小説・二十歳の日記  

はたちの詩(うた)という、詩から生まれた小説です。
私が二十歳になった時を出発点に、しています。
とは言っても、すみません、殆ど事実ではありません。
新聞記事やら、噂話やらを、元にしています。
でも、当時の自分の思いは込めました。
宜しかったら、感想をお聞かせ下さい。

 (序) 
  
僕の青春は、決して灰色だとは思わない。しかし、バラ色だとも思わない。結局、青春という”今”を、考えることがなかったわけだ。
だけど、そんな僕に「突然」という言葉でさえ、のろさを感じる程に突然、春が訪れた。あの瞬間、僕は灰色の青春であったことを意識し、バラ色であろうと、いやあるべきだと考えたことはない。
自分の人生に対し、傍観者として対処してきたこの二十年間。
人との交わりを煩わしいものとして、敬遠してきたこの二十年間。
「愛とは、与えること!」
信じられないような言葉を、僕は口走ってしまった。今でも思い浮かべられるんだ、くっきりと。その女(ひと)は黒い緞帳(どんちょう)の前に、居た。

どこからともともなく流れ来る歌声。心の奥底まで染み通りそうな美しい声と共に、スポットライトを身体いっぱいに浴びて現れた。
彼女は、祈るように全身全霊を打ち込んで歌う。派手な衣装をまとうでもなく、派手な振り付けをするでもなく、唯空(くう)を見つめて歌う。そしてその瞳はいつしか潤み始め、暗い波間でその妖しい美しさ|一服の絵としての美しさ|を、その為だけに光りを放つ夜光虫になった。
そして、さくらんぼのような唇から流れ出る声は、甘く、しかも軽やかだ。
時に母のように、時に姉のように、そして時に恋人のように。

無名の歌手だった。拍手もまばらの前座歌手に過ぎなかった。けれども僕は口走っていた。
「愛とは、与えること!」


  六月十日  (曇り)
もうダメだ!自分自身を嘲笑し、何もかもに感動を失った。自暴自棄に近いよ。何もかも放り出して、それこそ自由気ままに生きたいよ。
”自殺” 頭の中を駆け巡る。
そういえば、あの男はどうしているだろう?二度もの自殺未遂の末に、難しい病名の精神病と、内臓疾患の病名と、もう一つ何とかという病名を付け加えられて、保護された筈だ。
僕にはどうしてもわからない。確かに、現実と夢の区別が付かないようではあったょ。だけどこの僕だって、いや大なり小なり、話を面白くする為に誇張することはあるじゃないか。彼の場合、度が過ぎただけじゃないか。

星の流れが霧に閉ざされ、時の流れも止まった今夜、僕は君と歩いている。
・・・それだけで僕は幸せなのに、君は不満だという。そして口づけをせがむ。
触れ合うものは心だけでいい。肌の触れ合いが必ずしも、永遠にしてくれるものではない。それどころか、この僕には、タブー。
君に、ガラスのドレスを着せたい。ガラスの帽子にガラスの靴。きっと、素敵だろう!弱い月の光にきっと、七色の虹に輝くだろう。
どうして君は、夢に酔えないの?昨日を想うでもなく、今日を見るでもない。まして、明日のことではない。
”夢は、夢よ!”
その通りだ。だけど、君は嫌う。何故?
”ガラスは固いから、靴ずれするわよ!”
これが君の答え。君には、それを嫌がる僕が不思議だろう。

彼が病院に連れ去られる少し前のことだったよ、この話を聞いたのは。

クスリを飲み、次第に意識が薄れていく。手首の血管から血がドクドクと流れ出る。 おそらく、耳にまで届くだろうさ。そして、ガス栓からのシューッという吹き出す音を耳にしながら、僕は彼女と語り合う。
”ほら、こんなに血が流れ出て、・・きれいだぜ。”
”シューッだってさ。ピュッピュッと、断続的に吹き出せばもっと面白いのに。”
そんなことを、二人して話すんだょ。・・どうなんだろうね、その時セックスはするものだろうか。それとも、唯手を握りあって、じっと見つめているだけだろうか?・・・・・
今、悩んでいるんだ。

彼は、そんなことを真顔で僕に話すんだ。僕ときたら、そんな彼に羨望の眼差しを、向けていたような気がする。何て素敵な方法を思いつくのだろうって。
もっとも、正直なところ彼が本当に自殺を図るとは思ってもみなかったけどね。一度目の未遂、”量を間違えたのさ。”と言った。二度目には、家族や医師を罵ったらしい。その時の彼の形相、鬼気迫るといった具合らしい。
僕がお見舞いに行った折りは、前回と違って口数が少なかった。

人間、如何に生きるかを考えるにだよ、色々人は言う。けれども、そのどれもがこじつけだ。僕の結論は、こうだ。
如何に生きるかと考えるから駄目であって、如何に死ぬか―そこに至る迄の道程が大事だ―を考えれば、自ずと道も開けるはずだ。逆も又、真なり!だよ。
けれども、唯考えるだけでは駄目だ。本当に、向き合わなければ。

しかしお母さんの話では、内蔵疾患を苦にしていたとのことだ。一生を病人で過ごして私に迷惑をかける位なら、と自殺を図ったのです。この子は、あなたもご存じの通りとても気の優しい性格ですから、と。
そして又、こんな話も。
“健康であって欲しい。そう思いますょ、確かに。でもねぇ、いざこうなってみると、親としてはやっぱり生きてて欲しいんです。たとえベッドの中に居ても、やっぱり生きてて欲しいんです。それがあの子には伝わらなかったのか・・。それとも・・、これがあの子の復讐だったんでしょうか。母親であるあたしに対する、最後のそして最大の、復讐だったんでしょうか。”

