有り金全部を吐き出した。
中間の高笑いを背に、スゴスゴと退散した。しかし内心では
“シメシメ”と、ほくそえむ。
(五)ねずみ小僧、再見参!

屋敷からの帰り道、次郎吉は今夜の収穫の大きさに胸が高ぶった。何と二日後の夜、茶会の為に主人が外出するというのである。本家筋にあたる為、お泊まりになるはずだとも。命の洗濯をするから、お前も来いというのである。
次郎吉は、小躍りしたい気持ちである。主人の居ない大名屋敷ほど無防備な屋敷は無い。皆、酒に溺れて寝てしまうのが常であった。次郎吉は、その日以外に無いと決断した。

その夜、薄曇りの天候で月明かりも弱い。忍び込みには絶好である。屋敷内は、シンと静まり返り、木の葉の落ちる音さえ聞こえそうである。皆、疲れ果てて眠り込んでいるようだった。
音を立てぬよう、抜き足・差し足と、長局奥向に近づいた。半開きの障子から中を窺うと、飲みつぶれた家臣達が寝転がっている。次郎吉の目指す長局奥向には、人影は無かった。一つの局に腰元達が三・四人は居るはずである。

灯りのついた局に耳を当て、中の様子を窺ってみた。物音一つしない、微かな寝息が聞こえるだけだ。障子の敷居に油を流し、音を立てずに開けた。建具職人時代に覚えたことだ。
灯りが庭に洩れる。次郎吉は、すぐさま辺りを見回し、物音を聞くために耳を傍立てた。
“ふっ。みんな、寝入っているな。”
そっと障子を閉じた。

女だてらに酔いつぶれた腰元五人が、深眠していた。乱れた裾から、白いおみ足が覗いている。帯を解いて、伊達締め姿の腰元も居た。次郎吉は、その醜態を一瞥すると、
“ふん”と鼻を鳴らした。
女好きの次郎吉ではあるが、あの一件以来、腰元に対しては憎悪の念以外は持たなかった。
横たわる腰元達を避けながら、棚の上の手文庫を開け、中の小判を手にした。どうやら、腰元らの持ち金らしい。
 
それにしても、小判だけでも十枚はある。他に、二分判金・一分判金・一朱銀と、数知れず和紙に包んである。
(一分判金=一両の四分の一;二分判金=一両の二分の一;一朱銀=一両の十六分の一)
勿論、小判は草文小判=文政二年に改鋳されたもので、以前の真文小判より悪質のものである=当時の幕府が急激に貨幣の質を下げ、その差でもって財政悪化を防いでいたのである。
だが、一枚だけ、佐渡小判金=約百年前に鋳造された最高級の小判で、その当時には出回っていないもの=があった。
恐らくは『お守り』のつもりで、親が持たせたのであろう。次郎吉は、そのズシリとくる重さにほくそ笑むと、大事に懐にしまい込んだ。

次の襖を開け、廊下を渡り、蔵の扉を前にした。大きな南京錠に辟易しながらも、で切りにかかった。錠前師の仲間を、と考え無いではなかったが、次郎吉は一人仕事と決めていた。
「ニャーオ!」
突然の猫の声に、すぐさま床下に駆け込んだ。暫く身を潜めていたが、そっと錠の切断を開始した。幾度か身を潜めつつも、小半刻ほどで、やっと切れた。すぐには入らず、見回る人間のいないことを確認した後、油を垂らしてから戸を引いた。

が、容易に開こうとはしない。力を入れる。
「ゴトッ、ギー」
鈍い音を立てて、動いた。少しの間身を潜めていたが、誰も気付かないことを確認して中に入った。天窓から差し込む月明かりを頼りに、壁伝いに歩いた。奥に、目指す千両箱らしきものが五箱、山積みになっている。

“ニヤリ”
蓋を開ける。山吹色の小判がザックザック、と思いきや、二十両と三十両の束のみが入っているだけだ。
他の箱はどれも空。
“チッ!”
次郎吉は、舌打ちをしながら懐に入れた。

次郎吉の盗み歴は、文政六年に始まる。
戸田釆女正の屋敷に押し入った時、土蔵の戸前口の網戸の下板をはぎとって入り込み、四百二・三十両を盗んだこともあったが、他ではそれ程盗んではいない。大方は、長局奥向での金子で足りた。が、今度ばかりは、もう少し欲しかった。借金を重ねていたのである。容赦のない取り立てにあっていた。

「シケてやがる。」
期待はずれの、腹立たしい気持ちのまま蔵を出た。
(六)ねずみ小僧 賢い!

