心象風景



 『或ときの彼』 〜心を映す鏡・(一)〜


 それは、いつも起きるであろう唯の平凡な一事件にすぎなかった。いや、事件ということさえ、おこがましい程のことだ。しかし何故か、その時の彼にはそれだけのことには思えなかった。何かをそこに感じた。そして何かをしなければ、と思った。何かを?
 それが何であるかを知る為に彼は全てのもの―会社・恋人そして家族まで―兎に角ありとあらゆるものを捨てた。それだけの価値があるか否かは、皆目検討がつかない。彼は、到底論理的に立証し得ない心境になったのだ。

 筆者はこの男の行動に特異な共感を持ち、”人間蘇生”の可能性を見出した。しかしそれは、「非人道的」と非難されるだろう。

 首都圏の地下鉄ほどではないが、G市でも朝の電車は混みに混む。そして、唯でさえ苛立つこの窮屈さに輪をかけるような、この蒸し暑さ。日本の夏は、兎に角恐ろしいほどに蒸し暑い。時として、夢遊状態に陥る者さえ出る。誰彼の見境がつかず、異常な程の親近感を感じるようだ。(親近感?…相手は迷惑だろうが。)が、それにしても暑い。

 電車は狭い。絶対量の決まった所へ、その二倍も三倍も詰め込んだとすれば、窮屈なのは当たり前である。そして互いに、自分の領分を保持することは不可能である。他人の領分に自分自身が入り込んでいるような、そんな気分になる。どれが自分の足でどれが他人の足なのか区別できなくなる。最後には、自分自身の身体さえ自分の所有とは思えない、そんな錯覚を起こしてしまう。何せ、自分の意志に反した動きを取ってしまう、否、取らされてしまうのだから。
 
彼の右手は吊り革にある。そして左手は、どこにやるともなく唯ブラリとしている。彼の手は、至極ふつうの手故に身体の半分位の長さである。ということは、当然ながら足の太ももあたりに位置している。
 ところで、ここでどうしてもお話しておきたい。決して誤解をしてもらいたくない、ということである。筆者は、ある朝の偶然ともいうべき事件に遭遇した男を、瞬可的に捉えてそれを報告しているのであ。決して快楽的に描こうとしているのではない。

 最近、若い女性の間にミニスカートなるものの流行していることは、周知の事実である。そのミニスカートについては賛否両論があるが、そのどちらにも理屈がある。筆者は、敢えてその一方に加担しようなどと、大それた考えはない。
 唯、そのミニスカートを身につける女性が、我々男共に与える電撃的ショックの強さについて、どれ程の知識があるのか・・それを知りたい気はある。が、聡明なる若き女性にしてみれば、筆者の想像以上の知識はお持ちであろう。
 それとも、
今日の大学や高校では、そのような人生において重要な事柄について教えていないとすれば、これは事重大と考えるが。ま、何はともあれその混みに混んだ電車内での出来事を、これからご報告しょう。

 電車は、大体 50km/h の速度だったと思う。もっとも、スピードに疎い筆者故多少の誤差があるかもしれない。ま、40km/h いや 30km/h でもいいのだが・・。で、電車のスピードに合わせて我々もそのスピードで移動しているわけだ。電車の中は、男ばかりでなく女性も当然乗り合わせている。OLらしき女性・女子高生そして人の好さそうなおばさん、等々だ。

 彼の傍らにはOLらしき女性がいる。羨ましい限りだ(いや失礼!)。よく見かける女性だ(どうでもいいことだが)。残念なことに筆者は隣り合わせた記憶がない。今にして思えば、幸運だったかもしれない。これは余談だった。
 その女性は、男と同じ吊り革に掴まっている。そして彼は、この女性だけではなく、いつも他人の手に触れないようにと吊り革の上部を掴んでいる。そのくせ、その女性の手に触れてみたいと願っている、と推察する。(実は、私がそうだから・・)

