それは、いつも起きるであろう唯の平凡な一事件にすぎなかった。いや、事件ということさえ、おこがましい程のことだ。しかし何故か、その時の彼にはそれだけのことには思えなかった。何かをそこに感じた。そして何かをしなければ、と思った。何かを? それが何であるかを知る為に彼は全てのもの―会社・恋人そして家族まで―兎に角ありとあらゆるものを捨てた。それだけの価値があるか否かは、皆目検討がつかない。彼は、到底論理的に立証し得ない心境になったのだ。 筆者はこの男の行動に特異な共感を持ち、”人間蘇生”の可能性を見出した。しかしそれは、「非人道的」と非難されるだろう。 首都圏の地下鉄ほどではないが、G市でも朝の電車は混みに混む。そして、唯でさえ苛立つこの窮屈さに輪をかけるような、この蒸し暑さ。日本の夏は、兎に角恐ろしいほどに蒸し暑い。時として、夢遊状態に陥る者さえ出る。誰彼の見境がつかず、異常な程の親近感を感じるようだ。(親近感?…相手は迷惑だろうが。)が、それにしても暑い。 電車は狭い。絶対量の決まった所へ、その二倍も三倍も詰め込んだとすれば、窮屈なのは当たり前である。そして互いに、自分の領分を保持することは不可能である。他人の領分に自分自身が入り込んでいるような、そんな気分になる。どれが自分の足でどれが他人の足なのか区別できなくなる。最後には、自分自身の身体さえ自分の所有とは思えない、そんな錯覚を起こしてしまう。何せ、自分の意志に反した動きを取ってしまう、否、取らされてしまうのだから。 彼の右手は吊り革にある。そして左手は、どこにやるともなく唯ブラリとしている。彼の手は、至極ふつうの手故に身体の半分位の長さである。ということは、当然ながら足の太ももあたりに位置している。 ところで、ここでどうしてもお話しておきたい。決して誤解をしてもらいたくない、ということである。筆者は、ある朝の偶然ともいうべき事件に遭遇した男を、瞬可的に捉えてそれを報告しているのであ。決して快楽的に描こうとしているのではない。 最近、若い女性の間にミニスカートなるものの流行していることは、周知の事実である。そのミニスカートについては賛否両論があるが、そのどちらにも理屈がある。筆者は、敢えてその一方に加担しようなどと、大それた考えはない。 唯、そのミニスカートを身につける女性が、我々男共に与える電撃的ショックの強さについて、どれ程の知識があるのか・・それを知りたい気はある。が、聡明なる若き女性にしてみれば、筆者の想像以上の知識はお持ちであろう。 それとも、今日の大学や高校では、そのような人生において重要な事柄について教えていないとすれば、これは事重大と考えるが。ま、何はともあれその混みに混んだ電車内での出来事を、これからご報告しょう。 電車は、大体 50km/h の速度だったと思う。もっとも、スピードに疎い筆者故多少の誤差があるかもしれない。ま、40km/h いや 30km/h でもいいのだが・・。で、電車のスピードに合わせて我々もそのスピードで移動しているわけだ。電車の中は、男ばかりでなく女性も当然乗り合わせている。OLらしき女性・女子高生そして人の好さそうなおばさん、等々だ。 彼の傍らにはOLらしき女性がいる。羨ましい限りだ(いや失礼!)。よく見かける女性だ(どうでもいいことだが)。残念なことに筆者は隣り合わせた記憶がない。今にして思えば、幸運だったかもしれない。これは余談だった。 その女性は、男と同じ吊り革に掴まっている。そして彼は、この女性だけではなく、いつも他人の手に触れないようにと吊り革の上部を掴んでいる。そのくせ、その女性の手に触れてみたいと願っている、と推察する。(実は、私がそうだから・・) もっとも、手に触れたからといってどうということはない。混雑時である、足を踏まれる事もあれば踏むこともある。偉大なるヒップに圧迫されることもある、その時は辟易する。ま、うら若き女性の場合には…。(やめておこう、変態と思われるのも心外である。) ましてやこの暑さである、香水でさえ苦痛に感じる。少し控えて頂きたいものだ。不感症ではない。映画のラブシーンを見れば興奮するのだから。