狂い人の世界  (第一章 :少年 A)

〜マネキン人形に恋した少年〜


  ここは、とある特別養護老人ホーム。ここが実は、天界だと言う噂を聞きつけました。しかも驚いたことに、神さまと閻魔大王がお見えになるとか。で、お話を伺うべく、来てみたのですが…。
 玄関から入りまして奥の方にありますのが、六十平方いえ八十平方はあるでしょうか、大きなそして小ぎれいな部屋ですよ。娯楽室といったところでしょうか。大きな窓があり、中庭に面しているようです。
 庭の中央には、あれはあすなろでしょうか。高いですねえ、見上げていると首が痛くなりそうです。ですが、木陰のベンチが夏には素敵な休憩場所になりそうです。あ、花壇もあるようです。四季とりどりのお花を植えられるのでしょう、黄色の花を咲かせているフリージアに、紅色が映えているゼラニウムもあります。ああヒトデのように花が別れているのはヒヤシンスですね。淡いピンク色から赤色や紫も咲き誇っています。色々の花で散歩道が作られています。まさに、天国だという形容も納得できます。
 部屋の中央には四人掛けの長方形のテーブルが、ひいふうみい、ああ三卓ありますね。ちょっとしたカウンターがあり、そこで飲み物などを提供されているようです。壁にはタペストリーですね、飾られています。ひな祭りやら鯉のぼりの柄とは、珍しいです。でも、お孫さんたちが遊びに来るのでしょうね、喜ぶ顔が目に浮かびます。
 六十インチほどの大画面テレビの前には布張りのソファがあり、そこにお二人の方がお座りになられています。あのお方たちがそうなのでしょうか? あのお痩せになってらっしゃるお方が神さまで、小太りのお方が閻魔大王でしょうか。ちょい見した限りなのですが、小太りのお方は常に頭をお下げになってらっしゃるようなのです。ちょっと、盗み聞きしてみましょう。

神 =
閻魔=
神 =
閻魔=

神 =
ねえ、お前。お前は、どう思うかね? この少年の話を。少年は、自分は狂人ではないと、言い張るんだが。  
申し訳ございません。わたくしには、はっきりとは分かり兼ねます。
どうしてかね? その頭脳明晰さにおいて、右に並ぶ者なしと言われるお前に分からぬとは。
とんでもございません。わたくし如きが、そのような。おからかいになっては困ります。あのファウスト一人、騙すことが、いえ論破できなかったのでございますから。
あのファウストは、何もかもを知り尽くした人間だ。さしものお前でも、無理であろうよ。
 深く頭を下げられた閻魔大王に対し、神さまがその肩に手をかけられて慰めておられるようでした。
身体を縮こませながら、何度も何度も頭を下げられています。
時折見せられる苦痛に歪んだお顔が、なんとも痛ましくさえ感じられます。
閻魔=

神 =
閻魔=


神 =
ありがとうございます。さてさて。一体、人間世界には、真実などと言うものがあるのでございましょうか? その時代では正しい事であっても、後の時代になると誤りだとされる事が、多々あるようですし。
なるほど、それも一理あることだな。では、お前はどう思うかね?
わたくしでございますか? 神である貴方さまがご判断に迷われている事に具申するなど、おこがましいことでございます。ですが有態に申しまして、永遠の真理などいように思われます。人間世界は勿論のこと、恐れ多い事ですが、この天界におきましても。
ほお、この天界にもかね?
  神さまのお顔が少々引きつったように見えたのは、わたしの勘違いでしょうか。軽くポンポンと肩を叩かれた後に、唇が歪んだように見えたのですが。むろん、閻魔大王は気付いておられません。相変わらず頭を下げられたままでお話になられています。奥まった場所でのひそひそ話です。話の内容を聞き取ることが出来るのは、庭先から隠れて聞き耳を立てているわたしならばのことです。
 入り口近くの大テーブルに陣取られている方たちには聞こえられていない会話だと思います。それが証拠に皆さん笑顔でございますから。こんな深刻な話だとお知りになれば、きっと百家争鳴な状態になることでしょう。それはそれで面白くも感じられますが、レポートするわたしの身にもなってくださいな。 
 二人三人の会話ならばなんとかお伝えすることもできるでしょうが、それ以上となりますと、どうしても声を拾うために動かねばなりません。となると、どなたかにわたしを視認されてしまいます。そうなりますと、もうおそらくはお話は聞けぬ事となりましょう。お忘れですか、ここが天界だということを。さあさあ、お二人のお話に戻りましょう。  
閻魔= 


神 =
閻魔=


神 =

閻魔=
 申し訳ございません、まことに。お叱りを覚悟で申し上げますならば、貴方さまの気まぐれ…申し訳ございません。これは言い過ぎでございました。人間世界において、時代々々におけるその時々の、道徳観念・法律によって、正誤の判断が下されるのは、致仕方のない事でございましょう。
ふむふむ…
しかしながら、それらは一貫性のないものが多いのでございます。ある日突然に、覆ることもあるのでございますよ。首をお傾げになるとは、意外でございます。お許しになられたではございませんか。原爆などと言う、途方もなく恐ろしい武器のご使用を。あれ程にお止めしたのに、でございます。
ああ、あのことかね。うむ、あの時はわしも、どうかしていたようだ。特攻などという愚行を、余りにも繰り返すものだからね。つい、お灸を据えたくなってしまったのだよ。あれは確かに、わしの誤りだったようだ。
失礼ながら。神である貴方さまには、万が一の誤りも許されないのでございます。あのことから、彼の国はその後またしても、大きな蛮行を犯してしまいました。枯葉剤などという世にも恐ろしい薬剤を、何を血迷ったか、同じ人間相手に使用したのでございますから。しかし原爆にしろ、枯葉剤にしろ、当時においては止むを得ない決断だと、多くの者が考えたのでございます。
  肩を落として語られる閻魔大王さまの姿は、意外なものです。てっきり、当然のことと叱り飛ばされるものと思っておりましたから。
神 =