或いは、お母さんの言葉が正しいのかもしれない。多分そうなのだろう。病のことが彼を苦しめ、精神的重圧となり、あの彼の言葉になったと思うよ。そしてその彼はもう、この世に居ないんだ。居ないんだょ、なぁ・・・


  
  六月十六日 (雨)
今は嫁がれた、高校時代の先輩の言葉を思い出した。
「あなたには、夢がないのね。」
文芸誌の発行で掲載してもらう作品を、読んで貰ったんだよ。その時の言葉だ。当時の先輩はすでに恋愛中で、卒業後すぐに結婚されたらしい。憧れていたんだ。
 
今日、二十歳になりました。そしてある意味、記念日になるかもしれない。会社から頂いた歌謡ショーのチケット。ファンというわけでもない、演歌歌手のショーを観てきた。良かった、ホント素敵だった。課長に、感謝、感謝!


  六月十八日  (晴れ)
あれ程に降り続いた雨も、昨夜の内にすっかり降り尽くしたらしく、眩しいばかりに太陽が輝いている。
今日という日は、まったく素晴らしい。何だか、周りのもの全てが輝いて見えた。何もかもが楽しい。道路のあちこちの水たまりの中に映っている、青空。石を蹴ると、ポチャン!と、音を立てて青空が歪んだ。

昨日までの僕、まるで僕ではないような・・・。いや、今日のこの僕が僕でないのかも。僕のことを口舌の人、と決めつけていた先輩でさえも、今日の僕に驚いていた。
これ程に楽しいものだとは。・・・けれども、結局片思いに過ぎない。唯単に、客席の中の一人にすぎない。いや、この僕の存在さえ知らないんだ。何てこった!
(一)

  六月三十日  (曇り)

決して恨みになどは思わない。それが当然だと思うんだ。
でも、悲しいんだ、情けないんだ。手紙=ファンレター?それともラブレター?=を出して、今日か明日かと待ち焦がれ、十日目の今日返事が来た。いや、手紙の軽さを怒っているんじゃない。三十枚近くに及んだ手紙に対する返事が、一枚の便箋に盛り込まれていた。そのことを怒っているんじゃない。手紙を書くことが苦手の人だろうさ。それはいい。

時候の挨拶に始まり、あの舞台の感動、そして彼女に対する激励。ここで止めておけばいいものを、ここで文通をしたいと言えばいいものを。
つい、少女雑誌に連載された漫画の内容をダラダラと書き綴ってしまった。確かに、無名の歌手が大スターになるまでの紆余曲折が描かれ、真心の大切さを高らかに謳(うた)い上げてはいた。けれども、現実とは余りにもかけ離れているだろう。第一”釈迦に説法”じゃないか。
それに何よりも、男たる僕が、少女雑誌を読んでいることからして・・・。

仕方ないさ、断られても。だけど、偏執狂と思われたのかもしれない。さも迷惑だ、とでもいうような文面。そんなんじゃない、断じて!純粋に、ファンになったんだ。応援したいんだ。

よし、もう一度だけ出してみよう。誤解されたままじゃイヤだ。誤解?・・・嘘を付け!


  七月一日  (雨?)
とうとう雨になった。ぐずついているとは思ったが・・・。梅雨なんだ、仕方ない。天気予報では、明日の筈だったのに。
だけど、雨の中の紫陽花はきれいだ。雨に打たれてる花を見てたら、今にも蝶々が飛びだしてきそうに思えた。白・紫・黄・・・、色んな色の花があって。皆がそれぞれに個性を持っているくせに、キチンと紫陽花の花になっている。面白い!

いいんだ、もう。すぐに返事をくれたんだ。もういいんだ。・・・・。
いいんだ、誤解がとけただけでも。別に強い願望でもなく、できれば・・・という気持ちだったんだから。
今夜はもの悲しい。断られたことがショックには違いないけれど、それよりも、独りよがりの夢に酔いすぎたことだ。・・・部屋の空気が重いせいもあるだろう。
無限の宇宙に、何かが覆い被さっている・・・ってか。

しかし、何のために手紙を書いた?あの人に、僕のことを”坊ちゃんですね”と、言わせる為なんかじゃなかった筈だ。
もっとも、こんな僕なんかと文通しても、何の面白みもない。話題といえば、小説のこと位だし。気の利いた言葉なんて、書けやしない。・・・だけど、答えてもらえなかったのが残念だ。
”歌っている時のあなたの心には、いったい何があるのだろう?”