その翌朝、次郎吉は何くわぬ顔で中間に会いに行った。そして、大騒ぎをしている光景を冷ややかな目つきでながめた。中間は、
“それどころじゃねぇよ。”と、次郎吉を疑うこともなく、追い返した。

一般的に、盗みは夜の侵入ではあるが、次郎吉は、昼の内に潜り込むこともあった。中間の居る江戸部屋もしくは総部屋に通ると偽り、その足でに入り、夜を待つのである。そして家人が寝静まった頃に、ゆうゆう奥向に盗みに入る。
他の盗人は、武家屋敷に代々伝わる骨董品等を盗むこともあるが、次郎吉は金子だけにしていた。そして、できるだけ三両・五両の少額にしていた。着物・道具類は大枚の金になることもあるが、売り捌いた折りにそこから足がつくこともある。

次郎吉は、盗みにかけてそれ程の才能があったわけではない。唯、建具職・鳶職の手伝いが、今になって幸いしているのである。それに付け加え、稲葉小僧なる盗賊を調べたにすぎない。稲葉小僧は、天明の初年(1780年)頃より、大名屋敷を襲う盗賊として有名になった。
警備の手薄さを調べ上げての犯行であった。盗む物は、金子は勿論着物小間物、果ては大名屋敷の大切な道具類も盗み出した。

目利きができたのである。というのも、稲葉小僧は武家の出であった。淀藩稲葉家に仕える武士の次男として生まれた。が、幼少の頃よりの盗癖の為、遂には入れ墨の上、「たたき」の刑に処せられた。親元に居ることができず、勘当同然に飛び出した。
食べていく為には働かねばならぬものの、武士の出身故に丁稚奉公を嫌った。そうこうしている内に、往来の人混みの中で掏摸を働きだした。そして、江戸の悪党仲間に加わり、夜盗になったのである。そして、稲葉家の者故、稲葉小僧と称された。

稲葉小僧としての罪状はおびただしい。
武家屋敷の後に、寺院・町家へと矛先は移った。ありとあらゆる物を、片っ端から盗んだ。箪笥の錠前をこじ開け、金子・腰物・小道具類・衣類・反物等を、手当たり次第であった。それら盗品を古道具屋へ売ったり、質入れしたりした。大量の盗品となった折には、知人に預けることもあったらしい。
ご丁寧に、上野山内の穴の中へ隠し置いたりもした。そして大枚の金子で遊女・飯売女等を買い揚げ、どんちゃん騒ぎを繰り返した。そしてまた大博打を打ったりもして、派手に使いまくった。

天保五年(1834年)九月、こともあろうに、徳川一橋家に忍び込み捕縛されてしまった。吟味をしていく内に、古道具屋・質屋・上野山内の穴よりの証拠品により、今までの悪行が暴かれた。小塚原での処刑は、同年十月であった。

次郎吉は、そんな稲葉小僧という盗人とは異なり、盗んだ金子等を知人に預けたり、又隠したりということはしなかった。そしてなにより、町家を襲ったりはしなかった。そのことが、江戸っ子の人気を博した所以でもあった。
逃亡中に落とした一両小判が、たまたま貧乏長屋の前であったことから、
「盗んだ金子を貧乏人にバラまく」という噂になったことも、人気に拍車をかけた。

しかし実の所、次郎吉も、町家に一度だけ入り込んだことがある。七十両を盗んだ迄は良かったが、その後
「店を閉めてしまった」と聞き、わざわざ再度忍び込んで、金子を返したのである。ある意味、お人好しの盗人ではある。
もっとも、町家を敬遠するのには、大きな理由があった。大店では生命よりもお金を大事にする習慣から戸締まりも厳重で、入ることはおろか出ることすら難しい故でもあった。

次郎吉の普段の生活は、おとなしいものであった。好きな博打にしても、決して大勝負はしなかった。そして、殆ど負けている。たまに勝てた時に、吉原で遊ぶくらいのものだ。
それにしても大勝負や、豪遊することをためらうのは、何故か?
表稼業として、細々と小間物屋を営んでいる次郎吉である。ふんだんに一両小判を使うわけにはいかない。急に金回りが良くなったと思われては、後々困るのである。

博打場にしても一ヶ所に限定せず、あちこちと場所を変えて目立たぬようにしていた。用心深さは、人一倍だった。
(七)ねずみ小僧、ご乱心!

