蒼い恋慕 〜ブルー・れいでぃ〜

(一)腹立たしいもの

見上げる空のどこにも星はなく、月もない。
すき間なくおおいかぶさる、くもくもくも。
なん層にもかさなる雲からは、今にもぽつりぽつりと雨が降りそうだ。
少年の心内をうつしだしている空もようだ。
一点の晴れ間もないそのやみぞら――一点の曇りもないその闇空のごとくに、少年のこころは沈みきっていた。

どこからともなく、静かにひと筋の糸となって降るあめ、少年は好きだった。
きっても切っても、それは糸としてつらなる。
そして次には、ボトリボトリと水滴となっている。
そしてまた、糸のいろだ。
トウメイであるはずなのに、白となりあるいはぎん色にかがやく。
赤になり青になることもある。
あたりが発する光をからだ全体で受けとめ、それに浴されながらも、それ自体が美しいということが良い。
そうおもう、少年だった。

しかし今夜の少年には、なにもかもが腹立たしかった。
ふりそうで降らない雨、少年には腹立たしい。
そして雨がふりだ出したとしたら……やはりはらだたしく感じるだろう。
まとわりついている湿りけが、少年の衣をおもくする。
じとじとと攻めたてるしめり気が、少年のからだを重くする。

やみぞらが腹立たしい。
月の出ていないことがはらだたしい。
星がまばたいていないことが気にさわった。
そしてこの闇空の下において、目映いばかりのネオンサインのあふれる街。
つきあかりを拒否するがごとくのネオンサイン。
風流ふぜいのないことがあたりまえの、この歓楽街。
それが腹立たしい。

色とりどりの華をさかせるネオンサイン。
赤あり紺あり緑あり、はては黄ありのネオンサイン。
少年のこころの憂鬱さにくらべて、あまりに華でありすぎる。
それに染まらぬ、そのなかに溶け込めぬおのれが、少年ははらだたしかった。
良い子であり過ぎた、己の過去を忌まわしく感じている。
優等生のおのれが腹立たしかった。




(二)不安だった

川のなかに投げ込まれた石でもって波紋をよんだとしても、そのあとにくる平穏な水面をかんがえるとき、不安だった。
このかいらくの巣である街にたった独りでいることが、そこに溶けこめないことが、なによりも不安だった。
そしてそのふあんは、うろうろとうろつく野良犬が出現すれば、少年の独歩のいみが跡形もなくきえさるかと思える不安だった。

しかし幸か不幸か、この街には、はらをすかせた狼はいても残飯をあさる豚はいても、野良犬はいない。
まして少年はいない。
同世代の少年たちに、お子ちゃまとやゆされる少年はいない。
どんなに大人を演じても、けっして認めてはくれない。
どんなに大人の型――タバコ・さけとすすでも、お子ちゃまと揶揄されてしまう。

濃茶のストレッチズボンにのうちゃのコール天のスポーツシャツ、そしてうす茶のコール天のブレザー。
くつも濃茶のスウェード地と、茶色がおとなのシンボルだとばかりに全身を茶系色で統一した。
ラフなスタイルにと気をつかい、シャツの上ボタン二つをはずしもした。
それが大人のスタイルだと信じて。

いかにも遊びなれた漢と演じるべく――そのじつ、遊び人の表情を知らないけれども――口を真一文字にむすんでいる。
ニヤけた顔にならぬようにと気をつけながらも、うすわらいを浮かべた表情をとかんがえている。
そして、眉をひそめて“ふん”と鼻をならすことを忘れぬようにしている。

ときおり、店のまえにたむろするホステスが少年をからかう。
「ねえ、ボーヤはもうねるじかんでしょ」
少年はできるだけ平静をたもちながら、口をとがらせて、「チッチッチッ」。
そして、手を二度よこに振る。
二度でなければならぬ、と決めている。
銀幕のアクションスターがスクリーンで見せた仕種が、目にやきついている。 




(三)滑稽だった

意固地なまでに、かたくなな表情でとおり過ぎる。
それはいかにも滑稽だった。
少年をお子ちゃまとよぶ級友たちに見られたならば、
「お子ちゃま、お子ちゃま」
と、また囃したてられるだろう。

よっぱらいが少年をからかいつつ、すれ違っていく。
「おにいさん、こんやはだれをなかせるつもりだい?」
しかし少年はそれを、遊び人とみられている証拠だとほくそえむ。

