蒼い情愛 〜ブルー・はんたー〜


寝ぐるしい夜があけた朝、母が、おれの記憶から消えさっていた。
そしてその日から、母にたいして怨嗟の念をだいていた。

「親としての責務をはたせよ!」
「ごめんね、ごめんね……」

ときおりかかってくる詫びの電話。
嗚咽とともにくり返される、詫びのことば。
しかし日が経つにつれて、単なる雑音となった。

なんの感慨もわかず、なんの感情も入ってこなくなった。
そしてそれは、けっして自暴自棄のこころでは、ないはず筈だ。
そう、思った。
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[蒼い情愛 〜はんたー〜]

(一)鼠

その○刑囚は○への恐怖心がうすれるにつれ、生あるときを思いおこした。
活きいきと生きた、そのときを思いおこした。

己のつみを意識し、悔いた。
しかしその悔いは事件にたいする悔いではなく、おのれの過去と未来への悔いだった。

「○刑に処する」
冷たく事務的なこのひと言は、○刑囚にはなんの意味ももたなかった。

それどころか、人を○したことへの後悔の念をあとかたもなく捨てさせた。
鼠が食べのこしたチーズひと欠片ほどの反省心さえも捨てさせた。

その恐ろしく事務的な声は、ひんやりとした空気のただよう場を直線的に走った。
そしてそのことばの矢は、じっと聞き入っていた傍聴人たちのざわめきを呼びおこした。

そのざわめきは、皮肉にも○刑囚の緊張感をやわらげさせた。
刺すような視線を全身に感じて、肌にいたみを感じていた○刑囚の、こころのざらつきを消し去った。

しかしつぎの瞬間、その緊張感とこころのざらつきを、至極なつかかしいもの
――冬眠を終えた蛙が、暖かい春の陽射しの下にでた歓びにも似る――
と、感じた。


(二)繋がり

 その○刑囚は、冷たい銀のフォークの眼差しで、裁判官の胸を突き刺した。
「あんたに、なにがわかる!」。こころのなかでつぶやいた。

 ひとり、○刑を宣告された現実をかみしめる○刑囚。
 うす暗い、四方を冷たいコンクリートで閉ざされた部屋。
 便器と文机と、そしてキチンと畳まれたせんべい布団一式。

 俗界につながる、唯一の楽しみの窓は、頭上高くにある。
 太陽がのぞきこむ少しの時間と、空の一部のみを見るという哀しみ。
 いっそ、なければいいのに。

 いやいやいまの○刑囚にはそのことよりも、その窓があるということが、忌いましい。
 その窓が、○刑囚の俗界に対する未練心を、郷愁をかきたてさせることが腹立たしい。
 いっそ、なければいいのに。

 もし…窓がふさがれたら…やはり腹立たしい。

 青空…雲…流れる…流浪…涯て…老い…○
 思い浮かぶことばが、○刑囚の意図することなく繋がりをもとめていく。


(三)絶叫

 その部屋は、閑とした部屋。つめたい空気だけがおともだち。
 潜在的な○に対する恐怖感を感じさせたが、ややもすると○への恐怖感を超越しがちでもあった。

“地獄ってのは、あるのか? ふん、あるわけないか”
“地獄がない、とは… 言えないか…”
“意識が遠のく…とだえる…それが、○か?”

 恐怖の究極…不安と絶望と、そしてやはり恐怖。
 そしてそのどれもに、絶叫をともないそうだ。

 絶叫――

 なんにんが○刑の宣告を受けて、こうやって執行の日を待った? 
 なんにんが、落ち着いて○を待ったんだ? 
 待った、のか! ほんとに、待ったのか!!


(四)ぜいたく

裁判官は、おれに○刑だと宣告した。

その理由を、前途有望なるふたりの若い男女を○したからだという。
未来に大きな夢をいだいていたであろうふりの○害は、重い罪だという。

じゃ、おまえはどうなんだ! このおれにだってゆめがある。
おれいがいの、なんにんを○した? ○刑とした? 

