第一章 幼名は、牛若丸  
 (序)

 はてさて。
 今日もまたあの小童(こわっぱ)めが、めそめそと泣いておるわ。詮なきことかもしれぬが、哀れではある。源氏の血を継いでしまったが故に、まだ数えの十一と言うのに親元を離れねばならぬとは。哀れと言えば哀れよ。なれどこれも運命(さだめ)なれば、致し方のなきことか。にしても、その女子と見紛うばかりの顔立ちが、この先どのような道を辿らせることか。

 鞍馬の寺においての、この有様。女人禁制の地なれば、稚児(ちご)を所望するも仕方なき仕儀かの。ほれほれ、隠れ泣きておる遮那王に懸想する者が、またひとり現れよった。うん? 赤ら顔のこの男、はて……面妖な顔つきじゃが。うんうん、この者が、藤原秀衡が元に泣きついた南蛮人か。宗との貿易を独占しておる平清盛は、相手をせなんだとみえる。まあのう、平泉の藤原氏に目を付けるとは、この商人の目も確かじゃろうが。

 しかし秀衡とて、藤原氏を守らねばならぬ。今ここでポルトガルとの貿易を致せば、間違いなく清盛に詰問されるであろう。そのような危険を冒してまではせぬまいて。しかし狡猾な男よ、秀衡も。
「伊豆の、頼朝殿に近づいてみよ」
 この後、平氏と事を構えるは源氏とみてのことか。頼朝が我慢も、そろそろ限界とみたようじゃの。

 まさに狐と狸の化かし合いかの。
「京の鞍馬寺に、牛若丸という異母弟がいる。その者を一人前の武者にしてくれぬか」
 頼朝め、南蛮人の願いに答えることなく、己の都合を押しつけよった。しかしさすが商人じゃ。
「頼朝様のおことばは、神のおことばにございます。かならずや立派な武者に育てあげ、平氏打倒の先頭を切られるように致しましょう」などと、返しおったわ。

 にしても、なにゆえに牛若なのか。同じ疑念を、この商人も抱きおった。
「頼朝さま。他にも弟君はおられますのに、なにゆえの牛若丸さまなので」
 頼朝の奴
「知らぬで良い。それとも、やれぬと申すか!」
 と、一喝しよった。
 平身低頭の南蛮人であったが、頼朝め、笑みを湛えておったわ。何やら含むところがあるらしい。この儂にも分からぬこととは、底の知れぬ男じゃて。

 さあて、さて。
 それでは数奇な運命を辿りおった、牛若丸こと源義経が話をいたそうかの。儂か? 知りたいのか、儂を。ならば、名乗ろうかの。儂は、鞍馬山の奥の僧正が谷に住む、大天狗じゃ。


(一)

 牛若丸が生まれた夜、月は半月ほどに欠けておった。ところが牛若丸の「おぎゃあ!」という産声が響きわたったとたんに、満月になったと大騒ぎとなった。月ですら牛若丸の誕生を見届けたかったのであろうと、屋敷の下人どもが噂した。その真偽の程はじゃと? ふうむ、たしかにあり得べからざることではあろう。ましかし、物語としてはの、欠けておった月が満月になる、その方が面白かろうて。
 おうおう、兄たちがやってきたぞ。「男子(おのこ)じゃ、男子じゃ」とはしゃいでおるわ。はて、義朝はどこじゃ? 知らせは届いておるじゃろうろうに……。子だくさんの義朝では、さほどの感も湧かぬかの。おゝ、儂としたことが。おった、おったわ。もうすでに常磐御前の枕元におるではないか。

「でかした、でかしたぞ。よう男児を産んでくれた。これで我が家も盤石ぞ。それにしても、おなごと見まごう顔立ちじゃ。どうじゃ、この愛くるしさは。おうお、口をすぼめたぞ、あくびをしたぞ。また、口をすぼめおったわ。うんうん、可愛いのお。おお、今度はわしの指を握っておるわ。なんと力の強いことよ。指がつぶれそうじゃ。ハハハ、ハハハ。笑っておるぞ、笑っておるぞ」