少年の足が、おお通りからうら通りへと向く。
細長いビルがたちならび、バーやらスナックやらの看板が目に入る。
そしてその中のひとつのビルで止まった。
濃茶のガラス戸で、取っ手がにぶい銀色に光っている。
そしてアクセント的に右の上部に、小さくかがみのように反射する銀文字で[パブ・深海魚]とある。

少年の心が、期待に大きくふくらむ。少年の手がドアをおす。
そこは、光と音が調和よく構成された世界への入り口だ。
まず赤いふちどりがされた漆黒のビロード地のまくが、少年を迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
慇懃に礼をしながら黒服の男が声をかけてきた。




(四)陶酔する

入場料を支払ってそれからはじめて、幻想の世界へと入ることができる。
そして二重合わせのまくの間を抜けて、ミラーボールから発せられる色とりどりの光線の洗礼を受ける。
ここでたじろぐことなく、少年は歩を進める。
黒服の男は幕の外からは中に入らない。
ここには二度目となる少年は、迷うことなくカウンターへと向かう。

「いらっしゃい!」
バーテンの声が、少年の耳に心地良い。
常連客を迎えるが如きの声掛けが嬉しい少年だ。
といって、初めての時にも同じように声掛けがあったけれども。

「どうも」
カウンターの隅に進む。
いかにも常連客が座る席の筈だと、少年は考えている。
しかし今夜は先客がいる。
ブランデーらしき、大きなグラスを傾けている女がいる。
ひとつふたつ席を空けてと考えた少年に、バーテンが言う。
「すみませんね、お客さん。
女性のおとなりで良いですか? 
こんやは満員になりそうなんで」

(こんやはがんばりなよ)。
バーテンダーのこころの声がする。






(五)コークハイ

ドギマギしながらも、
「失礼します」
と女に声を掛けて座る少年だ。
しかし女からは、何の反応もない。
壁に寄りかかりながら、目を閉じている。
眠っているわけではないようだ。
かすかに指が動いている。

「何にします?」
「コークハイ、ください」
「はいよ! コークハイ、ね」

突然、女の目が開いた。
そして、軽蔑のまなざしを少年に向けた。
“コークハイですって! ふん、お子ちゃまね”
少年の耳に、女の声が聞こえたような気がした。
しかし少年は無視する。

差し出されたコークハイを半分ほど飲み込むと、ジンと快い刺激が喉を襲う。
ゆっくりとグラスをカウンターに置くと、耳に入り込んでくるバンド演奏に聞き入る。
そしてそのジャズ演奏に、身を委ねる。
少年の体に染み入ってくる生のジャズに、次第に陶酔していく。





(六)ジャズ そして ズージャ

そしてそのジャズが、少年の手足を動かしはじめる。
演奏に合わせて、ちいさな動きからしだいに大きく体が波打ちはじめる。
その様はまさしく、猿回しの太鼓に踊らされる猿のようにぎこちない。
それでも、目を閉じて聞き入る少年は、大人の少年がそこにいると思っている。

正直、少年はジャズを知らない。
聞く機会もなかった。
年上の、大人たちの会話の中で飛び交うズージャということば。
カタカナ文字の名前。
少年を取り囲むのは、大人の歌う歌謡曲だ。
しかしジャズが黒人の心の歌であるかぎり、おなじく虐げられた者にひびくなにかがある筈と、少年の期待は大きかった。

隣の女が少年に声をかける。
少年は、さもジャズへの陶酔の妨げだと言わぬばかりに不機嫌にこたえる。
媚びるような目線で、少年に話しかける女。
少年がタバコを口にすると、すぐさま火を点ける女。
至極当然と言った風に受ける無表情の少年。
ゆっくりと深く吸い込み、ゆったりと吐き出していく。
その煙の中の女に、少年ははじめて笑みを投げかける――ポツリポツリ……とうとう雨が降りだした。
巡らせていた夢想を、なんの前ぶれもなく破られた少年のこころは泣いていた。

おもい扉を押して、幻想の世界へとはいる。
光と音が暴力的に支配する世界、色とりどりの光がミラーボールから発せられている。
激しい音が、壁と言わず天井にそして床に、激しく叩きつけられている。



(七)シャウト、シャウト! 

“バババ、ドンドドドドン!”
“チキチョン、チキチキチキチョン、チョン!”
“ブンバンバンブンブンブンバン!”
“ティーヴイィィ、ディーー、チューン、ティティーー!”
“あの娘が、あのこが、云ったのさー!”

