蒼い情愛 〜ブルー・はんたぁ〜


 寝苦しい夜が明けた朝、母が、俺の記憶から消え去っていた。そしてその日から、母に対して怨嗟の念を抱いた。
「親としての責務を果たせよ!」
「ごめんね、ごめんね。」
 時折かかってくる詫びの電話。嗚咽と共に繰り返される、詫びの言葉。しかし日が経つにつれて、単なる雑音となった。
 何の感慨も湧かず、何の感情も入ってこなくなった。そしてそれは、決して自暴自棄の心では、ない筈だ。と、思った。
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 死刑囚は死への恐怖心が薄れるにつれ、生ある時を思い起こした。己の罪を意識し、悔いた。しかしその悔いは事件に対する悔いではなく、己の過去と未来を悔いた。
「死刑に処する。」
 冷たく事務的なこのひと言は、死刑囚には何の意味も持たなかった。それどころか、人を殺したことへの後悔の念を跡形もなく捨てさせた。鼠が食べ残したチーズひと欠片ほどの反省心さえも捨てさせた。

 その恐ろしく事務的な声は、ひんやりとした空気の漂う場を直線的に走った。そしてその言葉の矢は、じっと聞き入っていた傍聴人たちのざわめきを呼び起こした。そのざわめきは、皮肉にも死刑囚の緊張感を和らげさせた。刺すような視線を全身に感じて、肌に痛みを感じていた死刑囚の、心のざらつきを消し去った。しかし次の瞬間、その緊張感と心のざらつきを、至極懐かしいもの━冬眠を終えた蛙が、暖かい春の陽射しの下に出た歓びにも似る━と、感じた。

 その死刑囚は、冷たい銀のフォークの眼差しで、裁判官の胸を突き刺した。
「ふん。あんたに、何が分かる!」
 独り、死刑を宣告された現実を噛みしめる死刑囚。薄暗い、四方を詰めたいコンクリートで閉ざされた部屋。俗界に繋がる、唯一の楽しみの窓は、頭上高くとなっている。太陽が覗き込む少しの時間と、空の一部のみを見ると言う哀しみ。いやいや今の死刑囚にはそのことよりも、その窓があるということが、忌々しい。

 その窓が、死刑囚の俗界に対する未練心を、郷愁を掻き立てさせることが腹立たしい。もし…窓が塞がれたら…やはり腹立たしい。
 青空……雲……流れる……流浪……涯て……老い……死
 思い浮かぶ言葉が、死刑囚の意図することなく繋がりを求めていく。潜在的な死に対する恐怖感を感じさせたが、ややもすると死への恐怖感を超越しがちでもあった。

“地獄ってのは、あるのか? ふん、あるわけないか。”
“地獄がない、とは…言えないか…”
“意識が遠のく…途絶える…それが、死か?”

 恐怖の究極…不安と絶望と、そしてやはり恐怖。そしてそのどれもに、絶叫を伴いそうだ。
 絶叫━━
 何人が死刑の宣告を受けて、こうやって執行の日を待った?
 何人が、落ち着いて死を待ったんだ?
 待った、のか!ほんとに、待ったのか!!

 裁判官は、俺に死刑だと宣告した。その理由を、前途有望なる二人の若い男女を殺したからだと言う。未来に大きな夢を抱いていたであろう二人の殺害は、重い罪だと言う。じゃ、お前はどうなんだ! この俺だって夢がある。俺以外の、何人を殺した? 死刑とした? 法律を盾にとって、人を公然と殺しているくせに。

 死? なんだ、そりゃ。生きるってのは、どういうことだ? 案外、今こそ生きてるのかもしれないぞ。
こんな立派な鉄筋のビルだ。雨風を凌げて、窓からは太陽を拝めるし、月だって覗ける。お星様だって拝めるじゃないか。一日三度のおまんまが食べられるし、仕事だってさせてくれる。時間になったらキチンと休憩も取らせてくれる。どうだい、この贅沢さは。

 その昔、軍隊に喜んで入隊した男が居たってことだが、その間抜け野郎の気持ち、痛いほど分かるぜ。こりゃひょっとすると、『人でなしの国』も良いかもしれんぞ。どうせ人間一度は死ぬんだ。何をして、どう死のうと同じさ。地獄があるわけでもなし。それにどうだい、何の苦痛もなく死なせてくれる。キチンと、後始末もしてくれるんだし。下手に行き倒れや餓死で死ぬよりは、よっぽどマシってもんだ。