 もっとも、手に触れたからといってどうということはない。混雑時である、足を踏まれる事もあれば踏むこともある。偉大なるヒップに圧迫されることもある、その時は辟易する。ま、うら若き女性の場合には…。(やめておこう、変態と思われるのも心外である。)
 ましてやこの暑さである、香水でさえ苦痛に感じる。少し控えて頂きたいものだ。不感症ではない。映画のラブシーンを見れば興奮するのだから。つまりその時の心の置き場に左右されるのだ。彼の為だけではない筆者の為にも断じたい。

 だからその時の彼にしても、特別の感情は無かった。いつものように揺られている。時折、ブラリとしている彼の手が女性のヒップに触れても、特別の感情は湧かないし、その女性にしても別段嫌な顔はしていなかった。(その心中については?だが)吊り革の手が汗ですべり女性の手に覆い被さっても、「失礼!」と声をかけてすぐに掴み直せば何ということはない。

 が、その女性と視線が合った瞬間、二人の間に流れていた交響曲が止まった。二人の間の平和な叙情詩の語らいが、その瞬間止まってしまった。彼の心に何かが湧いた。彼は思わず、吊り革から手を離した。となると、彼を支えるものは何もない。ここで電車が停車・カーブ等に入ると、彼の身柄は誰かに支えてもらうことになる。

 幸か不幸か、電車が急停車した。線路上にバスが止まっている。市街地を走っている電車である。しかもラッシュ時だ。電車の前にも後ろにも車がギッシリである。軌道上は通行不可なのだが、ままあることである。信号の停止待ち―電車の運転手の不手際故の急ブレーキか、もしくは通常のブレーキだったのかもしれないが、不意をつかれた彼には急ブレーキとなったのである。

 さあ大変なことになった。大きく前につんのめった彼は、いきおい元の姿勢に戻ろうとする。そこへ電車の揺り戻し(
というべきか)が重なり、勢い余って彼の身体は全面的に女性に預けられた。その女性にしてみれば、全く予期せぬ事態である。どう対処していいかわからない―というより、どうしょうもない。唯々、彼の周囲の状態が変わるのを待つだけだ。彼も又どうすることもできない。唯、彼の胸に、女性の黄色いブラウスを介して、ふっくらとした快いものを感じていた(全く羨ましい、失礼!)。

 一瞬間、彼は恍惚としている(私にはそう見えた。代わりたいものだ。)。そして、生きていることに感謝したに違いない。そればかりではない、待望
(?)の女性の手をしっかりと、吊り革上で握りしめている。そしてその状態は、彼の姿勢が変わらない限り続くのだ。彼は祈ったであろう。勿論、”このままで!”と。しかし神様も、彼の味方とは限らない。すぐにも電車が動き出した。彼は謝りつつも、未練を残しその手を離した。女性は耳を赤くして、横を向いてしまった。その横顔を、彼は美しいと感じた。正直、筆者にはそう思えないが、まぁ好みの問題だから・・。しかし今の彼にとって、これ以上の美女はいないといった表情だ。そして、会社で待つ恋人のことも忘れた。

 ―えっ、何故わかる? と問われますか……、うーん、そういうことにして下さい。話の流れとして。ほら、あなたがそんなことを問いかけている内に、女性が電車を降りてしまった。彼はどうしたのか…。

 彼も又、吸い付けられるように電車を降りてしまった。
(しかし彼の目的地ではないはずだ。)電車の出発する軋み音を背後に、彼は歩いた。初めは気付かぬその女性も彼の行動に不審を抱き始めた。今は、朝である。助けを呼べば、誰かが助けてくれるであろう。筆者も、すぐにである。(実は、気になって降りてしまった。)
しかし女性にも、断言はできないが、その心内にそんなスリルを待つ心があるのかもしれない。女性の足が速くなる。と同時に、彼も又早足になる。別にどうこうしようというのではない。唯、女性の傍らに居たいだけなのだ。その横顔を、恍惚として見とれていたいのだ。

