Re:地獄変

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 (六)
 それにしても、こうなりますと、どちらの話を信じたら良いのか、それとも善三さんのことばが当を得ているのか……。ご婦人方の間でも、ご意見が分かれたようでして。
「三郎さんのご実家に身をよせるということは、できなかったかしら」
「お嬢さま育ちのむすめさんが農家の嫁というのは。やっぱり、無理があるでしょ」
「若いむすめひとりが戦後をいきぬくなんて……。それに身ごもっているわけですし」
「身をおとさずにすんだのよ、良しとしましょうよ」
「でも、その後も使用人あつかいではねえ……」
 吐き捨てるように善三さんがおっしゃいます。
「ふん。そらみろ! 人をひととも思わぬ所業だ。すこしばかり美人だからと鼻にかけよって」
 善三さんのことばに、思わずわたしも頷いてしまいます。たしかにこれではご老人が哀れでございます。しかしこれで終わりではなかったのです。小夜子さんの、ご老人に対する仕打ちは。善三さん曰く、「男を虚仮にしおって」があったのでございます。

 みなさん、気がかりといいますか気になさっていることがございますよね。若いツバメのことですよ。わたくしが百貨店に出かけたおりのことでございますよ。夫はさほどに気にしている様子はなかった? 大嘘でございますよ。大変でございましたから。百貨店の方へも何度か電話をかけましたとか。ほんとにもう、恥ずかしくて、もう行けませんわ。
 では順を追ってお話ししましょう。あの日は梅雨にはいる前の、火曜日? いえ水曜日でしたかしら。どんよりとした空模様でして、お昼すぎには雨になるかもしれないという予報でした。でも、当たりませんものねえ。よっぽどに、昔から言われている「アリの行列を見たら雨がちかい」ですとか、「鐘の音がよく聞こえたら雨がちかい」とか、昔からの格言の方がよく当たりますもの。まあ、経験則と申しますのですか? ばかにはできませんもの。
 三郎さまに教えていただいたのですが、気象協会の予測も、ある意味では経験則によるものだとか。さすがに格言からのものではなく、空の雲の動きから判断するものだと。はるか彼方にある雲の動きを観察して、その動きから過去の経験則に当てはめて予測を立てるのだそうでございますよ。

 都電を利用しての移動でした。朝、なん時でしたかしら。早くに出たことは覚えております。百貨店でのお買い物だと、正夫には告げておりましたが、実は……。はい、府中の刑務所です。きょう、三郎さまが出所をされます。一子さんから内々に連絡を受けまして。といいますのも、ご実家からは勘当をされておられます。
 まあ、無理もありませんわねえ、老舗の呉服屋から逮捕者が出たのですもの。しかも跡継ぎでいらっしゃいましたし。帰るあてのないお方です。行くあてもありませんでしょうし。とても恐縮されていらっしゃいましたが、とりあえず迎えだけでも頼めないかということです。
 今さらお会いしてもどうしようもないことなのですが、かつては恋い焦がれたお方でもございますし、少しではありますが金員を用意して出かけました。二、三日の宿賃になればと思いまして。いえいえ、三郎さまおひとり分ですよ。そのまま駆け落ちなどとは、つゆにも考えておりません。妙子はまだ三歳でございますし。正夫に押しつけるのもどうかと思います。わたくしとて、そこまで非情にはなれませんですわ。

「そりゃそうだ! いかなお前さんでも、そんなアホくさいことは考えまいて。それとも、てて親が分からぬ子では、情も湧かぬか?」 
 とんでもないお話が、善三さんの口から飛びだしました。足立三郎とかいう帝大生のむすめだとばかりに思っている一同です。あちこちで動揺が走ります。が、当の小夜子さんはといえば、顔色ひとつ変えずに「またバカなことを」と、せせら笑うがごとくです。
「お前さんの名誉のためだと思いだまっていたが、化けの皮をはいでやろうか。まあお前さんだけを責めるわけにもいかぬがな。みなの同情を買えるだろう。三郎から聞いたことさ」と前置きをされると、あらためてお話しをつづけられます。
「付け文にほいほいと出かけたお前さんを待っていたのは、三郎ではなく見知らぬ男たちだったろう。『ほどなく戻るから少し待ってなさい』とでも言われたのだろうが、その日は、三郎は他県に出かけていたのさ。むろん幹部たちの用事でな。はじめて出逢った神社裏の小屋だ。ひと気はまるでないし、よほどの大声を出したところで、通りまでは聞こえまい」