どうして今日に限って雨なんだ!部屋の中まで、どしゃぶりだ。何もかもが歪んで見える、濡れて見える。・・・・・


  七月十五日  (曇り)
今夜も蒸し暑い。天気予報だと、明日は雨らしい。いい加減に、梅雨も終わってくれないかなぁ。

最近、ホントにつまらない毎日だ。何にも身が入らない。わかってるょ。こんなことじゃ駄目だと思うんだょ。いつだって自分を鼓舞してる。だけど・・・。
ベトナムの帰休兵の人たちはどんな気持ちだろう。束の間の休息を日本で過ごして、そして又戦場に帰って行く。同世代のアメリカの若者が、ベトナムの戦場で戦っている。この現実だよな。アメリカとベトコン、どちらに正義があるのか、僕にはわからないけど・・。
戦争は、イヤだな。

自作の一枚の絵を誉めてくれた人が、例え狂人だと告げられてもどうしても信じられなかった奴。信じたくないと言った奴。
僕だって、小説を誉めてくれた人が狂人だとは思いたくないし、よしんばそうだったとしても、きっと握手を求め、”万歳!”と叫ぶだろう。
                   *芥川龍之介著「沼地」のエピソードから


  七月十八日  (雨)
この雨、今日で三日目だ。ホントによく降る。梅雨の最後っ屁か?
だけど、どんなに降ろうと、もう晴れ晴れさ。

The moon shines bright,but dark in my heart! の、逆さ。

別にどうということはなく、唯何となくだよ。へへへ・・・。実はね、今日のこの雨に傘が無くてね、困ってたんだ。(小降りになったから 上がると思ったんだ。)で、雨宿りをしていたわけ。
そうなんだ!
「相合い傘で良かったら、どうぞ。」って、声をかけてくれたんだ。気さくな女性でさ、会社の事務員さんなんだ。すっごく話が弾んでね、楽しかった。僕自身、ビックリだよ。こんなに気楽に話ができるなんて。信じられないよ、ホント。でね、今度の日曜日、そう!明後日に映画を観ることになったので、ありまーす!
ちょっぴり不安ではあるけどね。どんな会話をしたらいいのか、わからないんだよ。
うーん、誰か教えてくれーえ!


  七月二十日  (曇り)
曇り空の今日。まるでこの僕の心そのものだ。

曇り空、いつか降るだろう雨を、大きな広がりのどこかに隠している。
いや、ひょっとして降らないのかもしれない・・・

今朝、今にも降り出しそうな空で、仕方なく傘を持って出たよ。えっ?相合い傘を期待したのかって?うーん、どうかな・・、ちょっとはあったかな・・。で、家路に着く迄の間、この傘の何と恨めしかったことか!折り畳み式の傘ならまだしも、親父譲りの古いコウモリ傘は、いかにも不恰好だ。
初めてのデートだというのに、彼女にも笑われた。
今夜は、もう寝る。


  八月一日  (晴れ)
僕は、文学を愛好する一人の青年だ。当初は、当然のごとく読者だった。今は、創作する側にまわっている。もちろん、少しは本も読んでいる。僕の小説狂いは、小学生の時に発する。担任の先生に、作文を誉められたのがきっかけだ。先生の、
”日記を書いてみなさい”という一言からの日記は今も続いている。

今日、水中見合いなるものを聞いた。アクアラングを背負っての見合いらしい。当然しゃべれない。身振り手振りでの、会話?海底にテーブルと椅子を置いているらしい。キチンと行儀良く座ってのことらしい。難しいだろう、それは。けれど、どんな意味があるのだろう。お遊びだろうか・・・。幻想的ではあるだろうが。
あぁ、だめだ。今夜も又、寝る!

八月三日  (晴れ)
大分落ち着いてきた、ような気がする。が、まだわからん。
一昨日、課長に叱られた。
“ミスが多すぎる!”
“気の緩みだ!”とも、言われた。僕だって人間です!と、言い返す気力もない。黙って項垂(うなだ)れていると、
“元気が無い!”と、また叱られた。そうなんだ、正直のところちっとも身が入らない。
不思議なもので、体調の良いときには何をやっても誉められる。多少のミスをしても、不可抗力だと言ってもらえる。しかし一旦歯車が狂うと、何をやっても駄目だ。もがけばもがく程、深みにはまっていく。

”一体、どうした?”って、聞くのかい。こっちが知りたいよ。彼女に傘のことで笑われたせいじゃない。この前のデートが、休日出勤でオシャカになったせいでもない。いや、少しはあるかも?
 
だめだ。どうにも走馬燈のようだ。グルグルと堂々巡りをして、いよいよ沈んで行く。

最近、ゲバルト活動の新聞記事をよく見かける。彼らの主張が正しいものかどうか、僕にはわからん。信念に基づいての行動は立派だ。しかし 独善的すぎる点は、残念だ。現実の生活に満足し得ない、血気にはやる若者が、ゲバルトという夢想的な境地の中でもがいているように見える。けれども、打ち込めるということは、羨ましい。 

*ゲバルト=(過激派学生などの行う)暴力行為。
(二)
 
  八月二十九日  (曇り)
八月も終わりの日曜日の今日、彼女に連絡を

取らなかったことが悔やまれる。同じ会社とはいえ、僕は現場で、彼女は事務所。殆ど顔を合わせない。連絡方法は、いつも彼女から。連絡メモを届けるふりをしてのこと。
最近はタイミングが悪く、いつも僕の傍に誰か居る。内緒の付き合いだからなぁ。僕としては、誰に知られても構わないけれど、彼女が嫌がる。やはり、年上だということを気にしているのか?それとも、僕なんかとの事を知られたくないのか。

僕のポケットの中には、千円札が二枚ある。少し、金持ちの気分だ。チューインガムも入っていた。もちろん、口に入れたょ。でも、空が生憎の曇り空のせいか、噛み心地が悪い。生暖かいコーラを飲んだ時の不快感だ。長くポケットに入れていたせいかも?