 ―えっ、何故わかる? と問われますか。しつこい人だ、話の流れですって。

 やがて女性は、交番の中に飛び込んだ。彼も又魅入られたように入った。
(馬鹿な!)そして全てが終わった。彼は唯ボー然として、今は会社に向かっている。一体、彼に何が起きたのか。真夏の珍事か…。それとも、本能に目覚めたのか。抑圧された実社会に対する、アンチテーゼだったのか…。

 最後に是非とも断言しておきたい。この男は、断じて筆者ではないことを。


*この作品が、「恨みます」の導入エピソードになりました。

『或ときの彼女』  〜心を映す鏡・(二)〜
 


彼女は、とに角急がねばならなかった。理由は何でもいい。とに角急いでいたということさえ、はっきりしていれば。読み手のあなたが、その理由を考えてください。(この作品は、あなたとの共同作業で成り立つ作品です。よろしくお願いします。)

とに角、彼女は急いでいた。(その急ぐ理由が、極端であればあるほどいいのです。義理に反する為からであれば、尚更いい。たとえば、殺人犯人であるとか。少し極端すぎる?とに角最高の理由を付けていただきたい。)

彼女はプラットホームを走った。手には、ハンドバッグ一つ。エルメスとかいうブランド品で、彼女の夫からの、プロポーズ前の贈り物の一つである。行き交う人も慌ただしいが、彼女も慌ただしく、ハイヒールの音も高らかに走る。彼女は、すれ違う人々に少しの敵意の目を見ながら、感じながら走る。彼女の感情はそれほどに研ぎすまされ、又痛々しいほどの圧迫を受けていた。もうこれ以上痛められそうもないない程に、精神的にまいっていた。(どうぞ、考えうる最高の精神的ショックを考えて下さい。)

筆者としては、こういう事件を想定しながらキーを叩いている。彼女は或男と結婚している。その男は一流企業に勤め、勤勉実直である。退社後は、寄り道もせず愛の巣へ一直線。休日には家族サービスを怠らない。全く涙ぐましい程の尽くしぶりである。俗にいう、マイホーム主義者である。
彼女はそんな男をこよなく愛した。健全な夫婦である。彼女は、夫に対し全幅の信頼を寄せ、全ての愛を捧げた。その男が、結婚以来いや交際中も含めて、初めての午前様の帰宅であった。グデングデンに酔っぱらっていた。手の付けられない状態だ。彼女のショックは大きい。

しかし、それだけではまだ手ぬるい。直後に、某ホテルから電話が入った。
「お連れ様が、迎えに来て欲しいとのことでございます」
当然のことながら、彼女は打ちのめされた。『浮気?』信じられない。まだ続く。その相手が、こともあろうに、自分の妹だったとは。彼女は放心状態に陥った。思考回路が完全に止まってしまった。癒されることのない、深く黒い傷を負った。

彼女としては、夫が真剣に妹を愛し、合意了解の上でのことならば、時間とともに癒される余地があったかもしれない。しかし、酒に酔い、その酔いに任せてのレイプだったとは。妹にも落ち度はあった。失恋の痛手を慰めて欲しい、とふざけ半分に義兄を誘惑したとは・・。実直な義兄だから安心していた、との逃げ口上で。この事実は、彼女に到底癒されることの無い深く黒い傷を負わせた。(より反道義的事実を思い浮かべられた方、筆者にご連絡を。) 

ホームはたくさんの人だかりであった。帰郷の人、レジャーに向かう人、出張の人等々。それらの人たちにそれぞれの喜怒哀楽がある。中には、あくびをしながら人生の退屈さをまざまざと見せつける人もいる。彼女は敵意の目を向けながら、目的地に行く列車のホームへと急ぐ。
途中、彼女は紛れもない、天使を見た。何の汚れも知らぬ、世間の風の冷たさ・騒々しさ、この世の悪という悪に体中を突き刺され、その痛みに「ワーワー!」と、泣き叫ぶ幼子を。