しかし最近の次郎吉はおかしい。
昨日も、今日もと、ここ数週間博打場への出入りが激しい。そして、毎晩のように
「勝ったから・・負けたから・・」と、酒を浴びるように飲んだ。そして、吉原にくり出す。あれ程に、隠れるように生きてきた次郎吉の、この変身ぶりは周りを驚かせた。

次郎吉にしてみれば、チビチビと遊ぶ、物足りなさ。世間からの、
「義賊!」との賞賛の声。身に覚えのない事が、
「ねずみ小僧さまのおかげです。」との賞賛の声。
まるで、自分以外にねずみ小僧がいるような錯覚。そしていつかは捕縛されるのでは、という不安。
「俺は、義賊じゃネェ!大泥棒の悪党だぁ。」

叫びたくなる衝動にかられたことも、一度や二度ではない。そしてそんな毎日を送り過ごす内に、当然ながら金の出入りも激しく、く間に持ち金がなくなってしまった。
それらの不安や苛立ちを紛らわす為、結局盗みを続けていった。それまでの、痕跡を極力残さない次郎吉に、変化が現れた。数々の悪戯を残すようになった。

松平周防守邸では、一年の内の三月・五月と立て続けに二度押し入った。そして、長局の障子紙に、のぞき見の穴を開けてまわった。また、他の大名屋敷ではそれぞれの名器らしき陶器を、片っ端から壊して回った。食事時に使う箸・金箔の盃やらを、箱の中から取り出して、部屋の中にズラリと並べた。

天保三年(1832年)五月九日、浜町の松平宮内屋敷に忍び込みの罪で捕らわれた。その折り、八丁堀無宿・異名=次郎太夫事、次郎吉と名乗った。実際の所は次郎吉が忍び込んだのは四月の晦日であったが、松平宮内家では厄介な手続きを嫌った。
実害のなかったこともあり、北町奉行には内緒で懇意の町方同心に相談した。
「当屋敷に侵入した形跡はない。」と、内々に決した。
松平宮内家門前で追い払い、その後挙動不審者ということで、町方同心が捕縛した。

その吟味の最中に、何を思ったのか
「俺が、ねずみ小僧だ!」と、自白してしまった。
大盗人だと聞かされた松平宮内家では、地団駄を踏んで悔しがったというが、後の祭りであった。そのまま牢屋敷お預けとなり、翌六月十六日に入牢となった。

当時の調書に、こう記されている。

十年以前未年(ひつじどし=文政六年)以来、所々、武家屋敷二十八ヶ所、度数三十三度、塀を乗り越え、又は、通用門口より紛れ入り、長局等へ忍び入り、錠前をこじあけ、或いは土蔵の戸を鋸にて挽き切り、・・・(中略)・・・、引き回しの上獄門

更に再吟味の結果、その度数は重なり、次のように記されている。

=罪状= 
武家屋敷百三十三ヶ所 列記
盗みの総金額 三千四百十三両ほど。

そして、天保三年(1832年)八月十九日に、江戸中引き回しの上、鈴ヶ森に処せられた。                    
世間では、何と二万二千両もの金を盗み貧乏人にバラまいたという噂が流れた。
ひまを出した女房に、毎月生活費を送り続けた(当時は、離縁後の送金という習慣は無かった)という話。
更には、盆・暮れ時に家主は勿論同じ長屋の住民にに迄届け物をしていたというエピソードも伝えられた。

勿論その真偽のほどは、定かではない。   

━ ━ ━ ━ ━ ━

前回の捕縛時においては、入れ墨中追放となり釈放されたが、今度ばかりはそうも行かなかった。

老中の交代劇もあり、ねずみ小僧の行状利用も終わった。幕府は、ねずみ小僧の”義賊”評判を作り、対露政策、貨幣の質低下による人心不安・動揺を誤魔化していたのではなかろうか。

猿は、猿回しの叩く太鼓の音につられて踊る。そして、太鼓の音が止まると共に踊りを止める。

次郎吉は、自分の意志とは関わりなく、老中水野忠成という猿回しの思いのままに踊らされていたのか?

”義賊”と称し、救世主を待っていた下層町民の声をどう聞いていたのであろうか?

本所回向院にある、次郎吉の墓で一度聞いてみたいものである。

参考までに、戒名は教覚速善居士、俗名は中村次良吉となっているらしい。