閻魔=
そうよの、あの時は驚いた。わしに問い掛けることもなくじゃった。
傲慢そのものじゃ。まあその後、彼の国にもお灸を据えはしたが。
お灸と申されましても、いまでは唯一の超大国として、君臨しておるではございませんか。その傍若無人たるや……。実に嘆かわしいことで。
   神さまにはご自慢のおひげのようにも見えますが、どうやらあの水戸黄門を意識されているご様子で、ときおりその髭を下に流すように触られます。しかしどうひいき目に見ても、単なる無精ひげとしか思えません。あの閻魔大王さまにもそう映っているらしく、下を向いて苦笑いをされていますよ。
 神 =


閻魔=
まあ、そう責めてくれるな。あまり人間世界に干渉することも、良くないことじゃでの。といって、放っとき過ぎたかもしれんがの。これから先、人間どもが今少しの反省をするならばと、人間世界で言う異常気象を起こさせておるのじゃが。気付く者もおれば、目をそらす輩もおるし、のお。困ったものじゃて。で、どうかね? 先ほどの、少年のことは。
申し訳ございません、話が逸れてしまいました。少年の住む日本という国は、先の敗戦後に価値観が一変したのでございます。道徳観も、百八十度の大転換でございます。お分かりいただけますでしょうか?
 慌てて顔を上げられましたが、わたしにはなにかしら、とってつけたような物言いに聞こえました。が、神さまは「うんうん」と、満足げに頷かれています。失礼ながら、他の皆さんにその毎日をかしこづかれているせいでしょうか、それとも下々の者たちゆえだからとお思いのせいでしょうか、少々とげが感じられる言葉にも気付かれないようでして。  
神 =
閻魔=

神 =
なるほど。お前は、この少年は狂っていると、言うのだね?
実のところ、困っております。今の時代においては、狂人と断じて良いと思うのでございますが。ただこの少年の場合、そう断じて良いものかどうか、判断に苦しんでおります。
お前も、かね。わしも今、迷っているのだ。地獄行きか、それとも天国への扉を開けてやるべきか―― とな。ひとつ、前例のないことだが、少年の言葉に耳を傾けてみることにしようかのお。 

 ここは審判の部屋に向かうひとつ前の、審問の部屋とでも言えばよろしいのでしょうか。すりガラスの窓ですのではっきりとした光景は見えませんが、何とかして……。ありがたい、少し開きました。これならなんとか見えそうです。
 じめじめとした石畳の床にひざを突き、両手を太ももにおいて首を項垂れている少年が見えます。白い長袖のカッターシャツに黒い長ズボンをはいています。そのズボンの所々に鉤裂きの裂け目が二ヶ所ほど見えています。そこからのぞき見える小さな切り傷からは少しの血が滲み出ていますね。その匂いにひかれてなのか、1センチほどの足の長い虫がザワザワと集まり始めています。おお、気持ち悪い! 真っ赤な少年の血が床に滴り落ちるのを待っているのか、少年を取り囲むようにしていますよ。少年はそのことには気付いていないようですね。
 なんと言いますか、うつろな表情、そしてまたうつろな目ですねえ。どういう心境なのでしょうか、諦観? 自暴自棄? 絶望? 銷魂。うーん、どういう言葉を選べばご理解いただけるでしょうか。平たく言えば抜け殻なんですね。もう30年以上レポーターとしてやってきましたが、この少年ばかりは……。なるほど、閻魔大王が口ごもられたことも理解できます。 
 赤黒い石壁のそこかしこからは、赤みがかったどす黒い液体が染み出しています。とろみの入ったその液体は、身動き一つしない少年の心の移ろいを推し量るように、時に滴り時に留まりながら右に左にとさながら生命体のように動き回っています。
 とつじょ、薄ぐらい部屋の上部から一本の光の筋が降りて、少年を浮かび上がらせました。
少年=  ぼくは狂っちゃいない! 世間の奴らが、狂ってるんだ! 父さんも母さんも、学校の先生も友だちも、いや、みんながだ! ぼくだけが正しい、とは言わない。でも、狂っちゃいない! 冷たい、いやそんな生易しいものじゃない。恐ろしい世間の奴らよりは、曖昧さを拒絶するマネキンの方が、余程落ち着ける。人間のように勝手な論理を振り回したりしないし、傍若無人な行為もしない。口では、「弱者に優しい社会を!」なんて言うくせに、強者の論理で行動してるじゃないか!
 ああ、閻魔大王が見えます。えっ! 先ほどのどす黒い液体は、まさか! 閻魔大王だったのでしょうか。わたしの目の錯覚だったのでしょうか。
閻魔= わたしも色々の精神を患らった者に出会いますが、こんな少年ははじめてです。明らかに狂い人だと思いながら、一方で否定するのでございます。と言うよりは、そうであってはならないのだ、とわたし自身に言い聞かせているように、思えるのでございます。まあ、わたしの話を聞いてくださいな。