何の変わり映えもしない町並み―タバコ屋・八百屋・そしてパン屋。商店街の中心地の喫茶店にでも、行こうとしていたんだ。そんな時、後ろから僕を呼ぶ声が・・・・。えっ、彼女?まさか!と半信半疑に振り向く。
訝(いぶか)しげな表情だっただろう僕の目に、確かに彼女が見えた。ニッコリと満面に笑みを湛(たた)えて、彼女が駆け寄ってくる。今までの不快さもどこへやら、僕の顔はニヤけたと思う。

でもホンの少し早く出かけていたら、彼女に会えなかったかも?危ないところだったょ。あの喫茶店のことは、彼女は知らないもんな。そう考えると、ゾッとするよ。でも、今日のデートは最高に楽しかった。満足!
「智恵子抄」の映画が良かったこともあるけど、何だか、彼女との距離がグッと縮まったような気がする。ピッタリとくっついて、一心同体になったような気がするんだ。

途中、ふと盗み見した彼女のほゝが濡れていたんだ。大きな粒の涙が、音が聞こえでもするように、ツツーッとほゝを伝っていたんだ。僕自身が泣けそうだったから、嬉しい。

帰りが遅くなってしまったので、彼女を送った。でも、何度町内を回ったかなぁ。話が途切れそうになると、又新しい話題が出てくるんだ。おかげで、今夜は足の疼きで眠れそうにない。そうそう、夜空の星がまばたいて―光ったり消えたりして、まるで、星の女神様のウィンクのようだった。

何度、衝動にかられたろう。だけど一度の衝動に負けて、サヨナラになるのは嫌だ。グッとこらえた。
接吻・・・、あゝ!!
彼女の唇に触れる。柔らかい唇に触れる・・。そして、薄く唇が開き、震える歯が小さく音を立てあう。カチッ、カチッとね。その音に恥じらいを感じて、目を閉じたまま・・・。唯、触れ合ったまま。どうしょう、いつ離れていいものかわからない。そのまま・・・。
その内、息苦しさに耐え切れなくなり、鼻で息をしてしまうだろう。そしてその吐息に弾かれるように、どちらからともなく離れる。きっと、耳たぶまで真っ赤になっている彼女は可愛いさ。
そしてしっかりと抱き合って、今度は深く深くキスをする。お互いを強く感じ合う。

あぁあ!
今夜は、眠れそうにもない・・・


  九月一日  (雨)
今日は一日中、雨だ。別に嫌だとは思わない。唯、悲しいだけだ。

あゝ己は何(ど)うしても信じられない。たゞ、考へて、考へて、考へて、考へるだけだ。二郎、何うか己を信じられるようにしてくれ。      (夏目漱石著・「行人」より)

僕は彼女が好きだ。すごく好きだ。
会社の先輩から聞いた。彼女が、僕のことを馬鹿にしている、と。
「真面目なのネ。」
別れ際に呟いた彼女の言葉に、引っかかるものがあったけど、別にそれ程深くは考えなかった。僕自身がそう思っていたから。だけど、彼女の言う真面目と、僕のそれとは、違う意味のものだった。要するに、臆病者という、軽蔑の意味が、言葉の裏に潜んでいた。

何と言うことはない、映画館でそして帰り道にでも、手を握らなかったこと。別れ際にキスをしなかったからだという。

「まだ、子供ね。」

先輩は言う。今の女性にとってのキスは、友情の印のようなものだ、と。そして又二十歳の年齢でキスの経験が無いのは、逆に不健康だ、と。

僕は宣言する、僕は男だ!君は、わかってくれるよね。あの夜、キスをしたかったょ。だけど、ほんのちょっとの勇気が無かっただけだ。だって、付き合い始めてまだ日が浅いんだ。気心の知れていない相手に、そんな・・。いや、気持ちは通じ合っていたんだよな・・。そうか、やっぱり・・。勇気が足りなかった。けれど・・・。

一体全体、現代はどうなっているんだ。週刊誌は、フリーセックスだの アンチ処女時代だのと、書き立てているが、本当だろうか?

だとしたら、僕は前時代的人間だということか。封建的因習から脱け出せない・・・いや、勇気が無かっただけだ。

僕は、何の為に生きてる?
此れといった目的もなく生きてる?
確かに、”小説を書く”という夢はある。
だけど、小説家とは?それで生計を立てる?否、”売文の徒”にはなりたくない。・・・嘘をつけ!自信がないんだ。
いや違う。自分を裸にしてみたいんだ。
裸ぁ?裸になってどうなる?
風邪をひくのが関の山だろう。
肺炎にかかって死ぬ? あの彼のように。
いやいや、その途中で、蓑(みの)を着てしまうだろうに。


  九月八日  (曇り)

どうにもぐずついた天気が続く。今年の夏は、冷夏だそうだ。秋が早いとか。
何だか天気が、僕の感情に左右されるみたに思える。ま、偶然の一致だろう。大体、天気のことを気にするのは、楽しい時、若しくは悲しい時位のものだもんナ。

どうやら、先輩の話に少し誇張はあったものの、半分は当たっていた。やっぱり、物足りないということらしい。僕が年下であること、その為に彼女がリードしなければならなかったこと、疲れたということだった。グイグイと引っ張る男性が好みだということだ。
「冷却期間をおきましょう。」と言われたが、多分駄目だろう。
まあしかし、軽い火傷で済みそうだ。しばらくは落ち込むだろうが、その内時間が助けてくれるさ。・・・だけど、忘れ去る迄の間、どうしたらいい。・・とに角、忘れることだ。