 じろじろと舐めまわすように善三さんは、小夜子さんを見られます。往事の、特高時代の善三さんを思わせる、恐ろしい様相でした。
「もういいでしょう、そこらで。子どもたちもいることですし」と、なん人かが声をかけました。しかし射るような目つきの善三さんのことばはつづきました。
「しかし念のいった小細工をしたものだ。若い娘たちが好んで着ていたワンピースまで用意していたのだからな。まあ、自ら訴え出ることはしまいと踏んではいたようだが。それにしても、美人に生まれたがゆえの災難だった。足立が思ったよりも早く帰ったことで、知られてしまったことだしな」
 なぜそこまで詳しいのかといった動揺が、はじめて小夜子さんの表情を変えました。目がつり上がり眉間にしわを寄せて、小声でしたが「おのれえ……」と漏れでたようにも。
「真相は分からん。多分お前さんにも分からんだろう。なにせ足立もまた、お前さんの色香に負けたのだから」
 まったく信じられないことでした。
こんな非道なことが、この世にあるのでしょうか。いやいや、善三さんが仰られたように、これが戦争というものの恐ろしさでしょうか。人のこころを鬼畜に変えてしまうということなのでしょうか。

 と、小夜子さんの顔つきから険が消え、
「ほんとうに、坂田さまは面白いことをおっしゃいますね。女にはだれの子かなど、わかるものでございますよ」と、平然とお答えになられました。
「それにしても極悪非道なやつらだ。お前さんとおなじ目にあったむすめさんは、片手では収まらない。同僚のなかには、両手をこえたと憤慨する者もいた。それも泣き寝入りをしそうな婦女子ばかりを、だ。『労働者の娘には手を出さなかった!』。とんでもないことを言う奴もいたよ。その口でだ、『よわき者、なんじの名は女なり』とか、ぬかす」
 憤慨の声がうずまくなか、小夜子さんの声がひびきわたりました。
「まあまあ、みなさま。特高刑事としての善三さまのことばですから。はなし半分ということで。それよりも、出むかえた三郎のことでもお話しさせてくださいな」
 それまで、三郎さまと尊敬の念がありましたのに、とつぜんに呼び捨てになさるとは。
なにかしらの意図があるのか、それとも親しみをこめてのことなのか、とても気になるところです。

 なにを期待していたのでしょうか、わたくしは。正直のところ、いまでも判然としないのでございます。
「ぼくの子どもを産んでほしい」。あの夜の情熱はなんだったのか、いったいどこに消えてしまったのでしょう。
「ぼくはもう、娑婆には出てこられないだろう。牢屋のなかで朽ちはててしまう運命なんだ。しかし後悔はしていない。いまの日本国は、労働者を殺しているも同然だ。一部のブルジョアたちを守るためだけにあるんだ。富国強兵なんて、権力者の言い訳さ。国が富んでも民が貧しければ……」
 涙ながらに語っていた、あの三郎は、足立三郎は、どこに行ったのでしょうか。三郎だけではございませんわ。岡田、白井に山本のご三人衆。そしてリーダー格の竹本は、どうしているのやら。それこそ、口角泡を飛ばして議論されていたあの方たちは、どうしていることやら。未だに刑務所の中でしょうか 。それとも、それとも、おっしゃられていた通りに、もうこの世には……? 
 でもすこしおどろきました。元々が気の弱いところのある三郎でしたが、いまこうやって三年、いえ四年ぶりですか。そうなんです、もう四年近くも経ちましたのねえ。いまの三郎も依然と同じくおどおどとした観はありますけれども、どこかこう吹っ切れたといいますか。そうですわ、以前には見られた厭世観といったものがなくなっていましたの。ニヒルさといったものが消えていました。その代わりに、いじけたというかやさぐれたというか、そういった陰もみえました。
 塀に沿って歩きながらご実家のことをお話しようとしましたら、「いいんです、実家のことは」と苦しげな表情です。まあ、一子さんからお聞きになられていることでしょうから。途切れとぎれの会話でしたが、結局は妙子のことはお話しできませんでした。持参した封筒を、「ご実家からです」とお渡ししました。無言で受けとられると、一礼をされてひとつ離れたバス停でのお別れとなりました。

