愛の横顔 〜地獄変〜

(七)

 とうとう、結婚式の前夜がやって参りました。式の日が近づくにつれ平静さをとりもどしつつあったわたくしは、暖かく送りだしてやろうという気持ちになっていました。
が、いざ前夜になりますと、どうしてもフッ切れないのでございます。いっそのこと、あの合宿時のいまわしい事件を相手につげて、破談にもちこもうかとも考えはじめました。いえ、考えるだけでなく、受話器を手に持ちもしました。ハハハ、勇気がございません。娘の悲しむ顔が浮かんで、どうにもなりません。そのまま、受話器を下ろしてしまいました。

 妻は、ひとりで張り切っております。ひとりっ子の娘でございます。最初でさいごのことでございます。一世一代の晴れ舞台にと、いそがしく動きまわっております。わたくしはといえば、何をするでもなく、ただただ家の中をグルグルと歩きまわっては、妻にたしなめられました。仕方なく、寝室にひとり閉じこもっておりました。
「トントン」とドアを叩く音がしました。「誰だネ?」ときく間もなく、娘がはいって参りました。ピンクのカーディガンを羽織っております。二十歳の誕生祝いにと、わたくしが選んでやったものでございます。
 娘はドアに鍵をかけると、わたくしの横にすわり「お父さん!」と、声にならない涙声でちいさく呟きました。わたくしは、あふれ出る涙をかくそうと、そろそろ雪解けのはじまった街路を見るべく窓際に立ちました。夕陽も落ちて、うす暗くなりはじめていました。

「まだまだ、寒いなあ」。そう呟くと、カーテンを引いて外界との交わりをたちました。涙を見られたくなかったのでございます。
「お父さん……」。わたくしのかたわらに来て、娘がまたつぶやきます。「うん、うん」と、娘のかたに手をおいて頷きました。娘は、なんとか笑顔を見せようとするのですが、涙を止めることができずにいました。わたくしはそのいぢらしさに、心底愛おしく思えました。
「お父さん!」。そのことばと同時にわたくしわたしの胸に飛びこんでまいりました。
「抱いて、だいて。彼を忘れさせるくらい、強くだいて」
 そんな娘のことばに戸惑いを感じつつも、しっかりと抱きしめてやりました。ふたりとも、涙、なみだ、でございました。静かでした。遠くの方でパタパタというスリッパの音がひびきます。そしてそれと共に、娘の鼓動が耳にひびきます。
………………。
失礼しました、お話をつづけましょう。
しっかりと娘を抱きしめました。華奢なからだを両の手でしっかりと、抱きしめてやりました。そしてわたくしのこころに、またしても起きてはならないものがムクムクと頭をもたげてまいりました。思わず、手に力が入ります。娘も、負けじと力が入ります。もうだめでございました。止めることは出来ませなんだ。
 恐ろしいことでございます。そのおりのわたくし心境ときたら、おのれの都合のいいように考えていたのでございます。
”娘は知っているのだ、血のつながりのないことを。そしてこの俺を愛しているのだ。父親としてではなく、男として欲しているのだ”などと。
 娘ですか? 人形でございました。そのおりの娘の心情は、考えたくもありません。もっともわたくしとしては、考える余裕もございませんでしたがな。うす暗い洞窟のなかに閉じこめられたような感覚におそわれていました。娘とふたりきりでございます。赤い、どす赤い(ということばがあるかどうかはわかりませんが)液体がわたくしめをおそってまいります。じわじわとではなく、どっとわたくしめにおそってくるのでございます。

 どれほどの時間が経ちましたか、と、驚いたことに、娘だとばかりに思っていたその女が、妻に変わっておりました。いや、そうではなく、妻に見えたのでございます。あの、わたくしの元に嫁いでくれたころの……。わたくしが惚れにほれぬいた女に、見えたのでございます。
わたくしは叫びます、こころのなかで絶叫します。
”この娘は、この女は、おれのものだ。だれにも、わたさーん!”

 ここで、老人のことばは終わりました。出席者のだれも、ひと言も声を発しません。
静寂がこの場をとりしきっております。
きょうは重陽の節句である、九月九日です。
まだまだ残暑のきつい日々がつづいております。
ふた間のへやを使っての大部屋でございます。
二台のエアコンがフル回転しているとは申しましても、なにせ集まった人数が多うございます。
あらためて申しますが、本日は大婆さまの三十三回忌でごす。
最後の年忌法要として盛大に執り行っております。

 妙齢のご婦人がお迎えにあがられました。
お孫さんでしょうか、切れ長の目をされていて鼻筋も清々しく、清楚な感じの娘さんでございます。
「お父さん、またよそさまのお宅に上がり込んで、だめですよ。
申し訳ありません、みなさん。
お通夜の席をお騒がせいたしまして、ほんとうにもうしわございません」
「失礼ですが、ご老人の……?」。
 善三さんが立ち上がられて、わたしだけでなく皆さんが疑問に関しだていることをお尋ねになりました。
「失礼いたしました。あたくし、田所妙子と言いまして、この正夫の娘ございます」

「いま、たえこ、と仰いましたかな?」。善三さんが、再度お尋ねになります。
「はい、妙子でございます。小夜子は、わたくしの母でございます。昨年になくなりました」
 このご返事に、皆一斉にどよめきました。ご老人は、たしかに娘の命日と仰ったのです。
「娘さんのご命日とお聞きしたのですが?」と、再度たずねます。
「まあ、またそのようなことを。先年、母を亡くしまして。以来、塞ぎこむようになりました。最近になりましてすこし元気を取り戻したのですが、方々のご法事の場に赴いては、ご迷惑をおかけしています。ほんとに申し訳ございません。それでは失礼致します。さ、お父さん、帰りますよ」

 驚いたことに、背筋をピンと伸ばして話しておられた老人だったはずですのに、今のいままで声を張り上げての熱弁でしたのに。いまはよろよろと立ち上がられて、そのご婦人にしがみつかれます。
「おお、小夜子。どこにいた、どこにいた? わしを、わしをひとりにしないでおくれな」
 弱々しい老人の声が、耳にのこります。けれども、なんとも法悦なご表情のご老人になられていました。「はい、はい。お家に帰りましょうね」
 思いもかけぬことに、「ひょっとして、ご老人は……」と、ことばを切られました。いかな善三さんでも、そのことばを口にすることはためらわれたようでした。
「はい。お察しのとおりでございます。母の死後に、痴呆症と診断されました」
 大きなどよめきが起きるなか、そのことばとともに、深々と頭を下げながら去って行かれました。

 ふたりが去られたあと「ふーっ」と、みなさんが一斉にため息を吐きます。澱んだ空気が部屋全体をおおっています。タバコの煙があちこちから漂いはじめ、開け放たれた障子から庭先と流れでていきました。
 そしてその煙が空にのぼり終えたとき……