法律をたてにとって、人を公然と○しているくせに。

○? なんだ、そりゃ。
生きるってのは、どういうことだ? 
案外、いまこそ生きてるのかもしれないぞ。

こんな立派な鉄筋のビルだ。
雨風をしのげて、窓からは太陽をおがめるし、月だってのぞける。
お星さまだってみえるんだ。

一日三度のおまんまが食べられるし、仕事だってさせてくれる。
時間になったらキチンと休憩もとらせてくれる。

まったくぜいたくな生活だぜ。


(五)マシ

 その昔、軍隊に喜んで入隊した男がいたってことだが、その間抜け野郎の気持ち、いたいほどわかるぜ。
 こりゃひょっとすると、『人でなしの国』も良いかもしれんぞ。

 どうせ人間一度は○ぬんだ。
 なにをして、どう○のうと同じさ。

 地獄があるわけでもなし。
 それにどうだい、なんの苦痛もなく○なせてくれる。

 キチンと、後始末もしてくれるんだし。
 下手に行き倒れや餓死で○ぬよりは、よっぽどマシってもんだ。


(六)煙草

 ○刑囚は独りつめたいベッドに横たわり、仲間からとりあげた煙草をくゆらせた。

 すこしずつ窓から夜のとばりが、闇が、入りこんできた。
 気持ちの高ぶりが少しずつ収まる。

 闇の広がりとともに、僧侶がしきりに唱える安心《あんじん》の世界に入り込んでいく、と考えた。

 しかしそんな○刑囚のこころの営みは、結局のところ徒労に終わる。
 ○という現実の壁は、容赦なく○刑囚を追いこんでいく。

 しかしまた、どうして俺はあの二人を○したんだ? 実のところ、おれにも分からない。


(七)化膿

 ○すほどの、理由が見つからないんだよ。
 あの女にそれほど惚れていたわけでもないし。

 おまえひと筋だ! なんて、落とすまでは言ったけども。
 最近じゃ、ちいとばかし飽きもきてたし。

 あの男との結婚話だって、俺にとっちゃ渡りに舟だったんだ。
 ただすんなりと認めちゃ、あの女に悪いかな? ってことぐらいだったし。

 それを、世間の奴らが。
 なにをとち狂ってか、やれ裏切られたの捨てられたのって。

 辛いだろうに憎いだろうに、って散々に。
 痛くもない傷をさすられ過ぎて、ぎゃくに化膿しちまった感じだ。


(八)格好

 知りたくもねえことをべらべらと話しやがる。

 もう、どうでもいいんだよ。
 いつ式を挙げようが、どこで披露宴をやろうが知ったこったじゃねえ! 

 馬鹿野郎がよけいなことを耳に入れやがるから、怒鳴りこまねえと格好がつかなくなっちまって。
 気がついたときには、二人を○してたぜ。

 だいたい、なんで止めねえんだよ。
 ひとこと言ってくれれば、やめたよ。

 だれも俺を止めやしねえ。
 どころか、やいのやいのとはやしやがって。

 おかしいじゃねえか、まったく。


(九)実感

 刑事に話してもラチがあかねえし。
 検事ときたら、頭っから信用しやがらねえ。

 裁判官だってそうだ。
 俺の言うことは、はなから嘘っぱちだと決めつけてやがるし。

 反省のこころがないだと? そんなもん、あるわけねえだろうが。
 ○したって言う実感がねえんだ、俺には。


(十)It's me!

 ○刑囚はゆっくりと大きく吐き出し、煙の行方を目で追った。
 そして○刑囚の目に映ったものは。

 社会機構のなかで身うごきできない世界が、あたかも煙を吐きだすように○刑囚の人生を変えてしまった。

 毒々しいけむりに焚きつけられて、いつのまにか時間の暴力にのみこまれていた。
 そののみこまれた世界は、だれもいない浜辺だった。

 うす気味わるい灰黒色の雲におおわれた浜辺で、ネイビーブルーの海をたったひとりで泳いでいる○刑囚を、だれかがうつろな目で見ている。

「だれだ、おまえは!」
 視線に気づいた○刑囚が問いかける。

「It's me!」
 声がかえってきた。


(十一)罪人

 一体全体、世間の奴らはどういうつもりだ。
 殺せ殺せと焚きつけておいて、いざ思惑通りに事がはこぶと、今度はうらを返しやがって。

 やれ人殺しだの、人非人だの、残虐非道だのと責めやがって。
 どっちがだ! くっだらねえ奴ばっかりだ! 
 だれかが幸せになろうとすると、だれかに横槍を入れさせる。
 で、破滅を楽しむんだろうが。

『ぴかぴか光っているものはひとときのために生まれたもの。
 本当のものは、滅びることなく後世に伝わります』

 人間の愛というものは、後者でありたいと願うもの。
 そしてそのことのために、あのふたりは○刑囚を罪人として責めつづける。


*『』内は、多分ですが(若気の至りで、出典元を明らかにしていませんでした)
ゲーテ作「ファウスト」だと思います。


(十二)自由

 燃え上がった絶頂に光をうばわれた花火のように、それは見た目にも味気ない。
 しかし披露宴時に殺害されたという光が、大衆の中に、一時的に写された。

『わたしが後世のことなぞかまっていたら、だれがいまの世の人を笑わせますか』
 この世から笑いという笑いが消え、哀しみという哀しみが消え去る――
 そう、『人でなしの国』。

 そしてそれが、『超人の国』だろう。
 裁判官という、超人の。

 いつか煙は消えていた。看守の靴音にオドオドしながらの一服ではあった。
 が、それでも美味かった。

 看守の靴音が遠ざかることを確認すると、最後の煙をひと吐きした。
 そしてその煙に、どことなく穏やかな色を、部屋全体に感じた。

 そのときの○刑囚は決して自由のないことを恨むこころではなく、
 むしろ束縛下の小さな自由を感謝した。

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 ヒーローは、何千何万の人間を救う義務があるのに、
 なぜ、己一人を救う権利がないのだろう……