「心配するな! わが日本国においては、地下に潜るなど、絶対にない! 裏を返せば、軟弱者たちの集まりといえぬこともないが」
 大声で善三さんが、小夜子さんに声をかけられます。みなさん一様にほっとした表情をおみせになりましたが、人間だれしも主義主張の違いによって……、おっとこんなことを言えば、善三さんに「軟弱者が!」と、お叱りを受けそうですが。ですが、いろいろと恐ろしい事件を起こした者もいますし。どうにも分からぬことがあります。善三さん曰く「権力を手にした者は、その魔力にとりつかれてしまうものよ」でしょうか。自戒をこめて仰ったようですが。
 聡子さんがとつぜんに、「まさか!」と、大声を張り上げられます。小夜子さんを凝視して、
「そんなこと、ありませんよね」と、すがるような視線を送られています。
「なに、なに、、なんなのよ! 聡子さん、分かるように説明してよ」
 あちこちから、女性の声が飛びはじめました。こういってはなんですが、一般的に婦女子というのは……。いえ、これは失言でした。男もまた、うわさ話は好きです。とくに下ネタとなると。いやこれも失言です。で聡子さんは
「いえね、さっきのご老人のお話でね、その、合宿先で……」と、ことばを濁されます。と、みなさん一様に口を手でおさえて、黙られました。
「ああ、湖畔でのことですか? なにごともありませんでしたわ。ただ念のため、そういうことでございます」
 それまでは涼やかだった小夜子さんの表情が一変しました。苦痛に歪んだ表情で、ぐっと唇をかみしめられています。いかにも「余計なことを」と言わんばかりでした。みなさんは聡子さんに視線がいかれていましたので、おそらく気づいたのはわたしひとりだったろうと思います。しかしすぐに、すこしの口角をあげて「では、ごきげんよう」と、小夜子さんは静かに立ち上がられました。なにぶんにもデリケートなことであり、それ以上の詮索はありませんでした。ところが廊下の方に体を向けられたまま、
「もうひとつございましたね。なにやら良からぬ悪しきこと、あり得ないことを話していたようですが。お式前夜のことは、すべて正夫の妄想でございます。あのようなこと、ありません。起きようがないではありませんか!」
 語気するどく告げられました。
「お式前夜のことなど、あれは、まったくの、正夫の妄想です。ですので、けっして他所さまで口にされませんように。恥をおかきになるだけでございますから。あんなボケ老人のことばなど、どなたもお信じになられまいと思いますが。妙子の名誉のためにも、ひとこと付け加えさせていただきます。それでは今度こそ、本当に失礼いたします。ごきげんよう」
 すこしの笑みをたたえられての口上でしたが、けっして目は笑っておられませんでした。柳の下での怨みがましい白装束姿、お定まりの幽霊図です。哀しげな色をたたえられていたそのお姿は、まさにそれでした。
「お式前夜のこと、まったくの正夫の妄想です」
 ただただ、そのひと言を告げんがための、本日この場へのお出まし、そう思えるのです。いかにもとってつけたような、念のために、といったものでしたが、くどくどと何度も言われますと、かえって疑念が……。いえ、やはり、小夜子さんのおっしゃるとおりでしょう。このひとことを言わんが為の、あの世からのお出ましなどとは、とうてい思えぬことです。あくまで、足立三郎さまとの純愛を語られに、ということだと思うのでございます。

 なににしましても、小夜子さんが去られて「やれやれ」といった声があちこちから上がりました。まあ、いちばんに安堵されたのは松夫さんでしょうが。
 なかなか寝付けぬ今夜です。今日いち日のことを思いだすに、己をあそこまで悪女ぶられた小夜子さんの心情を思いますに、愛というものの奥深さが、なにか空恐ろしく感じられたものです。