とびら扉を開けたとたんに、少年の耳に飛び込んできた。
少年には、騒音としか聞こえない。
ロック音楽と称されて、同年代の少年たちが狂喜している。
しかし少年には、どうしても異質な音楽だった。
シャウト、シャウト! と歌うが、大声で叫ぶことになんの意味があるというのか。

バズトーンと称される重低音が、お腹にズンズンと響く、そしてひびく。
ピックで弾くはずのギターで、
“チューン、ティティーー!”
という音を出すのが理解できない。
「大人のジョーシキは俺たちのヒジョーシキ! 俺たちのノーマルは大人のアブノーマル!」
とボーカルがうそぶく。
少年には上すべりに聞こえる歌詞が、持てはやされる世界へ。
“Wellcome to Rock’n Roll!”

そこには少年の思い巡らせた世界はない。
色とりどりの光を発するミラーボール、壁と言わず床そして天井に容赦なく叩きつける強烈な光。
それが、もうもうと立ち込めるタバコの煙に取って代わられている。
その煙に色があり、赤、青、そして白とさまざまな色だった。
しかし濁った色でしかなかった。
そして光ではなく、色でしかない。
少年の心には投影するもののない、色だった。



(八)黒服

 すこしの間、己の夢想とのあまりの落差に立ちすくんでしまった。
 戸惑いの中でも、容赦なく現実がおそいくる。
「お客さん。ここでチケットをお求めください。一杯の飲料代も含まれています。
追加の場合は、黒服にその旨お伝えください」
「えぇっと、それじゃ…。コーラをひとつ……」
「ご注文はお席に着かれてからお願いします」

 常連客をよそおおうとした少年。
 顔を真っ赤にして、チケットを手にして、キョロキョロと見まわす。
少年の心が告げる。“カウンターだ、カウンターの隅っこに行け!”。しかし、少年の足は動かない。
 黒服が少年の前に現れた。
「お客さん、こちらにどうぞ。お連れさまはいらっしゃいますか?」
「い、いえ。こんやは一人です。この間は……」

 以前に友人に連れられて来たのだと言いかけて、ことばが詰まってしまった。
初見の客だと見抜かれていることを、認めざるをえない少年だ。
そもそもが、二度目三度目が、どうだというのか。
つい苦笑いをしてしまう。
「申し訳ありませんが、おひとりさまですとカウンター席をお願いしていますが」
「いいです、そこで。はしが空いていれば、はじっこでいいです」



(九)グリーンのロングベスト

 ホールは、若者たちで一杯だった。
対になって、踊りに興じている。
しかしその誰もが、視線を合わせようとはしていない。
互いの斜め先に視線を置いて、踊りに興じている。
これも又、少年の思い描くものではなかった。
少年の観たアメリカ映画では、じっと互いの目を見詰め合っている。
時に微笑みを貰い、そして微笑みを返す。
しかしこの場では、苦痛に歪んだ表情を見せ合っている。
羨望、軽蔑、そして憎悪が睨みを利かせている。
それも又、愛の起源ではあろう。

 バンドは、一段高いステージの上にいる。
激しく体をくねらせながらプレイしている。
そのステージの下段に、何のためのものか判然としない鏡が貼られている。
その中で若者たちが、やはり体をくねらせている。
その鏡から視線を外して壁に移る。
そこには、種々のグループサウンズのポスターが貼ってある。
べたべたと貼り付けてある。
そしてその下には、熱狂的ファンなのだろうか、殴り書きがある。
大半が、‘○○命!’であり、シンプルに‘好き!’もあった。



(十)ポスター

 もう一度バンドに目を向けると、スポットライトが激しく動いている。
そのステージのバックに、等身大らしきポスターが4枚貼ってある。
黒のマントに身をつつんだ、ザ・ビートルズだ。
神として崇められている、ザ・ビートルズが、そこにいた。
「リンゴの半テンポずらすリズム感が良いんだ」
「ジョン・レノンのシャウトは絶品だ」
「ポールだって、光ってる」

 4人組のはずなのに、三人の名が飛び交う。
ジョージ・ハリスンの名が出てこない。
さらには、リンゴ・ポールと呼び合うのに、ジョン・レノンだけがフルネームだった。
しかし少年は興味を示さない。
少年は、ビートルズが嫌いだった。少年が嫌うその理由は単純だ。