つまりその時の心の置き場に左右されるのだ。彼の為だけではない筆者の為にも断じたい。 だからその時の彼にしても、特別の感情は無かった。いつものように揺られている。時折、ブラリとしている彼の手が女性のヒップに触れても、特別の感情は湧かないし、その女性にしても別段嫌な顔はしていなかった。(その心中については?だが)吊り革の手が汗ですべり女性の手に覆い被さっても、「失礼!」と声をかけてすぐに掴み直せば何ということはない。 が、その女性と視線が合った瞬間、二人の間に流れていた交響曲が止まった。二人の間の平和な叙情詩の語らいが、その瞬間止まってしまった。彼の心に何かが湧いた。彼は思わず、吊り革から手を離した。となると、彼を支えるものは何もない。ここで電車が停車・カーブ等に入ると、彼の身柄は誰かに支えてもらうことになる。 幸か不幸か、電車が急停車した。線路上にバスが止まっている。市街地を走っている電車である。しかもラッシュ時だ。電車の前にも後ろにも車がギッシリである。軌道上は通行不可なのだが、ままあることである。信号の停止待ち―電車の運転手の不手際故の急ブレーキか、もしくは通常のブレーキだったのかもしれないが、不意をつかれた彼には急ブレーキとなったのである。 さあ大変なことになった。大きく前につんのめった彼は、いきおい元の姿勢に戻ろうとする。そこへ電車の揺り戻し(というべきか)が重なり、勢い余って彼の身体は全面的に女性に預けられた。その女性にしてみれば、全く予期せぬ事態である。どう対処していいかわからない―というより、どうしょうもない。唯々、彼の周囲の状態が変わるのを待つだけだ。彼も又どうすることもできない。唯、彼の胸に、女性の黄色いブラウスを介して、ふっくらとした快いものを感じていた(全く羨ましい、失礼!)。 一瞬間、彼は恍惚としている(私にはそう見えた。代わりたいものだ。)。そして、生きていることに感謝したに違いない。そればかりではない、待望(?)の女性の手をしっかりと、吊り革上で握りしめている。そしてその状態は、彼の姿勢が変わらない限り続くのだ。彼は祈ったであろう。勿論、”このままで!”と。しかし神様も、彼の味方とは限らない。すぐにも電車が動き出した。彼は謝りつつも、未練を残しその手を離した。女性は耳を赤くして、横を向いてしまった。その横顔を、彼は美しいと感じた。正直、筆者にはそう思えないが、まぁ好みの問題だから・・。しかし今の彼にとって、これ以上の美女はいないといった表情だ。そして、会社で待つ恋人のことも忘れた。 ―えっ、何故わかる? と問われますか……、うーん、そういうことにして下さい。話の流れとして。ほら、あなたがそんなことを問いかけている内に、女性が電車を降りてしまった。彼はどうしたのか…。 彼も又、吸い付けられるように電車を降りてしまった。(しかし彼の目的地ではないはずだ。)電車の出発する軋み音を背後に、彼は歩いた。初めは気付かぬその女性も彼の行動に不審を抱き始めた。今は、朝である。助けを呼べば、誰かが助けてくれるであろう。筆者も、すぐにである。(実は、気になって降りてしまった。) しかし女性にも、断言はできないが、その心内にそんなスリルを待つ心があるのかもしれない。女性の足が速くなる。と同時に、彼も又早足になる。別にどうこうしようというのではない。唯、女性の傍らに居たいだけなのだ。その横顔を、恍惚として見とれていたいのだ。 ―えっ、何故わかる? と問われますか。しつこい人だ、話の流れですって。 やがて女性は、交番の中に飛び込んだ。彼も又魅入られたように入った。(馬鹿な!)そして全てが終わった。彼は唯ボー然として、今は会社に向かっている。一体、彼に何が起きたのか。真夏の珍事か…。それとも、本能に目覚めたのか。抑圧された実社会に対する、アンチテーゼだったのか…。 最後に是非とも断言しておきたい。この男は、断じて筆者ではないことを。 *この作品が、「恨みます」の導入エピソードになりました。 |
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