![]()
| 〜第四章 アイアンマン〜 |
中学二年の冬だった。学校からの帰宅時に、いつもは在宅しているはずの母が、夜の世界への出勤準備をしているはずの母がいなかった。早く出かけたのか、そう思っていた。いつものように宿題にとりかかり、高二の兄の帰りを待っていた。ときに遅くなることはあったけれども、大体がわたしよりも一時間とすこしのあとには帰ってきていた。そしてそのあとすぐに、父親が戻ってくる。もっとも父親は、用意されている夕食を食するとすぐにまた出かけてしまう。 しかし今日はそんな平静な一日ではなかった。一気に失われてしまった。兄が帰るまえに父親がかえってきた。目が死んでいる、というよりもどんよりとしている。あきらかに泥酔状態だった。そしてわたしを見つけるやいなや、「おまえのかあちゃんは、家出をした」と冷徹に告げてきた。 しかしわたしときたら、「ああ、またか……」という冷静な受けとめだった。そもそもが母の家出など、ここ数年の年中行事だった。まるで旅行に出かけてきたかのように、平然とした顔つきで「ただいま」と帰宅するのが常だった。ただ今年にかぎっては、二度目だった。しかも、冬の時期というのははじめてのことだ。 夏休みに入るとすぐに、ぷいと居なくなっていた。どうやら実家にもどり両親を相手にグチ話をして、招集された親戚一同から諭されて、幾ばくかの金員をもらっての帰宅だった。それが証拠に、必ずみやげを持ってきてくれる。いつも最中で包み紙には、姫路名物とあったものだ。 それが今回にかぎっては、どうも勝手がちがった。いつにもまして父親の口撃がはげしい。「おまえたちのかあちゃんは……」と、家計のやりくり下手をののしった。そして兄といえば、いつもは我関せずとばかりにうんざり顔をしているのだが、今回は目を閉じている。「かあちゃん、かえってくるよね」というわたしの問いかけにも、「さあな」とことばをにごすのだ。 結局の所、お約束の一週間が過ぎてひと月が経った。 「いつもなら一週間でかえってきたのに」というわたしの声かけにも、父親は 「おまえは捨てられたんだ」と言うばかりだった。まるでわたしに責任があるように、吐き捨てるように言われた。兄に救いを求めても、顔を曇らせて黙りこんでいた。そしてその兄が家出をした。 「示し合わせていたのか!」。ますます怒り狂い、わたしにたいして、「おまえも出て行け! かあちゃんのところにでも行くがいい」と、怒鳴りちらされた。普段から晩酌を欠かさない父親だったが、兄の家出は相当に堪えたらしく「あいつまでわしを捨てるのか!」と、夜が明けるまで深酒していた。 毎度のごとくだったが母が家出をするたびに、昼間からの飲酒となり、当然ながら昼・夜の仕事に行かない。ということで、収入もとだえるはずだ。どこから日々の糧を得ていたのか、まるで覚えていない。わたしが今日を元気にしているのだから、なんとかなっていたのだろうが。 そして三日後のことだ。兄が戻ってきた。いったん東京に出たものの、身元引受人のいない兄を雇ってくれるところがあるはずもない。無謀といえばむぼうだが、どんな目算があったのか、わたしが知る由もない。幸いなことに、上野公園の西郷隆盛の銅像下で呆然としているところを、警察に見とがめられた。家出人とわかり、すぐにも父親への連絡をとなったけれども、電話があるわけでもない。ひと晩を交番で世話になったのちに、警察官に諭されてぶじに戻ってきた。 兄が戻ったおりも泥酔していた父親だったが、何ごともなかったかのごとくに受け入れていた気がする。そして翌日には、父親は又しごとに出るようになった。わたしはといえば、兄が戻ったという安心感だけで、母の家出がなかったかのごとくに感じたと思う。 母に置き去りにされて三(み)月(つき)が経っていた。ひと月目は、なんでだなんでだ、と問いつづけていた。ふた月目には、悲しみと怒りの気持ちが交互に押し寄せてきた。そして三月目は、絶望の気持ちに苛まれていた。不信感、そんなことばでは表せないどす黒い澱のような感情にとらわれていた。 少し前の授業中に、「仕事場から連絡が入った。お父さんが倒れられたらしい、すぐに帰りなさい。その前に職員室に寄りなさい」と、事務職員が伝えにきた。