彼女の知らぬ子どもだ。母らしき女性の姿はない。子どもは、火のついたようになおも泣き叫ぶ。彼女は立ち止まった。泣き叫ぶ声の中に、どことなく、彼女を慰める何かがあった。と共に、心を苛だたせもした。しかし、そんな矛盾した子どもの泣き声に立ち止まったのではない。いや勿論、その声に気をとられたのは確かだ。そして、自分の不幸を一瞬間忘れ去ったのも事実だ。

つまり、子どもの泣き声に傍観者であることを忘れてしまったのだ。世の流れに浸ったのだ。その時、彼女は何か自分の体の中を勢いよく走るものを感じた。彼女の曲がった腰を伸ばしたのだ。傍観者であり、悲劇の主人公であった自分が、一人芝居の中から引っぱり出されたのだ。勿論、一瞬間のことだ。それ故、彼女は立ち止まったのだ。
そして立ち止まるなり、自分を自分であると認識できなくなったその時間、 1/10秒いや 1/100秒の間に、その子どもを抱きしめたいという衝動にかられた。そして、子どもは、彼女の胸の中で泣き叫んでいた。

列車はホームに入っている。もう、出発だ。時間がない、乗り遅れてしまう。自分の将来が危うい。
“さぁ、子どもをおろして早く列車に!”彼女の脳裏を走る。・・、しかし彼女は、子どもをあやしつづけた。子どもは、彼女の体のぬくもりを感じようやく泣きやんだ。シャクリあげながら、何度も何度も手で目をこすった。彼女はハンカチを取り出し、子どもの涙を拭いてやった。子どもはそのハンカチを邪魔くさそうに、手ではねのけようとする。しかし、彼女はお構いなしに優しく拭いた。

子どもが泣きやむと、次にこの子の母親を目で追った。周りの誰も、彼女と子どもに関心を寄せない。彼女はその時、体全体に自由と責任を痛切に感じた。大袈裟にいえば、この子どもの生殺与奪権を握っているのだ、と感じた。今までの彼女には思いもよらなかったことだ。今までの彼女は、夫に守られていたのだ。両親に守られていたのだ。自由と責任、あるようでなかった。自由と責任を初めて認識したのだ。

自分の行動が何ものにも反映しないし、反発もない。無論、強制も圧迫もない。のんべんだらり、惰性だった。彼女は新しい感動に触れた。ようやく、自由と責任の本質を掴んだような気がした。そして、今になってしか掴め得なかった自分を、情けなく又悲しくも思えた。彼女は、飛び上がりたい衝動にかられた。この時ほど、人間対人間の真の接点を知り、且つ又喜んだことはない。肉親にさえ、夫にさえ、感じなかった感情を、名も知らぬ赤の他人の、この通りすがりの子どもに感じたのだ。初めて、人間の生の感情を知り、感銘を受けた。

そしてその感銘は、母らしき女性のいないことにより、なお増大した。忘れられた子どもと、裏切られた自分とを結びつけて、喜びに胸をふるわせた。彼女は、この子どもに自分の全てを賭けてもいいとさえ思った。彼女はまだ子どもを産み、育てた経験はない。しかし、生みの親よりも、もっともっと深い愛情を、この子どもに注ぎうるという、自信を確信していた。しかし、その確信はやはり確信でしかなかった。
この駅では、この町では、この日本では、この社会では、到底できうるものではない。近づいてきた鉄道公安員に、子どもを力無く渡した。そして、自分の首につり下げていたペンダントを、その子どもの首にかけてやった。もう子どもは泣かなかった、彼女も泣かなかった。しかし、心の底から大きな声で叫びたかった。

子どもは、まだ生えそろっていない歯を見せて去った。彼女は、列車の去った後のホームに立ちながらも、満足感を覚えていた。 
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 この後の彼女の行動は、わかりません。男の私には、わからないのです。どなたか、教えて下さい、この彼女の行く末を。