何か、他のことを考えよう。

又ゝ最近、新聞紙上を賑わせているゲバルト学生。どうしたって言うんだろう。或論評で、著名な作家が冷笑していた。その作家を称して、”ファシスト”と叫んだことから議論になったとある。
作家曰くに、その学生は 姓はマルクス名はレーニンと、二人の人物を一まとめにしているとのこと。確か、中学時代に学んだ筈だ。レーニンは、トロッキー(だと記憶しているが)を暗殺することにより、独裁者となり恐怖政治を行った、と。マルクスは経済学者であり、ソ連の共産主義の根本が、ドイツ人マルクスの唱えた「マルクス主義」だというから面白い。

だめだ、やっぱり白々しい。いくら話題を変えても、頭の片隅に残っている。ポッカリと空いた空間は埋まらない。
それにしても、こうした場合に大人達はどうしてきたのだろう。まさか、こんな気持ちが僕だけ、ということはないだろう。


  九月十八日  (晴れ)
晴れ・曇り・雨・雪、他に無いの?無いだろうなぁ。
 
おゝ、神よ!

人を愛する時・・・、なぜ理性を失う?・・・・・しばらく、休もう。
(三) 

 十二月三日  (雪)
寒い朝だとは思っていたけど、まさか雨が雪に変わるなんて。初雪だ。
しかし驚いた。これが偶然というものだろうか。 でも、素敵な偶然だった。何とはなしに通りかった、あの市民会館。ベトベトの雪道のせいで、いつもと違う帰り道だった。その通用門で、たったひと時にせよ、僕にバラ色の夢を見せてくれたあの女性歌手に会えるとは。降りしきる雪の中、傘が無いらしく肩を震わせていた。

目が合ってしまった時、
「良かったら、入りませんか?」と、声をかけていた。自分でも信じられない程、自然に。僕にとっては、革命的なことだ。おそらく、耳たぶまで真っ赤になっていたろう。
その女性歌手は、僕のことを知るはずがない。あの、長文の手紙を書いた偏執狂だとは。

誰も彼女が歌手だとは知らないだろう。確かに雪の日には珍しい着物姿だった。前座で歌う歌手など、誰も覚えてはいない。
「今、迎えの者が来ますから。ご親切に、ありがとう。」
あぁ、この声だ。この声なんだょ、僕が惹(ひ)かれたのは。
その後、その女(ひと)は立ち去ろうとする僕を呼び止めてくれた。わかるかい?その時の僕の気持ち。天にも昇るとはこういうものだろう。確かに、暇つぶしの軽い気持ちだったかも知れないょ、でも、話ができたんだ。嬉しかった。もっとも、気が動転していてどんなお喋り(おしゃべり)をしたのか、あまり覚えていない。

芸能人の辛さなんかを話してもらえたような気がする。プライベートタイムがどうしても深夜になること。気の合う者の語らいや食事が、週刊誌では恋人として書かれてしまうこと。そんなことから事務所から止められてしまい、中々異性の友達ができない、と。もっとも、芸能人同士の場合は、お互い有名税だと思えるが、熱心なファンとの語らいの場を見つかるのが、一番辛いとか。
そうだ、最後に自分のことを話してくれた。
「でも、その点あたしなんかは楽なもの。歌手として認めてもらえていないから。スター歌手とご一緒させていただいても、一行も載らないのょ。付き人位にしか思われてないのネ。最近は、話し相手に引く手あまたなの。そのお陰で結構ステージに呼んで頂けるのょ。所詮、前座歌手だけれどね。」
あまりに自分を卑下したような口調だったから、つい口が滑ってしまい、僕があの長文の手紙の主だということを言ってしまった。最初、気まずい空気が流れたけれど、すぐに謝ってくれた。事務所の指示もあったけれど、やっぱり気味が悪かったって。

前座歌手如きの自分に、あれ程熱烈なファンレターが来るわけがないって。やはり、偏執狂だと思われていたらしい。あれ以上手紙が続くようなら、警察に届けたかもしれないって。最後は、二人して大笑いしたょ。
そうそう、チコという愛称を教えて貰った。幸子だから、チコだって。それに、住所も。事務所に手紙を送ると、警察沙汰になるかもしれないから。ヘッヘッヘーだ。

遠い道のりのはずが、すぐに着いたという感じだ。いや、交わるはずの無い道が突然繋がった、かな。もっと話をしていたかったけれど、迎えの車が来たから、終わりだ。握手してきたょ。冷たい手だったけれど、気さくな人だった。感激!

明日、少し離れたN市でショーがあるんだって。来てくれるなら、受付に話しておくからだってさ。そして六時には終わるから、お食事でもしましょうって。絶対に行くぞ!


  十二月四日  (晴れ)
昨日の雪も上がり、いい天気だった。会社を早退して、飛んで行ったよ。切符売り場で名前を言ったら、ニコニコして
「あぁ、従弟の方ね。」だってさ。無料で入れてくれた。少し不安だったから、お金は持っていったけどね。助かったぁ!
でもね、腹の立つステージだった。あんな酷い仕打ちを受けるなんて。
衣装替えの、ホンの数分間だけのことなのに。精一杯歌い上げている時、観客のざわめきは仕方のないことかも知れないとしても、さ。一曲の予定が、衣装替えに手間取ったらしく二曲目に入った(それはそれで、僕としては嬉しいけれど)。ところが急に出てきてそこで打ち切り。バンドが曲を変えてしまった。チコは深々と頭を下げてステージから消えた。