分かっていた。父親本人が電話をかけてきたのだ。しらふに戻ったときに、わたしが居るのかどうかの確認をしたかったのだ。 兄が家出をしてからというもの、わたしに対する監視が厳しくなった気がする。母親からなんらかの連絡があるのではないかと、勘ぐっているのだ。その兄は県内トップの進学校から定時制へと転校を余儀なくされた。父親が恥を忍んで、仕事先に現状を話したらしい。そしてその会社に、兄も雇われることになった。そのおりの兄の心情は、わたしが知る由もない。そしてそんなとき、二月の寒い日に警察署の一室で母に再会した。 若い警察官につれられたそこは、体育館ほどの大きな部屋にたくさんの机が並べられていた。窓際に何人かがすわっている以外はその大半が空席だった。たくさんの書類が乱雑に置かれている机の上に、職員室と同じだと感じた記憶がある。 大部屋の引き戸を開けて、ぺこりと頭を下げて入った。まるで職員室に呼び出された問題児のように、神妙な態度をとった。 「おう、ごくろうさん。こっちにおいで。寒かったろう、ここは暖かいからね」 奥にパーティションで区切られた一角からひょいと顔を出した老刑事が、声をかけてくれた。いかめしい顔つきだったが、笑顔の目はやわらかいものだった。母親が待っていることは知っていた。学校に連絡が入り、父親には内密にということになったはずだ。昼間に会ったはずなのに、なぜだか夜間だったような気もする。そんなことはあり得ないことなのだ。そのときのわたしが暗いものだったせいかもしれない。 なつかしい母親がいた。夜の世界に出陣するときのケバケバしい化粧ではなかった。薄化粧での母親は、しかしわたしの母親ではない感じた。どこか、女を感じさせる……まだ十四才の中二の小僧にそれを感じられる? たしかに。いまのわたしの想像、妄想の産物かもしれない。しかしたしかに、わたしの母親ではないような気がした。それはたしかなはずだ。 涙ぐんだ母親の第一声は 「お母さんと、一緒に暮らしてくれない?」だった。 「いやだ!」。わたしは即座に答えた、本心とは違うものだった。しかし放たれたことばを、飲みこむことはできない。中学二年生だったわたしは、とにかく母恋しの思いだった。なのに、わたしの口から出たことばは、拒絶のことばだった。母の家出の原因は、分からない。父が言うようにどん底の貧乏生活に嫌気をさしてのことなのか、父との確執なのか、今も分からない。しかし兄とわたしのふたりを置いての家出だったことは間違いがない。それなのに、わたしひとりを引き取りたいと言うのだ。そのときの母の心情を、推し量るすべもない。 その時のわたしには、己ひとりが声をかけられた、という後ろめたさがつきまとっていた。兄ひとり残れば、おそらくは家出をしてしまう。するとひとりになった父は自暴自棄となり、酒で身を滅ぼすのではないか、そんな恐怖心にかられた。身の危険を感じるというのではない。中学と高校に通う男ふたりの面倒をみてくれた父だ。家事一般をすべてひとりでこなし、仕事にも遅くまで従事した父だ。夕食にと途中で仕事を抜け出してきた父だ。おそらく同僚からは蔑すみの視線を、受けていたことだろう。そんな父が、哀れに思えたのだ。不遜にも、父を守ることが子の責務だと考えたのだ。 今にして思えば、母の行動に納得もいく。昭和三十八年当時に、子連れでの家出など不可能であることは自明の理だ。泣く泣くの断腸の思いであったろう。しかし十四歳の子供に、それを理解することなどできない。捨てられたという思いだけがあった。憎しみの思いが渦巻いていた気がする。もっと言えば、愛という存在が消し去られていたかもしれない。 以来、甘えることができなくなった。家族に甘えられず、当然ながら他人を頼ることも忘れた。必然寂しさに襲われて、もうひとりの自分を創り出していった。そのもうひとりの自分に己を見つめさせては、慰めのことばをかけさせることを覚えた。多重人格ということではない、あくまでひとりの人格だ。 ブラジルに伯父さんが居て、その伯父さんがじつは大金持ちで、ぼくを探している。そしていつか、ぼくを迎えに来てくれる≠ニ、そんな夢物語りを思い描いては、己の境遇を慰めたりしていた。