彼らの楽曲が嫌いということではない。
その証拠に、“Help! Help!”と口ずさんでいる。
ときに、“Yellow Submarine”と口ずさむ。
学校の廊下で、小さなちいさな声で、つぶやくように歌っている。
とたんに、「やめろ、やめろ!」「おまえが歌うと、くさっちまうんだよ」と、あたまを小突かれる。



(十一)徒党

ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、そしてジョージ・ハリスン。
4人組だからだ。
徒党をくんでいる、それが嫌う理由だった。
そう、そうなのだ。
うしろからあたまを小突く、少年を苦しめているのが、4人組だからだ。

さらに、プレスリーとビートルズが会ったおりに、プレスリーの「君たちのレコードは全部もってるよ」と言うと、ジョンが「ぼくはあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と返したことに、礼儀知らずだと憤慨する少年だった。
「エルヴィスがいなければ今の自分はいない」。
そんな謝罪のことばを伝えていると聞いたけれども、少年の怒りはおさまらなかった。

少年のお気に入りはプレスリーであり、アニマルズだった。
“That's All Right”と連呼し、“監獄ロック”ではトイレの中で腰をくねらせたりした。
そして「ラスヴェガス万才」の映画に興奮し、共演した女優のアン・マーグレットに恋をした。
はじめて買った洋盤の“朝日の当たる家”に聞きほれている少年だ。
“Well with one foot on the platform And the other foot on the train”のフレーズに涙する少年でもあった。




(十二)ミニスカート

 曲が変わった。ステージの上で、ボーカルが飛び上がっている。
「それじゃ、リクエストにこたえていくぜ! 
Let's go , Twist & Shout!」
 思いもかけぬ曲名が告げられた。
ステージに体を向けた少年の目に、ホール中央でひざを落として体を左右にフリフリする若者たちが目に入った。
“あれが、Twistと呼ばれる踊りなんだ”

“バンバン、ババババンバンバババ、バババジャーン!”
“ヴィー、ヴィヴィヴィー、ティーピーヴィピーティーン!”
“チャキチャキ、チャチャチャキー!”
“ブンブン、ボンボンブンボンブンボン、ブブブ、ボボボン!”

 髪を振り乱しての女がいて、くわえタバコに目をしかめる男も。
シャツの袖口が青白く光り、激しく左右に。
落下傘スカートの裾をなびかせる女がいれば、皆がしゃがみこむ中で躊躇しているミニスカートの女がいる。
二階のボックス席をあてがわれた少年は、彼らの踊りを見おろしていた。
いくぶん神経も慣れはじめ、耳も騒音と感じなくなっていた。
しかし、思いえがいた世界との落差に失望して、ここに足を踏みいれた理由を忘れてしまった。




(十二)キャハハハ

 少年の上げた手に気付いた黒服が、コーラの注文を受け付けた。
ここには階下の光の洪水はない。
音も階下に比べられば、抑えられている。
この階上は踊り疲れた者たちの休憩場所としての役目を帯びているようだ。
そしてもう一つ、メイクラブの場としての役目も。
あちこちの席に、ひそひそ声がある。
重なり合う頭もある。
カウンターに陣取っていた彼を、なぜこの場に移したのか、少年は戸惑うばかりだ。

 キョロキョロと辺りを窺うわけにもいかないが、気になり始めると目が右に左にと激しく動き回る。
そして、奇異な二人連れを発見した。
ステージ近くのボックスに、女二人が陣取っている。
時折黒服が近寄っては、話に興じている。
時折“キャハハ!”と嬌声を上げたりしているが、そのうちのひとりが常連らしく、もう一人は俯いていることが多い。
ときおり作り笑顔をしながら頷いてはいるが、興に乗っているわけではないようだ。




(十三)Coca_Cola

 少年のボックスからは、その女の横顔がしっかりと見えた。
少しからだを傾ければ、すがた全体が見えた。
赤いミニスカートにグリーンのロングベストを身に着けている。
おかっぱ風に前髪をそろえて、横髪でみみを隠している。
クレオパトラを思わせる、髪型だ。
際立った美人でもなく、愛くるしさにあふれているわけでもない。
なんの変哲もない、ふつうの女だった。
  