食事の最中、憤慨している僕に、優しく微笑んでいたチコだったょ。食事かい?もちろんおいしかった。一番のラーメンだった。チャーハンも食べたょ。それで驚いていた、その食べっぷりに。財布が心配だって、冗談も言われたりして。もう、最高!
嬉しいことに、この近くに来たら又一緒に食事しましょうってさ。


  十二月十五日  (曇り)
今日は、いい日だ。チコからの手紙が届いた。24日のイブの日、仕事がキャンセルになったから、こっちに来てくれるってさ。一緒にイブを過ごしましょう、と。
素晴らしい!のひと言だ。


  十二月二十四日  (晴れ)
何て辛い日だ。仕事、一体何だい?どうして仕事をする?生活の糧の為だったら、別に定職を持たなくてもいい。アルバイトでもいいじゃないか。
♪デカンショ、デカンショで、半年暮らす。あとの半年は、寝て暮らす。♪
 
大体、チコがいけないんだ。折角のイブだというのに、仕事をするなんて。しかも他県だなんて。それに最近は、ナイトクラブでの仕事を増やしたりして。酔っぱらい相手に、歌を歌っても仕方ないじゃないか。からまれたりもして・・・。

いや、わかってる。僕のわがままなんだ、チコには言えないことだ。君だからこそだ。
 
チコの休みは、平日ばかり。僕の休みは、日曜日。わかってはいた、時間が合わないことは。それを承知のことだった筈だ。いっそのこと、会社を辞めようか。チコに合わせようか・・。
この間、ホンのわずかな時間を共に過ごしはした。けれど、時間ばかりを気にしているチコは、嫌いだ。
「お正月はゆっくり会えるわよ。」そう言うチコ。
だけど、僕は正月にはこの町には居ないんだ。故郷に帰ってしまう。毎年、晦日におふくろが迎えに来る。といって、故郷に来てくれる筈もないチコ。僕だって、邪魔されたくない。
そして僕がこの町に帰ってくる頃には、チコはもう居ない。・・・どうしたものか。

そう言ったら、チコは困り顔をしくれるかい?それとも、ニッコリ笑って
「いいわよ、甘えてらっしゃい。」と、言うかい?
結局、不機嫌な顔ばかりを見せてしまった。きっと、嫌われただろう。わずかの時間を割いてくれたチコ。ごめんね、チコ。すぐに、手紙を出すよ、「ごめんなさい。」と。

後、五日で仕事も終わり。
(四)

  十二月二十九日  (晴れ)
ビックリした、まったく。半日で片づいた大掃除の後、先輩と世間話をしていたところへ、けたたましく鳴り響いた電話のベル。事務所はもう閉じていたから、現場の電話に回ってきたようだ。
「仕事納めです。誰もおりませんので、年が明けてからお掛け直しください。」
一気にまくしたてて、電話を切ろうとしたんだ。ところが、
”待って!”の声。チコ?と思ったけれど、まさかだよ。今日は、東北地方に行ってる筈だから。
だけど、チコだった。長距離電話をわざわざかけてくれた。何度も何度も、僕の名前を繰り返して確認してた。
”そうだよっ”て、答えたけれど、多分上ずった声だったんだろうなぁ、僕の声が。
突然の予定変更で、今すぐ来るって。到着が十時頃になるから、駅まで迎えに来てほしいって。短い会話だったけれど、いつものチコらしからぬ悲しそうな声だったなぁ。
今、九時十分過ぎだ、そろそろ出かけなくっちゃ。



  十二月三十日  (曇り)
今、僕が何処に居るか、わかるかい?長い付き合いだったけれど、いよいよ君ともお別れだ。もう、君に愚痴をこぼすこともなさそうだょ。
そんな悲しい顔をするなよ。それとも、楽になった?まだたくさんの白いページが残っているのが惜しい気もするけど、君だって、君の愚痴を書きたいだろうから、その為に残しておくよ。

だけど、訳もわからぬままに君と別れたんじゃ、君も変な気持ちだろうから、少し説明しょうか。そして、本日をもって書き納めだ。
長い間、日記君、ご苦労様でした。
 
昨夜、十時少し前に駅に着いたんだ。そうしたら、改札口で一人寒そうに震えているチコを見つけたんだ。間に合わないと思っていた汽車に、間一髪で滑り込みセーフ。それで、三十分ほど早く着いたんだって。
僕は十時だと思って、ゆっくり出たろう。三十分も待たせちゃったょ。チコ、怒ってはいなかったけど、やっぱり不機嫌だった。でもね、すぐに機嫌を直してくれた。
 
駅前の屋台で、ラーメンを食べた。それからどうしたと思う?ジャ、ジャーン!
チコがね、この町にアパートを借りていたんだ。僕がそこに居てもいいんだって。電話を引いたから、いつでも話ができるんだ。へっへへー!
でね、そのままアパートに直行。ところが、着いた途端にチコはダウン!疲れたんだろうな、ヘナヘナと座り込んだょ。ホント、へなへな、と。それで、水をすぐに渡した。これじゃ、どっちがお客か、わかんないよ。ま、いいか、僕の方がいつもこの部屋に居ることだし。僕のアパートのようなものだから。そうなんだ、引っ越しておいでって、さ。
それから、チコの希望通りに、ベッドに運んだ。抱き上げる力はないから、引きずるようにしてね。重いんだよ、チコ。そう言ったら、怒ったけれどね。
おいおい、変なことはしてないよ。正直、初めての女性の部屋だろう、緊張したぁ。まだ家具類は無いけれど、ステレオ・テープデッキ・ギター、そしてレコードの山だ。さすが、歌手だね。そう言えば、楽譜もスピーカーの上に山積みだった。
だけどひどいよな、隠してるんだから。十日位前なんだって、ここに入ったのは。言ってくれれば手伝ったのに。驚かすつもりだったって、年明けに。
 
