〜もう一つの、ブルー・じゃあず〜

 この作品は、オリジナルです。
芥川龍之介著 [歯車] を読んで衝撃を受け、更には
「無人称の作品も面白いと思うんだけど…」
という声かけに応じて、十代終わりに創り上げた作品です。

*人称のないことで、読みにくさがあります。
申し訳ありませんが、読み手のあなた、「わたし」「彼」…何でも結構です。
人称を付けてお読み下さい。
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黙れ、黙れ、黙れ! 調べはついているんだ。お前の仕業だということは、お天道様がお見通しだ! ここは、すでに包囲していーる! 貴様は、逃げらーれなーい!」
「あらぁ、なんてこったい。どうしてそんなに おおごえでどなるんだよ。けっ! まるであんたのうしろにいるにんげんどもを、みせびらかしている みたいなもんだぜ。おれはえらいんだ、つよいんだ! って、しきりに しょうめいしようと やっきになってるみたいだぜ。」
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 その日はいつになくすがすがしい目覚めで、部屋中に漂うコーヒーに意識が誘われてのこともあり、心はいつになく穏やかだった。が、重い瞼を、開いては閉じ閉じては開き、そして閉じる…。際限の無なこの営みに、再び睡魔に襲われようとしたとき、カーテンの隙間から時折射るように射し込む朝の太陽の光が、その閉ざされた目を鋭くえぐった。熱いコーヒーをすすりながら、テーブル上のサングラスー冷たい銀のフレームのサングラスにめをやり、思わずため息ともつかぬ吐息を漏らした。風邪は時折、快い風を呼ぶ。しかしカーテンの揺れる度の太陽の光に、思わず背を向けてしまう。

「すまないが、カーテンを閉めてくれないか!」
 訝しげに見る目を気にしつつ、付け足した。
「目が、痛いんだ!」
 言葉が空を横切った途端、“嘘だ!”と、心が叫んでいた。そう、心が叫ぶまでもなく脳は刺激され、サングラスのない世界の恐ろしさが瞼の裏に醸し出された。そこによぎる全てが眩しいものだった。

“信じられないんです。”
 ある時、目に見えぬ何ものかに向かってそう叫んだ時、また心は叫んでいた。
“嘘だ!”
 決して言葉のせいではなく、といって“信じなさい、信じることが唯一の道です。”という言葉をはねつけたせいでもない。

 大きく深呼吸をし、ベッドの中から、もそもそと起き出した。カーテンの端からチラリチラリとのぞく、外の景色に目を見やった。その狭く、細長い世界には、ただ一つポプラの木がそびえ立っている。その大きな葉が風に揺れ、ときおり透ける太陽の光ーほんの一瞬だというのに惜しげもなくその光を投げる太陽の光でさえ、眩しく感じられた。

「コーヒーとパン、ここに置いておきますので冷めないうちにお食べ下さい。食べ終わりましたら、ここに戻して下さい。」
 妙に慇懃で固い声にふり向くと、ドアのすぐ横にある小さなテーブルの上に、白々と湯気立つコーヒーとバターの薄くぬられたパンがあった。
「ありがとう。」
 言葉と共にドアから流れ出た空気も今では落ち着き払い、部屋は前にもまして深閑としていた。

 部屋の中はキチンと整理されていた。ベッド横の壁には、この別荘を建ててくれた愛すべき祖父のいかめしい姿の額があり、まるでこの狭い部屋の全てのものー空気でさえもーを、支配するかの如くにで妙に大きく感じられた。そのいかにも明治らしいー鹿鳴館時代にしばしば起きた、東洋と西洋の対立と調和をまざまざと感じさせる、ちょんまげにタキシード姿。まさに明治時代から今に至る道、この部屋の全てを支配した、主そのものであった。

 その反対側の壁には、埋め込み式の棚に豪華なステレオがある。そこより流れ出る現代の息吹きーそれへの反応は、しばしば額の中の支配者の顔を、さらにいかめしくさせた。豪華なステレオー装飾も派手で、胴体の色は銀一色で前面にジャガード織りの布がかけられている。さらに豪華という表現を満足させるのは、スイッチなどの操作が必要のない、全てオートマチックということだ。

 唯一気になるのは、ジャガード織りの中央に、レンズのような物があることだ。夕方になると、太陽光線を反射するのかキラリキラリと光ることだ。そしてそのステレオの上の壁には、その艶やかな肌に不覚ナイフの傷跡を残し、それでも穏やかな表情の能面があった。そう言えば、食事に出される食器からナイフがなくなったのは、その傷跡が付いた後だったような…。今は亡き母にも似たその面は、生きている人間の意思など無視しがちなある種の威厳を感じさせ、部屋全体に重くのしかかっていた。

 その他にはぐるりと見回しても、取り立てて言うほどのものはない。強いて言うなら、紺に彩られた扉がある。そしてその紺色の中であるベき筈の、鈍く銀色に光るドアノブのないことが不思議なことに感じられる。以前は興味を持ったような記憶もあるが、それとてすぐに消えてしまう程つまらない些細なものだった。そういえば、音がするでもないドアの開閉の折りに瞬時見えたのは、同じようなドアと廊下だった。

 窓の外にはポプラがそびえ立ち、その葉を透ける太陽の光、そして遙か彼方の霞にかすむ山々の連なり。何よりも、どこかにあるのだろう滝のゴーゴーという轟音と、水しぶきがキラリキラリと光る様が目に浮かぶ。そして小鳥のさえずりも、また。窓の外には、生きた音があった。

 晴れた空では、どこまでも青い空があり、そこに一つ二つ…と流れる白い雲。やがて日が暮れるにつれ、赤く染まりゆく全てのもの。雨の空では、濃淡の激しい灰色の雨ー白なのか銀なのか、はたまた緑…色のあるようなそれでいてないような、絹糸の如き雨。そして何より興味をひいたのは、雨が滲み行く大地。この世の全てを受け入れ、拒否することのない大地。しだいに全てを飲み込んで、その痕跡すら残さない。

 突如、何の前触れもなくー江戸幕府の前にその威厳を見せつけた黒船のドンの如くに、地獄の断末魔と雄々しき神々等の歓喜声との交錯する悲鳴が上がった。一瞬間、全てが止まった、凍り付いた。時の流れでさえ止まった。四方を壁で閉ざされた世界から、全てが青空の下に移された。見渡すところには何もなくーまた何かが欲しいと思えばそこにあるような気もする。そんな世界に移された。その世界は、一方では貴く気高い紫の世界であり、また一方では人間の持つ主我的という業火の世界であった。

 夕刊の三面の片隅に小さく書き込まれているこの記事には、誰一人として感慨を持たなかった。
[幼少の頃に患った小児麻痺により脳に疾患が残った△△は、発作的な凶暴性が強いため、××山の中腹にある病院で治療中だったが、今早朝に看護婦が食事を運んだ直後に、鉄格子の窓から飛び降り自殺を試み、そのまま即死した。なお、警察当局は、担当看護婦からの証言について、一切発表していない。]