 その女の手を、少年の目がとらえる。
すらりと伸びた細い指が、少年と同じくコーラを手にしていた。
Coca_Colaという文字の入ったコップは、まさに少年が手にしているコップだった。
大事そうに抱えるそのコップの文字が、少年の目にグングン迫ってくる。
その服装にはとても似つかわぬコーラ、それが少年には妙に生なましく感じられた。

 異国の地で出会った同郷人に見えた。
そしてコップを持つしぐさは、いつでもどこでも見かけるしぐさだ。
なのにこの時この場におけるしぐさが、少年の胸をざわつかせる。
原色の服とどうように、厚化粧に見える。
きついアイシャドウに隠された瞳のかがやきが、少年にはまぶしい。
鼻筋をたかく見せるための陰、ベージュ色に見える唇、なにもかもが少年の胸をたか鳴らせる。







(十四)ミニスカート

 グリーンのロングベストの下で、フリルの付いた真っ白いブラウスがキラリキラリと光っている。
そしてその下は、ミニスカート。あざやか過ぎる真っ赤なミニスカート。
少年のこころを燃えあがらせている。
週刊誌のヌード写真も映画のラブシーンでも、これほどの早鐘は経験していない。
少年の目は女の手に縛られて、少年の意には添わなくなってしまった。
少年のこころが、少年からはなれてしまった。

 女の手がひざの上におかれる。
少年の視線が、女の膝小僧にうつる。
少年の目が、桜色にかがやき眩しく光るひざこぞうにくぎ付けになってしまう。
一瞬時、少年の意識がとおのく。
そして我にかえると、視線の先には、また膝小僧が。
とおのく、我にかえる、ひざこぞうが、遠のく、われにかえる、膝小僧が……。
それが、いくど繰り返されたことか。

 女の視線が、少年をとらえる。口にしていたコーラに思わずむせぶ少年。
視線を落として、女の光線からのがれる。そしてまた女を…盗み見る…。
女の熱い視線が、少年を捕らえている。あわてて視線を落とす。
ふたたび視線をむける。と、女の熱い矢が少年を襲う。
耳になりひびく鼓動にせかされるように、少年が語りかける。

 否、語りかけようとした。
しかし、非常にも女の視線はもうなかった。
少年の語りかけに応えることなく、階下のバンドに視線が向けられていた。
手にしているコーラを、一気にながしこむ。
ジンと喉にくる刺激の快感ですら、少年をいら立たせる。





(十五)煩悶

 長いながい、少年の煩悶がつづいた。
“どうして……なぜ……どうする……どうやって……どうして……なぜ……”
悲しいことに、なにをどうはんもんしているのか、少年にはわかっていない。
ことばだけが堂々めぐりしている。
少年の視線のさきにいる女は、食いいるようにバンドを見つめている。

“ほら、ほら、待ってるんだぞ。
ほら、ほら、待ってるんだぞ”
煩悶が、いつしか逡巡にかわっていた。
靴のかかとが、コトコトと音をたてている。
よしっ! と、にぎりしめた拳も、すぐに力がぬける。
気を取りなおしての力も、かかとが床につくと同時にゆるんでしまう。

 バンドが交代している。
身をのりださんばかりだった女が、ストローを口にはこんだ。
もうひとりの女と、にこやかに談笑している。
ときおりケタケタと大声での笑い声がきこえてくる。
“下品なおんなだ。あのひととは不つりあいだ”
少年の毒矢が、もうひとりの女に飛ばされた。

バンドのボーカルが、マイクスタンドを蹴っては、がなりたてている。
素っとん狂な声をはりあげている。
シャウト! と、なんども叫んでいる。
ホールで踊りにきょうじる若者も、ボーカルに合わせて、シャウト! と叫んでいる。
ボーカルに合わせるように、拳をふりあげている。




(十六)逡巡

 少年が立ち上がった。
しかし逡巡はつづいている。
帰られるのだ、このまなにごともない顔をして帰ることができるのだ。
しかし少年の足は、あの女のもとにうごいた。
手足のない達磨のごとくにすこしの歩みではあっても、かくじつに少年の歩はすすんだ。
亀のようにのろい歩みではあっても、たしかに女の元へ。

 少年にはえいえんの時間のように感じた、その道のり。
話にきょうじるアベックたちの間のびしたこえが、少年の耳にとどく。
バンドの音楽も回転数をまちがえたレコード音のごとくに、間のびして聞こえる。
少年が立ち上がって、ものの五、六秒。
三つのテーブルさきに陣取っていたあの女が、いままさに目と鼻のきょりにいる。
そして階段も。