帰らなくちゃと思って、チコの寝顔をのぞき込んだよ。すごく感動した。だって、綺麗な寝顔だったもん。それでね”サヨナラ”って、小さく声をかけた。そーっと、ドアを開けようとしたら、後ろから天使の声。
「あら、帰るの?もう遅いから、泊まっていったら?」って。
「でも・・」って、逡巡(しゅんじゅん)したら
「あら、いいじゃないの。それともぉ、だれかが待っているのかなぁ。」だって。
一瞬、おふくろの顔が浮かんだよ。明日迎えに来るだろう。それ迄に帰ればいいかって、帰るのを止めたわけだ。
そうそう、チコがすごく気にしてる。いつも君を持ち歩いているだろう、だから。見たいと言われても、君だけはチコにも見せられない。今、後ろのチコから隠すようにして書いてるんだょ。
ピッタリとくっついてくるチコの、ほのかなというのかな、包み込まれるような素敵な香に、体が熱くなった。安心しろよ、見せなかったから。

だけど、今日で君ともお別れだ。長い付き合いだったけれどね。十年かな、もう。
本当にありがとう、今まで。そして、ゆっくりと休んでください。ご苦労様でした。
(五)

二月十日  (雪)
冷たい雪だった。風も冷たかった。けれども、外の方がまだ暖かい。
わかっているよ、君の言いたいのは。あれ程君に約束したのに、結局戻って来てしまった。わずか四十日ちょっとだけど、耐えられなくなったんだ。仕方ないんだ・・・
 
チコと別れたのは、正月休みの後だったょ。その後、一ヶ月余我慢した。耐えたんだ。じっくりと、お互いの事を考え続けたけれど、どうしても駄目なんだ。
いや、決して嫌いになったんじゃない。今でもすごく好きだし、会いたい。だけど、駄目だった。耐えられないんだょ。僕が子供なのかもしれない。僕のエゴかもしれない・・・。
今は、自分自身が身の毛もよだつほど嫌いだ。これ程の嫌悪感は初めてだ。今夜は、君に全部話すつもりだ。わかっている。所詮、君は

日記であり、僕の一方的な告白であり、単なる愚痴にしか過ぎないってことは。そうとわかってても・・・・・

あの夜チコは、僕をベッドに寝かせてくれた。チコは、ごろ寝でいいって聞かない。慣れてるからって。僕は、興奮気味だったこともあるけど、何度も起きたよ。
チコは、どういうのかな、スヤスヤと眠っていた。習性なんだってさ。
「いつもは汽車の中で眠るの、宿泊代も馬鹿にならないから。」
スター歌手でもそうらしい。もっとも、倹約の為ではなく時間が取れないということ。

朝、七時頃に目が覚めた。チコはもう起きていた。
”おはよう!”って、笑いかけてくれた。とってもすがすがしそうだった。チコの用意してくれた朝食、パンとコーヒーだったけど、すごくおいしかった。食事の後、すぐにアパートに戻った。管理人のおばさんに書き置きを預けて、チコのアパートにすぐ戻った。
嫌がるチコと一緒に大掃除をしたよ。夕方近くに買い物に出かけて、
「弟さんと一緒の買い物?仲がいいのね。」だって。
「久しぶりに作るから、味の保証はないわよ。」って言うだけのことはあって、確かにおいしくはなかった。けど、楽しかった。

だんだん気が重くなってきてね、チコが心配してた。
”そんなに不味かった?”って。で、チコに話した。毎年、おふくろのお迎えで実家で新年を過ごしていること。悲しそうな顔をしてくれるかと思ったけど、そうでもなかった。ショック!

「今年は帰らない!もう、親離れする!」と、宣言した。嬉しそうな顔をしてくれたけど、すぐに
「やっぱり駄目ょ、帰りなさい。」
 
名残りおしかったけど、とりあえずアパートに戻った。今年は帰らない!って言うつもりで。道々、その理由を考えたけれど、なかなか妙案がでない。結局、先輩と一緒に初詣に行くということにした。
いざアパートの灯りを見たら、何だか部屋に行くのがおっくうになった。
「今年の正月は、帰れないかもしれない。今夜も戻れない。」と、書き置きしたんだ。
結局、そのままチコのアパートに行くことにした。おふくろに会ったら、絶対帰ることになるような気がしたんだ。おふくろの涙に弱いんだょ、僕は。

ところが、チコ居ないんだ。寒いし、足も疲れたしで、ドアの前にしゃみがみこんでた。後で考えれば、管理人さんに鍵をもらって、中で待っていれば良かったょ。従弟です、と紹介してくれていたから。
どの位待ったかなぁ、とにかく長く感じた。とにかく寒かった。僕のアパートに戻ろうかとも考えたけれど、おふくろに連れ戻されるだろうしさ。じっと我慢した。
今にして思えば、あの時に帰っていれば・・。今の僕じゃない筈だ。けど、あの時は、今離れたら、一生駄目になりそうに思えたんだ。

暗い顔をして歩いてくるチコを見たとき、ボロボロ涙がこぼれた。母親にはぐれて泣いている子供みたいに。母親が見つけてくれると、子供って、どうしてだかもっと泣き出すじゃないか。あの時の僕がそうだった。止まらないんだ、涙が。

