蒼い部屋 〜ブルー・じゃあず〜


 カーテンの隙間から射るように差し込んだ朝の光が、閉ざされた目を鋭くえぐった。顔をしかめながら、大きく背伸びをする。
「もう、朝か…。ついさっき眠ったと思ったのに。」
 ぶつぶつと呟きながら、ベッドの中からもそもそと起き出して、外の景色に目をやった。その四角い限られた世界には、ただ一つポプラの木がそびえ立っている。その大きな葉が風に揺れ、時折透ける太陽の光ーほんの一瞬間であっても惜しげもなく光を投げる太陽の光が、ひどく眩しく感じられた。 

 トントンとドアが叩かれ「カズオさーん。入りますよ、おはようー!」と声がかかり、ドアが開いた。
「あぁ……」
 いつものように気のない返事を返す。
「はぁい。それじゃあね、お熱と血圧を測らせてくださいね。」
 いつものにこやかな笑顔を見せながら、看護婦がベッド脇に立つ。

「はい。68の121ですね、いいですよ。お熱は……と、あら? 六度六分だわ。いつもより高いですね。どれどれ、ごっちんこで測りましょうね。」
 おでことおでこを合わせてのごっちんこをする。平熱であるにも関わらずのごっちんこだ。そしてこの毎朝のごっちんこが、穏やかな気持ちへと導いていくのだ。

「体はだるくないですか? 痛くないですか? かゆい? はいはい、かきかきしましょうね。はいそれじゃ今日も、ハッピーハッピー!に。」
 とにかくよくしゃべる女で、実にやかましいと言うのが、第一印象だった。けれどもすこしも耳障りには感じられない。それどころか、この声を聞くと癒やされる。この声の言うことは、何でも聞いてしまいそうになってしまう。お世辞にも美人とは言えず、若くもない。といって、おばさん然としたところもない。

「お前、いくつだ? 婆ぁに用はないぞ。出て行け!」
 憎まれ口を叩いた折、「女性に年齢のことを言うのは、ルール違反だぞ。お母さんよりは若いから、お姉さんにしてね。」と、軽くいなされた。そして姉として認めてくれたからと、ごっちんこが始まった。ほのかに匂う石けんの香が、波立つ心臓を穏やかにしてざわつく胸をしずめてくれる。

 処方される薬など、何の役にも立たない。はるかにごっちんこが勝る。不安な思いも苛立つ気持ちも、何もかもがすーっと消えていく。モノクロの部屋でさえ、フルーツ色に彩色された部屋に変わっていく。薬をゴミ箱に捨てた時のこと、「悲しいわ、これは。」と、涙目を見せられた。以来、渋々ながらも薬を飲むようにした。でそのあとは、決まって頭が朦朧として眠りに入っていく。

 このところ、何をする気にもならずにいる。日がな一日を、白く塗られた天井をじっと見つめているだけだ。白? いや白ではない。ベージュっぽい白だ。そして所々にしみのようなものがある。それを見るにつけ、心にざわざわと嫌な感じがおきる。銀縁の眼鏡をかけた女医に見せられたシートを思い出してしまうのだ。ロールシャッハテストと呼ばれる検査を思い出してしまい、いらだちが増してくる。
「これから絵を見て貰います。最初に思い浮かべたことを言ってください。考えちゃいけません。直感を言ってください。すぐに答えてくださいね。正しい答えはありませんから、大丈夫ですよ。」

くどくどと念を押す女医に反感を抱き、その指示をことごとく無視した。じっくりと時間をかけて、当初思い浮かべたこととは反対に近いことを答えた。こうもりに見えた図柄に対して、「蝶々だね、これは。誰がなんと言おうと、蝶々だ!」と、勝ち誇ったように告げた。
「蝶々じゃなくて、その前に感じたことはありませんか? それに、少し、時間をかけすぎてますよ。」
 いらだつ女医に対して、「あんたが嫌いだ!」と叫び、最後には黙りこくってしまった。ぷいと横を向いたきり、一切の返事をしなかった。

「コーヒーとパン、ここに置いておきますので冷めないうちにお食べください。食べ終わりましたら、ここに戻してください。」
 慇懃で固い声にふり向くと、ドアのすぐ横にある小さなテーブルの上に、白々と湯気立つコーヒーとバターが薄くぬられたパンがあった。視線を合わせることもなく、冷たく光るステンレスのトレーを置いていく職員の後ろ姿が見えた。言葉と共にドアから流れ出た空気も今では落ち着き払い、部屋は前にもまして深閑としていた。