もちろん他愛もない妄想であり、現実にそれが起きるとは思ってもいなかったけれど。 そして藤の花が真っ盛りの五月に、あの公園に咲き乱れていた藤棚の下で母に会った。見も知らぬ男がかたわらに立っていた。母が勤めていたキャバレーの客だと、聞かされた気がする。もう今ではどんな会話を交わしたのか、覚えていない。思い出せない。いや、消してしまったのかもしれない。もしも今、戻れる時があるとしたら、おそらくはあの警察署の一室に戻りたいと願う。そして母の胸に飛び込むことを選択するだろう。いや、違う! あの時に言えなかった、本当の自分の気持ちを言うのだ。でも言えるだろうか。「戻ってきて!」ということばを。 いま、気付いた。捨てられたのではない、捨てたのだ。わたしが母を拒絶したのだ、自ら。思いもかけぬことだった。わたしが置き去りにされて、拒否されたのだと思っていた。しかしいま、はっきりと思い知った。忘れていたのではない、しっかりと覚えている。母の嘆願を、涙を浮かべた顔を、覚えている。そうだ! 昨年も一昨年も、ずっとずっと思い出したりもしていた。なのに、捨てられたと思っていた。 そうなのだ、そうでなければ、自己崩壊を起こしていただろう。己の意思で決めたことだと意識してしまうことを、拒否していたのだと思う。それがいま、CRTーDという機器によって心臓の動きを助けられているいまになって、認める心境になったのだろう。いやいや、離婚という事態に陥ったときに、独りになったときに「父さんに捨てられたんだ!」との息子の声を聞かされた時に、知ったのだ。 2Kのアパートに移り住んだおりに、「パソコンの具合が悪いから、父さんのところで宿題をさせてよ」と、夜半にやってきた。寝支度が終わったときだった。「コンコン」と、遠慮がちにたたく音がした。聞こえぬふりもできたが、なにかしらそのときは、出ねばと思った。 あのころのわたしときたら。経済的にどん底状態で、昼間の仕事とともに土日の夜間にバイトを入れていた。養育費の捻出に苦心してはいた。ために、まるで気持ちに余裕がなく、体力もまた然りだった。しかしあのとき、なぜ息子に声をかけなかったのか。「しっかりやってるか?」。そのときに、どんな答えが返ってきたかはわからない。本当に宿題のためにやってきたのか。どんな思いで車を走らせてきたのか。久しぶりに会う父親が歓待してくれるか、不安な気持ちはあったはずだ。 わたし自身が父親からかけられたことばを、母が父に変わり「あんたの父さんは、お前を捨てた」と、毎晩のように聞かされていたのではないか。わざわざ、「お前の」、「あんたの」、という修飾語を付けられていたのではないか。 しかし別れた妻がそう告げたとしても、わたしにそれを否定することはできない。愛情の裏返しともとれるからだ。愛情が強ければつよいほど、恨みや憎しみの思いも強くなることだろう。そのことをあのときの、中二のわたしに教えてやりたい。いま、そう思う。 なのに、なのに、わたしときたら「悪いが、父さん、寝るから」と言ってしまった。息子の気持ちを置き去りにしてしまった。 翌朝目覚めたときには、息子の姿はなかった。果たして息子の言うように徹夜をして課題を仕上げたのか、それとも物言わぬ父親に絶望して帰ったのか。どうしてあのとき、「元気にやってるか?」と、このひと言だけでも掛けてやらなかったのかと、悔やまれてならない。 違う、違うんだよ。母さんと一緒の方がお前たちの為なんだよ。父さんがそうだったんだ。母さん恋しの思いをどれだけ… なんど思ったことか、しかしそれを言ったところで、息子の声は消えない。別れた妻に告げられた。「父さんに捨てられた……」。息子の思いは変わるまい。因果応報ということばが、わたしの中で渦巻いている。愛を知らぬ、愛を感じることができずに育ってしまったわたしだ。優しさのかけらも持ち合わせていない。慈愛という単語すら知らぬわたしだ。 相手を思いやることのできないわたしが、家庭を持って暖かい……云々などと口にする資格がない。家族を知らぬわたしが、家庭など持つべきではなかった。そうなのだ、いまのわたしは、冷えきったこころを持っていたのだ。そしてこれからは、アイアンマンと呼ばれるのだ。 (了) |