チコも、
「ごめんね、ごめんね。」って、泣き出した。しっかりと抱いてくれるチコの胸で泣きじゃくったょ。
しゃくりながら、
「おふくろが来てるからアパートに戻れない」と言ったょ。
チコは、
「わかったわ。だからもう泣かないで。」そう言って、背中をさすってくれた。

あの時チコが泣いたことを、僕の涙につられてのものだとばかり思っていたけど、ホントは違っていた。勿論、多少はあるだろうけれど、引き金だったんだ。
あの長距離電話の時に気が付くべきだった。駄目な男だょ、ホント。
チコは、仕事をすっぽかしてしまったんだ。僕に会いたかったから?うん、少しはそれもあるかも・・・。本当の理由は、後でわかった。

でその夜、優しいチコの言葉に促されて、チコを抱いた。というより、抱いてもらった。暖かいチコの胸の中で、気持ちよく眠った。おふくろの胸で眠ったような感じだ。えっ?何もないよ。唯、眠っただけだよ、ほんとに。おっぱいには触ったけどね。

大晦日の夜、というより元旦の早朝だった、チコに男にしてもらったのは。益々、チコが好きになった。だけど、そのことが・・・
二日の朝だった。急にドアを激しく叩く音がして、チコの顔が強張った。隠れようとした僕に、
”そのままで”と目で言うと、チコはドアの外に出た。何だか異様な雰囲気だった。
「やっぱりか!」激しい声に、僕、体が硬直した。
低いチコの声は聞こえなかったけど、断片的に相手の声は聞こえてきた。耳を塞ぎたくなる話だった。興行主との約束事を破ったとか、その為に、今年からの興業に支障をきたす、とか。

チコがそのことを話してくれたのは、三日の夜だった。その日は、一人になりたいというチコの希望通りに、アパートに戻ったんだ。おふくろの置き手紙があった。

辛かったょ、チコの話は。どうしようもないやりきれなさ、憤り、そんなものが渦巻いた。全てがそうではないらしいけれど、興行主の力というものは凄いものらしい。どんな無理難題も聞かされるらしい。といって、事務所としても要求全てを飲むわけにはいかない。
その要求で一番多いのが、一夜妻らしい。

といって、これから売り出す歌手にそんなことは、させられない。そこで、代役が必要らしい。それが、チコの役回りだった。

ショックだった。天地がひっくり返る、そんな感じだった。何も言えなかった。だけど、許せなかった。興行主も、事務所も、そしてチコも。どうして愛情もないのに・・・それが仕事だなんて、ひどすぎる。まるで、売春婦じゃないか・・・。 
 
そうしないと、若い歌手が可哀相だという。じゃ、自分はどうなんだ。可哀相じゃないのか。チコのデビュー当時も、そうやって助けられたというのかい?でも、どうしてチコなんだい・・・。嫌だょ、そんなの。チコだって嫌だったんだろう、だから逃げ出したんだ。
「やめちゃえ、そんなことなら。」勿論、言ったよ。だけど、悲しそうな目で言うんだ。

「歌が好きなの。どんな形であれ、歌っていたいの。」
「僕はどうなるんだ、僕は。チコが大好きな僕は。」
暫く、困った顔をしていたょ、チコは。一言、
「ごめんね。」
頭の中が、グチャグチャになった。僕の大好きなチコが、他の誰かに・・・。気が狂いそうだった。涙が、又、ボロボロ流れてきた。悲しかった、腹が立った。興行主に、事務所に、チコに、そして自分にも。何も出来ない自分に腹が立った。
チコが僕を抱いてくれた。しっかりと抱きしめて、何回も
”ごめんね。”って、言った。
僕はたまらなくなって、チコを突き飛ばしてしまった。
”汚い!”
”不潔だ!”

そんな言葉を口走ったような気がする。今思えば、悪いことをしたと思うょ。チコの立場も考えずに。
いや、納得したわけじゃない。だけど、僕がどうこう言えることじゃなかった。

今日、チコのアパートに行ってみた。居なかった・・・。帰ろうとしたら、管理人のおばさんに呼び止められて、手紙をもらった。
「ごめんね。ホントにごめんね。あなたの純真な気持ちに触れられて、嬉しかった。どこかで私を見かけたら、又声をかけてね。お友達として、又ラーメンを食ようね。                    チコ 」

辛いよ、とっても。好きだ、すごく好きだ。『愛』がどんなものか、まだわからない。
ひょっとして、許すことが愛情なのかもしれない。でも、今の僕には無理だ。

もっと大人になったら、許せることなのかもしれない・・・
おふくろの手紙の中に、あった。

―人間というものは、いくつかの暗いトンネルをくぐり抜けて、大人になっていくのです。短いトンネルもあります。明るいトンネルもあります。でも、暗く長いトンネルもあります。
どうしても一人では、そのトンネルを脱け出られないと思ったら、帰ってきなさい。
お母さんの所に帰ってきなさい。みんな、待っているからね。―

疲れた、とにかく疲れた。
初めてだね、こんなに長く君に語ったのは。
今は、唯眠りたい。何もかも忘れて・・・。
忘れて・・・?又、時が癒してくれるだろうか・・・。

少し前に話したね。忘れるまで、どうしたらいい?・・・。又、言いそうだ。

今度は、全身火傷だ。心までも・・・・・、帰ろうかな。
終り