 部屋の中はキチンと整理されていた。ベッド横の壁には、この別荘を建ててくれた愛すべき祖父のいかめしい姿の額がある。まるでこの部屋の全てをー空気でさえもを支配するかの如くで、妙に大きく感じられる。そのいかにも明治らしいー鹿鳴館時代にしばしば起きた、東洋と西洋の対立と調和とをまざまざと感じさせる、チョンマゲにタキシード姿。まさに明治時代から今に至る道、この部屋の全てを支配した、主そのものだ。

 反対側の壁には、埋め込み式のラジオがある。シルバーメタリックのボディの中央に、ジャガード織りの布がかけられたスピーカーがある。お気に入りの調度品だ、重厚な趣がいい。ただ如何せん、お仕着せの音楽やらが流れていることが気には障る。そこより流れ出る現代の息吹きへの反応が、しばしば額の中の支配者の目をさらにいかめしくさせたように見える。

 その横には、その艶やかな肌に深くナイフの傷跡を残しつつ、それでも穏やかな表情の能面がある。そう言えば、食事に出される食器からナイフがなくなったのは、その傷跡が付いた後だったような…。今は亡き母にも似たその面は、生きている人間の意思など無視しがちなある種の威厳を感じさせ、部屋全体に重くのしかかっている。

 その他には、ぐるりと見回しても、とりたてて言う程のものはない。強いて言うなら、紺に彩られた扉があることか。小さな覗き窓があり、時折冷たい視線がそこから投げつけられる。しかしそれが、どうだと言うのか。冷たい視線など、どれ程のものと言うのか。忘れた頃に訪れる、女よ。いくらでも泣くが良い。たとえそれで体中がびしょ濡れになってとしても、それがなんだと言うのだ。

「ふん! ふん、ふん!」
 ただ無視すれば良いだけのこと。そんなことに気を取られるほどに、暇人ではない。この心は、深遠な世界にあるのだ。それを知りたければ、……。入ってくるが良い。そっと足音を忍ばせて、覗き込めば良い。

 窓の外にはポプラがそびえ立ち、その葉を透ける太陽の光、そして遙か彼方の霞にかすむ山々が連なっている。何よりも、どこかにあるのだろう滝のゴーゴーという轟音が聞こえ、水しぶきがキラリキラリと光るさまが目に浮かぶ。そして小鳥のさえずりが…。窓の外には、生きた音があった。

 晴れた空では、どこまでも青い空があり、そこに一つ二つ……と流れる白い雲。やがて日が暮れるにつれ、赤く染まりゆく、全てのもの。雨の空では、濃淡の激しい灰色の雨ー白なのか、銀なのか、はたまた緑……色のあるような、ないような、絹糸の如き雨。

地には枯れ葉が積もり、その下では無数の虫たちが蠢いている。人々が忌み嫌う虫たちの生きる様。じめじめとした地中において、もぞもぞと蠢いている虫たち。しかし虫たちに罪はない。あるとすれば、創造主たる神だ! 
 神! 神! 創造主だと? 良かろう、神が人間を作り給うたとしよう。

 支配者として作り給うたのか? 
 この地において、まさしく支配者たれるのか? 
 神は、人間を忌み嫌っておられる。

 なぜなら、……、分からぬのか? ほんとうに分からぬのか? だとすれば、やはり神は忌み嫌っている。虫たちは、同種族を殺すことはない。

 そしてそんな中、何の前触れなく突如静寂を破ってー江戸幕府の前にその威厳を見せつけた黒船のドン! の如くに、地獄の断末魔と神々しき神々らの歓喜の声とが入り交じった悲鳴が、この地に飛び込んだ。ドアの無施錠に職員が気付いた時には、脱兎の如くに階段を駆け上がる影だけが見えた。そして直後に館内放送の声と共に、雄叫びともつかぬ声が大空に響いた。

 一瞬間、全てが止まった、凍りついた。時の流れでさえ止まった。四方を壁で閉ざされた世界から、全てが青空の下に移された。見渡す所には何もなくーまた何かが欲しいと思えばそこにあるような気もする。その世界は、一方では貴く気高い紫の世界であり、又一方では人間の持つ主我的という業火の世界であった。