死刑囚は独り冷たいベッドに横たわり、仲間から取り上げた煙草をくゆらせた。少しずつ窓から夜の帳が、闇が入り込んできた。気持ちの高ぶりが少しずつ収まる。闇の広がりとともに僧侶がしきりに唱える安心の世界に入り込んでいく、と考える死刑囚。しかしそんな死刑囚の心の営みは、結局のところ徒労に終わる。死という現実の壁は、容赦なく死刑囚を追い込んでいく。

 しかし又、どうして俺はあの二人を殺したんだ? 実際は、俺にも分からない。殺すほどの、理由が見つからない。あの女にそれ程惚れていたわけでもないし。お前一筋だ! なんて、落とすまでは言ったけども。最近じゃ、ちとばかし飽きもきてたし。あの男との結婚話だって、俺にとっちゃ渡りに舟だったんだ。ただすんなりと認めちゃ、あの女に悪いかな? ってぐらいだったし。

 それを、世間の奴らが。何をとち狂ってか、やれ裏切られたの捨てられたのって。辛いだろうに憎いだろうに、って散々に。痛くもない傷をさすられ過ぎて、逆に化膿しちまった感じだ。知りたくもねえことをべらべらと話しやがる。もう、どうでもいいんだよ。いつ式を挙げようが、どこで披露宴をやろうが知ったこったじゃねえ! 馬鹿野郎が余計なことを耳に入れやがるから、怒鳴りこまねえと格好がつかなくなっちまって。気が付いた時には、二人を殺してたぜ。大体、なんで止めねえんだよ。ひと言言ってくれれば、やめたよ。誰も俺を止めやしねえ。どころか、やいのやいのと囃しやがって。おかしいじゃねえか、まったく。

 刑事に話してもラチがあかねえし。検事ときたら、頭っから信用しやがらねえ。裁判官だってそうだ。俺の言うことは、はなから嘘っぱちだと決め付けてやがるし。遺族の顔色ばっかり気にしやがって。反省の心がないだと? そんなもん、あるわけねえだろうが。殺したって言う実感がねえんだ、こちとらには。

 死刑囚はゆっくりと大きく吐き出し、煙の行方を目で追った。そして死刑囚の目に映ったものは。
社会機構の中で身動きできない世界が、あたかも煙を吐き出すように死刑囚の人生を変えてしまった。毒々しい煙に焚き付けられて、いつの間にか時間の暴力に飲み込まれていた。
その飲み込まれた世界は、誰も居ない浜辺だった。薄気味悪い灰黒色の雲に覆われた浜辺で、ネイビーブルーの海をたった一人で泳いでいる死刑囚を、自身が虚ろな目で見ている。

 一体全体、世間の奴らはどういうつもりだ。殺せ殺せと焚き付けておいて、いざ思惑通りに事が運ぶと、今度は裏を返すが如くに。やれ人殺しだの、人非人だの、残酷だのと責めやがって。どっちがだ! くっだらねえ奴ばっかりだ! 誰かが幸せになろうとすると、誰かに横槍を入れさせる。で、破滅を楽しむんだろうが。

『ぴかぴか光っているものは一時のために生まれたもの。本当のものは、滅びることなく後世に伝わります。』

 人間の愛というものは、後者でありたいと願うもの。そしてそのことの為に、あの二人は死刑囚を罪人として責め続けている。燃え上がった絶頂に光を奪われた花火のように、それは見た目にも味気ない。しかし披露宴時に殺害されたという光が、大衆の中に、一時的に写された。

『私が後世のことなぞかまっていたら、だれが今の世の人を笑わせますか。』

 この世から笑いという笑いが消え、哀しみという哀しみが消え去る━そう、『人でなしの国』。そしてそれが、『超人の国』だろう。裁判官という、超人の。

 いつか煙は消えていた。看守の靴音にオドオドしながらの一服ではあった。が、それでも美味かった。看守の靴音が遠ざかることを確認すると、最後の煙を一吐きした。そしてその煙に、どことなく穏やかな色を、部屋全体に感じた。その時の死刑囚は決して自由のないことを恨む心ではなく、むしろ束縛下の自由を感謝しているようだった。
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 ヒーローは、何千何万の人間を救う義務があるのに、なぜ、己一人を救う権利がないのだろう…