 「あのお……」
 少年は、自分でも信じられない程にたやすく女にこえをかけた。
つまりつまりながらも、少年が女に話しかけた。
いぶかしげに見あげる女に対し、せいいっぱいの真ごころをこめて話した。
つきそいの女の雑音にはまるで耳をかさず、ひたすら女にむけて発信した。
少年のあつい目線をさけてうつむく女にたいして、異国のことばでかたりつづけた。




(十七)どしゃ降りの雨

 外はもう、どしゃぶりになっていた。
少年はかなしかった。
肩をたたく雨が、いっそう少年のこころを重くしていた。
そしてその雨とともにほほをつたう涙も、とまることを知らなかった。

「ごめんなさい……」
と、消えいるような声が。
そしてそれが少年の耳にとどいた時、ふたりの黒服によって外へとつれだされた。

 少年のこころに、後悔する気持ちが生まれていないことが救いだった。
といって、少女を責める気持ちもない。
心情を伝えられなかったことが、残念だった。
ただただ、残念だった。……残念だった。

“どうして分かってくれない!”
“どうして……なぜ……どうして……なぜ……”
 とつぜんに腹立たしさが込みあげてきた。

“なにを、伝えたかった?”
“誤解されたって? なにを?”
“うなずいてくれれば、良かった?”
“話を、したかっただけなのに……”





(十八)パシリ

 雨の中で、ひとり泣き笑う少年。
今夜のために、この十日のあいだに準備したこと。
物理的なことではなく、シュミレートしたすべてがなんと虚しいことか。
周到にくみたてたことが、
ともすればうずくまってしまう弱い心をふるいたたせたことが、
すくんでしまった足にめいじた脳からの指令が、
それらすべてが……。
いま、もろくも崩れさっていく。

 同世代から‘ニヒリスト’とやゆされても、苦笑いをかえしつづけた少年。
 同世代のわらいのうずに溶けこめない少年。
 パシリにすらされない拒絶、パシリにすら見られないむなしさ。

 十年後、二十年後、同窓会において透明人間化するおそれ。
 同世代とのつながりをもとめる少年、そのすべをもたない。
 雲ひとつないまっ青なそらを絵画にしようとするおりの、
 おのれの無力さを知ったこころー絶望、そしてうまれた虚無のこころ。





(十九)資格

 救われることのない地獄へのみちをみた少年。
 きのうまでの毎日、そしてあしたからの毎日。
 もがいてみたきょうは、明日につながることがなかった。
 えたいの知れない魔物にみいられてしまい、
 そのまものからの脱出をこころみもがいてみた末に、またおなじ所にたちもどってしまった。

 このまま、この雨になれないだろうか。
 おおみずとなり川をくだり大海へながれこみたい、しんそこ考えた少年。
 天からくだる雨、地をわかつ川となり大海へとたびする。
 そしていつかまた天にのぼり、雨となってくだる。
 しょうねんの目が、雨空のうえにある太陽をとらえた。
 そして太陽のうえにあるなにかを睨みつけ、そしてなみだした。
 
 なにか、そのなにかが神ならば、しょうねんのきもちはらくになったろう。
 神に愛される資格のない少年だ。
 少年が生まれ出るとどうじに、失われたいのちがあった。
 汲めどもくめども尽きぬ慈愛のこころをもつ、そんないのちが昇天されてしまった。
 毎夜のごとくに、「おまえのせいだ、おまえが生まれたばかりに」と、悪魔の呪文を聞かされつづけた。
 しかしもう、その呪文をきくこともない。きかされることもない。
 そう、帰るべきいえがない。からだを休める場所がない。 

〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜・〜〜〜
(二十)???

「あのね。

じゃり道というのは、平坦路よりも五割もはやくタイヤをすりへらすんだって。
どうして、モーテルなんかでは、じゃり道にするのかな? 
やっぱり、客のではいりを知るため?……?」

「ふふふ……こわいの? いいの、いいのよ。
あたいだってはじめてのときは、へんなものがきになったから。
いろんなこと、かんがえてたもの」

「い、いや! 違うよ、ぼくは。はじめてだなんて、失礼だ!」
「いいって。いいわけなんかしちゃって、かわいいわ。キスしてあげる」?
「な、なんだよ、急に。いいよ、まだ、、、」